九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

ハリルジャパン(53) 岡崎レスターの優勝が見えてきた  文科系

2016年02月29日 13時12分24秒 | スポーツ
 27日のゲームが終わって岡崎のレスターの優勝が見えてきた思いがした。あと10ゲームほど残して、相変わらず首位にいるのだし、2位以下とはこんな差がついている。

2位のトットナムとは勝ち点2差だが、残りゲームの相手に差がある。3~5位の強豪3チームにプラスしてチェルシーとリバプールを加えた5強豪との対戦が、レスター2に対してトットナムは4つも残っている。特に、トットナムが、優勝の可能性もなくなっていない3位アーセナルと3月初めに当たるのだが、これが大一番になるだろう。アーセナルが勝てば、両チームの勝ち点が並ぶことになる。レスターは高みの見物だが。
 ただ、トットナムは名門だし、今年は特に強い。吉田麻也がいるサウザンプトンから最近移って来たポテッチーノという監督はその評価をこの数年でうなぎ登りにしてきた人物であり、特に守備の指導に定評がある(吉田は、良い監督に守備を教わったものだ。吉田の同僚DFの多くが、世界水準に育ったようで、何人か強豪に引き抜かれていた)。チーム総得点もレスターと並んで首位だが、失点がダントツに低く、得失点差がプレミアでも頭一つ抜けている。ただ、レスターは既にこのトットナムとの対戦を終えており、1勝1引き分けだ。直接対決から見れば、レスターに優勝資格があるというところだろう。

 岡崎は相変わらず先発を続けているが、中盤から前のスペースを埋めるべくを走り回って後半に退くという役割が多く、これはちょっと残念だ。もうちょっと前でプレーさせてやりたいが、この役割で先発に選ばれているわけだからやむを得ない。今年前半と違ってチーム同僚が岡崎を見てくれていて、パスも合わせてくれるようになっただけに「少しでも前に出て得点を!」と願わずにはいられない。

 それにしても、ヨーロッパ強豪リーグで日本人優勝となると、カペッロ監督時代のローマ優勝、中田英寿以来のこと。それも、今回はプレミアに関わる誰もが思いもしなかった「弱者」の、奇跡の優勝ということになる。ちなみに、この時のヒデの同僚トッティがレスターに流れてくるかという噂が出ている。

 このレスターから、来期に向けて誰が強豪に引き抜かれるのだろうか。いっぱい噂が流れているのだが、MFマレズとFWバーディーは今のところ、レスターに残ると語っている。でも、少なくともどちらかの夏の移籍は、確実だろう。


 なお、Jリーグも始まった。ガンバを負かして、今年の鹿島はやりそうだ。世界の傾向を踏まえて、当たりが随分強くなっている。広島も負けたし、混戦と言うよりも激戦になりそう。こういうのに慣れていないJ選手には、どんどんけが人が出そう。つまり、選手を固定して戦うチームは、優勝できない。ゴール前が固くって、肝腎な時に怪我も覚悟してボール奪取が出来るスタイルのチームが、どんどん頭角を現していくだろう。凄く楽しみである。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中央日報より  らくせき・愛知自民を落とそう

2016年02月28日 10時07分39秒 | Weblog
朴槿恵(パク・クネ)政府は3年前、信頼のプロセスで南北関係を改善するという野心を抱いてスタートした。3年が過ぎた今日、北朝鮮崩壊論が信頼のプロセスを押しのけて対北朝鮮政策の中心軸となった。朴大統領の北朝鮮崩壊論は1年間に「北は崩壊する」から「北を崩壊させる」に進化した。北朝鮮崩壊論はソ連・東欧社会主義体制が解体した1991年、金日成(キム・イルソン)主席が死去した1994年、「アラブの春」が波及した2010-2011年に続いて4回目だ。91年、94年、2010-11年には北朝鮮崩壊を期待しただけで、崩壊のための能動的な作用はしなかった。今回は違う。

北朝鮮の1月6日の4回目の核実験、2月7日の長距離ロケット発射を見た朴大統領は、開城(ケソン)工業団地閉鎖とTHAAD配備の決断を下した。朴大統領は2月16日の国会演説で、北朝鮮政権を崩壊させてしまうという趣旨の話をした。「北の政権が核開発では生存できず、むしろ体制崩壊を催促するだけだという事実を骨身に凍みるほど実感させる」。このように2014年初めの記者会見で述べた統一テバク(=bonanza、大もうけ/大当たり)と同年3月にドレスデンで宣言した韓国版「接触を通じた変化」は白紙化した。2015年8月に国防部の「創造国防」セミナーでは、金正恩(キム・ジョンウン)除去を意味するその名もぞっとするような「斬首作戦」が知らされた。

斬首作戦は、2003年の米国のイラク侵攻当時、国防長官ドナルド・ラムズフェルドの「力の中心(Center of Gravity)」に火力を集中する戦略に基づき、バグダッドを先に占領してフセインを除去した戦略と軌を一にする。この戦略は全体主義国家で首脳が除去されれば体制全体が瓦解するという理論に基づく。斬首作戦と北朝鮮崩壊論に対し、北朝鮮は予想通り朴大統領への露骨な暴言と青瓦台(チョンワデ、大統領府)攻撃脅迫で対応している。

北朝鮮崩壊は可能なのか。「北朝鮮は崩壊する」という期待が現実になるには、2011-11年のアラブの春、89年の東欧、89-90年の東ドイツのように民衆蜂起が発生する必要がある。または韓国の10・26当時のように最高指導者を殺害する「金載圭(キム・ジェギュ)」のように窮鼠の状況にある小英雄主義者が現れなければいけない。しかし我々の一部の期待とは違い、北朝鮮にはまだ市民社会に似たものも存在しない。市民革命の発端となる民衆の騒擾が起きる可能性はほとんどない。北朝鮮の携帯電話保有台数が現在の370万台から1000万台ほどに増えた時に期待するシナリオだ。軍首脳の階級を頻繁に変え、党と軍の要人を処刑する恐怖政治の下で、北朝鮮版「金載圭」や宮廷クーデターを期待するのも難しい。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕の世界観に関わって(8) 世界史の『今』って?  文科系

2016年02月27日 11時53分49秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 これも、過去の拙エントリーですが、ここに再掲させていただきます。


『 世界史の『今』って?  2015年11月26日

 パリ・テロに続いて、トルコ・ロシアとか、英仏の軍事大拡大傾向とかなどなどの事件が、「これが世界というものだ」と叫んでいるような世界史の今である。

 全く別のこんな見方も出来るのだが、そんなことはどこ吹く風とばかりだ。
 これは、以下のような近年世界長年、最大の困難、悩みをニュースからかき消すための悪あがき、画策ではないか。12~14日にニューヨークダウは563ドル急落した。これも中国経済不振も含んで、日米欧こぞって作った官製バブルが破裂する可能性もおおいに出て来たと言える。これでは、9年越し念願の米利上げなど、できるわけもない。なんせ、アメリカ国家の累積債務は65兆ドルであって、6100億ドルという年間軍事費が持続不可能なことは誰の目にも見えてきた。
 いつものように、以下のコメントにもいくらかの加筆、補足を加えた。

