九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「古ぼけし正義感かな去年今年」     まもる

2006年12月31日 23時22分56秒 | Weblog
"悪党芭蕉"でヒットした嵐山光三郎さんが週刊朝日のコラムで「コゾコトシ」というテーマで薀蓄を傾けていた。
 彼によると「去年今年」という新年季語の名句には俳人の時間のイメージによって三派あるという。
 まず、「風」をイメージする人、「吹く風のゆるみ心やこぞことし」(峰秀) 次に「水」をイメージする人、「若水や流るるうちに去年ことし」(千代女) さいごは、「夢」を想う人、「去年今年繋ぐ一睡ありしのみ」(石塚友ニ)

ところが、こうした叙情・感傷を断ち切って「コゾコトシ」に新鮮なイメージを与え、この季語を一躍有名にしたのが「去年今年貫く棒の如きもの」の虚子である。曖昧模糊の「コゾコトシ」に大晦日の鐘撞きの、男女交合の具体的イメージを定着させた。
私はこの句に時代を貫き突き刺さる巨大な歴史の流れさえ感じるのですが。

 この新年季語「去年今年」を使って初句を作ることを薦めている。
 そして初心者のために、句作のノーハウを記している。

 「古ぼけし ナントカカントカ 去年今年」

 の ナントカカントカを考えてください誰にでもコゾコトシの句が詠めますと。
親切にもナントカカントカの例も載せてあって、
 「湯呑茶碗や」「虫歯二本や」「女房の顔や」などが列挙してあった。
私も挑戦してみました。

 「古ぼけし美しき国去年今年」
 「古ぼけし核脅迫を去年今年」
 「古ぼけぬ法弄び去年今年」
 「古ぼけぬ老いの一徹去年今年」

お屠蘇気分で皆さんもお作りになってはいかが?

「あっ未来ちゃんが 歌ってる。 皆さん良いお年を!!!」

  
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社会主義者になったハプスブルグ家最後の皇女 ‥‥ 千里眼

2006年12月30日 13時28分46秒 | Weblog
 画家フランツ・ヴィンターハルターノが描いた類まれな美貌のエリザベート王妃の有名な肖像画、「星のドレス」と呼ばれる舞踏会衣装に身を包み、体を横にし、顔のみ正面に向けているあの肖像画である。
 そのエリザベート王妃の孫娘にあたるエリザベート皇女が、この投稿のヒロインである。身長185センチの細身で、祖母ゆずりの美貌(写真を見ると、あの肖像画そっくりの)を持つ女性である。
 
 このハプスブルグ家最後の皇女が社会民主主義者と結婚して、社民党に入党し、その集会にもしばしば参加し、彼女の屋敷が社民党首脳の会議にも利用されていた。それどころか、ナチスドイツのオーストリア占領に抵抗する運動にもかかわったのだ。この歴史事実は日本では知られていない。私も知らなかったのだ。

 塚本哲也著「エリザベート 上・下」(文春文庫)を読むことを薦める。そのまま、オーストリア現代史の、さなかに投げ込まれたかのように読後感を抱くことになるだろう。
   
 祖父フランツ・ヨーゼフ皇帝のとき、オーストリア・ハンガリー帝国は、一気に衰退の道を進むことになった。19世紀後半から20世紀初頭に、ハプスブルグ家は死神に取り付かれたかのように、一族の変死事件が続く。1867年 ナポレオン三世によって担ぎ出された、ヨーゼフ皇帝の弟であるメキシコ皇帝マキシミリアンは革命派に捉えられ処刑された。1889年 皇太子である父ルドルフの心中死に続き、1898年には祖母エリザベート王妃がスイスで無政府主義者に刺し殺された。1914年には、ルドルフの後を受けて皇太子になっていたフェルディナントがサラエボで狙撃され死亡した。

 エリザベート皇女の父アドルフは自由主義の影響を受け、領内の民族主義に理解を示し、各民族の自治を認めた連邦政府を構想していた。1871年に統一を果たしたドイツの拡張主義・軍国主義的傾向に強い警戒感を持ち、親フランス的傾向を持っていた。親ドイツ路線をとる父である皇帝フランツ・ヨーゼフと鋭く対立し、皇帝から厳しく抑えられて、うつ病的状況におちいったなかでの心中死であったようだ。

 このとき5歳であったエリザベート皇女は、成長してから父の死にまつわる事情を知ってからは、父ルドルフに対する尊敬の念を強めたようだ。父親のこうした気質をそのまま受け継いで、社会問題や政治に対する関心が強く、王政批判の急先鋒の社民党の機関紙「労働者新聞」を密かに購読するようになっていた。

