世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(37)

2020-09-16 00:00:00 | Weblog

ハリソン夫妻の掘ったニアのウエスト・マウスからは、4万8千年前~3万5千年前に相当する最下層の地層や他の地層からも人類が食したと思われる様々な動物の骨が出土している。淡水産の貝や魚類、更にはまたしてもサルの骨も出土している、と書かれている(P76)。また複数の穴も発見されており、それらはナッツ類の渋みやえぐ味を取り除くあく抜きのためのものであった可能性が高い、とも記されている。

このように南ルートをたどったホモ・サピエンスは、陸域である熱帯雨林地域で創造的な活動をしていたことになる。このように創造的な活動が出来たからこそ、後に彼らは日本にまで辿り着くことが出来たのであろう。




42000年の旅路・・ボルネオ島のニア洞窟
2014-03-29 | その他先住民族


朝日新聞「日曜版」「日本人の起源」2011・05・01

アジアに最初に入ってきた人たち、日本人の遠い祖先が住んでいた巨大な洞窟を訪ねた記者の記事です。


                 ・・・・・

その洞窟は、とにかく巨大だった。

体育館のようにだだっ広く、奥に向かって小高い丘になっている。

その先は真っ暗で何も見えない。

高いところでアナツバメやコウモリが舞っている。

不思議と怖さはない。

むしろ、大きなゆりかごのなかにいる気分だ。

40000年ほど前、ここに「祖先」たちがいたかと思うと、洞窟の奥の暗闇に向かって「会いに来たよ」と走りだしたくなる。

マレーシア・ボルネオ島のニア洞窟。

私がここを訪れたのは、「祖先」の足跡をこの目で確かめたかったからだ。

2人の人類学者・国立科学博物館海部陽介沖縄県立博物館藤田祐樹に同行してもらった。


東京から首都クアラルンプール、そしてボルネオへ。

2日かけて、ブルネイとの国境の町ミリに入った。

そこから車で2時間ほど走り、ようやく「ニア国立公園」の入り口に辿りつく。

ニア川を渡し舟で渡り、鳥や虫の声を聞きながらジャングルを歩くこと1時間。

石灰岩の切り立った崖にぶつかり、木で出来た階段を5分ほど登ると、「さあ、我らが故郷にようやく到着だ」と、洞窟の前で案内役のサラワク博物館長が歌うように言った。


ここで1958年、人間の頭がい骨が見つかった。

深さ2・5メートルの地中に眠っていたため、「ディープスカル」と名付けられた。

2000年、サラワク博物館や英ケンブリッジ大の合同調査団が4年かけて発掘。

現場の地層や「ディープスカル」を再検証し、約42000年前20才前後の女性と特定した。

東南アジア最古の現生人類だったのだ。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(36)

2020-09-15 00:00:00 | Weblog

さて人骨が伴わないホモ・サピエンスの遺跡も沢山見つかっている。それと言うのも、ホモ・サピエンスのみが使った道具類が発掘されておれば、その遺跡はホモ・サピエンスの遺跡と見て間違いがないであろう。

海部陽介氏はそれらを、装飾品細石器骨角器の3つである、としている(P64)。

イスラエルの初期のホモ・サピエンスの遺跡の13万~7万年前の地層からは貝殻に穴をあけてビーズ状にしたものが出土している。

ダチョウの卵の殻を加工して作るビーズは、今でもアフリカでは盛んにつくられているが、4万数千年も前から行われていたようだ。南アフリカのブロンボス洞窟やディープクルーフ岩陰からは11万年前以降の地層から、それらが発掘されている、という(P64)。

細石器とは、岩宿遺跡で説明した黒曜石の槍先形をした石器のようなもので、それ自体を単独で使用したものではなくて、木や骨、角などを加工してそれにはめ込んだりして使用したものであろう。異なる素材を組み合わせて道具を作ると言う事は、新しい発想のものである。
ネアンデルタール人などの旧人にはない行動様式であった。アフリカのピナクル・ポイントと言う遺跡では、7万1千年頃の細石器が報告されている、という。

骨角器は、骨や角は石と違い加工が容易であるので、細くけずったり曲げたり穴をあけることによって作られた道具である。というような工夫をホモサピエンスは、実行して必要とした道具を作ったのである。釣り針や銛、更には縫い針まで発明していたのである。

人骨が見つからなくてもこのような道具が発掘されていれば、その遺跡はホモ・サピエンスの遺跡なのである。

先に紹介したスリランカのバタドンバレナ岩陰遺跡では、人骨が見つかったと同じ地層から、貝のビーズ、細石器、骨角器が発掘されている。ここからは彼らが食したと思われる動物の骨が沢山見つかっているが、それらはほとんどが猿の骨だった、と書かれている(P67)。

と言うことは、この地は熱帯雨林で、高い樹上で生活する猿を捕まえる技術を、彼らホモ・サピエンスが持っていたことの証である。その技術はどんなものか興味のあるところであるが、熱帯雨林ではゾウやシカなどの大型動物は生息してはいない。だから小型の哺乳類、しかも夜行性の、を工夫して捕獲していたことになる。罠、弓矢、吹き矢などを使っていたのかも知れないが、これらの道具は木材などの植物素材で作られているので、遺跡物としては残ることはない。確認できないのが誠に残念である、と記している。

だから海部陽介氏は、「そのようにチャレンジングな環境であるからこそ、旧石器時代の祖先たちが、どれだけ熱帯雨林に適応できていたのかは、たいへん興味深い。」と記している(P64)。

インドからはその土質の関係から人骨化石は発掘されてはいないが、このようなホモ・サピエンスが使ったと思われる装飾品と細石器と骨角器は出土している、と記している。

3万9千年前チャンドラサール遺跡3万年前頃パトネ遺跡では、線刻模様を施したダチョウの卵殻の破片が見つかっている。2万年前の地層となるが、ジュワラプーラム遺跡からはダチョウの卵殻のビーズも発掘されているという。今は、ダチョウはアフリカにしかいないが、当時はインドを含むアジアの広い地域に生息していた、と記している(P68)。

