九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆紹介  曲がり角の国勢調査   文科系

2020年10月30日 23時42分40秒 | 国内政治・経済・社会問題

 曲がり角の国勢調査        I・kさんの作品です

 残暑厳しい八月末に五年ぶりの国勢調査が開始された。調査員はなり手が少なく、今年は六十万人と十万人減った。世の中は個人情報の尊重、詐欺への懸念、加えてコロナ感染の危惧で、調査員は苦労しつつ、指定された全世帯を訪問する。ベトナム人が出てきて会話できなかったり、番犬がうるさかったり、若い女性は絡まれたり、さまざまなトラブルを回避しつつ、実際に居住する法定人口を算定するため歩き回る。トラブル回避のため、名古屋市などは面談抜きで、配布さえすればいいと割りきる市町村も出現した。対応にバラつきが出ていることに違和感がある。
 私は四回目の訪問で、事前調査を完了し、男女別の世帯人数、代表者氏名、空き家、回答方法を確認した。便利なネット回答をインターホーンごしに勧めた。
 しかし、インターホーンを意図的に切っていたり、寝ていて起こされたと怒られたり、個人情報だから世帯人数など教えないと言われた。詐欺を疑い、身分証をかざしてくれとも言われた。

 国勢調査は今年で百年。たかだか人口調査で六十万人が人海戦術を続けるのは奇妙な話である。住民台帳との乖離があるから、現場主義での調査という。海外への出張者、病院への入院者、住民票を異動しない学生、段ボール族、夜逃げなど、住民台帳による人数と市町村の居住人数とに乖離があるからだ。だから五年ごとに、膨大な人員、費用をかけての調査となる。この人数は法定人口と言われ、国会議員の小選挙区の議員数、地方交付金の算定、町から市へ昇格に使用するという。選挙時に郵送される投票用紙は住民台帳がベースであり、建前そのものが疑わしくなる。

 この疑問は横へ置き、国勢調査のための人員は調査員六十万人、さらに指導員、国勢調査を担当する総務庁、都道府県、市町村の膨大な職員がいる。費用は職員の給料を除いて八百億円である。

 こうみていくと、国勢調査の人海戦術は曲がり角にある。世界各国も国勢調査に大変な苦労をしているのだから、北欧のように住民台帳などの既存のデータを繋ぎ合わせて活用すべきである。海外出張者は出入国管理のデータを、住民票を異動してない学生は全大学に調査依頼する、住民票を異動しない入院者はすべての入院病院に調査依頼する。段ボール族などは市町村が個別調査する。これで、必要な人員、費用も大巾に圧縮される。

 その他に、マイナンバー制度を人口調査の観点から活用したり、調査を民営化した郵便局に委託したり、様々な改善が考えられる。国勢調査百年を迎え、疲労気味のやり方に、大きく舵をとり改革すべきであろう。

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随筆紹介  社会の瓦解、実感   文科系

2020年10月28日 16時26分08秒 | 文芸作品

  社会の瓦解、実感   I・Kさんの作品です

 

 今回の国勢調査は、前回の五年前と雰囲気ががらりと変わった。前々回は郵送での回答を加え、前回はネット回答を追加し、サービスの向上を図った。にもかかわらず、今回は未回答が爆発的に急増した。これは単発の一つの現象だろうか。そうではなく、社会の大きな変化の流れの氷山の一角に過ぎないのだろうか。

 国会議員の投票率は八割から四割台に半減し政治から離脱する国民が半数を越えた。既存の政党を支持しない国民も大きく増え六割を越えた。
 この現象は地方にも及び、自治会参加者は減少の一途、老人会の参加者は私の地区は一割を切り、毎年役員の選出でもめている。
 私は町の文化協会の役員をしているが、会員数は大きく減少し、参加部も脱退がたえない。春秋の文化祭の展示会場は閑散とし始めた。
 社会は確実に変化している。高齢化、少子化、格差の拡大、さらに鬱病、特殊学級、非正規社員の激増といった傾向がある。若者はなかなか結婚しないし、離婚率も高くなっている。国の借金も世界一で、脱出策はなく、閉塞感が強い。親戚付き合いも希薄になり、葬儀は家族葬に縮小している。
 そしてコロナが襲った、そんな時期の国勢調査であった。時代を反映し、調査員の応募者は減り、未回答率は爆発的に増え、調査の信頼性は大きく失墜した。
 国民、特に若者は国、組織より個人主義、家族主義が顕著に台頭してきたのだろう。国家、政治への不信、無視があり、距離をとっている。

 社会に厭世感が漂い、倦怠感に溢れ、世をすねる。社会への参加意識が薄れてきた。共同体の集まりが苦手となり、都市のように個々人分散が地方にも浸透し始めた。今後、どんな社会になっていくのか、先が読めない。パソコン、スマホの広まりが情報を拡散し、国家、社会への愛着を喪失させていること、伝統、慣習、既成概念をも破壊している。今後どのように再構築していくのであろうか。

