九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

朝鮮征服目指し40年、その後35年(3)  文科系

2018年01月31日 11時21分00秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
(その3)朝鮮の英雄・安重根

 前回見た江華島事件(1875年)から1910年の朝鮮完全征服まで、日本による朝鮮制圧深化と人民の抵抗運動はどんどん進んでいく。ソウルの「安重根義士記念館」パンフレットに載っている19世紀末だけをとってみても、これだけの事件があった。
 壬午軍変(じんごぐんへん、1882年)、甲申政変(こうしんせいへん、1884年)、東学農民戦争と日清戦争(1894年)、乙未事変(いつびじへん、1895年)などなどと。反乱が起こって鎮圧したり、日本の大軍を初めて外国に常時駐留させることになったり、日本支配に抵抗した王妃を斬殺・死体焼却させたり。この斬殺は、三浦梧楼という公使(武官)が犯人だと分かっていて、証拠不十分とかで釈放になっている。さらには、朝鮮を巡って清国や日本抵抗勢力と戦争にも発展した東学農民戦争は、朝鮮半島南部全域に広がるという激しい抵抗運動だった。ちなみに、安重根獄中自叙伝には「伊藤博文の罪状 15か条」が付されているが、その第8にこう書かれている。
『国権回復のために蜂起した大韓国の義士たちと、その家族10万余人を殺害した罪』

 こういう諸事件の一つの結末が、1910年の朝鮮併合である。韓国ではこの併合のことを普通に、その年の呼び名を付けて「庚戌国恥」と呼んでいる。安重根事件はその前年のこと。1909年にハルピンで日本朝鮮総統・伊藤博文を暗殺したのである。記念館パンフレットではこれを「ハルピン義挙」と記していた。


 さて、この「義挙」に関わって2014年1月、日本でこんな出来事があった。伊藤博文暗殺の現地・ハルピンに中国が安重根記念館を開館して韓国が謝意を表したという問題で、菅官房長官が「テロリストに対してなんたることか!」と反撥意見を表明したのである。正式抗議もしたようだ。どっちも理ありとも見えてなかなか理解の難しい問題であるが、安倍政権のこの態度を以下のように批判したい。

 当時の「法律」から見たら当然テロリストだろうし、今の法でも為政者殺しは当然そうなろう。が、35年かけて無数の抵抗者を殺した末にその国を植民地にしたという自覚を日本側が多少とも持つべきであろうに、公然と「テロリスト」と反論・抗議するこの神経は僕にはどうにも理解しがたい。これで言えば、前回に書いた日本による江華島事件などはどう批判したらよいのか。国際法に違反して一方的に首都近くまで艦砲砲撃を進め、城や民家を焼いて35人を殺しているのである。これだけでも安重根の罪よりもはるかに重いはずだ。前にもここで述べたことだが、安重根テロリスト論はさらに、こんなふうに批判できると思う。

『 さて次に起こるはずのこの理解はどうか。ならば、「向こうは『愛国者』で、こちらは『テロリスト』と言い続けるしかないのである」。僕は、こういう理解にも賛成しかねる。
 今が民主主義の世界になっているのだから、やはり植民地は悪いことだったのである。「その時代時代の法定主義」観点という形式論理思考だけというのならいざ知らず、現代世界の道義から理解する観点がどうでもよいことだとはならないはずだ。「テロリスト」という言い方は、こういう現代的道義(的観点)を全く欠落させていると言いたい。当時の法で当時のことを解釈してだけ相手国に対するとは、言ってみるならば今なお相手を植民地のように扱うことにならざるをえないはずだと、どうして気づかないのだろうか。僕にはこれが不思議でならないのである。こんな論理で言えば、南米で原住民の無差別大量殺人を行ったピサロを殺しても、スパルタカスがローマ総督を殺しても、テロリストと呼んで腹を立てるのが現代から観ても正当ということになる』(『「テロリスト」「愛国者」、安重根記念館 2014年04月05日』)

 全く安倍政権はどういう外交論理を持ち、どういう神経をしているのだろう。相手の立場の尊重という一片の理性も見えず、言ってみるならば「人間関係はケンカ、対立が当たり前。こちらの論理を語るだけ」と述べているに等しい。社会ダーウィニズムを思い起こさせるような幼稚さだと思う。
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「よたよたランナーの手記」(215) ここまで復調   文科系

2018年01月30日 18時28分56秒 | スポーツ
 この年だから調子の波が大きいのだが、1年以上前のタイムに復調する事があるのだと、また思い知った。30日火曜日、30分×2回で9・3キロまで行った。これと同等の記録は17年には一度もなく、前立腺癌への女性ホルモン治療が始まった直後の16年5月27日、9・5キロまで遡らねばならない。ただし、今回はウオームアップを別にやってから走り出した記録である。そして今後は、こういう記録の取り方をしていきたいと、決めた。ウオームアップも含めて計測すると、出だしの心臓負担が大きくなって、身体に良くないと判断した。それで、1時間10キロまで行けるだろうかという、そんな希望を持っている。

 30日は初め市営吹上ジムの2階ランニングコースを20周、約3キロを走った。それからジムマシンで、上記の通りである。合計12・3キロ走ったわけだが、筋肉とか骨とかの痛みはもちろん、疲労も感じていない。つまり、相当セーブしていたのである。つまり、今後いつか1時間10キロに届くかも知れない。ただし、何度も言うように今年77歳、無理はしない。僕の場合それは経験上、心拍数160以内に抑えるという事だ。瞬間的なオーバーはありえても。
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朝鮮征服目指し40年、その後35年(2) 文科系

2018年01月30日 17時54分44秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 朝鮮征服目指し40年、その後35年(その2) 江華島事件

 朝鮮征服は1910年だが、事実としてこれに結びついていった出来事が既に1875年に起こっている。明治維新の10年足らずで起こした江華島事件とその結果結ばれた日朝修好条規である。

 国内統一を果たした直後に朝鮮に攻めていった秀吉と同じだ! これがこの事件を最初に知ったときの僕の印象である。そして、これ以降完全に征服した1910年まで、同じ動きをどんどんエスカレートしつつ絶えず起こしてきたのだった。つまり、日本は朝鮮を40年近くかけて征服したのである。その間の抵抗がどれだけ凄まじく、それへの弾圧がどんなに苛酷なものであったか! そのように僕は今までここに書き続けてきたが、朝鮮の人々には当然、常識に属することである。

 江華島事件とはこういうものだ。軍艦揚雲号がソウルへの川を不法にさかのぼった。川岸などの3つの砲台から順に砲撃されて艦砲で撃ち返し、2つ目の砲台では陸戦隊を送り込んだ上に砲台の城を焼き払って交戦となり、3日目の同じく第一砲台の交戦では35名を殺戮している。これは3日間にわたって国際法違反を重ね続けた戦争と言って良いものだ。江戸湾内へ強行侵入したペリー来航に習ったと説明されてきたが、この結果結ばれた日朝修好条規が将来に禍根を残していく。