ジュワラプーラム遺跡からは細石刃が出土しているが、これは3万4千年前のものと言う。メタケリ遺跡では4万5千年前のものが出土していると報告されているという。

チャンドラサール、メタケリ、パトネはインド中央部、ジュワラプーラムはインド半島の南より1/3ほど北上した当たりの中央よりやや東よりの場所である。

パキスタン北部のリワート55という遺跡では、4万5千年前の石刃が出土している。これはホモ・サピエンスのものとされている。

このように、南ルート(南アジア)では、3万9千年前、場合によっては4万5千年前までさかのぼって、ホモサピエンスの痕跡が見られると言うことが遺跡によって証明されたことになる。

と言うことは、海岸移住説に対しては明確なアンチテーゼとなる。その証拠にボルネオ島のニア大洞窟の調査結果である。

この超巨大洞窟で、イギリス人のトム・ハリソンとバーバラ・ハリソン夫妻によって、1958年2.5mの深さから頭蓋骨が発見された。そのため、「ディープ・スカル」と呼ばれるこの頭蓋骨は、マレーシアの女性考古学者のズライナ・マジッドによる再発掘と2000年にはケンブリッジ大学の考古学者グレイグム・バーカーらによる再調査により、約4万2千年前20歳前後の女性のものと特定された、と次の論考には記載されている。

しかし海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP58には、この「ディープ・スカル」は地表面下2.7mの地点から見つかった青年の頭骨化石だと記されている。

この青年の頭骨か20歳前後女性の頭骨化は、大きな違いである。どちらが正しいのであろうか。小生は海部陽介氏の記述を信じたい。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(35)

2020-09-14 00:00:00 | Weblog

この南ルート上のホモ・サピエンスの人骨が発見された遺跡を見てみよう。

次のような遺跡が、その書では、説明されている。

ホモ・サピエンスの人骨化石遺跡としては、

1) セイロン島のファヒエンレナ岩陰の人骨片 3万7000年前

2) セイロン島のバタドンバレナ岩陰の人骨  3万4500年前

3) ボルネオ島のニア大洞窟の「ディープスカル」 4万年前

4) 同上遺跡の更に下の地層から石器が出土 4万8500年前頃より始まる

5) ラオスのタンパリン遺跡の頭骨化石 4万6000年前

6) オーストラリアの4万7000年前の人類遺跡


このほかには、

タイのモキユー遺跡、マレーシアのペラ遺跡、ベトナムのハンチョー遺跡、ジャワのワジャク遺跡などからも人骨化石が発掘されているが、おおよそ4万6000年前から1万年前となっているという。

それらの遺跡からは原人や旧人の骨は見つかっていないので、古代型人類は、ホモ・サピエンスの到来と共に姿を消していったものと思われる。

この南ルートのホモ・サピエンスは、4万7000年前までにオーストラリアやニューギニアへ到達していた訳だが、彼らは今の先住民のアボリジニに似ていたという。

アボリジニは、この南ルートのホモ・サピエンスの子孫とみなして、間違いないであろう。
だから「オーストラロ・メラネシアン」と総称されている。

だが「タイから西インドネシアにかけての地域に暮らす人々は、オーストラロ・メラネシアンとは、体系も、肌の色も、ずいぶん異なっている。つまり現代人の地理分布をみる限り、オーストラロ・メラネシアンはオーストラリアとニューギニア周辺域に孤立しているようにみえるので、太古の南ルートの存在と言うのは想像しづらい。」と記述されている(P61)。

ただタイやマレーシア、ベトナムなどの遺跡から発見されている人骨化石は、現代の東南アジアのそれよりも、オーストラロ・メラネシアンに似ていたのである。

このことは日本の札幌医科大学松村博文氏の一連の研究により、明らかにされた。このことは1万年前~5000年前の数多く発見される人骨の研究からも、それらは「オーストラロ・メラネシアン」に似ていることが指摘されたのである。だから「オーストラロ・メラネシアン」は、かつて東南アジア大陸部の広い範囲に分布していたのであった。

しかし中国(河姆渡遺跡?)起源の稲作農耕文化が東南アジアへ広がるにつれて、それと共に人の集団も移動し、先住のオーストラロ・メラネシアン系の人々は次第に押しやられたか吸収されて、現在のような状況へと変わっていったらしい、とその書のP63には記述されている。

つまり4万8000年前の最初の大移動の痕跡は、後の移住によってかき消され、現在の東南アジアにはほとんど残されていない、という事のようだ、と同じく記述されている。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(34)

2020-09-11 00:00:00 | Weblog

だからそれらを避けて、ホモ・サピエンスたちは南と北に分かれて、移動・拡散していったわけである。


・ インド・ネパール・ブータンに亘るヒマラヤ山脈がある
・ その北にはチベット高原
・ チベットと新彊ウイグル自治区の間にはクンルン山脈
・ その北にはタクラマカン砂漠があり
・ そしての北には天山山脈
・ 続くモンゴルにはアルタイ山脈が存在しているのである。


地図で確認するとこれだけの障害物が存在している。これではこの地域は避けざるをえなかっであろう。

だからホモ・サピエンスたちは、アフリカからシナイ半島・サウジアラビアを経由して、イラク・イランを通過して、

南ルートとしては、アフガニスタン、パキスタン、インドなどを経由して東南アジア、そしてオーストラリアへと進出していったものと思われる。当時は、マレー半島・スマトラ島・ジャワ島・ボルネオ島は、スンダランドと言う陸地だった。そして一部は北上して東アジアへ向かったとみられる。

北ルートは、カスピ海の北側か南側を経てウズベキスタン、カザフスタンを通過して、バイカル湖方面へと進出していったものと思われる。当時は樺太・北海道と大陸は陸続きであった。そして黄海は陸地となっており、対馬海峡はもっと狭かったようだ。

そして南北ルートの合流地点は、東アジア・華北や満州、そして日本であった。

そして、それほど遅くない時点には、北極海沿岸地域まで人類が到達していたことになる。この一団のホモ・サピエンスたちは、当時は陸続きだったベーリング海峡を渡って北アメリカまで到達していたのであろう。


先の「地質時代と石器時代の対応表」では、ホモ・サピエンスの誕生を20万年前~30万年前と書いておいたが、大体20万年前が正しいようで、ユーラシアへの拡散も6万年前頃と言うことである。

