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九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

掌編小説 「血筋が途絶える社会」   文科系

2018年08月31日 05時57分16秒 | 文芸作品

 掌編小説 血筋が途絶える世界


 照明が効き過ぎというほどに明るく、客も賑やかなワインとイタリアンのその店でこの言葉を聞いた時は、本当に驚いた。「我が国の合計特殊出生率は一・一七なんですよ」。思わず聞き返した。「一体いつの話なの?」。「確か二年前の数字だったかと……」。
 このお相手は、長年付き合ってきた友人、韓国の方である。最初に訪れた時の東部などは、僕が馴染んだ里山そのままと感じたし、食べ物は美味いしなど、すっかり好きになったこの国。何せ僕は、ニンニクや海産物は好きだし、キムチは世界に誇れる食べ物と食べるたびに吹聴してきたような人間だ。そしてこのお相手は、三度目の韓国旅行が定年直後で、連れ合いの英語教師出張に付いてソウルのアパートに三か月ばかり滞在した時に意気投合しあって以来、何回か行き来してきた仲のお方である。知り合った当時は二十代前半で独身だった彼は、十数年経った最近やっと結婚したばかり。子どもはという話の中から出てきた言葉である。ちなみに、合計特殊出生率というのは、女性一人が一生で出産する子どもの平均数とされている。既婚未婚を問わず一定年齢間の女性全てを分母としたその子どもの平均数という定義なのだろう。
「一・一七って、子どもがいない女性が無数ってことだろ? 結婚もできないとか? なぜそんなに酷いの?」、韓国式に、いつの間にか年上風を吹かせている僕だ。対する彼の、年を踏まえた丁寧な物言いを普通の日本語に直して書くと、「そうなんですよ。我が国では大論議になってます。日本以上に家族を大事にする国ですし。原因は、就職難と給料の安さでしょうか? 急上昇した親世代が僕らに与えてくれた生活水準を男の給料だけで支えられる人はもう滅多にいなくなりましたから。二一世紀に入ってから、どんどんそうなってきたと言われています」。「うーん、それにしても……」、僕があれこれ考え巡らしているのでしばらく間を置いてからやがて、彼が訊ねる。「結婚できないとか、子どもが作れないとか、韓国では大問題になってます。だけど、日本だって結構酷いでしょ? 一時は一・二六になったとか? 今世界でも平均二・四四と言いますから、昔の家族と比べたら世界的に子どもが減っていて、中でも日韓は大して変わりない。改めて僕らのように周りをよーく見て下さいよ。『孫がいない家ばかり』のはずです」。
 日本の数字まで知っているのは日頃の彼の周囲でこの話題がいかに多いかを示しているようで、恥ずかしくなった。〈すぐに調べてみなくては……〉と思ってすぐに、あることに気付いた。連れ合いと僕との兄弟の比較、その子どもつまり甥姪の子ども数比較をしてみて驚いてしまった。考えてみなかったことも含めて、びっくりしたのである。

 連れ合いの兄弟は女三人男二人で、僕の方は男三人女一人。この双方の子ども数(つまり僕らから見て甥姪、我が子も含めた総数)は、連れ合い側七人、僕の方十人。このうち既婚者は、前者では我々の子二人だけ、後者は十人全員と、大きな差がある。孫の数はさらに大差が付いて、連れ合い側では我々夫婦の孫二人、僕の側はやっと数えられた数が一八人。ちなみに、連れあいが育った家庭は、この年代では普通の子だくさんなのに、長女である彼女が思春期に入った頃に離婚した母子家庭なのである。「格差社会の貧富の世襲」などとよく語られるが、こんな身近にこんな例があったとは言えないだろうか。
 ちなみに、その後しばらくして、こんなニュースが入ってきた。連れ合いの弟の子ども、甥の一人が最近結婚されたと。42歳のその子が、60歳で3人お子さんがいらっしゃる女性と「家庭を持たれた」ということだった。これはこれで僕には嬉しいニュースだったから、今後こういう結婚もふえていくだろう。ただ、この結婚に向けては、二人の間の子どもさんは期待されてはいまいから、連れ合いの弟さんに男系の孫が出来るという昔流の望みは絶たれたわけである。もっともその弟さん夫婦は「男系の孫」に拘る方々ではないが、孫はほしいとは言っていた。

 それからしばらくこの関係の数字を色々気に留めていて、新聞で見付けた文章が、これ。「とくに注目されるのは、低所得で雇用も不安定ながら、社会を底辺で支える若年非大卒男性、同じく低所得ながら高い出生力で社会の存続を支える若年非大卒女性である。勝ち組の壮年大卒層からきちんと所得税を徴収し、彼ら・彼女らをサポートすべきだという提言には説得力がある。属性によって人生が決まる社会は、好ましい社会ではないからである」。中日新聞五月二〇日朝刊、読書欄の書評文で、評者は橋本健二・早稲田大学教授。光文社新書の「日本の分断 切り離される非大卒若者たち」を評した文の一部である。

 それにしても、この逞しい「若年非大卒女性」の子どもさんらが、我が連れ合いの兄弟姉妹のようになっていかないという保証が今の日本のどこに存在するというのか。僕が結婚前の連れ合いと六年付き合った頃を、思い出していた。彼女のお母さんは、昼も夜も髪振り乱して働いていた。そうやって一馬力で育てた五人の子から生まれた孫はともかく、曾孫はたった二人! その孫たちももう全員四〇代を過ぎている。一般に「母子家庭が最貧困家庭である」とか、「貧富の世襲は当たり前になった」とかもよく語られている。今の日本においては、どんどん増えている貧しい家はこれまたどんどん子孫が少なくなって、家系さえ途絶えていく方向なのではないか。

 こんな豊かな現代世界がこんな原始的な現象を呈している。それも、世界的な格差という人為的社会的な原因が生み出したもの。地球を我が物顔に支配してきた人類だが、そのなかに絶滅危惧種も生まれつつある時代と、そんなことも言えるのではないか。
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随筆紹介 「失ったもの」   文科系

2018年08月31日 05時49分47秒 | 文芸作品
  失ったもの  H・Tさんの作品です


「おはようございます。配達のKです」
牛乳。冷凍食品。そして野菜と果物と食材を並べ、次の注文票を手にして、
「ありがとうございました。また来週に」
 これは毎水曜日のわが家の朝である。
 四か月前から私は食材の配達をN社にと、友人の勧めで利用している。集合住宅の三階に住んでいる私が大きな買い物袋をよいしょよいしょと持ち上げているのを見て、食材を宅配してくれるN社を教えてくれたのである。
“なるほど便利だ”、“週一回毎に注文票が届き記入するだけ。時間はとられないし、支払いは一か月毎に銀行から”。なぜもっと早くからと思ったほどである。注文票と共に新鮮な食材。それを使った料理が山のようにずらりと並んでいる。
 最初からうれしくて、あれもこれもと注文票に移入した。届いた食材は冷蔵庫。冷蔵庫はあっという間にいっぱいになり、野菜は台所に山のようになった。ひとり暮らしの私はとても食べられず、友人、知人に助けてもらった。
 肉や魚はかちかちの冷凍で板のようだ。インスタント食品もなじめない。野菜は多かったり少なかったりで適量がむずかしい。

 でも一か月、二か月が過ぎ、やっと、納得できるように注文ができるようになった。そして気が付けば、何となく食生活に満足できず、時間の余裕もなくいらいらと過ごす時が多いのに気づいた。

 ある日近くのデパートの地下、ある食品売り場に立ち寄った。
“たけのこ”、 “黄色の蕾のついた青菜”、“とれたての新鮮なわかめ”。魚市場には“鰆”、鰹など旬の魚が並んでいる。
“筍は今も田舎の裏山で土を盛り上げているだろうか”
“目に青葉の初かつお……”。
 春いっぱいの食べ物。しばらく立ち止まって、動けなかった。

 便利便利で何かを、大事なものを手放してしまい、それに気づかず、よろこんでいたのではと、残り少ないであろうこれからの日々をしっかりと、私は生きていきたい。
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随筆紹介 「きらきらネーム雑感」    文科系

2018年08月30日 18時31分00秒 | 文芸作品
 きらきらネーム雑感   H・Sさんの作品です                                             


女子中学生A子さん十四歳の投書文を読んだ。最近の名前の付け方は疑問と言い、当て字などが増えてわかりにくいとあって、以下のように続いていく。テレビ特集で取り上げられたきらきらネームは覚えてもらうのに便利だと言う人もいるが、就職・進学には不利だという特集だった。インターネットでも「子供が親のアクセサリー化している」という記事もあった。男の子が欲しかったのに女の子が生まれてきたと親の身勝手な理由で、女の子が健一郎と付けられた。この子が可哀想だ。親の常識を疑う名前も多い。例えば、茄子。この読み方は「かこ」なのだそうだが、一般にはナスである。きらきらネームは役所に届を出す時にやめるべきだ。名前は一生もの、親がもっと考えるべきだ。名前は個性的であるべきだという人がいるが、子供がいじめられるような名前は個性的ではない。以上がA子さんの投書文だ。
 なるほど、女の子なのに健一郎。茄子を「かこ」と読むとしても、この漢字の意味が解ると、本人はショックだろうと、私もA子さんと同じ意見だ。

 新聞で私も変わった名前を見付けたよ。最近のパラリンピックで、スノーボードの成田緑夢選手だ。グリムと振り仮名があるのを知った私は、確かに緑はグリーンで、これを夢と組み合わせてそう読ませようというのだと読んだよ。私は漢字を外国読みすることは好まないが、世間ではこういう読み方が増えている。私の友人の話では、きらきらネームを集めているインターネットサイトがあって、びっくりするような名前が掲載されているとのこと。そのいくつかを私は書き留めたので、紹介しよう。
 一は「愛夜姫」を「あげは」、二は「紗冬」を「しゅがあ」、三は「心」を「ぴゅあ」などなどがあった。私の貧しい言語感覚では全く理解できなかったよ。いくら考えても、一は全くお手上げ。二は調味料の砂糖に関わらせるようだが、「砂糖」を「紗冬」と書く子に育たねば良いのだけれど。三は純粋と言いたいらしいが、この子の心がはて、純粋になれるだろうか? こんなでたらめが広がってゆくと、漢字文化が壊れるのではないかと私は心配している。情けないことになってきたと気持が落ち込んでいた時、A子さんの投書を読んだ。無理な読み方は嫌だから、名前はやはり誰にでも読めて意味のあるものであって欲しいと、自分の意見を書いている。
 これはすごいことだよ。A子さんは現在十四歳。きらきらネームが流行りだし、それを赤ん坊に付けることを親がやり始めた頃に誕生した世代だ。赤ん坊だった人たちが自分の名前について意見が言える年齢に育ってきた。この世代の皆さんが自分の名前についての思いを述べてくれたら、これから親になり生まれてくる子供に名前を付ける人たちの目に触れ気配りする人たちが増えてくれたらと、私は願っている。というのは、名前というものは本人が自分に付けることができず、他人が付けたものを一生使用する、何とも厄介なものだと、私は思っているからだ。
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随筆紹介  「一羽と一人」    文科系

2018年08月29日 04時58分31秒 | 文芸作品
  一羽と一人  M・Aさんの作品です


 この春は極端な寒暖の差があり、草花も一斉に咲きだした。いつもなら桜、ハナミズキ、ツツジや藤などと順に咲く。ところが今年は百花繚乱、庭でも木蓮、牡丹、クレマチスと散り急ぎ、芍薬も咲きだした。おまけに、蚊や毛虫の卵もびっしり。
 晴れた日の屋外は十時を過ぎるともう暑い。私は週のうち五日以上は歩くことにしている。午前中の教室通いもあるので、ない時は午前中に時間を見つけて今や決まったコースを歩く。
南区と緑区を隔て、ほぼ東西に流れる天白川と扇川の堤防の河岸歩道を中心に歩く。この日は風もほぼなく、気温も二十度位だったので、帽子と日傘は使ってもかなり快適であった。片道二十分から三十分の河岸を行くのだが、南区側からだと天白川が手前になるので、毎回同じ光景を見ながら歩くことになる。
 自然の移ろいは確かであって、日ごとに変化している。コンクリートの防壁に生える草の丈や量だって、よく見ると違っている。川面の水量も満潮時と干潮時とは違うし、歩く時間によっても異なる。風のある日はさざ波がたってるし、水が濁っているときもあれば、透明度があって鯉の姿を見るときもある。
 このところの関心事は、川面と岸辺にいる鳥たちである。今はカイツブリがいるが、秋から春にかけて渡ってきていた渡り鳥の鴨が群れをなして泳いでいるのは見ごたえがあった。白と黒に茶色のはっきりとした/姿で、雌は全体に茶色っぽくてパッとしない。この鴨が寒いときには沢山いて、歩きながら鴨の数を数えることが日課になっている。

