九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

安倍さんの積極的平和主義は中東で対米従属ととられたのか?   らくせき

2015年01月31日 15時31分55秒 | Weblog
今回のイスラム国による人質事件。切っ掛けは安倍さんの中東訪問にあるらしい。
日本外交は彼らの敵視するアメリカの応援と認識された。
これが積極的平和主義の結果ならば、安倍さんは平和主義の看板をおろしてほしい。
すくなくとも中東では平和主義とは理解されていない。

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新聞の片隅に載ったニュースから(186)  大西五郎

2015年01月31日 15時08分30秒 | Weblog
新城市教委 「中立性の防波堤」教育憲章の素案(15.1.30 毎日新聞)

新城市教育委員会は、来年度から制度改正で教育行政に対する首長権限が強化されることから、教育の中立性保持を盛り込んだ「教育憲章」の素案をまとめ29日、発表した。来月27日から市民の意見を募り、6月の市議会提案に向け、成案を仕上げていく。
市の定例記者会見で発表した。今年4月から、首長が教育長の任免が出来、新設する「総合教育会議」を招集できるようになる。市教委は、首長によって教育方針が左右されることを危惧。憲章で、目指す教育の理念を明示し、「教育の中立性を守る防波堤にしたい」と、昨年3月から策定に取り組んだ。
素案は前文で、新城の自然・人・歴史文化を誇りに「共育」を推進し、自他の幸福を構築できる人間育成を目指すとした。そのうえで、教育の中立性・継続性・安定性を堅持することをうたった。条文は、人間尊重や徳と教養の向上など6条を挙げた。
和田守功教育長は「戦後70年を迎え、原点に立ち返り、憲法や教育基本法前文の意図を十分踏まえて教育を進めていかねばならない」と話す。
素案は市ホームページなどで公表し、来月27日~3月27日に意見を募る。5月には成案を作り上げ、市議会6月定例会に提案する方針だ。市議会への提案者となる穂積亮次市長は「今の仕組みでは、憲章は報告案件になる。広く市民の理解を得るため、議決案件にできるようにしたい」と話した。

□□――――――――――――――――――――――――――――――――――――――□

教育委員会は戦前の中央集権的、国家主義的教育に対する反省から、教育の地方分権と民意が反映されるように改められ、教育委員の公選制がとられました。しかし1956年に地方自治体首長が議会の同意の上で任命する制度に改められました。当時日本の政治が全体として戦後の民主的システムを変える動きがあり、教育委員会制度改正も逆コースと言われました。
安倍首相はかねてから教育改革を唱えており、第一次内閣では愛国心教育を推進し、第二次内閣でも道徳の教科化を推進しています。昨年教育委員会制度を改め、首長による委員任命と首長と教育委員会とで総合教育会議を設け、教育行政の指針となる大綱を作るなどとする地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部改正(教育委員会法の改正)を国会に提出しました。これに対しては、国や地方自治体の教育に対する介入が強まると反対の声があがりましたが、6月に成立させ、今年6月から施行することにしました。
新城市教育委員会の「憲章」策定の方針は、その地方の実情にあった教育、民意の反映を目指すという教育委員会制度を設けたときの理念に立ち返って、政権が代わる毎に、あるいは地方自治体の首長が代わる毎に、教育行政が変わることを防ぎ、教育の中立性を確保する防波堤にしようというもので、他の自治体にもこの運動が広がることを期待したいと思います。
                                                大西 五郎
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池上さんがテレビの寵児になったわけ     らくせき

2015年01月31日 09時52分29秒 | Weblog
最近のテレビはオカシイ?と感じていますたが、
毎日新聞が辛くちのタレントが消えてゆくという、記事を。
ある民放関係者は「安倍首相と直接会った社長から、
番組改編後の出演者を誰にするかの指示が下りてくる。
何が話されたかは知らされない、と声を潜める。

そんな今、どこからも批判されないコメンテイエターは池上彰さん。
そういえばどこのチャンネルにも。

一方、何かを起こしそうな人はトレンドではない。
がんの闘病を経験した鳥越俊太郎さん(74)が
レギュラー出演する民放全国放送の番組は、
今やBS朝日「鳥越俊太郎 医療の現場!」だけになった。

NHKだけではないんだ。
そんな中、TBSの報道特集は良くがんばっている。




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「よたよたランナーの手記」(103) 心肺機能が落ちてきた   文科系

