九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「本土決戦計画」  へそ曲がり

2006年09月23日 12時08分17秒 | Weblog
 戦前の歴史を“あの時代は良かった”と言っている人がいる。これから述べることについてどれだけ知っているのだろうか?
「改憲論者」の殆どは「ポツダム宣言」の受諾を認めない。ごく一部にはしぶしぶ認める者もいるが・・・・。
 もう1年戦争を続けていたらどうなっていただろうか。

「本土決戦」とはどういうものであったか?国民の前にはどんな運命が待っていただろうか。「狂気」の時代であった。
 
 連合軍には「沖縄戦」以後の作戦計画が出来上がっていた。「ダウン・フォール」作戦である。
 作戦は2つに分かれていた。1つは45年11月に九州へ上陸するという「オリンピック作戦」、もう1つは46年3月に関東平野に上陸して日本を分断するという「コロネット作戦」である。

 一方、日本側はこのことを知っていた。対抗する作戦を「決号作戦」と名付けた。国民には「本土決戦」・「一億総特攻」・「一億玉砕」というスローガンが呼び掛けられた。

 具体的にはどんな対策だったか。その一部である。
 
 45年6月に「義勇兵役法」が制定された。「国民皆兵」である。終戦の2か月前であった。中を見ると「勅令」という言葉がやたら目立つ。拒否すれば罰則が付く。

“七条 義勇召集ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ処ス
 2 故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ一年以下ノ禁錮ニ処ス”

 現実性が全くない。1年も2年も続くと思ったのだろうか?しかも全土が戦場である。どこへ収容するのか?
 全員が「軍人」であるから、「陸軍刑法」を適用されて「死刑」判決を受け、その場で「銃殺」されたのではないかと思う。

 大本営陸軍部は「国民抗戦必携」という小冊子を配布していた。そこでは国民が用意すべき武器が書かれていた。
「刀剣、槍、竹槍、鎌、鉈、玄能、出刃包丁、鳶口」などなど。
 出刃包丁を手に、槍ぶすまのように並んだ機関銃や火炎放射器、さらには戦車に向かって突撃していく姿を想像して欲しい。
 
 こうも書かれていた。
「刀や槍を用いる場合は斬撃や横払いよりも背の高い敵兵の腹部目がけてぐさりと突き刺した方が効果がある・・・・格闘になったら『みずおち』を突くか、睾丸を蹴る。あるいは唐手、柔道の手を用いて絞殺する。1人1殺でよい。とにかくあらゆる手を用いてなんとしてでも敵を殺さねばならない」、と。
 格闘する前に殺されているだろう。
 
 特攻攻撃機としては「剣」甲型(キー115)や「タ号特別攻撃機」の生産を急がせていた。主翼以外の材料は鋼管、ブリキ、ベニヤ板などの簡単に手に入るもので作られた。1回使えばよいのである。離陸したら車輪が脱落してしまうようになっていた。着陸など必要が無かったからである。操縦性は最悪で、とても扱い切れるものではなかった。実用化のための改修中に終戦となった。
 
 海軍も考えた。潜水服を着用した兵士を海中に忍ばせ、棒の先に爆薬を装備し、進攻してきた敵の上陸用舟艇を下から突き、自分もろとも爆破させようとする作戦である。爆雷の数発も投下されたら全滅である。
 
 なお、作戦決行の前に、足手纏いになる赤子・幼児・老人などは「殺害」する計画もあった。45年4月に大本営陸軍部が出した「国土決戦教令」に明記されている。
“「敵ハ住民,婦女,老幼ヲ先頭二立テテ前進シ我ガ戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ 斯カル場合我ガ同胞ハ己ガ生命ノ長キヲ希ハンヨリハ皇国ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ敵兵撃滅二楕拷スベカラズ”

 こんな作戦が真面目に検討された。「一億玉砕」だから、国民の命はどうでもいいのである。「民族抹殺作戦」である。

 一方、どうしても守らなくてはならないものがいた。「神」である。
「神」とその家族は長野県の「松代」に移すことになっていた。大本営の高級将校もそこへ移ることになっていた。「松代大本営」と呼ばれていた。なお付け加えておくと工事関係者用に「慰安所」も作られていた。現在も残っている。
 完成のために多くの朝鮮人などが酷使された。もし、完成していたら彼らの運命はどうなっていただろうか?「虎頭要塞」のようにされたのだろうか?

 こうして、戦いが終わった後、日本の人口は「ゼロ」になる。「東京裁判」なんて開ける訳がない。被告席に座るものが存在しないからである。裁判がなければ「批判する」必要性もなくなる。かくして「改憲論者」の悲願は達成されるのである。
 残された「神」とその家族はどうなるか。それまで人間と同じ生活をしてきたのだが、衣食をどうするのか。自分たちだけで出来る筈がない。「高天原」にでも帰るのだろうか?
 
 これは決して架空の話ではない。戦争があと1年続いていたらこうなった筈である(「神」の話は別であるが )。「保守系」氏や私など、46年以前に生まれていた人は今日、全員生きてはいない。それ以後に生まれた人は・・・・生まれている筈がない。

 ところで、それより以前に戦争を終わらせることは出来なかっただろうか?出来たという主張もある。
 
 44年6月、「マリアナ沖海戦」があった。この戦いで連合艦隊は壊滅的な敗北を受けた。戦闘能力を失ったのである。
 兵器の差だけではない。技量の差も大きかった。戦闘機の操縦についても、空母からの発艦は出来ても着艦が出来ないというような低下した技量になっていた。
 米軍機の撃墜3機に対し、撃墜された数は200機以上であった。「マリアナ沖の七面鳥狩り」と言われたほどの惨敗であった。
 一方、中国戦線は泥沼状態であった。見通しはまったくなかった。