 すでに五月の中旬に入った。昼間は二十五度位になることが多く、午前中に出かけた。この頃は毎日〈鴨さん、今日はまだいるかな〉と歩き出し、鴨の姿を探すようになっている。歩くのはせいぜい一・三キロちょっとの往復で、川にいる鴨の総数を数えるわけではない。大慶橋から下流の名四国道と交差する地点というのが正しいかも。歩きながら全部を数えるのは、多いときは無理なので、群れごとの数である。一つの群れで、多い時は八十から百羽位だったか。因みにこの日は合計で七羽だった。
泳いでいる鴨の数を数えるのは、これでも多いときなどひと苦労。なんせ自分も歩いているし、川幅も広い所で三十メートル近くはあるのではないか。鴨は時々水面下に潜るし、位置も常に変わる。「あれ、確かに今いたよなー」、ひとり呟き、川面の遠くに目を凝らす。まるでよく動き回る幼児たちの数を数えるのと同じ。また、いろんな会でのバス旅行で乗客を点呼するときにも役立つなーなどと思えて可笑しくなる。
 歩く度に鴨の所在を確認するのが課題になっているが、たとえ数羽でも見つけることができると、不思議に安堵して嬉しくなる。これって何なのだろう? 自分が半年以上も鴨たちと共有した時間があるからなのだろうか。水面に姿を認めるだけでホッとするのだ。反面、心配にもなる。「あんたたちは、まだここに居て、北に帰らなくても大丈夫なの、いつ帰るのよ?」などと呟く。
 鴨は群れでいることが多いが、番もいる。だから、たまに離れている川面にポツンと一羽だけいると「大丈夫かい、一人で?」と訊きたくなる。離れたところにでも仲間が居ると、よかったと思う。これって老婆心なのだろうけれど。
 一人でいたいと私自身最近特に思うが、鴨にもそれがあるのだろうか。五月の読書会の課題が『家族という病』下重暁子著で、すごく読みたかった本である。まだ全部は読んでないが、なるほどと思うことが多い。私自身が家事や家族にたいする嫌悪感、倦怠感を感じだしているときであり、「鬱病症状」も少しあるので、一羽と一人が気になっているようだ。

 これを書き終えようとしている五月十九日現在、たった一羽の鴨を水面に見つけて心配になったのだが、果たして明日以降天白川にその姿は見られるのか……。 昨日と今日の温度差が十度。普通ならすでに北へ帰ったはずの渡り鳥である。
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掌編小説 「日本精神エレジー」   文科系

2018年08月29日 04時36分08秒 | 文芸作品
「貴方、またー? 伊都国から邪馬台国への道筋だとか、倭の五王だとか・・・」
連れ合いのこんな苦情も聞き流して、定年退職後五年ほどの彼、大和朝廷の淵源調べに余念がない。目下の大変な趣味なのだ。梅の花びらが風に流れてくる、広縁の日だまりの中で、いっぱいに資料を広げている真っ最中。
「そんな暇があったら、買い物ぐらいしてきてよ。外食ばっかりするくせにそんなことばっかりやってて」
「まぁそう言うな。俺やお前のルーツ探しなんだよ。農耕民族らしくもうちょっとおっとり構えて、和を持って尊しとなすというようにお願いしたいもんだな」

 この男性の趣味、一寸前まではもう少し下った時代が対象だった。源氏系統の家系図調べに血道を上げていたのだ。初老期に入った男などがよくやるいわゆる先祖調べというやつである。そんな頃のある時には、夫婦でこんな会話が交わされていたものだった。
男「 源氏は質実剛健でいい。平氏はどうもなよなよしていて、いかん」
対してつれあいさん、「質実剛健って、粗野とも言えるでしょう。なよなよしてるって、私たちと違って繊細で上品ということかも知れない。一郎のが貴方よりはるかに清潔だから、貴方も清潔にしてないと、孫に嫌われるわよ」
 こんな夫に業を煮やした奥さん、ある日、下調べを首尾良く終えて、一計を案じた。
「一郎の奥さんの家系を教えてもらったんだけど、どうも平氏らしいわよ」
男「いやいやDNAは男で伝わるから、全く問題はない。『世界にも得難い天皇制』は男で繋がっとるん だ。何にも知らん奴だな」
妻「どうせ先祖のあっちこっちで、源氏も平氏もごちゃごちゃになったに決まってるわよ。孫たちには男性の一郎のが大事だってことにも、昔みたいにはならないしさ」
 こんな日、一応の反論を男は試みてはみたものの、彼の『研究』がいつしか大和朝廷関連へと移って行ったという出来事があったのだった。

 広縁に桜の花びらが流れてくるころのある日曜日、この夫婦の会話はこんな風に変わった。
「馬鹿ねー、南方系でも、北方系でも、どうせ先祖は同じだわよ」
「お前こそ、馬鹿言え。ポリネシアとモンゴルは全く違うぞ。小錦と朝青龍のようなもんだ。小錦のが  おっとりしとるかな。朝青龍はやっぱり騎馬民族だな。ちょっと猛々しい所がある。やっぱり、伝統と習慣というやつなんだな」
「おっとりしたモンゴルさんも、ポリネシアさんで猛々しい方もいらっしゃるでしょう。猛々しいとか、おっとりしたとかが何を指すのかも難しいし、きちんと定義してもそれと違う面も一緒に持ってるという人もいっぱいいるわよ。二重人格なんてのもあるしさ」
 ところでこの日は仲裁者がいた。長男の一郎である。読んでいた新聞を脇にずらして、おだやかに口を挟む。
一郎「母さんが正しいと思うな。そもそもなんで、南方、北方と分けた時点から始めるの」
男「自分にどんな『伝統や習慣』が植え付けられているかはやっぱり大事だろう。自分探しというやつだ」
一郎「世界の現世人類すべての先祖は、同じアフリカの一人の女性だという学説が有力みたいだよ。ミトコンドリアDNAの分析なんだけど、仮にイブという名前をつけておくと、このイブさんは二十万年から十二万年ほど前にサハラ以南の東アフリカで生まれた人らしい。まーアダムのお相手イヴとかイザナギの奥さんイザナミみたいなもんかな。自分探しやるなら、そこぐらいから初めて欲しいな」
男「えーっつ、たった一人の女? そのイブ・・、さんって、一体どんな人だったのかね?」
一郎「二本脚で歩いて、手を使ってみんなで一緒に働いてて、そこから言語を持つことができて、ちょっと心のようなものがあったと、まぁそんなところかな」
男、「心のようなもんってどんなもんよ?」
一郎「昔のことをちょっと思い出して、ぼんやりとかも知れないけどそれを振り返ることができて、それを将来に生かすのね。ネアンデルタール人とは別種だけど、生きていた時代が重なっているネアンデルタール人のように、仲間が死んだら悲しくって、葬式もやったかも知れない。家族愛もあっただろうね。右手が子どもほどに萎縮したままで四十歳まで生きたネアンデルタール人の化石もイラクから出たからね。こういう人が当時の平均年齢より長く生きられた。家族愛があったという証拠になるんだってさ」
妻「源氏だとか平氏だとか、農耕民族対狩猟民族だとか、南方系と北方系だとか、男はホントに自分の敵を探し出してきてはケンカするのが好きなんだから。イブさんが泣くわよホントに!」
男「そんな話は女が世間を知らんから言うことだ。『一歩家を出れば、男には七人の敵』、この厳しい国際情勢じゃ、誰が味方で誰が敵かをきちんと見極めんと、孫たちが生き残ってはいけんのだ。そもそも俺はなー、遺言を残すつもりで勉強しとるのに、女が横からごちゃごちゃ言うな。親心も分からん奴だ!」

 それから一ヶ月ほどたったある日曜日、一郎がふらりと訪ねてきた。いそいそと出された茶などを三人で啜りながら、意を決した感じで話を切り出す。二人っきりの兄妹のもう一方の話を始めた。
「ハナコに頼まれたんだけどさー、付き合ってる男性がいてさー、結婚したいんだって。大学時代の同級生なんだけど、ブラジルからの留学生だった人。どう思う?」
男「ブ、ブラジルっ!! 二世か三世かっ!?!」
一郎「いや、日系じゃないみたい」
男「そ、そんなのっつ、まったくだめだ、許せるはずがない!」
一郎「やっぱりねー。ハナコは諦めないと言ってたよ。絶縁ってことになるのかな」
妻「そんなこと言わずに、一度会ってみましょうよ。あちらの人にもいい人も多いにちがいないし」
男「アメリカから独立しとるとも言えんようなあんな国民、負け犬根性に決まっとる。留学生ならアメリカかぶれかも知れん。美意識も倫理観もこっちと合うわけがないっ!!」
妻「あっちは黒人とかインディオ系とかメスティーソとかいろいろいらっしゃるでしょう?どういう方?」
一郎「全くポルトガル系みたいだよ。すると父さんの嫌いな、白人、狩猟民族ということだし。やっぱり、まぁ難しいのかなぁ」
妻「私は本人さえ良い人なら、気にしないようにできると思うけど」
一郎「難しいもんだねぇ。二本脚で歩く人類は皆兄弟とは行かんもんかな。日本精神なんて、二本脚精神に宗旨替えすればいいんだよ。言いたくはないけど、天皇大好きもどうかと思ってたんだ」
男「馬鹿もんっ!!日本に生まれた恩恵だけ受けといて、勝手なことを言うな。天皇制否定もおかしい。神道への冒涜にもなるはずだ。マホメットを冒涜したデンマークの新聞は悪いに決まっとる!」
一郎「ドイツのウェルト紙だったかな『西洋では風刺が許されていて、冒涜する権利もある』と言った新聞。これは犯罪とはいえない道徳の問題と言ってるということね。ましてや税金使った一つの制度としての天皇制を否定するのは、誰にでも言えなきゃおかしいよ。国権の主権者が政治思想を表明するという自由の問題ね」
妻「私はその方にお会いしたいわ。今日の所はハナコにそう言っといて。会いもしないなんて、やっぱりイブさんが泣くわよねぇ」 
男「お前がそいつに会うことも、全く許さん! 全くどいつもこいつも、世界を知らんわ、親心が分からんわ、世の中一体どうなっとるんだ!!」
と、男は一升瓶を持ち出してコップになみなみと注ぐと、ぐいっと一杯一気に飲み干すのだった。
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太平洋戦争は、 「アジアのため」?