【 「今という時代は?」 2015-11-25 10:51:43
 上の中日新聞社説はこう締めている。
『世界史の中で今私たちは試されているのです』
 そして、この文章に僕は思う。この「今」とは、どういう今か。文中の「世界史の中で今」とは、どんなものだろう。人間は過去を知り、それを思い出すことによって、未来を考えることができる。

「新自由主義経済の今」は、古典派経済学の自由競争が「さらに拡大した世界」ということだろう。それが世界大の激しい競争になるにつれて、そうなってきた。これに伴い、この陣頭指揮までをやり始める国家も、こう替わってきた。
 古典派経済学の昔は夜警国家といわれたが、国家の安全だけに専心して、それ以外の金はなるべく使わないという国家があった。今の国家はこの夜警国家を更に越えて、自由競争にさらに制限を加えない(規制緩和)どころか、これをオンブにだっこでどんどん助長する為に金を使うだけの、福祉国家の正反対物になったということだろう。この福祉国家というのは、夜警国家の後に生まれたケインズ流需要重視国家や、イギリスの「ゆりかごから墓場まで」などのことを指している。ところが、今みたいに夜警国家に回帰し始めると、アメリカや最近のイギリスのように、軍事を新たに急増させる国も出てくるというわけだ。

 この夜警国家傾向の行き着く先がどこか、それが怖い。が、世界史の教える所に依れば、やがてまた正反対の国家が生まれる。その反対物は、過去の福祉国家を踏まえつつ、今の「世界大」をも包摂した新たな「福祉世界」であろうとは、容易に推察は付く。

 ただ、そのときまで今の悲劇がどの程度続き、深刻になるか。「世界史は人間愚行の陳列台」と述べたのはニーチェだったが、これも一面の真理。ただ、そういう時代だけに、過去の福祉国家、「民主主義」、「自由、平等、友愛」の歴史などはよーく覚えていたい。トルコ・ロシアや、シリアだけに目、心を奪われることがないように。】

 
【 ポスト資本主義世界  (文科系)2015-11-25 15:22:33
 すぐ上のコメントを連れあいに話してみた。彼女がここのところ一か月ほど、こういう本を読んでいるから、僕もちょっと覗いてみたこの本の「世界史の今」を知りたかったからである。
『ポスト資本主義ーー科学・人間・社会の未来』(岩波新書 広井良典千葉大学法経学部教授著)。
 上のコメントの内容をこの本がどう書いているかという討論になった。この本の近未来キーワードは、「緑の福祉国家」、「持続可能な福祉国家」、「地球倫理の可能性」ということのようだ。一応我が意を得たりという印象は持ったが、問題はどこから、どう変えていくのかだろう。今は既にこんな世界なのだからと、そんな話も彼女から当然のように出てきた。
 徴兵制はなくとも、命の値段も金次第というわけで、貧乏人が「自ら」兵士になる時代である。彼らが金持ちと金持ちが所有する「国家を守る」のである。それも、65兆ドルの累積債務がある国家が、年6100億ドルを費やして。なんと不条理な世の中であるか。】


【 吹っ飛んだ所得再配分政治 (文科系)2015-11-25 20:45:32
 上のコメント群をいくつか補足します。
『(定常型社会について)余分なものは作らないという「自給自足」程度の意味』というのは、こういう説明も要ると思います。国家としての自給自足ではなく、地球としてのそれね。

『社会思想は反民主主義としての「機会の平等」の否定と大格差の肯定』
 ここは『貧富の世襲』と『中産階級の没落』と書くべきところかも知れません。

 最後に、初めのコメントのこの部分。
『自由競争に制限をしないどころか、これをオンブにだっこで助長するのみの、福祉国家の正反対物』
 これは例えばこういうこと、世界として金融資本の租税回避国、策動を認めているということ。さらに、資本を呼び込みたくって法人税値下げ競争の世界になっているということ。それで税収は少なくなり、個人への税がどんどん増えているということ、などなど。これでは、民主主義国家の根幹である「税による所得再配分政治」などは有名無実で吹っ飛んでしまいます。日米など世界最先端の先進国ほどこうなっているのが、その証拠。アメリカの貧乏な大学入学希望者は、軍隊入隊を経ることによって大学入学資金を得ています。イラクやアフガンで死んだのは、そういう人々でした。すべてアメリカの後を追いかけている日本も、安保法制の元ではそうなって行く可能性大と思います。。】 』
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「よたよたランナーの手記」(152) フクラハギを痛めた  文科系

2016年02月27日 05時00分47秒 | スポーツ
 2月になって19日に1時間9・4キロまでとぼつぼつ上げてきたとたん、左フクラハギを痛めた。23日のジムでのことだ。
初めの30分で、痛めた後の最後部分を歩き、計3・5キロほどで切り上げて帰ってきた。こんなのは随分久しぶりだが、早く切り上げてきたのは良かった。1日経って分かったのだが、意外に重そうだから。26日夜現在、完全休養3日たっても、患部にまだ違和感が残っている。
 
 フォームを換えたことと、やはりちょっと走る回数が間遠になっていたこととが原因らしい。ただ、外走りなどでも感じたことを前回にこう書いているから、予期した通りと言えないこともないのである。
『特に、11キロ時あたりの心拍数を安定的に下げることと、右の膝、左のフクラハギを強化することとが必要なようだ。』
 つまり、右の膝と左フクラハギの弱さを認めるような兆候を感じ取っていたのである。疲れがそこに集中していたということで、ただ走るのではなく、それ以前にちゃんとそこの特別な強化をしなければいけなかったということだ。
 また、フォームを換えたのがやはり、冒険に過ぎ、間違いであったかも知れない。つまり「年寄りの冷や水」!

