映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

誰がため

2010年01月30日 | 洋画(10年)
 『誰がため』を渋谷のシネマライズで見てきました。

 予告編で見てこれはいい映画に違いないと思い、またこれまで見たことがないデンマーク映画でもあるので、見に行ったところです。
 ヨーロッパの映画と言えば、日本では従来、イギリス映画、フランス映画、イタリア映画といったところが中心でしたが、このところ、ベルギー映画とか、前々回取り上げたハンガリー映画なども日本でも見ることができるようになりました。といっても、ポツンポツンと単発的に紹介されるだけでは、その国の映画がどのような傾向にあるのかまで知ることは難しいのですが。

 さて、この映画は、ナチスの占領下におかれたデンマークにおけるレジスタンス運動の様子を垣間見させてくれます。ただ、占領下におかれたといっても、政府は引き続き内政を執り行います(終戦間際には、そうした自治権も剥奪されてしまいますが)。
 この場合、ナチスと妥協することで存続が認められているわけですから、政府側としても極端な反ナチ行動は容認できないところです。そのため、国内のレジスタンス運動は、奇妙な歪みを見せることになってしまいます。

 この映画の主人公たち(フラメンとシトロン)は、当初ナチスに協力するデンマーク人の暗殺を連続的に行いますが、さまざまな経緯からその標的をナチスの幹部そのものに向けようとすると、それを阻止しようと各方面から圧力がかかってきて、結局は自分たちに悲劇を招いてしまいます。

 こうした微妙なストーリーのため、最初から最後まで観客はハラハラのし通しで(その身に莫大な懸賞金がかかっていて危険であるにもかかわらず、二人は町中に出ていかなければ暗殺の目的を達成できません)、一瞬たりとも気が休まりません。久しぶりで緊張感の高い時間を過ごさせてもらったな、という感じになりました。
 むろん、映画によって楽しい気分にしてもらい気分転換を図ることも一方では重要でしょうが、他方で、こうした緊張感を味わうというのも、また映画の効用と言えるかもしれません(こうした実話に基づく真面目な映画に対して、そのようなことを言うのは不謹慎の誹りを免れませんが)。

 また、内容的には、デンマークの置かれた地理的な条件もあって、極端な反ナチ行動をとる人々からナチス容認派までの間に様々の中間的な人たちがいて、その人たちの政治的な力が強かったようです。その結果、その人々の指令を受けて行動せざるを得ない純粋な若者は、様々の疑念に苛まれ、一層極端な行動に走ることになってしまいます。
 この映画は、そういう政治的な側面に加えて、さらに、主人公のフラメンとケティという年上の魅力的な女性との恋愛関係をも絡ませ、話をより重厚なものとしています(シトロンは、フラメンより10歳年上で妻帯者。こちらの悲劇も映画では描かれています)。

 なお、フラメンとシトロンの二人は、デンマークでは英雄とされているところ、時と所を離れてみると、暗殺という手法が適切だったのか、疑問なしとしないところです。むろん、戦争中の話であって、生きるか死ぬかの瀬戸際だったから、彼らの行動は当然だ、と言う見方もあるでしょう。ですが、いくら相手が強大だとはいえ、暗殺という手法はテロ以外の何ものでもなく、やはり報復としてのテロを招いてしまい、相互の犠牲者を増やすだけの結果になってしまうのではないか、と思えてしまいます〔こういったことを言えるのも、ぬるま湯的な日本にいるからこそなのかもしれませんが!〕。

 評論家たちの評論も、大体のところ同じ観点に基づいているようです。
 渡まち子氏は、「レジスタンスとして国のためにつくす人間が内と外から壊れていく心理ドラマのよう」であり、「フラメン役のトゥーレ・リントハートと、シトロン役のマッツ・ミケルセン。国際的に活躍する二人の、切実な演技が、物語に説得力を与えている」などとして65点を、
 福本次郎氏は、フラメンとシトロエンを、「迷い、焦り、苦しみ、後悔し、弱音を吐き、忠誠を誓った組織に失望する、普通の人間としてとらえる。そうした感情と、容赦なく殺人を繰り返していく場面の落差が、一般市民ですら戦闘マシーンに変えていく戦争の恐ろしさを実感させてくれる」として70点を、
 山口拓朗氏も、「大局的な戦況描写をほとんど用いることなく、映画は、暗殺の任務を黙々と遂行するふたりのレジスタンス戦士、フラメンとシトロエンの過酷な運命を描く。ただし、彼らを英雄視するスタンスの作品ではない」などとして70点を、
それぞれ与えています。

★★★★☆

象のロケット:誰がため