九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

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時刻むカネタタキの音鎮魂歌   郁子

2006年09月24日 12時27分11秒 | Weblog
575の会という句会での一句です。
作者の郁子さんの祖父は、戦前、親愛知新聞の主筆を務めたことのある桐生悠々。
その悠々の句です。

 蟋蟀は鳴き続けたり嵐の夜

昭和8年、信濃毎日新聞の主筆だった悠々は、「関東防空大演習を嗤ふ」という
記事を書き、在郷軍人会などから激しく批判されます。
不買運動にまで広がった責任を負って辞任。
名古屋市守山区に引っ越して、「他山の石」という小冊子を発行、
軍国化してゆく時代を批判し続けました。
現在の日本とは違って、検閲や発禁処分のあった時代。
日支事変を論じた号は3ページにわたって記事が削除されました。
何回も発禁にあいながらも、筆を折ることはありませんでした。
そして昭和16年、太平洋戦争の始まる直前に亡くなっています。
蟋蟀の句は、「他山の石」発行の心意気を詠ったものと思われます。

蟋蟀の句を踏まえて、カネタタキの句を読むと、
また新たな感慨を覚えます。

    

新愛知新聞は、戦前に名古屋にあった新聞社。
桐生悠々は信濃毎日と、新愛知の主筆を務めています。
新愛知新聞は、戦時の言論統制のために、名古屋新聞と合併、
現在の中日新聞となっています。

    

戦争が本格化し、新聞も政府の広報機関と化したなか、
小冊子「他山の石」が国民に与えた影響は、決して、
大きなものには、なりませんでした。
しかし、今日の日本を考える場合、その意義は大きいと思います。
現代、私達はウェブというメデイアを持っています。
一人一人が「他山の石」を、簡単に発行することが出来る時代です。
悠々は、発禁の他、資金繰りにも苦労、たびたび紙面で慨嘆しています。
しかも私達は、ネットワークで繋がっています。
言論の自由を圧殺しようとする動きや、情報統制に対して、
このメデイアを十分に使いこなして対抗していきたいものです。

                   落石




コメント (3)
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青白く光った「薬」  へそ曲がり

2006年09月24日 01時10分15秒 | Weblog
 1カ月ほど前に作成した原稿です。投稿する機会を考えていたのですが、他の投稿やコメント作成が多く、なかなか紹介することが出来ないままになっていました。
 昨日、「困多詐狂」さんからのコメントを頂いたので、ちょうどよい機会かと思って投稿します。

 戦争も終わりに近づいたある日のことである。近所のおばさんたちが家へ集まっていた。「国防婦人会」の集まりではなかったかと思う。部屋の隅でぼんやりと眺めていた。
 どこかのおばさんが1人1人に白い紙に包んだものを渡していた。“何だろう?”と思った。甘いものに飢えていた時代である。きっとお菓子に違いないと思った。
 すぐそばにいたおばさんが開いて見せてくれた。お菓子ではなかった。透き通った薄いコバルト色のものだった。ちょうど氷砂糖を細かく砕いたほどの大きさであった。
 おばさんは言った。“これはねえ、すぐ楽になるお薬よ”。「薬」って何だろう?「楽になる」ってどういうことだろう?とは思ったものの、まだ小さかった私には意味が判らない。やがてそのことは忘れてしまった。
 戦後になってそのことを思い出し、母に尋ねた。“知らない”との返事だった。何度も尋ねていくうちに、“お前の記憶違いだろう”と言われてしまった。でも、間違いなく憶えている。とは言っても、尋ねても同じ答が返ってくるだけである。そのままになってしまった。
 
 大学時代、壜に入った薬品を見せてもらったことがある。あの時の「薬」とそっくりである。再び母に尋ねた。“あの時の薬は「青酸カリ」ではなかったの?”
 母の返事は“もう忘れた”であった。いつもなら会話する時には必ず目線が合っていた。この時だけはそっぽを向いたままだった。遠くを見ているような目付きだった。
 はっとした。「忘れた」ということは、以前には「知っていた」ということになるのではないか?思い出したくないことがあるに違いない。そうだろう、我が子を自分の手で殺さなければならない、そんなことを思い出すのは我慢が出来なかったのではないだろうか?それが“もう忘れた”という言葉になったのではないか?
 悪いことを聞いてしまったと思った。
 それ以後、この話は「タブー」にした。代わりに「本土決戦」に関する本を手当たり次第に集めた。答えはその中にあった。
 当時、日本軍は「本土決戦」を叫んでいた。「一億総特攻!」・「一億玉砕!」がスローガンであった。赤子・幼児・老人などは足手纏ということで、決戦の前に「毒殺」するという計画もあった、一部には「薬品」も配布されたと書かれていた。
 
 事実だろうか?確かめたくても、既に母はいない。私より年配の人に聞いてみたい。でも、母と同じ気持ちにさせてしまうかも知れない。残酷なことになってしまう怖れもある。こうなると誰にも尋ねることが出来ない。
 このまま心の中に閉まっておくべきだろうか?
コメント (1)
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