いわゆる中期旧石器時代から後期旧石器時代に掛けてホモ・サピエンスは拡散を開始したようだ。何故ホモ・サピエンスがアフリカからユーラシア大陸へと拡散していったかは、小生には分かっていないが、多分に食糧問題であったのであろう。即ち食料を探して動いていったものであろう。


後期旧石器時代は今から5万年前から1万年前の時期となるが、ヨーロッパではホモ・サピエンスの「クロマニヨン人」が後期旧石器時代の文化を形づくっていたが、旧人のネアンデルタール人も存在していた。中期旧石器文化の担い手である。クロマニオン人もアフリカで誕生した現生人類であるので、アフリカからヨーロッパへ移住したものであった。だからホモ・サピエンスは、アフリカからヨーロッパやユーラシア大陸へと拡散したものであった。

この旧人と新人(ホモ・サピエンス)の間には、決定的な違いが存在していた。一口で言えば、その違いは「際立った創造性」の有無にある、とその書のP44には書かれている。

クロマニオン人は骨や角を使って釣り針や銛を造り、やがては縫い針まで発明していった。ネアンデルタール人では、決して考えられないものであった。更には道具だけではなくて、自身を飾るためのビーズやペンダントまで作り、身を飾っていたのである。スペインのアルタミラ洞窟やフランスのラスコー洞窟に絵を描いたのも彼らであった。美術や芸術にも、ホモ・サピエンスはかなりの価値を見出していたのである。

死者の埋葬にも、それなりの副葬品が伴うのも、ホモ・サピエンスの特徴であった。


さてそのホモ・サピエンスの拡散の状況を、簡単に見てゆくことにする。

先ずは、南ルートから。

ホモ・サピエンスがアフリカを出立したころは、7~6万年前のことである。中期旧石器時代の終わりごろの事だ。と言うことはヴュルム氷期(7万年前~1.5万年前)の初めの頃である。最終氷期の寒い時期であった。

ホモ・サピエンスが出立したサバンナの中東地区と違い、インドから東南アジアには、植物が茂っていた様だ。それと言うのも、インド洋からインド、セイロン、東南アジアへ向かってアジアモンスーンが吹いていたからだ。そのモンスーンが豊富な水蒸気を陸地へと運んでいた訳だ。

だから熱帯雨林が発達していた地帯も存在していた。そのモンスーンは、やがてはヒマラヤの山肌を駆け上がり、雪を降らせてそれが氷河となり、やがては川となって海へと下って行った。

このモンスーンの一部は、東南アジアから東アジアへも吹き付け、豊かな水をもたらし水稲の育つ一因となっていった。

また当時は氷期であったために、海面は今よりも100m前後は低かったので、陸地は今よりも広かったはずだ。だから、スンダランドと言う陸地まで存在していたのだ。

南ルートの現生人類は、この熱帯雨林にも順応していった訳だ。ジャワ島やボルネオ島には、彼らの遺跡が存在している。だから確実にこの熱帯雨林にも順応していた。

とすると、そこには原人や旧人が居た筈だ。スンダランドのジャワ原人やフローレス原人、インド周辺の旧人であるが、彼らはその後程なく姿を消していった。季節変動などで、淘汰されたと言うことであろう。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(33)

2020-09-10 00:00:00 | Weblog

何はともあれ、相沢忠洋氏によるこの岩宿遺跡の発見は、日本の歴史が縄文時代をはるかに越える3万5千年も前の旧石器時代(岩宿時代)にまで遡ることが証明されたことに大いに意義のあるものであった。

とすると、20万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスは、6~7万年前にアフリカからユーラシア大陸へと進出してゆき、少なくとも3万5千年前には日本列島に行き着いていた、と言うことになる。

と言うことは、この人類の雄大な世界的な旅を追わないことには、「日本人はどこから来たのか」という命題への答えは出せないことになる。


と言うことでこれからは、ここら辺の事情(ホモ・サピエンスの拡散)は、主に海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)を中心に進めてゆくことにする。そして以後この書籍を「その書」とか「先の書」などと呼ぶこともあるので、ご承知おき願いたい。


ホモ・サピエンス以前の旧人たちは狩猟採集生活を送っていた訳であるが、彼らは主に内陸に住んでおり海産物を食料としては採集していなかった、と言われている。

これに対してホモ・サピエンスは、積極的に(かどうかは知らないが)貝や魚などの海産物を食べるようになっていた。南アフリカの洞窟遺跡では16万年前の海産物利用の証拠が見つかっていると、その書の16頁には記載されている。このことからホモ・サピエンスたちは、内陸だけでなく海岸地区でも生活できるようになっていった、と言われている。

このことから、人類の拡散はアフリカから海岸線を辿って、アラビア半島、インド半島、そして東南アジアへと広がっていったのではないか、という海岸移住説が主流となっていった、と先の書には書かれている(P16~17)。しかも海岸移住であれば、内陸に住んでいた先住者(旧人など)との競合も避けられたことになる。

しかしこの魅力的な仮説には、一つの大きな疑問が存在していた。

それはインド洋沿岸地域に、初期の海岸移住を裏付ける古い遺跡が見つからないことであった。

海岸移住を主張する人たちは、その理由を、海面上昇による水没のために見つからないのだ、と主張していた。当時より現在は温暖になったために、海面が何十メートルも上昇しているために、当時の遺跡は海の底に水没し、なくなってしまったためである、としていた。

この説に海部氏は、次のような疑問を抱いていた。

それは6~7万年前にアフリカからユーラシア大陸へと進出したホモ・サピエンスは、アジアの陸域に遺跡を残すようになるのは、およそ5万年前のことである。すると6~7万年-5万年の約2万年の間は、海岸地区にへばりついていたことになる。

本当に2万年もの間海岸地区にへばりついていたのか、これが海部陽介氏の疑問であった。

そのため氏は、世界地図上に信頼のおける遺跡をプロットしていったのである。

遺跡と言っても数万年も前のものであるので、その年代を特定するためには相当の吟味が必要となる。氏はそれらをしっかりと吟味して、「信頼できる/有用な」遺跡を年代と共に世界地図上にプロットしていった。「有用な」とは、年代として全面的に信頼できるとまでは言えないが、さりとて信頼できないとは言えず相当信頼できる部分がある遺跡、という意味である、と小生は理解している。