 直後に、「近衛文麿」が「昭和天皇」に「降伏の上奏」をしたと言われている。但し、国民のことを思ってではない。内乱(革命)が起こって「天皇制」が崩壊することを怖れたということである。しかし、天皇はこれを拒絶した。
 もし、この時降伏していたらその後の沖縄戦はなかったし、広島・長崎への原爆投下もなかった。太平洋戦争での死者のうち、大部分はこの海戦以後である。終戦の時は自分の力で終わらせたと言っていた「昭和天皇」である。としたら、この時なぜ命令しなかったのか?
 よく言われる話である。

 これでも、戦前・戦中の時代が良かったと言うのであろうか?
 さらには、“歴史は当時の人々の熱い想いからしか解釈し得ない。単なる事実の羅列ではない”との主張で、「歴史解釈権」なるものを持ち出した「小堀桂一郎」教授、彼は上記の事実に対し、どんな“熱い想いから”の“解釈”をするのであろうか?
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「我々はなぜ金太郎飴だったのか」その2  文科系

2006年09月22日 09時40分25秒 | 国内政治・経済・社会問題
戦後絶対主義天皇制から解き放たれた日本は、その民主主義的開放感に充ち満ちて、焼け野原から国土建設に邁進しました。官民、労使、老若などなど全てが少し後の「所得倍増計画」などに示されるように、「貧困からの脱出」を目指していました。
そんな中で、総評を中心とする労働組合が中心部隊となって、社会党、共産党などと共に、民主日本を建設するものと期待されていました。70年代には革新自治体が全国に林立し、民主主義的政府樹立間近かというまでに、この雰囲気が高揚していきました。各種の住民団体なども70年代には全盛期を迎えていましたが、当時の生活向上、政治革新の希望はやはり「労働者階級」とその背後にある社会主義思想だったと思います。
しかしながら、80年代に先進国に現れたユーロコミュニズムは注目に値します。ソ連型ではない民主主義的な共産党、その政治が目指され始めました。その批判に呼応するように、90年前後に社会主義世界体制が消滅し、あわせて「社会主義冬の時代」を迎えました。これは本質的に、旧社会主義の民主主義欠如に起因するものだったと言って良いと思います。なお、この反省、総括は現在まで、全く不十分にしかなされていないと考えます。
ユーロコミュニズムの出現にも示されているように、1のような窮乏革命論的活動は大戦後までの形式的民主主義さえ全く不十分な政治に対して有効だったのであって、70~80年代からの先進国にはそれに替わるものが求められていたと言うべきではないでしょうか。労働組合の変革イニシアティーフは先進国どこでも弱体化していましたし、替わって環境保護、フェミニズム、福祉・医療、国際協力などなどの新しい分野に活気が見られました。こういう中で力を維持し、あるいは新たに生まれた運動は2のような特徴を持ったものではなかったでしょうか。先進国では労働組合でさえ賃上げ要求はそんなに大きくならず、労働者としての専門性も高めあい、文化要求も重んじた所が、力を維持してきたと言えるのではないでしょうか。「教師論」、「文レク活動」、「自治研活動」、「要求別子組」などなどです。確かにこれらはどこでも、言葉では強調されていました。しかしながら、生きていくのにも忙し過ぎる現代生活においてますます自由な時間が限られる中で、「窮乏革命論」的な政治主義がこれらの活動の充実を妨げていたという面は拭えなかったと思うのです。また私たちは、政治(主義)と文学の摩擦、政治(主義)と政治学者や哲学者との摩擦などなども数々目にすることがありました。文学や学問への政治的干渉の問題です。これらをめぐっても、根本的・理論的な発想の転換が、80年代のどこかで必要だったのではないでしょうか。
これに関連して、誰が世の中を変えるのかという問題もあります。窮乏革命論の主体は労働者です。ニートは昔流に言えば「ルンペンプロレタリアート」ですね。しかし現在、彼らこそ世の中を変えると言いうるのでしょうか。僕はそうは思いません。困窮が変革を起こすものならば、失業やニートが激増し、年収200万円社会というように格差が深刻になり、また高齢者に厳しすぎるようになった日本で、変革の陣営が力を減じているということが説明できません。
「鉄の団結」で「闘い」、一朝政権を獲得するというような遅れた国の「戦時共産主義」的時代は、先進国にはもう来ないと考えた方がよいのだと思います。イタリアのアントニオ・グラムシの言葉ですが、「長期に渡る陣地戦」の構えで、気長に、社会的・文化的・道徳的な領域で実践的にイニシアティーフを獲得していく、そんなイメージが今後の「闘い」なのだろうと考えています。
(続く)
                                
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閑話休題 音楽のエピソード 2 へそ曲がり

2006年09月22日 07時56分32秒 | Weblog
 入稿を増やしてしまったので、少々疲れました。一服します。音楽のお話でも・・・・。

 プッチーニは有名なオペラ作曲家である。「蝶々夫人」・「ボエーム」・「トゥーランドット」などなど・・・。
 彼の最高傑作は「トスカ」である。この上演をめぐってのエピソード。

 アメリカのとある劇場でこの公演が決まった。ところが主役の女性歌手が大変なわがままであった。何事にもケチをつける。
 中でも、いちばん酷い目にあったのが舞台担当の裏方たちである。彼らは「復讐」を誓った。

 ところで、この物語は、騙されて殺された恋人の姿を見た「トスカ」が悲しみのあまり城壁から身を投げるところで幕が降りるという展開である。
 実際に高いところから飛び降りるのであるから、怪我のないように、下には分厚いマットが敷かれている。
 
 さて、幕が上がった。舞台はスムーズに進行し、いよいよ幕切れとなった。
「トスカ」が飛び降りて幕が降りるはずであった。ところが観客は異様な光景を目にした。飛び降りたはずの「トスカ」が城壁の向こう側にまた出て来るのである。2度も3度も、しかもあられもない格好で・・・。
 いったい何があったのか?
 裏方たちが下に敷いたのはマットではなかった。「トランポリン」だったのである。
 かくして、「悲劇」は一瞬のうちに「喜劇」となってしまった。