 オットー・ヴィンディシュ・グレーツ中尉(侯爵)の男性的魅力に惹かれ、18歳で結婚したが失敗であった。あまりにも知的レベルが違いすぎたのだ。それに、経済的に無知なエリザベートにつけこんで、彼女の財産を浪費したのだ。
 
 エリザベートはわずか5歳で父ルドルフの全財産を相続していたし、祖母エリザベートの遺産の5分の1をさらに相続したので、15歳でエリザベートは、途方もない財産を所有していたのだ。

 第一次世界大戦のさなか、1916年、祖父ヨーゼフ皇帝は病死し、エリザベートの従兄妹の子カールが即位した。ドイツ・オーストリア側の敗戦のなか、バルカン半島の諸民族、それにチェコとハンガリーが独立し、オーストリアは人口わずか650万人の小国に転落した。革命騒ぎのなかのドイツ皇帝の国外逃亡を受けて、カール皇帝は退位を宣言し、スイスへ亡命することになった。ハプスブルグ王朝はここに終わりを告げた。

 オットーとの離婚裁判と子供の親権問題も、第一次世界大戦後に政権を握った社民党政権の援助もあって無事解決した。この離婚問題をきっかけに、接触した社民党の活動家レオポルト・べネックと愛し合うようになり、結婚したのだ。貧しい農民の子として生まれたレオポルトは、早く両親を失い孤児院で育ったのだ。優秀な学業成績を見込まれ大学を卒業したあと、小学校の教師を務めたあと社民党の活動家になった。社民党右派穏健路線の指導者として保守派からも尊敬されていたようだ。かけ離れた家柄・育ちのこの二人の結婚がうまくいったのが、不思議である。

 ヒットラーはオーストリア併合を目指し、1938年にドイツ軍がオーストリアに侵入した。その前夜、オーストリア首相が武力抵抗を中止するよう訴えたこともあり、ドイツ軍は無抵抗のなか、ウィーンに入城した。その前に、ゲシュタポ(秘密警察)やヒトラー親衛隊が飛行機でウィーンに入りし、反ナチス勢力やユダヤ人の有力者を逮捕していた。ナチスの占領下、オーストリア併合法にオーストリア首相が署名し、オーストリアは消滅したのだ。オーストリア軍もドイツ軍の一部にとりこまれたのだ。  

 第一次世界大戦後、農業地域のハンガリーと工業地帯のチェコを失って、経済は衰退し、失業者のあふれていたオーストリアにとって、ナチスの指導のもとに驚異的な経済復興を果たしつつあるドイツに対して、オーストリア市民は漠然とした期待を抱いていた。そのため、オーストリア市民のなかでは、ドイツ軍の進攻を歓迎する気運が当初強かった。
 しかし、ドイツ併合に反対した政治家の逮捕、ユダヤ人の逮捕、強制収容所の建設など、ナチスの強圧的な政治に接し、ドイツにたいする期待は急速にしぼんでいくこととなった。

 エリザベートはドイツ軍進攻の日以降、喪服を着て過ごすようになった。ハプスブルグ王朝の滅亡よりも、オーストリア国家の消滅のほうが、彼女にとっては、耐えられなかったのだ。彼女は、何時ドイツに逮捕されてもおかしくない状況におかれていた。

 チェコ侵攻のドイツの動きがめだつようになったころ、エリザベートの屋敷には、密かに訪れる人々が増えていった。逮捕を免れてひそかに隠れていた社民党の残党である。彼女は英・仏・伊語のみならず、チェコ語やハンガリー語にも堪能で、各国のラジオ放送を聞いているので、オーストリア随一の国際情報の通であったのだ。その彼女から密かに情報を仕入れるために訪れていたのだ。ウィーン市民のチェコのプラハの運命に寄せる同情は深く、それだけに絶望感も大きかった。

 ナチスの横暴さに心の底から怒っていた彼女ではあったが、表だったレジスタンスはできなかった。しかし、ナチスに追われ苦しんでいる社民党の同志やレジスタンスの参加者に対して、裏面でその支援に力をつくしていた。
 亡命費用の援助だけでも莫大なものであつたそうだ。深い森を持つ館は、ナチスの追求から免れるための絶好の隠れ場所となっていた。ナチスに抵抗することもなく、ただ沈黙を守って崩壊した社民党に不満を抱いていた彼女は、レジスタンスの組織がいくつか生まれていることを知り、それに加わる決意を夫のヴネックに打ち明けたが、「あなたが加わると目立ちすぎるので、逆に組織に被害を与えることになる」と指摘され、あきらめ精神的援助と物質的援助に徹することにしたのだ。

