戦前の歴史を“あの時代は良かった”と言っている人がいる。これから述べることについてどれだけ知っているのだろうか?
「改憲論者」の殆どは「ポツダム宣言」の受諾を認めない。ごく一部にはしぶしぶ認める者もいるが・・・・。
もう1年戦争を続けていたらどうなっていただろうか。
「本土決戦」とはどういうものであったか?国民の前にはどんな運命が待っていただろうか。「狂気」の時代であった。
連合軍には「沖縄戦」以後の作戦計画が出来上がっていた。「ダウン・フォール」作戦である。
作戦は2つに分かれていた。1つは45年11月に九州へ上陸するという「オリンピック作戦」、もう1つは46年3月に関東平野に上陸して日本を分断するという「コロネット作戦」である。
一方、日本側はこのことを知っていた。対抗する作戦を「決号作戦」と名付けた。国民には「本土決戦」・「一億総特攻」・「一億玉砕」というスローガンが呼び掛けられた。
具体的にはどんな対策だったか。その一部である。
45年6月に「義勇兵役法」が制定された。「国民皆兵」である。終戦の2か月前であった。中を見ると「勅令」という言葉がやたら目立つ。拒否すれば罰則が付く。
“七条 義勇召集ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ処ス
2 故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ一年以下ノ禁錮ニ処ス”
現実性が全くない。1年も2年も続くと思ったのだろうか?しかも全土が戦場である。どこへ収容するのか?
全員が「軍人」であるから、「陸軍刑法」を適用されて「死刑」判決を受け、その場で「銃殺」されたのではないかと思う。
大本営陸軍部は「国民抗戦必携」という小冊子を配布していた。そこでは国民が用意すべき武器が書かれていた。
「刀剣、槍、竹槍、鎌、鉈、玄能、出刃包丁、鳶口」などなど。
出刃包丁を手に、槍ぶすまのように並んだ機関銃や火炎放射器、さらには戦車に向かって突撃していく姿を想像して欲しい。
こうも書かれていた。
「刀や槍を用いる場合は斬撃や横払いよりも背の高い敵兵の腹部目がけてぐさりと突き刺した方が効果がある・・・・格闘になったら『みずおち』を突くか、睾丸を蹴る。あるいは唐手、柔道の手を用いて絞殺する。1人1殺でよい。とにかくあらゆる手を用いてなんとしてでも敵を殺さねばならない」、と。
格闘する前に殺されているだろう。
特攻攻撃機としては「剣」甲型(キー115)や「タ号特別攻撃機」の生産を急がせていた。主翼以外の材料は鋼管、ブリキ、ベニヤ板などの簡単に手に入るもので作られた。1回使えばよいのである。離陸したら車輪が脱落してしまうようになっていた。着陸など必要が無かったからである。操縦性は最悪で、とても扱い切れるものではなかった。実用化のための改修中に終戦となった。
海軍も考えた。潜水服を着用した兵士を海中に忍ばせ、棒の先に爆薬を装備し、進攻してきた敵の上陸用舟艇を下から突き、自分もろとも爆破させようとする作戦である。爆雷の数発も投下されたら全滅である。
なお、作戦決行の前に、足手纏いになる赤子・幼児・老人などは「殺害」する計画もあった。45年4月に大本営陸軍部が出した「国土決戦教令」に明記されている。
“「敵ハ住民,婦女,老幼ヲ先頭二立テテ前進シ我ガ戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ 斯カル場合我ガ同胞ハ己ガ生命ノ長キヲ希ハンヨリハ皇国ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ敵兵撃滅二楕拷スベカラズ”
こんな作戦が真面目に検討された。「一億玉砕」だから、国民の命はどうでもいいのである。「民族抹殺作戦」である。
一方、どうしても守らなくてはならないものがいた。「神」である。
「神」とその家族は長野県の「松代」に移すことになっていた。大本営の高級将校もそこへ移ることになっていた。「松代大本営」と呼ばれていた。なお付け加えておくと工事関係者用に「慰安所」も作られていた。現在も残っている。
完成のために多くの朝鮮人などが酷使された。もし、完成していたら彼らの運命はどうなっていただろうか?「虎頭要塞」のようにされたのだろうか?
こうして、戦いが終わった後、日本の人口は「ゼロ」になる。「東京裁判」なんて開ける訳がない。被告席に座るものが存在しないからである。裁判がなければ「批判する」必要性もなくなる。かくして「改憲論者」の悲願は達成されるのである。
残された「神」とその家族はどうなるか。それまで人間と同じ生活をしてきたのだが、衣食をどうするのか。自分たちだけで出来る筈がない。「高天原」にでも帰るのだろうか?