それが次の図であるが、これは海部陽介氏が作図したものを書き写したものである。




これによると、氏は次の4つのブロックがあると判断している。


(1) インド、南アジア、東南アジア、オーストラリアのブロック(南ブロック
(2) ヒマラヤの北側の西シベリアからバイカル湖に至るブロック(北ブロック
(3) 日本を含む東アジアのブロック(南北ブロックの合流地
(4) 北極海沿岸地域(ヤナRHS遺跡


何故南と北に分かれて遺跡が存在するブロックがあるのかと言うと、その間には次のような山脈や砂漠が存在しているから、通過できなかったのだ。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(32)

2020-09-09 00:00:00 | Weblog

市をあげて相沢忠洋氏をバックアップする姿勢があっても良いのではないか。





昭和24年7月発見された槍先形尖頭器
当館蔵

「山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
 「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……」
 私は、その石を手におどりあがった。そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
 それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。
 もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。」 (相沢忠洋『岩宿の発見』より)
 数万点にも及ぶ発掘資料の中から、あえて1つを選ぶとしたらこの「槍先形尖頭器」だと思います。なぜなら岩宿発見のきっかけとなったものだからです。実際この槍先形尖頭器に会うために記念館を訪れる人も多いようです。黒く透き通る黒曜石(黒耀石)で出来ていて、中心部に白雲のようなすじが入っていて、神秘的な美しさを持っています。 (長さ約7cm、幅約3cm)
昭和26年頃の相澤 (『岩宿の発見』より)
http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/tenji/sentouki/sentouki.html




AIZAWA TADAHIRO MEMORIAL HOUSE
最終更新日 2005/09/19
http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/index.html



2001年建立の相沢忠洋像
https://ja.wikipedia.org/wiki/岩宿遺跡


このように相沢忠洋氏の功績により、後期旧石器時代にも、日本には人類が住んでいたことが証明されたのであるが、明治大学による学会への論文等には、相沢忠洋氏の名前や功績は排除されており、なんとなく明治大学にも胡散臭さを感じてしまうものである。

相沢忠洋は明治大学の大学院生である芹沢長介氏の下に、その石器を持ち込んだのであるが、すべてが芹沢の師匠である明治大学考古学教室の助教授の杉原荘介の手柄となってしまった、といういわくつきの実話がある。


相沢忠洋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  には次のように記されている。


・・・・・・・・・
しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。さらには、相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられた。
・・・・・・・・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/相沢忠洋

だからかどうかは知らないが、✕流大学などと明治大学を呼ぶ輩も沢山いるのではないのかな。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(31)

2020-09-08 00:00:00 | Weblog

発掘された石器は、実に35,000年前の後期旧石器時代の初頭のものであった。しかも刃の部分が磨かれた石器が存在していたのである。一般的に局部磨製石器は、新石器時代に見つかるものであったので、この岩宿の局部磨製石斧は、その後の日本先史時代の世界史的な位置づけを際立たせるものであった。その後日本各地での旧石器時代の遺跡からは、磨製石器が見つかっている。世界で最も早い磨製石器であった。縄文人の工夫の跡がしのばれるものである。

この件は、「世界最古の磨製石斧と栗原遺跡-列島最古の旧石器文化を探る⑥-(http://ac.jpn.org/kuroshio/kurihara/oda201705.htm)などを参照されるとよい。




岩宿遺跡
2017年 11月 15日更新

岩宿遺跡遠景(最初の発掘調査の頃)   (写真提供:明治大学博物館)

岩宿遺跡とは

 第2次世界大戦の頃までの考古学者は、発掘を進めて赤土(関東ローム層)が出るとそれを「地山」と呼び、それ以上掘ることはありませんでした。土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代にあたる)の人々が日本の最初の住人だと考えていたからです。
 この考古学・日本史の常識を覆し、日本にも世界史でいう旧石器時代段階に人々が生活していたことをはじめて明らかにしたのが、岩宿遺跡です。

岩宿遺跡(A地点) 

遺跡の発見、発掘

 岩宿遺跡は、群馬県みどり市笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山という小さな丘陵が接する部分に位置しています。
 1946年、切り通しの道となっていた岩宿遺跡を通りかかった相沢忠洋は、切り通しで露出していた赤土(関東ローム層)から、石器を発見しました。相沢はその後も、何度となくその崖を調査し、赤土の中から次々に石器を見つけましたが、土器が伴うことはありませんでした。当時は、1.5万年以上前の火山灰でできた関東ローム層の時代には、ヒトが住めなかったといわれていましたが、自分が確かめた事実を信じ、1949年の夏、ついに誰が見ても疑いようのない黒耀石の石槍を発見しました。
 この発見は、いち早く東京の学者に知らされ、相澤さんと明治大学が岩宿遺跡を発掘調査をすることになりました。1949年9月11日、岩宿の丘に立った発掘調査隊は、それまで未知の地層であった関東ローム層に挑み、ついにその地層の中から石器が出土することを確認しました。その後、その年の10月、翌1950年4月にも発掘調査が行われましたが、こうした一連の岩宿遺跡の調査によって以下のことが明らかとなりました。
 その当時、最も古いと考えられていた縄文時代の土器がやや離れたC地点から発見されましたが、それらは関東ローム層より上の黒土に含まれていましたので、ローム層から発見された岩宿遺跡(A・B地点)の石器は、明らかに古いことがわかりました。そして、土器を伴わず、石器だけが発見されるため、縄文時代とは違う時代のものと考えられました。また、発掘調査によって関東ローム層中に層を違えて2つの石器群が発見されました。少なくとも約3.5万年前(岩宿I石器文化)約2.5万年前(岩宿II石器文化)の時期があることがわかり、早くもこの時点で、岩宿遺跡の時代に異なる文化の段階があり、その岩宿時代が長い時期にわたっていたことが予想できました。

岩宿時代について

 旧石器時代あるいは先土器時代という呼び方が一般的かもしれません。しかし、日本列島のその時代には、旧石器時代にはないとされている磨製石器があるなどの独自性があって、ヨーロッパなどとは違いがあります。また、「土器」というこの時代に無いものを用いて時代の呼び方にしていることにも問題があります。既に何人かの研究者によって提唱されていますが、岩宿博物館では、土器を持たず、狩猟・採集の生活を営んでいたと考えられる日本最古の時代を、その研究の発端となった岩宿遺跡にちなんで「岩宿時代」と呼んでいます。