「トゥーランドット」といえば、あの中の名曲がトリノ・オリンピックでも使われた。「荒川静香」さんのフィギュアである。
 ところが、この曲は開会式のフィナーレでも使われた。歌ったのは20世紀最高のテノールのひとり「ルチアーノ・パヴァロッティ」である。
 オーケストラの伴奏が始まったとたん、思わず拍手をしてしまった。イタリア人のユーモア感覚にである。
 ところで、あのオリンピックの中継は必ずしもゴールデン・アワーの時間とは限らない。国によっては中継時間が真夜中であったり夜明け前であったりする。
 だからこそ彼は歌ったのである。“誰も寝てはならぬ”、と。
 あの曲を選んだのはいったい誰だったろう?
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ネットを武器にして、九条のうねりを !!!      まもる

2006年09月21日 16時28分01秒 | Weblog
 今日「愛知九条の会」のHPに載っている県下の九条の会の仲間です。これ以外に連絡の無い「会」や目下「準備中の会」も多いので実際にはもっと多くの九条の会が活動しています。
 今後の課題としては、こうした会が柔軟で強かなネットワークを組んで情報を交換し、網の目の交流をし、大きなうねりとなって改憲の炎を消してしまうことだと思います。
 その武器としてHPやブログでの相互交流が重要だと思います。

【地域「九条の会」】
千種区 高見学区「九条の会」
名東区 上社・高針第「九条の会」
名東区 年金者名東九条の会
守山区 守山九条の会
守山区 「憲法改悪を許さない女たちの会」
天白区 憲法九条を守る天白ネットワーク
緑区 旭出・滝の水「九条の会」
緑区 大高「九条の会」
緑区 戸笠「九条の会」
緑区 徳重・神の倉「九条の会」
港区 みなと医療生協「九条の会」
中村区 新婦人中村「九条ファンクラブ」
清洲九条の会
尾張旭 旭西九条の会
稲沢市 年金者組合九条の会
愛西市 佐屋町九条の会
豊田・九条の会
東三河・九条の会
一宮九条の会
おかざき九条の会
平針一丁目九条の会
とよあけ9条の会
向山九条の会
福岡地域9条の会
豊川・宝飯九条の会
太子9条の会・準備会
鳴子・長根台憲法九条を考える会
九条の会ちりゅう(準備会)
憲法を守る東刈谷地域の会
憲法9条をまもる瀬戸の会
長根9条の会
憲法9九条をまもる珍珍釜の会
曽野・川平9条の会
よもぎ有志9条の会
南山9条の会
杉の子有志9条の会
アーティクル9
コーラスかりん有志9条の会
憲法改悪を許さない女たちの会
日進九条の会
松原中学校区憲法九条の会
坂下9条の会
高蔵寺9条の会
南城9条の会
玉川9条の会
九条の会きよす
9条の会 西春
犬山九条の会
江南九条の会(準備会)
つしま九条の会
東海市九条を守る会
9条を守る会・大府
阿久比憲法9条を守る会(準備会)
名東九条の会
年金者名東九条の会
引山九条の会
北一社猪高九条の会
憲法改悪を許さない女達の会
花さき山九条の会
千種九条の会
名北9条の会
九条の会呼びかけに賛同する
辻学区九条の会
稲生9条の会(仮称)準備会
昭和九条の会
山根九条の会
平針一丁目九条の会
アイラブ憲法・天白九条の会(準備会)
戸笠・神沢学区九条の会
神の倉徳重学区九条の会
旭出・滝の水9条の会
お茶しましょう9条の会
有松・桶狭間9条の会(準備会)
風在舎九条の会
桃の樹九条の会
東丘九条の会
くらしのセンター「九条の会」
南生協病院九条の会
浦里9条の会・準備会
小さな「9条の会」
桃山診療所9条の会
有松診療所9条の会
9条の会アピールに賛同する
緑区9条医師の会(仮称・準備会)
9条の会めいなん
みずほ九条の会
パークハイツ九条の会
あつた九条の会
中村9条の会(準備)
あいち医師・歯科医師九条の会
協立総合病院8西病棟「九条の会」
くらしのセンター「九条の会」
南生協病院九条の会
かなめ病院九条の会
北医療生協歯科九条の会
千秋病院九条の会
佐野眼科憲法九条の会
尾張健康友の会九条の会
年金者組合愛知県本部九条の会
東海共同印刷憲法9条の会
県職員九条の会
NTT愛知九条の会
健康福祉局支部9条の会
えいせい九条の会
病院支部9条の会
全国一般あいち九条の会
建交労あいち女性部9条の会
トヨタ自動車九条の会
電力・愛知「九条の会」
九条の会 愛知大学人の会
愛知教育大学九条の会
愛知工業大学九条の会
名古屋芸術大学九条の会
名古屋大学九条の会
日本福祉大学九条の会
あいち女性9条の会・準備会
愛知宗教者九条の会・準備会


【団体】
名古屋市職労青年部九条の会
豊橋市職労憲法九条を考える会(よちよち会)
「九条の会」(愛知・大学人の会)
国公「九条の会」
愛知年金者・九条の会
愛知県職員平和憲法を守る会
東邦学園九条の会
損保九条の会         

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保守系さんに感謝をこめて。           まもる

2006年09月21日 09時59分46秒 | Weblog

 もうそろそろ撤退したいという便りに「そうだろうなあ」という共感がありました。
自由な討論を目指したブログとは言え、護憲の論者の多いこの土俵に友情の心意気で参加してくれて感謝しかありません。 君の居るこのブログだからこそ、後から参加してくれた護憲の参加者も勉強もし、残された老いを青年のように燃焼出来ているのではないかと思います。 君の抜けた土俵のさみしさは皆承知しているし、すぐに気付く事だと思います。

