世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(51)

2020-10-06 00:00:00 | Weblog

隠岐の島の黒曜石が見つかっていると言うことで3万6000年前と言えば、当ブログで10月1日に紹介した日本列島の様子(地図)だと、隠岐の島は古本州島と一体になっていたかも知れないので、船での行き来だったのか又は徒歩での行き来だったのかは定かではないが、旧石器時代とは言え相当広範囲に交流していたものと思われる。

3万6000年前と言うことは、相当古いと言うことで、後期旧石器時代の中ごろと言うよりも前半に当たるものである。日本列島にホモ・サピエンスが初めてやって来たのが3万8000年前のことであるので、それから2000年の間に丹後半島までやって来たことになる。

あの岩宿遺跡3万5000年前の遺跡だと言われているので、それよりも古いものとなる。丹後半島から千年かかって、岩宿までやって来たと言うことか。

何れにしてもすごいことであるが、日本列島にはどのようにしてホモ・サピエンスがやって来たのかは興味ある課題である。何はともあれ、そのホモ・サピエンスたちは3万8000年前から1万6000年前までのおよそ2万2000年間営々として、この日本列島で活動して縄文時代へと橋渡ししてくれたわけである。

日本人のルーツは縄文人であることには間違いはないのであるが、この旧石器時代のホモサピエンス達にも敬意を払いたいものである。

さて愈々どのようにして、ホモ・サピエンスたちは日本列島にやって来たのか、と言う課題に入りたいが、その当時の日本列島の様子が海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP120~121に描かれているので、それに則って話を進めてみたい。

・5万~3万年前は海面が80mほど下がっていたので、北海道はサハリンと陸続きで大陸と繋がっていた。対馬は独立していたがこの海峡は狭い。古本州島、瀬戸内海は陸続き。黄海は僅かな入り江状態で、台湾まで陸続きであった。

・2万年前は海面が130mほど下がっていたので、対馬は古本州島と陸続きであり、黄海は全て陸となりもちろん台湾も陸続き状態である。

と言った状態が日本列島の有様であった。だからナウマンゾウやマンモス、バイソンなども日本には渡って来ていたようだ。と言ってもこの時期、大陸と陸続きだったところは北海道だけなので、これらの動物が古本州島に渡ってきたのは日本列島が形成されるよりももっと古い時代のことであろう。


幸いなことにホモ・サピエンスたちは海を渡る術を知っていた。この時期・5万年前以降では、古本州島は大陸と分離していたために、ホモ・サピエンスたちは船に乗って日本列島に渡ってきたはずである。

縄文時代ならいざ知らず、後期とは言え旧石器時代に黒潮を乗り切って海を渡る術をわきまえていた、と思わざるを得ない。


5万年前と2万年前との日本列島への移入ルートは、その地図によれば、殆ど違いはなさそうだ。

次の3つのルートが考えられる、と記述されている(P122~)。まあ地図を見れば、だれでもそう考える筈だ。


(1) 対馬ルート、朝鮮半島から対馬を経て北九州へ渡るルート。航海術が必要。

(2) 沖縄ルート、台湾から琉球列島を北上するルート。これも航海術が必要。

(3) 北海道ルート、シベリア大陸からサハリン、北海道と南下するルート、全て陸上ルートであるが、北海道から本州島へは航海術が必要となる。


こうしてみると、ホモ・サピエンスが古本州島にたどり着くためには、何れのルートでも航海術は必須の技術だったと言える。

日本列島の最も古い遺跡は、先に挙げ置いた(10/5のNO.50)次の3つの遺跡である。


(1) 熊本県の石の本遺跡群の8区と54/55区

(2) 静岡県の井出丸山遺跡、この遺跡からは神津島で採取された黒曜石が見つかっている。

(3) 長野県の貫ノ木遺跡

これに対して、北海道沖縄地方の遺跡はやや新しい(3万年前頃)と言う。

そのため、これらのことから最初に日本列島に渡ってきたルートは、どうも対馬ルートであった様だ。この頃のと言っても、5万年~3万年前の遺跡は古本州島で440箇所もあるようなので、対馬ルートが最も古いと言うことであろう。

まあ、これからもっと古い遺跡が見つからないも限らないのではあるが、そうなればそのときはそのときである。
(続く)
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