『釜山他二港の開港、日本人の「往来通商」を認め、「日本の航海者」に海岸随時自由測量を、さらに日本の領事裁判権を認める。付属条約と通商章程によって日本通貨の流通、日本の輸出入商品への無関税も決められた』(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の①、井上勝生著「幕末・維新」から、221ページ)

 なお、韓国ではこの条約のここが強調されていた。「清国からの独立」という側面である。つまり、清の保護下から暴力でもって日本側へ一歩引き寄せた条約であったと。
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太平洋戦争、右流ねじ曲げ理論に   文科系

2018年01月29日 04時09分29秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 以下文中にもある通りに、右流太平洋戦争理解の「最も大きなねじ曲げ部分」をまたまた描き出します。こういう議論をするから、「連合国史観」とか「東京裁判史観」という言葉が、恥ずかしげもなく使えるのだと。ちょうど、日本の朝鮮征服史に全く無知なのに慰安婦強制への反論を大音声する人が出て来たら、この征服史を又再掲したいと思い立つように。右翼系の学者・論客がこれらを知っていて知らない振りをしてきたから、その結論部分だけを受け売りしにここに来るような人々が、以下のような事実にほとんと無知なのです。
 なお以下の拙稿は、当時このように連載したものの第5回目のものです。

①「対英戦争と対米戦争の関係」10年11月15日
②「日米戦争における戦争責任の問題」11月16日
③「日米同罪論について」同17日
④「アジアのため?」18日
⑤(これが、以下の今回のものです)20日
⑥「太平洋戦争と天皇」22日
⑦「『自虐史観』『洗脳』の危うさ」23日
⑧「東條英機首相への熱狂ぶりと、その源泉」24日


(このどれもバックナンバーとしてここでお読み願えます。右欄外のカレンダー下の「年月欄」をスクロールして10年11月をクリックすると、すぐ上のカレンダーがその月のものに換わりますから、読みたい日をクリックして頂きます。すると、エントリー本欄がその日のエントリー全てに換わりますので、目的のものを探してお読み願えます)


【 太平洋戦争、右翼のデマに(番外編) 文科系 2010年11月20日

 しゃにむに、密かに、不意打ち開戦へ

 前回のこのまとめ部分は、日米の戦争責任論議における最重要点だから、説明が要りますね。
「なお、この(1941年11月)5日の御前会議の存在は、東京裁判の当初の段階では米軍に知らされていなかったということです。ハルノートとの関係、「日米同罪論」との関係で秘密にしておいた方が都合良かったと、著者(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻の第⑥」「アジア・太平洋戦争」、⑥の著者は吉田裕一橋大学大学院社会学研究科教授)は解明していました」

 米国務長官ハルの覚書が駐米日本大使に手交されたのが41年11月26日、外務省がこれを翻訳して関係方面に配布したのが28日でした。対して当時の日本政府はその行動を、このように説明してきました。ハルの、この4要求を「最後通牒」で「高圧的」と断定。それゆえ「自存自衛の為」(12月8日、宣戦の詔勅)の開戦を、12月1日の御前会議で決定、と。誰が考えても、国の運命を決めるような大戦争の決断経過としては動きが急すぎて、不自然です。この不自然さを、著者の吉田氏はこう解明していきます。

 そもそも1国務長官の覚書とは、1国の最後通牒などと言える物では、到底ない。よって、10月に退陣した近衛内閣が進めていたように、アメリカとの条件交渉の余地はまだまだ充分過ぎるほどに存在していたのである。対して、入れ替わったばかりの東条内閣が、ハル・ノートを最後通牒と断定し即戦争を決めたように語られてきたわけだが、これは完全に日本のあるタクラミに基づいている。その狙いは、
・生産力で10倍を遙かに超える差がある強大なアメリカの戦争準備が整わぬうちに、戦争を始めたかった。日中戦争進展にともなって臨時に大増強した太平洋周辺戦力はアメリカを上回っていたからだ。
・それも、完全に油断させておいて、不意打ちで開戦したかった。日本側は、十二分に準備を整えておいた上で。
・東条内閣は、発足20日も経たぬ11月5日の御前会議でもう12月初頭の開戦を決めていて、戦争にまっしぐらだったのである。その日に決まった「帝国国策遂行要領」をその証拠として、著者はこう書いている。
『「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、此の際、英米欄戦争を決意し左記措置を採る」とした上で、「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」と決めていた。引き続き外交交渉を継続するとされていたものの、実際には、その性格は開戦決意をカムフラージュするための「欺騙外交」としての側面をつよめてゆくことになる』
 なお、前にも述べたように、この11月5日の御前会議は、東京裁判当初までアメリカには隠されていたものである。以上のように軍人内閣のやり方は、「出来るだけ速く、密かに、しゃにむに戦争へ」「相手とは交渉を続けるふりをして油断させつつ」「それも、相手に知られない不意打ちで」というものであって、このことはその4にまとめた以下の事実によっても証明されている。
『よく知られているのは、真珠湾への奇襲攻撃である』。開始8日午前3時19分、対米覚書手交4時20分というものだ。この点については従来から、こういう説があった。対米覚書の日本大使館における暗号解読が遅れたとされてきたのだ。これにたいする本書の解明はこうなっている。
『外務省本省は13部に分かれた覚書の最終結論部分の発電をぎりぎりまで遅らせただけでなく、それを「大至急」または「至急」の指定をすることなしに、「普通電」として発電していたことがわかってきた』

 「アジア・太平洋戦争」の開戦原因に関わる経過を、最後にもう一度まとめておく
1 「日本が、中国侵略から南部仏印侵略へという動きを強行した」
「このイギリス権益の侵害に対してなされた、アメリカによるたびたびの抗議を無視した」
「こういう日本の行為は、ドイツの英本土上陸作戦に苦闘中のイギリスのどさくさにつけ込んだものでもあった」
 この間の上記の経過は、本書では結局、こうまとめられている。
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである 』

2 そのアメリカに対しては、交渉するふりをして、その太平洋周辺戦力が不備のうちに、不意打ち開戦の準備を進めていった。
 その直前の様相は、こういうことであった。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった。』】
(これは2018年1月という今現在の余談ですが、アメリカの上記のような対日行動は、現在アメリカが北朝鮮に対している行動に何と似ている事でしょう! 「在米日本資産の凍結」と言い、「日本に対する石油の輸出を全面的に禁止」と言い。)


 なお、20世紀における大日本帝国軍隊の仮想敵国が以下のような変遷を辿ったことも、今回改めて付加させていただきます。 
 1907年4月4日以降 『(仮想敵国の)第1はロシア、米・独・仏がこれに次ぐ』
 1918年6月29日以降『ロシア、アメリカ、中国』
 1923年2月28日付けで、日本帝国の国防方針がこう改訂されています。
『想定敵国 陸海軍共通のものとしてアメリカ、ロシア・中国がこれに次ぐ』

(出典は、岩波新書同上シリーズ第5巻「満州事変から日中戦争へ」99頁。著者は加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授)
 
