映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

松本清張原作映画

2010年01月09日 | DVD
 お正月のお昼の時間に、松本清張生誕100年記念と銘打って、WOWOWで彼の小説を原作として制作された映画が連続して放映されました。

 その中で興味があったのは、昨年見たばかりの映画『ゼロの焦点』の旧版のものですが、時間があったので1日に放映された『砂の器』も見てしまいました。



 この『砂の器』は、1974年に野村芳太郎監督の下で制作されたものです。映画の公開時には丁度秋田県の大館市にいましたので、わざわざ列車に乗って秋田市に出かけ、そこの映画館で見た記憶があります。

 その後、何回かTVで放映されたものを見たこともあるのでしょう、今回実際に見てみますと、かなりイロイロな場面を覚えていました。特に、幼い和賀英良が父親(加藤嘉)と手を取り合って雪の日本海沿岸を歩くシーンと、世界的な指揮者・作曲家となった和賀英良(加藤剛)が自分が作曲したピアノ協奏曲「宿命」を演奏するシーンとが交互に映し出されるクライマックスは、何度見ても感動します〔ただ、このピアノ協奏曲は、余りのロマンチックで古めかしく、主人公が現代作曲家ならば、こんなベタベタした曲など書かないのでは、と当時思ったことでした!〕。
 今回見てもう一つ印象深かったのは、和賀英良を追い詰める刑事役の丹波哲郎が、随分と颯爽としていたことです。

 さて、2日に放映された『ゼロの焦点』です。この映画は1961年に上記の野村芳太郎監督によって制作されています。面白いことに、この映画の脚本を書いた橋本忍・山田太一もまた、上記の映画を手がけています。過去に大きく囚われる人間が引き起こす悲劇といった点で共通するところがあるからでしょうか?



 それはともかく、この旧版と昨年公開された新版とはかなり違っているところがあります。新版でも鵜原禎子(広末涼子)が事件の謎を追いかけますが、旧版では禎子(久我美子)の役割がもっと大きくなっています。新版では、むしろ室田佐知子(中谷美紀)のウェイトがずっと重くなっているところ、旧版の主役の久我美子の存在感は、映画の中で遙かに大きなものなのです。
 これは、広末涼子と中谷美紀との演技力の差、久我美子と旧版で室田佐知子を演じた高千穂ひづるとの女優としての力量の差によるところもあるかも知れませんが、もう一つは、新版は、旧版なら常識とされていたことを説明的に描き出さなくてはならないということも与っているのではと思われます。
 例えば、「パンパン」です。1961年当時であれば、戦後15年くらいしか経過していませんから何も説明せずともかまわなかったと思われます。ですが、新版が公開された2009年時点では、「パンパン」についてきちんと説明しないと、実際の様子が分からない人が大部分となっています。
 そのためもあって、新版では、海岸の崖の上で室田佐知子と田沼久子(木村多江)とが対決したときに、回想シーンを長々と挿入せざるを得なかったと考えられます。その結果、室田佐知子を演じる中谷美紀の存在感が新版では増大したのではないでしょうか?

 この他、新版では、室田佐知子の夫である室田儀作(鹿賀丈史)は、唐突に拳銃自殺してしまいますが、旧版ではそんなことはありません(この点は、旧版の方が良いでしょう。なお、興味深いことに、『砂の器』で父親役を演じていた加藤嘉が、旧版でこの室田儀作を演じています)。
 また、新版では、室田佐知子は、原作通り日本海に小舟で漕ぎ出し自殺してしまいますが、旧版では自動車もろとも崖下に転落するとされています(これはどちらでも構わないでしょう。とはいえ、日本海に小舟で漕ぎ出すのを崖の上から夫が見守ると言うのが原作のラストですから、その前に夫が拳銃自殺してしまうのでは、この光景の意味がないことになってしまいますが)。

 こうした違いを取り出せばいくらでもありますが(旧版はモノクロで新版はカラーなど)、この辺で止めておきましょう。
 何も説明なしに映画造りに邁進できた1961年という時点と、何故今頃このような映画を制作する必要があるのかを問わざるをえない2009年という時点との差を、TVを見ながら感じざるを得なかったところです。