2015年01月31日 07時48分35秒 | 文芸作品
 先回の末尾にこう書いたが、これは正しい現状認識だったようだ。
『むしろ問題なのは、次のことの方だろう。この脚の強化、弾みに心臓、循環機能が追いつく時が来るのだろうかと。それが今の最大課題である。心臓の方は、10分継続できる強度の運動の心拍数が、以前の160から現在は155ほどに落ちてきたのではないか』

 28、30日とそれぞれ9キロちょっとの走りでよく注意していたら、このことを感じた。心拍160を10分続けるのが難しくなってきたようだ。というか、そこら辺りがぎりぎりという境地からちょっと落ちてきたようだ。

 30日には走行距離9.2キロの中で時速11キロで10分走ったのだが、その心拍数が152~7ほどで、かなり苦しいのである。今はそれ以上には上げられないと感じた。1日置きほどで何日か頑張って、かつよほど好調の時でないと、この上の速度へは行けないと。
 さてそして、そんな無理をしなくても良いとも思ったことだった。まー11キロ時の心拍数が分150以下になるまで、LSDをゆっくりやっていくさなどと自分に言い聞かせて。と言うよりも、28、30日はもうそのように走っていた。40分近くは時速8、9キロ程度の完全LSDで、それ以外にいろいろ速度を上げてみて合計9キロちょっとと。その効果が早くも現れており、今日は汗がいつもよりもかなり少なかった。

 走りの入り口で繰り返しウオームアップも入念にやった事も良かったようだ。これは今後に向けて、大事な教訓である。LSDとはもともと、「長い時間かけて、ゆっくりと、遠くまで行く」というランニング能力向上の最も一般的かつ合理的な方法なのである。さらに、そういうLSDの前に繰り返しウオームアップを重ねるのが、老人ランニングの極意と改めて感じた。現在の僕は、心肺機能が最大限出力を発揮するまでに、運動開始後30分近くかかる感じになっている。つまり、30分間程度は自分の最高スピードでは走らない方がよいようだ。以前のようにウオームアップ不足でいきなり強い運動をすれば、この寒い中では特に脚を痛めるだろう。ますますそうなっていると自覚すべきだろう。
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随筆紹介  今風ごっこ遊び   文科系

2015年01月30日 22時29分47秒 | 文芸作品
 今風ごっこ遊び  K.Kさんの作品

 保育園の延長保育の時のことである。外遊びの時間、ジャングルジムで「いらっしゃいませ」、ドライブスルーごっこをしていた。「ハッピーセットで、オレンジジュース、プラレールでお願いします」、慣れたもの。子ども用セットは、男の子と女の子でおまけが選べるのも魅力。注文を伝えると反対側へ行き、待つ。中に入っている子が、「ありがとうございました」と頭を下げ、品物を両手で渡すまねをする。受け取り、三輪車は前へ進む。
 私はハンバーガーが苦手なので、ドライブスルーは利用したことがない。でも、今の子どもたちには生活の一部になっている。ごっご遊びも変わるものだと気付く。

 暗くなったので部屋で遊ぶ。ままごとコーナーではお母さん役が人気。男の子でもエプロンを着け、なり切る。皿を洗っているのだが、スポンジは使わない。蛇口で流すだけ。すぐ横に置く。「洗わないの?」、「ママがやってるよ」当然のように答える。どうやら食洗機に入れるため、汚れのひどい所だけ流しているようである。私はまだ一枚ずつ手で洗っているので、この動作に気付くのに時間がかかった。ままごとごっごさえ違ってくる。

 電話はスマホである。紙で自分たちが作った物だが、画面を指先でなぞる。携帯の二つ折りの時は、左手だけで器用にボタンを押していたけれど、もうやらない。親の仕草を、よく見てまねている。「はーい、またね」などと話す。少し前までの黒いダイヤル式の電話機を見たら、どんな顔をするのだろう。 
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新聞の片隅に載ったニュースから(185)   大西五郎

2015年01月29日 19時12分33秒 | Weblog
「原発事故。今後も起きる」政府調査委 畑村元委員長(15.1.29 毎日新聞)

