先に載せたこの表現・「手に鐸サナギ着けたる矛を持ちて、・・・巧みに俳優ワザオキを成し、相ともに歌い舞わしむ」は、矛と鐸が同時に使われていることから、いわゆる銅鐸文化圏・銅矛文化圏なる区分けは、間違ったものであると言える。矛も鐸も同時に使われていたのである。
どうせ分けるなら、銅鐸と鉄鐸と言うように、銅と鉄とで分けた方が歴史的事実には合っていることになる。
『天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて、』とあるように、ここに出てくる矛も鐸も鉄製であった。だから銅製はそれほど必要がなかったことになる。
だから伊邪那岐・伊邪那美の二神が天津神から賜った「天の沼矛」も鉄矛であり、須佐之男命が八岐大蛇を退治した時の十拳トツカノ剣ツルギも、大蛇の尾から見つかった剣ツルギ(天の叢雲の剣)も「刃こぼれした」との表現があるから、みな鉄剣である、と先の書(長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社))には記されている。
さて次は、「葦の根」から褐鉄鉱が採れた話に移ろう。先の書では、175頁からその話になっているので、それを次にまとめてみる。
これが古事記に言う「豊葦原の瑞穂の国」の豊葦原ということなのである。鉄と関係している。
しかし一般的には、次のような解釈が一般的であろう。これは間違いではないが、正しくはない。
山梨県立図書館 (2110005) 2011年04月27日 13時44分
「とよあしはらのみずほのくに」という日本の国名の呼び方はいつ頃使われていたものか。
「豊葦原瑞穂国」は古代神話の中の国土の美称の一つ。「古事記」「日本書紀」に見える。
1.『国史大辞典』第10巻(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1997年)「とよあしはらみずほのくに 豊葦原瑞穂国」の項→古代神話の中の国土の美称の一つ。「古事記」「日本書紀」に見える。豊葦原瑞穂国は「豊葦原千五百秋瑞穂国」の簡略体で、意味は「葦の穂の豊かにめでたく生いしげる国」。国土を表す和風の美称には、ほかに「(豊)葦原中国(あしはらのなかつくに)」「大八嶋(洲)国」(記紀)がある。豊葦原瑞穂国は葦原中国とともに、神話展開上、降臨の詔以下天孫神武天皇の統治以前に用いられる呼称。
2.『国史大辞典』第11巻(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1990年)「にほん 日本」の項→「国号」の小項目あり。わが国の古い呼称として、次のものが挙げられている。
・大八洲(おおやしまくに)※「養老令」
・大八洲(島)国(おおやしまくに)※「古事記」、「日本書紀」神代
・葦原中国(あしはらなかつくに)※「古事記」、「日本書紀」神代
・豊葦原之千秋長五百秋之瑞穂国(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほのくに)※「日本書紀」神代
・豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)※「日本書紀」神代
・秋津島(洲)※「古事記」、「日本書紀」神武記・孝安記
・大日本豊秋津洲(おおやまととよあきずしま)※「日本書紀」神代
また、天平勝宝4(752)年ごろから「大和国(やまとのくに)」(「万葉集」)が用いられるようになり、以後、日本の国名にも「大和」が一般に用いられるようになった。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000085724
これはまさに字面通りの解釈であるが、何故葦原なのかには答えていない。
次の解釈は最も一般的な解釈で、小生もそのように感じていたが、何故葦原なのかへの回答はできていない。
日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。
降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ 松ぞ雄々しき人もかくあれ
豊葦原の瑞穂の国
古来より、わが国の美称として、「豊葦原瑞穂国」と言ってきましたが、正式には、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(とよあしはらの ちあきのながいほあきの みずほのくに)と言い、千年も五百年も悠久に続く、 稲穂の実る美(うま)し国という意味でもあります。
建国以来、我国は皇尊(すめらみこと・天皇陛下)による慈愛と和の国でした。
紀元前660年2月11日(皇紀元年)初代神武天皇が畝傍山の東南、現在の橿原神宮に都を開かれるにあたり、詔を発せられた。この「即位建都の詔」に、以来連綿として継承される日本国の理念と天皇の御心を伺う事ができます。
(略)
https://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/44261239.html
(続く)
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