世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(59)

2020-10-16 00:00:00 | Weblog

序にここも(↓)参照されるとよい。末尾だけを抜粋して掲載しておくが、本論のボリュームはもっと多く参考になるものと思う。




3万4000年前、南北・東西 70・60m 、石器1万点ほど、

・・・・・・・・・・・
発掘調査の成果と今後の展望

墨古沢遺跡の環状ブロック群の発見のきっかけは、平成11・12年度に酒々井パーキングエリア(上り線)の拡張工事に伴い行われた発掘調査によるものです。酒々井町では、日本の旧石器時代を特徴づけ、かつ日本最大級ともなる環状ブロック群の遺跡である墨古沢遺跡の保存及び活用を目指して、その規模や形状、遺存状況を確認するため平成27年度から3年間かけて範囲確認調査を実施しました。保存を目的としているため、今回の発掘調査では出土した石器は取り上げず、位置や写真などの記録情報を取った後、そのまま埋め戻しています。

また発掘調査のみならず、出土遺物や遺跡の土層・堆積物の理化学的分析などからこの遺跡を特徴づける様々なことがわかり、大きな成果を得ることができました。先ほど紹介した石器石材の産地推定のみならず、石器と一緒に出土した炭化物から年代測定を行った結果、この遺跡が形成された年代が約3万4000年前であることがわかったことも大きな成果のひとつです。

そして令和元年、これまでの発掘調査成果や分析・研究成果より、遺跡の重要性が認められ、国の史跡に指定されることが決まりました。関東の旧石器時代の史跡としては3例目、環状ブロック群としては国内初、国内のすべての国史跡の中で最も古い国史跡ということになります。今後は一般の人々にはあまりなじみのない旧石器時代、環状ブロック群が地域を形成する基となる歴史の1ページとしてあること、酒々井町に全国に誇れる旧石器時代の遺跡が存在していることを広く知っていただけるような周知・活用・整備事業ができればと考えています。

酒々井パーキングエリアの発掘調査で出土した石器の一部は酒々井コミュニティプラザで常設展示が行われております。ぜひ一度足をお運びいただき、「日本人のふるさと」ともなる悠久の歴史に触れてみてはいかがでしょうか。

https://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2018032200037/


墨古沢遺跡(すみふるさわいせき)は、千葉県印旛郡酒々井町墨字小谷津1381-3 にあるとここには(https://kids-kouko.com/historical_site/kanto/pref_chiba/300/)書かれている。
ただ、「全国遺跡報告総覧」(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/31657)には、「千葉県印旛郡酒々井町墨字台1337-1ほか」とあるので、どちらが正しいのか疑問が湧く。
どちらも正しいのかも知れないが、それならそれで、しっかりと住所は全て酒々井町(しすいまち)のホームページには記載してもらいたいものである。
酒々井町のホームページには、詳しい住所は載っていなかった、ただ千葉県印旛郡酒々井町としか書かれていなかったと小生は理解する。

違っていたら修正願うが、もう少し丁寧に記載してもらいたいものである、例えば番地変更などがあればその旨も追記するなど。


ともあれ、これで落とし穴(陥穴)を除いて、日本の後期旧石器時代の文化の特徴は示すことが出来たのではないのかな。


さて10月06日のNO.51で、ホモ・サピエンスの日本への渡航ルートを次のように示している。

(1) 対馬ルート、朝鮮半島から対馬を経て北九州へ渡るルート。航海術が必要。

(2) 沖縄ルート、台湾から琉球列島を北上するルート。これも航海術が必要。

(3) 北海道ルート、シベリア大陸からサハリン、北海道と南下するルート、全て陸上ルートであるが、北海道から本州島へは航海術が必要となる。


このうち古本州島に直接渡ってくるルートは、(1)の対馬ルートである。

しかも古本州島には、3万8000年~3万年前の遺跡が442も存在していると記録されていることからも、日本列島への最初の渡来ルートはこの(1) 対馬ルートであろう。

しかもこの3万8000年前の対馬の両側には、約40kmほどの海が存在していた。このことは既に述べておいたが、そのため、日本列島へ渡ってくるには、船が必要だったことになる。船と言っても一人や二人乗りの簡単なものではなさそうだ。当時としてはそれなりに、民族の大移動だったのではないのかな。

彼らは優秀な航海者だった訳だ。

伊豆七島の神津島と当時は陸続きであった恩馳(おんばせ)島から、黒曜石を調達していたことが知られている。

3万8000年~3万7000年前の静岡県の井出丸山遺跡、からは神津島で採取された黒曜石が見つかっている。この事からも彼らが、後期旧石器時代から、優秀な航海者であったことが分かる。この神津島(恩馳島)産の黒曜石は、東京都や神奈川県の遺跡からも数多く出土していると言う(P139)。

