また、オルドスの西南方には、かつて甘粛省の東端がふかく入りこんでいたが、その一角(慶陽=チンヤン)において、リサンは一九二〇年、いまは絶滅した動物の化石を、多量に発見した。
さらに、その上をおおっている黄土層の下部から、いくつかの石英のかけらを見つけだしたのである。
この石片には、たしかに人間の手で加工したあとが認められた。そうすると、ふつうの石ではない。
人間がつくった石器ではないのか。しかも、出土した地層から考えると、いわゆる旧石器ではないのか。
それが旧石器ならば、中国大陸にも旧石器時代から人類が住みついていたことになろう。
もちろん、このころは北京人類の存在など、知られてはいなかった。
周口店における原人類の化石が公表されたのは、それから六年後のことなのである。
(注)Wikipediaによれば、1921年にスウェーデン人の地質学者が歯の化石を発見しており、1929年には中国人の考古学者が完全な頭蓋骨を発掘している、と記されている。70~80万年前のものだと書かれている。シナンチロプス・ペキネンシスは旧学名で、現在はホモ・エレクトス・ペキネンシスが正式名称のようだ。
リサンの調査はつづいた。一九二三年から二四年にかけては、テヤール・ド・シャルダンの協力をえて、オルドス方面をしらべまわった。
テヤールはフランスにおける古生物学の権威である。そうして二人はオルドスの南辺を走る長城線の西端に近い水洞溝というところで、ついに確実な旧石器時代の住居址を発見したのであった。
水洞溝の遺跡からは、たくさんの打製石器が見つけだされた。
これらの石器をつくるにあたって、けずりとられた石片も、五〇センチの厚さの層のなかにちらばっていた。
その全体の重量は五キロをこえた。炉のあとからは、木炭片も採集された。
また、おそらく食用に供したのであろう、野生のロバの骨片もあった。
さらにリサンは、オルドス砂漠のなか(シャラ・オソ・ゴル)からも、太古の動物の化石といっしょに、旧石器の類を見つけだした。
骨に彫刻をほどこした遺物まであった。これもまた疑いもなく、人類の住んでいた遺跡である。
しかし残念なことに、当時の人類の遺骨を発見することはできなかった。
わずかに砂漠の地表から、旧石器時代人のものかと思われる犬歯を、ひろうことができただけであった。
オルドスの人類は、いつごろの、どのような人類だったのであろうか。
当の人類の骨、それも頭骨のような、重要な部分が見つからなかったから、確実なことはいえない。
しかし石器のつくりかたなどをみると、ヨーロッパ旧石器の中期あたりのものと、似かよっている。
いっしょに出土した動植物の化石などについても、ほぼ同様のことが認められる。
そこから、オルドス人類は、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と、ほぼ同じ段階のものと推定された。
やがて中国ではシナントロプス(北京原人)が発見された。
これはもちろん旧石器の初期に属するもので、いまから五十万年ほど前にあらわれたものと推定される。
それにくらべると、オルドス人類はずっと新しい。
といっても、いまから十万年あまりは隔たっているのであろう。
何十万年といえば、気の遠くなるような長い期間である。その長い期間のあいだに、中国大陸においても、人類は住みよい環境をもとめながら、場所をかえつつ、しかも進化をつづけていったのである。
そうして旧石器時代の末期になると、中国の北部には、春のおとずれとともに西北方のゴピ砂漠から、つめたい風が吹きこんでくる。
このころは、地質学のうえでいう第四氷河期にあたっていた。その影響が中国にもおよんだのである。
内陸からの風は、おそるべき量の黄色い砂塵(さじん)をはこんだ。
それは五万年ちかくにもわたって、中国の北部に降りそそいだ。
黄色い土は、こうして大地に積もってゆく。その高さは、ところによっては二〇〇メートルをこえた。
いまや中国の北部は、黄土におおわれた高原となった。
その間、人類は洞穴を住み家として、きびしい自然に対したのであろうか。
北京の西南方にある周口店の石灰岩の丘の上部で見いだされたいわゆる「上洞」の遺跡は、そのころの人々の生活や埋葬の仕方をしめしている。
やがて氷河時代が終わると、中国にも暖かい気候がおとずれた。
砂にかわって、雨が降る。黄土の高原の上に、たくさんの川が流れはじめた。
川は黄土をけずりとり、ふかい谷をつくりながら、黄土を下流へとはこんだ。
そのなかで、もっとも大きな川が黄河である。
大地の様相が一変したのにともなって、人類も新しい生活にはいっていった。
黄土地帯
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http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/W/akebono/ake8.htm
この水洞溝の遺跡の発見・発掘は、フランス人の自然科学者であった宣教師のエミール・リサンとテヤール・ド・シャルダンの協力のたまものであったが、彼らの働きがなければ、この水洞溝遺跡の発見はなかったものであろう。
(続く)