 以降1931年の満州事変から、そのリットン調査団報告採択に国連総会で唯一反対して33年日本の国連脱退と続きますが、これ以降の日本は国際法違反の確信犯になっていきます。太平洋戦争は、東京裁判においてこの満州事変の時期から裁かれたのです。国際法違反の確信犯になった時期から裁かれるのは、理の当然というものでしょう。
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米国式経営、悪評の源    文科系

2018年01月28日 16時57分07秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 以下は旧稿の再掲です。こういうことを放置してきたから、米国経済は傾いてきたのだと強調したい。そして、世界的なこういう金融横暴の規制を頭に入れない右翼ポピュリズムの「問題解決方向」などでは、世界の失業問題、不安定労働者問題、つまり恐慌状態は何も解けないと愚考します。失業者と、不安定労働者が溢れながら、日銀やGPIFの資金で吊り上げている株価など何の意味もないはずです。


【 米大企業社長たちはこうして「金融の馬車馬」に  文科系 2016年09月28日

 以下は、24日エントリー、ある本の要約①の抜粋である。ロナルド・ドーア著「金融が乗っ取る世界経済 21世紀の憂鬱」(中公新書、2011年10月第一刷発行)。今後ここで、3部構成のこの本にあわせて、②、③と要約していく予定だ。この本の内容は、僕が10年ここで新たに勉強し直しては原稿を書き続けてきて、たどり着いた現代世界の諸不幸の大元の解説と言える。
 この本に展開されていることは、日本人にはなかなか書けないもの。ここに描かれた動きが日本で目に見えるようになったのは最近の事であるし、この最新の動きは、英米経済の動きと比較研究してはっきりと見えてくるというもの。作者は、イギリス経済学の伝統を学び継いだ上で、日本江戸期教育の研究目的で東大に留学され、以来熱心な日本ウォッチャーを続けられたというお方。しかも、この本自身も自分の日本語で書かれているようだ。訳者名が付いていないからである。
 以下は、その第一回目の要約のそのまた抜粋である。世界経済がこのようになったからこそ、今の世界の諸不幸が生じていると、そういう結論、大元解明のつもりである。

『米企業利益のうち金融利益の割合が、1950年代までは9・5%であったものが急増して、02年には41%と示される』

『機関投資家の上場企業株式所有シェアがどんどん増えていく。1960年アメリカで12%であったこのシェアが、90年には45%、05年61%と。そして、彼らの発言力、利益こそ企業の全てとなっていった』

『企業から「金融市場への支払い」が、その「利益+減価償却」費用とされたキャッシュ・フロー全体に占める割合の急増。アメリカを例に取ると、1960年代前半がこの平均20%、70年代は30%、1984年以降は特に加速して1990年には75%に至ったとあった』

『彼らの忠実な番犬になりえた社長は彼らの「仲間」として莫大なボーナスをもらうが、「企業の社会的責任。特に従業員とその家族、地域への・・」などという考えの持ち主は、遺物になったのである。こうして、米(番犬)経営者の年収は、一般社員の何倍になったか。1980年には平均20~30倍であったものが、最近では彼の年金掛け金分を含めば475倍になっている。その内訳の大部分は、年当初の経営者契約の達成に関わるボーナス分である。全米の企業経営者がこうして、番犬ならぬ馬車馬と化したわけだ』

『「証券文化」という表現には、以上全てが含意されてあるということだ。企業文化、社長論・労働者論、その「社会的責任」論、「地域貢献」論、「政治家とは」、「政府とは・・?」 「教育、大学とは、学者とは・・?」、そして、マスコミの風潮・・・』


 最後のこれは、24日には書いてない事。以下のような数字は日本人には到底信じられないもののはずだ。この本の73ページから抜粋した、アメリカ資本主義の象徴数字と言える。
『2006年のように、ゴールドマン・サックスというアメリカの証券会社がトップクラスの従業員50人に、最低2,000万ドルのボーナスを払ったというニュースがロンドンに伝われば、それはシティ(ロンドン金融街)のボーナスを押し上げる効果があったのである』 
 これだけの強食がいれば、無数の弱肉が世界に生まれる理屈である。2006年とは、08年のリーマンショックを当ブログでも予言していた史上最大のバブル、サブプライム住宅証券組込証券が頂点に達していたウォール街絶頂の時だった。この結果は、失った家から借金まみれの上に放り出された無数の人々の群であった。しかもこの動きはアメリカのみに留まらず、イタリア、スペイン、ポルトガル等々にも、そこの失業者の大群発生にも波及していくのである。こんな所業を放置しておいて、どうして世界の景気が良くなるなんぞと言えるのだろうか。】


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朝鮮情勢で、SICAさんにお応え  文科系

2018年01月27日 18時59分58秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
sicaさんが、僕のこういう回答に、こう応えた。
僕『sicaさん、ご質問の僕の文意はこういうことです。どこかが核を持っても、その国に戦争だー!とするほどに、あるいはその国が撃つしかないと決めるほど追い詰める必要があるほどには、「核を持っている事自体は大したことはない」という意味です。
 だって、現に核を持っている国に誰もそんなことしてませんから。』

『 Unknown (sica)2018-01-27 05:27:06>
だって、現に核を持っている国に誰もそんなことしてませんから。
「戦後核攻撃は行われていない」は「これからも行われない」という証拠にはなりません
そもそも戦前には2回行われております
北朝鮮を事実上の核保有国として経済制裁を緩和するということは、核ドミノを容認することを意味します
私は日本の核武装には反対ではないので、核ドミノが起きても別に構いませんけど』

 さて、この大事な問題に僕は改めてしっかりと答えようと思います。世界にとって20世紀後半からずっと長く続いてきた以下のような本質的前進が関わっていると考えるからなおさらなのです。

『 貴方の「質問、僕の回答、貴方は無回答でそこは逃げるだけ。で、新たに別項で質問」と言う状況がどれだけ続いていても、僕はやはりその別項にも答えるんですよね。

① 核が70年撃たれていない事は、以降のその行動から撃つ可能性がある例えばアメリカなり北なりにとって、どうでもよいこととお思いですか? 実用的にするためにということで、どんどん小型化しても広島、長崎以来、撃てていない。

② その広島、長崎も特別な事情がありました。僕は賛成するわけではありませんが、アメリカはその事情をいまだにこう述べていますね。
「ポツダム宣言を受けぬとの天皇の決定は、沖縄のように本土が全消失する程までの『国体護持めざす総玉砕』表明ということ。これでは、天皇も危機に瀕しているのだよと示してあげるしか米軍の道はなかった。それで原爆。現に即終戦になっただろ。違うのか」
 この広島、長崎では以降ずっと原爆反対運動が、また、ノーベル賞も貰った世界的な核禁止条約の運動もありました。そしてついに、アメリカ大統領の投下地慰問まで。