そして彼らは、世界で初めて刃部磨製石斧と落とし穴をつくり、台形様石器を使い、環状ブロック群と言う集合キャンプ場で寝起きして、共同で食料調達を行っていた、様だ。

これらの要素は、日本列島以外の世界の他の何処からも見つけることが出来ないものであった。

まあ日本列島人が最初から航海術を身につけていたと言うことは、このホモ・サピエンス達は南ルートをたどったグルーブが関与したと考えることが妥当であろう。北ルートをたどった集団には、航海術を身につける必然性が薄いと思われるからだ。

但し石器の緻密さを考えると、北ルートをたどった集団の関与も当然考えられるものである、と小生には感じられるのである。

と言うことは、この南ルートと北ルートをたどったホモ・サピエンスたちは、この東アジアで出会い融合していたに違いない、と思っても間違いはないであろう。

その融合した彼らが、日本列島にやって来て日本列島人となっていったのではないのかな、と小生には感じられるのである。但し、その書には、まだそこまで書かれていないが。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(58)

2020-10-15 00:00:00 | Weblog

環状ブロック群とは   2019年7月2日

http://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2018032900036/


環状ブロック群とは
旧石器時代の初頭(約3万8千年前~3万年前)、下総台地を中心に石器ブロックがドーナツ状にめぐる「環状ブロック群」が多く見られています。
これら石器ブロック同士は石器の接合関係や石材の共有が見られることから、同時にまたお互いに関係を持って存在していたことがわかっており、このことから環状ブロック群は大型獣の狩猟・解体を協力して行うため、石器・石材の交換や獲物に関する情報交換などを行うため、一時的に各集団が集まり集団間のつながりを確認したりするために環状集落を形成したものと考えられます。その中で中央の空間は獲物の解体や調理などの日常作業を行う「共有広場」として機能していたものと考えられます。
そして墨古沢遺跡などのような大型の環状ブロック群には100~150人が暮らしていたと推定されます。(すみふるさわいせき)
 

【墨古沢遺跡の環状ブロック群イメージ復元】

 
 
日本旧石器文化の三大特徴
環状ブロック群」は「陥穴(おとしあな)」「刃部磨製石斧(じんぶませいせきふ)」と並ぶ日本旧石器時代の3大特徴であり、世界史的に見ても例を見ない日本独自の旧石器文化のひとつとされ、日本の旧石器時代を考える上で欠かすことのできない遺跡です。
 
旧石器時代の遺跡は開発に伴う緊急調査で発見される例が多く、旧石器時代の遺跡のほとんどは地中深くから検出されるため、事前に(調査前段階で)その有無や種類・規模の把握は難しく、開発に伴う緊急発掘調査で発見され、調査が行われて完了してしまうこと(記録保存されて消滅)がほとんどです。これまで発見されてきた環状ブロック群も、貴重な遺跡でありながらも例外ではなく、石器の広がりを把握し、遺物をすべて取り上げてしまうことがほとんどで遺跡自体が残ることはありませんでした。そのため現段階で、日本国内で国史跡の指定を受けている環状ブロック群は墨古沢遺跡1ヶ所だけです。
 
 
環状ブロック群の分布
このように環状ブロック群は日本の旧石器時代の人々の行動やムラの様子を表す資料として非常に重要です。
また千葉県では全国で見つかっている118遺跡146基のうち約半数近くである53遺跡71基が確認されていて(平成31年3月末現在)、千葉県を代表する遺跡ともいうことができます。しかもその多くが印旛沼周辺に展開しています。この下総台地の中心部が、旧石器時代人が行き交う移動経路・情報交換網の交差点だったのでしょうか?
 
【環状ブロック群分布図】

http://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2018032900036/



ここでは日本旧石器時代の3大特徴は、

   海部陽介氏            墨古沢遺跡・酒々井町
(1) 台形様石器(だいけいようせっき)   → 落とし穴

(2) 刃部磨製石斧(じんぶませいせきふ)  → 同左

(3) 環状ブロック群(かんじょうブロックぐん) → 同左

の様に落とし穴(陥穴)を追加しているが、これも磨製石器と共に、日本の旧石器時代の先端技術の一つだったわけで、世界では旧石器時代には見つかっていないので、日本の旧石器時代の特徴の一つとして挙げてしかるべきものと思われる。

3大特徴と言うよりも、4大特徴としても良いモノではないかな。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(57)

2020-10-14 00:00:00 | Weblog

事実Wikipediaには

遺跡は石神井川と田柄川の間にある台地に位置し、水を得やすく日当たりも良好であることから、長期にわたり人々が生活を営んでいたと推測される。

と書かれている。

そこにある地図によれば、東京都練馬区氷川台一丁目とは

北に、川越街道
西に、環八通り
東に、環七通り
南に、池袋谷原線 

が通る四角形と言うか菱形と言うか、その中央の城北中央公園内に位置する。

昭和30年(1955年)に立教学院総合運動場を造成する際に発掘された。この運動場は、現在は都立城北中央公園となっている、と書かれている。


さて3万8000年~3万5000年前の間、古本州島(日本列島)に渡ったホモサピエンス達の文化の三つ目は、環状ブロック群だ。これはテント様の住居周りに設置した石の壁である、と小生には感じられるが、どうも石器そのものや石器の材料だったようだ。