これは決して架空の話ではない。戦争があと1年続いていたらこうなった筈である(「神」の話は別であるが )。「保守系」氏や私など、46年以前に生まれていた人は今日、全員生きてはいない。それ以後に生まれた人は・・・・生まれている筈がない。
ところで、それより以前に戦争を終わらせることは出来なかっただろうか?出来たという主張もある。
44年6月、「マリアナ沖海戦」があった。この戦いで連合艦隊は壊滅的な敗北を受けた。戦闘能力を失ったのである。
兵器の差だけではない。技量の差も大きかった。戦闘機の操縦についても、空母からの発艦は出来ても着艦が出来ないというような低下した技量になっていた。
米軍機の撃墜3機に対し、撃墜された数は200機以上であった。「マリアナ沖の七面鳥狩り」と言われたほどの惨敗であった。
一方、中国戦線は泥沼状態であった。見通しはまったくなかった。
直後に、「近衛文麿」が「昭和天皇」に「降伏の上奏」をしたと言われている。但し、国民のことを思ってではない。内乱(革命)が起こって「天皇制」が崩壊することを怖れたということである。しかし、天皇はこれを拒絶した。
もし、この時降伏していたらその後の沖縄戦はなかったし、広島・長崎への原爆投下もなかった。太平洋戦争での死者のうち、大部分はこの海戦以後である。終戦の時は自分の力で終わらせたと言っていた「昭和天皇」である。としたら、この時なぜ命令しなかったのか?
よく言われる話である。
これでも、戦前・戦中の時代が良かったと言うのであろうか?
さらには、“歴史は当時の人々の熱い想いからしか解釈し得ない。単なる事実の羅列ではない”との主張で、「歴史解釈権」なるものを持ち出した「小堀桂一郎」教授、彼は上記の事実に対し、どんな“熱い想いから”の“解釈”をするのであろうか?
「改憲論者」の殆どは「ポツダム宣言」の受諾を認めない。ごく一部にはしぶしぶ認める者もいるが・・・・。
もう1年戦争を続けていたらどうなっていただろうか。
「本土決戦」とはどういうものであったか?国民の前にはどんな運命が待っていただろうか。「狂気」の時代であった。
連合軍には「沖縄戦」以後の作戦計画が出来上がっていた。「ダウン・フォール」作戦である。
作戦は2つに分かれていた。1つは45年11月に九州へ上陸するという「オリンピック作戦」、もう1つは46年3月に関東平野に上陸して日本を分断するという「コロネット作戦」である。
一方、日本側はこのことを知っていた。対抗する作戦を「決号作戦」と名付けた。国民には「本土決戦」・「一億総特攻」・「一億玉砕」というスローガンが呼び掛けられた。
具体的にはどんな対策だったか。その一部である。
45年6月に「義勇兵役法」が制定された。「国民皆兵」である。終戦の2か月前であった。中を見ると「勅令」という言葉がやたら目立つ。拒否すれば罰則が付く。
“七条 義勇召集ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ処ス
2 故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ一年以下ノ禁錮ニ処ス”
現実性が全くない。1年も2年も続くと思ったのだろうか?しかも全土が戦場である。どこへ収容するのか?
全員が「軍人」であるから、「陸軍刑法」を適用されて「死刑」判決を受け、その場で「銃殺」されたのではないかと思う。
大本営陸軍部は「国民抗戦必携」という小冊子を配布していた。そこでは国民が用意すべき武器が書かれていた。
「刀剣、槍、竹槍、鎌、鉈、玄能、出刃包丁、鳶口」などなど。
出刃包丁を手に、槍ぶすまのように並んだ機関銃や火炎放射器、さらには戦車に向かって突撃していく姿を想像して欲しい。
こうも書かれていた。
「刀や槍を用いる場合は斬撃や横払いよりも背の高い敵兵の腹部目がけてぐさりと突き刺した方が効果がある・・・・格闘になったら『みずおち』を突くか、睾丸を蹴る。あるいは唐手、柔道の手を用いて絞殺する。1人1殺でよい。とにかくあらゆる手を用いてなんとしてでも敵を殺さねばならない」、と。
格闘する前に殺されているだろう。
特攻攻撃機としては「剣」甲型(キー115)や「タ号特別攻撃機」の生産を急がせていた。主翼以外の材料は鋼管、ブリキ、ベニヤ板などの簡単に手に入るもので作られた。1回使えばよいのである。離陸したら車輪が脱落してしまうようになっていた。着陸など必要が無かったからである。操縦性は最悪で、とても扱い切れるものではなかった。実用化のための改修中に終戦となった。
海軍も考えた。潜水服を着用した兵士を海中に忍ばせ、棒の先に爆薬を装備し、進攻してきた敵の上陸用舟艇を下から突き、自分もろとも爆破させようとする作戦である。爆雷の数発も投下されたら全滅である。
なお、作戦決行の前に、足手纏いになる赤子・幼児・老人などは「殺害」する計画もあった。45年4月に大本営陸軍部が出した「国土決戦教令」に明記されている。
“「敵ハ住民,婦女,老幼ヲ先頭二立テテ前進シ我ガ戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ 斯カル場合我ガ同胞ハ己ガ生命ノ長キヲ希ハンヨリハ皇国ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ敵兵撃滅二楕拷スベカラズ”
こんな作戦が真面目に検討された。「一億玉砕」だから、国民の命はどうでもいいのである。「民族抹殺作戦」である。
一方、どうしても守らなくてはならないものがいた。「神」である。
「神」とその家族は長野県の「松代」に移すことになっていた。大本営の高級将校もそこへ移ることになっていた。「松代大本営」と呼ばれていた。なお付け加えておくと工事関係者用に「慰安所」も作られていた。現在も残っている。
完成のために多くの朝鮮人などが酷使された。もし、完成していたら彼らの運命はどうなっていただろうか?「虎頭要塞」のようにされたのだろうか?