 しかし もう無理強いして慰留はしません。 世界観が根本的に違うのだから議論しても空しさや徒労の気持ちが襲ってくると思います。

 それを支えるのは、自分のアイデンティティというか信念の叫びでしょう。   でも それのある老人は多くはありません。 そうした意味では互いに議論できたのは幸せな事ではないでしょうか。

 娘さんも、ブログに取り組む君の真摯さやエネルギー、また費やす時間や労力に心配してみえるのだと思います。父親がむきに成る程若さを見せるのは嬉しい面もあるけど、体が心配、徒労しか残らないならいい加減に引いたほうが良いのではという優しい心根ですね。

 しばらく 休息して考えてください。 お互いにこうした場で再会し忘れていたものを再体験したのも楽しかったのではないでしょうか。

 僕は立場上のこともあり、今後もブログが何ほどか未来に役立つ様運営に尽力したいと思っています。

 最近こんな言葉を知りました。 「遠くを見つめる眼差しと、近くをやり抜く力を持ちたい。」 ぼくもそんな気持ちで残りの人生を生きたいと思いました。

  最後に このブログへの登場はいろんなバリエーションがあります。 僕は「戦歌の尋ね人」でも思いをつたえているつもりです。

 保守系さんも 「書評」や 「伝記のシリーズ」 「体験記」など 豊かな読書量、や体験を生かした「投稿」を別のペンネームなどでお願いできたらとも思います。 
 気がむいたら、色んな姿や名前で刺激を与えにきてください。             
       本当に有り難う。        
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愛知県の「九条の会」の広がりと活動③ 名古屋市

2006年09月21日 09時06分27秒 | Weblog
昭和区九条の会と愛知県下の「九条の会」の活動状況を紹介
します。第三弾です。
 今回は、中村、みずほ、守山、名東など名古屋市内の「九条
の会」を紹介します。
 中村九条の会は、昨年12月8日(日米開戦の日)に結成され
ました。8月には映画「美しき霧島」(戦中と敗戦後の中学生
の動揺を描く)を上映、12月5日には佐藤毅さん(元中日ドラ
ゴンズ社長)を招き、一周年記念の「つどい」を開催します。
会員数は一年弱なのに500名を超えているそうです。
 みずほ九条の会は、昨年5月に結成され、毎月9の日に区内
のスーパーなどの前で署名行動を欠かさず、行っています。ま
た、ニユースも毎月発行し、世話人も毎月開くなど、手堅い活
動を行っています。
 守山九条の会は、今年7月に結成されました。「戦跡を保存
する?会」の代表大島良満さん(昭和区九条の会でも「市内の
戦跡について」講演)などを中心に結成されました。結成集会
には300名近い人が参加。結成にむけて、区内の教会、お寺、
公職者などを選別せずにまわり、憲法まもれ、の世論を形成し
てきたそうです。
 名東九条の会は、7月に結成一周年のつどいをフォーク歌手
笠木透さんや名古屋大学の愛敬教授を招いて行い、300名程
の参加で成功しました。この会は街頭宣伝で独自のリーフ(手
のひらサイズ)を配布して「九条まもれ」の世論を大きくする
活動をしています。
 
 名古屋市内には天白、熱田、千種区などに「九条の会」があ
ります。緑区のように区単位の「九条の会」はありませんが、
区内に25もの「九条の会」が結成されている区もあります。
 また、中区では、国家公務員、県職員などの職場では「九条
の会」があります。中川区、南区、西区などでは地域(学区単
位など)の「九条の会」はあり、区単位の「九条の会」をつく
る準備中のところもあります。

 このように「九条の会」は、様々な形態で名古屋市内全域に
息づき、様々な活動を行い、「九条守れ」「憲法まもれ」の活
動を行っています。
 日本には百姓一揆、米騒動、安保反対闘争など、時の権力者
への様々な抵抗運動がありましたが、保守、革新、宗教者など
を問わない幅広い「会」と活動が全国規模で展開されるのは、
歴史上はじめてのことだと思います。
「昭和区九条の会」も微力ではありますが、その一翼を担い、
九条を守るための活動ができることはうれしい限りです。
「九条の会」は、明治憲法の下ではとてもできなかったと思い  
ます。活動ができるのは現行憲法のおかげ(効力)だと思いま
す。九条運動は多くの国民が自由に参加できる緩やかな運動で
すから、「戦争をするな、平和を守れ」を実現するためにも、
あなたも「九条をまもる運動」に参加しませんか。

      
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愛知県下の「九条の会」の広がりと活動② 尾張   

2006年09月21日 08時56分12秒 | Weblog
こんにちは、九条ひかるです。

 昭和区九条の会と愛知県下の「九条の会」の活動状況を
紹介します。第二弾です。
 第1弾は、「瀬戸九条の会」のことを紹介しました。
今回は、勝川、尾張旭、西春、小牧の「九条の会」の活動
を紹介します。

 春日井市の「勝川地域九条の会」では大きな企画は「春
日井市九条の会」にまかせて、小規模な集会、憲法を読む
会をこまめにやっているそうです。「つどい」にむけて宣
伝チラシを会場周辺に配布して宣伝をしているそうです。

「九条の会・尾張旭」では、二ヶ月に一度のペースでニユ
ースを発行し、会員さんの家を訪ねて手渡しし、対話を大
事にしているそうです。各家にミニポスター(シールのよ
うなもの)を張ることで、いろんな方に宣伝でき、市民に
平和を守ろう、の思いが強くなってきているそうです。

「西春九条の会」では、お寺、町会議員、公職者など全員
を訪ね、意見の交換をしています。若い女性がつくった「
憲法です」(有名?な「ひろしです」のアレンジ)を宣伝
カーで流していますが、効果抜群だそうです。

「小牧九条の会」では、中学校区全部に「九条の会」をつ
くる目標を立てて活動しています。いま、2から3の校区
でつくられているそうです。5月の集会には経済同友会の
品川終身幹事が講演し、200人が集まったそうです。