 1945年のヤルタ会談の前年に、夫のヴネックもついに逮捕された。その状況のなか、ウィーンではオーストリア国民委員会が著名な学者・知識人で密かに組織され、ひそかに連合国軍と連絡を取り、そのもとで武装グループが放棄する準備が進められていた。こうした動きについても、彼女には連絡されていたのだ。

 ウィーン解放後の連合国による分割統治、その後の米ソ対立のなかでのオーストラリアの状況については、ここでは触れない。彼女の広大な館は、最初はソ連軍に、そのあとフランス軍に接収され、エリザベートは、最初は修道院の一室で、後には小さな家で仮住まいするのだ。オーストラリアが永世中立国として再出発する1956年に、彼女はあの館にやっと戻ることができた。そして、1963年、その館で静かな死を迎えたのだ。この広大な館と膨大な美術品をウィーン市へ譲渡する手続きを終えたあとに。
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退院間近になりました   へそ曲がり

2006年12月30日 13時28分25秒 | Weblog
 年末・年始を自宅で過ごすことが出来るよう、外泊許可が出て昨日帰宅しました。1月2日まで在宅し3日に病院に戻ります。この日の夜、異常がなければ4日に退院となり、後は週3回「抗がん剤」接種のための通院となる予定です。
 既に手術直後から「丸山ワクチン」を接種しているので、引き続き診察と接種という形になるかと思われます。
 まだまだ「ダンピング」の症状が続き食欲も出ないせいか、体重も10キロ近く落ちてしまいました。でも生きて還ることが出来ただけでも幸せかと思っています。
 前回の投稿で、新しい消化器官についてとんでもない間違いをしていました。わたしの場合は、「胃」を全摘出した後、食道と小腸とを直結したのです。胆嚢と脾臓も全摘出(生きることには差し支えないそうです)、膵臓は半分摘出(インシュリンが出ないため、今後薬品で対処するそうです)というほどあちこちに転移していたようで、もし、「腹膜」に転移していたらとても危険だったそうです。
 血液検査では「転移」の反応が出なくても、実際には手術するまではどこまで広がっているかはよく判らないそうです。
 診断結果が出された時、すぐその場で“この病院に命を預けます”と医師(院長に診断していただきました)に告げたことが、結果として幸いしたようです。わたしの周囲ではあと2つぐらいの病院で診察を受け、その結果を見て入院先を決めたほうがよいとの考えもありましたが、それをしていたらもっと進行がひどくなり、手遅れになったかも知れません。それほど速い進み方だったようです。
「民医連」の病院ですが、ここを信用して良かったと思っています。名古屋の南区にある「名南病院」というところです。
 入院直後に看護士さんから“あなたと同じ胃癌で手術を受けた人が現在4人入院していますが、みなさん成功して退院も間近です。だから何も心配しなくてもいいですよ”と言われ、とても勇気づけられました。それぐらい「胃癌」の手術には自信を持っているようでした。また、検査・分析・手術自体もひとりの医師が判断するのではなく、医師団でチームを作り、集団体制で行うとも聞かされていたため、余計に安心することも出来ました。ただただ病院に感謝するのみです。
 
 少し疲れまた。また続きを投稿したいと思います。よろしく。
 
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教育基本法の改善? について。     爺老

2006年12月29日 22時36分38秒 | Weblog
 政府は、今の生徒には日の丸対する礼節が足りない。このように愛国心が不足しているのは、今の教育基本法ではそれが欠けていると言うので改善しようとしているのです。
 
 今の教育基本法には「平和的な国家及び社会の形成者として・・」とありますし「人格の完成をめざし」と「人格者になる教育」を目標としているのです。
 「人格者」というのはどういう人を言うのでしょうか。安倍首相はじめ政府の方々はどう思っているのでしょうか。
 人格者は愛国心を持たないとでも言うのでしょうか。人格者とは叡智を持ち自主性、独自性、創造性、社会性を兼ね備えた人だと思います。愛国心は自然発生するもの、郷土がその人に良いところであれば自然に郷土愛が生まれるように、
政府の施政が私たちに温かければ愛国心も湧いてくるでしょう。
 しかし、今やグローバルな時代、人類愛が強調されてもいい時代です。