十三 石器時代
2015年12月01日(火)
テーマ:日本史

・・・・・・・・・・

住居
・神奈川県田名向原遺跡は、中心に炉の跡が二つあり、それを取り囲むように12ヵ所の柱を立てたと推定される穴があり、さらにそれを取り囲むように外と内を区切るように石が置かれ、非常にしっかりとした構造の住居跡である。

集落
・北海道-九州で、外から持ち込まれた石器、近くの製作場から持ち込まれた石器、製作場に残された石器の「環状ブロック群」が100ヶ所以上から発見。
・環状のムラの人口は10-15人から100人-170人で、集団で移動の生活を共にしたと考えられる。
・環状ブロック群に共通するのは、円を描くように一周するブロックの存在である。
・3万年以前の環状ブロック群は3万年を過ぎると姿を消し、日本列島各地で川沿いに300ヶ所


・・・・・・・

https://ameblo.jp/iiiiiland7iiiiiland/entry-12070053224.html


まあこんな形で、一種の準定住生活を共同で営んでいたのではないのかな。

日本列島のホモ・サピエンスたちは、このように共同作業を円滑に行う事で、過酷な自然条件を克服してきたものと思われる。この環状ブロック群が石器の置き場所だったとしたら、盗まれるなどの事件が起こらなかったと想像できるので、この村のホモ・サピエンスたちは、相当協調的で平和的な集団生活を送っていたものと思われる。

このような環状ブロック群は、全国的に存在している様だが、千葉県印旛沼付近、赤城山南麓周辺、野尻湖周辺に多く存在しているようだ。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(56)

2020-10-13 00:00:00 | Weblog

(4)栗原遺跡の旧石器文化

 都の確認調査でP地点から、上下三枚の旧石器文化層が確認 された。

 第IV層文化:P地点の北側の崖面を調整中に、多数の焼礫が集中的に出土し、礫群の存在が示唆された。

 第IX下層文化」確認調査地の北西側に発見された石器・剥片ユニットである。立川ローム陪第二黒色帯下部に包含され、合計六点(縦長石刃一点、幅広の縦長剥片三点、横長剥片一点、敲石一点)出土した。

 第X層文化ら帷認調査地の北東側に、比較的広範囲に分布する石器・剥片ユニットである。立川ローム第二黒色帯の下層部に相当する明褐色のやや軟質のローム層である。合計一三点(局部磨製石斧一点、ナイフ形石器一点、礫器二点、剥片八点、石核一点)出土した。この文化層での「局部磨製石斧」の出土は、重要な資料と成果になった(小田一九七六・一九七七・二〇〇三、小田・Keally ―九七三・一九八九、赤澤・小田・山中一九八〇)。

3 磨製石斧とは

 石器時代の世界史で刃部を研磨した石斧、いわゆる「磨製石斧」は、一般的には1万年前以降の完新世の「新石器時代」から登場する石器である。また、磨製石斧は地球上のあらゆる石器文化段階の人々が使用した道具でもあった。そして、これほど便利で多用された磨製石斧も、金属器時代の到来で「鉄斧」が出現すると、やがてその役割を終え消滅しまう運命にあった。

 斧の用途は、木を伐採し、削り、加工する道具である。磨製石斧は森林環境が拡大した「完新世」に、木材の利用が活発化して木の伐採や加工具として、「オノ(斧)」の必要性が高まり誕生したものと言われている。斧には、刃の線(刃線)が柄とほぽ平行する「縦斧」(マサカリ) と、刃の線が柄とほぽ直交する「横斧」(チョウナ)がある。また、「縦横中間斧」と呼ばれるものも存在している。そして、斧の歴史は横斧から出発し、これに縦斧が加わる流れがあるという(佐原一九九四)。


・・・・・・・・・・

こうした初期の発見史で武蔵野台地の大規模緊急調査が実施され、小平市鈴木遺跡(一九七四年) 、杉並区高井戸東遺跡(一九七六年) から多数の磨製石斧が層位的に第X層~第IX層(約三万二〇〇〇~三万年前) にかけて出土し、磨製石斧の型式設定や型式変遷などが把握された意義は極めて大きかった(小田・Keally 一九七三、小田一九七六・一九七七)。

 こうして、「関東ローム」の示準地域での確かな層序、年代的裏付けをもって発見された磨製石斧の登場で、日本の旧石器時代に、世界の旧石器文化には類がない多数の磨製石器(斧)が確かめられていった。そして、この石器の名称も「刃部磨製製作石斧」「局部磨製石斧」「斧形石器」などと呼ばれ、今日に至っている(赤澤・小田・山中一九八〇、小野・春成・小田編一九九二)。

・・・・・・・・・・


4 世界の旧石器時代の磨製石斧

 現在、旧石器時代の磨製石斧は、ヨーロッパ、ロシア、オーストラリアなどで発見されているが、日本の例のように三万年を超える古さと、二五〇ヵ所以上の遺跡から九〇〇点以上も出土している地域は確認されていない(小野・春成・小田編一九九二、佐原一九九四)。