 まー、フォームにも気をつけて、例によって、ボツボツやっていこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕の世界観に関わって(7) 随筆 「国語(科)は学問ではない!」?  文科系

2016年02月26日 07時49分43秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 現日本政府がその大学政策において、人文社会系学問を縮小しつつある。これは人間内面そのものへのある蔑視政策とさえ言えるものだ。全体主義国家、独裁国家などでは、歴史上常に起こされた動向であって、人間やその社会についての狭い理解を国民に押しつけるわけだ。例によって旧稿の再掲・改作で恐縮だが、以下のように。


『 随筆「国語(科)は学問ではない!」?  2015年01月29日

 子ども、青年期などにおいて、標記のことを唱える人は多い。僕自身も中学2年だったかの国語の時間に、若い女の先生にそんな質問をして、1時間の授業を潰してしまった覚えがある。この事件の詳細は覚えていないが、数人の級友と一緒に発した質問だったので、そうなったようだ。

 では、よくあるようにこう言い逃れるやり方は正しいのかどうか。国語で書かれた内容の方が学問か否かは置いておくとしても、国語という言語とその使用法は学問としてきわめて重要なものである。こういう語学に限定した国語(科)の定義は誰もが認めるはずだが、この「書かれた内容」を横に置いた半分の定義だけでは、国語(科)の意味、重要述語の抑えとしては3分の1の価値もないと、これが僕のこの随筆の趣旨だ。

 さて、少なくとも20世紀以降の人文科学は、以下のことを明らかにした。
 言語能力、特に抽象的言語能力が不足した子どもは、学力一般が劣るのである。思考力一般と言語能力とがほぼ同じものと言っても良いほどに。これが言いすぎであるとしても、少なくともこうは言えるというように。両者の一方が欠ければ、他方もそんなに発達はできないと。このことはまた、以下のことをも示しているのだと思う。
 言語能力が文字通りの言語能力という狭い範囲に留められるものではないということを。次いで、このことに、20世紀の発達心理学などから発見された次の事実もおおいに関わっていく。
 この言語能力・思考力一般という意味での言語能力が劣った青年、成人には、社会性も欠けるという事実である。もっと言うならば、こんなことが言えるようだ。言語能力と思考力と社会性(さしあたっては、他人の言動が見え、分かり、共感するということなどなど)は、人間においては相互に影響・発達させ合う同じ一つのことの別の側面であって、その同じ一つのこととはその人間の内面のすべてとさえ言えるのではないかと。自分なり他人なりの人間の内面のことを出来るだけ正確に現そうとしたら言語に頼るしかないという一事をとっても、このことはご理解願えるはずだ。心の中のことは、目に見え、手で触るなどということが出来ないからである。ただここで、この事だけは言っておきたい。東大理科を受かるような言語能力があっても社会性が欠ければ営業が出来ないというような例はごろごろあると。社会性が欠ければ、その言語能力、一見高度な「思考力」、内面は偏ったものだということだろう。


「国語科は学問ではない」という子どもが目の前に現われたら、今の僕なら以上のことをしっかり語ってあげたい。きちんと答えないと「必ず、発達が歪む」と考えているからである。最近賢い女の子二人が、相次いで残忍な殺人事件を起こしたが、以上書いてきた問題が本質的に関わってくると解説する専門家も多いのである。

 最後に、付け加えることがある。以上のようなこと全てを40年高校国語教師をやってきた連れあいに話してみた。その間に愛知県の最難関校(の進路指導係)を含めていわゆる受験校三つを渡ってきた人である。どんな返事が返ってきたか。
『今は、そんな質問をする子はいない。国語が、受験の主要3科目に入っているからだ』
 いや、驚いたのなんの。

 が、こんな現状も大問題であると、又別の問題性を感じたものだ。こんなに大事な学問を受験手段中心で扱っている。道理で、文科省が大学の人文、社会系の学問分野を減らそうとしている訳だ。国語を思考能力の範疇だけで扱って、社会性、人間の内面一般との関係で見ていないからこんなことができるのだろう。怖ろしくなる。なお、国語科を軽視して道徳科を重視しても、虐めも賢い子の悲劇的事件も一向に減らないはずだ。安倍首相には特に、そう言いたい。人の心こそ実は、究極の思考力、真理の最大問題なのだと強調したい。道徳を決まり(の集積)か安っぽい「善悪」のように扱うのでなければ、国語科、人文・社会系学問を軽視はできないはずなのである。』
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東亜日報より  らくせき・愛知自民を落とそう

2016年02月25日 09時30分34秒 | Weblog
中国政府が中朝貿易の半分を停止すると、官営「環球時報」が23日付で報じた。特に同紙は、中朝貿易の42.3%を占める石炭取引を来月から停止すると時期まで明らかにした。環球時報は共産党機関紙「人民日報」の姉妹紙で、発行部数は240万部にのぼる。

環球時報は記事で、中朝国境地域の遼寧省丹東のある貿易業者の話を引用し、「3月1日から北朝鮮との石炭貿易が停止になる」とし、「原因は、北朝鮮の衛星発射に対する金融制裁の可能性がある」と伝えた。また、「商務部や海関総署が命令を下し、遼寧省がすでに通知を受けたと認識している。中国と北朝鮮の貿易の50%が停止になった」とも話した。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕の世界観に関わって(6) 人間の文化活動  文科系

2016年02月25日 08時58分21秒 | Weblog
 今回は、内容的に前回の「昭和人論」の続きのようなもの。昭和人の(特に男性の)特徴は、まず働くこと。次いで、出来るだけお金を稼いで、そのお金で車、ブランド物など何か物を所有するのを自己実現と見るようなところがあったこと。そして余暇があてられる文化活動については、テレビなど大衆商業文化の消費者になっている場合が多かったと言えないでしょうか。文化などの鑑賞というのは、人間の文化活動とはちょっと違う気がするという意味です。
 そして、以上のようなことが今の若者に甚大な影響をもたらしていると、僕は考えてきました。人生にそもそも(人間らしい)希望が持てるかというようなことも含めてのことです。

 以下は、08年に書いた拙エントリーの改作・再掲です。


『 人間にとっての文化「活動」とは  2008年08月15日 | 文化一般

 昨日の僕の「サッカー物投稿」へのまもるさんのコメントにお応えした物を一部手直しして、投稿に格上げします。まもるさんの「子どもとスポーツ」の観点を大事な物と捉えたからです。

 まもるさんへ
 子どもとスポーツ。「やるスポーツ」人気の多様化・分散化と、全般的なその人気低下。「やるスポーツ」と「見るスポーツ」と。このような社会問題を網羅してなかなか面白いスポーツ・コメントでした。あとこれに、「やるスポーツ」としての「生涯スポーツ」が入ればもっと面白かったけどな、などと読んでいたものです。

 絵画、音楽、料理と酒など、人間が歴史的に積み上げてきた五感の自然な楽しみに、運動感覚の楽しみというスポーツや文字文化なども加えて、人間の文化活動論議がここで盛んになることを願ってきました。それらを「見、聴き、味わう」だけでなく、それらを「やる」意味をこそ強調してです。

 文化活動を「やる」がない、「見、聴き、味わう」は人間性の大事なところで「本当の主体性」が欠けてしまい、そういう「人格」は今やテレビ、映画、マスコミ、「オタク商売」などの単なる消費者になっているのではないでしょうか。文化、「感覚の好み」について、主体性が非常に乏しいと言えないでしょうか。「無意識のうちの主体性無し」も含めて、ですね。

