
「ゼロの焦点」を渋東シネタワーで見ました。
かなり前のことになりますが、世田谷文学館で開催された「生誕百年 松本清張」展に行ったことや、また北野武が主演したTVドラマ「点と線」を見たこともあって、評判はともかくこの映画は見てみようと思っていました。
映画は、ミステリー物としてとらえれば、中程で真犯人の目星がついてしまいますから、決して出来栄えが優れているとは言えないでしょう。
室田儀作(鹿賀丈史)が罪をかぶって自殺する展開も、酷く唐突ですし、事件の展開に何ら影響を与えません。むろんこれは、妻の室田佐知子(中谷美紀)に対する愛の行為なのでしょうが、そこに至るまでのプロセスが余り説得力を持って描かれていたように見受けませんでした。それに、松本清張の原作においても、室田氏は自殺などしません(何も原作通りにする必要などありませんが)!
さらに、鵜原禎子(広末涼子)の夫(西島秀俊)が、戦場で過酷な経験をしてきた割には、いともあっさりと画面から姿を消してしまうのも、気負って見ている者には解せない感じが残ります。
とはいえ、この映画は、ストーリーもさることながら、まさに「女優3人の競演」というところが見所であって、そういう観点からすればなかなかヨク出来ているのではと思いました。
広末涼子は、好演した10月の「ヴィヨンの妻」に引き続いて戦後すぐの女性を演じることになりますし、中谷美紀は、NHKドラマ「白州次郎」における瞠目すべき演技が忘れられません、木村多江も、「ぐるりのこと」の演技が印象的でした。
そうした豊かなイメージを背後にもちつつ、それぞれの女優は、この映画でもなかなか好演しています。
いうまでもなく、いまどきの女優が、「パンパン」だった過去を持つ陰のある女性を上手に演じるなんぞは土台無理でしょうから、あまり大きな期待を持ってはいけないところです。そういったところを差し引けば、中谷美紀も木村多江も、もてるものを十分に発揮していると思います。
一番問題となるのは広末涼子でしょう〔「おくりびと」などでいつもお荷物扱いされてしまいますし、今度の映画に関しても映画評論家の間でかなり評判が悪そうです〕。ただ、“探偵役”としてはともかく、世事に疎そうな健気な広末涼子の雰囲気だからこそ、鵜原憲一(西島秀俊)も結婚して新しくやっていこうとする気にもなるのだ、と観客としてヨク納得できるところです。
なお、この映画については、私としては、鵜原夫婦の新居が「祖師谷」とされている点や、「阿佐ヶ谷」が描かれている点にも興味を持ちました(ソレゾレ、私の巣穴からウォーキングできるところにあります)。
とはいえ、前田有一氏が言うように、この種の映画でやはり問題となるのは、なぜ現時点でこのような映画―設定を昭和30年代として、あくまでもその時代を再現しようとする―を製作しなければならないのか、という点でしょう。いくら松本清張の生誕100年を記念するのだと言っても、それだけでは人は納得しません。
確かに、この映画のストーリーからは、戦後すぐの状況設定でないとつじつまが合わないでしょうから、現代的視点と言うよりも、むしろ昭和30年代に可能な限りこだわって映画化しようとしたと考えられます。
とはいえ、映画「Always-3丁目の夕日」のような場合には、過去の時点にこだわることで現代が失っているものをかえって浮き彫りに出来るという積極的意味があったでしょうが、「ゼロの焦点」の場合、そういったものが果たしてあるのか、「パンパン」の過去を持つ二人の女性を今時点で描くことにどんな意味があるのかなど、いろいろ疑問を持ってしまいます。
最後に、評論家の意見を掲げておきますと、
渡まち子氏は、「演出は非常に手堅く、物語も分かりやすい。3人の女優たちは、皆美しく存在感がある。ただ不満なのは、広末涼子の声とナレーションだ」として65点とのまずまずの評点を与えています。
ところが、先に触れた前田有一氏は、「頭の悪そうなヒロインはある時点から急に聡明なサイヤ人となって名探偵ぶりを発揮し、お約束のヤセの断崖も登場、容疑者たちはペラペラと心の内を語り、締めは中島みゆきが流れる。もはや、サスペンス劇場のパロディである」などとして20点の酷く手厳しい評価です。
中で特異な論評を与えているのは、73点もの高得点を与えている小梶勝男氏です。