③ こういう事情からこそ、これだけ戦争をやって来たアメリカも未だに小型原爆一つ撃てていないのだと、それが僕の理解です。以下の歴史的流れとともに・・・。

④ 以上には、核兵器だけではなく、大量破壊兵器一般に厳しい目が向けられるようになったある歴史的背景があると僕は述べてきました。1945年に比べて現在は、民主主義がどんどん進んだ。植民地は悪になり、有色人種蔑視も誤りだという制度・考え方がこの70年で随分進みました。全ての人の命が、45年以前と比べて随分同じように大切になったのです。アメリカの大哲人チョムスキーも、反戦についてこれを最も強調するという、それが大きな世界の常識ですよ。

⑤ 以上全てを上げて、これからも核は撃ちにくいと僕は語っているのです。「完全に撃てなくなった」というのではなくね。人類の未来に絶対はないという意味でです。

⑥ こうして僕は、核保持を開戦、戦争開始の理由になど出来るはずがない、してはいけないと語っているわけです。アメリカ先制攻撃はもちろん、国家心中覚悟とまで北を追い込む事も。国連決議を超えて日米が叫んでいるような強制を徹底したら、これはもう戦争も同じです。そういう国際法的常識は、太平洋戦争開戦と日本への原油禁止制裁の関係を考えても分かる事でしょう。安倍にはこれが全く分かっていないのかどうか、トランプ以上に韓中にシビアーに対しているから、僕は戦争を恐れているのです。つまり、僕の反戦運動ですね。』
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慰安婦問題の当時の政府文書二通   文科系

2018年01月27日 07時28分50秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 日朝関係史、南京虐殺と続けてきましたから、慰安婦問題でもある決定的資料をそのまま再掲しておきましょう。以下の文書には、強制のことも軍がこのように認めています。このように。

『故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ


【 慰安婦問題、当時の関連2通達紹介  文科系2014年09月22日

 以下二つは「日本軍の慰安所政策について」(2003年発表)という論文の中に、著者の永井 和(京都大学文学研究科教授)が紹介されていたものです。一つは、1937年12月21日付で在上海日本総領事館警察署から発された「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」。今ひとつは、この文書を受けて1938年3月4日に出された陸軍省副官発で、北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」です。後者には、前に永井氏の説明をそのまま付けておきました。日付や文書名、誰が誰に出したかも、この説明の中に書いてあるからです。

『 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件
 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        記
領事館
 (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
 (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
 (ハ)渡航上ニ関スル便宜供与
 (ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答
 (ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス
憲兵隊
 (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
 (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締
武官室
 (イ)就業場所及家屋等ノ準備
 (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
 
右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス
(中略)
昭和十二年十二月二十一日
         在上海日本総領事館警察署



『 本報告では、1996年末に新たに発掘された警察資料を用いて、この「従軍慰安婦論争」で、その解釈が争点のひとつとなった陸軍の一文書、すなわち陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日付-以後副官通牒と略す)の意味を再検討する。
 まず問題の文書全文を以下に引用する(引用にあたっては、原史料に忠実であることを心がけたが、漢字は通行の字体を用いた)。

支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス』

 さて、これを皆さんはどう読まれるでしょうか。なお、この文書関係当時の北支関連国内分募集人員については、ある女衒業者の取り調べ資料から16~30歳で3000名とありました。内地ではこうだったという公的資料の一部です。最初に日本各地の警察から、この個々の募集行動(事件)への疑惑が持ち上がって来て、それがこの文書の発端になったという所が、大きな意味を持つように僕は読みました。】

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南京虐殺史実の決定版   文科系

2018年01月26日 16時28分16秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」
 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

 ①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

 ②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したのである。
 なお、「最初から全部殺す方針だった」という証言を下に上げておく。南京攻略軍一師団長の日記である。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏に殺すということが極めて大事だったのだが。

 ③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全地域から暴力さえ使って集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

 ④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。
 が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。戦争ではない場合の暴力への降伏兵士を殺したら、国際法上は民間人を殺した虐殺と言うしかないのである。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。


 さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。

【 南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。

大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」

 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。実に卑怯、姑息な日本軍、奴らである。もっとも命令を出した奴らが卑怯、非道なのであるが・・・。】
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朝鮮征服目指し40年、その後35年(1)  文科系

2018年01月25日 02時32分37秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 以下は、2014年5月15、17、18、23日と連載したエントリーの最終回第4回目の再掲である。現在の安倍政権、日本マスコミが、日韓両国オリンピック共催情勢に対して取っている態度を考えてみるためにも、大切な知識である愚考しています。

 今朝の中日新聞「9条の配当 われらの憲法」シリーズに、こんな言葉があった。
「犬死で無かった証拠にや 新憲法のどこかにあの子の血がかよう」
「平和憲法は全ての戦死者の生まれ変わりなんです」
 そう、明治維新以来の日本は1945年の敗戦まで無数の戦争、準戦争、武力衝突を犯してきた。その結末が初めての厳しい太平洋戦争敗戦であり、この敗戦に至るまでの「長い戦争史」の出発が朝鮮なのであると、今回の旅行と勉強でつくづく理解できたものだ。調子に乗ってどんどん事を起こし、手痛い敗戦を喫して国体が替わり、新憲法が生まれたと。

1910年の朝鮮併合までとその後と、日本は常に戦争をしてきた。そのいくつかの軌跡を年表として記してみよう。
(1867年 明治維新)
1874年 台湾出兵
1876年 朝鮮、江華島事件 不法侵入による艦砲砲撃、上陸戦、要塞や民家の焼き討ちも含んだ小さな戦争である。
1884年 朝鮮、甲申政変 日清間主導権争い。日本派によるクーデターと日本の参戦・敗北。
1894年 東学農民戦争、日清戦争   
1904~5年 日露戦争
1910年 朝鮮併合
(併合と言うけど、植民地化へと武力で屈服をここまでエスカレートさせて来たということだ。何せ江華島事件から34年かけて徐々に主権を奪っていったのだった。この間もこれ以降も、ずーっと絶えず大小の抵抗運動が起こっている)

1914年 第一次世界大戦参戦
1918年 シベリア出兵
1919年 朝鮮3・1独立運動とその鎮圧
 『3・1運動のなかでの朝鮮人の死者は、7,509人、負傷者15,849人、逮捕者は46,306人に及ぶとされる』(岩波新書「シリーズ日本近現代史」 その「③日清・日露戦争(原田敬一著)」P143ページ)
(1919年 関東軍設置)
(1923年 帝国国防方針改定 仮想敵第一が、ロシアからアメリカに換わる)
(1925年 日ソ国交樹立)
(1927~29年 世界大恐慌)
1927年 第一次山東出兵
1928年 第二次山東出兵
張作霖爆破事件
1931年 柳条湖事件 満州事変
1937年 盧溝橋事件 日中戦争
1941年 太平洋戦争
1945年 敗戦