 体制的文化に抵抗している積もりの人々でも、自分の文化を体現していなければ、体制的文化と感性の所ではあまり変わっていないとも言いたいです。さる日本左翼政党の長老、重鎮のH・T氏が、最も身近なその連れ合いさんが証言したように、テレビ時代劇の猛烈なファンであると最近何かで読んだ覚えがあります。僕はテレビ時代劇ほど馬鹿馬鹿しいものはないとみてきました。身分制社会の人間模様が、「建前・権利としては平等な」今の人間社会と同じ感覚で作れるわけがないじゃありませんか。テレビ時代劇とは、その時代に即したリアリティーがないという意味で、並みのSF物や推理小説以下の単なる「娯楽」ということです。このように解釈しなければ、日本近代文学の最大テーマの一つが「封建的周囲と新しい自我との葛藤」であったという意味さえ分からなくなるはずです。

 以上の文化に関連して政治とは、貧困、困難の除去というだけではなく、それぞれかけがえのない人生を価値あるものとする役割もあると、僕は考えてきました。国家が社会教育を含めて教育に携わるとは、そういうことでしょう。念のために言えば、これは教育の国家統制とは違うこと。現に、日々の義務教育でも芸術文化のカリキュラムが存在するという、そのことに関わることです。

 人生に価値ありと子どもや若者たちに示せないで生活困難の除去のみを説いても、極論するならば人生半分を語っているに過ぎないと思います。そんな大人を見て子どもが、「それらしい人生への期待感」のようなものを育んでいけるわけはないとも考えてきました。「俺自身は楽しみらしい楽しみを持ってはいないけど、俺の生き甲斐とは世の人々の困難を除くことである」などと、良い人生の人が「その程度」では、その子どもらが人生というものへのそれらしい期待感を育めるわけがないと考えてきました。ちなみに、その程度の「大望」では、国家・社会・世界の政治も変えられないと思います。

 日本の中産階級の親たちは右も左も、何もない戦後の貧しさから始めて、働きに働き(働かされに働かされて)、世界で最も多い個人貯蓄や「狭いながらも楽しい我が『家』」を残してきました。その代償が自分の人生に希望を創れないニートやパラサイトを大量に生み出しているという側面はなかったでしょうか。』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕の世界観に関わって(5) 昭和人論  文科系

2016年02月24日 02時08分32秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 即席の日本人論と昭和人論を一つ。

1 まず歴史的背景について分かりやすいように、歴史順に箇条書きにしてみましょう。

①織豊時代、戦国時代に、日本の経済力が凄まじく伸びた。

②その力が、徳川の安定期に入って鎖国もあったりして、ほぼ「国内消費」にだけ使われた。回船など国内流通、商業もおおいに発展して、100年もたたないうちに、大都市などでは元禄の町人文化という形で、庶民文化も先進国相当の発展に達した。日本人が1日2食から3食にかわったのも、このころだ。基本的に「生産と消費の国内好循環」は徳川末期まで波はあっても続いていたのではないだろうか。この、アジア有数の力が、明治維新でいわゆる近代化が達成されていく原動力になっていったのだと思う。

③明治維新は一種の革命だったと僕は思う。下級武士により旧来身分制度(の固定化)が崩れ、できる庶民が、あの時代のアジアとしたら差別少なく登用された。こういう民主主義の一例が、例えば学校制度にある。庶民登用型学校制度という側面のことである。全国に女子と男子二つずつの高等師範学校が、西と東に設けられた。男子は広島と東京、女子は奈良と東京に。この四つは一般帝大よりはるかに難しく、それだけ教師が大切にされていたということだろう。ここには何の身分、家柄はなくとも成績がすごくよい人(今の超難関医学部ほどか?)なら、多少のお金があれば(一般帝大平均よりも貧乏な人でも)入れた。逆に金があっても、家柄がいくら良くても、成績が満たなければ入れなかった。ここを出た人々が、日本教育界の指導者としてそれぞれ東と西の全国に派遣されたから、こういう「立身出世流儀(教育)」が全国に広まっていった。明治、大正時代の世界でもずば抜けた識字率向上は日本人の民主主義的教育水準の高さを示していると思う。

④そして、敗戦である。廃墟からの再建熱と「民主主義的出世流儀」・学校制度のゆえに、60年代まで庶民の教育熱がどんどん広がっていく。この60~80年代ほど大学就学率が高まった国はこのころまでの世界ではちょっと希なのではないか。この平均的教育水準の高さという点は、英仏など過去の先進国からも驚かれている所だ。
 ただしその教育が目指すモノが、戦前とはちょっと変わった。戦前の旧制高校は「弊衣破帽」「末は博士か大臣か」に象徴されようが、戦後は「博士、大臣よりも『大企業の社長』に」というように。つまり、仕事内容よりも金が大事な社会になったのだろう。
 以上が、昭和人なのだと思う。

⑤以上のマイナスの負の部分、側面にも触れねばならないだろう。相当民主主義的で、世界の時代にも合った?ものだったとは言え、基本的に上からの改革であったということだ。各界の戦略、つまり長期的・全体的な方針は「上から下りてきた」ということである。組織、団体の上に上るほど戦略に絡めるが、そういうのはごく少数の人だったし、封建的身分制度の残りかすもあったりして、民主主義の全体的定着は近代化の進展に比べれば非常に弱かったということである。例えばこういうように。
 明治、大正の日本近代文学の最大テーマは、近代的自我であった。村の身分、家柄、本家分家、男女差などなどに押しつぶされる個人の苦しみを描いたものだったということだ。


2 よって昭和人の特徴は

①平均的に世界1と言って良い働き者で、仕事上気も利いて、働きの質も高い。
②上に従い、競争を好む。上の顔色を見ながら、組織人として多分世界でもトップクラスの有能さを示す。ただし、「専門」と「組織」以外には弱い。
③過労死、ノイローゼ・鬱病、自殺の多さなどは、以上の結果でもあるのだろう。以上の反面として、「社会性という習慣、心をも含んだ広い意味での人間関係」に極端に敏感なところがあるということではないか。非民主的な公私混同習慣なども、そうさせているのだろうが。
④趣味、文化活動は大いに必要だと思っているが、若い頃にその養いが少ないので、趣味とか、ましてや相当の知識人でも「文化」とかいうようにはなりにくい。戦前までの伝統文化が欧米文化移入によって途切れてしまった事も関係していよう。
 廃墟育ちでもあり、味覚、聴覚、視覚など五感の養いが少なかったからでもあるのだろうが、「好き」ということが弱いと思う。音、形・色、味、運動感覚など(の芸術・文化)というものは好きでなければ極めようもない。飯は掻き込むモノ、古い家は壊して新しくするのがよいという具合である。文化への尊敬、その鑑賞者は結構多いと思うが、アマチュア創造者が少ないのではないか。
⑤その教養・精神は、便宜主義で、哲学がない。あっても、また相当の知識人でも、便宜主義の哲学、生き方ノウハウ論の延長程度である事が多い。物事を突き詰めて考えず、習慣的にだけ反応し、考えてきたのだと思う。常識の範囲から出ることが少ないということだろう。③④が関係しているのではないだろうか。


