戦後の軍隊生活
玉音放送
昭和二十年八月十五日正午。
私は中華民国、河北省石家荘、陸軍病院の廊下にいた。
この時から戦後の軍隊生活が始まった。
当時私は、支那派遣軍、第一航空教育隊第六区隊に配属されていた。
この日は部隊の医務室に入室中。
定期診断日のため、朝から市内の陸軍病院に出かけていた。
昼の休憩時間、静かな病院の廊下に待機していた私達の耳に、
拡声器のスピーカーから雑音に混じってラジオの声が聞こえて来た。
これが玉音放送であった。
病院からは放送の説明は何もなかった。
この日部隊では正午に、全員が営庭に整列。
壇上に置かれた短波放送ラジオを聞いたが、雑音が多く何もわからない。
夜遅くなってから、戦争終了の重大放送で、天皇陛下の声であったと伝わってきた。
私の手元に一枚の軍服写真がある。
私は昭和十九年十二月一日から翌年十二月十三日家に帰るまでの
一年間軍隊にいた。
入営時から何枚かの軍服写真は持っていたが、
中国から帰還した時には私の手元には一枚もなかった。
たった一枚の軍服写真は誠に数奇な運命をたどっていま机の上にある。
中国から帰還した時、東京まで同行した戦友たちと「石門会」という
戦友会を戦後六十年間続けてきた。
戦後三十年の戦友会で、戦友の梅原から突然一枚の写真が私達に配られた。
私達は誰もこの写真のあったことは覚えていなかった。
この写真には確かに我々戦友会のメンバーすべてが入っている。
当時の第六区隊の集合写真である。
場所は中国河北省石家荘(日本軍占領により石門と改名)
当時の支那派遣軍第一航空教育隊の兵営内である。
昭和二十年十二月、中国天津からアメリカのリバテイ船で帰還するとき、
すべての書類写真は持ち帰ることは出来ない、現地で全部焼却した。
それが何故ここに現れたのか。
この写真を中国から持ってきたのは、写真に写っていない
同じ第六区隊の北海道出身、畠山氏であった。
中国帰還の時靴底に折り畳んで持ち帰えったという。
十文字の「白いしわ」が靴底に小さく折りたたんだ傷である。
畠山氏は戦後の忙しい生活に追われ写真を忘れていたが、
戦友会の梅原に出会い思い出した。
なぜ自分の写っていない写真を、危険を冒してまで日本に持ちかえったのか。
私達は石門会で話を聞きたいと考えたが、まもなく病気のため亡くなられた。
私達には青春の記念として理解はできる。
この写真の白いしわの中に、私達の体験した戦争のすべての物語が
つまっている。
私達に写真が渡ってからさらに十年後、写真は新しい物語をひとりで作り始める。
写真の真ん中にいるのが私達の区隊長、石松中尉当時二十四才である。
当時の印象は紅顔の颯爽たる若武者であった。
入営前は師範学校卒業の教師であったが戦後追放となり、
九州直方市に住み、教育出版関係の仕事をしていた。
年賀状の往復はあったが、戦後四十年会う機会は一度もなかった。
戦友の荒関が、所用のため九州に行き、
そのとき石松区隊長に電話、写真を送ることを約束した。
暫くして私達戦友会全員に、三十七年ぶりの丁重な手紙と、
写真の複製が送られてきた。
軍隊時代の写真は一枚も持っていないので驚いたとのこと。
写真に区隊員の思い出した名前まで添えられてあった。
その後、石松区隊長から自分の写真と戦中戦後の思い出という
小史も送られてきて戦後四十五年の歴史の重さを考えさせられた。
平成三年病気のため亡くなられ、戦後一度もお会いすることは出来なかった。
つづく
玉音放送
昭和二十年八月十五日正午。
私は中華民国、河北省石家荘、陸軍病院の廊下にいた。
この時から戦後の軍隊生活が始まった。
当時私は、支那派遣軍、第一航空教育隊第六区隊に配属されていた。
この日は部隊の医務室に入室中。
定期診断日のため、朝から市内の陸軍病院に出かけていた。
昼の休憩時間、静かな病院の廊下に待機していた私達の耳に、
拡声器のスピーカーから雑音に混じってラジオの声が聞こえて来た。
これが玉音放送であった。
病院からは放送の説明は何もなかった。
この日部隊では正午に、全員が営庭に整列。
壇上に置かれた短波放送ラジオを聞いたが、雑音が多く何もわからない。
夜遅くなってから、戦争終了の重大放送で、天皇陛下の声であったと伝わってきた。
私の手元に一枚の軍服写真がある。
私は昭和十九年十二月一日から翌年十二月十三日家に帰るまでの
一年間軍隊にいた。
入営時から何枚かの軍服写真は持っていたが、
中国から帰還した時には私の手元には一枚もなかった。
たった一枚の軍服写真は誠に数奇な運命をたどっていま机の上にある。
中国から帰還した時、東京まで同行した戦友たちと「石門会」という
戦友会を戦後六十年間続けてきた。
戦後三十年の戦友会で、戦友の梅原から突然一枚の写真が私達に配られた。
私達は誰もこの写真のあったことは覚えていなかった。
この写真には確かに我々戦友会のメンバーすべてが入っている。
当時の第六区隊の集合写真である。
場所は中国河北省石家荘(日本軍占領により石門と改名)
当時の支那派遣軍第一航空教育隊の兵営内である。
昭和二十年十二月、中国天津からアメリカのリバテイ船で帰還するとき、
すべての書類写真は持ち帰ることは出来ない、現地で全部焼却した。
それが何故ここに現れたのか。
この写真を中国から持ってきたのは、写真に写っていない
同じ第六区隊の北海道出身、畠山氏であった。
中国帰還の時靴底に折り畳んで持ち帰えったという。
十文字の「白いしわ」が靴底に小さく折りたたんだ傷である。
畠山氏は戦後の忙しい生活に追われ写真を忘れていたが、
戦友会の梅原に出会い思い出した。
なぜ自分の写っていない写真を、危険を冒してまで日本に持ちかえったのか。
私達は石門会で話を聞きたいと考えたが、まもなく病気のため亡くなられた。
私達には青春の記念として理解はできる。
この写真の白いしわの中に、私達の体験した戦争のすべての物語が
つまっている。
私達に写真が渡ってからさらに十年後、写真は新しい物語をひとりで作り始める。
写真の真ん中にいるのが私達の区隊長、石松中尉当時二十四才である。
当時の印象は紅顔の颯爽たる若武者であった。
入営前は師範学校卒業の教師であったが戦後追放となり、
九州直方市に住み、教育出版関係の仕事をしていた。
年賀状の往復はあったが、戦後四十年会う機会は一度もなかった。
戦友の荒関が、所用のため九州に行き、
そのとき石松区隊長に電話、写真を送ることを約束した。
暫くして私達戦友会全員に、三十七年ぶりの丁重な手紙と、
写真の複製が送られてきた。
軍隊時代の写真は一枚も持っていないので驚いたとのこと。
写真に区隊員の思い出した名前まで添えられてあった。
その後、石松区隊長から自分の写真と戦中戦後の思い出という
小史も送られてきて戦後四十五年の歴史の重さを考えさせられた。
平成三年病気のため亡くなられ、戦後一度もお会いすることは出来なかった。
つづく