九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

精撰尋常小学修身書の抜粋を(保守系)

2006年09月01日 18時22分06秒 | Weblog
基本(第一期・尋常小学校二学年)
もくろく:おやこ・おかあさん・おとうさん・じぶんのこと・きょうし・としより・きょうだい・たべもの・せいけつ・きまりよくせよ・やくそく・ひとのあやまち・わるいすすめ・ともだち・ひろいもの・いきもの・ひのまるのはた・きそく・てんのうへいか・ゆうき(1と2)・ひとにめいわくをかけるな・よいこども1.1.素直な心を持つ(正直・誠実・良心)
「しょうじき」では、明治43年ー)にワシントンのりんごの話・昭和9年からは、飛脚が馬方の鞍に忘れたお金を、わざわざ飛脚を追いかけて返却する話・松平信綱の少年時代に将軍の大事な屏風を破った時、正直に私が破りましたと言った話・良心では、仙台の林子平が開国を説いて、幕府によって兄の家に幽閉され、ずっと一人でいる子平に友人達が、「誰も見ていないから、外にでたら」といことに対して、そんなかげひなたのある行為はできないと断る話、信義では加藤清正と秀吉の関係の話(昭和9年ー)誠実でも加藤清正の話
2.自分を慎。謙遜では、吉田松陰と久坂玄瑞との会話・乗り合い船での若い男が、経書の講釈を得意になってやり始め、下船する時に、その若い男がちょっと気なる客がいたので、名前を言って別れようといいます。気になっていた客が福岡の「貝原久兵衛と申す」あの益軒かと恥ずかしくなって逃げて行く話し。次は勤皇の志士を応援した野村望東尼の話(昭和16年ー)です。ついで乃木将軍のひよわで、おくびょうな少年時代の父と母との話、3.倹約では徳川光圀が紙をそまつにする女中達を冬の寒い日にかみすき女の水の中で働く様をみせる話、寛大では、益軒が大事にしていた牡丹を書生同士で相撲をとって、その牡丹を折ってしまいます。懸命になおそうとするがなおらない、隣の主人に頼んで侘びをいれてもらいます。でも益軒は、牡丹は楽しむために植えておいたもの牡丹のことでおころうとは思いません」と。度量(昭和9年ー)では、西郷隆盛の屋敷へ橋本佐内が尋ねてきて、国事のことで教えをこいたいといいますが、左内が20歳そこそこえで。色の白い、女のようやさしい人物なのでさほどのものではないなと、みくびってしまいます。左内もそれを察します。隆盛から左内に貴方から話したらどうかというと、左内の話がしっかりしていて国を思う真心があふれているのに感心してしまいます。
左内が帰ったあと、自分は過ちであったと反省して、翌朝左内を訪ね、詫びをいれに行き、その後親しく交わり、国のために尽くしましたという話。次は恩の話(昭和9年ー)例の渋谷の像のある忠犬はちの話。謝恩では、豊臣秀吉の妻高台院が、幼少の頃世話になり秀吉との婚儀も世話になった伊藤右近という人に、右近が落ちぶれてしまったことを知って、大阪城へ呼んで感謝するという話。
今回はこれ位で・・・。続族・・
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佐野真一著 「阿片王」を読んで その3     千里眼

