九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆紹介  遠い日    文科系

2017年05月31日 09時56分51秒 | 文芸作品
  遠い日   S・Yさんの作品です


 町はずれの小さな無人駅に降り立った。
 ここはずいぶん前に私が通学、通勤に使っていた駅で、あれからじつに半世紀ぶりになるだろうか。むろん当時とは様変わりしている。会社勤めを辞めて他県へ嫁いでからは、この駅の周辺にさえも来ることはなかった。改札はIC仕様になっていたが、当時はたしか駅近くの雑貨店で電車の切符を売っていた。当然その店はなかった。

 駅のホームを歩きながら辺りに目をやれば、近くの山々や田畑も昔見慣れた光景だ。桜が終わり、新緑のいい季節。思いっきり深呼吸すると、懐かしい匂いがした。
 母がこの地の老人施設に入所した。九十をとうに過ぎた人が、長年住み慣れた家を出されて急激に環境が変わってしまい、戸惑ってはいないだろうか。呆けはしないだろうか。そんな不安から母のもとに通い出したのだった。そのとき娘から携帯に電話が入った。

 ホームのベンチに腰を下ろし、娘と会話をしながら奇妙な気持ちになってきた。
 半世紀前の女学生だったころ、私はこの駅で友人たちと夢や将来、恋愛を語り、お喋りに夢中だった。それが後年、私は幼い娘を持つ男性と結婚をし、今この駅で、大人になったその娘と電話でお喋りをしている。あのとき、だれがそんなことを予想できただろう。
 ほんとに人生は不思議なめぐり合わせに満ちている。

「私も近いうちにおばあちゃんに会いに行くね」
 娘からのやさしい言葉を胸に母の待つ施設へと急いだ。
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随筆紹介  「懲りた」   文科系

2017年05月30日 07時15分35秒 | 文芸作品
懲りた     k・kさんの作品です

「俺が誘わないと誰も誘ってくれない」寂しそうにぼやく夫。家での晩酌程度だと体調もよかった。それが、四月に飲み会が三日間続いた翌朝、動悸がすると胸をさする。夫は心臓の血管にステント手術をした。血液がさらさらになる薬のお世話になって過ごしている。それが、楽しい宴会でつい飲みすぎたらしい。

 暫くは家の晩酌も自分から減らした。余程しんどいらしい。「懲りたよ」つぶやく。命の水をたくさん飲んで、二週間くらいで体調が戻った。酒のつまみは味が濃く、揚げ物が多い。つい酒量をすごす。店は健康の事など考えていない。アルコール類がなぜ体に悪いのか、ネットで調べて納得したようだ。わたしの言う事は聞かないが、理論的な説明は受け入れる

 後日、夫は仕事の帰りの電車で同僚にあった時元気がないので聞いてみた。「今日は医者なんだ、血圧が高くて」、辛そうだったとか。彼は奥さんを亡くしてから毎日、居酒屋で飲んで帰るとか。
「大丈夫だろうか?」
 夫は自分の経験から本気で心配している。

 同人の先輩の、「自炊力と健康管理ができれば、妻にさきだたれても男性は長生きできる」を実感した出来事だった。古希の夫は、この年齢で元気に活躍し続けて行くには毎日の食生活と自己管理が大事だと、身をもって知ったようだ。


(27日までの2週間、週累計閲覧数が飛躍した。14~20日が11,880で、21~27日が11,643。アクセス・ベスト10を見てみると、随筆、小説など文芸作品類が読まれているようだ。かなり昔にも遡って。それで今日も、同じようにやってみた)
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9条は理想だが実現不可能だから変えるべきか?   らくせき

2017年05月28日 15時28分46秒 | Weblog
9条を守るべきというと理想だけれど、安全保障はあぶない。現実的じゃない。
という批判がありますが、理想主義と現実主義は相いれないのでしょうか?
理想をかかげる人ほど現実を見据える必要があり、相反するのではなく、
補完しあうものではないかと思っています。
夢想と理想とは違うのじゃないかな?
極端なケース、9条をそのままに核武装もあり得るでしょう。
それ以外に選択肢がなければ。
そういう状況に追い込まれないようにするのが政治家の務めですが。
それもしないで核武装だけを言うのは賛成しかねますが。
自民党が原発をやめないのは核武装の土台をなくしたくないからでしょう。






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小説  母の『音楽』(後編)   文科系

2017年05月28日 02時30分27秒 | 文芸作品
小説  母の『音楽』(後編)   文科系 


「あなたも、『生きなきゃー』の口で、「鑑賞よりも表現』の人ね。だから『可愛さ余って、憎さ百倍』は他人事じゃないわよ。どうせ直ぐに弾けなくなるんだから」
〈僕のお連れあいさんも、後になってそう言ってたな〉。
 腕や胸など汗まみれの体を休めながら今、そんなことを思い出している。
「大聖堂」の例の難しい一カ所をかっきり五十回。正の字を打ちながら繰り返し終えたばかりだ。機械的な反復練習ではやっと、薬指上下につれて小指がほとんど動かなくなってきた。この厄介な癖の修正にあれこれと燃え始めて二週間、ようやく五五近くの速さになり、ちょっと先が見えたような気分になった頃のことだ。
〈そういえば、俺も去年危機のようなことがあったなー。憎さ百倍にはならなかったのは、間違いなく母さんのお陰だ〉
 去年のある舞台で立ち往生したときのことを思い出す。こんな調子だった。