国の原子力委員会(岡芳明委員長)は28日、原子力利用の課題を示す「基本的考え方」策定に向け、東京電力福島第1原発事故で政府の事故調査委員会の委員長を務めた畑村洋太郎東京大学名誉教授と意見交換した。畑村氏は「原子力を扱う限り、事故は今後も必ず起きると認識すべきだ」と訴えた。
畑村氏は「努力しても人が考えつかない領域や、原発事故が起きる可能性は残ると宣言すべきだ」と強調。事故を起こさないための「防災」と、事故時の被害を最小限に抑える「減災」の両方が重要だと指摘した。
また事故当事国の課題として、事故検証の継続、知見の国内での共有と海外への発信を挙げた。
原発再稼働の在り方にも触れ、「規制当局が安全性を確認し、Okならば安全だとする国の論理は破綻している。世の中が求める絶対的な安全は有り得ない」と批判。避難計画だけでなく、被害拡大防止策や除染計画も事故に備えて整備すべきだと訴えた。
原子力委は「基本的考え方」を約1年かけて策定し、関係省庁に具体的施策を促す。

□□――――――――――――――――――――――――――――――――――――――□

最近ニュースになるのは原子力規制委員会ばかりで、原子力委員会という組織がまだあるということに気がつかなかった人も多いのではないでしょうか。
原子力委員会は、1955年に原子力発電など原子力開発に踏み出すに当たって策定された原子力基本法に基き、原子力利用に関する政策を企画、審議する機関として設置されました。当初は内閣府の付属機関として、委員長には国務大臣が当てられましたが、東京電力福島第1原発の事故で従来の原子力発電推進に偏った運営(原子力ムラの中心)が批判され、原子力規制委員会が作られ、原子力委員会も行政の実施機関から審議会に性格をかえましたが、原子力利用に関する政策を政府に進言する役割を担っています。
福島原発事故の政府調査委員会の委員長の提言を原子力委員会は重く受け止めてほしいと思います。
なお、このほかきょうの中日新聞には原子力発電に関する記事がいろいろ出ていました。
高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)を運営する日本原子力研究開発機構が昨年12月に原子力規制委員会に提出した機器保全計画の見直し報告書に不備があり、未点検機器の数が400点以上増えて約6900点にのぼることが明らかになりました。
関西電力は再稼働に向けて審査が進む高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の「原子炉設置変更許可申請」の補正書を原子力規制委員会に再提出しました。昨年10月に提出した補正書に記載の不整合の調整など1732件が書き加えられています。
なぜこんなに申請・報告書に記載漏れや記載の不整合があるのでしょうか。畑村元委員長の「絶対的な安全はありえない」という提言こそを重く受け止めるべきだと思います。
                                                 大西 五郎
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「アイ・アム・ケンジ」 自己責任論優勢の世論に変化   朝鮮日報より  らくせき

2015年01月29日 09時15分02秒 | Weblog
イスラム過激派組織「イスラム国」の人質に取られている日本人、後藤健二さん(47)が解放される可能性が高まった。後藤さんは長い間、紛争地域で孤児などの人権問題について取材してきたフリージャーナリストだ。昨年8月、親交のあった湯川遥菜さんがイスラム国に拉致されたのを受け、救出するためシリアに向かった。妊娠中の妻が反対したが、後藤さんは「湯川さんは何もできず、何をしていいのかも分からない。経験のある者が助けに行かなければいけない」と言って死地に赴いたのだった。


 民間軍事会社の経営者とされる湯川さんは、支社を設立するために、現地の事情もよく分からないままシリアに向かった。湯川さんが人質に取られたとき、日本では「旅行を禁止されている危険地域(原文ママ)に自ら出掛けて人質になったのだから、自己責任だ」という冷めた反応が多かった。湯川さんは今月24日、殺害されたと発表され、遺体とみられる動画が公開された。一方、後藤さんは昨年4月にも、シリアで武装勢力に身柄を拘束された湯川さんを解放に導いた経験がある。


 アフガニスタンやイラクなど世界の紛争地域で取材をし、九死に一生を得た経験も少なくない後藤さんだが、今回ばかりは自らの命を失いかねないという予感があったようだ。後藤さんはシリアに入国するのに先立って撮影した動画で「何があっても全ては自分の責任だ」と言い残した。


 そんな後藤さんのエピソードが伝わるや、日本内外で後藤さんを救出しようという運動が広がった。有名なジャーナリストの池上彰さんは、朝日新聞に「全幅の信頼を寄せられるベテランジャーナリストで、弱者の味方に立ってきた人だ」として後藤さんの救出を訴えた。後藤さんは普段、NHKなどの番組に出演し「戦争によって最も大きな被害にさらされる子どもたちに関心を向けよう」と呼び掛けてきたほか、学校に出向いて人権問題についての講演も行っていた。英国の週刊紙「エコノミスト」の東京支局長を務めるヘンリー・トリックスさんは最近、雑誌への寄稿記事で「悲惨な紛争地帯で人間味あふれるリポートをしてきた勇敢なジャーナリストが今、悲劇的な状況に置かれている。日本社会は後藤さんを助けるため尽力しなければならない」と主張した。