相沢忠洋(発掘調査の頃)
1949年9月11日、最初の発掘調査
(写真提供:明治大学博物館)


最初の発掘調査で出土した石器(所蔵:明治大学博物館)
岩宿I石器文化(約3.5万年前)
岩宿II石器文化(約2.5万年前)

相沢忠洋さんのことをもっと詳しく知りたい方は相沢忠洋記念館のサイトをご覧ください。
相澤忠洋記念館(別ウィンドウで開きます)
岩宿遺跡の発掘調査について知りたい方は、明治大学博物館のサイトをご覧ください。
明治大学博物館(別ウィンドウで開きます)

研究の進展とその後の発掘

 岩宿遺跡の発掘調査が終了し、新聞報道がなされると、日本にも「旧石器時代」があったことを証明する大発見として公表されました。それでも、日本に1万年以上も前からヒトが住んでいたことに疑問を持つ研究者もいたようです。しかし、岩宿遺跡発掘の数年後にはその発見に刺激を受け、日本全国で同じ時代の遺跡が発見され、1万年をはるかに溯る岩宿(旧石器・先土器)時代の存在は疑いないものとなりました。
 その後岩宿遺跡では、1970・71年、岩宿I石器文化よりも古い石器を求めて発掘調査が行われました(B・C・D地点)。その結果、「珪岩製旧石器」が発見されましたが、その資料の評価については、問題視する意見も多く、現在も論争が続いています。1979年、岩宿遺跡は、重要な遺跡として国指定の史跡となり、保存と整備が進められました。その整備事業に伴い1987年遺跡に隣接した部分が調査され、最初の調査と同様、2つの時期の石器群が発見されています(駐車場地点)。
 1992年以降、岩宿遺跡の東隣りから岩宿時代の石器が発見されて、岩宿II遺跡と名づけられました。そして2001年には相沢さんが発見し、岩宿遺跡発掘調査の契機となった槍先形尖頭器と同じ石器を含む約500点の一群の石器が発見されました。1949、50年の発掘当時、謎であった岩宿III石器文化が岩宿にあったことを証明した石器群といえるものです。
 2015・16年には、岩宿遺跡B地点の南側にあたるF地点で石器が発見されました。岩宿遺跡がさらに広がることがわかり、2017年に史跡として追加指定されました。



B地点の調査(1970年)
駐車場地点の調査
岩宿II遺跡出土石器

岩宿遺跡はなぜ重要

 岩宿遺跡発掘から約70年を経て、日本全国には岩宿(旧石器・先土器)時代が約1万ヶ所も知られています。研究方法も調査技術も進展し、多くの大発見もありました。岩宿遺跡の内容をはるかにしのぐ遺跡も数多いといえましょう。
 それではなぜ、岩宿遺跡は重要なのでしょうか。それは、岩宿遺跡の発見と発掘が、一つの遺跡が発見されたことに止まらず、日本の歴史がどこまで溯るのかという最古の歴史研究の扉を開き、縄文時代以前に日本最古の「一時代」があることを証明したからです。このことが、その後の岩宿時代研究の出発点となり、日本考古学史上でも欠くことのできない大発見とされる理由です。

空から見た岩宿遺跡中央は岩宿博物館)

岩宿遺跡年表

1946年 相沢忠洋さんが岩宿遺跡を発見する(B地点)。
1949年 最初の発掘調査が行われる(9月11日、A地点)。10月本調査実施(A・B・C地点)。
1950年 二次調査が行われる(4月)。
1960年 A地点が群馬県指定史跡となる。
1970年 B地点を公有化し、地層観察施設を整備。岩宿ゼロ文化の発掘調査(B・D地点)により、「珪岩製旧石器」の発見。
1971年 岩宿ゼロ文化(D地点)とC地点の発掘調査。
1979年 岩宿遺跡が国指定史跡となる(面積187,187.26平方メートル)。
1987年 岩宿遺跡(B地点)の整備事業はじまる。駐車場地点の発掘によって新資料が発見される。
1990年 岩宿ドーム(史跡岩宿遺跡遺構保護観察施設)が開館する。岩宿遺跡東側で石器が出土(岩宿II遺跡)。
1992年 岩宿II遺跡で石器が出土。笠懸野岩宿文化資料館が開館する(10月)。
1999年 岩宿遺跡のある笠懸町で日本考古学協会総会が開かれる(5月)。
2001年 岩宿II遺跡より岩宿III石器文化に相当する石器群が出土。
2006年 「笠懸野岩宿文化資料館」が「岩宿博物館」と名称変更。  
2015・16年 岩宿遺跡F地点が発見され岩宿遺跡の範囲が広がる。
2017年 岩宿遺跡F地点が史跡に追加指定される。

添付資料を見るためにはビューワソフトが必要な場合があります。詳しくはビューワ一覧をご覧ください。(別ウィンドウで開きます。)
2017年 11月 15日更新

教育部 文化財課 岩宿博物館
電話番号:0277-76-1701  FAX番号:0277-76-1703
メールアドレス:iwajukuhaku@city.midori.gunma.jp

https://www.city.midori.gunma.jp/www/contents/1000000000589/


これは群馬県の「みどり市岩宿博物館」のホームぺージのものである。
(https://www.city.midori.gunma.jp/iwajuku/)

ここには、相沢忠洋氏の画期的な発見であった「槍先型尖頭器」の写真は掲載されてはいたが、相沢忠洋氏本人の写真や2001年に建立された相沢忠洋像の写真などは、一切載っていない。どんな事情があるのかは知らないが、これはどうしたことであろうか。

もう少し在野の考古学愛好家である相沢忠洋氏にスポットライトを当てても良かったのではないのかな、否、当てるべきである。参考までの、それらを次に載せておこう。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(30)