こうして、戦いが終わった後、日本の人口は「ゼロ」になる。「東京裁判」なんて開ける訳がない。被告席に座るものが存在しないからである。裁判がなければ「批判する」必要性もなくなる。かくして「改憲論者」の悲願は達成されるのである。
残された「神」とその家族はどうなるか。それまで人間と同じ生活をしてきたのだが、衣食をどうするのか。自分たちだけで出来る筈がない。「高天原」にでも帰るのだろうか?
これは決して架空の話ではない。戦争があと1年続いていたらこうなった筈である(「神」の話は別であるが )。「保守系」氏や私など、46年以前に生まれていた人は今日、全員生きてはいない。それ以後に生まれた人は・・・・生まれている筈がない。
ところで、それより以前に戦争を終わらせることは出来なかっただろうか?出来たという主張もある。
44年6月、「マリアナ沖海戦」があった。この戦いで連合艦隊は壊滅的な敗北を受けた。戦闘能力を失ったのである。
兵器の差だけではない。技量の差も大きかった。戦闘機の操縦についても、空母からの発艦は出来ても着艦が出来ないというような低下した技量になっていた。
米軍機の撃墜3機に対し、撃墜された数は200機以上であった。「マリアナ沖の七面鳥狩り」と言われたほどの惨敗であった。
一方、中国戦線は泥沼状態であった。見通しはまったくなかった。
直後に、「近衛文麿」が「昭和天皇」に「降伏の上奏」をしたと言われている。但し、国民のことを思ってではない。内乱(革命)が起こって「天皇制」が崩壊することを怖れたということである。しかし、天皇はこれを拒絶した。
もし、この時降伏していたらその後の沖縄戦はなかったし、広島・長崎への原爆投下もなかった。太平洋戦争での死者のうち、大部分はこの海戦以後である。終戦の時は自分の力で終わらせたと言っていた「昭和天皇」である。としたら、この時なぜ命令しなかったのか?
よく言われる話である。
これでも、戦前・戦中の時代が良かったと言うのであろうか?
さらには、“歴史は当時の人々の熱い想いからしか解釈し得ない。単なる事実の羅列ではない”との主張で、「歴史解釈権」なるものを持ち出した「小堀桂一郎」教授、彼は上記の事実に対し、どんな“熱い想いから”の“解釈”をするのであろうか?