 このような呼び掛けが相次ぐ中、日本国民も政府に対し、後藤さんの救出を積極的に求めるようになった。「アイ・アム・ケンジ(#I am Kenji)」と書かれたプラカードを持って写真を撮り、これをフェイスブックに掲載する運動も全世界に広がった。後藤さんが取材を通じて出会った中東の子どもたちもこの運動に加わった。これを受け、日本政府もヨルダン政府を通じ、イスラム国との交渉に積極的な姿勢を見せている。




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随筆 「国語(科)は学問ではない!」?  文科系

2015年01月29日 08時12分47秒 | 文芸作品
 子ども、青年期などにおいて、標記のことを唱える人は多い。僕自身も中学2年だったかの国語の時間に、若い女の先生にそんな質問をして、1時間の授業を潰してしまった覚えがある。この事件の詳細は覚えていないが、数人の級友と一緒に発した質問だったので、そうなったようだ。

 では、よくあるようにこう言い逃れるやり方は正しいのかどうか。国語で書かれた内容の方が学問か否かは置いておくとしても、国語という言語とその使用法は学問としてきわめて重要なものである。こういう語学に限定した国語(科)の定義は誰もが認めるはずだが、この「書かれた内容」を横に置いた半分の定義だけでは、国語(科)の意味、重要述語の抑えとしては3分の1の価値もないと、これが僕のこの随筆の趣旨だ。

 さて、少なくとも20世紀以降の人文科学は、以下のことを明らかにした。
 言語能力、特に抽象的言語能力が不足した子どもは、学力一般が劣るのである。思考力一般と言語能力とがほぼ同じものと言っても良いほどに。これが言いすぎであるとしても、少なくともこうは言えるというように。両者の一方が欠ければ、他方もそんなに発達はできないと。このことはまた、以下のことをも示しているのだと思う。
 言語能力が文字通りの言語能力という狭い範囲に留められるものではないということを。次いで、このことに、20世紀の発達心理学などから発見された次の事実もおおいに関わっていく。
 この言語能力・思考力一般という意味での言語能力が劣った青年、成人には、社会性も欠けるという事実である。もっと言うならば、こんなことが言えるようだ。言語能力と思考力と社会性(さしあたっては、他人の言動が見え、分かり、共感するということなどなど)は、人間においては同じ一つのことの別の側面とさえ言えるのではないかと。

 さて、以上のことは少なくとも現代学問のほぼ全てが認めるだろう。それでもなお、こういう問題は残るのだ。思考とか社会性とか、もっと拡げて人間の内面一般が、全て科学的に手に負えるものかどうかという問題である。手に負えないとしたら、こうなる。欧米のある種の現代哲学者、科学者たちのように、こう生きるしかなくなる。公的に論じ合える問題と、論じられない言わば信仰や、善や美や、それらを扱った随筆世界(の内容)やのような領域の問題とを、区別して生きることに。「その問題は、科学的には『問題』と言えるようなものではない」とは、そういう欧米知識人が非常によく使う言葉だ。こうして例えばつまり、科学と「心」とを厳密に分けて生活することになるのであろう。科学と信仰とを区別して生きるというように。

「国語科は学問ではない」という子どもが目の前に現われたら、今の僕なら以上のことをしっかり語ってあげたい。きちんと答えないと「必ず、発達が歪む」と考えているからである。最近賢い女の子二人が、相次いで残忍な殺人事件を起こしたが、以上書いてきた問題が本質的に関わってくると解説する専門家も多いのである。


 最後に、付け加えることがある。以上のようなこと全てを40年高校国語教師をやってきた連れあいに話してみた。その間に愛知県の最難関校(の進路指導係)を含めていわゆる受験校三つを渡り歩いてきたお人である。どんな返事が返ってきたか。
『今は、そんな質問をする子はいない。国語が、受験の主要3科目に入っているからだ』
 いや、驚いたのなんの。