 朝鮮相手の小さな「戦争」についても、ほんの一例を挙げてみよう。日清戦争後1895年の閔妃暗殺事件である。
【1895年10月8日、漢城で大事件が起きた。14日、『ニューヨーク・ヘラルド』「王妃殺害の全容」という記事は、「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性3人を殺害した」という第一報を10日漢城から発信したが、東京で差し止められていた、と報じ(中略)
 国際的非難を受けた日本政府は、三浦梧楼駐韓公使を召還し、関係者とともに裁判(広島地方裁判所)に付したが、世界史に類のない蛮行であるにもかかわらず、「証拠十分ならず」として48人全員無罪・免訴という最悪の結果となった】(岩波新書「シリーズ日本近現代史」 その「③日清・日露戦争(原田敬一著)」P193ページ)

 こんな日本近現代戦争史を見るとき、敗戦と新憲法はこういう流れの一時代の結末として時代を画する重要なものであったのだとつくづく噛み締めるのである。この反省が少な過ぎるように見受けられる今の政権は、自ら戦争を起こすことになるという可能性について、あまりにも無自覚だと思われてならない。折しも、株価という「虚飾」はともかく、まともな職業のなさ、失業者の多さ、賃金の少なさなどなどから100年に一度と言われた世界恐慌状態が続いていることも明らかであるし。現在の世界に弱肉強食社会をもたらしている新自由主義経済は、世界の至る所にいざこざ、にくしみあい、紛争をもたらしている。弱肉強食世界に日本が乗っていくのかこれを正そうとするのか、そんな今主としてアメリカを相手にした集団的自衛権行使への解釈改憲って上記75年の反省が足らなすぎると思えるのである。朝鮮に対しても1876年江華島事件以来これだけのことをしでかしながら、今は悪びれた様子さえないように見える。慰安婦問題一つをとってもこんな批判も十分に可能であろうに。
「上記のように長い間朝鮮を疲弊させてきた末の1929年世界大恐慌後などは、日本農村などでも『娘売ります』もあった時代。朝鮮の米は群山などから日本に送って、朝鮮人は粟などを食べていた時代でもある。日本が朝鮮にそうさせたわけだ。万一ネトウヨ諸君が言うように強制がなかったとしてさえ、事実としては強制と同じ事をしてきたのではないのか」

(このシリーズはこれで終わります)
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朝鮮併合と太平洋戦争   文科系

2018年01月25日 01時55分34秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 またぞろ物の分からない日朝論が世もマスコミをも騒がせている。そこで、僕にとってこれを改めてまとめて勉強する気にさせて頂いたあるお人との論争の最後のまとめを再掲させていただく。以下は2011年4月の拙稿だが、ネトウヨ諸氏のご批判を期待している。
 なお、僕等が「アジア・太平洋戦争」という言葉を使うのは、この二つが切り離せないからである。朝鮮出兵から日清戦争。満州の経営から日露戦争。これらを「アジア・太平洋戦争」の前哨と観ることも出来て、その後段が普通の「アジア・太平洋戦争」ということになるだろう。満州事変から日中戦争。中国南下から米国との衝突。
 改めて振り返ると、明治新政府発足以来の一貫した大陸進出・植民地戦争と見ることが出来るのである。以下のように。


『 ざくろさんのアジア・太平洋戦争観  文科系 2011年04月02日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

前置き

 1国の戦争には、確かに意図と結果が存在しよう。そして、意図の通りに結果が出るものでもないだろうし、結果からだけ戦争の善悪を云々してみても無意味だ。
「泥棒に入った家にもう1人泥棒が居て、両者が殴り合いになった結果、家としては何も盗まれなかった。よって後からの泥棒が良い事をした」
と、こんな事を語って何か意味があるのか。
 かくのごとく意図と結果は別物であるのだから、歴史を論ずるやりかたではないのである。歴史は事実、真実の流れを叙述するというのが基本でなければならず、意図と結果はむしろそこから判明してくるということだろう。
 こういう視点で見れば、ざくろさんの語り口は、日本の戦争を派生的結果などを総動員してまで美化しすぎているし、日本の好ましくない意図が関わっているやの行為を「周囲にそう強いられた」「他国も同じような事をしていた」と言う側面を探し出してきてまで、免責しすぎていると、そう僕は思う。つまり、歴史の論じ方が情緒的に過ぎると思う。ちなみに、彼が僕の太平洋戦争論議に関わって「日本を『邪悪』と見ている」「アメリカを『正義』と見ている」と論難したが、こういう言葉を使っていないことでもあるし、こんな言い方は僕としては拒否するものである。
 また、サッカー代表戦などで日本を熱烈応援する僕だが、事実から見て醜く見えるような日本の過去の行為を無理に美化しようとは全く思わない。むしろ、反省すべきは反省してこそ、さらに美しい国にも出来、これを愛する事ももっと可能になるのだろうと考えている。また、こんな事をせねばならぬほど、美点の少ない国だとは僕には到底思えない。
「日本の過去の醜い点はなるべく美化しなければならない。そうでないと青少年が日本を愛せなくなる」

1 朝鮮併合

 僕はざくろさんにこう語った。
『明治維新直後の征韓論出兵騒動や江華島事件などなどの1870年代からおよそ40年かかって日本が朝鮮半島を併合したのも、「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」であるのか? この40年間に独立国であった朝鮮抑圧への反発を武力で抑えるべく、どれだけの方々を殺したことだろう。それもみんな「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」と貴方は言い張るのか。そもそも「朝鮮の人々のためにこそ40年かかって併合したのだ」という理屈を、朝鮮の人々が認めているとでも言われるのか? 』
 これに対して、彼はこう反論した。
『日本が明治維新直後から、ずっと朝鮮半島を狙っていた、というふうな見方は明らかに偏見でしょう(自覚あります?)。明治初期の征韓論は――理由はそれだけではありませんが、立場・考え方の違いから原因の一つとして――内乱(西南戦争)にまで発展して、一旦は消え去っています。』
 歴史的事実を上げておきたい。僕があげておいたのに彼が無視した1875年の江華島事件と、ここから生まれた不平等条約、日朝修好条規。1882年の壬午事件。その結末の一つに日本軍の常時駐留があるが、これは、帝国初の平時外国駐留軍ということになる。1884年の甲申事変では、反日感情が急増している。1894年の東学教徒反乱事件に際した日本の大兵力出兵。これは、日清戦争のきっかけになった事件でもある。朝鮮がきっかけで日清戦争も起こったというこの事実は、朝鮮のこの40年と後の日中戦争が結びついて何か象徴的な出来事のように僕は思う。
 こういう事実が続いていれば、『ずっと朝鮮半島を狙っていた』かどうかは別にして、上のように、僕がこう述べるのはごく自然な事のはずだ。
『明治維新直後の征韓論出兵騒動や江華島事件などなどの1870年代からおよそ40年かかって日本が朝鮮半島を併合したのも、「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」であるのか? 』
 