 また、総理は「空き缶などを処かまわず投げ棄てる」のは家庭教育が出来ていない、教育基本法に欠けている点だと言うのです。
 しかし、それは基本法の欠陥ではなく、ここ七・八十年間の文部省の施策の誤りから来ているのです。
 私の経験から言うと、六十年ほど前、第一次ベビーブームの頃から家庭教育は崩れていったのです。
 今の家庭の構成を考えると、六十歳前後の祖父母があのベビーブームの子供達でした。生徒数が急増し、競争主義が蔓延し、級友は敵になり蹴落としあいが始まったのでした。
 それに偏差値が横行し、上位の生徒がテストに欠席すると喜ぶ者が出てきたほどです。偏差値は、集団の中でそれがどんな優秀な集団であっても、その中で1から2パーセントの生徒は評価「1」最低をつけられるのです。
 学歴偏重、受験優先、学習塾がよい、もぐり転入で家族ごと有名校区へ、有名大学への競争に明け暮れしたのでした。
 そしてその後はもっとひどくなり、学校では、掃除なんかやっているより、早く塾へ行って勉強しなければと、勝手に帰ってしまう生徒が現れました。保護者もそういう意向でした。「掃除は業者にやらせれば良い。」「わが子さえ良ければいい」という風潮が蔓延したのです。
 一方、消費拡大で企業は大もうけ、あおられた民衆は贅沢指向、物を粗末にし、新しい物を買えばいいと、物を棄てることが身についたのです。
 躾をする立場のほとんどの祖父・祖母・父母からそうなのですから家庭教育は期待できません。
 これは、教育基本法の欠陥ではなく、政府や文部省の施策の失敗です。

 では何故そうなったのか・ 
 教育委員会を公選制度から任命制にし、同じ穴のむじな(同族)ばかり集めたので、誤りを正せなかったのです。

 今、家庭教育再生を考えるには、百年の計ならずも、数十年はかかるものだと思います。今の家庭教育に期待するのは無理です。

 ではどうすれば良いか。
 第三者に、即ち、全寮制の学校などで子供達を教育する。例えば、英国のバブリック・スクール、中でも、イーストン。スクール(人格者の学長が経営する、叡智にあふれたジェントルマン教育の学校、あのウイントン・チャーチルの出身校)のような学校で子供達を教育しなくてはならないようです。

 教育基本法にあるように、「教育は不当な支配に服することなく」自主独立の立場で行われるべきものです。
 いたずらに、時の政府の思いつきで左右されるような事は絶対あってはならないのです。
 政府のやれることは教育のやり易いように施設設備を整えることまでを本務とすべきです。

 教育委員は公選制にもどし、学長・校長も公選し野に埋もれている人格者を起用すべきです。
 教育基本法はそのまま遵守すべきものです。

 教育基本法を原点に戻す運動を粘り強く続けましょう。
 
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刑法から殺人罪をなくす陰謀

2006年12月28日 09時14分06秒 | Weblog

残業ただ働き法をつくろうとしていますが、
労働基準監督署の現役監督官は、
「これは刑法から殺人罪をなくすのと同じ」と
言っているとか。
            (赤旗より)

うまいこといわはる!   落石


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面白い新聞記事を見つけました。 ‥‥ 千里眼

2006年12月27日 13時02分43秒 | Weblog
 それは、12月25日の朝日新聞の「風考計」の記事です。「戦争絶滅受合(うけあい)法案」について書かれていた。この法案が主要国で成立したら、確かに戦争はなくなるであろう。
 奇想天外な法案です。戦前の1929年に、こんなことを考えた人がいたとは。それは長谷川如是閑が雑誌「我等」に載せた法案なのだ。
 
 要約すると「戦争の開始から10時間以内に、国家の元首(君主か大統領かを問わない)、その親族や閣僚、賛成した国会議員らを『最下級の兵卒として出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実践に従わしむべし』というものだ」(記事の引用)。
 朝日新聞のこの記事には、引用されていないが、次の文章が法案の最後にある。「これに加えて、上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として招集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし」と。

 開戦を主張した者、決断した者は、一兵卒として最前線で命を懸けて戦うことになるので、戦争を主張する者はいなくなるであろう。そうだ、ブッシュ、ラムズフェルト、チェイニーらが、最前線で自動小銃を持って戦う姿をイメージできて、ひととき愉快になったのだ。ブッシュの奥さんや娘さんも野戦病院に勤務することになるのだ。

 よくも、こんな記事を1929年の雑誌に、載せることがてきたものだ。実は、長谷川如是閑が考えたことなのに、デンマークの陸軍大将の発案ということにし、「君主」と「元首」の文字を伏字にして、検閲を通過したそうだ。

 この記事の筆者は、続けて次のように書いている。「こんなふるい話を持ち出したのも、いま『言論の自由』のありがたみをつくづく思うからにほかならない」。「しかし、では日本の言論はいま本当に自由なのか。そこに怪しい現実が横たわる」とし、加藤紘一宅放火事件に触れたあと、「気に入らない言論に、一方的な非難や罵詈雑言を浴びせる風潮もある。それにいたたまれず、ついに発言を控える人々も少なくない。この国にも言論の『不自由』は漂っている」。この筆者の意見に私も同意する。そうした風潮に反発して、「保守系論客の歴史欺瞞・偽造を切る」の連続投稿を、私は続けているのである。

