中国共産党政府は、昔も今も、平気で嘘をつくのである。核汚染水宣伝などは、そのよい例である。これも日本産水産物禁輸と言うものの、実態は半導体規制に対する対抗措置の一つであるようだ。
南京大虐殺で30万人が殺されたと中国共産党政府が宣伝していることは、そのもっともよい「捏造」事例である。もしも本当に30万人がこの世からいなくなったということであれば、それは喜ばしいことであるがそうではないのである。
次にそれが真っ赤なウソであることを説明しよう。
これも「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP109~110に書かれていることであるが、安全区の組織・国際委員会の金陵女子大学教授のミニー・ヴォートリン教授の日記が紹介されているので、引用する。
『「12月14日午後4時30分、国際委員会のミルズの車に同乗して教会信者の家の安否を確かめるために南京南部の水西門まで出かけましたが、全く異常なく、岐路ヒルクレスト学校付近で死体を一つ見ただけでした。すさまじい砲撃が(攻撃時に)あった割に死者は少なかった」
と感想を書いています。彼女は長距離ドライブをしましたが、日本軍の暴行は全く見ていませんでした。つまり戦闘はおろか、暴虐行為なるものも全く見ていなかったことを示しています。』
水西門は、先の南京市街図でいえば、左側の下半分のところにある門である。
そして安全区に多数の中国兵が潜入していることがわかり、大量の兵器と共に摘発されている。「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP110参照。
大量の兵器
戦車4台、戦車砲弾3万9千発
手榴弾5万発、小銃960丁、同実包39万発
迫撃砲10門、同弾薬5万発
兵士6,670名
そして安全区の全住民を対象に、便意兵と分離するために、平民登録を12/24から行っている。
そして良民と認められたものには「良民証」が交付されている。
12/24から1/7までかかった住民登録の結果総人口は、なんと20万人と見積もられていたものが、25万人までに増加していたのであった。
こうして南京の治安は回復し、南京自治委員会なるものが成立している。
このように住民登録を行った結果、南京市の人口は25万人と判明したのであり、中国共産党の言う「南京大虐殺30万人」は、真っ赤なウソであることが証明されるものである。
尚、当時実際に南京戦に参戦した兵士の証言記録が、週刊新潮の2007年12月20日号に掲載されているが、その内容を小生のブログ「中国・虚妄のプロバガンダ」(2008.2.8~)で紹介しているので、ぜひ参照願いたいのだが、そこには虐殺のギャの字もなく沢山の人が平和裏に商売を始めている様子が見てとれるのである。日本軍による虐殺や略奪は一切見聞きされていないのである。
念の為、そこある9人の元兵士の証言を次に載せておく。
是非小生のブログ「中国・虚妄のプロバガンダ」(2008.2.8~)を参照願う。
『
・内容「9人の元兵士の話を基に当時の南京の様子を再現する。」
以下、整理して彼らの証言を記載してみよう。
(1) 熊本第6師団歩兵第11旅団歩兵第13連隊・上等兵、永田尚武氏(92才)-文書で証言
「12月5日から10日、雨花台(南京城の南)までの道のりは楽なものでした。各隊ともワイワイ言いながら進み、敵前の戦闘もなく、中国住民ともほとんど会いませんとでした。……住民は逃げていませんでしたので、トラブルはありませんでした。雨花台からは激戦で苦労しました。……」
(2) 同連隊第1大隊・伍長、古沢智氏(91)-文書で証言。
「…雨花台街は全くの廃墟で、清野作戦(焦土作戦)の影響で何もありませんでした。 12日深夜から13日早朝にかけて、敵は城門を閉めて逃亡した。……城門内で日本兵の攻撃を食い止める使命を帯びた中国兵は取り残され、哀れにも我々の銃火に殺されました。」
(3) 金沢第9師団歩兵第18旅団司令部・軍曹、齋藤敏胤氏(91)
光華門突入の激戦について、直接語る。
「(12日の)午後5時ごろ、連隊長が突入を命じましたが、…二重の門内に閉じ込められ…反撃したが負傷者が続出…大隊長の”名誉の戦死”を経て、13日朝突入、夕刻ようやく占領に至った。」
(4) 熊本第6師団歩兵第11旅団歩兵第13連隊第1大隊・伍長、古沢智氏(91)(前出)
「中華門から入りましたが、門は四重になっていて、土嚢が積まれていたのですが……。大きな通りを北上して進んでいきました。城内はガランとして、人影はありませんでした」
--どうやら、市民は難民区に集まっていたのだ。そこは一般市民を保護するための区域で、同時に多くの敗残兵や、平服に身を隠した便衣兵が潜んでいた。日本軍は敗残兵を掃討する名目で、この難民区の市民を多数殺した、と中国側は主張するが、
(5) 金沢第9師団歩兵第18旅団司令部・軍曹、齋藤敏胤氏(91)(前出)
「12月20日前後、連隊長が…南京城内を見学され、難民区の前に行きまして、小姓に”入れろ”といってのですが、”許可のない方は入れません”と言われ、そのままお帰りになりました。」
「20日ごろ、紫金山に入り…、南京を見ますと、銃声も聞こえない、火災も起きていない、本当に平和な町でございました。」
--ただし、当然ながら敗残兵の掃討は行われた。
(続く)
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