「昭和区九条の会」では、10月22日に「平和ハイキング(
仮称)」を行い、「海上の森」を歩きます。詳細は近いう
ちにご連絡いたします。
 また、12月の上旬には、他の「九条の会」と一緒に「キ
ャンドル平和アピール(仮称)」を行う予定で現在話し合
い中です。初冬の名古屋の街を「キャンドルで飾りたい」
そして「平和をアピールしたい」という狙いです。
 具体的になりましたら、ご協力と参加をお願いします。  
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愛知県下の「九条の会」の広がりと活動① 瀬戸市   九条ひかる

2006年09月21日 08時39分49秒 | Weblog
 こんにちは、九条ひかるです。

 愛知県下の「九条の会」の活動状況を紹介します。
 愛知県には200を超える「九条の会」があるそうです。
 ちなみに、全国では5100を超える「九条の会」があり
ます。
 数がはっきりしないのは、大江健三郎さんたちがつくった
「九条の会のアピール」に賛成する人であれば、誰でも、
どこでも、どんな形式でも「九条の会」をつくれますから
「あいち九条の会」に結成の連絡がない限りわからないから
概数になるのです。あなたの街や職場に「九条の会」があっ
たら教えてください。
 今回は「瀬戸九条の会」の活動を紹介します。
 「瀬戸九条の会」は、昨年の6月に結成され、一年になりま
すが、会員は1000名を超える大きな「九条の会」です。
 瀬戸市には各学区や職場、商店単位で28(準備会も含む)
の「九条の会」があり、日常的に「九条を守れ」「憲法を生活
に活かそう」という街頭宣伝、ニユースの配布、それぞれの
「九条の会」の交流やミニ学習会が開かれているそうです。
 また、呼びかけ人には、元市会議長や革新系の市会議員、陶
芸家や医師、作家などの著名人83名(6月3日現在)がなってい
ます。会員の数や呼びかけ人の数は県下の市町村では一番です。
 今年の6月3日に開催された「一周年の企画」では800名も
の人々が参加するなど県下ではトップの「九条の会」です。
 9月9日には、午前9時から9時間のロングラン宣伝を「瀬  
戸もの祭り」で賑わう市街地で行いました。

 こうした瀬戸の九条の会づくりの成功は、「愛知万博」の誘致について是非を考える瀬戸市民の会が数多く結成され真摯な市民レベルの討論の経験が大きかったようです。
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従軍慰安婦と軍の関係 へそ曲がり

2006年09月20日 08時10分21秒 | Weblog
 せっかく原稿を用意したのに「撤退」とは残念ですね。こんなのもあるんですよ。

 7月7日以来、「保守系」さんと私との間でバトルを繰り返してきました。しかし、一向に進展がありません。17日のバトル?も相変わらずの馬鹿馬鹿しい展開になっています。引き続き「もぐら叩き」の作業が必要です。
 その中でまだバトルに至らない問題も沢山あります。その1つに「従軍慰安婦」問題があります。
 これについては、「保守系」さんも「従軍慰安婦」の存在を認めています。「歴史偽造論者」の中には存在そのものを認めない人もいますから、彼の場合はまだ「まし」と言えるでしょう。ただ彼は、「軍」との関係を認めていません。“あれは民間人が勝手にやったのだ、軍とは一切関係ない”と主張しています。

 そこでクイズを出します。次の発言はれっきとした「元軍人」のものです。一兵士ではありません。高い位だった人です。1人目は海軍少佐、2人目は陸軍主計少尉です。とても有名な人です。それぞれに「回顧録」を出しています。この2名の人は誰でしょうか?ヒントとしてその人が書いた本の名前だけ紹介しておきます。

1、「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった」(「終わりなき海軍」)

2、「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」(『いま明かす戦後秘史』)

 なお、「2」の人は陸軍経理学校時代の話として、その中の「慰安所の開設」というところで触れています。これも有名な人との対談の中で明らかにしています。

 出来れば、ぜひ「保守系」さんに答えてほしいものです。これでも軍が関係していなかったと言えるのでしょうか。真っ赤な「ウソ」ということになります。

 まだまだいっぱい用意しているんです。「撤退」を「撤回」されたらいかがですか。
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やはり撤退します。残念ですが・・(保守系)