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北朝鮮に技あり?  落石

2006年12月25日 11時14分42秒 | Weblog

今回の6国協議は、北朝鮮に技ありでしたね。
核を持って、米に一段、近づき、韓・日を見下ろして。
余裕の顔で帰っていったように見えました。

中国も米と北朝鮮との対話に道筋をつけて裏技あり。

米はブッシュさんが死にたいなので様子見。
一応、対話の継続を受け入れる。

ロシアは?

韓国は裏での努力が一応、形を残したので不満ながらも・・・

日本は?

各国の外交能力がよく見えた会議でした。

 みなさんの感想を聞かせて下さい。


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憲法危機の今、二つの言いたいこと 文科系

2006年12月24日 00時22分55秒 | Weblog
一つはこういうことです。憲法が変わっても、戦前に戻る訳じゃないということ。だから、冷静に冷静に、最も大事なことだけを考えようとね。
アメリカでさえイラク、アフガンであーいう目に遭いました。民主主義、民族自決の精神がもの凄く強くなったということでしょう。だから、日本単独で簡単に外国進軍ができるものですかとね。すると、アメリカと一緒に攻める「集団的な自衛権」が大問題となるのでしょうが、これもイラクのできごとの後では、もう容易に発動できるものではないでしょう。余程の大義名分が必要でしょうが、そんな大義名分を与えてくれる国はもう滅多に現れないと思います。イランはもちろん、北朝鮮の現状でさえ外国にはそんな大義名分を与えてはいないと、僕は考えますけど。拉致問題はちょっと別ですけど。日本の今後を世界の中で見ようということです。日本が下手なことをしたら、はるかに速やかにブッシュ政権みたいになりますよ。女性も加わった普通選挙制度があるって、戦前とは全く違いますから。

2番目に言いたいことは、どんな危機的状況でも結局は抵抗の側、民主主義の側の主体的力量が全ての鍵だということでしょう?そして、これに成功している陣営、政党は一つもないと虚心坦懐に認めなければならないということです。そして、これに成功していない政党が語る「歴史の客観的法則」なるものはニセモノと言われても返す言葉がないはずです。主体的力量でせめて2割ぐらいの力の目途を立てて見せなかったら、客観的法則などと言うのは尊大と言っても良いと思いますが。
ましてや、戦後60年の今、終戦直後の財産を使い尽くし、社会党解党の好機も生かせずに、70年代の議席数に戻ってしまったような政党が「客観的法則」を堂々と語って、それをそのまま信ずる人がいるということが僕には理解できません。とにかく、自らも鍵と言う主体的力量に失敗し続けてきたのに、そういう政党の語る客観的法則が正しいって一体どういうことなのでしょうか。主体的力量の実践的証明抜きで正しいって、哲学的には客観主義という以外にはないでしょう?

この問題では、指導部の余程の方針転換が試行錯誤でも良いから必要だと言いたいのです。
また、「危機、危機」と叫んで主体的力量が付くものならば、もうとっくにそれができているはずです。それ以外の方法でないと駄目ということでしょう?

小さい力でもそれを生かして合従連衡の中で現実的に成果を作ってみせることこそ、肝腎なのではないでしょうか。それがなければいつまで経っても「言葉だけの政党」、「青二才の書生政党」というしかないはずです。
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可哀想な天皇ご一家。        世間知らず

2006年12月23日 00時43分24秒 | Weblog
 生前、天皇陛下と同年の父がよく私に憤慨して言っておりました。私も父の意見に大賛成です。

「天皇には確かに一定の特権が与えられているが、それは職業選択の自由も居住地選択の自由も結婚の自由もなく、四六時中他人の監視下に置かれる、という不自極まりない束縛を課された上でのことだ。しかも最悪なのは、それらの束縛が当人には選びようもない「生まれ」によって運命付けられ、死ぬまで(ある意味では死んでも)解放されることがない、ということだ。
このような人権侵害を生み出す天皇制は廃止されるべきだ。」

 皆さんはどうお考えでしょうか?
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いよいよ本丸に迫っています。九条の松明は? まもる

2006年12月22日 20時49分01秒 | Weblog
安倍晋三首相は19日夕、内閣発足後初の臨時国会の閉会を受けて、首相官邸で記者会見した。憲法改正については「歴史的な大作業だが、(首相)在任中に憲法改正を成し遂げたい。まず改正手続き法の国民投票法案を来年の通常国会で成立させたい」と述べ、最長で2期6年の自民党総裁任期中の改正実現に向け、国民投票法案の次期通常国会成立を目指す考えを示した。