3 以上と、後の人々、例えば平成成人組などとを比べなければ、昭和人論としてはまだ不十分だろう

 ①の現在は、「平均的には」最も落ちてきていると思う。②は、①ほどではないがやはり平均的には落ちてきていると思う。③は一種もっと深刻になっている。④はオタクというのも含めて、大事にされるようになってきた。ここが、後の人々が昭和人と最も違う「豊か」なところではないか。お祭り好きなど、「楽しい」がすきでもあるし。⑤は相変わらず弱い。日本知識人の最も弱いところだと思う。だからこそ③が整理できず、④がオタクになってしまうのではないか。


4 昭和人受け継ぎ、この国の未来に関わる結論

 少子化の成熟国の子ども、人間は、親、先輩がその成熟を作ったよい所を受け継がず、悪いところを見ていて、反省、改善はするのだが、はてまっとうに改善できるのかどうかといったところ。それで成熟国は、古今東西常に衰えてきたのではないか。その「正しい民主主義度」のエネルギー、「格差固定」の排除があるか無いかによって、現状維持継続期間の長短はありながらも。ちなみに、イギリス、フランス、ドイツなど明治日本がその民主主義で模範にした国々も、今や新たな身分固定社会になり、発展の芽はなくなっているのではないか。これだけめまぐるしい世界、社会になれば、3代目が家をつぶすと言われることが国にも当てはまってくるようだ。
 ワスプなんて習慣があったアメリカだって超大国で100年ほど続いているが、移民と東欧没落がなければとっくに没落していたと思う。明治、大正生まれを祖父とすれば、現日本の中心は丁度3代目だし、移民は毛嫌いしている人がまだまだ多そうだ。


(2010年1月15日のエントリーを、再掲)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆  歴史学?「南水行二十日」   文科系 

2016年02月22日 15時48分49秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 有名な魏志倭人伝にある邪馬台国への行き方の解釈に関わって、二つの本を読んでみた。一方は「古代国家はいつ成立したか」、著者は阪大名誉教授の考古学者・都出比呂志。今一方は、同じ岩波新書の「出雲と大和」、この副題も同じような「古代国家の原像をたずねて」。こちらの著者は、国際日本文化研究センター名誉教授とある村井康彦。日本古代・中世史専攻とあったから、歴史学者なのだろう。

 以下に見るのは、有名な「南水行二十日」以降の下りの解釈である。なお、前著は二〇一一年、後著は二〇一三年にそれぞれ第一刷発行だから、両者が扱いうる歴史資料の差はほとんど無いと見て良い。

 さて、後著の解釈はまるで物語だ。実証が都出の文章に比べればあまりにも少なくて、大小の推論、断言で進んでいると言っても良い。『「南行」を『「東」に改めるべきであろう』と語るのは辛うじてよいと観ても、以下のように進められる物語り調は、推論が断定になっているとしか僕には読めなかった。
「東行」が瀬戸内海を行ったとするもう一方の説は海が荒くて採用できず、『(日本海は)東流する対馬海流があり、それに乗れば容易に東へと移動することができる』から、投馬国は「出雲辺り」とされて、出雲以降、邪馬台国が奈良県になっていく説明は、こんな調子になっている。
『「水行十日」は丹後辺りと考えるが、その根拠は久美浜湾がこの上ない良港の条件を備えていたからである。ここで上陸し、陸路をとること(記載にはないがここからは「南」である)一か月にして到達したのが、邪馬台国であったという道程が考えられるであろう。たどり着いた邪馬台国はヤマトの国=大和国(奈良県)である』
 瀬戸内海航路東行ルートは「論理」、推論で無視され、良港という理由によって「水行十日」地点は丹後になり、「陸行一月」が「という道程が考えられるであろう」ということから、最後は「である」という強い断定で結んでいる。
 どうだろう、この本が一般向けに書かれた点を割り引いても、あまりにも粗すぎると言えないか。歴史的に大々的議論を呼んできた魏志倭人伝の問題の箇所を処理してこんな文章を書くというのは、果たして歴史学と言えるのだろうか。実証的説明がなければ、僕には歴史学とは思えないのである。

 他方この部分を、前著はどう扱っているか。極めて控えめな書き方なのである。
『投馬国の位置については二つの解釈が可能です。瀬戸内航路を取れば、投馬国は岡山県付近、日本海航路を取れば島根県付近となります。また、邪馬台国と戦ったという(と魏志倭人伝に書いてある──文科系注)狗奴国は、その東の東海地域の勢力になるわけですから、実際の地理にうまく当てはまります。
 また「魏志倭人伝」のなかに、邪馬台国の位置について「その道里を計ってみると、ちょうど会稽(かいけい)の東治(とうや)の東にあたる」という記述があります。会稽の東治というのは今の中国福建省にあたりますから、そこから東方をさせば、沖縄諸島に行き着くことになります。
 このように邪馬台国の所在地についての記述自身が矛盾を含み、後世の人を惑わす罪つくりのタネとなったのですが……』
 これを読むと、魏志倭人伝そのものについてこんな解釈さえ湧いて来るだろう。「魏志倭人伝」の著者(に資料を提供した人々)自身が邪馬台国を実際より遙かに南だと錯覚していた、とも。この可能性さえあるとして、都出はこんな証拠資料を上げている。
『一五世紀の明の時代から保存されている「混一疆理歴代国都之図(こんいつきようりれきだいこくとのず)」という地図が中国にあります。これは一五世紀の朝鮮で作成されたものですが、この地図では、日本列島は九州を北に青森県を南に描き、実際の列島と九〇度程度のずれがあります。しかも位置そのものが実際よりもかなり南に描かれています。このような地理観が古代から長く中国や朝鮮半島にあったことを室賀信夫氏は指摘しました』

 こんなわけでさて、僕には都出の文章の方が遙かに馴染みやすくて、親しみを覚えるのである。実証できていない余分な断定を避けているからだ。もっと言うと都出は、まだ実証できないことへの推定は少なく、断定していることには必ず実証材料を上げている。そして、文章そのものを総体として、膨大な証拠資料ばかりで展開していると感じた。歴史学というのも、やはりそういうものと言いたいのだが、どうだろうか。なのに村井の論述は、推論ばかりが目立っているから、「……と考えられる」という長い「お話」ばかりが続く印象なのである。これでは、素人に対してさえ、大和説だけではなく文献史学そのものの信憑性をさえいったんは揺るがせることになるのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丸山議員の発言   らくせき・愛知自民を落とそう

2016年02月21日 10時09分56秒 | Weblog
憲法上の問題でもありますけれど、ややユートピア的かもわかりませんけれども、例えば、日本がですよ、アメリカの第51番目の州になるということについてですね、例えばですよ、憲法上どのような問題があるのかないのか。例えばですね、そうするとですね、例えば集団的自衛権、安保条約、これまったく問題になりませんね。それから今、例えば、拉致問題ってありますけれど、拉致問題って恐らく起こってないでしょう。それからいわゆる国の借金問題についてでも、こういう行政監視の効かないような、ズタズタな状態には絶対なっていないと思うんですね。