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このブログ方針、僕の所信表明  文科系

2020年10月28日 03時23分37秒 | その他

 2012年1月15日のここに初めてのせた、僕の旧稿を改めてまた転載させていただきます。これはまー、僕がここに携わってきた所信表明みたいなものとて、よろしく。

 

【 改めて、「僕が政治論以外も書くわけ」   文科系

 表記のことを、改めてまとめてみたい。随筆、サッカー評論などなど一見関係ないようなことを僕はなぜここ「9条バトル」に書いてきたか。ここが始まった6年前からしばらくはかなり気にしていたことだが、最近はあまりこれを書いたことがなかったと思いついて。

 僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
 こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

 さて、だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けて、ナンセンスな政治論ということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
 やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいこともあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。

 なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
 そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。

 なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

 ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、ハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。】

 

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ボリビアにて、米外交の敗北  文科系

2020年10月26日 22時12分29秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)

「マスコミに載らない海外ニュース」に、僕が知りたかったボリビア大統領選挙結果ニュースが載っていたので、紹介したい。前回の選挙で圧倒的に勝った原住民出身のモラレスを、アメリカが画策したクーデターで亡命に追い込んだ事件は、ここでも扱ってきた。その続編ということになる。この手痛い敗北で、アメリカは一体どうするのだろう。以下の報告にはなお、後半でオーストラリアにアメリカがある選択を迫った時の話も載っている。以下の報告の題名は、「アメリカには同盟者などいない。同盟者かさもなくば敵かと迫る政策があるだけだ」と述べているのだ。「敵に回るのか?」と問い詰める脅迫外交を称して、「その国自身を人質にする」と解説しているのである。


【 アメリカに同盟者なし、人質のみ 2020年10月21日  ケイトリン・ジョンストン

 ボリビア新次期大統領ルイス・アルセは、スペインの国際報道機関EFEに、キューバやベネズエラやイランとの国交関係を復活させるつもりだと語った。これは、去年違法に権力を掌握した後、即座に大使館を閉鎖し、医師を追放し、それらの国々との関係を切断した、アメリカが支援したクーデター政権の政策を覆すものだ。
 アルセはロシアや中国との友好関係についても語った。
「我々は全ての関係を再構築するつもりだ」と彼はEFEに語った。「これまでの政権は非常にイデオロギー的に行動し、ボリビア国民が、キューバの医療、ロシアの薬や、中国での進歩を利用できなくしていた。純粋にイデオロギー的な問題から、この政権は国民に、不必要で、有害な経験をさせた。」

 アルセは「全ての国に進んでドアを開く意志を表明するが、唯一の必要条件は彼らが我々を尊重し、我々の主権を尊重するということだけだ。全ての国、大きさには無関係に、ボリビアとの関係を欲する国で、唯一必要条件は我々が同等な国としてお互いを尊重するということだ。そうであるなら、我々には何の問題もない。」
 アメリカ帝国主義とグローバル政治について何かご存じなら、この最後の部分が、帝国の教義に対する厚かましい異端であるのがお分かりだろう。
(中略)

 アメリカを中心とする帝国は、まだ帝国の属国に転換していない国々をゆっくり吸収する巨大なカタマリのようにして動いている。ある国が、それから逃れ、自己主権のための戦いで、中国やロシアやイランやベネズエラやキューバのような吸収されない国々に再び加われるのはまれだが、そうすることが可能だったことには勇気づけられる。

 去年、オーストラリアのシンクタンク、センター・フォー・インデペンデント・スタディーズが主催した討論で、アメリカ人政治評論家ジョン・ミアシャイマーが、この帝国の魂の動態を非常に鮮やかに説明した。ミアシャイマーは、聴衆に、中国の上昇を止め、中国が東半球で地域の覇権者になるのを阻止するため、アメリカは出来る限りのことをしようとしており、オーストラリアはその戦いで、アメリカと協調すべきで、さもないと、ワシントンの怒りを買うと述べたのだ。
「問題は、中国の勃興を考慮に入れたオーストラリア外交政策は、どうあるべきかだ」ミアシャイマーは言った。「私はあなたに私が、もし私がオーストラリア人だったなら提案することを、お話したい。」
 ミアシャイマーは中国は経済的に成長し続けようとしており「アメリカが西半球を支配しているように」アジアを支配するため、経済大国は軍事大国に変わると言い、なぜアメリカと同盟国がそうなるのを阻止するあらゆる能力を持っていると思うか説明した。

「今疑問は、この全てがオーストラリアにとって何を意味するかだ?」ミアシャイマーは言った。「あなた方は確実に板挟みになっている。皆が板挟みが何か知っている。ところであなたは板挟みになっている東アジア唯一の国ではない。あなたは大いに中国と取り引きする、その貿易は、あなたの繁栄にとって非常に重要だ。それについて疑いはない。安全保障という点で、あなたは本当に我々と共に行きたいと望んでいる。それは遥かに多くの意味をなす、そうでしょう? 生き残らなければ、繁栄できないのだから、あなたは安全保障が、繁栄より遥かに重要だということがお分かりだ。」

