(6)金沢第9師団歩兵第6旅団歩兵第7連隊・伍長、喜多留治氏(89)
「難民区の掃討は14,15,16日の3日間でございますが、7項目★にわたって厳重な注意厳命がございまして、外国権益の留意、……、将校の指揮する掃討でなければ認めない…」と言うように非常に秩序だって行われ、更に
「滞在期間中、一発の銃声もなかった。聞きもせず、撃ちもしませんでした。」と言うものだった。
★7項目とは
難民区(安全地帯)に入った部隊には7つの厳命が下されており、非常に秩序立てて難民区の管理は行われていた。
その7項目とは、http://nonbe.way-nifty.com/blog/2007/12/post_2ae8.htmlによれば、
1.外国権益に留意
2.住民に対し配慮
3.失火や放火には厳重注意
4.将校の指揮下で敗残兵掃討作戦を実行(下士官の指揮ではだめ)
5.無用の部隊侵入は厳禁(富山・金沢の部隊のみ)
6.出発の帰還の時間厳守(夕刻には戻る)
7.捕虜は一カ所に集め、食料は師団に請求
そのため、
・安全地帯の人口は占領前後で20万人で変化なし。
・日本軍が入場後治安が回復し、商売を始める者も出る。下記(7)項参照。
・そのため現地調達がうまくゆき、食料事情は良好だった。
・徴発にも原則がありしっかり守られていた。
(1)司令部の見える範囲で徴発
(2)住民の居るところでは1/3以内で受取伝票(半券)と費用の支払い
(3)住民の居ないところでは外にあるものの内1/2以内、その場合受取伝票の半券を貼付する。住民は後で日本軍に費用を請求。
・以上のように、日本軍に対する住民感情はまことに良好で、日本軍による一切の 虐殺や略奪は見聞されていないのである。
(7) 金沢第9師団歩兵第18旅団第36連隊・伍長、近藤平太夫氏(93)
1937年(昭和12年)12年20日前後の事を次のように語る。
「中国人はあまり見かけなかったが、公園には露店が何軒か出ていて、日本兵相手の商売をしていました。靴修理店、散髪屋…。一軒の印鑑屋で、南京入城記念の印鑑を作れと進められ、水牛の角の印鑑を注文した。…翌日たった私一人で取りに行きました。」と平和なものだったと言う。
(8) 京都第16師団輜重兵第16連隊・獣医少尉、稲垣清氏(97)
稲垣氏も水牛の角で印鑑を作っている。そして、中島師団長の日記について述べている。
「…日記は全部反対に解釈されとるように思えますわ。…捕虜収容所もあり、監視を命じられましたが、夜には何人か逃げたりもしとりましたわ。上層部も逃げたいなら逃がしてやればええ、と言う考えでそうしとったんだと思ってましたな」と言い、更には
「陥落の3日後に中山門から入城したとき8ミリで撮影したのですが、住民は一人も見当たりません。駐屯してから、城内の野戦倉庫と揚子江方面の下関の野戦倉庫の間を、10キロくらいありますが5往復しております。その際、私どもつぶさに見たのでありますが、中国兵の死体は一人も見ておりません。それから、南京大虐殺記念館で発行したアルバムに収録されている地図に、(虐殺者数が)ここで何万、ここで何万と書かれてございます。その場所に私は、軍に用意されたBMWのサイドカーに乗って行っておりますが、まるきり綺麗なもんでございまして、死体があった痕跡も、ひとつも見ておりません。」
と述べている。
(9)以上の証言からすると、「南京大虐殺」などと言うものはもともとこの世には存在しないもので、「中国の虚妄のプロパガンダ」そのものである。
マントヒヒ胡錦濤の微笑外交は全くの欺瞞であることがわかる。
政治ジャーナリストの花岡信昭氏の感想としてここに述べられている文を引用する。
「参戦した方々の証言によって、30万と言う数字が中国政府のプロパガンダであることが明らかになりました。中でも画期的だったのは、南京入場に際に人っ子一人居なかった、と言う証言です。南京には難民区があり、そこ以外には人が居なかったのです。また、日本軍の入場後数日で露店が立ち並んだと言う話です。
そんな状況下で虐殺が起こりうるものでしょうか。」
』
しかも中華門から入場した兵士の証言として、「城内はがらんとして、人影はありませんでした」とある様に、南京市街には人は一人もいなかったのであり、虐殺など出来ようがありません。全員は安全区にいたのであり、しかもその人数は25万人という膨大な数でした、30万人には届かなかったのである。
これだけの証拠があるにも拘らず中国共産党政権は虚妄の「南京大虐殺記念館」まで建てて、世の中に「虚妄のプロパガンダ」をしているのであり、なんとみすぼらしいいことか、中国は。
(続く)
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