 また、首相は集団的自衛権行使を認めていない現在の憲法解釈の変更に関して「政府において、私が責任を持って最終的な判断をしなければならない。政府内で研究を進めていかねばならない」と語り、政府内で研究したうえで自ら判断する意向を表明した。

 内閣支持率低下の主因となった郵政民営化造反組の自民党復党については「復党を認める決断を私の責任で行った。改革を進めていく姿勢にも、国づくりの中身にも、全くの揺らぎはない」と述べ、「指導力不足」や「改革後退」のイメージ打ち消しを図った。【西田進一郎】毎日新聞より

 ※ さあ 全国に広がった護憲・九条の会のうねりを何処に結集させるのか。

 護憲の陣営が小異を捨てて大道に結集できるか。 そこに全ての成否がかかっている。護憲陣営で共食いなんかしたら最低・最悪だ。

 残された時間は少ない。 「共同候補」を立てることが出来るのか???

 
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映画「長い散歩」に想う  ‥‥ 千里眼

2006年12月22日 19時39分17秒 | Weblog
 いい映画を観たという想いにひたれる映画だ。モントリオール世界映画祭で、グランプリをはじめ、国際批評家連盟賞、エキュメニック賞と、三つの賞に輝いただけのことはある。

 妻をアルコール依存症で亡くし、娘にも憎まれている仕事人間で頑固な元校長の安田松太郎は、移り住んだ小さなアパートでダンボール製の天使の翼を背負った隣室の少女サチと出会う。水商売に勤め、すさんだ生活を送る母親から、サチは激しい虐待を受けている。見かねた安田はサチを連れ出し、妻への贖罪を込めて、娘の小さい頃の家族の思い出の地、北アルプスの見える山を目指す。

 ゴミの散乱する一間きりのアパートの部屋、その中のベッド下の小さい空間がサチの居場所である。他人には心を開かず、虐待を受けたり、人に体を触れられそうになると、動物のような奇声をあげて逃げ出し、アパートから離れた林のなかの「うろ」のある大木の下の隠れ場所にこもる。熱いコーヒーをかけられたり、たばこの火を押し付けられたりする虐待の経験から、熱いものを拒否し、「熱い」を「痛い」と表現するサチ。

 この映画の宣伝などで見ると、サチが常に天使の翼を背に付けているのが、不思議であった。が、映画を観て、はじめて理解できた。保育園での遊戯会で「白いパンツ」の童謡に合わせて、天使の翼を付けて舞台のうえで踊ったのが、サチにとっては唯一の楽しい思い出だったのだ。

 心に深い傷を負った老人と幼女の二人旅、その二人の人間回復の旅。幼児虐待を中心に、いじめの問題、若者の自殺の問題、こうした深刻な社会問題を取り上げながらも、美しい映像でファンタジィスティックに描いていく、奥田瑛二の感性には驚く。それには、サチのこの天使の翼は欠かせないのだ。彼の優れた絵本作家としての才能と感性が、この映画の大きな武器になっているようだ。このサチの天使の翼に不自然さを感じさせないのだ。

 映画館で映画を観るという習慣を失ってから、何十年にもなろうか。若い頃は1週1度以上のペースで映画館に足を運んでいたのに。八重垣劇場やミリオン座・ロマン座などに通って、戦前の古い欧米の名画もほとんど全部、鑑賞したものだった。ところが、今は数年に1度ぐらいしか映画館に足を運ばない私が、どうしてもこの作品だけは映画館で見たかった。

 私は、奥田瑛二のファンである。愛知県春日井市の出身だからというわけではない。高校野球に強い東邦高校の出身だからというわけでもない。彼の次の言葉に私はしびれたのだ。映画「本覚坊遺文 千利休」の主役千利休を演じ、俳優として油が乗ってきた時期、あるインタビューに答えて、「テレビ、新聞などのCMにはあまり出たくない。安易に金を稼げるので、人間としての生き様、俳優としての演技の質に何か悪い影響が出ないかと恐れている」。私の知るかぎりでは、彼はCMに2つしか出ていない。CM出演を押さえに抑えていることを窺がわせる。

 「映画監督を天職と考えるなら、それに恥じない監督にならないといけない。社会に眼を向けた視点の映画。しかし教育映画はとりたくない。人の琴線にふれるもの。メッセージがあって、かつエンターテイメントであること。それが大切だと想うのです」(この映画のパンフのなかの監督インタビュー)

 「教育は、教育委員会主導型でどんどん本来の姿が崩れている。その象徴が校長。出世ばかりを追って家庭を顧みず、崩壊させたという“十字架”を(安田に)背負わせた」(中日新聞へのインタビュー)

 彼の発言には、共感する内容が必ず潜んでいる。奥田瑛二の根底には人間に対する深い愛情が流れているのだ。
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今年の四文字熟語募集   

2006年12月20日 09時41分20秒 | Weblog
今年のコトバは「命」でした。
このブログでも今年のコトバを考えてみませんか?