「今、選択肢があると言っている人々がいる。中国と一緒にやって行けると言っている」とミアシャイマーは言った。確かに、あなたには選択肢がある。あなたは、アメリカではなく、中国とやって行くことができる。私がそれについて言いたい二つのことがある。第一、もしあなたが中国とやって行くなら、あなた方は、我々の敵であることを理解して頂きたい。その場合、あなたは、アメリカの敵になると決めているのだ。なぜなら再び、我々は猛烈な安全保障競争の話をしているのだから。」

「あなたは我々の側か、我々の敵だ」と彼は続けた。「もしあなたが中国と大規模に取り引きし、中国に好意的なら、あなたは、安全保障競争でアメリカを傷つけているのだ。我々の見地からは、あなたは獣に餌をやっているのだ。そして、それは我々を幸せにしない。そして、我々が幸せでない時、我々がどれほど意地悪くなり得るか過小評価しないよう願いたい。フィデル・カストロに聞いて頂ければ良い。」
 オーストラリア・シンクタンク聴衆の不安な笑いが、ミアシャイマーの更に扇動的な発言を中断した。CIAは何度もカストロ暗殺を試みたことが知られている。
(以下略)】

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喜寿ランナーの手記(322)キロ6分40秒に   文科系

2020年10月24日 19時04分08秒 | スポーツ

 23日もまた、前進した。21日の1キロ平均6分43秒から、標記のタイムになった。最近いつも通りのアップとダウンの歩行、緩走を含めた8キロほどの中間5キロのタイムのことだ。平均ストライドは前と同じで、92センチ、心拍数平均も150ほどに下がっている。21日より進んだなと思えるのは、これだけ走って後半の疲れが少なくなったこと。タイムが良くなっているのに、心拍数が減っている上に、快調で余力もあったからスタミナがついてきたということだろう。

 走行フォームとしては、左右の脚の運び、地面つつきがさらに均等になってきた。両脚で地面をちゃんとつついて、その反発力で(腰骨、つまり重心と)足を前に出すだけ、それ以上は無理に出さない事を特に意識して走っている。ツツキの力が弱いままで足を前に出すと、どうしても膝が曲がりすぎて、着時時間が長くなり、その瞬間にスピードが落ちる。つまり、着地の膝が必要以上に曲がってもそれを弾力に換える筋力も心肺機能もないということ。こうして、ツツキの力を色々調節しながら、今の自分にあったストライドを求めているところだ。まだまだ伸びると実感が生まれつつのことで、こういう時は本当に楽しい。

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学術会議問題、首相代弁者たちに   文科系

2020年10月22日 20時22分47秒 | 国内政治・経済・社会問題

 学術会議問題で、あちこち政府弁護論が五月蠅すぎる。この問題での政府・首相批判者にとっては、首相に訊いているのだし、原理的に首相が応えねば答えにならぬのだ。任命拒否の理由がはっきりしなければ、ここまで至る所で起こっているはずのこういうやり方の正体が確定できぬからである。確定できぬままに、焚書坑儒が進んでいくのを見過ごせないのだ。ふたつのコメントを転載する。

 

君は国家権力じゃない (文科系) 2020-10-22 10:36:1 

 日本学術会議とその会員任命を、他の行政職と一緒にすることさえできないのに、民間会社を持ち出してその論理でもって総理大臣を弁護する。裁判と同じで、まずは学術会議会員の推薦、任命の「慣例」「判例」がすべてなのだ。これを破ったから、国家権力による焚書坑儒であると批判されている。ましてそういう慣例を破った理由を語らないままでは、今後どんどん恣意的な「任命」が出来ることになる。
 そもそも、学問に対する国家権力の介入絡みだから問題なったのである。これは、国家権力しか答えられない批判なのだ。
 君は国家権力じゃない。よって君の答えは、この批判への答えには全くならないのだよ。つまり、この場合に要求している答え自身が、君には形式的、原理的に出来ないということだ。
 それを横からしゃしゃり出て、原理的に応えにならない人間が応えているというのが、なおさら笑える。自民党の学術会議見直し(部会)とかも、全く同じ事である。
古今東西の権力と学問 (文科系) 2020-10-22 14:16:29
 標記のことだけど、古今東西の諸国家行為でこう言える。権力が「今までの習慣を破って」ある学者を「名が売れないように」とか「社会の表面に出さないように」とかする時には必ず、こういう思惑がある。
「彼の学説、議論、そのある部分を社会からシャッタアウトしたい」
 これが重大なことだと、物の分かった人々が非常に重く批判しているのだ。それに対して、今後のために理由を語るべきと批判されている権力ではない者が横からあれこれ弁護するって、滑稽極まる。
 そもそも、こういう時の権力弁護者には、碌な人間はいなかったはずなのだ。学者にしても、その卵にしても、マスコミ人にしても、愚かな出世主義者、時流に迎合して「見せる」者。
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喜寿ランナーの手記(321) キロ6分43秒に  文科系