2020-09-07 00:00:00 | Weblog

これまたWikipediaと先の書を参考に、地質時代と石器時代の対応表を次に載せる。

地質時代と石器時代の対応表 https://ja.wikipedia.org/wiki/石器時代



大雑把に言って石器時代はこんな具合であろう。しからば、日本列島にはどの時代に人類が住み始めたのであろうか。先の書によれば、日本列島には後期旧石器時代にホモ・サピエンスが住み始めた、という事のようだ。

後期旧石器時代の遺跡としては、群馬県みどり市笠懸町かさかけちょう阿左美地岩宿遺跡が最も有名である。それは、相沢忠洋と言う一民間の考古学愛好家が、納豆売りの家業の合間にそれまでは遺跡はないとされていた関東ローム層の赤土の中から、旧石器を発見したことに始まる。終戦直後の1946年のことである。
だが、この時はまだ誰もそのことを信用することが出来なかった。

しかし1949年の夏に黒曜石の矢じりを発見し、専門的な調査が開始されることとなった。
1949.9.11、明治大学の発掘調査隊が初めて、岩宿の関東ローム層の赤土に調査の杭を入れたのであった。


岩宿遺跡 Iwajuku site

■ 後期旧石器時代 前半~後半 35,000年前 ~ 25,000年前

1 位置


 岩宿遺跡は、群馬県みどり市笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山という小さな丘陵が接する部分に位置し、現在国史跡として指定されている。両毛線岩宿駅より岩宿遺跡・博物館まで歩いて25分である。
 1946年、岩宿遺跡の切り通しの道となっていた部分に露出していた赤土(関東ローム層)から民間考古学者相沢忠洋により石器が採取され、その後の発掘へとつながった。

2 発見の経過

 太平洋戦争が終わる頃まで、日本列島には一万年以上前の関東ローム層中の石器文化、すなわち旧石器時代に相当する縄文時代以前の文化はないと考えられていた。しかし、1949年9月11日、さきの発見をもとに相沢と明治大学が岩宿遺跡の発掘調査を実施したところ、関東ローム層の中から石器が出土し、日本列島にも旧石器時代が存在することがわかった。岩宿はその記念すべき最初の遺跡としてよく知られている。

3 石器群の概要


 岩宿遺跡では、発掘によって二つの石器文化が確認された。下層のものは、岩宿Ⅰ石器文化と呼ばれ、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭のものである(写真)。上層の岩宿Ⅱ石器文化は切出形ナイフ形石器などを含む後期旧石器時代後半(2万5000年前)の石器群である。 岩宿遺跡の地層は岩宿ドームとして保存され、見学できる。また、出土石器は明治大学博物館および岩宿博物館に展示されている。相澤忠洋の業績は、相澤忠洋記念館で知ることができる。
(小菅将夫)(写真提供 岩宿博物館 明治大学博物館)

用語

関東ローム層
黒土(表土)の下にあり、火山灰などが降り積もってできた1万年以上前の赤土

相沢忠洋(あいざわただひろ)
1929年生-1989年没。独学で考古学を学び、納豆の行商などをしながら赤城山麓の遺跡を調査し、岩宿遺跡を発見した。

局部磨製石斧 
主に刃の部分を磨いた石斧。旧石器時代には磨製石器は存在しないといわれていたが、日本の後期旧石器時代初頭にはこの石器が特徴的に存在する

切出形ナイフ形石器 
切り出しナイフに似た形の石器、後期旧石器時代後半期の初めに特徴的にみられる。

http://palaeolithic.jp/sites/iwajuku/index.htm



https://www.mapion.co.jp/map/admi10.html

岩宿遺跡は、上図のみどり市(群馬県みどり市笠懸町阿左美地内)の下部の袋状の真ん中あたりにあり、赤城山は沼田市、桐生市、前橋市の境界当たりにある。みどり市とは、2006年に新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村が合併して市となったものであり、周りは全て(栃木県も含めて)市となっている。市制を敷くにあたり市名を募集してみどり市となった訳だが、岩宿市とか赤城(orあかぎ)市などの方が親しみやすかったのではないのかな。岩宿遺跡がみどり市!と聞くと、何か違和感を感ずるのだが。群馬県に赤城orあかぎの名を冠する市や町がないのは奇異な感じもするものである。

(続く)
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究極の悪、石破茂(6)

2020-09-06 00:00:00 | Weblog

石破氏「民主主義、正しく実現」 総裁選立候補を表明
安倍首相辞任へ 松山尚幹
2020年9月1日 16時55分


自民党総裁選への立候補を表明する石破茂元幹事長=2020年9月1日午後4時30分、東京・永田町、林敏行撮影

 自民党の石破茂元幹事長(63)は1日午後、安倍晋三首相の後継を選ぶ総裁選に立候補することを正式に表明した。石破氏は自身が率いる石破派(19人)の会合後、記者会見を開き、「民主主義が正しく実現する自由民主党でありたい。そういう自由民主党をつくっていくために私は最大限の努力をする」と意欲を語った。

 石破氏は衆院鳥取1区選出で当選11回。防衛相や農林水産相を務め、2012年からの第2次安倍政権以降は党幹事長、地方創生相を務めた。総裁選への立候補は安倍首相と一騎打ちになった前回18年以来で、4回目となる。

 総裁選をめぐっては、岸田文雄政調会長(63)が1日午後、立候補を正式に表明した。菅義偉官房長官(71)も2日夕に表明する。(松山尚幹)

https://www.asahi.com/articles/ASN915JHZN91UTFK016.html?iref=comtop_latestnews_04



と言うことで、冒頭の総裁選の記事へと繋がるのであるが、これに対して小泉進次郎氏はどんな状況なのか、興味のあるところである。

進次郎氏は安倍首相の健康状態に関して、マスコミなどが面白おかしく(かどうかは知らないが)報道することは、好ましくないという意味で、「醜(みにく)い」と(8/25に)発言したようだ。

まあ、一国の総理の健康状態を、面白おかしく(かどうかは知らないが、そんな風に)マスコミが報道することは、この場合日本の政治・経済の動向に何らかの悪影響を及ぼす可能性があるので、良くないと言ったまでだろう。直接的にひどいとは言わずに、「醜い」と表現したものと小生は感ずるものである。

至極当然のことなのだと思う。しかしこのことが気に入らないと、坂上忍が吠えている様だが、一寸違和感がするのである。それほど吠えなければならない表現でもない、と思われるのだが。




