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国家犯罪人が解放、長年の夢が叶った  文科系

2024年06月26日 16時10分12秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 今日の毎日新聞で読むことができたが、BBCが今日ネット報道した同じ記事を紹介しよう。イギリスで収監されていたウイクリークスの創始者ジュリアン・アサンジ氏が解放されて、母国オーストラリアに飛び立ったというのである。アメリカの一般人大量殺害などの戦争犯罪記事などをすっぱ抜いて世界に広めた米重罪犯罪人が、新新労働党政権の粘りによってついに解放された。
 嬉しくて飛び上がったが、この上は同じもう一人の米国家犯罪人エドワード・スノーデンもなんとか解放されないかな? 彼はアメリカ人だから助けてくれる国がない?
 これは、豪新政権の国家原則的立派さの顕れなのか、米国力沈滞の結果なのか。

『内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者ジュリアン・アサンジ被告(52)が24日、ロンドン・スタンステッド空港からプライベートジェット機でオーストラリア、そして自由へと飛び立った。これは外交、政治、法律が混ざり合った結果だった。 アサンジ被告は今回の司法取引で、7年間の籠城生活と、その後5年間の勾留の末に自由を手にした。まとまるのに数カ月かかったが、最後まで不確かだった。 英検察庁(CPS)は声明で、司法取引の可能性について「3月に初めて認識した」と説明。それ以来、アサンジ被告の釈放と、「同氏と米政府の希望に沿って」同氏を米連邦裁判所に出廷させる「仕組みについて」アメリカに助言してきたとした。 長年の行き詰まりの末に実現した今回の司法取引は、2022年5月のオーストラリア総選挙が発端とみられる。この選挙によって、外国で拘束されている自国民の帰国を目指す新政権が誕生した。 政権を握った労働党のアンソニー・アルバニージー首相は、アサンジ被告の行動を全面支持はしないが「もう十分」だと主張。被告の釈放を求めた。そしてこの件を、主に舞台裏で優先的に扱った。首相は当時、「外交問題はすべてが拡声器を使って取り組むのがベストというわけではない」と話していた。 豪議会でアルバニージー氏は、超党派の支持を得た。 豪議員団は昨年9月に訪米し、米議会に直接働きかけた。アルバニージー氏も10月にアメリカを公式訪問した際、ジョー・バイデン米大統領との間で自らこの問題を取り上げた。 今年2月には豪議会が、米英両国に対してアサンジ被告をオーストラリアに帰国させるよう求める決議案を、圧倒的多数で可決した。 豪議員らは、影響力の大きいキャロライン・ケネディ駐豪米国大使にも強く働きかけた。 』
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三〇年越しの感謝   文科系

2024年06月21日 22時13分17秒 | 文芸作品
 あれは確か一九八〇年のこと、小学校卒業以来二七年たって初めてその学年同窓会が開かれた。コンクリートに建て替えられる築百年の懐かしい木造校舎とのお別れ会として持たれた学年同窓会が近くの神社の会館であった。居住地学区の中学に行かなか三浦三浦君には、卒業以来初めて会う同級生ばかり。少し早めに会場に着いて、来訪者を一人一人確認していた。と言っても、顔には覚えがあっても名前は出ないと言う人々がほとんど。やがてそのうちの一人の男性が三浦君と目が合うと満面笑顔で「三浦くーん、君に会うために来たんですよ」と近づいて、隣に座った。そして、こう語り継いでいく。
「浜松から来たんですが、本当に君に会うためだけに来たんです、竹田です。覚えておられますか?」
 と言っても、ほとんど覚えもない顔だったのだが、竹田延実と呼んでいたことがよみがえると、二人が関係したある事件を真っ先に思い出した。確か、彼ら属した六年六組で、六月後半の昼の放課に起こった事件である。

 間近に控えた期末テストの勉強をしていた三浦君の耳に突然ドスンッという重ぃ物が落ちる音、次いでビシッと鋭い音が飛び込んできた。〈ただ事ではない!〉、教室の後方に目をやると兼田君と竹田君とがけんか腰で向かい合っていて、状況などから経過がすぐに推察できた。兼田君が自分の椅子に座ろうとした竹田君のその椅子をすっと引いてとんでもない尻餅をつかせたのである。そして、立ち上がりざまの竹田君が兼田君の頬を平手でひっぱたいた。「なにするんだ!」と叫ぶ兼田君に、「それは、こっちの台詞だ!」と竹田君が珍しくいきり立っている。ガキ大将・兼田君の取り巻きたちが、遊び半分で周囲に集まり始めている。〈ただでは済まないな〉、三浦君はゆっくりと竹田君のそばに寄っていった。教室中の目に対しても兼田君がこのままで済ます訳がない。兼田君は、当時まだ田舎の風習が残った名古屋市郊外のこの地域の土地持ち旧家の一人息子。力もないのにこの学区内では威張っている人間なのだ。走るのは遅いし、野球も下手だし、そもそもキャッチボールの筋肉さえいかにもひ弱なのだと、彼にはもう分かっている。この兼田君の転校生いじめに三年生で転校してきて以来、彼もずっと悩まされてきたのだったし、竹田君はこの春に転校してきたばかりの生徒だった。ちなみに、竹田君が、三浦君もよくからかわれた三河弁を使うのは、渥美半島から越してきた三浦君の転校時と一緒だったから、ずっと一種の親しみがわいていた。
「ただの遊びに向きになるなって!」、取り巻きの誰かが言った。「暴力の遊びか!」竹田君が言い返した。「暴力に暴力なら、けんか? けんかなら、授業後にちゃんとやれよ!」と、また取り巻きがけしかける。「本当にやるのか?」、ドスを利かせて、兼田君。竹田君は黙っている。そこで思いついた三浦君がこう引き取る。「じゃあ、僕が竹田君に代わって、兼田君の相手をするよ」。彼の予想通り兼田君が一瞬ひるんだ。転校以来三年がたっていて、ずっと同級だった兼田君のいじめに対する三浦君の抵抗力を兼田君は十分見知って来たからだ。当時の子どもは放課時などに相撲も取ったし、宝取りなどの体力・格闘付きゲームも時に流行した。「宝取りゲームが行き過ぎて、いつもけんかになっては、つまらんだろう? 竹田君も、なんとかもう許してやれよ」、彼は竹田君の目にウインクしながら付け加えた。「それもそうかな。じゃあ、そういうことにさせてもらって、兼田君、いいね?」、で兼田君も表情を緩めて、その場は解散となった。