2020年10月22日 00時56分13秒 | スポーツ

 21日いつものコースでいつものようにアップとダウン含んで8キロちょっと走り、間の5キロのラップをとってみた。それも、今日はちょっと頑張ってみようと思い立って、初めは歩行も入れたウオームアップ走行をゆっくりと2キロ以上20分近くやってから、今の最大持続スピード近くで5キロを走ってみた。結果は上々、キロ6分43秒、ストライド92センチで、平均心拍数153と出た。ちなみに、直近のこの同じやり方の5キロタイムすべては、こうなっている。9月29日7分29秒、10月2日7分14秒で、13日7分05秒。平均心拍数はそれぞれ、140、148、そして144と。

 ストライドについては、29日84、13日87センチから、21日92センチと大きく延ばした。それも、前半は弱点の左脚でストライドを伸ばしつつ95センチを超えて走り、後半は左右を均等にして狭めのストライドに戻して走った。それも、左右足の着地時間をできるだけ短くしたから、その分またストライドが延びている。
「着地時間を少なくする」とは、一方の脚で地面をつついた反動で他方の腰と脚をできるだけ早く前に運び、その着地時には(特に左膝は)伸ばし気味に固めて折れないようにするという要領である。去年12月ごろから身につけてきたこの走り方にももうほとんど違和感なく慣れてきて、7月初めからの白内障手術入院一ヶ月ブランクで格別に弱くなった左脚を鍛えてきたその効果もとうとう顕れてきたという感じなのだろう。走っていてとても気持ち良かったし、左足を強化した左右均等につつくフォームをさらにきちんとしていけば、ストライド1mも可能だと目論みはじめた。それで5キロ走れるようになった上で、膝を折らぬ腰高フォームで、かつ着地時間を少なくして、腰を前へ前へと上下動少なくスタスタと走れば、その分スピードと共にストライドも意外に延びるものなのだ。このことはこの走り方に変えてから間もなく気づいたことだった。

 腰高フォームで走るためには、視線の課題もある。足の運びを気にして下を向いていると、腰が後ろに引けて前へ前へと出ず、ストライドも狭くなるのだ。これは、足の運び自身以上に正しいフォームとして大切なことと考えている。

 今日のような外走りをやり通していけば、同じやり方の5キロがキロ6分20秒程度に今シーズン中にはできるのではないか。記録を見ると、今年の4月24日が6分32秒、92センチ、163bpmとあったことだし。その上の記録となれば、18年12月11日の6分12秒、92センチ、160bpmというのがあるけれど。

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書評「悪と全体主義」(3)  文科系

2020年10月21日 11時00分16秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 仲正昌樹氏のこの本は、第1~3章をそれぞれ以下のアーレント著作に呼応して書いている。
『アーレントの「全体主義の起源」は初め三部構成で出版され、後には三巻の本に別れ、それぞれ「反ユダヤ主義」、「帝国主義」、「全体主義」となった』
 そして、アーレントの他の著作「エルサレムのアイヒマン」と「人間の条件」とを紹介したのが、第4章「『凡庸』な悪の正体」と終章「『人間』であるために」。ここの要点を紹介して、この書評の終わりとしたい。

『全体主義支配というのは、陰謀論的プロパガンダによって、人々の「世界」に対する見方を次第に均質化し、それによって「複数性」を衰退させるとともに、秘密警察などの取り締まりと威嚇によって、「活動」のための「間の空間」を消滅させてしまう政治体制だと言えるでしょう。全体主義的な空間では、言葉は、ものの見方を多元化するためではなく、均一化するための媒体になります。オーウェルの「1984年」に出てくる人工言語、ニュースピークはまさにそんな感じですね。余計なこと、つまり体制の世界観に合わないことは考えさせない言葉です。
 そういう「複数性」や「間」がない〝空間〟に生きていると、「法」や「道徳」に対する見方も均質化していく可能性が高いでしょう。近代市民社会あるいは近代国家は、(普遍的道徳に根ざした)「法の支配」を前提に成り立っています。しかし、「法」の本質が何か、「法」の基礎にある道徳法則とは何かについて、人々は多様な意見を持っています。その都度民主主義的手続きに従って決めたこと、法令になったことについては守ってもらわなくてはいけないが、「法」や「道徳」の本質についていくら議論してもいい、というよりも議論してもらわないと困る。そう考えるのが、自由民主主義です。しかし、全体主義の下では、ヒトラーの意思とか共産党の決定が、〝法〟だと決まったら、それ以上、議論することが許されない。それ以外の「法」の在り方について、自分の頭で考えることは許されない。
 アーレントがアイヒマンの「無思想性」と言っているのは、「複数性」が消滅しかかっている空間に生きているがゆえに、「法」や「道徳」など、人間の活動的生活にとって重要なものについて、別の可能性を考えることができなくなっている状態を指すのだと解釈できます。社会の支配的なものの見方と自分のそれが完全に一致している(と思い込んでしまう)時、ヒトは本当の意味で、「考える」ことができなくなります。』 (P207~8)

『アーレントの議論が、というより、「人間」という概念自体が、もともとは知的エリートのためのものでした。英語のhumanity の語源になったラテン語のhumanitas は「市民(人間)として身につけておくべき知的たしなみ」というような意味合いでした。・・・・つまり、「人間性」の中心は、言語や演技を駆使して他者を説得する能力だったわけです』(P212~3)