・・・・・・・・・・


5 磨製石斧出現期の様相

・・・・・・・・・・


(3) 磨製石斧は日本列島人が開発か

 磨製石斧は約三万二〇〇〇~三万年前頃に集中して発見され、これは「世界最古」の年代を示し、その量も九〇〇点以上という大量に存在する特異な石器ということができる。この日本列島の旧石器時代の磨製石斧は、一体どこから渡来したのであろうか。いまのところ、周辺大陸には認められないことから日本列島内で発生した可能性が大きい石器と考える必要があろう。

 では、日本列島で磨製石斧が発生した様子を探ってみよう。まず古期の第Xb層段階の遺跡には、長楕円形の扁平自然礫を使用し、周縁部を両面調整的な加工を施し、刃部を僅かに研磨した例が多いという事実である。これは素材の利用として「礫器」と共通しており、礫器の一部が研磨されたとも考えることが可能である。小平市鈴木遺跡第X 層文化に、長方形の扁平自然礫の周縁部を加工した礫器が出土しており、刃部を研磨すれば立派な磨製石斧の形態を呈していることから、日本列島における磨製石斧の出現を考える上で注目される資料である(小田二〇一二)。

・・・・・・・・・


http://ac.jpn.org/kuroshio/kurihara/oda201705.htm



栗原遺跡は、東京都練馬区氷川台一丁目七番城北中央公園内にある遺跡で、旧石器時代から平安時代までの遺物や遺構が検出された複合遺跡である、とWikipediaには記載されているので、住みやすい格好の場所だったようだ。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(55)

2020-10-12 00:00:00 | Weblog

しかも、日本では刃部磨製石斧が250箇所から900点以上も出土している。このような事例は世界広しと言えども、日本にしかないものである、と次の論考でも記されている。

まあ今様に言えば、ノーベル賞モノだったのであろう。

一寸長いが、その抜粋文を次に掲載しておく。詳しくは本文を参照願う。


世界最古の磨製石斧と栗原遺跡
-列島最古の旧石器文化を探る⑥-
(多摩考古 第47号 2017年5月発行 pp.1-15 ) 小田静夫
・・・・・・・・・・
2 日本の旧石器時代に磨製石斧

(1)東京都文化課の確認調査

 一九七二(昭和四七)年九月、都建設局公園緑地部都市公園課は、都立城北中央公園の整備事業として、明大、武蔵野博調査個所(一九五一年、P地点と仮称) の旧馬場跡、現グラウンドの改造計画を都文化課に相談した。栗原遺跡は、現在、復元家屋が公園内に残っており、旧石器時代(当時、「無土器時代と呼ばれた) の石器類が出土したP地点の崖は、この家屋の南側の石神井川直上に位置している。

 栗原遺跡は一九五一(昭和二六)年と一九五五(昭和三〇)年の発掘調査で、軟質(ソフト)ロームから細石器、硬質(ハード) ロームから礫群が発見されていた。しかし一九七二(昭和四七)年このP地点はグラウンドとして整備され、約二m以上が掘り下げられていた。そうした状況から、都文化課は遺物包含層の有無確認を主目的とした現地調査を指導した。

 調査は一九七三(昭和四八)年四月一八日・一九日、都立公園の整備に伴う遺跡確認調査として都文化課埋蔵文化財係(小田静夫担当)によって実施された。発掘作業は、明治大学考古学専攻生(斉藤基生、織笠昭、宮下健司、伊藤裕助、松尾吉高、伊藤富冶夫、川道究、福士広志) が調査員として参加した。

(2)立川ローム第X層から磨製石斧出土

 確認調査は、まず任意の地点を選定して、グリッドを設定し開始された。まもなくして、各地点の調査員から石器出土の報告があり、しかも包含層は明確な明褐色のやや軟質ローム中であった。そのうち斉藤基生調査員のグリッドから、一点の楕円形で表面がスベスベした大型剥片が発見され写真撮影を行った。早速、公園の水道でこの石器を洗ったところ、刃部を研磨した立派な「局部磨製石斧」であることが判明し、一同驚嘆の歓声をあげたのであった。それもそのはず、当時、無土器文化では長野県茶臼山遺跡、同県杉久保遺跡、それと千葉県三里塚遺跡No55地点の資料などしかなく、いずれも時代的認定(混入か) やローム層準の判定などに議論が存在していた。また有名な群馬県岩宿遺跡栃木県磯山遺跡例は、「磨製か磨耗か」という論争に決着が着いていない現状であったからである(芹沢一九六五)。