2 中国侵略と対米戦争

 僕がざくろさんに書いた事はこうだ。
『次いで対米戦争であるが、これも「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」の戦争などでは全くない。
 日本は中国侵略戦争を継続するために、これを中止させようとするアメリカ・イギリス・オランダと開戦することになったのであって、中国侵略戦争の延長線上に対英米欄戦争が発生したのであり、中国との戦争と対英米欄戦争とを分離して、別個の戦争と考えることはできない』
 対して彼は、中国侵略と対米戦争とを分けて語る。後者は帝国主義戦争であって、アジア開放には無関係であるとし、前者についてはおよそこのように。
【『中国についても、不戦条約などに従っていては欧米支配打破などはできなかったのだから、『悪行は(欧米と)五分と五分というのがぎりぎりのところ』であり、仕方なかった(『と大東亜戦争肯定論者の多くは捉えていると思います』)。ただ中国については、国民が欧米の奴隷状態でもなかったことなどから『日本の進撃が、支那人にとって、解放と映らなかった』。】

 これも歴史的事実と違っている。事実はこうだ。
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである』
『39年7月、アメリカは、天津のイギリス租界封鎖問題で日本との対立を深めていたイギリスに対する支援の姿勢を明確にするために、日米通商航海条約の廃棄を日本政府に通告した。さらに、40年9月に日本軍が北部仏印に進駐すると、同月末には鉄鋼、屑鉄の対日輸出を禁止し、金属・機械製品などにも、次第に輸出許可制が導入されていった』
 こういうことの結末がさらに、石油問題も絡む以下である。太平洋戦争前夜、ぎりぎりの日米関係をうかがい見ることができよう。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった』
 以上『 』【 】内は、岩波新書「アジア・太平洋戦争」から。著者は、吉田裕一橋大学大学院社会学研究科教授。

 ちなみに、「帝国国防方針」の1923年2月28日改訂版で、アメリカが初めて帝国仮想敵国の筆頭にあげられるに至ったという資料もある。これまでの筆頭はロシアであった
『仮想敵国 陸海軍共通のものとしてアメリカ、ロシア・中国がこれに次ぐ。(中略)国防方針第3項 中国をめぐる利害対立からの日米対立を予測』。岩波新書「満州事変から日中戦争へ」、著者は、加藤陽子東京大学大学院人文社会系研究科教授。
 
 以上全てから、ざくろさんが次のように語るのは史実をねじ曲げるものだと言いたい。
『真珠湾攻撃は、日本が南方資源を手に入れ、ヨーロッパ列強からアジアを解放しようとする日本の戦争に何の貢献もなかったばかりではない。それが、先の大戦の唯一の敗因となった。
 そのことを頭にいれておかなければ、大東亜戦争の全体像がゆがみ、日本は、アジアを侵略して、それに反対したアメリカに噛みつく、ばかな戦争をして、自滅したという、GHQ史観にのみこまれることになる。
 どの民族、国家もももっている。誇るべき戦史が、日本に限っては存在せず、そのため、アジア諸国が「日本軍がヨーロッパ列強を追い払ってくれたおかげで、独立することができた」と感謝している先の戦争を、侵略だった、アジアに迷惑をかけたと謝ってまわるのは、愚かをこえて、悲劇というしかない。』

3 まとめなど

 日本の三つの戦争を巡る事実は、ずっと語られてきたようにこうである。朝鮮併合に関わって日清戦争が起こり、朝鮮と満州との経営を巡って日露戦争が起こった。そして、23年の帝国国防方針にあるように『中国をめぐる利害対立からの日米対立を予測』していて、太平洋艦隊の増強などによって大々的にこれに備えてきて、真珠湾攻撃は事実としてはほとんど確信犯なのである。

 なお、ざくろさんは日中戦争も真珠湾攻撃もともに、欧米の工作によって日本が巻き込まれたものであることを立証しようと努力している。僕が以上に示したような、普通に語られてきた事実経過がありながら、何故こんな事に精魂傾けるのか。日本の主体性をあまりに軽視しており、いかにも不自然である。帝国の重大決意を他国のせいにして、その責任を免罪しようとしているとしか、僕には思えないのである。日本を美化したいという望みから、歴史を見る目を曇らせているのではないか。』
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随筆紹介  倒れたままで   文科系

2018年01月24日 15時09分18秒 | 文芸作品
 倒れたままで  M・Aさんの作品です


 また一人、同好の仲間を失った。年齢は私よりも大分上の方だが、昨年の秋に言葉を交わした人で、こんなに急に亡くなってしまうなんて……。二つの会で一緒だったし、去年梅の実を持って家を訪ねたときはお元気そうだったのに。偶然だが、読書会で新年会になる日だったはずが、お別れの会になってしまった。

 それでなくても、最近よく亡くなった人たちの夢を見ていたので、なにか自分がそちらの側に半分いるような気分になっていた。年齢も古希に近くなっているので、当たり前かとも思える。急に病気になったり、亡くなる人がいると、自分がもしものとき、連絡先を家族に書いておかないと迷惑をかけることがあるとつくづく思い、今それを作りつつある。 いつの間にか六十八年以上も生きて来てしまった……そんな感じがして、急に年齢を自覚せざるを得なくなった。もしも自分が倒れた時、「頑張って生きろ!」そうハッパをかけて前向きに生きる人もあるけど、「倒れたままでもいいですか」と問いたいときもある。そんな内容の話を過日ラジオで放送していた。励ましはありがたいし、前向きにできる人はすごいと思うし、病と向き合い闘って生きる人の話は感動する。
 けれど、皆そうでなくてはいけないのだろうか。弱音を吐いたり、愚痴を言ったりする人もあるし、何より自分がそうであることは明白だ。確かに、できれば誰もが愚痴など聞きたくもないだろう。それでも聞いてくれる人があれば、ありがたいことだと思う。
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西郷さんを靖国に   らくせき

2018年01月24日 09時24分26秒 | Weblog

靖国神社の徳川康久宮司(69)が退任する意向を関係者に伝えていたことが23日、分かった。定年前の退任は異例。徳川氏は「一身上の都合」と周囲に説明している。徳川幕府15代将軍慶喜を曽祖父に持つ徳川氏が16年の共同通信のインタビューで示した明治維新に関する歴史認識について、同神社元総務部長が「会津藩士や西郷隆盛ら『賊軍』の合祀の動きを誘発した」と徳川氏を批判、波紋が広がっていた。

明治維新のため幕府と戦って亡くなった人々の顕彰という創立の理念に絡んで発言した徳川氏が早期に退任すれば、来年創立150年を迎える靖国神社の合祀の在り方を巡る論議が活発化しそうだ。(共同通信)





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マスコミ報道の歪み(2)現代版大本営報道「韓国ニュース」   文科系

2018年01月23日 12時04分50秒 | 国内政治・経済・社会問題
 朝鮮半島二国の冬期オリンピック開催などを巡って、日本の(朝鮮政治・社会)情勢報道が酷いことになっている。こんな感じに・・・。
『韓国大統領のやり方に、国内反発が凄くって、その支持率も急低下』
 その支持率低下がどんな酷さかと数字を調べると、「就任後二番目に低い66・0%」とあったから驚いた! これで低ければ、安倍などはとっくに辞めていなければならない。あるいは、改めて信を問うて国会解散していなければならないだろう。

 なぜお隣の国の事をこれだけ悪く書けるのか? 戦後大国が作った冷戦構造から人工的に分断された親兄弟や子孫が大いに反目し合いたいとか、ましてや戦争など、元々望むわけなどないはずなのだ。人としてそんな事も分からない振りをするのか? その訳というのが、北の核? この「とんでもない大醜悪事を許しているよう」だから?
 