 とここまで来て、著者・仲正氏は、この書評第一回目に抜粋した「複数性」を紹介していくことになる。
『いかにして「複数性」に耐えるか』。
『お互いの立場、特に自分にとって気に入らない意見を言う人が、どういう基準で発言しているのかを把握するのは、知的にも感情的にもかなり大変です』
『自分と異なる意見を持っている人と本当に接し、説得し合うところからしか「複数性」は生まれません』

 
 この書評の最後として、この問題の難しさを僕なりに説明してみたい。特に、この日本における難しさを。
 「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉がある。この場合の「一人(のために)」の意味は、近代民主主義にとっては基本的人権などから自明なものであろう。が、問題はこの「みんな(のために)」の理解を近代以降の国家が狭く一元化させ、ねじ曲げてきて、その結果として基本的人権などが全部吹っ飛んだ国家社会も出来上がることがあった、とそういうことではないか。そういう「とんでもない悪が、とんでもない凡庸、普通の人から生まれて来る国家社会」に対して、人間活動の「複数性」をアーレントは主張している。全体主義の対概念、それが複数性(国民「活動」の複数性を保障すること)であれば、「優しい独裁国家・日本」(哲学者マルクス・ガブリエルの表現)は、結構難しい国なのだと考え込んでいた。
 長く島国であって、「民族(ナショナリズム慣習)」がいまだに重い意味を持っている国。また、先進国でこれほど死刑が多い国も少ない。死刑とは原理的に国家が行う制度だから、犯罪被害者がではなく国家が、その主人公、国民個人の上にそびえ立つ制度なのだ。こういう日本の死刑制度はむしろ社会主義的と言って良いのだが、恐慌時の倒産銀行救済や、日銀、GPIFぐるみの官製株価やなどの社会主義的政策が普通に進められても来た。日本国家とはこうして、先進国中では全体主義の温床が最も多い国なのではないか。

 ちなみに、当ブログでも再三触れてきた「日本会議がめざすもの」のど真ん中にこういう文言が鎮座している。僕にはこれが、日本的全体主義最大の巣窟のように見えるのだが、どうだろうか。以下のような「同朋感」がない僕のような人間にも、こんな感じ方が強制される世の中が来るのか?
『私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています』(『日本会議がめざすもの』から、『1美しい伝統の国柄を明日の日本へ』より)』

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書評「悪と全体主義」(2)  文科系

2020年10月20日 12時20分15秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 アーレントの「全体主義の起源」は初め三部構成で出版され、後には三巻の本に別れ、それぞれ「反ユダヤ主義」、「帝国主義」、「全体主義」となったということだ。その上で、第三巻の「全体主義」ではナチス・ドイツとスターリン・ソ連が考察されることになる。そして、この三巻本の流れを、仲正氏はこう展開する。
アーレントが「全体主義の起源」の第一・二巻で提示したキーワードを整理すると、「他者」との対比を通して強化される「同一性」の論理が「国民国家」を形成し、それをベースとした「資本主義」の発達が版図拡大の「帝国主義」政策へとつながり、その先に生まれたのが全体主義----- ということになります。いずれのキーワードも、太平洋戦争へと突き進んだ戦前の日本、戦後七十年を経て再び右傾化の兆しが見える現代の日本にぴたりと符合するのではないでしょうか。
 全体主義のそもそもの起源をたどっていくと、そこには「同一性」の論理があるというのがアーレントの結論です。ただし、同一性の論理に基づいて支配を拡大させた帝国主義が、ストレートに全体主義につながったというわけではありません。帝国主義と全体主義の間には、帝国の基盤となっていた「国民国家」の衰退と、それに伴う危機意識があるとしています』(P108~9)

『第三巻「全体主義」のキーワードは「大衆」、「世界観」、「運動」、そして「人格」です』
(P116)
『平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に不穏な空気が広がると、にわかに政治を語るようになります。こうした状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とかしてほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考えることをしない大衆が求めるのは、安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながっていったとアーレントは考察します。
(以下、「 」はアーレントからの引用で)「ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の台頭に特徴的なのは、これらの運動が政治には全く無関心と見えていた大衆、他のすべての政党が、愚かあるいは無感動でどうしようもないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。」・・・・こうした動きは、第一次世界大戦後のヨーロッパで広く認められました。しかし、実際に大衆を動員して政権を奪取できたのは、ドイツとロシアだけだったことにもアーレントは注目しています』(p122~3)

 以上は、こういうことだろう。第一次大戦後の帝国主義時代に「景気が悪化し、社会に不穏な空気が広がると」(例えば、1929年の世界大恐慌)、「安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなもの」と言えるような「世界観」で大衆をかき集めて、政権を奪取しようという全体主義運動が欧州に現れてきた。そして、ドイツとロシアでは、これが政権を奪取した、と。

 

(続く)

 