 早速、P地点の崖面に残されたローム層を調べ、掘り下げられた出土層準との対比を行った。その結果、驚くことに想像していたローム最上部のソフトローム層ではなく、さらに数m深い立川ローム第二黒色帯下の「第X層」上部に包含されていたことが判明した。確認調査は事の重大性から一時中断し、都文化課の雪田孝学芸員と文化庁の小林達雄調査官に連絡し指示を待った。翌日、都建設局公園緑地部公園課と都文化課との現地協議を行うことに決定し、P地点は記録作成を行った後に「現状保存されることになった。 こうして東京・武蔵野台地の関東ローム層中から、原位置でそれも日本最古の確かな年代を示す地層(第X層、約四万~三万二〇〇〇年前から、立派な磨製石斧が出土し「無土器文化」の所産であることが確かめられた意義は極めて大きいものであった。

(3)栗原遺跡の磨製石斧

 磨製石斧は、立川ローム第X層の上部(現在の第Xa層、約三万二〇〇〇年前)に包含されていた。石材は、ホルンフェルス製。

 法量は、最大長八三cm、最大幅六四cm、最大厚一.四cm、重さ七六.六g。

 素材は、扁平の円礫を縦型に半割したような大形自然面付剥片を利用している。形状は、主要剥離面側の周縁を整形加工して楕円形品に仕上げている。

 研磨は、剥離面側に強く、自然面側には弱く認められる。方向は、刃部からやや斜めに認められる。このことから、縦斧(マサカリ)的着柄と使用法が窺える資料である。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(54)

2020-10-09 00:00:00 | Weblog

字の通り刃の部分を磨いて鋭くした斧であるが、この磨く・磨製石器については、斧だけではなくて、石包丁や石皿なども含まれている。


先ずはWikipediaの説明から。


磨製石器 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

様々な磨製石器

磨製石器(ませいせっき、英: polished stone tool)とは、砂と石をすり合わせたり、石と石をすり合わせるなどの方法で表面を滑らかに加工した石器[1]。

概要

磨製石斧

通常、石器は原料となる石材を他の石材や獣骨などで敲打(こうだ)したり剥離(はくり)したりして製作する。磨製石器はこのように製作した石器を、さらに砂や他の石で擦ることにより磨いて凹凸を極力なくした石器をさす。磨かないものが打製石器である。

母材の石が緻密なほど表面はなめらかで鋭利となり、樹木伐採などに使用する場合でも何度も繰り返して使用できる[1]。

種類

主な磨製石器には、石皿・磨石・石斧(磨製石斧)・石錐・石包丁・石棒・石剣などがある[1]。

石皿・磨石
石皿・磨石は調理の道具として利用された[1]。
石斧
石斧は樹木の伐採や土掘りの道具として利用された[1]。
石錐
石錐は木材や獣皮に穴をあけるドリルとして利用された[1]。
石包丁
石包丁は調理用ではなく農耕用で刈り取りに利用された[1]。
石棒・石剣
石棒・石剣の用途はよくわかっていないが呪術の道具あるいは宝器として利用されたと考えられている[1]。

使用時期

日本では、旧石器時代に刃部磨製石斧局部磨製石斧が作られた。最古の例は日本で、3万8千年前から3万5千年前に遡る。打製石斧と併用したが、3万年前には見られなくなった[2]。

磨製石器は新石器時代を代表する道具で、世界で広く使われた。
鉄器が普及しなかった一部地域では、20世紀に入っても石斧が普通に使われていた。

技術

研磨の技法には、擦切技法などがある。
磨製石器の製作技術は非常に高いもので現代のシリコンウェハーや光学部品の研磨技術の基礎となっている[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/磨製石器


金属などが発見・発明される前なので、手近な材料として石が重宝されて調理の道具として利用されたのも、頷(うなづ)けるものである。

特に石斧の刃を磨いて鋭くしたものは、日本のホモ・サピエンス達が発明したもののようだ。

一般的には、ヨーロッパなどでは磨製石器は主に新石器時代のものの様だが、日本列島では既に旧石器時代の後期ではあるが、刃部磨製石斧が存在していた、と言う事のようだ。

日本の刃部磨製石斧は、世界最古のもので3万8000~3万5000年前のものである。

と言うことは、ホモ・サピエンス達が日本列島に渡って来たのが、おおよそ3万8000年前のことなので、日本列島に渡ると同時に樹木を伐採して生活基盤をつくるために、必要に迫られて編み出した道具なのであろう。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(53)

2020-10-08 00:00:00 | Weblog

この西ガガラ遺跡は、広島県の東広島市鏡山の遺跡である。

この遺跡の位置としては、山陽自動車道の西城ICと東広島呉道の馬木ICを結んだ線の中間くらいの位置と言ったところだ。広島大学の敷地の一角で、およそ2万5000年前の遺跡で、住居跡も6件以上見つかっていると言う極めて貴重な遺跡で、縄文時代まで続いた遺跡である。

その西側には広島大学の本体があり、ここも広島大学の敷地の一部の様だが、その中の松林の中には鴻の巣遺跡と言う旧石器時代から縄文時代に掛けての遺跡があり、旧石器としては約3万年前の遺跡である。