坂上忍、安倍首相の健康問題で小泉環境相の「醜い」発言に憤慨…「腹が立ってて…この物言いは気に入らない」
2020年8月27日 12時43分 スポーツ報知


坂上忍

 27日放送のフジテレビ系「バイキング」(前11時55分)で、安倍晋三首相の健康問題について特集した。

 安倍首相は、28日に記者会見を開き、新型コロナウイルス対応を説明する方針で、自身の体調にも言及する見通しとなっている。官邸での記者会見が実現すれば、通常国会閉会翌日の6月18日以来となる。

 番組では小泉進次郎環境相が首相の体調について「今、様々な憶測に基づく議論やうわさ、根掘り葉掘り様々なことが出て、そして尾ひれがついていろんな事が出る状況は私は醜いと思います」と述べたことを伝えた。

 この発言にMCの坂上忍は「腹が立ってて」と明かし「醜いっていうのは、日本のトップリーダーの健康状態は国民にとって関心事であり、不安になるわけじゃないですか。だから知りたいわけなんです。でも知れないわけです。だから憶測が飛び交うわけじゃないですか。だからこそ明日総理が会見をなさるわけであって、僕ちょっとこの物言いは気に入らないんです」とコメントしていた。

https://hochi.news/articles/20200827-OHT1T50125.html



まあこの表現の何に気が障ったのかは知らないが、一寸読んだだけでは「憶測が飛び交っても仕方がない」と坂上忍は割り切って考えているようにも感ずる。こちらの物言いの方がひどいものではないのかな。

「憶測が飛び交っても仕方がない」とは思っているかどうかはさておいて、それよりもそのことが「醜(みにく)い」と表現するほどのことでは無いと、直感的に感じていらしゃっているのではないのかな。

しからば「醜い」というほどのことでは無いとすると、どのように表現するのか。というよりも、「憶測が飛び交って当然だ」と、多分感じていらっしゃるのではないのか。

これこそが傲慢のなせる業なのである、と小生には感ずるのであるが。

坂上忍はこのところ、TVなどで大きな顔をして吠えているようなので、かなり傲慢になっているのではないのかな。その傲慢さに、小泉進次郎氏という有名人の「醜い」という言葉が、刺さってしまったのかな、と感ずるのである。

普通に読めば、何ともない言葉なのだが、そのことに敏感に反応した、意識的に反応したのだろう。


丁度、立憲民主党の石垣のり子参議院議員のツイートと同じものなのではないだろうか。




石垣のりこ
@norinotes
総理といえども「働く人」。健康を理由とした辞職は当然の権利。回復をお祈り致します。 が、「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物」を総理総裁に担ぎ続けてきた自民党の「選任責任」は厳しく問われるべきです。その責任を問い政治空白を生じさせないためにも早期の国会開会を求めます
3:53 PM · Aug 28, 2020

https://biz-journal.jp/2020/08/post_176739.html



これに対して立憲民主党は、石垣のり子氏に対して、「厳重注意処分」を口頭で伝えている。

石垣のり子氏はそれなりに謝罪している様だが、リプライ欄には、批判もある反面、賛意を示すリプもあり、石垣のり子は心底から過ちとは認めていないようだ。

これでは野党の在り方が問われてしまう良い例となってしまうではないのかな。



石垣議員「体を壊す癖」投稿を改めて謝罪「拙い表現で反省」党から口頭厳重注意処分
2020.08.31


安倍晋三首相

 立憲民主党の石垣のりこ参院議員が31日夜、ツイッターに新規投稿。28日に持病の潰瘍性大腸炎を理由に辞任表明した安倍晋三首相に関して「大事な時に体を壊す癖がある」などとツイートしたことから批判が殺到して同日深夜に謝罪後、改めてこの日、「拙い表現で反省」と謝罪した

 石垣氏は自身のアカウント(@norinotes)で「本日、我が党の福山幹事長ならびに長浜参院会長より『口頭厳重注意処分』を頂戴しました」と明かし、「私の発言は疾病やそのリスクを抱える方々に向けたものでは決してありません。しかし、解釈の余地を残す拙い表現で、意図せず傷つけてしまった方たちがおられることには、改めて深く反省しお詫びを申し上げます」(以上、31日午後8時51分投稿)とつづった。

 さらに、同氏は連続投稿。「今後は、表現をさらに洗練させることに努め、時代の空気に屈せず、また、権力に萎縮することなく、政治家として言うべきことは毅然と発言する姿勢を貫いてまいります」(31日午後8時51分投稿)と、自身の姿勢を貫く覚悟を示した。

 リプ欄には「怒りしか感じません」「安倍総理の事を言ったとしても、あの文面だと疾患を持つ者、病弱な方が全て対象です」といった批判の半面、「支持します。#石垣議員は辞職する必要ありません」「常識を逸する発言を自民党の副総裁をはじめ多くの方々がしているのでお気になさらず」「説明責任も果たさず無責任にも総理を辞任する安倍総理への国民の計り知れない怒りを国民の代わりに代弁してくれただけであり病気で苦しむ人達へ発言したものではない事は明らかにわかります」などと支持する声も相次いだ。

https://www.daily.co.jp/gossip/2020/08/31/0013653782.shtml



何はともあれ、困窮者に30万円給付を全員に10万円給付といとも簡単に替えられてしまった岸田文雄政調会長よりも、菅さんが良いよと安倍さんは言った様だが、菅義偉と言う人物は、どんな総理となるのであろうか、まあある種の楽しみがある。
(終わり)
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究極の悪、石破茂(5)

2020-09-05 00:00:00 | Weblog

橋下徹氏は、石破茂に対して離党を勧告している。そして野党の党首として頑張れと諭している。まあ、石破には、野党の党首の資質があるかは別として、それが相応しいのではないのかな。