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書評「悪と全体主義」(1)  文科系

2020年10月19日 13時10分42秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 このエントリーは、「悪と全体主義ーハンナ・アーレントから考える」(仲正昌樹・金沢大学法学類教授著、NHK出版新書18年4月発行)の書評である。そして、当ブログの書評の常のように、この書の概要紹介がほとんどになる。だから、以下の文章は、今日本でも問題になり始めた全体主義というものを、ハンナ・アーレント「全体主義の起源(この「起源」は複数になっています)」などから仲正昌樹氏が考えたところを読み込むことになる。

 アーレントは06年にドイツで生まれたユダヤ人。ヒトラー治下ドイツで哲学を学び、ドイツによるフランス占領の頃にユダヤ人収容所から逃げ出してアメリカに亡命し、シカゴ、プリンストン、コロンビア各大学の教授・客員教授などを歴任という女性。彼女が哲学を学んだ先生は、ハイデッガー、フッサール、ヤスパースというそれぞれ哲学史上金字塔としてそびえ立つ大哲学者たち。こういう人物を追いかけてそれぞれの大学で師事した年齢が、18,19,20歳の時というのだから、ちょっと夢のような話になる。こういう経歴から、「ヒトラー全体主義は何故ドイツを席巻し、数々の狂気をもたらしたのか」を終生、最大の哲学研究テーマとしたお方である。

 アーレントで有名なのは、なによりもアイヒマン裁判の特派員をかって出たこと。ウィキペディアによるアーレント紹介にもこう書いてある。
『1963年にニューヨーカー誌に「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を発表し、大論争を巻き起こす』
 このアドルフ・アイヒマンとは、ユダヤ人強制収容所の管理部門を取り仕切っていた人物。ナチス・ドイツの滅亡後に国外に逃亡し、1960年になって逃亡地アルゼンチンで捉えられて、裁判・死刑になった人物である。アーレントはこの裁判傍聴から「エルサレムのアイヒマン---悪の陳腐さについての報告」を書いたのだった。こういう著作、つまり全体主義の哲学的研究をこの本で紹介した仲正氏の問題意識は、なによりもこんな部分にあると読めた。『いかにして「複数性」に耐えるか』

『お互いの立場、特に自分にとって気に入らない意見を言う人が、どういう基準で発言しているのかを把握するのは、知的にも感情的にもかなり大変です』

『自分と異なる意見を持っている人と本当に接し、説得し合うところからしか「複数性」は生まれません』

 さて、こういう人の考え方の複数性を多数国民の命を奪ってまでも否定していく全体主義の諸起源とは何で、人はそれにどう抵抗できるのか。著者の仲正氏はこんなことも書いているのだが・・・。

『私たちには、本当の意味で、言葉を交換する機会、活動する機会が少なくなっています。「活動」が「労働」によって飲み込まれつつある。アーレントは、歴史の趨勢に関してはかなり悲観的です。私はそう見ています』(216頁)

 この最後の文章の意味はこういうこと。人は生きていかねばならないが為に(労働、仕事のために)、『言語や演技によって他の人の精神に働きかけ、説得しようとする営み』(これが活動)が抑圧され、歪められて、苦手になっていく時代というものがある。それ故に人類史の「複数性尊重」未来にもアーレントはかなり悲観的だと、仲正氏は読んだということなのだ。ちなみにアーレント1975年に亡くなったのだが、「人間」であるための三つの条件として、労働、仕事、活動をあげている。英語ではそれぞれlabor,work,actionとあった。労働と仕事の区別は難しいので、今回は省く。

(続く)

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本日J新記録懸けて、川崎・名古屋戦

2020年10月18日 10時52分47秒 | スポーツ

 本日標記のゲームがある。テレビでも、NHKのBS1で19時から放映される。かぶり付きで、しかも試合経過記録を取りながら観ることになるのはいつものことだが、今日のこのゲームはちょっとなかったような注目の一戦になる。

 まず、川崎フロンターレの11連勝が懸かっている。これは、Jリーグ発足以来現在までの同一シーズン連勝記録が10連勝となっているので、J史上の新記録樹立を意味する。しかもこの川崎、今季すでに一度11連勝のチャンスを得ていたが、これを今日闘う名古屋に阻まれているのだ。1度目のJ新記録を懸けた戦いで敗れた名古屋と2度目の11連勝を懸けて戦う、これもちょっとないようないわゆる因縁の戦いなのである。川崎も名古屋も燃えに燃えて闘うことだろう。攻撃力のフロンターレと、イタリア流守備力のグランパス。J新記録が懸かった矛と楯との凄まじい闘争、こんなゲームはめったに観られないはずだ。