広島大学キャンパス内における遺跡の調査
文・写真 藤野 次史     
統合移転地埋蔵文化財調査室

・・・・・・・・・・


旧石器時代の住居跡(西ガガラ遺跡第1地点)

特色ある数々の遺跡

 鴻の巣遺跡は教育学部南側の北第二福利会館およびその南側一帯の松林に広がる旧石器時代・縄文時代を中心とする遺跡です。

 旧石器時代では、石器ブロック(石器の製作跡など)八か所、土坑八基などが見つかりました。出土石器から約三万年前頃と推定され、広島県最古の遺跡の一つです。縄文時代では、早期(約八千年前)の集石炉一か所、土坑七基などが見つかっています。また、集石炉は九州北部を中心に分布する遺構で、中国地方では類例が少ないものです。なお、鴻の巣遺跡については発掘調査を行った部分の南側一帯が緑地として保存されています。

 西ガガラ遺跡は国際交流会館周辺に位置します。第一・第二・第三地点の三遺跡からなり、いずれも旧石器時代・縄文時代を中心とする遺跡です。旧石器時代では三時期の石器群が出土していて、第一地点で小型ナイフ形石器(約二万三千~二万五千年前頃)に伴って住居跡六軒以上、礫群二基などが見つかっています。旧石器時代の住居跡の発見例は全国でも二十例程度で、きわめて貴重な資料となっています。

 縄文時代では早期の住居跡一軒、土坑五十三基などが見つかりました。旧石器時代・縄文時代とも当時の集落を復元する上で重要な遺跡といえます。第一地点の旧石器時代住居跡周辺および第二・第三地点の大半は保存地区として将来は整備される予定です。

・・・・・・・・・・・・・・

https://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/29-5/hirakareta.html



幾分横道に逸れた感もあるが、これで「台形様石器」と言うものについてはご理解いただけたものと思う。

序に石斧もあったが、この石斧は刃部が磨かれていたかどうかには言及されていないので、刃部磨製石斧かどうかは不明である。

一応刃部磨製石斧についても調べてみよう。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(52)

2020-10-07 00:00:00 | Weblog

この5万年~3万年前の日本列島は今より80mほど海面が低かったと言われているので、その地図によれば、対馬列島の両側に約40kmの海が存在していた筈であるので、渡ってくるには相当高度な航海術が必要であった筈だ。一人や二人の渡航ではなくかなりの集団での渡航であった筈なので、そう判断される(P128)。

その証拠が、先にも述べたように、古本州島に440箇所もある旧石器時代の遺跡だ。

古本州島、即ち南九州と東海・中部地方へと広がっていった、と言うことである。

3万8000年~3万5000年前の間、古本州島に渡ってホモサピエンス達は平和裏に拡散していった様だ。彼らの文化には、次の3つの特徴があったと、海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP130には書かれている。

それらは次の3つである。

これは、浅間縄文ミュージアムの堤隆氏によるものである、と書かれている(P129)。

(1) 台形様石器(だいけいようせっき)

(2) 刃部磨製石斧(じんぶませいせきふ)

(3) 環状ブロック群(かんじょうブロックぐん)


台形様石器とは、普通やりと言えば先端がとがったものであるが、これは平鑿(のみ)のように平らになっているやりと思えばよいものである。いわゆる、マイナスドライバーを投付けるなものである、と比喩している(P130)。

別のものだが、写真があるので、ご覧願う。イメージは湧くことと思う。




西ガガラ遺跡第1地点(ガガラ地区)





第1ブロック群の石器(旧石器時代)


西ガガラ遺跡第Ⅰ地点では5基の石器ブロックが発見されています。Ⅰ・2 ブロック(第一ブロック群)は遺跡の北がに位置しており、台形様石器(写真左・中央)を主体に、ナイフ様石器(写真左上)や石斧(写真右半)などが出土しました。後期旧石器時代前半期に属するもので、西ガガラ遺跡の中でも古い一群です。石器の石材には安山岩(あんざんがん)を主に利用しており、流紋岩や、水晶も若干認められます。安山岩は遺跡から約50km離れた冠山産石材を主に利用しているものと思われます。

http://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~maizou/ng1-01.htm


西ガガラ遺跡(にしががらいせき)  

 広島大学は昭和48年(1973)に東広島市の南郊、県史跡鏡山城の西に広がる丘陵地に統合移転を決めた。それに伴う埋蔵文化財の発掘調査を行っているが、昭和61年(1986)度は、アカデミック地区の南東に留学生の宿舎である国際交流会館の建設が予定され、西ガガラの遺跡が発見された。

 遺跡は、二上山から南に延びる丘陵のやや平坦部にあり、地表下1.5メートルの赤土層(第Ⅵ・Ⅶ層)に先土器時代(旧石器時代)の石器や石片が出土し、さらに直径10~20センチの柱穴が多数みつかり、少なくとも6軒分の住居跡群が明らかとなった。先土器時代の人々は、狩猟を中心とした採集生活を行い、1ヵ所に定住したものではないとされていたが、西ガガラ遺跡の発見によって、ベース・キャンプのような形の集落も考えられるようになった。出土のナイフ形石器台形様石器の形態的な特徴からみると、約二万年前のものと考えられる。同様な遺跡は、同教育学部の南側に残る松林の中にも広く分布する。(鴻巣(こうのす)遺跡)。