2006年09月20日 02時46分39秒 | Weblog
私は、たかがの歴史好きでした。
文科系さんのように哲学にも強くない、落石さんのように現場に行かれた訳ではない、ましてやへそ曲がりさんのように戦災体験もない、あっても三重県の疎開先で母の背におぶさって稲を刈っていたら、米軍の飛行機に機銃を浴びたと聞いた位です。でも大学に行き、たまたま政治学科でしたので、様々の政治学というか、当然、歴史問題は必須でしたし、親父の蔵書に東京裁判やパール判事の本もありました。東京裁判は、やはり戦勝国の裁判だということには、早くに理解しました。
社会人になっても、あの戦争は何故起きたのかが私の言わば、テーマであり続けました。結論から言えば、あの戦争は避け難いものだったというものです。
あそこまでやられれば、負けるとわかっていても私も開戦に踏み切ると思いました。もうくどいのですが、私の名づけ親もソ連に連行されて殺されました。
モンゴルへ行った時、モンゴルで死んだ日本人のお墓?を見に行きました。
荒涼たる丘に、名前があったどうかわかりませんが、お墓?が並んでいました。
モンゴルの国会議事堂やホテルも日本人捕虜が作ったものでした。
あのもう8月の半ばになれば小雪が散る世界です。
確かウズベキスタンでも日本人捕虜は色んな建築物を作らされました。
私の義父もソ連に連行されて、何とか生き残って帰国しました。
私の義兄二人は、士官学校を出て、上の義兄は上海上陸作戦負傷して帰国しました。中佐でしたか・・。私は今も悔やんでいますが、その義兄に、戦争の話を聞いておけば良かったと思っています。
また私の甥の息子は、山口県の海上自衛隊のヘリコプター部隊にいます。
父親の血筋かなと思っています。
現在の自衛隊の置かれた状態の、へそ曲がりさんも守るさんも思いを致していますか?相手が撃ってくるまで撃つな、イラクで他国の軍隊に守られて(もういいましたが)いる。こんな状態を情けないと思いませんか。
軍人は武人ですよ。武人たるものが、他国の軍隊に依存する、それってとても屈辱的なことではないですか。
ですから私は、九条を廃止要求をしたら如何ですかと言ってきました。また自衛隊は違憲だからという運動を起こせばいいと言ってきました。
更に、軍備撤廃運動を起こせばいいのです。小牧・守山・春日井などに自衛隊の基地がありますから・・。
守る会というのは、やはり問題の本質をついていません。
白旗さんではないのですが、余程白旗さんの方が理にかなっています。絶対平和主義を採ってみればいいのです。自分の目の前で、子供が殺され・女房が犯され、殺されてもいいと・・彼は言っています。そこから何が始まるのかなのです。
へそ曲がりさんも2千年の連続性を言えといいながら、結局、私、結構、誠実に述べた積もりですが、それへの返答はなく、歴史学者がどうとかこうとかです。
私は歴史学者でもないし、へそ曲がりさんもそうでしょう。
私は保守系ではありますが、一応、共産党系の本もあるいは赤旗も朝日新聞も読んできました。でもやはり共産党は、退潮が著しいように、同じフレーズの言葉ばかりです。日本国民を拉致した北朝鮮に何を訴えたのですか?あの青いリボンを付けていますか?ミサイルを連発で撃った北にどういう抗議をしたのですか。
ロシアに北方4島で殺された漁船員が居ましたが、ロシアに厳しく抗議しましたか?竹島の不法占拠の共産党は抗議しましたか。あわててなのか反日の現在の韓国に委員長が行ってきましたが、何を会談してきたのでしょうか。やっと拉致問題で韓国にお願いしてきたのでしょうか。
政権を担うということは、国益を最大に重視することです。外交というのを最大に発揮できるのは、世界の国々に武器もお金も提供することです。
これも何度も言ってきました。文科系さんがいうように、世界は適者適存の社会です。私は日本国内は、それではいけないと思っていますが・・。
あの01年のアメリカでの同時テロは、21世紀の世界を混迷させる兆候なんです。
21世紀は、ハチントンが言うように「文明の衝突」による混乱が起きる世界です。
その世界に日本はどう生きていくのでしょうね。
もうこれは私も想像できない世界です。私の子供や孫達が選択していくのでしょう。22世紀を日本は無事に迎えることが出来るのでしょうか?
この日本が何とかこの世界で、生きていて欲しいと願うばかりです。
では、ひとまずお別れします。




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「歴史解釈権」について思う。           千里眼

2006年09月19日 20時23分21秒 | Weblog
 「歴史解釈権」を正しいとしている歴史学者を紹介してほしい、との私の要望に答えて、保守系さんは「ヘレン・ミアーズ」の名を挙げていた。「ヘレン・ミアーズ」は決して歴史学者ではない。「東洋学」の学者である。「東洋学」は研究方法論を持ち得ない学問である。欧米では盛んにこの学問領域の研究・調査がおこなわれたが、日本では独立した一つの学問領域として成立していない。東洋全般を、特に中国を研究対象にした学問で、その内容は地理・地誌学、考古学、歴史学、民族学、人類学など多彩な内容を含んでいる。多岐な学問分野を内包している、きわめて学際的な学問であるだけに、独自の研究方法論が成り立ちえないのだ。
 したがって、私の問いに対する回答になっていない。彼女が「歴史解釈権」という概念が正しいとしている文面は、いくら探しても見つからないのは当然のことである。

 次いで、ヘレン・ミアーズの著書「アメリカの鏡 日本」について触れたい。「自虐史観」という「レッテル」貼りをする人々からは、彼女も「自虐史観」というレッテルを貼られて当然なのだが。それともアメリカの「自虐史観」は我々の助けになるから大歓迎ということになるのであろうか。何か「歴史の皮肉」とでもいうか、滑稽というか、私は可笑しくなってしまった。しかも彼女の著書は、決してそのような内容のものではないのだ。
 
 この著書の自分に都合のいい内容のみを切り取って、彼女の真意を読み取れずに、鬼の首を取ったように喜んでいる人々の知性と理解能力の欠如を私は悲しむ。彼女の真意をつかむことのでない人々を、彼女は天国から涙して悲しく見ていることだろう。
 伊勢雅臣氏は「ミアーズが書きたかったのは、日本弁護論ではない」、「ミアーズの本を読んで心うたれるのは、『現実的』になるために史実を曇りない目で見据える客観性と、それを根底で支える人類愛である」(国際派日本人養成セミナーレジュメより)と指摘している。「史実を曇りない目で見据える」と、ミアーズは「歴史解釈権」と反対の立場に立っている。つまり解釈権を否定する立場に立っている。つまり、保守派さんの「指摘」は間違っていることになる。私は伊勢氏の指摘に同意するものである。(念のために付け加えるが、この図書を売らんがために書評やコメントを集めたなかに、皮肉なことに、この文章が紛れ込んでいたのだ。これもまた可笑しくて私は笑った)
 