ということで清沢洌の「暗黒日記」(ちくま学芸文庫)から抜書きしてみます。
(*……)(中略)などは筆者の書き込みです。
○昭和18(1943)年9月23日(木)
昨夜、ラジオで東條首相が行政の刷新について演説をした。その具体策が今朝の新聞で発表された。それは、学生の徴兵猶予の撤廃、十七業種の就業に男子を禁止、官庁人員を整理、官庁と家屋店舗の整理等可なり思い切ったものだ。(中略)
官庁の整理はどうせできない。それで結局民間だけが、大きな犠牲を払う訳だ。(後略)
○昭和19(1944)年9月23日(木)
(*9月23日付け毎日新聞の切り抜き)
[女性と決戦]
近頃日婦会員が襷十字にあやどり、白鉢巻のいでたちも凛々しく甲高い声を張りあげて、「エイッ、ヤッ」と竹槍訓練をやっているのを随所に見受ける。米鬼英獣の皇土を侵すならば、その胸先深く貫きもって日本女性の意気を示さんとする意図であることは、説明を待たずして明かだ。(後略)
[戦力培養の道]
(前略)竹槍訓練をやるからには、女はみなこれを家庭に持っていなければ無意味になるのだがその配給準備は出来てゐるのだろうか。また敬礼や右向け、左向けを二、三日教へられて、それで決戦に役立つ女兵が出来るのだらうか。精神訓練だとしたら、精神を余り簡単に見すぎている。(後略)
(*清沢洌の記述)
高知から帰ったある人の話だというのを聞くに、高知で今、海岸に土壕みたいなものを掘り、それに労力を強制している。今までは日本が絶対的に勝つとのみ思っていたのが、壕を掘るので、「日本は危ないのかな」と考え出して、騒いでいるとのことである。
竹槍で訓練しているのは笑い事ではなく、どこもそうである。(後略)
ところで、きょうは、
平成18(2006)年9月23日(土)秋分の日
そこでの<私>はといえば、マンション管理組合の全体集会がありました。
役回りの同じ人のお身内に不幸があったりして、メンバーが全員そろわず緊張していました。
夜には子どもたちが久しぶりにやってくる予定です。
中日新聞の朝刊にはこんな見出しが小さくありました。
「モリコロと歌って踊り。中区でミュージカル」
「普天間移設計画で日米合意10月中に。防衛庁が目標」
へそ曲がりさんとキャツチホンさん共著で本土決戦に突入していた日本をテーマにして「日本戦没」を書いてくれませんか。
一章青酸カリと自決 二章戦車と竹やり 三章草薙の剣放浪 四章・・・・十章ソ連占領区崩壊
あいにく私にはそこまでの文学的才能はありません。興味を持った方にお任せしたいと思います。
ただ、あなたの提案の中の「一章 青酸カリと自決」という項目に大きな関心を持ちました。
というのは、「青酸カリ」という言葉がなぜ出てきたかということです。
じつは、私にはある記憶があります。そのことを体験談として、近いうちに“ 青白く光った「薬」”というタイトルで投稿しようと思っていたのです。
原稿は1カ月ほど前に出来上がって保存してあります。いつ投稿しようかと思っていましたが、明日にでも投稿します。
今日の私の投稿の中で“足手纏いになる赤子・幼児・老人などは「殺害」する計画もあった”とした中の「殺害」という言葉を、最初は自分の体験を思い出して「毒殺」と書こうと思ったのですが、資料としての証拠、とりわけ「公文書」をまだ見つけることが出来ないため、あのような表現をしたわけです。
もし、殺害方法が「青酸カリ」であったという証拠をお持ちでしたら、ぜひ教えてください。
私にとっての大きな「謎」になっています。それが解けるかも知れません。楽しみにしています。
「青酸カリ」の件は沖縄玉砕の悲惨な記録を読んでいましたし、満州などでも終戦前後に服毒自決の報告がされており、在り得た事だと思っています。
それに投稿された「青白く光った薬」の思い出を読ませてもらいその感を深くしました。
組織的に決戦の準備として計画され、一部配られ先走ったのか、恐怖による自発的な事件だったのかわかりませんが、いずれにしろ本土決戦が強行されれば「沖縄玉砕時」に起こった住民の強制自決が日本全土で始まっていたことは確実で想像するだけでも世界史上まれにみる惨事となっていたでしょう。そしてそうした記録の発掘、聞き取りが急がれますね。
それにこうしたリアルな想定から書かれた小説が是非とも書かれるべきでしょうね。話題作にでもなれば
世論形成に役立つのにと思います。
「公文書」は必ずある筈だと信じています。国が隠している書類がまだまだいっぱいあるからです。
出て来るまでは“そうは簡単に死んではやらないぞ”という気持ちです。
つい最近、こんなことがありました。少し前から、若い頃に「胃潰瘍」を患ったところに痛みが出るようになったのです。
20代の頃に急性肺炎にかかり、治療のために飲み過ぎた「抗生物質」のために、「胃」の上部に穴が開いてしまったのです。
手術するか薬で治療するかということになり、たまたま「薬」で治りました。
その後、痛みが出る度に「胃カメラ」で調べてきました。「爛れ」が発見されては「薬」で治療してきました。すべて同じ箇所です。
今回は少し様子が違うようです。15日に「胃カメラ」で調べたのですが、「潰瘍」の部分の色がこれまでとは異なっています。
「癌」の可能性もあるのではないかということで、目下、専門機関で「細胞」の検査中です。
今週の金曜日に結果が分かるとのことで、医者待ちの状態です。
医者からは“急ぐ必要性があったら、一週間以内に連絡します”とは言われたものの、既に一週間を過ぎています。
血液検査では“転移している可能性はゼロである”とも言われていますので、全くと言っていいほど心配していません。
もし手術になったとしても、「胃癌」は今日では“まず大丈夫”とのことですので、これも心配していません。
万一、「死神」がお迎えに来ても、『9条を守る』ことの大切さでも演説して、追い返してやるぐらいの気持ちでいます。
これからも投稿を続けたいと思っています。ご意見など、ぜひお聞かせ下さい。 有難う御座いました。