これはですね、例えば日本がなくなることじゃなくて、例えばアメリカの制度によれば、人口比において下院議員の数が決まるんですね。比例して。それとですね、恐らく日本州というような、最大の下院議員選出州を持つと思うんです、数でね。上院は、州1個で2人。日本をいくつかの州に分けるとすると、十数人の上院議員もできるとなると、これはですね、世界の中の日本というけれども、日本州の出身が、アメリカの大統領になるという可能性が出てくるようになるんですよ。ということは、世界の中心で行動できる日本という、まあ、その時は日本とは言わないんですけれども、あり得るということなんですね。


バカみたいな話だと思われるかもしれないかもしれませんが、例えば今、アメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ。はっきり言って。リンカーンが奴隷解放をやったと。でも、公民権も何もない。マーティン・ルーサー・キング(牧師)が出て、公民権運動の中で公民権が与えられた。でもですね、まさか、アメリカの建国、当初の時代に、黒人・奴隷がアメリカの大統領になるとは考えもしない。これだけのですね、ダイナミックの変革をしていく国なんです。


そういう観点から、例えば日本がですね、そういうことについて、憲法上の問題があるのかないのか、どういうことかとお聞きしたい。

              

これが全文だそうです。
一杯飲みながらの雑談なら判りますが、国会の憲法を論ずる場でいうことでしょうか?
アメリカの代理人として、日本の憲法を論ずる発言かな?

それならナショナリストの皆さんが黙っているのはヘンだし・・・




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空気が変わったのか?  らくせき・愛知自民を落とそう

2016年02月21日 09時49分48秒 | Weblog
高校の社会の先生が「ネトウヨ」らしい生徒に
告げ口をされて、大阪の本部から学校に抗議が。

これは前にはなかったこと。
朝日新聞も右に舵をきっています。

もう安倍さんや石原さん、橋下さんの力ではなく
国民の間の空気が変わったのかも。

外圧に対抗して世論は極端に走りやすいもの。
韓国でも核武装が国民の半数以上の支持を得ているとか。

こうしたなかで野党五党が選挙協力で一致。
空気を入れ替えることが出来るのか?
期待は大きい。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕の世界観に関わって(4) 世界文明の始まり方  文科系

2016年02月20日 18時10分09秒 | その他
 トルコ旅行のバスの中、ある方と大論争になった。議題は、トルコは今現在宿泊してこれを書いているコンヤという都市の近くにあるチャタル・ホユックという古代「都市」の位置づけをめぐって。二人ともが初めて勉強したこの「都市」は、世界最古四大文明(メソポタミア、エジプト、インド・インダス川流域、中国・黄河流域。それぞれ差があるが、紀元前三八〇〇~三〇〇〇年ほどにできた)よりもはるかに古い。紀元前七〇〇〇年ほどにできたもので、農耕、牧畜などがあって、三〇〇〇~八〇〇〇人の「都市」を形成していたという。ただ、支配階層など身分の存在を示すものは未発見ということだった。なお、この遺跡自身の発見が一九五八年だそうで、全容解明は遥か先の話らしい。四大文明までの歴史がより細かく解明できる考古学、人類学上でも最重要遺跡の一つとして、二〇一二年に世界文化遺産になったばかりだそうだ。

 さて、農耕・牧畜と大規模共同体の形成の後にできたはずの身分・階層、奴隷制度、国家、宗教などがないからここは文明とは言えないというようなことをお相手が語ったところから論争が始まったのだった。対して僕は、こういう性格の「都市」がこんな昔にあったとすると、このチャタル・ホユックは人類史を塗り替えるような、世界四大文明と比肩できる大発見だと強調したことになろうか。支配機構、奴隷制度、大建築物、宗教などを重く見るか否かという意見の違いに過ぎないのかもしれない。「四大文明はこれらすべてがあったところに特別の意味がある」というがごとき彼の主張が、僕にはこう見えて仕方なかったのだ。農耕・牧畜・大規模共同体の形成の歴史的意義を軽視していると。

 ところで、四大文明よりも古い「都市」は、チャタル・ホユックだけではないとこの後に分かった。イスタンブールも紀元前六五〇〇年には「都市(一定規模の定住)」があったようだし、チャタルほど大きなものではなくとも、トルコ南のメソポタミア(イラク)には農業、牧畜実施を土台とした「都市」がいくつか見つかっているようだ。ただ、この農業、牧畜と都市出現の関係が難しい。この流れで大切なのはこういう理屈かと思う。
①狩猟・採取経済では、一カ所にたくさんの人々が住めないし、第一定住という事自身があり得ない。食料に限りがあり、季節移動生活になるからだ。
②また、狩猟・採取経済では、遊んでいられる身分も奴隷制度も出来ない。そもそも貧富の差が小さすぎて奴隷を支配する軍事組織も出来ないからだ。
③農業、牧畜が生まれて初めて、一定数の定住、貧富の差、その軍事支配機構、奴隷制度などが生まれたと言える。
④世界最古四大文明は、以上を経て出来上がった。だからこそ、農業、牧畜があって、三〇〇〇~八〇〇〇人が定住していたチャタル・ホユックが紀元前七〇〇〇年に存在したことが、画期的な意味を持つわけである。
 ところでさて、こういう文脈の中で、紀元前六五〇〇年のイスタンブールに一定数の定住があった事、イラクにチャタル・ホユックよりも古い農業・牧畜地帯があった事が大切な意味を持つわけである。

 さて、以上から見れば日本の三内丸山遺跡などはなかなかのものと分かる。紀元前一万年ほどに始まったと言われる縄文時代、その前期中葉には集落があったのだから。もっとも縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六期と、紀元前四世紀まで続くのだ。ただ、「縄文農耕論」が問題になるほどに、日本農業の発生時期は大問題らしい。
 こういう歴史を考える時、今どき「日本人、日本人」と何か特別の人類、区分のように叫んでいるネトウヨ連中が笑える。三内丸山も含めて以上に述べた現生人類の全てが、何回もあったアフリカ脱出に起源をもつ人類がいる中で(ハイデルベルグ人とかネアンデルタールとか、ジャワ原人とか北京原人とか)、十五万年ほど前にただ一度アフリカを出た女性グループから生まれた兄弟だということだけははっきりしているのだから。そしてこの兄弟達に五万年ほど前に「人類共通文法」ができたと、これは現代の大言語学者チョムスキーの学説である。こういう流れを経て、農業・牧畜のイラク・メソポタミア、何千人もの定住・チャタルホユックから、世界四大文明へというのが現代文明への構造的な流れであろう。これらの子孫としての日本人はだからこそ、北方起源・混血説も示しているように、朝鮮民族や昔の満州人と兄弟もいい所なのである。兄弟とケンカしてどうするのか。部族兄弟のけんかが今見えるとしたら、共通の部族先祖はさぞ泣いていることだろう。もっと言うと、文字にせよ仏教にせよ、全て彼等から学んだものである。彼等から直接学んだものでないものは、縄文の壺、漆器というほどにごく少数である。だからこそ、漆器の事を英語でジャパンと呼ぶほどなのである。