 出だしの三段目ほどで止まってしまった。頭は真っ白で、次が思い出せない。仕方ないから、冒頭からまたやり直す。すると今度は、三ページ楽譜の二枚目終わりほどで止まってしまった。どれくらいだったか空白の時間があってから、思いついて目の前の楽譜を引き寄せ、間違い箇所を確認して、再開した。丁度練習で躓いたときのように。表情も態度も変えなかったはずだが、冷や汗たらたら、心臓は早鐘、もう大変な思いをした。好きで折を見ては二年以上も弾き続けてきた「ソルのエチュード作品六の十一番」。僕には難しすぎるが、いまならもう何とかなると思って臨んだのに。今までに指が震えてほとんど弾けていないということは何回かあったが、中断は初めてだった。それも二回も。そしてこの挫折の印象が、以降一週間ほどの間にどんどん大きくなっていった。僕の「老い」が膨らんでいくばかりだったのだ。
 そんな経験から間もなく、舞台で弾くことはもう諦めようと決めた。ところがこの決心が、僕の練習態度に何の変化も与えなかったのである。それから間もなく手をつけたこの曲、「大聖堂」が毎日弾きたくなった。分散和音の中から最高音の清らかな旋律を響かせる第一楽章。荘重な和音連続を鳴り渡らせる二楽章。そしてこの第三楽章は「最速アルペジオとスケールの中から、低音・高音の旋律、副旋律をメリハリつけて自由に鳴らせられれば、痛快・面白さこの上なし」といった趣き。気に入った曲だけを選んで先ず暗譜してから弾き込みレッスンに励む僕にとっては、なかでもことさら揺さぶられる曲。完成するまで一年でもやってやろうと、そのエネルギーは自分事ながらいぶかしいほどだった。

 さて、一度は全てを放り出した母のこの三味線。最後の場面が実は、ずっと後に出てくる。過去の「憎さ百倍」はなんのその、可愛さが遙かに優った感じで。いや、この三味線が母を救ってくれたとさえ言いうるだろう。闘病生活五年の最後の年、九十二歳を過ぎた病床のことだ。大学ノートの介護日誌五年分が九冊まであるのだが、そこのやり取りから抜粋してみよう。周囲が書き綴り、伝え合った病状・生活日誌である。八十八歳に脳内出血で死にかけた後は、感覚性全失語症から字はもちろん書けず、彼女の口から意味のある言葉を聞き取ることもほとんど無理だったから、連れあいの提案で備えられたものだ。四人の子、孫から、看護師さんたちだけではなく、病室を訪れた母の親類縁者、知人までが書いてくれるようになったみんなの合作物である。先ず初めは、亡くなる前年の八月十七日。
『ラジカセを持って来た。カヨさんのおケイコ(三味線と謡曲)のテープといっしょに。そしたらラジカセを抱えるようにして聞いていた。それでもしばらくして見たら眠っていたけど、起きてテープの話をした時の反応は当然強かった。何か分かるらしい。多分、フシなのだろう。しばらく(一時間ぐらい)消していてまた、”三味線聞く?”と問うと、”ウン”と言うのでつけると、また例によって指を動かして聞いている。右手も左手も』
 同十八日『長兄のノブ一家九人が来たのは覚えていた。良かったね。今は三十分以上ラジカセを聞いている』
 同二十日『今日はよく話が分かる。一昨日、ノブの家族が来たのは覚えているし、ウチの健太と雅子も覚えている。(中略)なんというか表情もおだやかだ』
 音楽療法というのがあるが、明らかに母の態度、意識が上向き始めたのである。看護婦さんもそれを認めた記述をここにすぐ書いてくれたし、久しぶりにはるばる横浜から来られた弟のお連れ合いさんも、こんな言葉を書いてくれた。
 九月十五日『いろいろあって家が空けられず、本当に久し振りにお母さんに会いに来ました。№7のノートの記録より、十一ヶ月もの間ご無沙汰していたと分かりました。眠っていらっしゃる横で、声をかけて起こそうかどうしようかと思いつつ、ノートをゆっくり読ませていただきました。長唄(?)のテープをBGMに。
 テープが回って数分したころ、右手がよく動くようになり、時々左目を開いて、次にベッドにつかまっていた左手が、弦を押さえるような動きを始めました。魔法のようです』
 十月二日『新しいカセットを持ってきて”三味線のおさらい”。たちまち右手でバチを動かし、左手の指がひょこひょこと動き出した。(中略)何か顔もほころんでいるし、ヨカッタヨカッタ。 ”目を開けなさい”と言うとかならず、パチッと開けてくれて、やはり微笑んでいる』
 丁度その晩秋のころ、僕は同人誌にこんな随筆を書いた。

【 ある交流 
 病院の夜の個室にもの音は稀だけれど、川音が間断なく聞こえてくる。二県にまたがる大川が窓の向こうにあるのだ。そしていつものように、僕の左手がベッドに寝た母の右手を軽く握っているのだけれど、そこでは母の指がトントンと動いている。
 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかわづ天に聞こゆる
 誰の作だったか、高校の授業で覚えたこの歌を、このごろよく思い出す。
 左脳内出血が招いた三途の川から戻ってきて、五年近い。失語症の他はなんとか自立できたと皆で喜んだのも、今振り返ると束の間のこと。一年ちょっと前、思いもしなかった後遺症、喉の神経障害から食物が摂れず、人工栄養に切り替えるしかなくなった。食べさせようとして何度か嚥下性肺炎を起こしたその末のことだった。人工栄養になってからも、唾液が入り込んでたびたび肺炎をまねくという始末で、既に「寝たきり」が四ヶ月。お得意の「晴れ晴れとした微笑」も、ほとんど見られなくなった。
 九十二歳、もう起き上がるのは難しそうだ。言葉も文字もなくなったので記憶力はひどいが、いわゆる痴呆ではない。痴呆でないのは我々には幸いだが、本人にはどうなのだろうかと考えてしまうことも多い。
 せっせと通って、ベッドサイドに座り、いつも手を握り続ける。これは、東京から来る妹のしぐさを取り入れたものだが、「生きて欲しいよ」というボディランゲージのつもりだ。本を読んでいる今現在、母の指の応答は、「はいはい、ありがとう。今日はもうちょっと居てね」と受け取っておこう。表情も和らいでいるようだし。
 僕は中篇に近い小説九つを年一作ずつ同人誌に書いてきた。うち最初の作品を含めて四つは、母が主人公だ。もう十年近く母を、老いというものを、見つめ、描いてきたことになる。発病前は老いの観察記録のように、その後は病室の中やベッドの上も、時には四肢さえもさらけ出して。普通ならマナー違反と言われようが、親が子に教える最後のことを受け取ってきたつもりだ。そして、僕がこんなふうに描くのは、母の本望だとも信じている。
 看護士さんが入ってきて、仕事をしながらこんなことを言った。
「不思議ですねぇ。手と指だけがいつも動いてるんですよ。ベッドの柵を右手でよく握られてるんですが、その時もなんです。右側に麻痺がある方でしたよねー?」
《母にもまだできることがあった。僕らが通う限り、生きようとしてくれるのだろうか》 】