 竹田君の口火によって同窓会場挨拶の初めから自然なようにこの事件が蘇ったのだが、竹田君が付け加える。
「この場面だけじゃなく、あらゆる所で君が手を差し伸べてくれた。甘やかされた兼田は、自分に自信がないからいつも集団で威張る場面を探してたみたいだったしね。君も転校生で初めはその犠牲になったと当時聞いてたけど、僕にはどれだけありがたかったか」
「東京生まれで都会育ちの僕は、母の実家の渥美半島に疎開して、ずいぶんその『土地』に虐められたんだよね。そのせいで、知らぬ間に正義漢に育ってた」
「そのことは皆もよく知ってたよ。五年二学期に君が学級委員長に選ばれたと聞いた。 あれって、女の子たちが兼田男性グループを嫌ってたから。兼田グループは女性蔑視だったからね」
「よそ者嫌いの『村社会』で、長いものには巻かれろの男尊女卑、・・・、何が民主主義国家になった、か!?」
コメント (5)
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随筆 僕の育メン・クライマックス  文科系

2024年06月02日 02時09分55秒 | 文芸作品
  娘の結婚式で俺が泣くなんて、思ってもみなかった。これまでただの一度も思ったことがないどころか、涙が出始めるその瞬間まで。あれは、よく作られた娘の演出、その狙い通りの効果の一つだったのではなかったか。それならそれで良いのだ。別に、意地で泣くまいとしてきたわけでもないのだから。

 この式は、娘の友人らによる完全な手作り。チャペル風建物での人前結婚式の司会は、娘の職場である小学校のお姉さんのような人らしいし、受付も進行係も見慣れた友人らがやっている。それどころか、こういう式に欠かせないBGMや披露宴出し物なども全て手作り、生なのである。

 まず、式場へ彼氏が入っていく時は、娘の親友のソプラノ独唱で、マスカーニのアベマリア。次に、娘が俺のエスコートで入場していく時には、友人女性トリオがアベベルムコルプスを高い天井全体に響き渡らせる。披露宴では、彼氏の弟の津軽三味線にのって和服の二人の衣替えご入場だ。その余興にも、もう一人のソプラノ独唱でヘンデルのオンブラマイフ。オーボエの生演奏もあって、これはシューマンの曲だとか。
 総じて「手作りの音楽結婚式」という趣である。横浜国立大学教育学部の音楽科出身で、音楽教師として海外青年協力隊で中米ホンジュラスへ派遣二年間なども経てきた娘らしいと、ただただ感心しながら一鑑賞者としてご満悦であった。まさかこの全てが後で俺に降りかかってくるなんて、これっぽっちも思いもせずに。
 さて、披露宴の終わりである。両親四人が立たされて、二人が謝辞のような言葉を述べ始めた。娘の番になっていきなり「お父さん!」と静かに切り出された話は、最も短くまとめるならこんな風になろう。
「お父さん、私の音楽好きの原点は貴方との保育園往復の日々。二人で自転車で歌いながら通ったよね。『ちょうちょ』とか『聖しこの夜』とか、よく歌ったね。思えば、こんな小さい時から二人で二部の合唱をしてた。私たちも音楽にあふれた家庭にしたいと思っています」
 そこで俺は急遽アドリブでこう返すことになった。とにかく、全く知らされていないハプニングだったので、応答の初めにはもう涙ぐんでいたと思う。

「まさか僕が、娘の結婚式で泣くなんて、思ってもみなかったことです。よりによってあんなセピア色の話を持ち出したから。しかもあの話は、僕の最も弱い場面。さて、君が語った自転車通いは、兄ちゃんが入学した後の二年間のこと。それまでの送迎は確かこうだった。家族四人、車で家を出て、車の中で朝食を摂り、母さんを名古屋市西に横断して、遠くの職場まで送っていく。それから、家の近くの市立保育園まで戻ってくる帰りには、三人でいつも歌ばかり。ここまでの時間は約七〇分以上もあって、それから僕の出勤。お迎えも僕で、また歌っていた。その間に母さんは夕食作り。夕食を食べると僕はまた出勤。こんな保育園送迎七年こそ僕を父親らしくしてくれたんだと思っています。『ちょうちょ』も『聖しこの夜』も今でも低音部を歌えますよ。君のピアノ教室通いの練習なんかにも家に居れば必ず付き合っていたし、君のピアノ発表会にはなんとかほとんど出席してきたし。」

 娘が作ったハプニングを我ながら上手く乗り切ったもので、それだけまた泣けてきたというところ。俺にとってのそういう話を、娘が何の予告もなく振ったのである。彼女の方はちゃんと文章にした物を準備していたから、俺がアドリブでどうこたえるかという、演出なのである。『手作り音楽結婚式のフィナーレ』にぴったりではないか。ちょっと敏感な人ならば娘のこんな解説まで分かるような形で。〈父にはこれはハプニングです。でも父はあのように応えてくれました。これが私たちの間柄なんです〉
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