2018年08月28日 00時16分25秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 右翼は、大東亜戦争という言葉が好きです。「大東亜共栄圏」とも語るように、白人の横暴からアジアを守る闘いだったと言いたいわけです。岩波新書、日本近現代史十巻シリーズの一冊「アジア・太平洋戦争」の著者、吉田裕はこういう主張をいくつかの点から批判していきます。

 最初は、この戦争に際してマスコミなどを「白人対アジア人とは、語るな」と統制していたことをあげています。独伊がお仲間だったからです。また、フランスに対独協力派ヴィシー政権が誕生すると、40年8月にはこんな協定を結んでいます。
『フランスが極東における日本の優越的地位を認め仏印への日本軍の進駐を容認する、それと引き換えに、日本は仏印全土に対するフランスの主権を尊重する』
 「白人の仏印全土への主権」を、日本はいつまで認める積もりだったのでしょう? 作者はこんな事を語って見せます。
『このことは、インドシナ地域の民族運動の側から見れば、日本とフランスは共犯関係にあることを意味する』
 
 それどころか、そもそも開戦理由などは後付けであったと、その経過を著者は明らかにしていきます。
『41年11月2日、昭和天皇は東条首相に、戦争の「大義名分を如何に考うるや」と下問しているが、東条の奉答は、「目下研究中でありまして何れ奏上致します」というものだった』
・宣戦の詔勅では、「自存自衛の為」と、述べられています。
・12月8日開戦後、7時30分のラジオでは、情報局次長によって、こういう放送がされたということです。
『アジアを白人の手からアジア人自らの手に奪い返すのであります』
・このラジオ放送には、こんなおまけが付いています。この概容を掲載した翌日の朝日新聞では、「白人」という言葉はどこにも見当たりません。かわりにあるのが、「アングロサクソンの利己的支配」。すり替わった理由は、上に述べた通りです。
12月10日に「大東亜戦争」という呼称を、大本営政府連絡会議で決定。次いで12日に「大東亜戦争」の意味を説明して「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」と宣言されました。この「新秩序建設」は、後で述べる11月5日の御前会議決定にも出てきます。

 日本利権と軍事優先ですべてが決定され、理由は後からくっつけたということは、明らかでしょう。このことは、41年10月18日に近衛文麿内閣が総辞職して東条英機内閣が成立したその事情にも、示されています。近衛内閣は、41年4月から始まった日米交渉において、アメリカの最大要求であった『日本軍の中国からの撤兵』を『何らかの形で撤兵を実現することによって交渉の決裂を回避しようとし』ていました。これが軍部に拒否されて近衛内閣は総辞職し、以降2ヶ月弱で日英・日米戦争に勇往邁進していったわけです。関連して、開戦決定御前会議は従来言われていたような12月1日ではなく、11月5日だったと著者は述べています。なお、この5日の御前会議の存在は、東京裁判の当初の段階では米軍に知らされていなかったということです。ハルノートとの関係、「日米同罪論」との関係で秘密にしておいた方が都合良かったと、著者は解明していました。


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小説 「歳々年々人同じからず」(3)終回  文科系

2018年08月28日 00時10分30秒 | 文芸作品
(四)

 ボケが咲き続けている間に、白木蓮が開き、散りかけ、庭の一角がユキヤナギで白くなり始めた。透明に通り過ぎていった大気が今は、この大都会に生き残った土や草木そして人の中へも、入り込んでいくようだ。そんな季節、日曜日の昼近く。
 「お祖母ちゃん、一番だけ訳せたよ」
 太一が、離れの加代子の家を訪れてきた。
 「ほんとに、ありがと。すぐに読んでくれるかな。というより、好きなように朗読してもらおうかね」
 太一は何も言わず、一句一句を切り、抑揚もなくゆっくりと読み始めた。〈照れてるんだ、この子。でも、まんざらでもないみたいで、ほんとに良かった。心臓の辺が暖かくなったな〉、加代子は心臓の上に本当に手の平を押し当て、やせた肉の下の弾みを確かめてみた。
 懐かしいバージニアへ、俺を連れ戻してくれ
 そこには、綿やトウモロコシやジャガイモが生えている場所がある
 春に鳥たちがさえずり交わす場所も
 年寄りの黒んぼのこの俺の心が、行きたいと疼いている場所も
 黄色いトウモロコシ畑で来る日も来る日もあんなに汗流して
ご主人にお仕えしたその場所も
 俺が生まれたバージニアほどに心底好きな所は
 この世のどこにもありゃしない (注)

 「やっぱり太一くんに頼んでみて、良かった。そのままの訳をしてくれたみたいで、この歌の感じがほんとによく出てるんじゃないかなぁ。二番は?」
 「ちょっと考えてるとこがあって。もう少し待ってくれる?」
 「ご主人様夫婦もずーっと前に死んじゃったし、私が朽ち果てるまであそこで暮らさせてくれとかいう所があるでしょう?ほんとに良い歌ねぇ。それに太一くんきっと、文学の才能があると思うわ」
 「この歌の、そこの所が好きなわけ?」
 「自分の死ということを考え始めた人って古今東西、どういうわけか故郷を考えるらしいんだね。何故だろうねぇ。この歌はその見本みたいなものだけど」
 ちょっとの間を置いて、太一。「無邪気に遊んだ頃の風景や物が懐かしいんじゃないかなぁ」
 「それをどうして特に八十過ぎてから、よく思い出すんだろう?」、問う加代子。
 「お祖母ちゃんは、渥美半島の田原だった?その何を思い出すの?」、太一の逆質問だ。
 「町で遊んで帰る川沿いの道から見た夕焼けの蔵王山。何でもないことでもね、例えば、遊び途中の雨宿りで、ガラス戸越しにうらめしく外を見てる私。その目の前で、板ガラスをするすると落ちてく雨垂れ」、ゆっくりと今朝の夢を話すような、加代子である。
「夕焼けは何となくわかるなぁ。そう言えば、山ん中の小っちゃいなんか、お墓が村全部を見渡せる丘なんかによくあるね。それこそ、夕焼けに照らされてたりして。死んだ人がそうしてくれと言ったのか、残った人が村全部を見続けさせてやろうと思ったんだろうか?」、太一が立ち入ってきた。
 「残った人がちょっと顔を上げると見える場所だから、逝った人の、いつも思い出してねという願いなんじゃないかねぇ」、加代子がゆっくりと、応えた。
 「死んだ人の思い出は、残っても後の三代までで、以後は跡形もないよ!」、珍しく強い調子の、太一の言葉だ。
 「ちょっと庭に出ない?手伝って欲しいことがあるんだけど」、一瞬間を置いた後、ふるえているような細い声で加代子が話の方向を変えた。
 「うん、いいよ」
 加代子は、その返事に口許をゆるめ、曲がった腰で足早に庭へ出て行く。その後を、ひょろっとした太一がやはりまんざらでもないといった顔をして大股でついて行く。

 ついさっきから、春休みで家に帰っている千草にピアノを頼んで、恵子のフルートと省治のバイオリンとのトリオが始まっていた。省治は三年ほど前から三十年ぶりくらいで本格的にこの楽器に触ってきた。そして、娘の上手くなったピアノや恵子のフルートと合わせるとき、むかし母にこれを習わされたことがこんなに幸せなことだったかと、初めて振り返ることができた。
 他方、庭に出た加代子の方は、耳にトリオの音が届くようになったとき、こんなことが頭をかすめていた。
 〈夫婦二人だけのいつものように、昔懐かしい世界愛奏歌集ってところだけど、三人になると恵子さんの音が躓くのがはっきりしちゃうね。四十半ばからの手習いはリズム合わせがどうしても壁になるんだねぇ。それにしても恵子さん、共稼ぎなのによく頑張る、普通の曲ならもう初見で吹けるようになったものなぁ。千草は、曲の好き嫌いもろ出しで気の向くままにアドリブやってるけど、不思議とタンゴは乗るみたいだね〉

十分ほど後、脚立から白木蓮の古木に登り込んだ太一が、太目の枝にのこぎりを引いていた。
 ジャージ姿に着替えている。不器用に曲げられて持て余される長い膝、両頬の横に垂れている数本の汗、懸命な顔だ。省治が、外の物音を聞きつけ、二階から顔を出して、笑っていた。〈下の加代子さんの方は、両手を傘のようにして、目を細め、落ちてくる花の残骸を避けるように右往左往してるけど、太一を心配して心底おろおろしてるんだね、あれは〉

 夕方近くなった。窓辺に加代子がビールを出し、太一と飲み始めている。
 「さっき、夕焼けは何となく分かるなぁって言ったけど、じーんと来たような夕焼けが何かあったのかい?」
 加代子の先ほどの話の続きらしい。
 「ちょっとはね」
 「他に、山とか川とか、それに海とかで、そんな体験はある?」、さりげなく話しているが、緊張した加代子の質問だ。
 「そりゃぁ、いくつかはあるよ。例えば、父さんに渓流釣りに連れてかれて、山の斜面を下るすごく急な流れを登ってく時、下から見上げた空なんか」
 「どんな空?」
 「五月頃の、新緑ってのかなぁ、とにかく上に大木の葉っぱやごろごろした大岩があって、その向こうにあった空なんだけど」
 「私はねぇ、私のそういう景色のいくつかの中で、こんな所でなら、あの歌の二番にあるようにそこで死んでそのまま腐ってってもいいなぁと、そんなふうに思うことがあるんだよ」、加代子は言い切った。太一は、加代子の目を一瞬見つめ、黙っていた。
 「松尾芭蕉の辞世の句って知ってるかね?」、加代子の追加、ずっと考え、探してきた質問なのだ。
 「うん、旅に病んで夢は枯野をかけめぐる、でしょう?」、誇らしげに答え終えたそのとたん、うんっと、太一。加代子が黙っているのを確かめるようにして、そのまま続けた。
 「この辞世の句、お祖母ちゃんがいま言ったことに似てるね。どんな枯野で死に腐ってってもいいかって、探してきたんだろうか、この人?」
 〈あの「浪速のことは夢のまた夢」とは、同じように辞世と言い、同じ「夢」という言葉が入ってもひどく違う〉、太一は瞬時にそうひらめきながらたずねていたのだった。
 一瞬間を置いて、加代子。
 「私は勝手に同類だと考えてるんだけどねぇ」
 コップをゆっくりと飲み干して、肘掛けに運んだ太一。

 加代子はこの時、心臓の一拍一拍が弾んでいると随分久しぶりに感じられ、半ば無意識にそこへ手の平を持っていきながら、続けていた。
 「太一くん、しばらく私の本家にでも居候して、花鳥風月なんかに遊ばせてもらってきたら?私のこの感じ方のずっと先へ行くかもしれないよ。太一の人生、まだまだ長いんだし」
 「花鳥風月って、風流の世界というようなことだろ。それと付き合えって?あれっ、この言葉、『エコロジー』に似てるね」、後半は、太一のほとんど独り言だった。
 「エコロジーって、よく聞くけど、何か分からない言葉だよ。どこが似てるんだね?」、落ち着いた、柔らかい声である。
 「人間も加えて、動物の環境の学問のこと。花鳥風月だってこんな感じもない?花を鳥が食べ、鳥を風が運び、風は雲も運んで月やお日様を見せたり隠したり、それでまた、花や鳥が喜んだり困ったり、どう?それに、エコロジーも花鳥風月も、人間だけが特別じゃないよ、自然が私だよという感じもあるし」
 「へーっ、太一には花鳥風月がそうなるのかね。でも、二つは同じ、本当のことだよ、きっと。それじゃ今晩、私らのエコロジーの歌、バージニアでも、向こうの三人にやってもらおうかねぇ」
 いつも人の目をまともに見ない太一が、祖母の目をもう一度見つめて、眩しくて顔をしかめるというように、微笑んだ。
 〈この間まで、よく泣いたし、おとなしいだけだと思ってた太一がねぇ。こんなことを言うようになったよ。はやいもんだ。案外、この子の問題もこの方向で解いてくかもしれないねぇ。太一の中からこの先、何が出てくるか私には全く分かったもんじゃないね〉
 加代子が心でそうつぶやき終わったとき、庭の一角がふっとその目に入ってきた。夕焼けがユキヤナギに当たり、その前の土の上で数羽の雀が何かをついばんでいたのである。


(終わり)

(注)この歌、J.A.Bland作詞作曲 ”Carry Me Back to Old Virginny”が、1997年1月28日、アメリカ・バージニア州上院議会で州歌廃棄となったという事実を筆者は承知している。「黒んぼ」と「ご主人様」の二語が人種差別用語だという理由らしい。当事者が「不愉快だ」と決めたのだから、部外者に言うべき事はないが、以下の理由でこういう歌を敢えて使わせていただいた。この歌が、人の晩年の、この世への恩讐を越えた懐かしさを歌っているように思うからである。なお、この歌の作詞作曲者が黒人の方であるということも付記しておく。
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小説  「歳々年々人同じからず」(2)  文科系

2018年08月27日 01時27分54秒 | 文芸作品
 「昨夜あれから太一が私の部屋に来て、喋っていったんだよ、知ってた?」、二人それぞれの沈黙を、加代子の声が破った。
 「少しだけど聞こえてきた。どんな話だったの?」
 「去年、高校時代の友達が山で死んだらしくてね。それからずっと考え込んできたみたい。切り出しは、『生きる』って、ほら黒澤明のあの映画ね、どんな筋だったのかときくんだよ」
 加代子は覚えている限りのあらすじを話したそうだ。するといきなり、太一がたずねたというのだ。
 「死ぬってその人が永遠に無になるってことかなぁ」
 それで、加代子は答えたそうだ。そう考える人もいるし、心がそのまま残ると答える人もいるし、心は残るけどその入れ物が人間だけでなく他の動物になったりして、入れ物が替わる度に以前の記憶もなくなっていくと説く宗教もあるなどと。
 「家にはあんたたちの時代から仏壇も神棚もなかったし、霊魂のことなんかが頭をかすめる奴もいないし、太一もどっちかといえば『永遠の無』の方だろ?」
 省治がきいた。
 「うん、そうみたい。『俺にも永遠の無が来るとしたら、俺どうしようかなぁ』とか言ってたから」
 そして、加代子はこういうことをいつ考えたかともきかれたのだそうだ。
 「それで、どう答えたの?」
 「この頃になって初めてねとありのまま答えたよ」
 すると太一、一瞬だまった後に、「じゃーっ」とか言ってあっけなく出て行ったということだった。
 「あんた、あいつの『永遠の無』について、何か言ったった?」、省治は改めてたずねた。
 「きかれなかったし、きかれてもちょっと答えられないよ」
 「あの考え方が落ち着ける先って、土や草木、動物それに宇宙なんかへも、そういうものへの愛着のような問題じゃないかなぁ。俺なんかとてもそんなものは縁が遠いと観念しかけてるけど」
 
 サザンカがきれいな時を過ぎ、開きすぎて汚れた花が木や地面をおおっていた。その横でヨメナ群落の、枯れ残った残骸が揺れていた。それらの手前にある丈高い白木蓮の古木や、その根元近くで伸びたままのようなボケ二株にはつぼみがあるだろう。輝いている空気の中のそれらすべての草木が、薄暗い部屋の中にいるせいばかりではなく、省治の目に眩しいように入って来た。省治はしばらくベッドの横の椅子に座り、母の言葉を待っていたが、加代子はもう話さなかった。あいかわらず顔の下半分を布団で隠し、今は、目も閉じている。
 「行くよ」
 「うん」
 省治はゆっくりと母の部屋を出た。

(三)
 
 〈昨夜お祖母さんから、「例の問題」をヒアリングした。彼女は、最近までリアルタイムをフルパワーで生きてきてそんなことを考える暇はなかったと語り、俺の今の心境にも半信半疑みたい。ただし、今はかなりマジだ。歎異抄とか『死に方のこつ』なんて本が枕元に置いてあったから。俺の質問にも、いろいろダイジェスト的に応えてくれたが、俺にとってのヒントはなかった。「永遠の無」を認め、その上でそこから「ノープロブレム」を求めていこうというコースではないようだ〉
 太一の深夜の日記だが、若さは一途に駆けて行く。

 それにしても、人はなぜ、こんなはっきりしたことを知らないふりして生きてるんだろう。この前の秀吉のテレビ、彼の辞世の歌、「露といで露と消えゆく命かな 浪速のことは夢のまた夢」とかいうやつをやとった。あんな「生きる」なんて映画もあって、かなり昔から「ゴンドラの歌」、今の大人みんなが歌ってきたんだ。大昔でも始皇帝のヘイバヨウ。この世で持ってた威力を死後へも持ち込もうと、ものすごい準備じゃないか。宗教や哲学でも、死が最大の問題となっとるのに。なんかみんな、馬鹿じゃないのか。お前らもやがて永遠の無で、その前の一度しかない命なんだぞ、分かっとるのか!おいっ!!
 確かに俺も、あいつのことがなければ今でもちゃらちゃらやっとったろう。あいつの「永遠の不在(俺にとっての)」、信じられんかった、どこへ行ったんか、もう謎だった。でも、そこからちょっと考えてったら、「俺の永遠の無」に出くわした。そして、ものすごい焦燥感だ。居ても立ってもおれん、身の置き場がない。あれだけ入れ込んだテニスも、パッカーンとサービスエースを決めたそのリアルタイムに、「これを人間が『ナイス、上手い!』と、勝手に決めたんだなぁ、と醒めとるようになっちゃったもんなぁ。「永遠の無」が解けぬうちは、すべてが、どうでも良い言うならば「人工的問題」になっちゃったんだ、俺の中で。
 ところで、みんなだって、身近な者の一人や二人、「永遠の不在」は経験しとるだろうに。なのに何だ。やっぱり、馬っ鹿ばっかりだ!
 この日本、例えば東京の地下鉄は、世界一のブランド物展覧会場だと外国人が言うそうだ。「私だけに分かるこの良さ」とか「コーディネイトでさりげなく」などの「内面的個性」で「ブランド物人生」を言い換えてみたって、他国から見れば世界一の成金趣味国の一員に変わりない。さすが、金ぴか秀吉の末裔だね。
 女が大好きな「ブライダル人生」と「貴方任せ人生」。男は「金儲け人生」か「お山の大将人生」ってとこか。貴方の行きたい先はビル・ゲイツですか、秀吉や始皇帝ですかってきいたりたいもんだ。そういう奴に限って、秀吉みたいに間際になって慌てる。「露」だってさ。自分でそれを選んだんだ、初めから分かっとるこったろう。「人間五十年   」秀吉はぁ、御大将のこのリピートを聞いてきたんだしぃ、修練の覚悟ができてたんじゃないの、そう笑ったりたいよ、ホント。
 それにぃ、例え死後の世界があったとしてもぉ、二人ともあれだけ殺してきた、キラーだ。まず地獄ですよ、ヘルですよ。あっ、そうか、地獄の執行権力を蹴散らす?そのためのヘイバヨウなんだ?確かめてみたいもんだね、ホント、全く。
 「死後が無だからこそ好きなことをやるんだ、今の俺はそういう選択をしとるんだよ」、訳知り顔にこう開き直っとる奴も、確かにおる。そういう奴には言ったりたいね。「そのお前の『好きなこと』が、死ぬまで『露』にならないという保証はどこにあるかね?」と。それに、「好きなこと」と言えばそれで何か主体的な一貫性があるようだけど、人間、昨日赤が好きで、今日黒が好きに変わることなんてしょっちゅうだよな。ならば、「好きなこと」をやるって、知らんうちに自分の混乱をまき散らしとるだけじゃないか。そんな奴がえらそうに「露」でないなどと言ってくれるな、ホント、恥ずかしい!!
 さて、いま言ったすべての奴らとはちょっと違うかも知れんけど、「本当の生きがいは歴史の方向に沿って生きること」なんて説教しとる奴もおったな。例え万一歴史があの説教屋の言うように進むもんだとしてもぉ、何でそれに沿って生きなならん?それで「永遠の無」が解けるか?この問題を考えたこともないような奴がぁ、わざわざ時間とらせて余分なことを説教しに来るなってんだ!忙しい俺にぃ!
 さて、こういう奴ら全部含めて、「奴らが死んだって、祭ったるな。そんな死者はそしれ」、俺の唯一大事なことを何も教えてくれない人生には、俺は少なくともそう言うしかないね。

 この調子で、太一の日記はまだまだ続いていく。
 そして、ほとんど眠れなかった夜も明けて、さらに、正午近く、透明な日差しを厚いカーテンで遮断して、スタンド明かりの下で、太一はこの文をもう何度読み直した事だろう。正気なのか、若い、眠れぬ一途が狂気に近づいたのだろうか、日記を打っているワープロの端が、随分前から、落ちた涙で濡れていた。


(終回へ続く)
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今読んでいる本は面白いのばかり   文科系

2018年08月24日 11時23分11秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 ここにも良く書評を書いてきて、その書評というのも詳しい内容紹介を何回にも分けてやってきたが、今日は今同時進行で読んでいる何冊かの本のざっとした紹介をしようと思い立った。いずれも優れた興味深い物ばかりが偶然重なった時期のように思えるからだ。
 最初に、前置きとして、僕の本の選び方について。結局は書店で現物を見ながら買う場合がほとんどだが、新聞や週刊誌などの書評欄から店頭で探す場合が多い。たくさん買うので、今は新書版がほとんどである。
 これらの読み方は、おおむねこんなふうだ。①ざっと目次を見る。②そこの主要点を、前書き、後書きなどと共に読み、執筆の問題意識と結論という輪郭をつかむ。③そこから、その本の価値を推し量り、すぐ精読してここにほぼ全編を内容紹介したいもの、ちょっと先に回してもきちんと読みたい物、今ざっと読み飛ばして終わりにする物などに分ける。なお、買ったけれどほとんど読まないという本は僕の場合ない。既に店頭でざっと目を通して買うからだろう。
 さて、まず、以下の紹介本自身の順番だが僕が買い入れた時の古い順に紹介する。上の方の古い本は、上で言うところの「ちょっと先に回してもきちんと読みたい」一通りは読んだものになる。それぞれの紹介内容は、出版社と書名、著者名、印刷(発行ではない。第5刷○月○日とかの・・・)年月日、そして概要紹介というもの。概要紹介はその著作の問題意識程度になるだろう。

岩波新書「古代国家はいつ成立したか」。都出比呂志大阪大学名誉教授(考古学)。14年11月5日
 「弥生社会をどう見るか」「卑弥呼」から始まって、「巨大古墳と古墳の終焉」「律令国家」と続いて、題名の結論で終わる。文献史学に比べて考古学の方がよりリアルな事実の探求というように感ずるとは、以前に述べた通りである。

②中公新書「近現代日本史と歴史学 書き替えられてきた過去」。成田龍一日本女子大学人間社会学部現代社会学科教授。12年3月20日
 戦後日本では、日本近現代史の流れのつかみ方について、三つの時期があったこと、つまり2回解釈転換があったと述べて、その内容がまず明かされている。1960年ほどまでの社会経済史ベースの時代から、「民衆」史ベースの時代へ。次いでそこからさらに80年頃に起こった社会史ベースの時代へという変換であると。その上で、明治維新、大日本帝国、アジア・太平洋戦争などなど歴史の重要項目について、三つの時期それぞれでどう解釈変更されたかと、描かれていく。壮大かつ野心的な志と内容と感じたところだ。

中公新書「日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実」。吉田裕一橋大学院社会学研究科教授。17年12月25日
 書名に言う「現実」の中身は、こういうこと。餓死者、餓死以前の栄養失調からの戦病死兵士が圧倒的に多かったと。そして制空権を握られてからの海没者など、戦争末期の死者が特に多かったこと。もう一年早く終わっていたら死なずにすんだ人がどれだけいたかなどと思って読んだものだ。これらが、可能な限り詳しい数字と共に述べられている。

ちくま新書「日本の転機 米中の狭間でどう生き残るか」。ロナルド・ドーア、ロンドン大学名誉教授・同志社大学名誉文化博士(日本経済、日本社会構造)。12年11月10日
 副題の通りの内容である。つまり、米中冷戦が既に始まっているのだが、「では、日本はどうしよう?」と。中国の欠点を挙げ、今にも崩壊するというような日本マスコミほとんどの「アクセス報道」(下記⑤参照)論調とはかなり違う描き方だから、驚くことも多かった。トランプ政権になってからさらに進んだ世界慣行制度無視によるアメリカの権威失墜は、それだけアメリカの困窮ぶりの帰結なのでもあって、世界史を10~20年単位で見た大家のみに可能な貴重な著作と思う。

⑤集英社新書「権力と新聞の大問題」。望月衣塑子東京新聞社会部記者、マーティン・ファクラー前ニューヨーク・タイムス東京支局長。18年6月20日
 管官房長官記者会見で厳しい質問を浴びせ続けて来たことで名をはせた女性記者を、日本マスメディアの根本的欠陥に通じた同業米記者が励ます内容と言って良い。マスコミ報道には、報道対象関係者の言葉などをそのまま伝える「アクセス報道」と、事件を詳細に調べて記者の見解なども入れる調査報道とがあるが、日本は前者ばかりだから政治家らとも密着しやすく、政権忖度から批判が少なすぎると描かれてあった。

⑥角川新書「日本型組織の病を考える」。村木厚子元厚生労働事務次官。18年8月10日
 言わずと知れた冤罪事件の主。取り調べの可視化など一定の検察改革にも繋がった著者の体験を通じて表題のこと、改革方向などを説いた物である。

⑦集英社新書「スノーデン 監視大国日本を語る」。エドワード・スノーデン元米シニア情報局員、国谷裕子キャスター、ジョセフ・ケナタッチ国連人権理事会特別報告者他。18年8月22日
 この興味深い著者らの取り合わせに即引かれた本だが、内容は、現代世界の民主主義の生死に関わってくるほどに大きな問題、解決方向を語っている。スノーデンの運命はどうなるのだろうと憂慮していたが、この大悪と戦っている団体、人々がこのように存在するのだと、勇気づけられたものだ。

 他に、③の著者、吉田裕の「昭和天皇の終戦史」(岩波新書)も読んでいるが、目配りの広い、天皇に厳しい内容になっていると読んだ。吉田裕は戦後の著名な近現代史家、藤原彰の弟子のようだが、僕が愛読してきた歴史学者である。


 なお、上記太字の人物、著作は、このブログの中に既に一部書評などが存在することを示している。その出し方はこうする。右欄外最上部にある「記事を書く」の右にある「検索」空欄に氏名(が該当エントリーに最も上手く行き着ける)を入れて、さらに右のウェブ欄をクリックして「このブログ内で」に替えて、右の天眼鏡印をクリックして検索をかける。すると、エントリー本欄が、その語の当ブログ内関係エントリーに変わりますから、お好きな物をお読み願えます。
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小説 「歳々年々人同じからず」(1)  文科系

2018年08月24日 00時00分02秒 | 文芸作品
(一)

 明るいベージュ系でまとめたボックスのようだが、部屋の全てがかび臭かった。小さなステージは真上に回る赤っぽいミラーボールに照らされ、そこで千草が口を大きく開けて歌っていた。太目の長い脚がぐんっと伸びて、今の加代子には気圧されるような大学一年生である。その千草の大口の形から首の傾げ方まで、彼女にもどこか心覚えがあり、部屋に入って初めての声をやっともらした。肩をすぼめ、隣に座っている息子の省治にいっそう身体をくっつけながら。
 「テレビによく出てくるグループの歌手に全部似てるわね」。「うん。ドリカムって言うの、ドゥリィムズ・カム・トゥルー。曲は『ラブ・ラブ・ラブ』。お祖母ちゃん、聞こえた?」、太一が、他人が聞いたらどなっているとしか感じられないような声で、応えた。加代子は耳が遠いのである。「夢が、ホントに、来る? ああ、正夢になるってこと」とつぶやく加代子。「きっと、そういうことでしょうね」、恵子が、あごでリズムを取り、選曲リストに見入りながら、これも大声で相づちを打つ。
 「ちょっと不思議な良い曲だけど、リズムは難しいし、半音はいっぱいだし、音を取るのが大変だこと。チーちゃん、よくこんな音が取れるわね。やっぱり音楽専攻だ、ねぇ恵子さん」。恵子は、高校音楽過程の講師をずっと勤めてきたらしい加代子の言葉だと思いながら、大きくうなづき返した。
 「お祖母ちゃんも母ちゃんも、歌、決めた?早く決めんと、千草、ずっと歌っとるぞ」。わざとのようにおっくうそうにリストをくりながら、太一がボソッと催促した。その言葉にあわてさせられたという表情で、八十三歳の祖母は本をのぞき込む。「私の知ってる歌が、あるかねぇ」
 省治は、それとなく母を視野に入れ、自分もリストをくって彼女の歌えそうな曲を探しながら、心でこうつぶやいていた。〈うん、よしよし、一度カラオケボックスに連れて来たかったんだ。それにしても、即座に「行く」とよく応えたもんだ。それも、例によって「面白そうね」って感じだったなぁ〉
 その間に、太一の「ユー・ワー・マイン」が始まった。兄妹はもちろん、家族中が好きな久保田利伸の歌で、カラオケ家族リサイタルの定番である。省治も数年前、千草に頼み、彼のライブを二人並んで聴きに出かけたことがあったが、このテレビにも積極的に出ようとはしなくて、アイドルにもほど遠い猿顔の小男のために、八千の会場がいっぱいだったのには驚いたものだ。それも、二日間の券が発売二時間で売り切れたのだそうだ。
 〈こんなくそ難しいリズムを太一も上手く歌うもんだ。俺が、千草に採譜を頼み、その楽譜に数日首っ引きで必死になってやっと覚えた歌なのに、その俺のが負けとる〉、省治が改めて内心喜びつつ恵子の方を振り向くと二人の目が合った。恵子はあごをさらに大きく、ちょっと下手くそに前後に出し入れしながら、同意するように笑った。加代子はあいかわらず、各ページを丹念に見つめていた。
 「歌いたいやつ、あった?」、省治がたずねた。「知らないのばっかりで、それも多すぎて、目が回りそう」と、加代子。「あんたが何を知ってるか、あんまり分からんもんなぁ」
 「『ゴンドラの歌』ならあるんじゃない?」、恵子が準備してきたように横から口を出した。「いーのちーみじーかしー、でしょう?それ、あるの?」加代子の目や頬のあたりが見るからにゆるむ。〈良かった、好きな歌らしい〉、省治の口許もゆるんだ。
 やがて、その歌が始まった。加代子は、既にイントロから背筋を伸ばし、肩から頬にかけて力が入り、その加代子に、孫の大学生兄妹が時折目だけを動かすようにして、視線を流していた。ところが、歌が始まると兄の視線がぴたりと固定した。両膝にのせた左右の肘が上半身を支え、背中は丸めて顔だけをぐっと持ち上げ、加代子を真っ正面から見すえている。その顔は全く無表情だが真面目そのものだ。恵子も省治も横目でそう認めた。省治はさらに、この姿勢に込められたものに心当たりがないでもないと考え込んでいたのである。

 「人間、すぐに死ぬんだ、もっと燃えよう、そんな歌なんだね、お祖母ちゃん?」
 冷えてきた帰り道に、太一の強い声が唐突に響く。
 一瞬、間を置いてから、加代子。「うん。昔、『生きる』という映画があってね、あの歌がテーマだった。末期癌を告げられた定年近い公務員が、自分の最後の生き方を求めていくという筋で、ほんと考えさせられた映画だったよ」
 「ふーん、『生きる』かぁ。聞いたことはあるなぁ」
 省治は、二人のやり取りに心を暖められながら、太一と肩を並べて歩く加代子の後ろ姿のそこここに、老いが人間を破壊していく力というようなものを探していた。数年前に亡くなった父のリハビリなどにつきあう中で彼が発見してあっけにとられた力であり、その力の前で自分がだんだん無力感に捉えられていったものだ。

(二)

 次の朝、十二月後半の空気が静かだがきらきらと輝いて早春のような日曜日、省治は、毎朝の習いで加代子の寝床にコーヒーを運んだ。まだベッドにいる彼女が入れ歯を外した口を布団の端に隠し、両手を幾度か滑らせて白髪をなでつけながら、ぼそぼそと言ったものだ。早く醒めて何か考え事をしていた、その話らしい。
 「私は、傲慢な人間だったとつくづく思うわ。世の中に気弱な人がいるなんて考えたこともなかった。そんなことは全く見えず、ただ自分の前だけ見て、生きてきた」
 たいそうな言葉だが、この頃の二人の普通の会話だ。
 「なにぃ、また『老いて初めてわかったこと』の話?」
 「うん。お祖母さんの『欠け湯飲みの話』も、この頃初めてあんたが説明して来たとおりだと思うようになったよ」
 「『欠け湯飲みの話』ねぇ。やっぱりお祖母さんがひがんでたと思うんだろ?」と省治。
 『欠け湯飲みの話』というのは、こういうことだ。加代子の母、サヨさんが晩年の病床でお茶を注文したときに、長兄の嫁、ハルカさんが持ってきた湯飲みが少し欠けていたということがあった。
 「ハルカは欠け湯飲みを出した。乞食にでも出すように」
 サヨさんは死ぬまで何度、加代子にこう愚痴ったことか。そして、この話を加代子から初めて聞いたとき省治はこんなふうに応えたものだ。
 「サヨさんがあれだけ褒めてたハルカさんなんだから、悪意はなかったよ、きっと。弱い立場に慣れてない人が自分が何もできないと認めたときに急に人を悪く取り始める、ひねくれるということの一つじゃないかなぁ」

 「うん、ひがんでたんだと思う。お祖母さんも元気なころならそんなこと笑い飛ばしたよねぇ。身近な人が自分を粗末に扱うなんて考えたこともない人だから」
 今、加代子はそう応えた。
 「あんたも同じだろう?エライ人だったからなぁ」
 そう、確かに加代子は八十前後までは省治らにとってエライ人だった。明治生まれの共稼ぎの走りで、男と全く同じ仕事をして同じ給料を稼ぎながら、四人のこどもを育てた母だった。洗濯機も炊飯器も冷凍庫もない時代から、四人の子どもに家事をほとんどさせずに。
 〈寝付いたのを見たこともないし、身体も類い希に丈夫だったんだろうな。車が買える時代に入って、家族で最初に運転免許を取ったのも、五十頃のカヨコさんだった。しばらくして、家にダットサンの中古が来たんだったなぁ〉
省治は今、こんなことも懐かしんでいた。しかも加代子は、これらの苦労一切を子どもが気にとめる必要は全くないことと強く言い聞かせていたから、微笑みながら片づけることができたようなのだ。もっとも、このことが子どもに良いことだとは省治は今でも思っていないが、世事に長けた子どもは勉強向きの頭がなくなると加代子は考えていたらしい。『孟母三遷』の母、それも、共稼ぎの孟母である。
 またこの孟母は、母を務め終えてはるか後にも、こんなエピソードを持った人だった。省治が何かの折りに苦笑い混じりでたしなめたことがあった。「そんなことー、八十のお婆さんが手を出してみるというようなことじゃないでしょう!」。これに対して加代子、抑えた声だが、唇も顔も震わせて返してきたのだった。
 「そういう言い方はないでしょう。私のどこが八十のお婆さんに見える。言ってみなさいよ」
 この言葉に省治、本心から返答できなかったという覚えがあったのだ。

〈こういう人が、八十を超えて間もなく全く逆の性格に変わっちゃったんだ。そしてもう、自分の得意なことでさえ、恵子の一挙手一投足まで観察し、自分を譲るようになってるものなぁ。そう言えば、「歳をとったら嫁に文句があっても言うだけ損だよ」と言った人がいるとか俺に話したことがあるけど、あれが今精いっぱいの抗議なのか。あれは何の話の時だったかなぁ?   老いるとはこういうこともありなんだ〉


(あと2回続く)
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朝鮮征服目指し40年、植民地35年(3)朝鮮征服と太平洋戦争  文科系

2018年08月23日 11時02分58秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 以下は、下記日付の当時、ある右の方と長い論争をしたその末のエントリーである。このお相手ザクロさんという方は、ネトウヨ諸君の種本内容をオウム返しするというのではなく、珍しく自分の頭で考えてこられた骨のある方であった。だから、論争も、右の方々の特徴がいろいろ学べるなど、僕にとってとても興味深いものになった。長いものだが、再掲したい。朝鮮半島侵出と太平洋戦争。為政者が最初から意図して結びつけて来たというものではないけれど、結果としては大いに結びついているのである。1904年日露戦争、そして朝鮮征服1910年。その少し後に日米関係を巡ってこんな重大事実が起こっている。
『 ちなみに、「帝国国防方針」の1923年2月28日改訂版で、アメリカが初めて帝国仮想敵国の筆頭にあげられるに至ったという資料もある。これまでの筆頭はロシアであった。
『仮想敵国 陸海軍共通のものとしてアメリカ、ロシア・中国がこれに次ぐ。(中略)国防方針第3項 中国をめぐる利害対立からの日米対立を予測』。岩波新書「満州事変から日中戦争へ」、著者は、加藤陽子東京大学大学院人文社会系研究科教授。』
(これは、以下文中の3の中にある記述です)


【 ざくろさんのアジア・太平洋戦争観   文科系  2011年04月02日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

前置き

 1国の戦争には、確かに意図と結果が存在しよう。そして、意図の通りに結果が出るものでもないだろうし、結果からだけ戦争の善悪を云々してみても無意味だ。
「泥棒に入った家にもう1人泥棒が居て、両者が殴り合いになった結果、家としては何も盗まれなかった。よって後からの泥棒が良い事をした」
と、こんな事を語って何か意味があるのか。
 かくのごとく意図と結果は別物であるのだから、歴史を論ずるやりかたではないのである。歴史は事実、真実の流れを叙述するというのが基本でなければならず、意図と結果はむしろそこから判明してくるということだろう。
 こういう視点で見れば、ざくろさんの語り口は、日本の戦争を派生的結果などを総動員してまで美化しすぎているし、日本の好ましくない意図が関わっているやの行為を「周囲にそう強いられた」「他国も同じような事をしていた」と言う側面を探し出してきてまで、免責しすぎていると、そう僕は思う。つまり、歴史の論じ方が情緒的に過ぎると思う。ちなみに、彼が僕の太平洋戦争論議に関わって「日本を『邪悪』と見ている」「アメリカを『正義』と見ている」と論難したが、こういう言葉を使っていないことでもあるし、こんな言い方は僕としては拒否するものである。
 また、サッカー代表戦などで日本を熱烈応援する僕だが、事実から見て醜く見えるような日本の過去の行為を無理に美化しようとは全く思わない。むしろ、反省すべきは反省してこそ、さらに美しい国にも出来、これを愛する事ももっと可能になるのだろうと考えている。また、こんな事をせねばならぬほど、美点の少ない国だとは僕には到底思えない。
「日本の過去の醜い点はなるべく美化しなければならない。そうでないと青少年が日本を愛せなくなる」

1 朝鮮併合

 僕はざくろさんにこう語った。
『明治維新直後の征韓論出兵騒動や江華島事件などなどの1870年代からおよそ40年かかって日本が朝鮮半島を併合したのも、「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」であるのか? この40年間に独立国であった朝鮮抑圧への反発を武力で抑えるべく、どれだけの方々を殺したことだろう。それもみんな「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」と貴方は言い張るのか。そもそも「朝鮮の人々のためにこそ40年かかって併合したのだ」という理屈を、朝鮮の人々が認めているとでも言われるのか? 』
 これに対して、彼はこう反論した。
『日本が明治維新直後から、ずっと朝鮮半島を狙っていた、というふうな見方は明らかに偏見でしょう(自覚あります?)。明治初期の征韓論は――理由はそれだけではありませんが、立場・考え方の違いから原因の一つとして――内乱(西南戦争)にまで発展して、一旦は消え去っています。』
 歴史的事実を上げておきたい。僕があげておいたのに彼が無視した1875年の江華島事件と、ここから生まれた不平等条約、日朝修好条規。1882年の壬午事件。その結末の一つに日本軍の常時駐留があるが、これは、帝国初の平時外国駐留軍ということになる。1884年の甲申事変では、反日感情が急増している。1894年の東学教徒反乱事件に際した日本の大兵力出兵。これは、日清戦争のきっかけになった事件でもある。朝鮮がきっかけで日清戦争も起こったというこの事実は、朝鮮のこの40年と後の日中戦争が結びついて何か象徴的な出来事のように僕は思う。
 こういう事実が続いていれば、『ずっと朝鮮半島を狙っていた』かどうかは別にして、上のように、僕がこう述べるのはごく自然な事のはずだ。
『明治維新直後の征韓論出兵騒動や江華島事件などなどの1870年代からおよそ40年かかって日本が朝鮮半島を併合したのも、「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」であるのか? 』
 
2 中国侵略と対米戦争

 僕がざくろさんに書いた事はこうだ。
『次いで対米戦争であるが、これも「アジアにおける欧米列強の植民地解放のため」の戦争などでは全くない。
 日本は中国侵略戦争を継続するために、これを中止させようとするアメリカ・イギリス・オランダと開戦することになったのであって、中国侵略戦争の延長線上に対英米欄戦争が発生したのであり、中国との戦争と対英米欄戦争とを分離して、別個の戦争と考えることはできない』
 対して彼は、中国侵略と対米戦争とを分けて語る。後者は帝国主義戦争であって、アジア開放には無関係であるとし、前者についてはおよそこのように。
【『中国についても、不戦条約などに従っていては欧米支配打破などはできなかったのだから、『悪行は(欧米と)五分と五分というのがぎりぎりのところ』であり、仕方なかった(『と大東亜戦争肯定論者の多くは捉えていると思います』)。ただ中国については、国民が欧米の奴隷状態でもなかったことなどから『日本の進撃が、支那人にとって、解放と映らなかった』。】
 これも歴史的事実と違っている。事実はこうだ。
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである』
『39年7月、アメリカは、天津のイギリス租界封鎖問題で日本との対立を深めていたイギリスに対する支援の姿勢を明確にするために、日米通商航海条約の廃棄を日本政府に通告した。さらに、40年9月に日本軍が北部仏印に進駐すると、同月末には鉄鋼、屑鉄の対日輸出を禁止し、金属・機械製品などにも、次第に輸出許可制が導入されていった』

3 太平洋戦争直前の日米関係様相

 こういうことの結末がさらに、石油問題も絡む以下である。太平洋戦争前夜、ぎりぎりの日米関係をうかがい見ることができよう。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった』
 以上『 』【 】内は、岩波新書「アジア・太平洋戦争」から。著者は、吉田裕一橋大学大学院社会学研究科教授。

 ちなみに、「帝国国防方針」の1923年2月28日改訂版で、アメリカが初めて帝国仮想敵国の筆頭にあげられるに至ったという資料もある。これまでの筆頭はロシアであった。
『仮想敵国 陸海軍共通のものとしてアメリカ、ロシア・中国がこれに次ぐ。(中略)国防方針第3項 中国をめぐる利害対立からの日米対立を予測』。岩波新書「満州事変から日中戦争へ」、著者は、加藤陽子東京大学大学院人文社会系研究科教授。


4 ザクロさんとの討論の結論
 
 以上全てから、ざくろさんが次のように語るのは史実をねじ曲げるものだと言いたい。
『真珠湾攻撃は、日本が南方資源を手に入れ、ヨーロッパ列強からアジアを解放しようとする日本の戦争に何の貢献もなかったばかりではない。それが、先の大戦の唯一の敗因となった。
 そのことを頭にいれておかなければ、大東亜戦争の全体像がゆがみ、日本は、アジアを侵略して、それに反対したアメリカに噛みつく、ばかな戦争をして、自滅したという、GHQ史観にのみこまれることになる。
 どの民族、国家もももっている。誇るべき戦史が、日本に限っては存在せず、そのため、アジア諸国が「日本軍がヨーロッパ列強を追い払ってくれたおかげで、独立することができた」と感謝している先の戦争を、侵略だった、アジアに迷惑をかけたと謝ってまわるのは、愚かをこえて、悲劇というしかない。』

 日本の三つの戦争を巡る事実は、ずっと語られてきたようにこうである。朝鮮併合に関わって日清戦争が起こり、朝鮮と満州との経営を巡って日露戦争が起こった。そして、23年の帝国国防方針にあるように『中国をめぐる利害対立からの日米対立を予測』していて、太平洋艦隊の増強などによって大々的にこれに備えてきて、真珠湾攻撃にいたっては以上の流れの結果、事実としてほとんど確信犯なのである。

 なお、ざくろさんは日中戦争も真珠湾攻撃もともに、欧米の工作によって日本が巻き込まれたものであることを立証しようと努力している。僕が以上に示したような、普通に語られてきた事実経過がありながら、何故こんな事に精魂傾けるのか。日本の主体性をあまりに軽視しており、いかにも不自然である。帝国の重大決意を他国のせいにして、その責任を免罪しようとしているとしか、僕には思えないのである。日本を美化したいという望みから、歴史を見る目を曇らせているのではないか。


(このシリーズはこれで終わります)
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小説 「死に因んで」(その3)   文科系

2018年08月23日 10時34分32秒 | 文芸作品
〈同窓会は仕事社会ではなく、楽しむ場所。老年期の男としてみれば話題が多くて面白いはずの人間が、なおかつ正直、潔癖を現しただけと言えるその行為が、社会的礼儀だけを振りかざしてこのまま拒まれるはずはない〉
 今振り返ってみれば「改めて、出てくれと言ってきたら」と彼女が語ったのには、そんな見通しが含まれていたのだ。こんな発想は、俺が思うには今の日本の男からはなかなか出てこない種類のものだろう。相手の格とか、自分への”扱い”とか、公の”顔”など下らないことばかりに慣れてきたからだ。それでその時の俺も、出てくれなどと言ってくるわけがないと思い込んでいたのである。そんな剣幕であの場を飛び出し、皆を蹴っ飛ばしてきた、その剣幕、威力は自分が一番よく知っていることだし。その点まーまーの女は、公的な場所にいてさえ自分の文化、好みのようなものを必ず同伴させている、と俺は観てきたのだった。
 さて、笠原から折り返しのように、こんな表現が入った手紙が来た。
『大個性の貴兄がいての楽しい会です。貴兄が怒ったのも、貴兄の”素”であって、何も謝る必要はありません。飲んで語るのも、文章朗読で自己を表現するのも同じ事。まして、貴兄のように同人誌をやっているとすれば』 
 この手紙にしばらく応えないでいたら、間もなく吉田からも小島からも電話があった。吉田はこんなことを言う。「あの話はいけないとかー、この話もいかんよとかはいかんよなー。それと同じで、朗読をやれと言った以上はぁー、聞いていないとーやっぱりまずいよねー」
 小島の口調は明らかに笠原と連絡を取っている事をうかがわせた。そして何度も、おずおずとのように慎重な言葉選びで「出てくるよなー?」と聞き返してきた。さて、小島とのこの電話の時には、俺はもうこんな心づもりになっていたのである。その時には、全く口に出さなかったのだけれども。
〈謝る必要がなくなったから、もう出られる。卑屈になる必要は全くなくなっただけではなく、ちょっと勿体ぶるぐらいにして出てやろう。あの随筆も次回にさっそく、最後まで読んでやるぞ〉
 すべてが望む通りに運んで、何か不思議な思いだった。この時、次のこの会と友人たちに対して武者震いの汗をかいている自分を発見して、驚いた。

こうして、次の会が始まった。いつもの部屋で、いつものように肴を一渡り注文する役目を果たす間も、何か腰の辺りの座りが悪く、何かをしゃべる気にもならない。顔はきっと、シリアスで作ったようなもんだったろう。皆も俺の顔を見辛いような感じだし、こりゃ早く決着付けなくっちゃ………。アルコールの二杯目に入る前の辺りで、「じゃこの前のをもう一度読むからな、聞いててくれよ」。いつもよりさらに抑揚少なく、棒読み同様に読み進んでいた。今度は、最後までみんな静かに聞いてくれた。読み終わって、小島が言う。
「これからは、プリントしてきてくれないかなー」
 俺が「分かったそうする」と応える。すると堀が太い声で、微笑みながら言った。
「ごちゃごちゃせんでも、こーいうときは『ご免』の一言持って出てくればえーんだ」
 これには、俺としては是非一言返しておかねばならない。
「また飛び出したらまずいだろ。俺は大事なことしか書かんけど、ここで読むのは特に大事なものばかりでね」
 こうして、その次以降も自作随筆をあれこれと読んで行った。翌年の初夏のころにはこんなのを読んだ。

── よたよたランナーの回春
 メーターはおおむね時速三〇キロ、心拍数一四〇。が、脚も胸もまったく疲れを感じない。他の自転車などを抜くたびにベルを鳴らして速度を上げる。名古屋市北西端にある大きな緑地公園に乗り込んで、森の中の二・五キロ周回コースを回っているところだ。たしか六度目の今日は最後の五周目に入ったのだが、抜かれたことなど一度もない。ただそれはご自慢のロードレーサーの性能によるところ。なんせ乗り手の僕は七十才。三年前に二回の心臓カテーテル手術をやって、去年の晩夏に本格的な「現状復帰」を始めたばかりの身なのである。日記を抜粋してみよう。
『突然のことだが、「ランナー断念」ということになった。二月初旬までは少しずつ運動量を伸ばし、時には一キロほど走ったりして、きわめて順調に来ていた。が、十六日水曜日夕刻、いつもの階段登りをやり始めて十往復ぐらいで、不整脈が突発。それもきちんと脈を取ってみると、最悪の慢性心房細動である。ここまで順調にやれて来て、十一日にも階段百十往復を何の異常もなくやったばかりだったから、全く寝耳に水の出来事。
 翌日、何の改善もないから掛り付け医に行く。「(カテーテル手術をした)大病院の救急病棟に予約を取ったから、即刻行ってください」とのこと。そこではちょっと診察してこんな宣告。「全身麻酔で、AEDをやります」。このAEDで、完全正常に戻った。もの凄く嬉しかった。なのに二五日金曜日、掛り付け医に行き、合意の上で決められたことがこれだったのである。
・年齢並みの心拍数に落とす。最高百二十まで。
・心房細動が起こったら、以前の血液溶融剤を常用の上、AEDか再手術か。
 さて、最高心拍数がこれなら、もう走れない。速度にもよるが百五十は行っていたからである。僕も七十歳。ランナーとして年貢の納め時なのである。』
そんな境地でも未練ったらしい足掻きは続けた。ゆっくりの階段往復、ロードレーサー、散歩、その途中でちょっと走ってみる。すべて、心拍計と相談しながらのことだ。そして、心拍数を少しずつ上げてみる。初めはおっかなびっくりで、異常なしを確認してはさらに上げていく。気づいてみたらこんな生活が一年半。一四〇ほどなら何ともないと分かってきた。すべてかかりつけ医に報告しての行動だ。そして、去年の九月からはとうとう、昔通りにスポーツジムにも通い出し、今では三十分を平均時速急九キロで走れるようになった。心拍の平常数も六十と下がり、血流と酸素吸収力が関係するすべては順調。ギターのハードな練習。ワインにもまた強くなった。ブログやパソコンで五時間ほども目を酷使しても疲れを感じないし、体脂肪率は十%ちょっと他、いろいろ文字通り回春なのである。先日は、十五年前に大奮発したレーサーの専用靴を履きつぶしてしまった。その靴とサイクル・パンツを買い直したのだが、こんな幸せな買い物はちょっと覚えがない。今度の靴は履き潰せないだろうが、さていつまで履けるだろうか。─── 

 この長い文章をみんながどれだけ静かに聞いてくれたことか。いや靜かにと言うよりもっと好意的なのだ。合いの手が入った。笠原から始まった「ふーん」「それで?」まではいーだろう。それがやがてみんなに移って行って「がんばっとるなー」から、「十%!………筋肉ばっかだ!」などともなると、わざとらしいとも感じられて笑えた。でも、凄く嬉しかった。読み終わったとき、吉田がまっ先に、俺の反対側の机の端から長い身体を乗り出すようにして、彼としては珍しい大声を出す。
「これはーっ、非常にーっ、よく分かる! あなたの同人誌小説はー、息子さんの商売のことを書いたやつだったかなー、さっぱり分からんのもあったけどー」
 この声自身もその内容も俺には全く意外だった。けれど、すぐに反論の声が上がったのがまたさらに意外だった。俺の向かいにいた小島が吉田の方に顔を向けて、
「あの息子さんの仕事の小説なら、僕はあれは面白かったよ。意外にと言っちゃなんだけど。山場らしい所もなく何でもない筋なんだけど、気づいたら一気に読めてた」
 これは、この作品に対しては願ってもめったに出てこないぴったりの評なのである。事実俺は、あれをそのように書いたのだ。このやりとりを一人反芻して悦に入っていたら、伊藤がこんな申し出をしてきた。恐い顔を崩し、柔らかいバスをさらに柔らかくして、
「心臓の手術したんだよなー。それでこれだけがんばっとるんだよなー。ちょっとこの場で腕相撲してもらってもえーかな?」
 俺の倍ぐらいに見える腕だったが、俺は即座に応じた。若いときからこういう腕をも相手にして何度も勝ってきたという体験と自信があったし、ランニングのためのジムで上半身を今も一応鍛えてはいる。が、結果は、かなり粘ったが負けた。
「今どきの中小企業の現役社長さんは、やはり苦労が違うんだなー。肉体労働も目一杯やっとるとみえて、強い強い!」
 心からそう叫ぶことができた。嬉しい悲鳴のようにも聞こえたろう。何せ俺は、他人の特技を褒めるのが好きなのである。褒めると言うよりも、良いものは良いというわけで、自然に声が出てしまう。伊藤は伊藤で、俺を励ましてくれた積もりなのだろう。
 すると、遠くの壁際に座っていた吉田が、俺に向かってまたしても、大き目の声を出す。
「あのさー、整体師と一緒にやってきた結果だけどー、見てくれるー」
 そう言って立ち上がると、壁際に背を向けて立つ。そして、腰を沈め加減にする。彼のその体勢の意味が俺にはすぐに分かったので、吉田の後頭部だけに眼をやっていた。腰と胃裏の背辺りとがぴたりと壁に付いた上に、後頭部も膨らんだ髪の毛の先が壁にほとんど着いているように見えた。この光景、いや姿勢に感心したこと! 俺の口からこんな声が出たものだ。
「男やもめが、よくそこまで頑張ったなー。あんたの寿命が半年前より五年は延びたぞ。そんな姿勢が続く間は、ここにもずっと歩いて出てこれるしー……。堀よー、みんなで”吉田を長生きさせる会”でも作ろうかー?」 
 普通にひょろーっと立ち直した吉田が、にそーっと笑って堀の顔を見た。小島と山中さんが同時に拍手を始めたら、それがすぐに全員に広がっていった。

(終わり)
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朝鮮征服目指し40年、植民地35年(2)英雄・安重根   文科系

2018年08月22日 10時10分31秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 朝鮮征服目指し40年、植民地35年  文科系
(その2)朝鮮の英雄・安重根をめぐって


 前回見た江華島事件(1875年)から1910年の朝鮮完全征服まで、日本による朝鮮制圧深化と人民の抵抗運動はどんどん進んでいく。ソウルの「安重根義士記念館」パンフレットに載っている19世紀末だけをとってみても、どれだけの事件があったか。

 壬午軍変(じんごぐんへん、1882年)、甲申政変(こうしんせいへん、1884年)、東学農民戦争と日清戦争(1894年)、乙未事変(いつびじへん、1895年)などなどと。反乱が起こって鎮圧したり、日本の大軍を初めて外国に常時駐留させることになったり、日本支配に抵抗した王妃を斬殺・死体焼却させたり。この斬殺は、三浦梧楼という武官の公使が暗殺団首魁だと判明したのだが、広島地裁集団裁判において証拠不十分とかで釈放になっている。
 さらには、朝鮮を巡って清国や日本抵抗勢力と戦争にも発展した東学農民戦争は、朝鮮半島南部全域に広がるという激しい抵抗運動だった。ちなみに、安重根獄中自叙伝には「伊藤博文の罪状 15か条」が付されているが、その第8にこう書かれている。
『国権回復のために蜂起した大韓国の義士たちと、その家族10万余人を殺害した罪』

 こういう諸事件の一つの結末が、1910年の朝鮮併合である。韓国ではこの併合のことを普通に、その年の呼び名を付けて「庚戌国恥」と呼んでいる。安重根事件はその前年のこと。1909年にハルピンで日本朝鮮総統・伊藤博文を暗殺したのである。記念館パンフレットではこれを「ハルピン義挙」と記していた。

 さて、この「義挙」に関わって14年1月、日本でこんな出来事があった。伊藤博文暗殺の現地・ハルピンに中国が安重根記念館を開館して韓国が謝意を表したという問題で、菅官房長官が「テロリストに対してなんたることか!」と反撥意見を表明したのである。正式抗議もしたようだ。どっちも理ありとも見えてなかなか理解の難しい問題であるが、安倍政権のこの態度を以下のように批判したい。

 当時の「法律」から見たら当然テロリストだろうし、今の法でも為政者殺しは当然そうなろう。が、明治維新直後の征韓論勃興から数えたら40年かけて無数の抵抗者を殺した末にその国を植民地にしたという自覚を日本側が多少とも持つべきであろうに、公然と「テロリスト」と反論・抗議するこの神経は僕にはどうにも理解しがたい。これで言えば、前回に書いた日本による江華島事件などはどう批判したらよいのか。国際法に違反して漢江を首都近くまで遡って艦砲砲撃を進め、城や民家を焼いて35人を殺しているのである。黒船ペリー来航、即東京湾岸を艦砲砲撃というようなこの事件だけでも、安重根の罪よりもはるかに重いはずだ。前にもここで述べたことだが、安重根テロリスト論はさらに、こんなふうに批判できると思う。

さて次に起こるはずのこの理解はどうか。ならば、「向こうは『愛国者』で、こちらは『テロリスト』と言い続けるしかないのである」。僕は、こういう理解にも賛成しかねる。
 今が民主主義の世界になっているのだから、やはり植民地は悪いことだったのである。「その時代時代の法定主義」観点という形式論理思考だけというのならいざ知らず、現代世界の道義から理解する観点がどうでもよいことだとはならないはずだ。「テロリスト」という言い方は、こういう現代的道義(的観点)を全く欠落させていると言いたい。当時の法で当時のことを解釈してだけ相手国に対するとは、言ってみるならば今なお相手を植民地のように扱うことにならざるをえないはずだと、どうして気づかないのだろうか。僕にはこれが不思議でならないのである。

 こんな論理で言えば、新大陸発見後に南米で無差別大量殺人を行ったピサロを殺しても、スパルタカスがローマ総督を殺しても、テロリストと呼んで腹を立てるのが現代から観ても正当ということになる。こうして、当時の対立する一方が押しつけた法以外ではどうにも正当化できないこういう論理、立場というものを改めて敢えて強調するというのが、安倍政権の対外政策指針に見えるのである。こういう態度は、法にさえ反しなければ悪くないのだと言い続けるやり方と同じ種類のものでもあろう。中韓に対する高圧的な態度しかり、A級戦犯や東京裁判の「否定」しかり。「日本の植民地政策が批判されるが、西欧はもっと長く、苛酷にやってきたではないか!」と開き直るのも、同じ態度だろう。(当ブログ『「テロリスト」「愛国者」、安重根記念館 2014年04月05日』参照。右欄外の「バックナンバー」年月から入って「14年4月5日」クリックで、このエントリーも読めます)

 全く安倍政権はどういう外交論理を持ち、どういう神経をしているのだろう。相手の立場の尊重という一片の理性も見えず、言ってみるならば「人間関係はケンカ、対立が当たり前。こちらの論理を語るだけ」と述べているに等しい。異なった人間との人間関係は、所詮喧嘩だという社会ダーウィニズム丸出しの外交を思い起こさせる幼稚さだと言いたい。
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小説 「死に因んで」(その2)   文科系

2018年08月22日 09時59分35秒 | 文芸作品
 宴たけなわの頃、前から予告しておいたのだが、ある随筆を読み始めた。もちろんその場でも皆の了承を取って。俺が現役時代から二十年ほど属している同人誌に、ちょうど一年ほど前にのせた作品である。一年前に書いた作品を、予告・了承を取り付けていた初めての朗読でやったのだから、中途半端な気持ちでなかったのは確かだ。ちなみに、全文を書いてみれば、こんな作品である。

── 死にちなんで
 心臓カテーテル手術をやった。麻酔薬が入った点滴でうつらうつらし始めてちょっとたったころ、執刀医先生の初めての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
 ところがなかなか眠りに入れない。眠っても、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識が薄らいでいくのだが、また覚醒。そんなことが三度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたように何か声を出していた。
 さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と、聞いていたからでもあろう。手術自身はちっとも怖くはなかったのだけれど、こんなことを考えていた。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢を見ない永遠の眠り、か・・・・」
 知らぬ間に生まれていたある心境、大げさに言えば僕の人生の一つの結実かも知れない。
 小学校の中ごろ友人を亡くして、考え込んでいた。「彼には永遠に会えない。どこにいるのだ」。ひるがえって「僕もそうなる」。それ以来自分が死ぬということを強く意識した。ほどなくこれが「永遠の無」という感じに僕の中で育っていって、何とも得体が知れぬ恐怖が始まった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時はいつも、冷や汗がびっしょり。そしてこの「症状」が、思春期あたりから以降、僕の人生を方向付けていった。「人生はただ一度。あとは無」、これが生き方の羅針盤になった。大学の専攻選びから、貧乏な民間福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計まで含めて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと思う。四人兄弟妹の中で、僕だけが違った進路を取ったから、親との諍いが、僕の青春そのものにもなっていった。世事・俗事、習慣、虚飾が嫌いで、何かそんな寄り道をしなかったというのも同じこと。自分に意味が感じられることと、自分が揺さぶられることだけに手を出して来たような。
 ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りにすぎぬとしても、この苦しみが夢で現れるとしたら、それも地獄だし?」というような内容だったかと思う。この伝で言えば、僕のこの「症状」ははてさて、最近はこんなふうに落ちついてきた。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いも何もありゃしない」
 どうして変わってきたのだろうと、このごろよく考える。ハムレットとは全く逆で、人生を楽しめてきたからだろう。特に老後を、設計した想定を遙かに超えるほどに楽しめてきたのが、意外に大きいようだ。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてブログ。これらの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができた。中でも、ギター演奏、「音楽」はちょっと別格だ。自身で音楽することには、いや多分自分の美の快に属するものを探り、創っていく領域には、どういうか何か魔力がある、と。
 この二月から、ほぼある一曲だけにもう十ヶ月も取り組んできた。南米のギター弾き兼ギター作曲家バリオスという人の「大聖堂」。楽譜六ページに過ぎぬ曲なのだが、ほぼこの曲だけを日に二~三時間練習して先生の所に十ヶ月通ってきたことになる。長い一人習いの後の六十二からの手習だから通常ならとっくに「まー今の腕ではここまででしょう。上がり」なのだ。習って二ヶ月で暗譜もし終わっていたことだし。が、僕の希望で続けてきた。と言っても、希望するだけでこんなエネルギーが出るわけがない。やればやるほど楽しみが増えてくるから、僕が続けたかったのである。こんな熱中ぶりが、自分でも訝しい。
「何かに熱中したい」、「人が死ぬまで熱中できるものって、どんなもの?」若いころの最大の望みだった。これが、気心の知れた友だちたちとの挨拶言葉のようにもなっていたものだ。今、そんな風に生きられているのではないか。日々そう感じ直している。───


 今思えば、随筆のタイトルのせいもあろうかして、こんな場所の皆がこれを良く聞いていたと思う。朗読の中ほどまでは全く静かだったからほっとしていたのだ。そのあたりから一人二人がお喋りを始め、それが急激に広がっていった。残り三割ほどになったとき、実際はそうでもないのだろうが、俺には誰も聴いていないとしか感じられなかった。この作品が自分にとって大事なものだという気持ちが強すぎて、そう見えたのだろう。とにかく、こんな行動に打って出てしまった。朗読を止め、適当にお札を出して机の上に叩きつけながら、「こんな会、もう出てこん!」とか、「だから日本の男は嫌いだー」とか、何か捨て台詞のようなことを叫びながらそこを飛び出して行った。来たときと同様に電飾などにぎやかな繁華街を引き返していた時もその間中、燃え上がり渦巻いていた怒りを鎮められないでいた。それどころか、逆に懸命に油を注いでいたように思う。唱えるように繰り返したこんな言葉を今でも覚えているから。
〈あんな会、もう、出てやるもんか! 俺には、出る意味が、全くない。あれほど念を入れて予告し、了承も取り付けてきたのに………〉   

さて、翌日からは、悶々とした日々が続いた。こんなに親しい、あるいは親しくなった連中とのこの場所に出ないならば、全員をしっかり見知った百三十人(中学から高校で入れ替わり分がダブっている)ほどの同期会自身にも出辛いことになる。普通に考えれば俺の態度が礼を失することも明らかだ。謝罪などは、反省点があるととらえたらいくらでもできる性分だが、およそその気になれないのである。そんな数日が続いた後に、笠原から手紙が届いた。この会の成り立ちをせつせつと振り返ったうえで、こう結んでいる。
「ジェントルマンであるのが、最低のルールです。………次回○月○日には皆さんの元気なお顔を期待しています」
 成り立ちを振り返ったのは「お前と二人でやって来たのだぞ」という意味と、「お前も世話役、ホストだろうが」との意味も込められているのだろう。対して、十日ほど悩み抜いた末にとうとう、こんな結論を記した手紙を出したのだった。
「こういう手紙、ご案内をいただいたことに、まず心を込めて感謝したいと思います。『昔からの友達』なればこそとね。あーいう非常識な去り方をした以上そちらからはほかっておかれても普通だと、僕も思いますから。………今後はそこに出ません。そして、同窓会も出ないと決めました。………まー僕もすごく短気になりました。人生が短くなるごとに、生き急いで、見ている世界が狭くなっているのでしょう」

 こうして、俺の中で事が一段落したその夜に、この終始をそのままに連れ合いに持ちかけてみた。問題になっている事柄の内容をもう一歩整理してみたかったからだし、同期生たちと会えなくなるという後悔、未練も残っていたのである。
「この前、同期の定例飲み会に絶縁状叩きつけるようにして席を蹴ってきたって、話したよなー。何回か読んでもらった『死にちなんで』という随筆の朗読絡みだとも。あれからこんなことがあってね………」
 怒りの内容、笠原の手紙、そして俺の返事、順を追ってすべてを話し終わった。と言っても、この頃の俺はすらすらとは話を進められない。言葉を探して言いよどんだり、言い忘れていた話にぶち当たって前に戻ったりで、そんな時は相手の腰や腕がむずむずしているのが手に取るように分かる。さてそのむずむずが溜まりに溜まって、どんな返事が返って来るだろう。思いもしないほどきっぱりとした、明快なものだった。これには、逆に俺が驚いたほどだ。
「あなたのアイデンティティー絡みなのだから、譲りたくなかったらそれでよし。というか、あなたにはむしろ、この外って置く方を勧める!」
 俺は一瞬、彼女の目を見直した。こういう時、場面における連れ合いの迷いのなさには、時に驚くことがある。が、すぐに俺への忠告含みと受け取ることができた。感情が強くて近ごろ特にトラブルを起こしがちな上に、世間への見方がどこか普通ではないかして譲りすぎてしまうことも多く、誤解とか損とかを招いてきた俺を知り抜いているからの忠告なのである。もっとも彼女の方は、家族とごく少ない古くからの友人以外は疎遠になっても一向に構わないという、俺とは正反対の所がある。まー「袖すり合うも多生の縁」という諺などは、金輪際思いつかないような種類の人だ。案の定、こんな達観した説明が追加されてきた。
「この随筆が貴方にとってどれだけ大切なものか、他の人たちに分かるの? あなたって、テレビもサッカー以外は観ないし、同人誌でもこれと関わりの少ないことはほとんど書いてないはず。この随筆のギター場面でも単なる音楽好きとだけ取られることもあるよねー。確かこの作品の合評会でも『問題提起の重さの割に、ギター場面が軽い』とかの声も出たとか。貴方のギター生活を毎日観てる私には、とてもそうは思えないけどね。とにかく、これであっさり謝ったら、単なる礼儀知らずか、酔っ払いと思われるだけじゃない」
 なるほどと思った。流石出会ってこの五十数年、ありとあらゆるケンカをし尽くしてきている仲だけのことはある。世間との付き合い方も対照的だからこそ、こんな的確な判断、表現が出てきたのだろう。そしてさらに、こんな老婆心までが続いたものだ。
「ただね、もし向こうが改めて出てくれと言ってきたら、どうするの?」
 これには即座にこう答えたのは言うまでもない。
「だったら、改めて出席して、あの随筆を読み直すよ」
 そう口に出しながら、こんな思いを巡らせていた。こういう人間がいると主張し尽くすのも、良いことだろう。特に、日本の男たちには。だが、「出てくれ」ともう一度言ってくるだろうか? 対する彼女の方はと言えば、この時はこんな見通しを持っていたようだ。俺には思いつきもしなかったことだが。

(次回終了)
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朝鮮征服目指し40年、植民地35年(1)  文科系

2018年08月21日 12時54分48秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 以下は、2014年5月15、17、18、23日と連載したエントリーの最終回第4回目の再掲である。


 明治維新以来の日本は1945年の敗戦まで無数の戦争、準戦争、武力衝突を犯してきた。その結末が初めての厳しい太平洋戦争敗戦であり、この敗戦に至るまでの「長い戦争史」の出発が朝鮮なのであると、今回の旅行と勉強でつくづく理解できたものだ。調子に乗ってどんどん事を起こし、手痛い敗戦を喫して国体が替わり、新憲法が生まれたと。

1910年の朝鮮併合までとその後と、日本は常に彼の地で戦争をしてきた。そのいくつかの軌跡を年表として記してみよう。
(1867年 明治維新)
1874年 台湾出兵
1876年 朝鮮、江華島事件。 不法侵入による艦砲砲撃、上陸戦、要塞や民家の焼き討ちも含んだ小さな戦争である。

1884年 朝鮮、甲申政変 日清間主導権争い。日本派によるクーデターと日本の参戦・敗北。
1894年 東学農民戦争、日清戦争   
1904~5年 日露戦争

1910年 朝鮮併合
(併合と言うけど、植民地化へと武力で屈服をここまでエスカレートさせて来たということだ。何せ江華島事件から34年かけて徐々に主権を奪っていったのである。この間もこれ以降も、ずーっと絶えず大小の抵抗運動が起こっている)

1914年 第一次世界大戦参戦
1918年 シベリア出兵
1919年 朝鮮3・1独立運動とその鎮圧
 『3・1運動のなかでの朝鮮人の死者は、7,509人、負傷者15,849人、逮捕者は46,306人に及ぶとされる』(岩波新書「シリーズ日本近現代史」 その「③日清・日露戦争(原田敬一著)」P143ページ)
(1919年 関東軍設置)
(1923年 帝国国防方針改定 仮想敵第一が、ロシアからアメリカに換わる)
(1925年 日ソ国交樹立)
(1927~29年 世界大恐慌)
1927年 第一次山東出兵
1928年 第二次山東出兵
張作霖爆破事件
1931年 柳条湖事件 満州事変
1937年 盧溝橋事件 日中戦争
1941年 太平洋戦争
1945年 敗戦

 朝鮮相手の小さな「戦争」についても、ほんの一例を挙げてみよう。日清戦争後1895年の閔妃暗殺事件である。
【1895年10月8日、漢城で大事件が起きた。14日、『ニューヨーク・ヘラルド』「王妃殺害の全容」という記事は、「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性3人を殺害した」という第一報を10日漢城から発信したが、東京で差し止められていた、と報じ(中略)
 国際的非難を受けた日本政府は、三浦梧楼駐韓公使を召還し、関係者とともに裁判(広島地方裁判所)に付したが、世界史に類のない蛮行であるにもかかわらず、「証拠十分ならず」として48人全員無罪・免訴という最悪の結果となった】(岩波新書「シリーズ日本近現代史」 その「③日清・日露戦争(原田敬一著)」P193ページ)

 こんな日本近現代戦争史を見るとき、敗戦と新憲法はこういう流れの一時代の結末として時代を画する重要なものであったのだとつくづく噛み締めるのである。この反省が少な過ぎるように見受けられる今の政権は、自ら戦争を起こすことになるという可能性について、あまりにも無自覚だと思われてならない。折しも、株価という「虚飾」はともかく、まともな職業のなさ、失業者の多さ、賃金の少なさなどなどから100年に一度と言われた世界恐慌状態が続いていることも明らかであるし。現在の世界に弱肉強食社会をもたらしている新自由主義経済は、世界の至る所にいざこざ、にくしみあい、紛争をもたらしている。
  弱肉強食世界に日本が乗っていくのかこれを正そうとするのか、そんな今主としてアメリカを相手にした集団的自衛権行使への解釈改憲って上記75年の反省が足らなすぎると思えるのである。朝鮮に対しても1876年江華島事件以来これだけのことをしでかしながら、今は悪びれた様子さえないように見える。慰安婦問題一つをとってもこんな批判も十分に可能であろうに。

「上記のように長い間朝鮮を疲弊させてきた末の1929年世界大恐慌後などは、日本農村などでも『娘売ります』もあった時代。朝鮮の米は群山などから日本に送って、朝鮮人は粟などを食べていた時代でもある。日本が朝鮮にそうさせたわけだ。万一ネトウヨ諸君が言うように強制がなかったとしてさえ、事実としては強制と同じ事をしてきたのではないのか」
コメント (3)
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