 が、こんな現状も大問題であると、又別の問題性を感じたものだ。こんなに大事な学問を受験手段中心で扱っている。道理で、文科省が大学の人文、社会系の学問分野を減らそうとしている訳だ。国語を思考能力の範疇だけで扱って、社会性、人間の内面一般との関係で見ていないからこんなことができるのだろう。怖ろしくなった。超格差社会と相まって、賢くても「残忍な」子がどんどん増えるのではないか。なお、国語科を軽視して道徳科を重視しても、こういう悲劇は一向に減らないはずだ。安倍首相には特に、そう言いたい。人の心こそ実は、究極の思考力、真理の最大問題なのだと僕は強調したい。道徳を決まり(の集積)か安っぽい「善悪」のように扱うのでなければ、国語科、人文・社会系学問を軽視はできないはずなのである。
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「中日春秋」から「イスラム国」を偲ぶ   文科系

2015年01月28日 12時18分39秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 本日の中日新聞「中日春秋」は9・11を扱っている。と言ってもこういう9・11だ。
『1973年9月11日に南米チリで軍事クーデターが起き、アジェンデ大統領が虐殺されたのだ。昨年逝去した経済学者の宇沢弘文さんはその日、シカゴでパーティーに出ていた。大統領虐殺の報に、市場原理主義を奉ずる経済学者たちは歓声を上げた。その姿に宇沢さんは憤然としたそうだ。クーデターの陰には米情報機関があり、反米の左派政権が倒れると、市場原理主義に基づき、国営企業は民営化され、金融機関は米金融機関に支配されるようになったという』
 そして宇沢弘文氏は後に、ある対談でこう指摘したとも、この記事は続けていく。
『「イラクでも全く同じことが繰り返されるこのパターンは、チリに始まってアルゼンチンなど世界の多くの国に輸出された」』

 さて、イスラム国が進行中の行為を巡って世間が姦しい。が、これを生み出したのがアメリカであると、イスラム国がアメリカの「鬼子」だと、どれだけの人々が話題にしているだろうか。宇沢弘文さんは1973年からアメリカの外交のやり方をみてきて、チリ軍事クーデター=イラク戦争と述べていたのである。そのイラク戦争も、マスコミ総動員で嘘の理由がでっち上げられて、それを支持した国民熱狂の内に、始まったものだった。

 このイラク戦争では関連死含めて50万人以上が死んで、国がめちゃくちゃになった。シリアではずっと内戦が続いているが、アメリカが反乱軍を組織、訓練して、戦場にどんどん送り込み、また大量の武器をも供与してきた。このことは、もはや米国政府も公言しているところである。このイラクやシリアへの行動は、国連の支持が得られず、有志国による戦争だそうである。
 さて、地球の裏側にまで出かけてきて、こういう行為に及ぶアメリカ。両国民はどれだけ恨んでいることだろう。こんな時には、生活・人生をめちゃくちゃにされた人々から、鬼子も生まれるというもの。このことは、イスラム教を抜きにしても、普通の政治感覚である程度分かることとは言えまいか。戦乱下の孤児たちが親を殺したものを恨み、生きていくために何でもする集団に育っていくようなものなのではないだろうか。イスラム国はこのそれぞれの両国北方にまたがっているのである。

 イスラム国を語るなら、アメリカの現代外交史を抜きにしてはならないと思う。アフガンのタリバンもその当初はアメリカの支援で大きくなった。そして親ソ連のアフガン政府が潰れ、やがてタリバン政府に入れ替わってから、そのタリバン政府がアメリカに牙をむくようになったのである。ビンラディンもこうして生まれたイスラム戦士の一人だったはずだ。アメリカが彼を育て、そして、殺したのである。

 チリ・アフガニスタン・イラク、そしてシリア。ここから、イスラム国へ。アメリカの落とし子、鬼子は世界には無数にいる。そして母であるアメリカに牙をむいていく。鬼子には「親に似ない子」という意味もあるが、「鬼のように荒々しい子」という意味もある。すべて20世紀末の四半世紀以降にアメリカが生み出した「親に似た鬼のような子」なのではないか。
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名無し君の他者批判論法   文科系

2015年01月27日 02時01分41秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 この間一方的かつ激烈になされた名無し君の文科系批判の論法を図式にしてみる。よくあるパターンだから、覚えておくとどこかで必ず為になると愚考する。