 北の核は、「(イラク、イラン同様に)ならず者国家」とアメリカがギャーギャー騒いできたから、弱い犬よろしくキャンキャン吠えているだけ。元来、自分からは絶対に撃てない物と、これが普通の大人の理解だろう。なんせ、自分から撃ったらここぞとばかりに、国が潰され、馬鹿首領様はフセイン、カダフィと同じ運命。これは、首領様ばかりではなく、世界の常識に属する判断だ。
 それを国連反対決議だけを錦の御旗、金科玉条にして、アメリカなどがギャーギャー騒いできたから問題になるだけの事だろう。現に、核など持っている国は多いのだし、前大戦末のどさくさにおいて以外には、どこも撃てていない、「どこにも撃たせないで来た」という世界史も70年を超えた。こういう世界史的事実を無視するのでなければ、今のような「朝鮮二国情勢報道」はとうてい書けるものではない。
 新聞、マスコミは何故こんな酷いことを平気でやっているのだろう。すぐに思い出すのが、安倍への忖度という大本営発表である。なんせ、安倍の対朝鮮姿勢は今やアメリカ、トランプよりも遙かに強行なのだ。朝鮮遣り取りを巡る「敵は本能寺」に当たる「最大の国際修正主義勢力」・中国に対する情勢もふくめてそうなのだろう。

 この大本営発表、呆れるばかりである。近ごろの「超長期的上向き景気、続く」とか「名目GDP過去最大」、「40年ぶりの高水準、有効求人倍率」というインチキ宣伝とともに。「過去最大」と言われたGOP549兆円は、1997年という20年前の水準537兆円をやっと今超えたに過ぎないもの。「求人倍率」に至っては、国民1人当たり購買力平価換算GDPで言えば、97年当時の世界3~4位から、30位近くに落ちている現状なのだから、何の高求人率かと反論したい。名目GDPが、他国はどんどん上がっている間に日本は上記のように酷く落ち込んだままだったから、若者労働人口がこれだけ減っていても国民1人当たり購買力など急低下したままということである。

 こうして、フェイクニュースの類と言うしかないのがこれらの政府宣伝数字だから、こんなことを大騒ぎするのはやはり大本営発表と言うべきだ。長期の、より根本的な数字を隠して、短期の、派生的数字変化で誤魔化すという遣り口ばかりなのだ。
 
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随筆紹介  ある停年Uターン出世頭のこと    文科系

2018年01月23日 09時52分04秒 | 文芸作品
 ある停年Uターン出世頭のこと   H・Sさんの作品です


 椿町にある温泉施設の喫茶店で高齢の男性が二人で向き合ってモーニングサービスで軽食とコーヒーを食しながらお喋りをしていた。たまたま隣席になった私は大声で喋るおじさん達の会話を聞く羽目になった。そのお喋りを聞きながら男だって結構奥さんの悪口も言い、日常のぼやきごとも話すんだと興味を持った。彼らのお喋りを、うんうんと心の中で相槌を打ちながら聞いた。
 話の中身を紹介するために、ハンチング帽ベスト着用の服装をした男性をAさん、地味な灰色のブルゾン着用の男性をBさんと私が勝手に名付け、聞き取った二人の会話を紹介することにしよう。
 二人は椿町で生まれ、小学校から中学までの同級生で、Aさんは、高校、大学と進み東京の一流企業に勤め、定年後も子会社に勤務、最近、椿町に奥さんと二人で帰って来て、空き家になっていた親の家を手入れして住んでいると言う。Bさんの方は地元椿町で親の後を継ぎ農業をやりながら現在に至っている。どうやら二人は何年かぶりに偶然ここで再会したようだ。長い時間の隔たりはない様子。Aさんのお喋りを、聞き手のBさんは興味深げに耳を傾け聞いている。
「俺はなあー。誰よりも会社勤めは長かったから、相当稼いだつもりだったのに、貯金は一銭もないんだよ。誰がみてもおかしいだろう」とAさん。
「そんな馬鹿な、お前が素寒貧のはずがないだろう。お前は、俺達同級生の中では一番の出世頭のはずだよ。うなるほど金持って郷里に帰って来たと、もっぱらの評判だよ」と納得いかない様子のBさん。
「稼いだのは稼いだが、嫁さんにみんな渡してた。相当残るはずだから、余ったものは老後のために貯金しておけよと、言い渡して任せきりにして安心していた。定年で仕事を辞めた時、家に貯金はいくらあるのだと、嫁さんに聞いたら一銭もありませんと言う。何に使ったんだと不思議に思って聞いたら、これですよと言って見せられたのは、社宅の八畳の部屋いっぱいに置かれた着物、毛皮のコート、外国製のハンドバッグ、宝石類だった。要するに俺の稼ぎは嫁さんが欲しい物を手に入れるために全部使われたわけだ」とAさんがぼやく。
「ヘー、勉強できたけどお前は案外抜け穴だらけの間抜け男だったんだ。金遣いの荒い所帯持ちの悪い嫁さんに長年連れ添い、信用していた。それなのに嫁さんを捨てもせず、引き連れて帰って来た。底の知れんお人よしだ……。わしだったら、とっくの昔に嫁さんを追い出してるよ。まあわしらより、年金は多いはずだから食うことには困らんいだろうけどさ」と、Bさんがあきれ顔でAさんに言い返した。
「俺が放り出したらあいつ行くところないものさ。俺も社宅を引き払ったら行くとこなしだ。東京で十五坪一億円の家など建てる気はなかったから、親の家に帰って来るつもりをしていたよ。引つ越しの大荷物は嫁さんが買い集めた衣類ばかりだったよ。昔、客間だった十畳の部屋は嫁さんが買い集めた衣装で満杯だ。俺はパソコンと四畳半の納戸に押し込められ、家の前の二百八十坪の畑が俺の新しい仕事場だ。そこで育てる花や野菜に毎日癒されているよ」とAさんが近況を話す。
「なんだー。やってる事はわしと変わらんじゃないか。それで安心した。同級生に偉いさんがいると付き合いにくい。わしらにとっては、金遣いの荒いお前の嫁さんは福の神かもしれんわ」と、Bさんが返した。
「女って不思議な生きものだよ。芝居、落語大好きで名古屋の劇場へ出かけ、東京と比べて舞台がお粗末だとこぼしてたのに、歌舞伎役者の顔見世に行ったら飯食い友達見つけて今日もランチに出かけとる。御園座が四月に再オープンすると聞き込んで『私の着物は東京三越の特注だから誰にも負けない。買い込んでいてよかったよ』と毎日引っ張り出して眺めとるよ。誰ひとり友達もいない田舎に来ても、すぐ友達は作る。瞬く間に溶け込んじゃう。女とは逞しい生きものだと、俺は呆れとるよ」とAさん。
「わしも似たようなもんだ。うちの女房もバス旅行で美味いもの食い歩くのが趣味で何人もの旅友を作っとる。わしら二人の年金はみんな女房が管理、わしには二万円の小遣いくれるだけだ。あとは自分が自由に使っとる。わしと旅行に行くのは嫌だ、女同士の方が面白いと、わしは留守の間犬の世話を押し付けられ、面倒見とるよ。女房が留守の間に犬が痩せると、わしの世話の仕方が悪いと叱られとる。女房が使っとる金はわしが働いたから貰えた金だと言いたいが、わしも女房にそれをよう言わん。わしの家に嫁に来たはずの女房は、今では家主、家主であったはずのわしの方が下宿人だ……。ところで、お前、ここで誰かと待ち合わせでもしとるんかのう……」とBさん。
「野菜作りを始めたから、この施設の前にある野菜村に時々来るんだ。俺の作る野菜は売り物になるのかどうか見定めるために来るんだよ」とAさん。
「ふーん。わしは女房が旅行中で飯が作れん。だから朝飯と昼飯をかねた食事がモーニングだ。女房は泊まりで帰ってこないから、野菜村で夜の弁当の調達をしておかないと食いはぐれるから、今から買いにゆくよ」と、Bさんが席を立つ。
「俺も一緒するわ。俺も嫁さんがランチの後お茶して帰ってくると、飯はそこいらにあるもので済ませることになる。嫁さんもそれじゃ可哀そうだ。美味そうな赤飯置いてあるから二つ買い、適当におかずも見繕って買って帰るよ」と、Aさんもレジの方に向った。