一文字はすでにあるので、四文字熟語はいかがでしょうか?

管理人さん、どうでしょうか?

                落石

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「美しい日本」はなぜ売れる?  落石

2006年12月20日 09時29分21秒 | Weblog

先日、らくだ書店に行きました。
平積みのところには新刊がずらり。
一番売れていそうだったのが「美しい日本」

うーん!
なぜでしょうか?

映画やドラマの純愛路線は、一定の周期があるようです。
政治も長い周期ですが、愛国主義がやってくるのでしょうか?

「うざい」というコトバ。
これと「美しい日本」。
どこでリンクしてしまったのか?
護憲、改憲が、どことなく世代間に分かれ目が
ありそうなことと考え合わせると・・・

うーん!!この単純な頭では分析不能という答え。
どなたか教えて下さい。
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ランニング、山登りなど中高年スポーツに「でっかい武器」の勧め 文科系

2006年12月19日 02時56分13秒 | スポーツ
ディスプレーユニットには、その都度の心拍数、サイクル中のスピードなどが表示されます。胸ベルト、ユニットも含めて、全くランニングの邪魔にもなりません。そして、こんな効用があるのです。
①何よりも、心拍の異常が分かるので、スポーツ中の心臓発作などの事故を防げます。
②最も合理的な、自分にとって安全かつ効果の高い練習法が採り入れられます。
③その日、その時の心臓の調子が克明に分かり、悪い日など無理をしませんから、ランニング中に膝、足首、フクラハギなどを痛めません。僕のジムでも、痛めて消えていった人は大変多いものです。昔走れた人ほど、無理をするのですね。
④自分の老いていく様子が手に取るように分かり、それを踏まえた目標、練習ができます。人の平均最高心拍数は「220ー年齢」と言われていますが、それほどに心臓は「年齢、体力を表現する」ものだからです。 ただし、上記①~③によって心臓、身体の老いに最も頑強かつ合理的に抵抗できる武器にもなります。
⑤以上、ハートレートモニターを最大限使ったスポーツトレーニングの全てが、現代病である心臓発作、脳溢血、コレステロール調節、糖尿病対策、体内脂肪対策などなどに最大限の効用があるというのも、自明でしょう。

こういう「抵抗の結果」の僕の数字ですが、最高心拍数は170ほど、体重は体質もあるのでしょうが昔から変わらず30歳過ぎに作った礼服を今でもそのまま着ています。心肺が強いとお酒にもあまり弱くなりませんね。なお、セックスにも強くなりますし、何故か前立腺肥大に良いようです。これらは体験上断言できることです。なお、僕のランニング時速をx軸に、心拍数をy軸に取った現在の分布図はだいたい以下の数式の直線になります。Y=7.2X+78 。時速10キロの心拍が150ということで、時速が1キロ時増減すれば心拍は大体7ずつ増減するということになります。こういうことが分かっているから、体調、老いの進行も分かるということなのです。

以上、科学的な有酸素運動は大事だと、そう主張したいわけでした。
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保守系論客の歴史欺瞞・偽造を切る その16 ‥‥ 千里眼

2006年12月18日 14時02分25秒 | Weblog
 前回投稿の「その15」で、秦郁彦氏が保守系の論者と誤解されているが、そうではなく実証主義の立場に立つ歴史学者であると論じた。前回投稿の直後に、彼がそのように誤解される原因をもう一つ発見したのだ。関連して1枚の写真にまつわる経過について書くと同時に、前々から投稿したいと思っていた保守系論者の言う「ニセ写真」問題について、関連して触れたいと思いっている。

 南京事件調査研究会編「南京虐殺否定論 13のウソ」(柏書房)に、その経過は詳しく触れられている。1957年に刊行された笠原十九司の著作「南京事件」(岩波新書)のなかで使用されている写真の1枚について、秦郁彦氏が次のように指摘した。国民政府軍事委員会政治部作成の「日寇暴行実録」に収録されている写真と同一のものではないか、と。その写真は日本軍が中国女性を護送しているのを写したものである。が、「日寇暴行実録」では、そのキャプション(写真の説明、添え書き)で、日本軍が中国女性を日本軍司令部に連行して、凌辱、輪姦、銃殺と書いている。その写真は朝日新聞のカメラマンが撮影したものを、国民党側がそのような形でプロパガンダに利用したのである。