 現代社会に繋がっている古代文明発生を学ぶほどに、世界人類は兄弟という思いが強くならざるを得ない。逆を言えば、日本の特徴、外国の最近の特徴を善悪くっきりと分けてのように語るやり方こそ、悪しきナショナリズムのやり口のはずだ。


(これは2014年3月26日エントリーの再掲です)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「よたよたランナーの手記」(151) フォームを変えた   文科系

2016年02月20日 00時27分39秒 | スポーツ
 1月25日以来これを書いてなかった。ギターの行事があって、けっこう忙しかった関係もある。

 1月11日に30分×2回で10・3キロというここ9年無い1時間の記録を出して、以来「ぼつぼつ」とやってきたと前回には書いた。こんなことも書き加えて。
『ころを見てまた今度は10・4キロ狙いということなのだが、これだと11キロ時速をかなりやらねばならないだろうから、今の僕にはもう難しいかもしれない。・・・・ もっとも、これが難しければここまででよいという、そんな覚悟はいつでも持っている。もともと慢性心房細動手術以降いったんは、ランニングを医者から禁じられて諦めた身であるし、意地とか執着などというものは僕の年になるとどこかにもう捨てている。
身体を立て、あごを引いて、腰骨前部分から大きく脚を出して、その脚の膝裏をゆったりと蹴る。そして、足自身の蹴りはあまり使わない。自分にあったこんな走りがなんとか出来ていればこそ、自然と11キロ時ピッチ数も160をあまり越えず、心拍数155ほどで走ることが可能になったというもの。この自然体のやりかたではもうこれ以上は出来ないと分かったら、それまでである。ここまで来られた事さえ、僕の心中では夢みたいなのだ』

 30分×2回を、2月はじめの9キロほどから昨日の9・4キロまでと、少しずつ上げてきた。今度は身体の隅々まで気を配って3月中頃を目処に持ち上げていくつもりだ。ちゃんと狙い始めたら、1時間で100メートルづつ上げていく積もりでいる。特に、11キロ時あたりの心拍数を安定的に下げることと、右の膝、左のフクラハギを強化することとが必要なようだ。11キロ時の心拍数は、155程度になれば文句なしだし、下半身の強化はスクワットと外走りである。

 なお、この1か月ほど、走り方もちょっと変えてきた。その準備はもっとも、半年前ほどからやって来たのだが、弱かった左脚をきちんと使って左右均等に使えるようになり、その分右膝と左足首に負担が来ているという感じになっている。ただ、このフォームそのものは、前よりも格段に気持ちがよい。走りがスムースになったと感じている。こういうランナーのフォーム変更はかなり冒険なのだが、ラン再開後まだ3年とちょっとだから、なんとか乗り切れると観ている。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲーゲンプレス、レスター、リヴァプール          1970

2016年02月19日 12時50分55秒 | Weblog
あまりにあれなんでw

ゲーゲンプレスというのはクロップが作り出した弱者のカウンター戦術と呼んでもいいだろう。
これを語るならばこの部分を外したら意味が無い。
何故ゲーゲンプレスをやる必要があったのか?
何故ドイツだったか?
である。

これが無いと単純に「攻撃から守備への早い切り替えと高い位置で激しくプレスしてボールを奪い攻めることでしょ」。
この程度で終わる。
だったら他のチームでも似たようなことは幾らでも出来るじゃないのと。

何故ドルトムントだったか?
後ろからボールを繋いでビルドアップが出来ないポンコツチームだったんだよ。下手で。
だから繋いでる途中で相手にボールを奪われ失点してしまう。
クロップはこれにメスを入れた。
繋がなきゃいいんだよとw
フンメルスが敵陣深くに放り込めと。
そして、クロップが賢かったのは、放り込んだボールをうちのFW、MFは相手に奪われるだろうと理解していたこと。
そこから前でボールを奪われる前提で、ボール保持者以外が3段階位プレスを掛けるようなシステムを作った。
後はそこから奪い返し波状攻撃を仕掛ける。
これが古いタイプのゲーゲンプレス。
要するに弱者のカウンター戦術の一つが出来上がった。

しかしクロップのドルトムント最終年には手の内はすっかり解剖されたのでこのゲーゲンプレスは通用しなくなった。
ではどのように対策されたか?
相手もビルドアップを止めたのである。ただこれだけw
ビルドアップするからプレスの餌食になるので、それを止め同じように放り込めば無問題。
これをやられ結局相手にボールを持たされたクロップドルトムントはあえなく沈没。面白いことにドルトムントは、
ボール保持率が上がると勝率は下がっている。つまりビルドアップ出来ないんだよ。

で、レスターだ。これも下手なチームでビルドアップが出来ない。だからゲーゲンプレスのようなシステムが嵌った。
敵陣にロングボール入れてヴァーディと岡崎が追い掛け回す。
岡崎の役目は主にスペースの潰し役。
チームは勝ち続け評価も上がり万々歳。
しかし、岡崎のゴールは増えない。当然名無し君の突っ込みが入る。
そうなんだよw
俺もプレミア開幕直後から岡崎について色々書いたが結局その通りになってきた。もうストライカー岡崎はあのチームには居ないんだよ。
その仕事はヴァーディ。今のレスターを見ていても決定的場面を外す割合は岡崎がダントツ。
以前からそうだが今ではレスターサポーターの間でも岡崎はシュートは並以下だが守備は抜群の評価。
俺の記憶に間違いが無ければマインツを出るときストライカーとして飛躍したいと。
まあ代表でも2列目しか無理だよな。シュートを磨いてないわけだから。

そしてリヴァプール。クロップ苦戦中。当然なんだが、元々プレミアは繋がないチームが多いんでゲーゲンプレスが嵌るチームの方が少ない。
ただこれは最初から分かっていたことなんでクロップは現在進化形ゲーゲンプレスを構築中。
大体の想像はつくんだが進化形の道程はまだ長そうだな。






コメント (26)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕の世界観に関わって(3) 僕の9条堅持論   文科系

2016年02月19日 11時51分44秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
僕の九条堅持論