「日本が、『凶暴で貪欲』であったことは明白な事実」として、日本の明治以降の対外進出と侵略戦争を『凶暴で貪欲』と彼女が述べていることを忘れてはいけない。彼女は日本の侵略行為を免罪しているのではない。『凶暴で貪欲』と指摘しているのである。
 欧米諸国が近代に入って、他民族を抑圧し、植民地化し、領土を拡大していった「帝国主義的行為」(彼女はそんな表現は使っていないが)を彼女は否定する。日本が近代化の過程のなかでこの欧米の行為を手本にして、同じような侵略行為を働いたのだと言っているのだ。彼女の「人類愛」から、また彼女の学者としての「良心」から、こうした他民族抑圧はあってはならないという思想がこの著書の根底に流れているのだ。
 「アメリカの鏡 日本」という書名に彼女の真意が込められているのだ。「日本は良いことをするから、その日本を手本にせよ」、と彼女は言いたいのか。または、「日本は悪いことをしたのだ、だからその日本を手本にしたらいけないのだ」、と彼女は言っているのだろうか。(分かり易くするために、極めて卑俗な表現をここで私は使ったのだが) 私は後者であると思う。「日本を、アメリカの鏡にしてはいけない」というのが彼女の真意なのだ。
 長くなるので、ここで一応の終わりとしたい。書き足りないことが多々あるのだが。
(ひとつは、国としての歴史解釈権の問題。もう一つはミアーズの著作の内容にかかわる問題で)
 
 「解釈」という用語は、「物事や言葉の意味を理解すること」と辞典に書かれているが、ものごとは解釈する場合、いろいろな解釈がありうる。十人十色という熟語があるが、解釈という行為はそうした性質を持っていることは、誰が考えても分かることである。子供でも分かることである。そうした曖昧さを持つ言葉を、さも学術用語のように「歴史解釈権」という造語を作って後生大事に使っていることが、私にはまったく理解できないのである。「解釈権」の立場にたったら、歴史事実も歪められ勝手な解釈が横行することになる。ミアーズの言うとおり、歴史を見る場合には、「史実を曇りない目で見据える客観性」が必要なのだ。

 最後に、保守系さんへ感謝の気持ちを申し伝えたいと思う。学者としての「良心」をかけて書かれた、深い思索に基づいたこのような優れた著作を紹介していただいたことに。ただ、彼女の著作には、一点だけ、私は不満に思うことはあるが。

追記 1週間ほど名古屋を留守にしますので、コメントを頂いても、すぐにはお答えできないことをあらかじめお断りしておきます。
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アメリカの保守主義と右翼 その5         千里眼

2006年09月19日 18時54分13秒 | Weblog


8.アメリカ保守主義の台頭

 ヨーロッパではリベラリズムの台頭によって伝統的な西欧文明は危機に瀕しており、アメリカこそがキリスト教を基盤とする伝統的な西欧文明を引き継ぐ使命を担っているとアメリカ保守主義者は主張する。
 アメリカでは保守主義者思想は「キリスト教的道徳」という概念と固く結びついている。アメリカの保守主義の課題は「アメリカの精神的・道徳的な再生」を図ることである、そのためには保守主義の指導権を確立し教育を浄化することが必要である、と主張する。また、「家族と過去に敬意を払い、将来に対する責任を持ち、私的所有を尊重し、権利と同時に義務をまっとうすること」が重要である、と説く。
 ヨーロッパではなく「アメリカこそが本当の個人の自由を実現する場所である」と主張するこの保守主義のなかから、「アメリカ民主主義の世界への布教」こそが、自らの使命であるという強烈な意識が生まれていく。
 このように形成されたアメリカの保守主義は、観念的・思索的な論議にとどまらず、まさに現在のアメリカの社会と政治、経済の現実と深く結びついて、それらをどうするのかという現実の課題と深く結びついていたのである。
 「大きな政府」に反対し「小さな政府」を、「福祉国家」に反対し「自己責任の原則」へ、 「連邦政府の権限集中」に反対し「州への権限委譲を唱える連邦主義」へ、さらに「自由競争」と「私的財産の保護」を保守主義者は強調している。
 1980年代のアメリカは、この保守主義思想がアメリカ国民の意識に大きな影響を与えるようになった。こうして思想界・言論界の表面に姿を現した保守主義者は、大統領候補レーガンに大きな期待を抱き、保守主義系シンクタンクがその政策立案に積極的に協力した。さらに、保守主義者の影響下にある「アメリカ・コンサーバティブ・ユニオン」や「全米ライフル協会」などが選挙の実働部隊として選挙戦を戦ったのだ。
 こうして見てくると、福音派が急速に信者を拡大した背景は明らかである。保守主義思想の広がりとあい対応しているのだ。そしてネオコンが活躍できた基盤がここにあったのだ。ブッシュが引退しネオコンが政権中枢から退いても、その政策は形を変えながらも、その本質は受け継がれていくだろうと私は思っている。
 
9.世界的な保守・右翼的傾向の強まりのなかで

 イラク戦争を契機に、私はこのような凶暴な政策を実行するアメリカを摑み直したいという思いから、ネオコンについて分析した。そのネオコンの活動を許したのは何か、またブッシュ後にネオコンの政策をアメリカは克服できるのか、という問題意識から今回の論稿をまとめた。
 世界的に保守・右翼的傾向は強まっている。それを一般的に「新保守主義」と呼んでいるが、アメリカの場合には保守主義思想が広がったこと自体が新しいので、この概念は適用できない。アメリカに対しては、やはりネオコンという略称で特定のグループに限定して使うべきではないかと思う。
 国別にはこの保守・右翼的傾向を分析した論文・著作は見かけるが、世界的な潮流として捉えて分析するという作業はまだ見かけない。今その作業・研究が必要な時期にさしかかっていると思っている。「新保守主義」という概念規定が先にたち、具体的分析が遅れているという思いにかられている。「新自由主義」という概念は、経済政策の特徴を表わす概念として使用されているが、この「新自由主義」と「新保守主義」は裏表一体の関係にあると、私は思っている。
 小泉内閣の諸政策は、アメリカ保守主義の主張と驚くほど一致している。その分析はまたの機会に譲りたい。小泉内閣の諸政策についての論文・著作はあふれるほどあるが、アメリカ保守主義との相関を抑えた分析はまだ見たことがない。
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米経常赤字過去最大に  中日新聞