 笠原氏はそのことを知らずに、キャプションに「日本兵に拉致される中国人女性たち」と付して利用したのだ。秦氏は実証主義者の悪癖(?)とでも言おうか、徹底的に史料にあたるので、その事実を見つけたのである。そして、実証主義者の「さが」とでも言おうか、その事実を指摘したのだ。

 保守系論者は大喜びして、正統派学者の笠原攻撃にそれを利用した。口火を切ったのは小林よしのり氏であった。それに続いて、産経新聞、読売新聞、雑誌「正論」、雑誌「諸君」、など数え切れない集中砲火を浴びせられるのである。1枚の写真の誤用をネタに、その著作全体が虚構にみちているかのような印象を与え、出版停止に追い込もうとしたのである。岩波書店は右翼の陰湿な攻撃にさらされることになった。
   
 岩波書店は毅然たる態度を取り、機関誌「図書」で真相を明らかにし謝罪はしたが、この図書の回収はせず、出荷を一時停止し、写真を1枚取り替えた形でその後の刊行を続けた。
 こうした攻撃は、刊行時期よりおくれた1990年代の出来事である。この時期には、完全に否定された南京虐殺否定論の復活のための保守の策謀がいろいろ試みられた時期である。その先端を切ったのが、田中正明氏であった。1983年に旧陸軍将校の団体である偕行社に働きかけにより、機関誌月間「偕行」に「証言による“南京戦史”」連載することになった。ところが、田中氏の意に反し、上官の命令で数千人の捕虜を殺害したなど虐殺・暴行を証言する内容が多数寄せられ、偕行社はそれらの証言もそのまま機関誌に連載した。そして、連載の最後に、編集部の責任で「旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と謝罪の言葉で閉じたのである。

 田中正明氏の思惑は完全に裏目に出たのだ。偕行社の仕事なら虐殺肯定の証言は出さないと思っていたのだろう。ついで、失敗回復のための仕事が1985年「松井岩根大将の陣中日誌」における史料の改ざんである。偕行社の失敗による「あせり」のあげくの悪行だったのだ。その史料かいざんの事実が暴露されても、どうしても、南京虐殺事件否定の火蓋を切るべく、1987年に「南京事件の総括」を出し、全面否定論を展開したのだ。

 こうした保守系論者の論陣の流れのなかに、上記の写真問題を位置づけて見る必要がある。彼等は失地回復のため、完全否定された南京虐殺事件虚構論の復活のためには、どうしても、上記「写真問題」を利用する必要があったのだ。それだけに、陰湿で執拗な攻撃が繰り返されることとなったのだ。こうして、「南京虐殺事件は存在しないのだ」という議論が復活・再登場することとなった。その先兵となったのが、田中正明氏であったのだ。

 ここで、思い出して欲しい。森村誠一氏「悪魔の飽食」と中国帰還者連絡会議編「三光」の誤用写真に対する右翼の攻撃である。両方の図書を、ともに出版社は廃版にしてしまった。写真1枚の誤用が、その著作の価値を減ずるものではない。現在は両著とも別の出版社から写真を差し替えて出版されている。(森村誠一氏はその取材の多くを友人でもある「赤旗」特報部長の下里正樹氏に依拠していた。731のある隊員の提供した写真が贋物であったのだ。私は右翼の謀略に乗せられたのだと思っている)
 
 こうした保守系、右翼の成功の自信と経験が、すさまじい笠原氏への攻撃となったのだ。そして、これらの経験から写真誤用に対する攻撃がきわめて有効であることに気づき、味を占めた保守系論者たちは、「自由主義史観研究会」のなかに「プロパガンダ写真研究会」を組織して、鵜の目、鷹の目で、正統派論客の著作の写真チェックを克明に実施している。それだけではない。全国の地方自治体の設立した平和記念館、個人の企画した平和展などのチェックも怠らない。

 現在、雑誌「正論」では毎号のように、NHKの番組内容に対する攻撃、朝日新聞に対する攻撃が掲載される。上記写真チェックとあわせて、彼等のメディアに対する攻撃は今後ますます強化されていくに違いない。インターネット上の保守系・右翼の活動ぶりも目にあまる。われわれもその対応を迫られている。

 ここに書いた内容は、すべて秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上・下」、南京事件調査研究会編「南京虐殺否定論 13のウソ」と「ウィキペディア」に依った。ただし、田中正明氏の思惑については、私の推定を混じえている。
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