 久しぶりに再会した同級生、子供の頃と同じようにあけすけに自分を語りいい顔をしていた。連れ合いのこき下ろしも、生活の中のスパイスか? からりとした男のぼやきが面白かった。


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随筆  “全体主義的感性”    文科系

2018年01月21日 13時01分36秒 | 文芸作品
 高校時代のある友人と昨日偶然会った時に、孫の教育で悩んでいるらしく、こんな話がいきなり堰を切ったように出された。同時にそこにいた同期女性の一人が小中教員だったからなのだ。
「近ごろの学校教育はどうなっているのかな。どうも戦後の米国流個人主義が日本人を駄目にしているように感じる。教育勅語を読んでみたけど、結構いーこと書いてあるよね」
 話はそこからどうも、個人に義務や道徳を強調し、教え込む必要というような話に移っていった。〈なんだか、安倍首相と同じだなー〉、僕は憂鬱になってしまった。
 そうなのだ、社会に不公正、不幸、不道徳が多くなると、誰かが上からタガを締めるべきというよくある発想なのである。誰が、どのようにタガを……が不十分なら当然、旧ソ連や北のような全体主義的「秩序」に繋がる発想でもある。人の内面が荒れる現実的な原因をきちんと問うていない場合にすぐに「心」が原因になって、ただ心を締め直せという安易な発想が出てくるとも言える。こういう人は、日本がまだ世界一安全な先進大国に辛うじて留まっているという点や、よってこういう世界的な社会悪傾向には世界的な原因があろうとも、観ようとはしていないのである。原因を日本国内だけに求めている口調がその証拠になる。そこで一計を案じた僕のある質問から、こんな討論になった。
「世界も荒れてるから、当分戦争は無くせないよね?」
「なに、君は戦争は無くせると思っているのか?」
「当然そうだよ。無くせない理由がない。『絶対に』ね」
「戦争は絶対になくならんよ。夫婦ゲンカもなくならんようにね。動物だってそうだし」
「やっぱりそう語ったね。ならば言うが、動物や人間夫婦の争いと、村八分なんかが全部同じ原因で起こるという意味で、これらの背後に同じ本質を想定するのは馬鹿げている。そういう考え方は、既に誤りとされた社会ダーウィニズムと言うんだよ」
「君は絶対にと言ったね? 絶対の真理なんて語ることこそ、馬鹿げている!」
 そんな言葉を捨て台詞に吐き出して顔も真っ赤にした彼、向こうへ行ってしまわれた。ご自分も「戦争は絶対に無くならん」と語られたのは、お忘れらしい。僕もそうなのだが、こういうお方も短気なのである。
 さて僕のこの論法は、十年やって来たブログの数々の論争体験から学んだもの。個人同様タガが必要に見える国にも自然に戦争が想定され易い時代というものがあって、国同士の生存競争こそ国家社会の最大事と主張する人々が増えてくる訳だ。
 さて、ここが大事な所なのだが、「上からタガを締めろ」とか「国家の最大事は戦争、軍備である」と感じ、考える人はほぼ必ず政治的には右の方と僕は体験してきた。つまり僕のような左の人がこういう人に他のどんな現実的政治論議を持ちかけても何の共通項もなくただ平行線に終わる、と。言い換えればこういうこと。いったん上記二点のような相手の土俵に入ってこれ自身を決着付けておかなければ、他のどんな「現実的」反論もすれ違うだけと体験してきたのである。個人の悪や不道徳などがなによりもまず個人の心の中から生まれると観るなら上から心を変えるしかないのだし、そんな時代の国と国との間では国連のような調整機関は無力と観て戦争を覚悟しなければならない理屈だろう。
 この二つ(心のタガと、社会ダーウィニズム的感性)は、いずれもそれぞれの問題、その原因を現実の中に問うて、現実を変えるという道が見えなくなる考え方なのだ。それどころか、現実は悪、心がそれに抗していかねばならないという感じ方、「思想」と述べても良いかも知れない。いずれも、全体主義に結びつく考え方だという自覚は皆無なのであるが、僕は結びつくと考えている。ヒトラーも東條も、それぞれ優秀な民族が乱れた世界、人類を鍛え直すという意気込みを国民に徹底したと記憶する。そのためにこそこの戦争を聖戦として行うという決意表明、大量宣伝とともに。
 ちなみに、あの時代も今もその現実世界は同じこういったものと観ている。二九年の世界恐慌から、弱肉強食競争へ。強食から見たら子供のような弱肉を容易に蹴倒していける世界になって、普通の人々は生きるためにどんどん道徳など構っていられなくなっていく。今の強食がまた、普通の日本マスコミは報じないのだが、桁外れである。アメリカ金融の一年のボーナスを例に取ってみよう。二〇〇六年の投資銀行ゴールドマンの優秀従業員五〇名は一人最低一七億円もらった。二〇〇八年全米社長報酬トップ・モトローラ社長は、一億四四〇万ドル(約百億円」)のボーナスを貰った。これで驚いてはいけない。二〇一一年に出たある経済書の中には、こんな記述さえある。
『今でも、米国でよく槍玉に挙げられるのは、雑誌の個人報酬ランキングのナンバーワンあるいはナンバーツーになるウォルト・ディズニー社社長のアイズナー(数年前に、ストック・オプションも含めて五億七五〇〇万ドルという記録的な額を得た)……』(ロナルド・ドーア著、中公新書「金融が乗っ取る世界経済 二一世紀の憂鬱」P一四七)。
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