2006年09月01日 03時29分45秒 | Weblog
 里見甫は上海の東亜同文書院を大正5年に卒業し、大正10年に天津の京津日日新聞の記者となる。さらに同じ系列の北京新聞に移り、15年間の記者生活を送る。この間、中国人要人の間にまで人脈をつくる。外務省の機関紙に中国情勢の記事を連載するほどの中国通である。
 20台の若さで張作林や蒋介石との単独会見インタビューをこなす度胸と、仕立てのよい中国服を常用し、流暢な中国語を話し、相手からは日本人と見破られない里見甫に陸軍が目をつけないはずがない。
 済南事件(蒋介石軍と日本軍の衝突)のとき、互いに外交のパイプのないなか、駐在武官の建川美次少将と参謀本部支那研究員の田中隆吉大尉が里見に調停斡旋を依頼してくる。里見は単独で交渉し、協定調印に持ち込む。(著者は触れていないが、その裏には日本政府・陸軍首脳の大きな政策転換があったのだが‥‥支持してきた袁世凱政権を見捨てるという)
その後、新聞社を離れ満鉄南京事務所の嘱託になるが、満州事変が始まると、関東軍第四課嘱託に任ぜられ、二重の身分を持って奉天に行く。四課嘱託としての仕事は新聞・通信機関を統合し一本化することであった。東京で陸軍省軍務局長鈴木貞一に会って根回しをし、電通本社(現電通の前身)に乗り込んで説得し、満州におけるすべてのマスメディアを統一して満州国通信社(略称国通)を立ち上げるのに成功し、社長に就任する。この間、関東軍司令官本庄繁を始めとする関東軍高級将校の知遇を得る。さらに、岸信介、難波経一(満州国禁煙局総局長)、古畑忠之(満州国総務庁次長)などのエリート官僚との間でも親交関係を作っていく。
 その後、関東軍の意向を受け、「国通」を去り、反日的な華北最大の中国系新聞「庸報」を乗っ取り、昭和11年その社長におさまる。
 参謀本部第八課課長として謀略を担当していた影佐禎昭大佐、つまり日本陸軍からの直接の依頼を受けて昭和13年に「宏済善堂」を上海に設立し、阿片取引の頂点に立つこととなった。
 それまでは、各特務機関がそれぞれの所属する軍部の意向を受けて、または自らの活動資金入手のためにばらばらに阿片取引を行っていた。例えば阪田機関が有名である。
 張学良の財政基盤(阿片取引による収益)であった熱河地方へ関東軍は侵攻し、中国有数の阿片生産地域であるその地域を占拠した。その阿片を天津へ運び密売するという作業を担当したのが阪田誠盛であった。あわせてニセ札による経済かく乱工作を担当したのも有名な話である。ところがふところに巨額の金を入れたので、関東軍から「軍部にとりつく寄生虫」ときらわれ、アヘンから引き離されることになる。
 ときを同じくして、天皇から陸軍が阿片に関わっているのでないかという指摘を受け、陸軍首脳は軍全体から阿片を切り離し、各特務機関がかってに取り扱うことも禁じ軍とは無関係の形をとって、その収益を吸い取るというシステムをとることにした。
 そこで選ばれたのが里見甫である。私服を肥やすおそれのないことは、それまでに証明されているし、何よりも中国の表・裏の要人に深いコネを持ち、しかも陸軍各方面から絶大な信頼を受けている。これほどの適任者は他に見つかるはずがなかった。
 熱河地方、蒙彊地方、海南島と日本軍の侵攻の広がりとともに、里見のもとに運び込まれる阿片の量は増えていく。さらに陸軍省の依頼で、三井物産がペルシャで35トンにものぼる大量の阿片を入手し、これもすべて里見のもとに運ばれる。このペルシャ阿片の収益だけで2000万ドル現在の貨幣価値にして30兆円にものぼったといわれる。
 では、里見はこの大量の阿片をどのようにさばいていたのか。一部例外を除くと里見は日本人には絶対に渡さなかったらしい。上海に豪宅をかまえて住んでいた前記の阪田がしばしば訪れ里見に阿片を渡せと懇願したようだが、拒否され最後には脅迫までしている。
 一部例外として、公の機関からの要請には答えている。例えば、南京占領後に作られた南京維新政府は公営の阿片窟を作っていたが、そこへは要請通りの量の阿片を渡している。満州国禁煙局(中毒患者の暫減を名目に阿片窟を経営)や興亜院(後の大東亜省、占領支配地の行政を担当)へも同様である。大部分の阿片は、中国の裏の世界で絶大な力を持っている青幇・赤幇に渡し、販売をまかせていたのだ。ペルシャ阿片の収益はすべて支那派遣日本軍参謀部へ引き渡されている。その他の収益はすべて上記東亜院に渡され、その後の分配について里見は知らされていない。つまり里見は興亜院(つまり日本政府)と陸軍の指揮下におかれていたのである。
 里見甫はたしかに善悪を超えて凄い男である。しかし、彼は阿片に対する罪悪感はまったく持っていなかったし、彼自身阿片の常習者であった。著者はその人物像を、女性関係を含めて多面的に描き出しているが、もっと阿片との関わりを掘り下げて欲しかったというのが私の思いである。佐野甫は他の文献の内容を借用することをほとんどせずに、ルポルタージュに徹している。それだけに、ない物ねだりであることは重々承知しているのだが。それにしても大変なルポルタージュである。