 母は、いろんな曲を思い出し思い出ししながら、最後に残った楽しみを自分で作っていたのではないだろうか。そう、一度はすべてを放り出した音楽が、一人では何も出来ず、普通の楽しみさえなくなった病床で恩返しをしてくれた。音楽って、音を楽しむって、まず、自分が出す音を自分が楽しむものだろう。末期が近づきつつあった母の病床で、教えてもらったことだ。


(終わり 2011年1月発行の同人誌「刻21号」初出)
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小説  母の『音楽』(前編)   文科系

2017年05月27日 04時21分23秒 | 文芸作品
 ギターレッスンに苦心惨憺のある日、ふっと気付いた。
〈左手指がここで、他の箇所に比べて、どういうか、なんか、ばたばたしている。この小指が上がりすぎ、時に伸び切るようになるのは、どうしたことか?この癖から全体が遅くなるらしい。反復練習にはもう慣れてるが、これを直さんとどうしようもないぞ〉
 二月から七ヶ月も、毎日のように弾き続けている曲が、どうしてもできあがっていかない。南米のギター弾き・バリオスの「大聖堂」、その第三楽章。ここの速さが、ことのほか骨なのである。「もう限界なのかなー」、定年後に先生なる者につき始めて七年足らずの老いの身には、そんなことも頭をよぎる。六連十六分音符が三頁連なるこの楽章をせめて六十の速さにしたいのだけれど、四十五が限界。あれこれ観察し、試行錯誤しているうちに、やっと分かってきたことだった。
 ある一カ所が特に、何度弾いても上手くいかない。六連十六分音符がたった二つ並んだだけの一小節なのに。周囲と比べてちっとも難しそうにも見えず、なんの変哲もない箇所だ。そんな所を、何日かは意を決して五十回繰り返してみたりして、もう千回以上は優にやったろうというようなある日に、やっと気付いたのだ。
 さて、恥ずかしいことだがここまで来て、習い初めのころ先生に言われたことを思い出した。
「左手指は、一本ずつが他から分離して動くようにならなければいけません」
 左手小指が薬指に連動するらしい。薬指を指板から上げるときに特に、小指がぴくっと大きく跳ね上がる。よって、薬指の後に小指で押さえねばならない時などに、どうしても演奏が一瞬遅れる。この癖が原因で指のすべてが固くなっている。今までの曲ではなんとかこれをごまかせたが、今回の速すぎる箇所ではとうとうぼろが出たと、そういうことだろう。
 だけどこの曲、七ヶ月でこんな出来。人前で弾ける程度に完成するのだろうか。舞台で弾くことはもうないのだが、その程度にはしたい。去年からホームコンサートのようなもの以外は出ないと決めて、それまでやっていた舞台を全てパスしてきた。それでもこれだけ熱中できるのだ。それは、九十三歳で死んだ母の身近にいて、種々多くのことを教えられたからだと、いま振り返ることができる。父の最晩年を夫婦二組で同居し、次に父が亡くなった後は三人で過ごし、母の脳内出血以降はその介護の五年間を通して。

 職業婦人の走りであった明治生まれの母は、退職後に三味線を再開して二十年近く続けたが、七十八歳できれいさっぱり、すべてを投げ出してしまった。それまで出ていた教室の発表会に出なくなっただけではない。同時に「キネヤなんとか」さんの教室そのものも止めてしまった。それどころか、それからは弾いているのを見たこともない。死後に彼女の日記を見て改めて知ったのだが、このあと一度でも、三味線を弾いたことさえないはずだ。 母はそのころ、同い年の父の心臓病につきあって、疲れ切っていた。七十三歳を最初に、八十二歳で亡くなるまで、脳梗塞、心筋梗塞を都合四回も起こした父なのだ。彼の晩年二年間は次男である僕らが同居したのだが、「同居が遅すぎた」と何度後悔したことだったか。

 同一敷地内に新築の家を廊下で繋げたという「同居」二ヶ月ほどの初夏のことだ。珍しく明るいうちに帰って二階ベランダの窓際から庭に目をやると、ブロック塀の一角に母が見える。「水をまいている」と思ったのだが、どうも違うようだ。両手で持っているのがバケツでも、ジョーロでもない。父が愛用していた高価な徳利ではないか。〈父さんに怒鳴られるよ!〉、一瞬そう思ったが、今の父にはもうそんな気力も関心もないとすぐに思い直した。そういう徳利からお猪口ならぬ地面に注いでいるのは、水なのか酒なのか。間もなくとことこと歩き出して、僕に近い南東の角に来た。そして、僕のお気に入りのガクアジサイの近くで、同じようなことをやっている。そして、夕食時。その日父は確か、入院していて家にいなかったはずだ。
「さっき、庭で何やってたの?」
そのころ何となく黙りがちな日々が多かった母だが、一瞬僕の目を見てからちょっと顔を伏せたあと、ことさらにさらりとした感じで、応えた。 
「うん。庭の四隅にお酒を上げてたの。まー御神酒ということ。ここの家を建てたとき、地鎮祭をしてなかったのを思い出してね」
「ふーん。かーさんが縁起かつぐなんて、珍しいね。何か悪いことでもあったの?」
「うん、ちょっとね」
 そう、僕らが同居するまでの母は悪いことづくめだった。父の看病や、病院がよい。三味線は一年ほど前に止めていたし、大好きな友人たちとの旅行などもしなくなっていた。昔風賢夫人は、こういうときには物見遊山などは控えるものらしい。そんなこんなの鬱屈からなのか、物忘れも酷くなっていた。家のヤカンや鍋などを焦がしてしまい、庭に捨てられたものがいくつかあったし、当時使用中でも、地金の色を表している物がほとんど無かった。
 さらに、僕らとの同居によってもまた、別の「悪いこと」が生まれていたようだ。
 僕の脳裏に死後も含めてだんだん形作られていった母の心境を簡単に言えば、こういうことになろうか。まず、病気の、気むずかしい父を一人で抱え、自らの八十の老いを向こうに回して歯を食いしばって暮らしてきた。次いで、僕らと同居してからの心境は、こう。壮年期にある僕らの「若さ」に打ちのめされ始めたらしい。なんせ、自慢のようなことは口にしなかったが、子どもの僕とも競争したいような人。「私のどこが八十に見えるね。言ってごらんなさいよ!」。なにか僕が注意したときにこんな返答さえ返したこともあった。そんな心境も含めてすべてが、今にして痛いほど分かるような気がするのである。思い出すと胸が痛いとは、こういうことだろう。