 今の川崎は、凄まじい得点力を有している。これまでJ史上最高得点力を記録したチームとは、世紀の移り目あたりのジュビロ磐田であるが、フロンターレはこれを凌ぐ得点力、1ゲーム当たりほぼ3得点というチームである。それでいて失点も少ないので、こう語る評論家もいるほどである。「今の川崎をそのまま日本代表にしたらどうか?」。そう言われるわけは、このチームの世界最先端の戦い方にもあると観てきた。高い位置などでコンパクト守備を敷き、組織的に前に詰める激しい当たりでボールを奪い取り、その勢いのまま相手ゴールに迫るという、「守備即攻め」という激しい闘い方である。こういうこのチームの模範、理想はまさにリバプール、ユルゲン・クロップ監督のあの闘いである。ただ、あのチームと違うのは家長昭博がいること。Jの当たりがこれだけ激しく、厳しくなった近年でも、ゴール前でわずかにボールをキープできて、味方の侵入時間を稼ぐことが出来る一昨年のMVP選手だ。僕は今日、家長昭博に目を凝らしているつもりだ。彼を観ていると「フロンターレの組織が分かる」という、ちょうどガンバ全盛期の遠藤保仁のような選手だと思う。

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喜寿ランナーの手記(320) 時速11キロも・・  文科系

2020年10月17日 17時09分26秒 | スポーツ

 17日、ジムで30分×3回、12・6キロ走ってきた。内訳は、4・2、4・3、4・1キロだが、筋肉強化のためにインターバル練習も取り入れているから、時速10~11キロも走っている。心拍数がかなり下がってきて、時速10キロ5分でも150ちょっと、11キロでも160ちょっとになった。これは水曜日のサイクリング72キロが効いたということもある。僕の場合サイクリングの後はいつもランが好調、心拍数も下がってくる。よって、12キロ走ってきたのに、走り終わった今身体はけろっとしている。ランによる身体の疲労度というのは、心拍数の多さに比例するものらしい。

 7月初めからの一ヶ月入院ブランクはやっと取り戻したというか、それ以上の復活を感じている。ランのシーズンに入ったばかりだから、今年の走りにはおおいに希望が持ててきた。心拍数が下がってきたことには、前回書けた「走りの改善」も明らかに関係している。こういうことだった。
『本日13日の5キロ走後半は、昨シーズンの好調時の走りが戻ってきたと感じられたもの。同じ1・05キロほどの周回コースで、最後の1周のピッチ数が僕の最少記録に近くなったからである。その周回のストライドは1m近かったのではないか。これは僕の場合には、左右両脚の使い方が、地面つつき強度もタイミングも均等という意味で走行フォームが良くないと出ないストライドだから、ご機嫌に帰ってきた。僕のフォームの上で懸案の弱い左脚が意識して正しく使えたということなのだ。だからこそ、最後2周のスピードは9キロ時超えと上がっていても、心拍数が抑えられたわけである。この走りが5キロの最初から出来るのを目標にして努めていきたい』
 左右の脚のつつきを強めに、かつ均等にして、その力で他方の脚(特に左脚を)を前に出すことを意識するわけだが、今日もこれがとても上手く行ったと思う。10キロ時でもピッチ数が160だったからだ。これだけ走って、しかも疲労が少なければ毎日でもやれるのだが、これを僕は控えている。長く走り続けるためには、回数は減らした方が良いと思うからだ。それにしても、13日7キロ超のラン、14日72キロサイクリング、17日12・5キロランって、やっぱりフォームも良くって、スピードなど無理もしていないから疲れず、かつ好調って事だ。

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名波が語る、遠藤保仁の凄さ   文科系

2020年10月16日 14時37分27秒 | スポーツ

  静岡朝日テレビネットニュースとして、Jリーグ磐田でプレーし始めた遠藤保仁の2ゲーム・名波浩の解説を読んだ。実に分かりやすい文章であり、遠藤のプレー、役割の大きさ、偉大さが全て分かる見事なもの。これから、こんな書き方が主流になるとサッカー文章が実に面白くなると、感じ入った次第。言い換えれば、サッカー文章はここまで来たのである。

『 ジュビロ磐田元監督で元日本代表MFの名波浩氏(47)が15日、静岡朝日テレビの情報番組「とびっきり!しずおか」(月~金曜午後4時37分)に出演し、J1ガンバ大阪からJ2磐田に期限付き移籍した元日本代表MF遠藤保仁(40)について語った。移籍初戦の松本山雅FC戦と移籍第2戦でチーム9試合ぶりの勝利に貢献したV・ファーレン長崎戦を振り返り、具体的に遠藤の持つ能力の高さを表現した。  「遠藤選手がプレーしているポジションでは1試合80回ボールを触れば、『いいね』と言われるものですが、彼は松本戦で122回ボールに触ってパス成功率88%、長崎戦は110回で87%と、ものすごい数字を出している。加入2週間でボールを集めて、ゲームを作って、しかも前におしゃれなパスを通して、横パスが少ない。それでこの数字ですし、この短期間でチームにピタッとはまる選手は日本中探してもいない。それは自分がどうすればチームに生きるか、生かせるかを考えてプレーしているからです」』

 ボールをもらえる位置に(相手に気づかれず、味方には気づかれて)いつも動いているからボールが無数に、楽々受けられて、前へ前へとパスを成功させる。ごく短期間でチームの王様になるほどにこれだけの数字が弾き出せるのは、チームが見え、そこで自分の生かし方が見えるからだと、・・・なんとまー見事な解説だろう。これだけで、遠藤のプレーがほぼ手に取るように見えるのである。