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長兄は非国民!!  へそ曲がり

2006年09月01日 01時38分29秒 | Weblog
 兄が4人、姉が1人(実際には2人、うち1人は2号さんの子、でも姉は姉ですね)いました。

 長兄とは13才離れていましたから、私から見て、単なる兄とは違っていました。「厳格」という印象です。どんな対話をしたか、「原爆」の話以外は殆ど覚えていません。

 戦時中、周りの家々では「予科練」に応募する若者たちがいました。私の家からは誰も応募しません。
 父は嘆きました。“この家には予科練の候補者が3人もいる。近所ではどんどん応募していくのに、この家はどうなっているんだ!”。3人を前にしてお説教しますが、誰も応じません。
 戦後、母から聞いた話では、長兄が2人を諌めたとのことでした。“いまに行かなくてよかったという時代が必ずやって来るはずだ。軽々しく応じてはいけない。”と言っていたそうです。

 こんなことが外へ洩れたら大変です。たちまち『非国民!』・『国賊!』・『主義者!』というレッテルが貼られます。したがって、このことは戦後まで父には内緒になっていたそうです。
 知っていた母も確信犯だったわけですから、我が家には4人の『非国民!』がいたということになります。
 名古屋大空襲の時、この兄の誘導で危うく命拾いをしたわけですから、私にとっては大恩人です。

 この兄も戦後まもなく「結核」にかかり、長い闘病生活の末、27才の若さでこの世を去りました。
 薬がなかったわけではありません。「森 光子さん」がTVの「半生」の中で述べられていたのですが、特効薬の「ストレプトマイシン」は1回か2回分が当時の価格で1万円もしたそうです。現在の価格ではいくらになるでしょうか。そんな高価なものが買えるはずがありません。
 母は兄に取り縋って号泣しました。“何もしてやれなくってごめんね!”。

 母にとって、いちばん頼りにしたい息子が先に逝ってしまったのです。“戦争さえなかったら”、母の口ぐせになりました。
 後年、母からこの話を聞くたびに言われました。“いちばん生きていて欲しかった者が先に逝って、どうでもいい者ばっかりが後に残っている。”と。もちろん、顔は笑っていましたが・・・。
 「ストレプトマイシン」・「イソニコチン酸ヒドラジド」という薬の名前をいまでも覚えています。

 この兄は大きな宝物を残してくれました。当時、私は勉強が大嫌いでした。夏休みなど、朝ごはんを食べたらすぐに近くの林で「ターザンごっこ」です。
 兄にとって、私がどこにいるかは容易に想像出来ます。隠れても無駄です。たちまちのうちに逮捕され、後手に縛られて帰宅です。トイレ以外は柱に縛られたままです。トイレに行く時、逃げようとしても腰を紐で繋がれ、端を彼が持っています。どうにもなりません。
 昼食(食糧難の頃の朝・昼食がどんなものであったかは想像して下さい)が終わった後は大嫌いな勉強です。兄は横に座って監視していますから、これまた逃げることが出来ません。
 読めない漢字・書けない漢字がいっぱいです。“どう読むの?”とか“どう書くの?”と尋ねても、無言のままです。
 その代わりに、自分が使っていた帝国書院発行の分厚い「漢和辞典」を持ってきます。この時初めて調べ方だけを教えてくれるのです。後は無言を通し続けます。 その日の課題が終わる頃、あたりは薄暗くなっています。こんなことが連日のように続きました。

 おかげで、中学の頃、漢字テストでは殆どが100点を取ることが出来るようになりました。
 もうひとつは、わからないことがあったら自分で調べるという習慣が身についたことです。“調べれば必ずわかる”、長兄から教えられた教訓です。
 漢和辞典は古くなってボロボロになりましたが、今でも手元に置いてあります。
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