 この年の十月、母は、僕の勧めによって心療内科の先生の所へ通い始めた。病名は、老化による軽症ウツ病。
 少し遅れて八十六歳の母が書いた「人生報告」とも言うべき文集に、こんな下りがある。東京女子高等師範学校同窓会の愛知支部発行「桜蔭(同窓会名です)」に収められた文章だが、二番目の古参生としてそこに書いた六枚ほどの原稿の一部だ。
【その後夫脳梗塞となり、左脚不自由に。つづいて心筋梗塞その他色々の老人病を併発し、十数回に及ぶ入退院をくりかえし、平成四年四月二十七日に亡くなりました。看病など何かと心身を使い果たしている間に、私も老人性鬱病という厄介な病名をつけられていました。好きな長唄・三味線も稽古不足のため中止し、日々無為の苦しい数年間を過ごしたものです。同居している次男夫婦も共働きですので、昼間は相変わらずの一人暮らしですが、二人が帰宅し、共にする夕食は楽しく、孤独を忘れることの出来るひとときです】
 僕もこの夕食は楽しかった。母も必ず二品ほど作ってくるので、連れ合いと二人競いあうようにして食卓にのせたものを三人で批評し合うといった夕食。僕の帰りが遅すぎて週に何回も持てなかったが、心が温かくなる思い出である。
さて、この頃はまだ、母の人生で三味線が持った意味を、僕はこんな程度に捉えていただけだった。
 最初に浮かび上がって来る映像はまず、こんなものである。三味線の発表会に出ていたときの、背中を丸めて大きなザブトンに小さく座った母の姿だった。
〈あれほど練習して、回りの人に四苦八苦でなんとかついていく。「生きなきゃー」って感じだなー。それにしてもそろそろ八十だ。いくつになっても「鑑賞」じゃ済まなくて、自分で「表現」して進歩を確かめていきたいという人なんだなー〉。
 また、このしばらく後には、
〈母さんのは「可愛さ余って、老いへの憎さ百倍」。三味線全てを放り出してしまったのは、舞台に出られなくなったショックからだ。随分苦しんだんだけど、俺の同居がもうちょっと早ければ辞めさせなかったのになー〉

(続く)
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随筆紹介  「言葉、ことば」    文科系

2017年05月27日 03時30分49秒 | 文芸作品
 言葉。ことば  H・Tさんの作品です


「なにいっ! いつもの通りしたんだ。何が悪いっ!」
 大声の怒鳴り声に私は足を止めた。
「ちゃんと分かるように、説明しろ。馬鹿にしゃがって!」
 地下鉄の改札口で、大声を上げている男の人。
 名古屋市は六十三歳から、収入の差によって納入金が異なるが敬老パスが発行されて、地下鉄と市バスにはそれで乗ることができるようになっている。それが、二十六年九月一日からICカードに変更。今までのように改札口で出し入れする手間が省けて、便利になった。それまでに市の交通局から使用法変更の説明も送られてきたし、区役所へ取りに行った時も、使い方の説明があった。私は便利になったと喜んだものだ。 

 どなりつけられながら、係の人は、
「券の使用方法が変わりました。文書も届いたと思いますし、ここにも書いてあります」
 動かなくなった改札機を前にして言っている。
「俺は見とらんし、聞いておらん」
 声は大きくなるばかり。
「ここにも、タッチして下さいと書いてあります」。
 近くの張り紙を指して言っている。
「タッチ! タッチって何だ! 日本語で書け。ここは日本だ」。
 声はますます大きく、どなり続けている。隣の改札口ではみんなタッチして通り過ぎて行き、誰も立ち止まらない。
 私は“タッチ”は日本語で何と言えばと、足を止めたまま。駅の中からもうひとりがペンチなどの入った道具箱を持って来て、改札機をひっくり返して、修理を始めた。男の人は出てきた敬老パスを受け取り、「日本語でちゃんと書いておけ」と言いながら、ホームへ足早に去った。

 私は、言語音痴というか、日本語でしか話せない、書けない、昭和一桁人間。でも、国語の豊かさ、季節のことばの美しさに、日本語はすばらしい言葉と思っている。「タッチ」は日本語で何と言うのだろう。分からない。

 この頃日本語についていろいろ書かれている。“日本語の乱れ”、“乱れではない、言葉は時代によって変化する”。テレビを観ていても、ラジオでも、新聞でも、小説の中にでも、話し言葉にも、理解できない言葉が多くなった。前後の関係で分かったつもり、理解した思いで過ごしてしまうが、言葉には言霊と言って魂が宿っていると教えられたことも、言葉は日本の大切な文化と学んだこともある私は、戸惑うこと多しだ。
 
 “タッチ”は日本語で……と尋ねると、
「もう、タッチは日本語よ。他の言い方はない」と。
 ある人は“おさわり”と笑って言った。

 ある時ぼんやりテレビを見ていたら、選挙演説の立候補者が、「私が当選したら、この地域の皆さん全部の方が英語が話せるように努力します」と言った。私は「大変だ。日本語はどうなるんだ。日本は。日本語は」と大声を上げた。〈英語は、必要とする人が努力すればいい〉と思っている。日本語を大切にする人に政治を……とまで。