僕のブログへ訪問してきたある方が、そこでおかしなコメントを述べられた。
『原理原則から述べれば当然現行憲法は破棄されるべきものなんですけどね。』 
 自衛隊という陸海空軍と憲法との矛盾について、これが、原理原則を本末転倒させた論議であるのは明らかだ。なし崩しに軍隊を作って、世界有数の規模と成し、強引に解釈改憲を通してきたやり方こそ、憲法という原理原則を踏みにじったと語るべきである。こんなことは、小学生でも分かる理屈だ。一国の憲法というものは本来、そういうものだと日々教えているはずだからである。
 あまつさえこの間に、この憲法を守ることが出来る世界作りを大国日本が率先して呼びかけ直す道も、以下のようにあり得たのである。まず、自衛隊を作る背景、原因にもなった冷戦体制が終わった九十年頃。次いで、サブプライムバブル弾けによって百年単位ほどの世界大恐慌状態に落ち込み、諸国家に赤字がどんどん増えた〇七年頃。そういう絶好の機会において、日本が国連において、軍拡を続けたアメリカの投票機の役割しか果たしてこなかったのは実に情けないことだった。なお、この恐慌は持ち直したという声があるが、暴論だと思う。世界にこれだけ失業、不安定雇用がいては、株が少々上がったところで、健全な経済状況などと言えるわけがない。それが民主主義の観点というものであろう。

 一 古今東西、戦争の原因はどんどん変ってきて色々あり、一様ではない。よって「戦争を必然とする人間の本性」のようなものがあるとは、僕は考えない。これが存在するから今後も戦争は永遠に少なくならないというようなことを語るとしたら、その論の正しさを先ず証明してからにして欲しい。こんな証明は論理的にも、現実的にも不可能なはずだから「攻めてくる国があるから対応を考えなければならない」という立論だけでは、全く不十分な議論である。特に長期スパンで戦争をなくしていく視点が欠けたそういう論議は、万人に対して説得力のあるものではないだろう。
 二十世紀になって、第一次世界大戦の世界的惨状から以降、そして第二次世界大戦以降はもっと、戦争違法化の流れが急速に進んできた。この流れは、十八世紀西欧に起こった「自由、平等、博愛」の声に示されるような「人の命は権利としては平等に大切である」という考え方が定着してきた結果でもあろう。つまり、民族平等や国家自決権なども含んだこういう流れが、後退や紆余曲折はあっても近現代史に確固として存在するのである。
 世界史のこんな流れの中からこそ、長年の努力でEUもできた。EUの形成は、それまでの世界的戦争の先頭に立ってきたような国々が、互いへの戦争などを放棄したということを示している。
 二十世紀後半になって、大きな戦争は朝鮮、ベトナムなどで起こったが、あれは東西世界体制の冷戦に関わったもので、その対立はもう存在しない。それどころか、中国も資本主義体制に組み込まれた現在では、日本のような先進大国を攻めるというような行為は、中国も含めた世界経済をがたがたにするという世界史的汚名を被る覚悟が必要になったとも言える。今時の大国の誰が、ヒトラーのように人類史に悪名を残すこんな無謀行為を敢えて犯すだろうか。

 二 さて、こういう世界の流れを観るならば当然、自国への戦争に関わっても二つのスパンで物事を考えなければならないと思う。一つが、「当面、日本に攻めてくる国があるか。それに対してどうするのか」と言うスパン。今一つが、「戦争違法化の流れを全人類、子々孫々のために推し進めるべき各国の責任」というスパンであって、これは、近年新たに目立ってきた世界の貧困問題や食糧問題などを解決するためにも世界万民が望んでいることだろう。なお、この二つで前者しか論じない方々は、論証抜きの「戦争は永遠の現実」という独断のみに頑強に固執して、数々の人類の不幸を全く顧みないニヒリズムだと、断定したい。
 以上のことは、世界の大国アメリカを観れば容易に分かることだ。アメリカは相対的貧困者や満足に医者にかかれない人々やが非常に多い「先進国」である。高校を卒業できない人が白人でも四人に一人であり、黒人やヒスパニックでは半分だ。現在の軍事費を何割かでも減らせれば、これらが救われる財政的条件が生まれる理屈だが、こんな当たり前のことが何故出来ないのか。ここの軍事費が何割か減ったら、攻めてくる国が出るというものでもなかろうに。だからこそ、今軍事費を減らそうとの視点を持たない「現実論」は、ニヒリズムだと言うのである。 

 三 まず上記の長期スパンであるが、こういう立場に日本が立ちたいと思う。
 先ず、国連には九条堅持と日本軍隊縮小方向を、代わりに『平和と貧困撲滅基金』というような形で毎年かなりのお金を国連に出していく方向を、改めて表明する。合わせて、こう表明する。
「軍隊を持たない方向を目指す代わりに、世界の『平和と貧困撲滅』に貢献したい。そういう大国が存在するのは世界と国連、人類の未来にとってこの上なく大きい意義があると考える。ついては代わりに以下の要求を万国、国連にさせて頂く。日本国憲法にある通りに、世界各国の平和を目指し貧困をなくすという希望と善意に信頼を置いてこういう決断を成すわけだから、以下の要求を国連に出す資格も当然あると考えている。
『日本に他国が攻めてくるということがないようにする努力を万国にもお願いしたい。また万万が一攻められるようなことがあった場合には、国連軍、国際的常設軍隊で即座に支援して頂くというそういう体制を至急お作り願いたい。国連をそうしたものにするべく、日本はその先頭に立ちたい』」 

 四 九条堅持と、その実現のために、いやそれ以上に、世界の平和と貧困撲滅のために、三の遂行度合いに合わせて、自衛隊は縮小、廃止方向を取る。そのスパンも三十年などと遠いものではなくしたい。
 なお、こういう構想はかっての民主党小沢派、鳩山派などが持っていた考えに近いものだと、僕は見ている。小沢派の「国連警察軍」などの構想がこれに近い発想、あるいはそうなっていかざるをえない発想なのではないか。むしろ、米中等距離外交とともに国連常設的軍隊重視こそ、小沢がアメリカと親米派勢力に憎まれてきた理由だろう。また、このような案が大きく世に出てきた時には、共産党、社民党もこれに賛成するだろう。つまり、以上の構想の現実的政治勢力、潜在勢力が現に大きく存在するということだ。こういう国連構想と同類のものとして、この九月、習近平・中国国家主席が国連で以下の提案を行った。「中国は永遠に覇権を求めない」という説明を付けての提案であった。
①十年間で十億ドル規模の「国連平和発展基金」を創設。
②中国が国連の新しい平和維持活動即応体制に加わり、常駐の警察部隊と八千人規模待機部隊を立ち上げたい。
③今後五年間でアフリカに一億ドルの無償軍事支援を行い、アフリカ常備軍・危機対処部隊の設立を支持する。
こう述べたからと言って、僕は現在の中国政府を支持する者ではない。あの国の一党独裁と中国共産党内の民主集中制とを、絶えざる諸悪の根源と観ている。

 ちなみに、国連自身の指揮下にある常設軍というならば、それに日本が参加してさえ、「国権の発動たる戦争」に関わる「陸海空軍その他の戦力」とは言えないだろう。また、フセインのクゥエート侵略があったり、アフリカのいくつかの国に戦争、内乱が起こっている以上、相当強力な国連常設軍が当面はまだまだ必要だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする