九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆紹介 万葉からだ歌(4)「肌」心暖まるところ   文科系

2012年01月31日 | 小説・随筆・詩歌など
【 古典はリアル
ー万葉からだ歌(四)ー 「肌」心暖まるところ  N.R 


旅衣八重着重ねて寝ぬれども
 なお肌寒し妹にしあらねば
 ──冬の旅は衣を八重に着重ねて寝るけど、なお肌寒い。妹の肌のぬくもりではないからだ──
 万葉集の歌言葉には”肌のおしゃべり”がいかにも多い。餅肌・鳥肌・肌寒い・肌を許す──などと。さらに温度形容詞も、ひややか・ひんやり・なまぬるい・なまあたたかい。また、ぬるぬる・つるつる・すべすべ・かさかさ・しっとり・ざらざら──の触覚までも”肌の声”だという。
 笹が葉のさやぐ霜夜に七重着る
 衣にまさる妹が肌しも
 こうした肌言葉の流れは、やわ肌の熱き血潮──湯あみして泉をいでしやわ肌にふるるはつらき人の世の絹(晶子)と、現代短歌にたどりつく。
 いうまでもなく、いずれも肌感覚でする語で、皮感覚から出た表記でない。肌のまがりかど、お肌の手当、肌が合う人が、ともするとスキンケアなどと今の人はいう。スキンは皮のこと、皮の手入れだろうか。
 万葉表記の肌は、人肌、心のぬくもり、人間同士のふれ合いの深さで詠まれている。この点、皮は、からだの一番外にあるもので、外界と他者、つねに心を遮断するものであったようだ。だから夫婦、親子、恋人語に皮感覚は入れようがなかったにちがいない。
 性愛文学の中の肌も、死語になりつつある。心を許し合う意味の”肌を許す”や”素肌の恥”などの表記はすっかり消えて”する”、”した”の行動だけの描写になってしまった。”素足”を”生足”などという時代だから、肌感覚語の復活はあきらめるしかない。
 人形師の辻村ジュサブローさんは「私の人形作りは、チリメン布を生かして肌ざわりのよい素肌作りからはじめる」と語る。「酒も、湯たんぽのぬくもりだって、人肌だからね……」とも。
 なお肌感覚のさいたるものは、いじ悪く遠まわしに人を非難する”皮肉”かな。】
コメント (1)

原発推進派によるNHKへの圧力       あんころもち

2012年01月29日 | Weblog
 NHKが2011 年 12 月 28 日放映した「追跡!真相ファイル 低線量被曝 揺らぐ国際基準」という番組に対し、エネルギー戦略研究会(EEE会議)・ 日本原子力学会シニア・ネットワーク連絡会・エネルギー問題に発言する会 が連名で抗議を行なっています。

 抗議の内容はようするにNHKが番組のなかで述べたような低線量被曝においての被害は「ない」とするもので、「被害はある」としたNHKの番組内容は科学的検証を欠いた偏向番組であるとするものです。
 読んでゆくと、ようするに今回の放射能漏れの被害を過小に過小にと評価しようとするものであることは見え見えです。

 で、これらの団体、112名の賛同者を並べているのですが、その肩書きを見るだけでこうした抗議を出す意図は透けて見えるのです。
 ようするに、IHI、日立、東芝、三菱重工、東芝、丸紅、日本原発㈱、原電事業㈱、中電、三井物産、関西電力、東電らの各OB、それに悪名高い元参議院議員加納時男(東電顧問)などなど、原発施設やその運用に寄生している面々がずら~っと並んでいるです。

 単純すぎて馬鹿馬鹿しいくらいなのですが、それぞれが社会的地位を誇る面々、かつて安倍晋三や中川昭一がNHKに圧力をかけたような事態にならないよう監視する必要はあるように思います。

 抗議書、並びに賛同署名者は以下です。

 http://wwwsoc.nii.ac.jp/aesj/snw/media_open/document/nhk_kougi120112.pdf
コメント (10)

随筆紹介 「(三)万葉からだ歌 『腰』、肝心腰」    文科系

2012年01月28日 | 小説・随筆・詩歌など


【 古典はリアル ー万葉からだ歌ー(三)「腰」 肝心腰     N.R

降る雪を腰になづけて参り来し
 験もあるかも年の初めに
 (雪が深く腰までまとわりつく。でもやって来てよかった。新年の趣向はとても心地よく、招待してくれた方の気持ちがうれしい)
 ひた土に足踏みぬき夏草を腰になづみいかなるや通はすも妹
 (足にけがをするのもかまわずに、夏草にからまれるのも気にしないで、せっせっと通って行くのは、美しい娘が目当てなのだよ)
 万葉集人は、ことのほか「腰」を大切にし、日々の暮らしの中で、その腰に多くのことを語らせてきた。腰の初漢字は「要」。腰骨の象形で、女の骨盤が子を育て生む重要な部分、要点の意にしてきた。
 現代とおなじように「腰をかける」「逃げ腰になる」「話の腰を折る」。「腰をすえてかまえる」「腰抜け者」などの意を込めた言の葉の歌はたくさんある。そうそう「腰が低い人」「腰のすわった人」も登場してくる。
 後年、お能、狂言が腰の美を観せるもので、歌舞伎の”六方を踏む”強く美しい芸も腰の訓練から。いずれも腰こそが肝心要なものと心してきた。今、街のあちらこちらで地面にペタンと座り込んでいる制服の女学生は「腰の抜けた人」というしかない。
 こうした腰にかかわる文化も、今昔で少し変化してきたことはたしか。かっては、全体的に肉付きがよく豊かな腰回りの女性を多産安産のあかしと、尊んできた。肥満、太っているという言葉はなく、豊満であった。日本人が美の原型とした仏様の姿だって、ふくよかな腰回りである。七福神も、女は弁天様一人だが、全員が豊かな体型。万葉集人、大伴家持をはじめ秀歌を持つ歌人たちは、男女を問わず豊かで太って描かれている。小さい細いは貧弱、病弱の意だった。
 だからである。さかんにダイエットをし、拒食病で頬がそげおち、すんなり腰になっては、豊かな頬笑みも失ってしまう。子どもの一番のやすらぎは、母の太めの腰で、すがり、まとわりつくのも自然なこと。柳腰の細さではカエルだってずっこけおちる。
 英語のウェストと日本人の腰とでは、かなり意味が違うものでは。】
コメント (1)

太平洋戦争と天皇   文科系

2012年01月27日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 25日の太平洋戦争開戦経過に続いて、もう一つ旧稿を再掲しておく。「いやいや」さんのような方々に向けて。題は「太平洋戦争と天皇」。一昨年11月22日のこのブログに載せたものだ。

【 太平洋戦争、右翼のデマに(番外編 その2)「太平洋戦争と天皇」

 表記のことについて、右翼の方々はこのブログでもこのように語られてきた。天皇の統治権は形式的なものであって、戦争政策においても実際に何かを決めたというわけではない、と。そのことについてこの本(岩波新書日本近現代史シリーズ10巻のうち、その6「アジア・太平洋戦争」、著者は、吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授)はどう書いているか。それをまとめてみたい

1 軍事法制上の天皇の位置 「統帥権の独立」
『統帥権とは軍隊に対する指揮・命令の権限のことをいうが、戦前の日本社会では、大日本帝国憲法(明治憲法)第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」という規定を根拠に、この統帥権は天皇が直接掌握する独自の大権であり、内閣や議会の関与を許さないものと理解されていた。
 明治憲法上は、立法権、行政権、外交権などの天皇大権は、国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使されることになっており、統帥権だけが国務大臣の輔弼責任外にあるという明文上の規定は存在しない。それにもかかわらず、天皇親率の軍隊という思想の確立にともない、制度面でも統帥権の独立が実現されてゆく。1878(明治11)年の参謀本部の陸軍省からの独立、1893(明治26)年の軍令部の海軍省からの独立、1900(明治33)年の陸海軍省官制の改正などがそれである』
『一方、参謀本部と軍令部(統帥部と総称)は、国防計画・作戦計画や実際の兵力使用に関する事項などを掌握し、そのトップである参謀総長と軍令部総長は、陸海軍の最高司令官である「大元帥」としての天皇をそれぞれ補佐する幕僚長である。この場合の補佐は、国務大臣の輔弼と区別して輔翼とよばれる。国務大臣は、憲法に規定のある輔弼責任者だが、参謀総長・軍令部総長は、憲法に明文の規定がない存在だからである。
 軍事行政と統帥の二つにまたがる「統帥・軍政混成事項」については陸海軍大臣が管掌したが、国務大臣としての陸海軍大臣も統帥事項には関与できないのが原則であり、参謀本部・軍令部は、陸軍省・海軍省から完全に分立していた。以上が統帥権の独立の実態である』

2 「能動的君主」としての天皇
9月6日決定の「帝国国策遂行要領」
『統帥に関しては、「能動的君主」としての性格は、いっそう明確である。天皇は、参謀総長・軍令部総長が上奏する統帥命令を裁可し、天皇自身の判断で作戦計画の変更を求めることも少なくなかった。また、両総長の行う作戦上奏、戦況上奏などを通じて、重要な軍事情報を入手し、全体の戦局を常に把握していた(山田朗『大元帥 昭和天皇』)。通常、統帥権の独立を盾にして、統帥部は首相や国務大臣に対して、重要な軍事情報を開示しない。陸海軍もまたお互いに対して情報を秘匿する傾向があった。こうしたなかにあって、天皇の下には最高度の軍事情報が集中されていたのである』
 そういう天皇であるから、重大な局面ではきちんと決断、命令をしているのである。本書に上げられたその実例は、9月6日御前会議に向けて、その前日に関係者とその原案を話し合った会話の内容である。まず、6日の御前会議ではどんなことが決まったのか。
『その天皇は、いつ開戦を決意したのか。すでに述べたように、日本が実質的な開戦決定をしたのは、11月5日の御前会議である。しかし、入江昭『太平洋戦争の起源』のように、9月6日説も存在する。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英欄)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第1項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努」めること(第2項)、そして(中略)、が決められていた』
 さて、この会議の前日に、こういうやりとりがあったと語られていく。

前日9月5日、両総長とのやりとりなど
『よく知られているように、昭和天皇は、御前会議の前日、杉山元参謀総長と水野修身軍令部総長を招致して、対米英戦の勝算について厳しく問い質している。
 また、9月6日の御前会議では、明治天皇の御製(和歌)、「四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を朗読して、過早な開戦決意を戒めている。
 ただし、天皇は断固として開戦に反対していたわけではない。海軍の資料によれば、9月5日の両総長による内奏の際、「若し徒に時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり」という永野軍令部総長の説明のすぐ後に、次のようなやりとりがあった(伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(下)』)。
 御上[天皇] よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更致しますか。如何取計ませうか。
 御上 変更に及ばず。
 永野自身の敗戦直後の回想にも、細部は多少異なるものの、「[永野の説明により]御気色和らぎたり。ここに於いて、永野は「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」を奏聞せしが、御上は「それでは原案の順序でよし」とおおせられたり」とある(新名丈夫編『海軍戦争検討会議議事録』)。ここでいう「原案」とは、翌日の御前会議でそのまま決定された「帝国国策遂行要領」の原案のことだが、その第一項は戦争準備の完整を、第二項は外交交渉による問題の解決を規定していた。永野の回想に従えば、その順番を入れ替えて、外交交渉優先の姿勢を明確にするという提案を天皇自身が退けていることになる』
 こうして前記9月6日の「帝国国策遂行要領」は、決定された。つまり、対米交渉よりも戦争準備完整が優先されるようになったのである。続いて10月18日には、それまで対米交渉決裂を避けようと努力してきた近衛内閣が退陣して東条内閣が成立し、11月5日御前会議での開戦決定ということになっていく。この5日御前会議の決定事項とその意味などは、前回までに論じてきた通りである。】
コメント (1)

    この途はいつか来た道。     只今

2012年01月26日 | Weblog
 「放射能問題講演会が中止に」と『神奈川新聞』が報じた。その内容は、
 =「横浜の子どもたちを放射能から守る会」は26日開港記念会館に、医師である菅谷昭・松本市長を招き、
  チェルノブイリの医療支援活動を踏まえた提言をしてもらうことになっていた。
  しかし菅谷市長側から24日、不穏な状況が発生したので受けることが出来なくなった、と連絡があり、中止を決定したという=
 
 しかしこれだけでは何が起ったか、よく判らない。
 調べてみると、「秘書」から「守る会」に送られてきた文書があった。
 それによると、そこに書かれてあったことは大凡次のようなことだった。
 =1月22日、市役所各所に電子メール。23日、ある報道機関の主筆と名乗る男性から電話。
  そこにあったのは、「暴力団組長関係者」「皇紀」といった文字や、「公安委員会・捜査二課に聞け」といった発言であり、
  普通の人間である私どもにとりましては、暴力的な脅しと感じられるものでありました。
  市長は、放射能被害についての講話は最大限為さねばならぬとの思い強いものがありますが、
   松本市長という公人の身に、もしものことがあった場合には取り返しのつかない事態となります。
   開催日迫る中で、主催者様におかれましてもご対応たいへんであることを十分承知しておりますが、
   どうか状況をご理解いただきたく宜しくお願いいたします。=

     遂になりふり叶わず動き出した「言論圧殺」暴力部隊!
     このファシストに屈することになれば、この道はいつか来た道。
     

 
コメント (6)

随筆紹介 『万葉からだ歌ー(二)』   文科系

2012年01月26日 | 小説・随筆・詩歌など
古典はリアル ー万葉からだ歌ー(二)     「肩」もの言いたげに  N.Rさん

今年行く 新島守が 麻衣
 肩のまよいは 誰か取り見む
(七ー一二六五)
──召された防人は妻から遠くに行き、これからは、肩のほつれを誰がつくろう ──
からだ意識は、時代、性差、年齢によって変化する。今の子どもたちに「どこが一番大切か」と聞くと、「顔、頭、胸」と答えるだろうか。もの言いたげな、表情ゆたかな肩は、あまり見ていないから大切なものに入っていない。
 大人は「肩書き」と言うかもしれない。昔の肩で風切る権力の裃なのだろう。生活の重荷がのしかかるのが肩。「肩入れをする」「肩をおとして」「肩すかしをくう」「肩をかす」「肩がこる」など。
 だが、この「肩がこる」は江戸時代には「肩がはる」だった。「こる」とは言はなかった。文学の世界で「肩がこる」を初めて使ったのは夏目漱石の作品『門』あたり。樋口一葉は、まだ江戸を引きずって「肩がはる」と書いている。彼女の日記文も「はる」表記。
 ”文章の神様”といわれた志賀直哉は、漱石の「肩へ来て人なつかしや赤とんぼ」の一句に心ひかれて、作品の中でも、それまでの「はる」を「こる」とした。代表作品『暗夜行路』の名場面は、貞淑な妻が、肩こりが病の従兄の肩をもむことで不貞に走る──となっている。明治以降の緊張型社会のなかで、ますます肩をこらす人が多くなったらしい。
 人気シンガーソングライターの中島みゆきの「夜曲」の歌詞でも「肩に降る雨」「肩に冷たい夜の風──」と、やたらに肩を連発している。
 今、知人、友人の間で唯一触れていいのが肩。「肩を組む」「たたいて励ます」「肩を並べて」と。これが「頭をたたいて」は大げんか。胸、尻だったら、それこそセクハラになる。
 万葉集の”愛は夫の肩先から”とうたう妻の一首もそれ。雪も雨も肩に降り、まずぬれるのは頭や顔ではなく肩なのだ──。 
コメント (2)

     吉本隆明、大槻義彦氏も、「原子力ムラ」の住人でした。    只今

2012年01月25日 | Weblog
 ▽新年早々の『週刊新潮』でインタビューを受けた吉本隆明氏。
  その見出しは、「反原発は猿になる」。その内容は、「自動車だって、事故で亡くなる人が大勢いますが、
  だからといって車をなくしてしまえ、という話にはなりません。それと同じことです」というもの。

 △大槻義彦氏も、1月13日のブログで、「クルマは安全ではありません。しかしクルマは必要です。原発も同じで安全ではありま
  せん。でも必要です」

 ●「知の巨人」とか「惑わされない科学者」と称されたこともあるご両人の上記のような発言は、 
  原子力ムラの御用学者よりも危険! と言った声が聞かれます。

   しかし「停電は困るが原子力もいやだ、という虫のいいことを言う大衆」を洗脳するために
   設立された〔原子力文化振興財団〕は、3億2千万円(09年決算金額)の税金でもって
   安全神話の普及のために『原子力文化』という月刊誌を発行したり、講演会を開催しており、
   ご両人ともこれに関わっていたのです。

 △大槻義彦氏は、2007年11月5日付ブログで、こう語っています。
  =私は日頃、手厳しい言動をしているので、原発も反対なのだろう、と思われていたらしく、
    原発推進事業からは遠ざけられてきました。
   しかし、原発の魅力を語る科学の講演をしてくれということで、福井の敦賀市に行くことになりました。=

 ▽吉本隆明氏が、『原子力文化』(1994年10月号)に寄稿した文の一節。
   =原子力発電所は、飛行機よりもよほど安全。=
    それ以前には、「反原発などと言っている左翼・進歩反動たちは、文明史に対する犯罪的理念の持ち主」(『反核異論』)

  ●ご両人の似ているところ。
   (1)車のもたらす被害と、原発がもたらす災害を同一視する科学者らしからぬところ。
   (2)ことあるごとに、「私は少なくとも専門家です」と言い、「原発廃止は素人の暴論」と宣うところ。
        
コメント (4)

太平洋戦争の開戦経過   文科系

2012年01月25日 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 以下は、10年11月にここに載せた連続投稿「太平洋戦争、右翼のデマに」の第五番目のもの、それまでのまとめである。「いやいや」さんが論難にもならない論難を重ねるから、反論として再掲することにした。論議があるなら受けて立つ。

【 太平洋戦争、右翼のデマに(番外編)  2010年11月20日

しゃにむに、密かに、不意打ち開戦へ

 前回のこのまとめ部分は、日米の戦争責任論議における最重要点だから、説明が要りますね。
「なお、この5日の御前会議の存在は、東京裁判の当初の段階では米軍に知らされていなかったということです。ハルノートとの関係、「日米同罪論」との関係で秘密にしておいた方が都合良かったと、著者は解明していました」

 米国務長官ハルの覚書が駐米日本大使に手交されたのが41年11月26日、外務省がこれを翻訳して関係方面に配布したのが28日でした。対して当時の日本政府はその行動を、このように説明してきました。ハルの、この4要求を「最後通牒」で「高圧的」と断定。それゆえ「自存自衛の為」(12月8日、宣戦の詔勅)の開戦を、12月1日の御前会議で決定、と。誰が考えても、国の運命を決めるような大戦争の決断経過としては動きが急すぎて、不自然です。この不自然さを、著者の吉田氏(岩波新書「日本近現代史シリーズ⑥」「アジア・太平洋戦争」。著者は吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授)はこう解明していきます。

 そもそも1国務長官の覚書とは、1国の最後通牒などと言える物では、到底ない。よって、10月に退陣した近衛内閣が進めていたように、アメリカとの条件交渉の余地はまだまだ充分過ぎるほどに存在していたのである。対して、入れ替わったばかりの東条内閣が、ハル・ノートを最後通牒と断定し即戦争を決めたように語られてきたわけだが、これは完全に日本のあるタクラミに基づいている。その狙いは、
・生産力で10倍を遙かに超える差がある強大なアメリカの戦争準備が整わぬうちに、戦争を始めたかった。日中戦争進展にともなって臨時に大増強した太平洋周辺戦力はアメリカを上回っていたからだ。
・それも、完全に油断させておいて、不意打ちで開戦したかった。日本側は、十二分に準備を整えておいた上で。
・東条内閣は、発足20日も経たぬ11月5日の御前会議でもう12月初頭の開戦を決めていて、戦争にまっしぐらだったのである。その日に決まった「帝国国策遂行要領」をその証拠として、著者はこう書いている。
『「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、此の際、英米欄戦争を決意し左記措置を採る」とした上で、「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」と決めていた。引き続き外交交渉を継続するとされていたものの、実際には、その性格は開戦決意をカムフラージュするための「欺騙外交」としての側面をつよめてゆくことになる』
 なお、前にも述べたように、この11月5日の御前会議は、東京裁判当初までアメリカには隠されていたものである。以上のように軍人内閣のやり方は、「出来るだけ速く、密かに、しゃにむに戦争へ」「相手とは交渉を続けるふりをして油断させつつ」「それも、相手に知られない不意打ちで」というものであって、このことはその4にまとめた以下の事実によっても証明されている。
【『よく知られているのは、真珠湾への奇襲攻撃である』。開始8日午前3時19分、対米覚書手交4時20分というものだ。この点については従来から、こういう説があった。対米覚書の日本大使館における暗号解読が遅れたとされてきたのだ。これにたいする本書の解明はこうなっている。
『外務省本省は13部に分かれた覚書の最終結論部分の発電をぎりぎりまで遅らせただけでなく、それを「大至急」または「至急」の指定をすることなしに、「普通電」として発電していたことがわかってきた』】 

 「アジア・太平洋戦争」の開戦原因に関わる経過を、最後にもう一度まとめておく。
1 「日本が、中国侵略から南部仏印侵略へという動きを強行した」
「このイギリス権益の侵害に対してなされた、アメリカによるたびたびの抗議を無視した」
「こういう日本の行為は、ドイツの英本土上陸作戦に苦闘中のイギリスのどさくさにつけ込んだものでもあった」
この間の上記の経過は、本書では結局、こうまとめられている。
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである』

2 そのアメリカに対しては、交渉するふりをして、その太平洋周辺戦力が不備のうちに、不意打ち開戦の準備を進めていった。
その直前の様相は、こういうことであった。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった』 
コメント (2)

随筆紹介 万葉からだ歌(一)   文科系  

2012年01月24日 | Weblog
 今回から数回にわたって、僕らの同人誌主宰の随筆を紹介したい。彼はここのところ数年、毎月の冊子にずっと読まれた古典を短く紹介されたり、その内容に関わることを書かれている。題して「古典はリアル」。そして今は、「万葉からだ歌」ということで連載を続けられている。

古典はリアル ー万葉からだ歌ー(一)目    N.Rさん

 万葉集には、目、眉、髪、手足と、からだで語る言の葉が多い。これがもともと日本語の基礎語だから、時代が千年、二千年と変わっても、あまり変化しない。古人が手と詠めば現代も手であり、胸、肌とてもおなじだ。たしかに、からだはどの部分も雄弁で、人間は、からだじゅうで語りかけて秀歌を育んできた。
「目・見る、見る、視る、看る」
 振り放ちて三日月見れば一目見し
 人の眉引き思ほゆるかも(6ー994 言うならば、万葉集の目次であって、この歌の所在を示すものですー文科系)
 若き日の大伴家持の一首だが、〈私は三日月を見てびっくり。あなたの美しい眉引きとそっくりです。今一度、早くお目にかかりたいものです〉
 見る、目線、視線、まなざし「思う、考える」のはじまりだったのだろう。互いに正面から目を交わし合っている状態は、つまり心の合意だったにちがいない。目をそらしてでは言葉も心も通じていないことか。
 目はよく物を言う。〈母のその目は、子どもをすでに許していた〉など、小説の中の名セリフは多い。「人生観」「生と死を見つめている」も目が主役。
 病院などで「診てもらう」看護師や付き添いの人に手当てしてもらうことも「診てもらう」だ。「診る」の字は、手をそえて見守ってもらうの意。これが看護の基本で、死んでゆく人も「見送る」と、目でのお別れ。
 これ以外に目は生活語の中に多い。「目玉商品」「大目玉をくう」「見はなされる」「目をかけてもらう」など。ある歌人が詩の中で面白い表現をしていた。白内障の手術をしたとき医師が「眼球」「がんきゅう」と言うことに「これはボクの目玉だ。自分のめんたまだ」と医師をにらみつけて”私の物”を主張している。
 日本人の目の文化は、まだいろいろある。江戸時代の浮世絵を見ると、昔から大きな目の女の人はいたはずなのに、絵の中では、みんな目が細い。流し目が情緒、情念の美だったようだ。今は目をむく人が多いけど。】

コメント (1)

コンサートのご案内           昭和区九条の会事務局

2012年01月23日 | Weblog
 昭和区九条の会では、癌と闘いながら「平和を求め」歌うレインボウズ(雨坊主)
のコンサートを以下の日程で行います。
 何故? 長野松本市から・・・?? 実は、リーダーの「かしものはるお」さんは、
事務局の舟橋とは、職場の同僚であったこともあり、毎年行う、平和のつどいに出演
したいとの要望を受けていました。
 しかし、癌の進行が予想以上であり、「平和のつどい」に出演できない可能性もあ
るので、今回のコンサートを行うことになった次第です。
 多くの皆さんに参加いただき、「かしものはるお」の命をかけた歌声をお聞きくだ
さることをお願いいたします。

(日 時) 1月29日(日) 午後2時~4時(開場は1時30分)
(会 場) 昭和区生涯学習センター・視聴覚室
(参加費) 500円

以下、レインブウズのリーダー(かしものはるお:岐阜県加子母村(現中津川市)
出身)からの自己紹介をお読みください。


■かしものはるお
 1950(昭和25)年、岐阜県恵那郡加子母村(現中津川市)生まれ。中学2年
から作詞作曲を始める。
 岐山高校時代にエレキバンドに参加。ベースとドラムを担当。
 高校卒業後、東海財務局岐阜財務部に勤務。「あひる歌う会」に参加。
 1971年、青年団体の専従職員となる。フォークバンド「マンバアツム&かしも
のはるお」を結成。72年上京、機関紙編集局を中心に80年まで勤務。
 80年に、74年に結婚していた妻の実家のある長野県松本市に移住、コープ
 ながのに勤務。
 2003年、職場の仲間と「雨坊主(レインボウズ)」を結成。生協の催し物や
各地の「九条の会」等に出演。
 長崎で被爆したうえにビキニ環礁でも被爆して、ついに横須賀の海に入って自殺し
た青年(藤井節弥さん)がいたことを知った横須賀の人たちが、毎年「海の日」に
藤井節弥さんを追悼する「観音崎非核平和の誓いのつどい」を開催しています。
 その運動体が03年に運動を広めるために歌を募集しており、応募した「命焼かれ
て」が採用され、横須賀の女声合唱団が録音してCDとなり、運動の広がりに一役買
いました。
 04年に作った「憲法九条」が「うたごえ新聞」の「今週の紹介曲」に掲載されま
した。

 2010年3月、コープながのを退職した数日後、足の付け根に痛みを感じて医者
にかかりはじめ、紹介された信州大学付属病院で診察を受けて2度の検査入院の結果、
6月に出た結論は「前立腺癌が骨に転移している。それもPSA(腫瘍マーカー)が
正常値という極めてめずらしい一筋縄ではいかないくせもの」。
 さっそく服用する薬とホルモン注射を併用しての治療を始め、最初は効き目があり、
痛みもほとんど消えて、骨も再生していたが、年を越して11年になると薬が効かな
くなり、4月に転移していた恥骨が骨折して入院。5月から「切り札」といわれる点
滴の抗癌剤に変えて治療開始。
 以後4週間に一度入院して12日間程度の治療を続けている。が、転移もさらに進
んだため、服用薬を変えながら療を続けるとともに、「玄米菜食」を中心とした食事
療法等も採りいれ、今年は免疫細胞療法も視野に入れての癌との共生と闘いが続く。

 そんな中で、自分に残された使命は、「平和と命の尊さを歌で訴え続けること」
 と考え、しばらく休んでいた「雨坊主(レインボウズ)」の活動を11年7月に再
開、9月から、居住地域の公民館主催の「平和トークコンサート」、生協県連主催の
「虹のフェスタ」、「信州秋まつり」等に出演。今日に至る。


■雨坊主(レインボウズ)
 2003年に、かしものはるおの歌を中心に歌うことを目的に作られた、コープな
がの職員のバンド。現在は退職者の方が多くなっている。
 メンバーは入れ替わったりしているが、現在は登録は10人。実際にステージに立
つのは、ボーカルが男女で4人、伴奏はギター2台とベースで、計6人くらい。

今回のメンバーは
 かしものはるお~ボーカル、ギター   さだまさか~ボーカル、二胡他
 ちかちゃん~ボーカル他        よしこさん~ボーカル他
 コッタ~エレキベース   

■皆さんのお越しを期待しております。

コメント

クラシコ連戦以降に、大荒れの予感   文科系

2012年01月20日 | スポーツ
 クラシコ連戦以降に、大荒れの予感    文科系

一昨日のスペイン国王杯準々決勝マドリッド対バルセロナ戦、その第一戦はまさに大荒れ!最近のこの対戦(「クラシコ」と呼ばれてきた)、年末年始の連戦、全てがこうだったのだけれど、その正に掉尾だ。大荒れ報告、その原因究明、この荒れの行方予想とをやってみたい。

①まず、一昨日の荒れようを少々。1対2で負けたレアル側を先に書く。ファール数19の12。イエロー数4の3。スペイン国王杯という晴れ舞台に似つかわしくないダーティーさと言えるが、僕はこんな場面も目撃した。ぺぺがともに倒れたあと、メッシの手の甲を歩きながらちょこんと踏んでいく。後半のレアルの選手にはこんな場面も何回かあった。激しく当たり合いそうになって当たらなかったその瞬間に、苦しそうにごろごろと地面を倒れ回っているのだ。弾みを付けているから止まらないこれには、僕は悲喜劇を観たような苦笑いしかなかった。

②原因は明らかである。まず、最近の両チームのゲームはこんなのばかりで、スペインでも評判になっているということ。世界一プライドの高い人たちが集まったレアルの監督と選手たちに、今の状況が我慢できないのだろう。このクラシコは最近、レッドカードがよく出ているけど、断然レアル側に多いのだから。このゲームでもこんな数字では、レアルのフラストレーションは凄まじいたまり方だったろう。ボールキープ率27隊73。シュート数5対11で、枠飛びシュートが2対6。1対8のコーナーキック数は、チャンスメイクの数にも比例していたはずだ。
 さて、何よりも最大の原因を僕はこう推察してきた。「最初から死ぬ気で走って、レッド覚悟ぐらいで厳しく当たれ。ついでに、相手を挑発して心、パスを乱してやれ!」。これ以上の暗黙の指令をモウリーニョが出しているにちがいない、と。彼の得意技だからだ。
テレビ放映後、解説者・奥寺康彦の言動が、このゲームの酷さをやんわりとすべて表していた。不快感、残念感、そんなものが入り交じった何とも言えぬ情けない表情を終始キープし続けた後、最後の一言はこうだった。
「バルサは、冷静に自分のサッカーをよくやりましたねー」
ちなみに、奥寺のいた当時のドイツはクリーンだったろうと思われるのである。

③このゲーム第2戦はこの26日。本拠のサンチャゴベルナベウ競技場で上に数字を書いたような負け方をしたのだから、敵地カンプノウでレアルが持ち直すのはちょっと先ず不可能だろう。ボールをもっと持てなくなるはずのレアルには、このゲームで見せたカウンターしか点取り術はない。クリスチアーノロナウドかベンゼマ頼りの。ところが、一昨日のように余程上手いボール奪取をしないとこれは難しい。バルセロナのDFが脚も帰陣もとても速いのだ。そして何よりも、モウリーニョのカウンター戦法は、イタリアはインテル時代から、バルセロナの人々には知り抜かれている。
 さて、ここで負けたらレアルは大変なことになるだろう。4月22日にリーグ戦直接対決があるから、リーグ優勝も怪しくなってくる。どこかで盛り返せばよいのだが、今季内にそれが出来なければ隠れていた諸問題が噴出するはずだ。モウリーニョのやり方に不満を持っている選手もいると聞く。国代表としては「敵ながら友達同士」という選手たちも多いのだから当然だ。それがこれだけ傷ついてしまっては、なにもなくて済むはずがない。
コメント (1)

  始まった「原子力ムラ」の総反抗に抗するには      只今

2012年01月19日 | Weblog
 危惧した18日の「ストレステスト意見聴取会」は、委員11人のうち出席者6人。 
 非公開では応じられないと井野、後藤委員は退席のため残った委員は4人。うち1人は、保安院の説明が50分ちかく続いた頃、「用事がありますので」と退席。
 残った委員は、弐百万円の供与を三菱から受けた岡本孝司氏座長始め3人。保安院の「妥当」との評価結果を了として終了。

 「電気料金の値上げ」「40年を60年に」と、このところ予想した以上に原子力ムラの反抗はすさまじいものがあります。
  これに抗するにはどうしたらいい……。  
  思うだに疲れ、腹立たしさがつのるばかり。どうにでもなれ! と思わぬでもありませんが、
  そんな時、まことに世俗的ですが、孫の顔を見ると……。
 

  偶々今見た谷岡郁子議員のツィツターにはこうありました。
  『ストレス騒動に対する政府の対応は、どう考えても常軌を逸しています。
  国民の嫌がることをやるのが政府の義務と勘違いしている節がある、
  と思う与党議員は私だけなのでしょうか』

 谷岡議員は、先の原発輸出に反対したのは後援者からの声を受けてのものだったと、呟いていたことを思い出しました。
  しかし私は誰の後援会にも入っていませんし、また議員と接触するといったことは私の最も苦手とするところです。 
 
   が、にんじんクンのとったこんな仕業を思いだしました。
   彼は先に自分の選挙区選出の古川元久議員に次のようなファクスを送ったそうです。
   =小生、貴殿と同じ学校の第○期卒業生ですが、辛口の佐高信が『抵抗人名録』で、
   (古川は笑顔に翳りがないので信頼できる)と書いているのを見て、いささか嬉しく思い、お知らせするものです。
   ついては、脱原発の先頭に立っている佐高信を、そして同じ思いの小生をがっかりさせないようお願いします。=

  これに対して、「古川事務所の者ですが」との電話が折り返しやってきた。
  「お知らせとご意見ありがとうございました。 
   このファクスは必ず、古川本人の見せます」
  古川議員! ニンジンを怒らせないでください。

  

コメント (42)

「北は崩壊寸前」「中国は脅威」というメッセージは誰の利益?  らくせき

2012年01月17日 | Weblog

私は21世紀の東アジアの未来は、日本と韓国が過去に折り合いをつけて
仲良しになることで、大きく変ると思ってきました。
次には、中国とも仲良しになると良いと思っています。
しかし、これには北朝鮮の安定が欠かせません。

北朝鮮の不安定を一番望んでいるのは誰か?
アメリカです、という本を読みました。
内田樹さんの「知に働けば蔵が建つ」です。

要旨は、こうなります。
日本・韓国・中国が仲良しになったら、
もう米軍基地はいりません、ということに。
これはアメリカの国益に合いません。
そこで韓国も日本も、アメリカの軍事力を
頼りにせざるを得ない状態が一番、良い。
現状はアメリカの国益のために好都合。
昔から言われている「分断して統治する」、です。
日本が韓国と仲良くなりすぎては困るようです。

このためには、北朝鮮の役割が大きい。
何時崩壊するか分からない、という危機感が
分断政策をやりやすくするからです。

こう考えると、アメリカから、北朝鮮が数年後には
崩壊するという予測が、絶えず流されている背景が
理解できます。
しかし崩壊してもらっても困るのです。

そんな事態になったら、中国・韓国・日本が
一致した行動に出る可能性があります。
そうした事態にならないために、楔を打ち込む「中国脅威論」が
声高く叫ばれているようです。

これは、東アジア共同体論が、あっけなく
消えていった理由をも納得させてくれます。
アメリカにとっては、この3国の間に、溝があったほうが
好都合なのでしょう。

こうした少し意地の悪い見方は、どうもヨーロッパのものらしいです。

日本では、この話、あまり共感を呼ばないでしょうが、
坂本竜馬だったら分かってくれるかも・・・
コメント (4)

     原発再稼働に向けての卑劣な策動    只今

2012年01月15日 | Weblog
  ●見かけだけ装う「委員会」
  「原発の再稼働に関しては、推進派だけでない委員会を設置する」
  と原子力安全・保安院が自賛して設置した委員会(意見聴取会)は、
  蓋を開けてみたら、9人のうち推進派でない委員は、井野博満(東大教授)と後藤政志(格納容器設計者)の2人だけ。

  最近、良心的な役所では5対5の構成もみられるが、
  それでも最後は委員長の裁決によって役所の意向に添うようになっている。
   この委員会が今月6日に開かれた。
  ちょうど、ストレステストをする三菱重工から献金をうけている3人の委員のことが報道された直後だったので、
   このことについて井野委員から資格についての疑義がだされると、
  岡本(東大教授)委員は「名誉毀損だ」
  保安院は「少しでもまずいことがあったら辞めてもらうというのでは、委員のなり手が限定されてしまう」〈議事録〉。

  ●何故、突然に「IAEA」が来日を?
  こうしたこともあり、長引かせては拙いと政府・推進派が急遽うった姑息な手が
  「原発テストの妥当性検証のために、IAEA調査団が23日にも来日」(『朝日』15日付)
  IAEAが持っている役割は二つあり、
  一つは、核兵器を現在の保有国以外には持たせないことであり、 
  二つには、産業界の要諦として平和利用という美名の下、原発推進に務めることであり、原発をチェックすることではない。
  「保安院は18日に開く意見聴取会で、大飯3、4号機の安全性に大きな問題はないとの評価案を示す見込み」(『朝日』15日付)

  ●『中日=東京新聞』と『京都新聞』だけが報じたこと
   来日中の欧州連合の原発ストレステストに関わったブルガリア原子力安全庁のカスチエフ元長官はこう語った。
   =審査のやり方、事業者の報告書が非公開であることなど、
    国民の批判をかわすための言い訳にすぎない欧州のストレステストと
    同じ問題が日本にも当てはまる」
    。
コメント (3)

改めて、「僕が政治論以外も書くわけ」   文科系

2012年01月15日 | 文化一般
改めて、「僕が政治論以外も書くわけ」   文科系

 表記のことを、改めてまとめてみたい。随筆、サッカー評論などなど一見関係ないようなことを僕はなぜここに書いてきたか。ここが始まった6年前からしばらくはかなり気にしていたことだが、最近はあまりこれを書いたことがなかったと思いついて。

 僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
 こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

 さて、だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けて、ナンセンスな政治論ということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
 やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいこともあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。

 なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
 そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。

 なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

 ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、ハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。






コメント (1)