映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ロダンと光太郎

2010年01月16日 | 美術(10年)
 パリにあるロダン美術館の「マティスとロダン展」で展示されているマチスやロダンの作品に関連して、ブログ「はじぱりlite!」の12月25日の記事の中では、次のように述べられています
 「考えてみれば、動く身体とは何でしょうか。それは「完全な身体」の移動でしょうか。もしそうであるならば、それは、静止した身体の位置が変化したというに過ぎません」。
 「実際には、私たちは、動きつつある身体を完全には把握しきれません。運動とは、身体の形態がA地点から消えてB地点に現れるといった出来事ではなく、A地点からは消える途中で、B地点には現れる途中であるような、きわめて宙ぶらりんの状態なのです」。

 大変興味深いことに、ロダン自身もそれらしいことを述べているのです。
 もしかしたら、上記の前半に対応するのが次の言葉かもしれません。
 「若し本当に早取写真は、如何に運動の最中に取られても、其人物が急に空気の中で氷結した様に見えるものとすれば、其は即ち、其の体のすべての部分が正確に1秒の20分の1乃至40分の1で表されていて、其処には、藝術に於けるような、姿勢のだんだんにほぐれて行く開展が無いからです」(注1)。
 そして、上記の後半に対応するのが次の部分でしょうか。
 「画家や彫刻家が自分の作る人物を動かさせるに行うことは、要するに此の種の変行(メタモルフォズ)なのです。一つの姿から他の姿勢への経過を表すのです。如何に気もつかない内に第一のものが第二のものへ辷り込んでいくかを指示するのです。其作品のうちに、人はすでに過ぎ去った部分をまだ見とめながら又此からの部分をも発見するのです」(注2)。

 ここでなお一層興味深いことに、この文の翻訳者が、なんと高村光太郎なのです(『ロダンの言葉』1916年出版)。
 高村光太郎(1883~1956)は、若い頃パリのロダンのもとに彫刻の勉強に行っていますが(1908.6~1909.3)、そこら辺りのことは、このブログの以前の記事で取り上げました鹿島茂著『吉本隆明1968』(平凡新書。2009.5)でも述べられています。
 ただ、前の記事の場合、「知識人の転向」とか「終戦の受容の仕方」といった側面で同書に触れてみましたが、ここでは、高村光太郎に少し焦点を当ててみましょう。

 同書において鹿島茂氏は、「芸術の普遍性、世界共通性」と「日本の後進性、個別性、特殊性」との乖離という問題にまともに直面して苦しんだ高村光太郎が、その問題をどのように解決していこうとしたのか、という点につき、吉本隆明氏の所論を追跡しています(注3)。 

 こうした問題に直面する上で高村光太郎にとり大きな転換点になったのは、「フランスへの留学体験、とりわけロダン―数世紀に一人現れるか否かの大天才―に師事しての彫刻家修業」です。その際に、自分の出自の特殊性、「卓越した江戸職人に過ぎない父―高村光雲―の息子であること」によって、通常の明治の留学生が感じた落差(「先進国たる西欧と後進国たる日本の目もくらむような彼我の差」)以上のものに直面することになりました(注4)。
 すなわち、西洋が持つ「世界共通性」(了解可能性)―勉強すれば理解出来る―と「孤絶性」(了解不可能性)―隣に住むフランス人のこころがわからない―との乖離に高村光太郎は強く苛まれたわけです(注5)。

 この乖離の問題の解決法として高村光太郎が導き出したのは、「かなり倒錯的なにおいのするデカダンスに沈潜すること」でした(注6)。
 ただ、同じように欧米に留学して、帰国後「下町情緒のデカダンスに沈潜」した永井荷風と比べると、後者が直面したものは中途半端なものでしかありませんでしたが、高村光太郎の場合は、酷く過剰な様相を呈しました(注7)。
 「高村光太郎のデカダンスは、永井荷風のようなインテリ階級出身の脳髄的なデカダンスでは収まり切らないストレートな生理的性欲の巨大さを特徴としてい」たというわけです(注8)。

 鹿島氏の追跡は、ここからさらに一層深い所に降りていきますが、ブログの記事としてあまりに長くなるので、次の機会を期して、ここらで止めておきましょう(注9)。

 『道程』や『智恵子抄』などの作者として知られる高村光太郎が残した彫刻は、数が少ないながらも、「手」(1918)など美術書などでよく見かけます。そして、講談社文芸文庫版『ロダンの言葉』の解説を書いている湯原かの子氏によれば、冒頭に掲げた十和田湖畔に据えられている「乙女像」 (1953)こそが、「光太郎のロダンをめぐる長年の格闘を証言する彫像であり、西洋文化の受容と葛藤を物語る記念碑」ということになるようです。
 すなわち、ロダンの彫刻の根本は「動そのものの中にある美」としながらも、高村光太郎は、その最後の彫刻において、裸婦という西洋的なものの中に東洋的な自然観―自然との調和、言ってみれば「静の美」―を融合させようとしたといえるかもしれません(注10)。

(注1)『ロダンの言葉』(講談社文芸文庫)P.221~P.222
(注2)前掲本P.219〔「動かさせる」「見とめる」は原文のママ〕
(注3)『吉本隆明1968』(平凡新書。2009.5)P.176〔以下の文章は、鹿島氏が、吉本氏の見解を要約したものに基づいています〕
(注4)前掲本P.159~P.160
(注5)前掲本P.204~P.206
(注6)前掲本P.185
(注7)前掲本P.189~P.190
(注8)前掲本P.191
(注9)なお、高村光太郎は、雑誌『スバル』1909年9月号に「アンリ マチスの画論」を訳載していることが注目されます(山口泰弘編の年譜による)。あるいは、高村光太郎を結び目としてもロダンとマチスとの関係を議論できるのかも知れません。
(注10)前掲注1の著書P.304