 また、この遺構の上層には、縄文早期の押型文土器や石鏃が出土し、この時期の住居跡も検出されている。


写真説明
昭和61年(1986)度 遺跡見学会
【写真ガイド】
JR山陽本線八本松駅または西条駅から広島大学行きバスでガガラ口(くち)下車
メモ
 出土遺物の一部は、広島大学埋蔵文化財調査室に展示。
所在地
東広島市鏡山

http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=684

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(51)

2020-10-06 00:00:00 | Weblog

隠岐の島の黒曜石が見つかっていると言うことで3万6000年前と言えば、当ブログで10月1日に紹介した日本列島の様子(地図)だと、隠岐の島は古本州島と一体になっていたかも知れないので、船での行き来だったのか又は徒歩での行き来だったのかは定かではないが、旧石器時代とは言え相当広範囲に交流していたものと思われる。

3万6000年前と言うことは、相当古いと言うことで、後期旧石器時代の中ごろと言うよりも前半に当たるものである。日本列島にホモ・サピエンスが初めてやって来たのが3万8000年前のことであるので、それから2000年の間に丹後半島までやって来たことになる。

あの岩宿遺跡3万5000年前の遺跡だと言われているので、それよりも古いものとなる。丹後半島から千年かかって、岩宿までやって来たと言うことか。

何れにしてもすごいことであるが、日本列島にはどのようにしてホモ・サピエンスがやって来たのかは興味ある課題である。何はともあれ、そのホモ・サピエンスたちは3万8000年前から1万6000年前までのおよそ2万2000年間営々として、この日本列島で活動して縄文時代へと橋渡ししてくれたわけである。

日本人のルーツは縄文人であることには間違いはないのであるが、この旧石器時代のホモサピエンス達にも敬意を払いたいものである。

さて愈々どのようにして、ホモ・サピエンスたちは日本列島にやって来たのか、と言う課題に入りたいが、その当時の日本列島の様子が海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP120~121に描かれているので、それに則って話を進めてみたい。

・5万~3万年前は海面が80mほど下がっていたので、北海道はサハリンと陸続きで大陸と繋がっていた。対馬は独立していたがこの海峡は狭い。古本州島、瀬戸内海は陸続き。黄海は僅かな入り江状態で、台湾まで陸続きであった。

・2万年前は海面が130mほど下がっていたので、対馬は古本州島と陸続きであり、黄海は全て陸となりもちろん台湾も陸続き状態である。

と言った状態が日本列島の有様であった。だからナウマンゾウやマンモス、バイソンなども日本には渡って来ていたようだ。と言ってもこの時期、大陸と陸続きだったところは北海道だけなので、これらの動物が古本州島に渡ってきたのは日本列島が形成されるよりももっと古い時代のことであろう。


幸いなことにホモ・サピエンスたちは海を渡る術を知っていた。この時期・5万年前以降では、古本州島は大陸と分離していたために、ホモ・サピエンスたちは船に乗って日本列島に渡ってきたはずである。

縄文時代ならいざ知らず、後期とは言え旧石器時代に黒潮を乗り切って海を渡る術をわきまえていた、と思わざるを得ない。


5万年前と2万年前との日本列島への移入ルートは、その地図によれば、殆ど違いはなさそうだ。

次の3つのルートが考えられる、と記述されている(P122~)。まあ地図を見れば、だれでもそう考える筈だ。


(1) 対馬ルート、朝鮮半島から対馬を経て北九州へ渡るルート。航海術が必要。

(2) 沖縄ルート、台湾から琉球列島を北上するルート。これも航海術が必要。

(3) 北海道ルート、シベリア大陸からサハリン、北海道と南下するルート、全て陸上ルートであるが、北海道から本州島へは航海術が必要となる。


こうしてみると、ホモ・サピエンスが古本州島にたどり着くためには、何れのルートでも航海術は必須の技術だったと言える。

日本列島の最も古い遺跡は、先に挙げ置いた(10/5のNO.50)次の3つの遺跡である。


(1) 熊本県の石の本遺跡群の8区と54/55区

(2) 静岡県の井出丸山遺跡、この遺跡からは神津島で採取された黒曜石が見つかっている。

(3) 長野県の貫ノ木遺跡

これに対して、北海道沖縄地方の遺跡はやや新しい(3万年前頃)と言う。

そのため、これらのことから最初に日本列島に渡ってきたルートは、どうも対馬ルートであった様だ。この頃のと言っても、5万年~3万年前の遺跡は古本州島で440箇所もあるようなので、対馬ルートが最も古いと言うことであろう。

まあ、これからもっと古い遺跡が見つからないも限らないのではあるが、そうなればそのときはそのときである。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(50)