 漢字の読み方は難しい。地獄読みだという人もいる。でも、国語なくして国はないと、私は思う。

 もう何年前になるだろう。私がひとりでタンザニア空港で時間待ちをしていた時、ひとりの男の人が私にまず「日本人か?」と尋ねた。うなづく私に「日本では何語で教育されているのか?」。「日本語です。幼児教育から大学まで日本語です」。「この国ではひとつのことを教えるのに、フランス語、英語、スワヒリ語。そしてまた、それぞれの部族の言葉もで、大変です。日本文化、その豊かさは、それですね。日本語だけとは、羨ましいことです」と、私に分かるようにいろんな言葉で、絵にまで描いて、説明して下さった。そして、「私は学校で化学を教えています」と。
 嬉しかった。そして、日本語のたいせつさをしみじみと思った。
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メデイアの役割   らくせき

2017年05月26日 09時40分27秒 | Weblog
安倍さんが日本を大きく変えようとしている。
この当否は別にして(ホントは別にしたくないが)
国民の前にどういう選択が行われようとしているのか?
分かりやすく説明、解説するのが新聞などのメデイアの仕事。

近代社会は、そういう役割をメデイアに与えている。
賛否は別にして、NHKも産経も読売も朝日も、この一番大切な仕事をしていない。

さらに言えば国民も求めているのか・・・

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掌編小説紹介  「誤送」   文科系

2017年05月26日 07時52分44秒 | 文芸作品
 掌編小説 「誤送」  K.Yさんの作品です


 日本を襲っている最悪の病気の一つが花粉症である。私も二十年間花粉症で悩まされていた。春先になるとくしゃみ、目のかゆみにとどまらず、皮膚のかゆみ、頭痛を伴う。毎年ひどい症状の繰り返しだ。
 今年二月に、藤田紘一郎教授の話しを偶然耳にした。これに藁をもすがる気持ちでとびついた。回虫と同居すれば、花粉症が消滅するという。何万年もの昔から人間に寄生した回虫がアレルギーを抑制してきたという。数個の回虫との共存を勧める。さっそく行動を開始した。パソコンを開き、インターネットで検索してみる。回虫の卵を2個、一万八千円でネット販売していることを発見。すぐに必要事項を入力し、取り寄せた。
勇気をふるって2個を口に入れた。数日後には花粉症から解放された。藤田教授の説は正しいと確信した。快適な日々。もう頭痛、くしやみもない。
 教授は力説する。かつての日本人には回虫、ぎょう虫が寄生していた。これらに対抗する抗体が花粉症を鎮静化していた。近年、衛生的になり寄生虫での感染症が激減した。対抗する相手がいなくなった抗体が花粉症を攻撃。ところが攻撃するのみで鎮静化する相手がいない。大きくバランスをくずして発症となるという説である。
 現在も寄生虫感染の多い東南アジア、ニホンザルは発症が少ない。だから花粉症対策として回虫がいい。教授は自分の小腸に回虫を飼い、愛着心から〃花子″という名前をつけ可愛がっている。

 四ケ月間の快適な日々。もう花粉症を忘れかけていた。そして五ケ月目に入った。疲れやすい。どうしたのだろう。身体もやせ、肌のつやもなくなっていた。新たな不安が生じた。回虫が小腸で過度に活動しているのだろうか。共同体だから我慢だと言い聞かせた。
 翌月、体重が十二キロも激減した。体力も弱わり、歩くのも大儀だ。回虫の予想を超える繁殖を危惧した。
 いよいよ病院かと迷った。医師からは軽率だとそしられ、看護師からも軽蔑されるだろう。お笑いの対象だ。こうなったら大きな病院がいいと居直り、日赤へかけこんだ。血液検査のみならず、尿検査、そしてMRI・超音波検査と次々に検査があり、疲れ果てた。時刻はすでに夕方だ。医師は回虫かぎょう虫の大量発生と診た。
 夜八時に駆虫剤をコップに三倍飲まされた。小一時間後に白い紐のような、ヌルッとした虫が尻から出たという。とてつもなく長い。引っ張ってもなかなか終わらない。医師と看護師は長い虫に興奮した。
 どんどん引く。十五㍍を超えるサナダムシだった。回虫はせいぜい二、三十センチ、サナダムシは最大二十メートルにもなる。それがお尻から延々と出てきたという。

 インターネット販売での誤送であった。医師から販売先はどこだと迫られ、メールアドレスを教えた。名古屋医師会へ緊急連絡となった。翌日に警察沙汰となった。しかし、メールアドレスの販売先は影も形もなく、警察、保健所から何度も調べられた。特に保健所からは執拗に問いただされた。
 私の花粉症はさらに悪化し頭痛もする。この事件は悪魔が起こしたものと思うようになった。そうだ悪魔が・・・。秋となり私の精神は一段と落ち込み、心療内科を訪れた。


(愛知県東郷町の文章サークル「文友26号」より、著者の許可を得て)
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フィリピン インドネシア タイ 1970

2017年05月25日 07時04分26秒 | Weblog
マラウイの現状はTwitter等で多少伝えられているが、親イスラム国グループの勢いは止まらない情況。元々ISとフィリピンのイスラム過激派との関係は伝えられていたが、マラウイの公共施設等にイスラム国の旗が掲げられている画像等を見ると今回の襲撃は用意周到に準備されていたのだろう。インドネシアやタイのテロも恐らく延長線上にある。
ミンダナオ島には戒厳令が敷かれたがあの辺は小さな島だらけだから、そう簡単に事態を収拾出来るとは思えない。
イスラム国もイラク、シリアに代わる拠点を東南アジアに求めたとしても不思議ではない。
日本から2時間程度の距離にテロの拠点が生まれる可能性が出てきたわけだ。
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「よたよたランナーの手記」(196)「血管の柔らかさ」   文科系