同氏は、「本作のクライマックスは、中谷美紀と木村多江の「対決」場面にある。だがそれは、実は広末涼子の「想像」として描かれるのである。さらに、その「想像」の中で、中谷と木村の「回想」が描かれる。想像の中の回想。一番大事な場面をこんな入れ子構造で描くのだから、「奇手」としか言いようがない」と述べています。
ですが、いくらなんでも他人の「回想」の中身を「想像」することなどできない相談でしょう。確かに、この映画では“探偵役”の広末涼子の視点から大部分の場面が描かれているとはいえ、それだけで統一されているのではなく、客観的な第3者の視点(いわゆる“神の視点”)から描かれている場面も多くあります。ここも、「回想」の「想像」といった「入れ子構造」ととらえるのではなく、単なる「回想」シーンだと考えた方が無難なのではと思われます。
・象のロケット:ゼロの焦点
かなり前のことになりますが、世田谷文学館で開催された「生誕百年 松本清張」展に行ったことや、また北野武が主演したTVドラマ「点と線」を見たこともあって、評判はともかくこの映画は見てみようと思っていました。
映画は、ミステリー物としてとらえれば、中程で真犯人の目星がついてしまいますから、決して出来栄えが優れているとは言えないでしょう。
室田儀作(鹿賀丈史)が罪をかぶって自殺する展開も、酷く唐突ですし、事件の展開に何ら影響を与えません。むろんこれは、妻の室田佐知子(中谷美紀)に対する愛の行為なのでしょうが、そこに至るまでのプロセスが余り説得力を持って描かれていたように見受けませんでした。それに、松本清張の原作においても、室田氏は自殺などしません(何も原作通りにする必要などありませんが)!
さらに、鵜原禎子(広末涼子)の夫(西島秀俊)が、戦場で過酷な経験をしてきた割には、いともあっさりと画面から姿を消してしまうのも、気負って見ている者には解せない感じが残ります。
とはいえ、この映画は、ストーリーもさることながら、まさに「女優3人の競演」というところが見所であって、そういう観点からすればなかなかヨク出来ているのではと思いました。
広末涼子は、好演した10月の「ヴィヨンの妻」に引き続いて戦後すぐの女性を演じることになりますし、中谷美紀は、NHKドラマ「白州次郎」における瞠目すべき演技が忘れられません、木村多江も、「ぐるりのこと」の演技が印象的でした。
そうした豊かなイメージを背後にもちつつ、それぞれの女優は、この映画でもなかなか好演しています。
いうまでもなく、いまどきの女優が、「パンパン」だった過去を持つ陰のある女性を上手に演じるなんぞは土台無理でしょうから、あまり大きな期待を持ってはいけないところです。そういったところを差し引けば、中谷美紀も木村多江も、もてるものを十分に発揮していると思います。
一番問題となるのは広末涼子でしょう〔「おくりびと」などでいつもお荷物扱いされてしまいますし、今度の映画に関しても映画評論家の間でかなり評判が悪そうです〕。ただ、“探偵役”としてはともかく、世事に疎そうな健気な広末涼子の雰囲気だからこそ、鵜原憲一(西島秀俊)も結婚して新しくやっていこうとする気にもなるのだ、と観客としてヨク納得できるところです。
なお、この映画については、私としては、鵜原夫婦の新居が「祖師谷」とされている点や、「阿佐ヶ谷」が描かれている点にも興味を持ちました(ソレゾレ、私の巣穴からウォーキングできるところにあります)。
とはいえ、前田有一氏が言うように、この種の映画でやはり問題となるのは、なぜ現時点でこのような映画―設定を昭和30年代として、あくまでもその時代を再現しようとする―を製作しなければならないのか、という点でしょう。いくら松本清張の生誕100年を記念するのだと言っても、それだけでは人は納得しません。
確かに、この映画のストーリーからは、戦後すぐの状況設定でないとつじつまが合わないでしょうから、現代的視点と言うよりも、むしろ昭和30年代に可能な限りこだわって映画化しようとしたと考えられます。
とはいえ、映画「Always-3丁目の夕日」のような場合には、過去の時点にこだわることで現代が失っているものをかえって浮き彫りに出来るという積極的意味があったでしょうが、「ゼロの焦点」の場合、そういったものが果たしてあるのか、「パンパン」の過去を持つ二人の女性を今時点で描くことにどんな意味があるのかなど、いろいろ疑問を持ってしまいます。