 遠藤保仁、やはり、中村憲剛等も一目置く、偉大な選手なのだ。憲剛がこんなことを語っていたのを思いだす。初めてJ1に上がったときガンバと練習ゲームをやって、大したことないなと思った。が、その時はたまたまヤットがいなかったのであって、次にやった時にはコテンパンにやられた。「一人の選手だけでこんなに違うものか」と、遠藤はやはり、そういう選手なのである。

 視野を確保し彼我の組織分布を見る技術が凄いのだろうが、この視野という点では、若いころ代表で出会ったこの点の名手・中田ヒデからこそ学んだ? ヒデが最後に代表エースを張ったW杯ドイツ大会では、遠藤は代表選手ではあったが、確か1度もプレーできなかった? 苦い体験だったのだろうが、これが確実に無駄にはなっていなかったのかと、そんなことを考えこんでいた。

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広がる言論統制の闇、学術会議問題  文科系

2020年10月15日 13時47分51秒 | 国内政治・経済・社会問題

  学術会議会員の任命拒否問題は、安倍政権が「言論・世論統制」を密かにあちこちで進めてきたその闇を日々明るみに出している。今確認されたその広さ、深さを示すとともに、このことの意味を改めて考えてみたい。

① 内閣官房内に「この拒否は自明」という言論統制慣行ができ上がっている。任命権者である首相が「6人欠員名簿」に盲判を押したに等しい今回の進め方によって、このことが分かる。こういう習慣は、少なくとも2016年頃には既に出来上がっていたようだと、こんな証言がある。

② 前川喜平元文科省次官が、このほどこう証言した。文科省の文化審議会に文化勲章受章者なども選ぶ分科会があって、その委員人事には閣議了解が必要。2016年に文科省が提出した新任委員候補者リストから、今回も問題になっている安保関連法に反対している学者について、「入れてもらっては困る」「首相官邸に人事案を持ってくる前にチェックすべきだ」などと、除外、注意を求められたと。

③ なお、関連して前川氏は、こうも語っておられる。『(首相周辺は学術会議問題について)一審議会の人事のように、かなり安易に考えたのではないか』。「学問世界の国会」とも呼ばれる日本学術会議は、相当の権威と独立性を認められるべきということである。

④ ①も②も首相の直下にあって担当したのが、内閣官房副長官・杉田和博氏。警察庁上がりで、内閣人事局長兼務というお方だ。「府省庁の幹部人事を一元管理」する政府内(思想警察)長官と述べても良いお立場なのではないか。

 どうだろう、厳しく言えば、国の将来を最も大きく、長く左右する学術・真理の世界に、学問素人・権力(選挙)だけの狭く近視眼的な「権力の視点、方針」で乱暴に介入してきたことは明らかだろう。それも安倍政権下の7年で、これを年々深め広めてきた事がうかがえるのである。そしてついに、「学術の国会」にまで一審議会の委員に言及というがごとき「軽率な土足介入」である。何度も強調するが「政治権力の学問への介入、そこから始まる両者の悪循環」の行く末は、人類国家史上恐ろしいものにならなかった試しはないはずだ。特に今回のように軍事、軍事法制、軍事研究への介入は、軍国主義前史を思わせずにはおかないものがある。ちなみに、「経済の軍事化は慢性的不況時の先進資本主義国がたどる宿命の道」というのも、古くからの経済学識見の一つである。だからこそ学者たちは、軍事研究に反対するのである。

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 喜寿ランナーの手記(319) 外走り3日間の前進  文科系

2020年10月13日 21時12分11秒 | スポーツ

  涼しくなって本日13日、シーズン3日目の外走り。同じようにアップ・ダウン走含めて7~8キロ走って、間の5キロの平均キロラップをとるのだが、このラップがこう前進してきた。9月29日7分29秒、10月2日7分14秒で、13日7分05秒と。平均心拍数はそれぞれ、140、148、そして144と、まー順調に来た。今はこのように、ジム走りではLSDで心肺機能を上げて、外走りで前進度を観るというやり方をとっている。ジムでは例えば4日、10日などは90分近くかけて11キロ超ほど走っている。

 本日13日の5キロ走後半は、昨シーズンの好調時の走りが戻ってきたと感じられたもの。同じ1・05キロほどの周回コースで、最後の1周のピッチ数が僕の最少記録に近くなったからである。その周回のストライドは1m近かったのではないか。これは僕の場合には、左右両脚の使い方が、地面つつき強度もタイミングも均等という意味で走行フォームが良くないと出ないストライドだから、ご機嫌に帰ってきた。僕のフォームの上で懸案の弱い左脚が意識してやっと正しく使えたということなのだ。だからこそ、最後2周のスピードは9キロ時超えと上がっていても、心拍数が抑えられたわけである。この走りが5キロの最初から出来るのを目標にして努めていきたい。
 ただし、ウオームアップの時間が随分多く必要な身体になっていると、これが今日特に感じたことである。気温が随分下がってきたからか、アップ時間が確実に20分以上必要になっている。

  

 

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