世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

ヨーロッパと日本(1)

2008-10-09 17:02:06 | Weblog

遠く話をヨーロッパのフランスに持っていこう。

1.フランス革命と革命戦争(1789年~1802年)

18世紀後半のフランスでは、ブルボン王朝のルイ16世の時代が終わりを迎えようとしていた。1789年7月14日、アンシャン・レジーム体制(旧体制、王政封建体制)に不満を募らせていた民衆(第3身分)が、当時は火薬庫であったバスチューユ牢獄を襲撃した。このパリでの事件がフランス全土に飛び火した。農民達が暴動を起こし、貴族や領主の館を襲い、借金の証文などを焼き捨てると言う事件が頻発した。これが世に言う、フランス革命1789年7月14日~1794年7月27日)の始まりである。

これらの動きを受け、国民議会は封建的特権の廃止を宣言し、8月26日に人権宣言を採択した。しかし国王はまだ主権者であった。しかし政治的な混乱とパリの騒乱が拡大し、ルイ16世はこれらの圧力により人権宣言を承認せざるを得ず、更にはヴェルサイユ宮殿を離れ、テュイルリー宮殿でパリ市民の監視の下で生活を送ることとなる。1791年には、過激化する革命を嫌いオーストリアへの逃亡を企てるが、国境手前のヴァレンヌで地元民衆に見つかり1791年6月25日、パリに連れ戻される。(ヴァレンヌ事件

このヴァレンヌ事件を知り、革命の波及を恐れたオーストリアとプロイセンが、ドレスデンのピルニッツ城で会見し、必要あればフランス革命に干渉する用意があることを、共同で宣言した。1791年8月27日ピルニッツ宣言である。なおオーストリア・ハプスブルグ家のレオポルト2世は、ルイ16世の妻・マリーアントワネットの兄である。このため、ルイ16世は国王に留まる事となるが民衆の支持は低下し、1791年9月には、君主制下でも平民に一定の選挙権を認める憲法が正式に制定される。(1791年憲法

しかし革命政府はこのピルニッツ宣言を重大な脅迫と受け止め、革命維持のため対外戦争に踏み切ることとなる。1792年4月20日、革命政府はオーストリアに宣戦布告する。これがフランス革命戦争1792年4月20日~1802年3月25日)である。当初革命戦争は各地で敗退を続けた。フランス軍の士官達は貴族階級であったため、革命政府にはどちらかと言うと非協力的であった。しかしプロイセンがフランス領内に侵入すると政府は祖国の危機を全土に訴え、それに応じてフランス各地で義勇兵が組織されパリに集結した。このときマルセイユの義勇兵達が歌っていた「ラ・マルセイエーズ」は後にフランスの国歌となる。パリ市民と義勇兵達は、負ける原因は戦争に非協力的なルイ16世にあると考えて、1792年8月10日、テュイルリー宮殿を攻撃し、王権を停止して国王一家を全員ダンブル塔に幽閉してしまった。(8月10日事件

そして反革命派達に対する9月虐殺が行われ、9月20日のフランス北東部のマルヌ県ヴァルミー村の戦いでプロイセン軍を退却に追い込み、これを期に反攻に転じ敵軍を国境外まで押し戻すことができた。この過程で第3身分に属する下層民階級は多くが義勇兵に参加し、政治的発言力を増していった。攻勢に転じたフランス軍はオーストリア軍にも勝利し、南ネーデルランド全域を占領する。

そしてこの9月には1791年憲法による立法議会が廃止され、普通選挙が制度化され、新しい議会「国民公会」の議員が選ばれた。そして1792年9月21日、国民公会は王政廃止とフランス第一共和政の樹立を宣言した。共和政府はルイ16世を裁判にかけ、僅差で死刑を議決した。そして、1793年1月21日、2万人の市民が見守る中、ルイ16世はパリ革命広場(現コンコルド広場)でギロチンの露と消えた。マリー・アントワネットも1793年10月にギロチンで処刑されている。

この間イギリスも黙っていたわけではない。1793年1月にはイギリスを中心とした主要国間で第1次対仏大同盟が結成された。そのためフランスは2月1日にイギリスとオランダに宣戦布告する。そのためオランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命する。

政界では、第3身分代表として進出していたロベスピエールが、1793年6月2日国民公会で他派を追放し権力を掌握し、恐怖政治を断行する。そのためフランス革命戦争が好転すると、1794年7月27日反ロベスピエール派は結束してロベスピエール一派を逮捕し、翌日ロベスピエール等はギロチンで処刑されてしまう(テルミドールのクーデター、テルミドール9日)。これにより過激な革命運動は沈静化し、フランス革命は終結する。

一進一退を続けていたフランス軍は徴兵制による大動員により大兵力となり、有利に戦争を進め、その軍隊は巨大な国民軍に替わっていった。そして1795年初頭大挙してオランダに攻勢をかけ、完全に占領してしまう。そして戦線はイタリア、エジプトと拡大し、1798年12月イギリス、オーストリア、ロシアなどによって第2次対仏大同盟が結成される。この頃フランスでは、ナポレオン・ボナパルトが頭角を現している。彼は、1799年ブルュメールのクーデターにより、執政政府を樹立し独裁権を掌握している。
(続く)
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