2017年05月25日 01時37分33秒 | スポーツ
 4月15日に久しぶりのジム・マシンで30分2回計8・8キロ走ったと前回(4月30日)に書いて、こんなまとめをした。
『1年前からの前立腺癌陽子線治療とかその後の盲腸手術とかによる停滞を脱した上り坂が続いているということ。今は、時速10キロでも継続できそうに思うのである。ただ、間遠に走っているとか、継続速度を上げないようにしているとか、これはやはり「アスリートは早死にする」という主治医の言葉を意識してのこと。このことでどうも、身体、走力そのものにも良い影響が大きいようなのだと、そんな気もしている。』

 さて、5月に入ってからは、こんなふうだ。5、8、11、15、19、22日と、ランナーとしてはまばらだが、割と小まめに走ってきた。それも、11、22日以外は外走りで、これが走力回復・維持にはむしろ良かった。22日久しぶりのジム・ランは30分×2回で4・0と4・4キロになったが、10キロ時が10分ほどは続けられるようになってきた。この速度での最大心拍数も160をやや割ってのこと。こんなときにいつも思うのがこれ。人間の身体って、自分の身体をよく知って、手順を踏んで維持に努めれば、本当に凄いもんだナー!

 最近の健康本などには「血管の柔らかさ」が、体細胞の健全さを保つことから、若さの最大秘訣の一つと書いてある。ただ、こんな事はランナーなら大昔から知っている大常識。そもそも自分の通常のスピードで走る前にウオームアップをやるのは、心臓を慣らすよりも血管の拡張のためなのだ。心臓がいくら働いても、足の末端まで血液・酸素が十分に行かなければ満足に走れず、満足に走るためには血管が十二分に開いていかなければならない。そして、年を取るほどこれが難しくなっていく。つまり、血管を開くウオームアップの時間が長くかかるようになっていく。だから、こういうことも起こる。運動が少ない人はどんどん血管が開かない体質になっていく。血管が開くのに30分かかるようになった人が30分以上の運動をしなければ、もうそういう身体に固まってしまうということである。すると心臓自身ももう、120以上には上がらなくなるとか・・・。よく言う病気はないけど年齢よりもはるかに衰えた血管年齢とは、そういう悪循環の結果なのだと言いたい。もっとも「アスリートは早死にする」ではないが、やり過ぎは血管も痛めるのだろう。

 ちなみに、僕の(血管が十分に開いた状態の)最高心拍数は、こうだ。5分程度と短時間なら165ほどまでは上げられる。そして、155までなら15分は継続できている。ただ、こういう最高潮まで心臓と血管を準備するウオームアップの時間は急に長くかかるようになってきた。3年ほど前ならば5分で済んだものが、今は20分は必要になった。だからこそ、7キロ時などと遅いスピードで前半30分をゆっくりと走り、あと30分の最高継続速度は10キロ時近くで走るというのを、今の習慣にしているわけだ。
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随筆紹介  「マンション建設お勧め隊」    文科系

2017年05月24日 10時06分55秒 | 文芸作品
 マンション建設お勧め隊   H・Sさんの作品です

「おばあちゃん、畑仕事ごくろうさまでございます。きついでしょう、草取り仕事は」と、若い男の声がかかる。中腰で畑の草ぬきをする私の姿が彼には哀れに見えるらしい。
「僕Aホームの○○○です。この畑何坪あるのですか? 一戸建にはちょうどいい広さに思えるのですがね」と、話しかけてきた。
「40坪ありますが、私は花作りが面白いので畑仕事は苦にしておりませんよ」と、返す。
「高台ですので水害の心配がない。バス停には近い。高速に乗りやすい。だから、この地域は人気があります。40坪なら手頃ですので買い手が付きやすいですよ。考えてみてくれませんか?」、畑の売却を勧めてきた。
 畑が住宅に換わる。これ以上住宅が建て込んでくると、息が詰まるではないか。そんなこと嫌だ。草ぬきは大変だが花も緑もある方がよいから売る気はないと断った。が、彼は40坪の一戸建てに執着があるらしく何度か畑仕事をしている私に話しかけてきたが、私の頑固さに呆れはてたのだろう。ぷっつりと訪問は途切れた。〈ああ、やれやれ〉と、私は胸をなでおろした。

 何日か経過した。今度はAホームの別の二人組が私宅を訪ねてきた。
「この宅地と畑を寄せれば一二〇坪はありますねえ、今のお住まいも建て替えの時期が来ておりますから、建て替えを検討されて、鉄筋三階建にして一階をお住いにして、二、三階を賃貸マンションにしませんか。畑仕事をやらなくてもいいし、家賃収入が入りますので副収入で気楽な暮らしができると、私どもはお勧めしているのですが、考えていただけませんか。またご主人がおられる時にお伺いいたします」
 ばあさん相手では話にならんと言うようなそぶりで、マンション建設お勧め隊の二人組は再度の訪問を告げた。
「どんなにお勧めされても、家は建て替えません。夫も同じ気持ちです。ぼろ屋でもこのままでいいのです。お金はいりません」
 きつい言葉でお勧め隊を追い返した。
 それ以後も二つの中堅建設会社のお勧め隊が、同じ計画を持ち込んで来た。この業者たちは十年間空き家にすることはないと強調したが、人口は減少しているので借り手など見つかるはずがない。

 こんな狭い土地にマンション建築を勧める背景を私なりに考えた。建設会社の営業マンから見れば、広い土地持ちのマンション経営のターゲット物件が無くなった。次は小規模地主だと私達に目を付けたらしい。古家を壊す、瓦礫を廃棄させる、重鉄骨三階建てを建てる。この3事業で利益を得る。それを考えているのだろうと、私は推測した。
 もし、マンション経営を承知したとする。畑と庭が潰されるので木も花も消えてしまう。近隣の家は一日中陽が当たらない。3人の幼子を育てている奥さんの家の洗濯物が全く乾かなくなる。こんなことが毎日続くと、隣家との良好なつながりはなくなるだろう。何回も言い寄られたが追い返してよかったと私は思っていた。だが、相手も強者、手を変え品を変えて作戦を立ててくる。現在、毎週のように手紙作戦で勧誘が続いている。
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随筆紹介 『ミッドウェー、ガダルカナルに消えた東郷兵士たち』   文科系