2006年09月19日 17時47分08秒 | Weblog
アメリカの今年上半期の経常赤字は4316億ドル。
前年同期比、12.1%増加。
上期として過去最大。
ドル相場急落など市場のリスクを避けるためにも
中国の元改革を含む国際的な政策協調は待ったなしの課題だ。

と、ベタ記事。ドル急落の悪夢は、案外、
こんな記事から起こるのかしら?  
                      落石

    
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九条ひかり様、「我々はなぜ金太郎飴だったのか」その1  文科系

2006年09月19日 11時36分07秒 | 国内政治・経済・社会問題
1 1980年前後から、今までのタイプの活動が時代に合わなくなったと考えます。言うならば、「窮乏革命論」に基づく「政治主義」の活動が。要するに「諸困難を除く為に、政治をこう変えようと『宣伝』すれば、議会で多数を得られて、困難は打開できる」というような活動だったかと思います。発展途上国型変革論とでも言いましょうか。
2 新たに必要になった視点は、「専門性」、「文化性」、「人間性」などではなかったでしょうか。つまり、貧困、困窮問題もさりながら、それ以上に生活点、生産点における質の改善、それによる人の評価と、繋がりあいなどが時代の魅力になったのだと。
3 1と2では、対応する組織が自ずから違ったものになってくると考えます。1は「階級闘争」という概念に典型的に付随するような、厳格な、かつ「寸暇を惜しむ」団結が要請されました。他方2に対応するのは、もっとゆるやかな組織ではないでしょうか。上意下達の『注入』は控え、それぞれの内発性と、話し合い、学びあいとに基づくような組織。昔批判された「討論クラブ」、そういう人の輪。こういうものを長期にわたって作り上げていくというやり方でなければ、専門性、文化、人間性などは熟していかないのだと考えます。
4 以上の変化を遂げる妨げになった哲学的背景というものも、また存在したと思います。ちなみに、日本の革新政党は世界観政党でしたから、単なる政党ではありません。人生観にも関わっています。それなのにその世界観、哲学に欠陥があった。一言で言えば「客観主義」ということでしょうか。広辞苑によればこう述べられるものです。「人間の実践的活動の如何にかかわらず歴史が進行すると考える宿命論的態度や傍観主義的態度」と。窮乏を除くための「実践」が、宣伝・認識と議会とに偏っていたし、「専門性」、「文化性」、「人間性」に関わる実践は実質、政治の手段、それへの入り口のように理解する哲学ではなかったでしょうか。僕の経験ではそのようにしか、見えなかったのです。
                                 (続く)
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「9・11」の謎 4  へそ曲がり

2006年09月19日 09時30分03秒 | Weblog
「週刊 金曜日」に『「金曜日」で逢いましょう 』というページがあります。最新号では「9・11」を告発している「ジミー・ウオルター」氏が登場しています。
 
 見出し 1 : 「9・11」の真実を訴え、世界中を行脚する 
 見出し 2 ; 何者かによる襲撃が繰り返され、米国からの逃亡を余儀なくされる。それでも、「ブッシュはウソをついている」と屈せず叫び続けている

 億万長者という点を除けば、共和党支持の平均的な米国人だった。だが、2001年の「9・11」事件について疑問を抱くようになってから、運命が一転する。
 私費を投じて「事件についての政府発表が正しいと証明した方に百万ドルを差し上げます」という広告を出し、さらにインターネットサイトを立ち上げ、事件の真相究明と再調査を求める草の根運動を04年からから開始。すると、路上で何者かに襲撃されたり、自家用車が壊されるなど不審な出来事が相次ぐが、なぜか警察は一切調べようともしない。身の危険を感じて欧州に脱出し、現在は事実上の亡命生活を強いられている。
 「『「9・11」』について、最初は政府が事前に知っていたのではないか、と疑った程度でしたが、その後自分なりに調べ、さらに事件をリサーチしているジャーナリストと知り合って、これは政府が何らかの形で関与していると断定せざるを得なくなったのです。とにかく事件後明るみに出ている事実が、ことごとく政府の発表を覆しているのですから 」
「ハイジャック機」が追突した2棟の世界貿易センタービルにしても、全壊するのに要した時間が、何と重力による物体の落下速度と一致するという物理的にあり得ない現象が生じている。そもそもこれまで火災で全壊した近代的高層ビルは存在せず、しかも当日の火災現場では逃げ遅れた人が動いていたことが確認されたように、鋼鉄の支柱を溶解するような高熱は出ていなかった。
 さらに、国防総省に追突したとされる旅客機の残骸はゼロに近く、残骸も落ちてこないのになぜか全壊したもう1棟のビルは、後になってオーナーが爆破したことをほのめかすなど、すべては謎だらけ。
 現在は各国でこうした事実を訴える行脚を続けているが、日本では10月7日に都内で開かれる「9・11真相究明国際会議」に出席して、講演する予定だ。
 「欧州各国に講演に行きますが、参加者は別に私の話を聞いても驚きません。すでに多くの人々が、『9・11』について米国政府の発表していることはウソだと知っているのです。米国?そうした層は3分の1程度では、最初からそうしたテーマを拒絶して聞く耳を持たないのが3分の1。ある程度事実を知っていながらも『政府が関与しているはずがない』と信じようとするのが3分の1 - というところでしょうか」
 「米国民を含め、世界の人々はこの国を誤解しています。戦争で巨大な利益を得る一握りの勢力がマスコミや議会を支配し、大統領もお飾りに過ぎません。私は『9・11』を実行したのもそうした勢力だとという結論に達しましたが、事件の真相は決して国全体の認識にはならないシステムなのです」
 それでも、人々に真実を伝えようとする努力は続く。あえてそれを知ろうとしなければ平穏無事な人生を楽しめたが、それでも困難を選択したのは「自分の国を愛しているから」と語る。
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