2020-10-05 00:00:00 | Weblog

さて、日本の旧石器時代の遺跡は1万箇所以上あると言われているが、どうも原人や旧人の化石は見つかっていないようだ。嘗て明石原人の骨が発見されたなどと言われていたが、今では否定されているようだ(P111)。

原人の頭骨は、言ってみれば、ラグビーボールを長手方向で半分にカットしたような形で、前後に長いが、新人の頭骨は丸くバレーボールを半分にカットしたような形である。その違いは見ればすぐわかる。

また、原人や旧人が作ったハンドアックスと呼ばれる大型の石器は、日本ではなかなか見つからないようで、原人や旧人は居てもわずかだったのではないかと書かれている(P113)。

しかし3万8000年前以降になると、旧石器時代のホモ・サピエンスの遺跡は急速に増えてくるのである。

このような旧石器時代の遺跡の中で、3万8000年~3万7000年前の遺跡として、この書では次の三つの遺跡を上げている

(1) 熊本県の石の本遺跡群の8区と54/55区

(2) 静岡県の井出丸山遺跡、この遺跡からは神津島で採取された黒曜石が見つかっている。

(3) 長野県の貫ノ木遺跡

また東京の武蔵野台地(国分寺市から杉並区に至る台地)には、旧石器時代の遺跡が密集しているという。

それは3万年前の鹿児島湾の姶良カルデラを作った巨大火山のテフラ(軽石や火山灰の層)のかなり下から見つかっているのである。

この武蔵野台地の地層は、およそ10層に積み重なっているようで、2層は弥生・縄文の黒っぽい地層で、3層以下が赤みを帯びたローム層だと記述されている(P116)。

姶良カルデラのテフラ層は6層からであり、旧石器時代の石器などはこの下の層から10層まで途切れなく見つかると言う。この最後の10層の年代は、3万5000年前頃のようだ。

だから武蔵野台地へは、この頃にホモ・サピエンスがやって来たのであろう。


ごく最近のニュースとしては、京都府の京丹後市(日本海側の都市)の上野遺跡で、約3万6000年前の後期旧石器時代の石器が発見されている。

先ずは石器の写真のある静岡新聞の記事から。




京都府京丹後市で後期旧石器発見 3万6千年前と推定、隠岐石材も
(2020/9/17 19:06)


京都府京丹後市の上野遺跡から出土した台形石器(左)と黒曜石=17日

 京都府京丹後市の上野遺跡で後期旧石器時代の石器152点が見つかり、京都府埋蔵文化財調査研究センターが17日、発表した。石器の特徴や地層などから遺跡は約3万6千年前と推定され、後期旧石器時代では最古級という。

 約3万年前の姶良カルデラ(鹿児島県)の噴火でできた火山灰層と、約6万年前の大山(鳥取県)の噴火に伴ってできた軽石層の間から出土。台形石器と呼ばれる狩猟道具の一部や、獣の解体に用いる石器も見つかった。台形石器を中心とした国内の遺跡は約3万4千~3万8千年前であることから、中間値として3万6千年前と推定した。島根県・隠岐諸島産の黒曜石も5点出土した。

https://www.at-s.com/news/article/culture/national/809720.html


そして産経新聞の記事が詳しいので、ご一読を。


京丹後に京都最古の遺跡 上野遺跡、3万6千年前の石器群
2020.9.18 07:06 地方 京都

 ■後期旧石器時代前半、狩猟のキャンプ地か

 京都府埋蔵文化財調査研究センター(向日市寺戸町)は17日、京丹後市の上野遺跡(同市丹後町)の発掘調査で、府最古となる後期旧石器時代前半(約3万6千年前)の石器群が出土したと発表した。同研究センターは「後期旧石器時代前半の石器人の活動が、京都でもあったことを明らかにする大きな成果」としている。

 同遺跡の発掘調査は平成29年から3回実施。2回目の調査で約3万年前の地層から数点の石器が出土したことから、3回目となる今回は石器の出土した地域を中心に調査(令和元年8月~同12月)を進めていた。

 今回の調査では計152点の石器が出土。約3万6千年前のものとされる台形石器などが見つかったことから、後期旧石器時代前半の遺跡と結論付けた。これまで府内最古の遺跡は、後期旧石器時代後半(約2万7千年前)の硲(はざま)遺跡(長岡京市)とされてきた。

 同センターによると、遺跡内には道具の一部として使われた石器が多く、石器を作った形跡があまりないことなどから、同地域が「狩猟の移動にともなう一時的なキャンプ地だった」と推測されるという。

 石器の中には島根県の隠岐諸島産の黒曜石も含まれており、同センター参事の中川和哉さん(59)は「旧石器人が海を挟んで、広範囲に交流していた可能性もある」としている。

 今回出土した石器は18~22日の午前9時半~午後4時、丹後古代の里資料館(京丹後市丹後町)で展示される。問い合わせは同館(0772・75・2431)。

https://www.sankei.com/region/news/200918/rgn2009180032-n1.html
(続く)
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