2017年05月22日 10時53分10秒 | 文芸作品
 ミッドウェー、ガダルカナルに消えた東郷兵士たち
  --軍事機密を東郷兵士の戦没者から推理--   K・Yさんの作品です


 東郷町誌という分厚い本が(東郷町)図書館にある。二巻のうち第一巻に戦没者の一覧があり、太平洋戦争で戦死した一五七人の氏名、死亡場所、死亡日などが載っている。当時の東郷の人口は四六〇〇人だから、3%以上が亡くなったなあと、ぼんやり一覧を眺め、数ヶ月がたった。

 秋となり、落葉樹は紅葉で染まっていたある日、「ミッドウェーの決断」(プレジデント社)という本を読んでいた。
 真珠湾の奇襲により、太平洋戦争に火をつけたものの、半年後の昭和一七年六月に、海軍はミッドウェーで大敗北し、東太平洋からはじき飛ばされたとある。だが、海軍は真相を隠蔽した。ミッドウェーでは巨大な航空母艦の四隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)すべてが撃沈され大敗北に帰したが、大本営は「ミッドウェーを強襲、米国艦隊に甚大なる損害を与えた」と公表した。東條英機も、陸軍も大敗北したことをすら知らなかったという。敗走した生き残りの兵士が国民に真実を漏らすことを恐れ、転戦要員として、決して郷里に帰すことはなかった。
 そして戦死者三〇五七名(推定)の死亡場所は「東太平洋方面」とされ、遺族には守秘義務とせよ、乗船した船名を漏らすな、死亡通知は父母妻子にのみとせよ、読経をするなと命令した。

 そうか。なるほど。海軍は軍事機密という手法でミッドウェーの真相を隠したのか。当時の報道管制、治安維持法、新聞紙法の社会のシステムを悪用し、海軍は都合の悪い情報を部外者に流さなかったのか。これが軍隊の本質かも知れないぞ、と思った。
 そして、まさか東郷・戦没者にはミッドウェーの関係者はいないだろう、でも一度確かめてみるかという遊び心があった。
 町誌のうち一冊だけ貸出ができた。そして詳細を調べた。なんと、前述の「太平洋方面」で戦死した方がいたのだ。東郷町とミッドウェーとの関係があったのだ。
 祐福寺の海軍三等兵曹・久野欽彌さんの死亡場所が「東太平洋方面」とあり、昭和一七年六月七日死亡とある。彼こそミッドウェーの犠牲者だった。まさに海軍の指示どおりの死亡場所だ。ミッドウェーという地名そのものが軍事機密だったのだ。そう断定できる。

 海軍の軍事機密が戦後に作成した町誌(昭和三二年発行)にも残ったままである。これは、徳島県知事が死亡場所を具体化(昭和四八年)したように、「ミッドウェー諸島」と改訂すべきであろう。
 だとすると、さらに四ケ月後の十月に大敗北したガダルカナルについてはどうだったのかという疑念が生じる。
 ガダルカナルでは陸海軍の三万一千人のうち2/3が戦死し、大敗北した。これ以降南太平洋でも日本は守勢一方となった。
 だが大本営は「目的を達成し、転戦」と公表した。そして生き残り兵士一万六百人は、疲弊した姿を国民にさらすのを避けるため、転戦要員とされ日本に帰ることを許さなかった。
 東郷町誌の戦没者に諸輪の海軍二等飛行兵水野正雄さんと、同じく諸輪の海軍一等機関兵曹近藤鎌一さんが昭和一七年にソロモン群島で死亡とある。主力の陸軍ではなかったが、海軍も参戦しており、彼らもガダルカナルの犠牲者だったのだろう。
 ここも陸海軍がガダルカナルという地名を軍事機密としソロモン諸島としたのではないか。それが戦後に作成した町誌(昭和三二年発行)にも残ったままである。「ガダルカナル島」と改訂すべきであろう。
 国民は敗北を知らず、軍のトップは徹底抗戦に猛進していく。その結果が三百万人の無駄死をうんでしまった。
 東郷の戦没者もそれを語っている。昭和二〇年の戦死者が最も多い、次いで一九年である。死亡場所の大半がミッドウェーの西、ガダルカナルの北の南方諸島となったのは、この二ケ所での敗北は無かったことになっているがゆえに、無謀に兵士を送ったのである。戦略上、大きな矛盾、落とし穴にはまって行った。
 主力の四空母を失い、もはや太平洋地域での勝ち目は昭和一七年時点ですでに閉ざされていた。明らかに勝利しない南方地域での戦闘を余儀なくされた日本兵士の悲惨さ、馬鹿らしさ。それが戦後になって初めて明らかになった。

 さて、戦後七〇年を迎える日本において、情報を隠すことを合法化しようとしている。特定秘密保護法である。何を秘密にするのか。国家機密という名のもとで、真実を隠蔽し、一方的な情報のみを公表する。真実を求めようとすると、逮捕される、職を奪われるという危険が出てきた。ミッドウェーのように嘘の情報が一人歩きする危険性がでてきた。
 一方的な情報の公表は、太平洋戦争と同じように、国家そのものが建前でのみ行動しがちとなる。総合的にバランスよく判断できない国家は矛盾の落とし穴にはまり、逆に国家そのものが危機的状況に落ちる。
 嘘をつくと、そのフォローが大変なのは、個人も、組織も、国家も同じであろう。周囲の関係者も騙され、大変な事態となる。
 歴史を見ると集団的自衛権とセットで制定された秘密保護法は悪法となりはしないか、大いに不安である。


(愛知県東郷町の「文章サークル『文友』第28号」から)
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ある書評として(1) 公の意味  文科系

2017年05月21日 07時49分29秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 書評「グローバル・ジャーナリズム」  文科系