最後に、評論家の意見を掲げておきますと、
渡まち子氏は、「演出は非常に手堅く、物語も分かりやすい。3人の女優たちは、皆美しく存在感がある。ただ不満なのは、広末涼子の声とナレーションだ」として65点とのまずまずの評点を与えています。
ところが、先に触れた前田有一氏は、「頭の悪そうなヒロインはある時点から急に聡明なサイヤ人となって名探偵ぶりを発揮し、お約束のヤセの断崖も登場、容疑者たちはペラペラと心の内を語り、締めは中島みゆきが流れる。もはや、サスペンス劇場のパロディである」などとして20点の酷く手厳しい評価です。
中で特異な論評を与えているのは、73点もの高得点を与えている小梶勝男氏です。
同氏は、「本作のクライマックスは、中谷美紀と木村多江の「対決」場面にある。だがそれは、実は広末涼子の「想像」として描かれるのである。さらに、その「想像」の中で、中谷と木村の「回想」が描かれる。想像の中の回想。一番大事な場面をこんな入れ子構造で描くのだから、「奇手」としか言いようがない」と述べています。
ですが、いくらなんでも他人の「回想」の中身を「想像」することなどできない相談でしょう。確かに、この映画では“探偵役”の広末涼子の視点から大部分の場面が描かれているとはいえ、それだけで統一されているのではなく、客観的な第3者の視点(いわゆる“神の視点”)から描かれている場面も多くあります。ここも、「回想」の「想像」といった「入れ子構造」ととらえるのではなく、単なる「回想」シーンだと考えた方が無難なのではと思われます。
・象のロケット:ゼロの焦点
どこが問題だと感じたというと、あまりカンが利きそうもない妻役の広末君が一人で事件の謎を解決できるはずがないのに、手助けもなく、どうして真相が分かるのかと思うからです。謎解きを助けてくれるべき人が早くに殺されるのは、どうしたものでしょうか。妻と死んだ夫との気持ちの結びつきがもう少し描かれてこそ、夫の行方と事件追及の原動力になると思われます。
映画ですから、原作から離れても構わないと思いますし、現代的な視点で取り上げるのなら、もう少しそうした観点からみて、より緊密な展開があって良さそうに感じました。それと、終わりの部分がダラダラ続くように感じます。原作になさそうな、夫が妻を庇って自殺しようとする話があるのなら、真犯人の中谷美紀さんを自殺させなくても良いのではないかとも思われます。彼女がどうも後先関係なしに事件を起こしたようにも見えますが、中谷さん役の女性は、もう少し冷静な判断・読みができるのではないのでしょうか。顔付きはそういう感じです。
女優三人の競演と謳っていますので、映画では、どのように展開するのかと思った次第です。木村多江さんは役柄上、押さえ気味の行動しかとれませんし、薄幸の雰囲気はありましたが、あのような人柄として描くのなら、別段殺されなくとも良さそうにも思います。広末君は少し甘さが出過ぎていて、あれで事件解決ができるのかという頼りなさがあったことは、先に述べたとおりです。
こうしてみると、演技的には勿論のこと、内容的にも中谷美紀さんの独り舞台という感じが強かったように思います。それならそれで、彼女のストーリーをもう少し膨らませてもよいと思いますし、殺人を犯す動機が弱そうにも思えます。簡単に殺して簡単に死ぬのでは、清張らしいふてぶてしい感じはありません。その意味でも、どうも中途半端な感がありました。
まあ、画面はなかなか綺麗で、昭和三十年代当時らしい金沢の街が出てきまし、能登金剛があのような絶景の場所なら一度行っておけばよかったと感じる映像でしたから、その辺は結構なのですが、総じて言えば、ストーリー重視派の私としては不満でした。少し古い時代の物語を映像化するのは、なかなか難しいものです。おそらく、この映画でなにを訴えたかったのか、その辺がボヤケているのではないのでしょうか。
マア、この映画は、「ジョゼ虎」における池脇 千鶴、「メゾン・ド・ヒミコ」の柴咲コウ、「眉山」の松嶋菜々子、「グーグーだって猫である」の小泉今日子、それらの続きとして中谷美紀を見る作品だと捉えて見ても面白いのではないでしょうか?