橋下徹氏、石破茂氏に離党の勧め「野党に行って党首として自民と戦えばいいじゃないですか?」
2020年9月1日 15時18分スポーツ報知 # 社会

橋下徹氏

 1日放送のフジテレビ系「直撃LIVE グッディ!」(月~金曜・後1時45分)では、安倍晋三首相(65)の辞任に伴う自民党総裁選の行方について特集した。

 この日の番組には元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏(51)が生出演。この日、自民党総務会が総裁選の党員投票見送りを決め、次期総理に菅義偉官房長官(71)が最有力に。出馬を明言している石破茂元幹事長(63)が早くも“敗色濃厚”となったことについて、「石破さんは1回、(自民党から)出ていますよね。1回、外に出ている人が戻ってきた場合、自民党の人たちは絶対、出世させないって思いますよね。そういうことをやらないと、どんどん勝手に出ていくじゃないですか? だから、組織を守るためにも絶対に石破さんを出世させないですよ」と説明。

 その上で「石破さんは国民的人気があります。もう、63歳ですか? 政治家人生って、もう20、30年とないので、石破さんみたいな立場になったら、僕なら外に出ちゃいますけどね。野党で勝負したらいいじゃないですか? 国民的人気があるんだから」と話し、「野党に行って党首として自民と戦えばいいじゃないですか? このまま、自民の中でこういう形で人生終わられるのなら、自分の政治家人生かけて野党で勝負して、国民に訴えかけたらと思いますけどね」と、石破氏に離党を勧めた。

 その上で「今の立憲民主や国民民主に石破さんみたいな国民的人気のある顔になる議員はいませんからね。立憲や国民にも石破さんに来て欲しい人はいるんじゃないですか?」と“受け皿”まで推測していた。

https://hochi.news/articles/20200901-OHT1T50162.html


これに対して日刊ゲンダイは辛らつだ。本当がどうかは知らないが、石破への切り崩しが進んでいるという。まあこの日刊ゲンダイはかなり偏向しているが、参照願う。


菅・二階“石破潰し”壮絶…推薦人集まらず総裁選出馬断念か
公開日:2020/08/31 13:50 更新日:2020/08/31 14:14


菅・二階陣営の凄まじい切り崩し…(自民党の石破茂元幹事長)/(C)日刊ゲンダイ拡大する

「菅後継」の流れが強まっている“ポスト安倍”の自民党総裁選。ファイティングポーズを取ってきた石破茂元幹事長(63)が、突然、弱気になっている。不出馬も取り沙汰されはじめた。

 過去3回、総裁選に出馬している石破氏。安倍首相が退陣表明した28日にも「20人の推薦があれば、やらねばならない。そう遅くない時期に判断したい」と出馬への意欲を語っていた。

 ところが、30日出馬について、「党員が選んだという正統性がなければ、強力な政治を進める上でハンディになる」と、党員投票が実施されるかどうかを見定めてから判断する、と答えたのだ。党員投票が行われるフルスペックの総裁選が実施されず、両院議員総会で決まる場合は、出馬しないと宣言したも同然だ

 しかも、不出馬の可能性について問われると「いま、言及はしない」と言葉を濁す始末だった


 一体なにがあったのか。

「総裁選に出馬するためには、20人の推薦人が必要です。なのに、石破派は19人しかいない。そのうえ、メンバー19人のうち4~5人が、菅・二階陣営に切り崩されてしまったといいます。空手形の可能性もありますが、大臣ポストを約束された議員もいるようです。しかも、切り崩しは続いている。20人の推薦人を集められない可能性もある。石破さんの周辺は、両院議員総会だけで選ぶ総裁選なら出馬を見送ると、もっともらしい説明を用意しているようですが、出馬したくても足元を崩され、出馬できないのが実態でしょう」(自民党関係者)

 30日の石破派の会合も、出席者は10人前後だったという。派内では「あいつは裏切ったらしい」と疑心暗鬼が広がっている。

 ある石破派議員は、官邸サイドに「総裁選があっても、両院議員総会での選挙だったら石破は出ない。その代わりに石破派に大臣ポストを配分して欲しい」と持ちかけた、という情報も流れている。



「菅・二階陣営は、石破氏の出馬だけは潰したいようです。たとえ、菅さんが新総裁に選ばれても、支持率34%と国民人気1位の石破が党内選挙で敗れ、支持率14%(2位)と人気の劣る菅さんが勝利したら、菅政権は人気が出ない。ベストなのは、菅さんより支持率が低い岸田文雄(7%)との一騎打ちにし、菅さんが圧勝するシナリオです。これなら、国民の歓迎ムードを演出できますからね」(政界関係者)

 老獪な菅・二階陣営のシナリオ通りに進んでいる。

ポスト安倍のトップはダントツで石破元幹事長

 ポスト安倍のトップはダントツで石破元幹事長――安倍首相の突然の退陣表明を受けて行われた複数の世論調査で、こんな結果が出た。

 共同通信社の世論調査(29、30日実施)で「次期首相に誰がふさわしいか」と聞いたところ、石破元幹事長が34.3%でトップとなり、菅官房長官14.3%、河野防衛相13.6%を大きく引き離した。2018年の総裁選で、安倍に党員らによる地方票で善戦した石破氏への期待の高さが表れた格好だ。4位以下は小泉環境相10.1%、岸田政調会長7.5%の順。

 日本経済新聞社とテレビ東京の世論調査(29、30日実施)でも「次の首相にふさわしい人」のトップは石破で28%。以下は河野15%、小泉14%、菅11%、岸田6%と続いた。自民支持層に絞って分析すると、石破28%、河野18%、菅16%、小泉13%、岸田9%だった。

 自民党総裁選が国会議員票や各都道府県連票だけで行われ、国民や一般党員の抜きんでた支持が集まる石破氏がはずれ、人気のない菅氏と岸田氏の争いとなれば、国民はドッチラケ

 どちらが勝っても“談合総理”のそしりは免れない。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/278033/4



世論調査では断トツでも、今石破は、眠れない夜を過ごしているのではないのかな。

不実、不公正、無責任」ではあるが、今迄のいきさつ上立候補しない訳にはいかないのだ。
9/1に正式に立候補を表明している。しかし何も言うことがないのか、「民主主義を正しく実現したい」などと屁にもならないことを掲げている。どうせならアベノミクスに代わるイシバミクスを象徴的に掲げるなどの工夫が必要だったのではないのかな。それがないと言うことは、特に主義主張がない、と言うことなのだ。一応人気投票では断トツだと言うが、国民には「不実、不公正、無責任」振りが分かっていないかも知れない。だから人気投票は当てにならないというのだ。

(続く)
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