 澤康臣という人のこの本も、いずれちゃんとした書評を書きたい。共同通信記者、そこの幹部を務めた人で、国連記者会理事とか、オクスフォード大学ジャーナリズム研究所客員研究員という経歴もある方だ。
 この本の書き出しは、去年世界を騒がせたパナマ文書の発端や分析経過。世界主要ジャーナリズムの記者400人が秘密裏にこれに携わってきたのだが、日本では共同通信と朝日新聞に声がかかり、参加してきたとのこと。

 さて、この本の中の最も大きな論点の一つがが、公共ということ。この社会通念、理解にかかわって、日本社会最大の弱点と語られてある。僕自身にとっても、以下に書いてあるように「おおやけ」が広辞苑でどう定義されてきたかの説明部分などは特に、(自分の目でも広辞苑を確かめてみたが、この通りとあって)本当におどろいた。いろんな意味で目から鱗が落ちた思いというのは、正にこういう時に使うのだろう。そういう実感だった。今回は、そんな部分一か所だけを抜粋する。
 全5章のうち第5章、「そして日本は・・・」からの抜粋である。

『 実際、民主主義の大前提として、市民は公共の一員である。英語の新聞では「通行人が発見して警察に通報した」というときの「通行人」のことを「メンバー・オブ・ザ・パブリック」と書くことがよくある。パブリックとはお上のことではない。ピープルとも関連が深い単語で、市民みんなのことだ。だから「公開」の意味もある。「パブリックに尽くすため、政府に立ち向かう」という言い方は何ら不思議ではない。パブリックの一員であるなら、社会のため一肌脱ぐこともある。となると、参加や自治に基づく民主主義の発想と関係が深い。
 一方、日本語では公共の「公」、おおやけとは「①天皇。皇后。中宮②朝廷。政府。官庁。官事・・・・」(『広辞苑』)である。市民が自分たちのことを「公」とは思いにくいわけである。「公」でないなら統治には携わるような立場でもない。その代わり、多くの人に注目されたり意見を求められたりする負担もないということになりそうだ。これでは市民はただ統治される立場である 』(P243)
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随筆  僕は「ヒーロー」   文科系

2017年05月20日 03時20分25秒 | 文芸作品
 名古屋中心部の一角。五月の花々が咲き乱れているその小公園に歩を進めると、三三五五と遊んでいた子どもらの中から七~八人ほどが一斉に駈けて来て、僕を囲む。一~四年生ほどの男女なのだが、なかで一番高学年に見える一人が進み出て、拳を握りしめながら尋ねる。「いいっ?!」。僕はいつものように両脚を広げ、腰を落とし気味にして、下腹に力を入れる。
「さー、どうぞ!」
「バシッ!」
 教えたとおりに腰を回しつつ、全身の力を込めて拳が僕の腹に打ち込まれる。いや、打ち込まれると言うよりも、跳ね返されると言った方がよいかも知れない。現に打ち込んだ彼が、拳をブラブラと振りながら顔をしかめて痛そうにしているのがその証拠だ。それでも彼は僕の顔、目を探るようにして、
「効いた? 痛かったっ?」
「ちょっとね!」
 それからは我も我も、延々と挑戦者が続く。なんとか僕をやっつけようという気概を全身に漲らせて。握った拳の人差し指と中指との付け根できちんと打ち抜くと教えたとおりの正しいフックの打ち方をしっかりと確認しつつ挑戦が続く。このごろいつも、本当に、全く、切りがない。

 ここは、僕の最初の孫娘ハーちゃんがこの春に入学して通うようになった学童保育所の前にある市の小公園。僕はハーちゃんをお迎えに来たところだ。そしてこの「遊び」は、ハーちゃんの保育園で僕が開発してきた大人気の「スポーツ」である。人間の腹筋そのものが思っている以上に強いものなのか、それともランニングと並行して僕がジムで鍛えているせいなのか、腹筋だけを目標にさせている限りほとんど痛みを感じないとよーく体験済み、分かっているのだ。そしてなによりも、この遊びを子どもらがどれだけ大好きかというその程度にこそ、よーく通じているのである。好きな理由は多分こんなところ、ゲームやアニメのヒーローが大好きだから。学童保育では特に、女の子の挑戦も続々と続くのである。ちなみに、子ども自身がその腕を折り曲げるポーズを取ったり、僕の下腹部を撫でてみたりしながら「筋肉見せて!」という注文も度々だ。僕はアニメのヒーローなのである。スポーツ大好きの僕としてもまた、興味津々の、面白くって仕方ない遊びになって、
「おーっ、今のは効いた! そのフォーム忘れんようになっ!」
その男の子が自分の拳に目を懲らしつつその形を確認している顔の、なんと誇らしげなこと! シオリちゃんと言う四年生の子だが、小さい身体の割に並外れた威力を示したのである。こういう子は、いろんなスポーツが得意に違いない。全身の協調能力が高く、筋力もあるということだから。

 ところで、この出来事からは僕には想像も出来なかった副産物が生まれた。ハーちゃんの心の中にも僕という大ヒーローが生まれ直したのである。それも「強いヒーロー」という以上のものが。なかなか見たこともないように目を輝かせながら、彼女がこう語ったから分かったことだ。
「爺ーは、学童でも大人気なんだねー!」
 確かに、彼女にとっては確固としてそうなのだろう。学童保育所でこれほど子どもらを自発的に集められる術など一年生ではもちろんのこと、最上級生でもなかなか持ち合わせていないはずだから。この事件からこの方、やんちゃなハーちゃんが僕の言い付けをよーく聞くようになった気がする。子どもには「子ども特有の能力世界」があるという、新たな大発見であった。



 昨日の閲覧数は、2,109! しかも、16日(火)から1,703、1,832、1,957と来た上でのこと。「ベネズエラ」連載がそれだけここの読者に大きな意味を持っていたのかと思いを馳せることができて、嬉しかったこと! 
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ほんとの話?   らくせき

2017年05月19日 08時46分19秒 | Weblog
公共放送BBCはNHKとの番組交換を中止したということです。
同じ公共放送とは考えられないという理由です。


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