①先ず、批判相手のある言葉から、相手像を勝手に作り上げてしまう。相手が述べた言葉自身を拡大して、相手の思想自身を「こう」と勝手に決めつけてしまうやり方はよく採られるものだ。ちょっとネトウヨらしい言葉を見つけるとすぐに自分が知っているネトウヨ像を当てはめがちなのは僕自身も要注意だが、逆に左翼と見るとすぐにレーニンから毛沢東、果ては首領様と同じだろうと来るわけである。
 人間の思考が持つ一種の抽象化作用から「ドンキホーテの風車」の出来上がりというわけだ。

②こういう「風車」批判に対するに僕は、当然こう返すことになる。君の言う「文科系」とか「君たち」って、だれのこと? 僕のどの言葉からそう思うの? これには、名無し君は全く答えなくって、またまたずらずらと「風車」の説明、述語を繰り出すばかり。仕方ないので僕は、こう質問することになる。
『僕が語ったことがなんだったか、その命題をはっきり明示した上で「それ自身に対しての反論」を改めて欲しいものだね。(中略) それが見られてから初めて、ゆっくり考えてから答えることにするよ。それまではいくら長い「怒り」を連ねても、僕の命題自身に関係ないことばかりだから、答えられないね。あしからず』

③それでも、僕のどの言葉から「風車」と見るのが妥当かの説明などなくって、「風車」の述語が延々と続くばかり。文科系がこの「風車」なのだと、文科系が認めろとまで主張してくるから凄いよね。
『君がすべきことは、君自身がシャルリー・エブド同様、卑劣な差別主義者であることを真摯に自己批判することなのだ』
『これらは、君の否定にもかかわらず、君自身の「命題」に即した批判なのだ』
 僕の最初の言葉、命題には何も触れなくってこう認めろと言われても、僕は困ってしまうだけ。それで彼は、こう言い張り続けるしか道はないのね。そりゃそうだろう。ここまで来れば、名無し君だって彼の批判対象となった僕の最初の言葉を少しは読み返すだろうし、読み返して見ても「風車」は証明できないしね。でもまー、読み返そうが読み返すまいが、①の「風車」を彼はもう引っ込めることができないよね。誠実かつ、思考の抽象化作用をよく知っている僕なら引っ込めてしまうが、普通はまー無理だよ。

④そこで、こんな悪罵さえ出してくるパターンもよくあるもの。
「君は無意識なのだが実はこの『風車』なのだよ。これは、認めねばならぬことだぞ」
 対する僕は、こう述べて終わる。洗脳みたいなこんな口調でイスラム国を生み出した米共和党の加担者にされるのは、カナワンからね-。
『君は当然最初から「怒っている」が、僕は全く怒っていないけども。ただ、6つ上と3つ上とのコメントに書いた注文を繰り返しているだけ。それがないと、僕は何も答えができないのね。僕のどの命題、言葉を君が批判しているのかさっぱり分からないのだから、当然でしょ。君が長々と書いてきた「あやふやな批判」に答えてどうするのと、ただ呆れているだけね。バカと馬鹿の果てしない訳の分からんやりとりになるだけだよ。最初の論点からどんどん外れていく討論の応酬にね。』

⑤みなさん、思考の抽象化作用にはよく注意しましょう。連想ゲームのようにまず、AからBを連想する。すると、Bが気になって仕方なかった人だから、AとBとを強引に同一にしてしまう。すると今度は、Bの述語が全てAに被され、引っ付けられてしまう。そんなやり方と言えるかな。


 なお、この名無し君と、いつもの名無し君が違うか否かなんて、どうでもよろしい。どうせ卑怯な名無しなんだ。ただ、この名無し君、最後には「5555」と名乗ってきたから多少彼への認識を僕は改めることにした。が、これも常連名無しの謀略、画策かも知れない。そこが名無しの卑怯、卑劣というもの。常連名無しが1人でもいると、ある名付き新人さんがこれかも知れないとよく頭をかすめるのね。これも全部、常連名無しの悪辣さゆえというわけだ。そんな疑いの言葉なんて出さない方がよいのだが、出す人がいたら許してあげて欲しい。それもこれも疑う人のせいではなく、名無しの責任なのだからね。「ここを乱したい。できれば潰したい」という意図でもなければ数年間もここに居着けないから。よろしく。
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随筆 ランニング賛歌   文科系

2015年01月26日 07時01分45秒 | 文芸作品
 五十九歳からランニングを始めた僕は、五月が来ると七四歳になる。ランが老後にこれだけの恵みを与えてくれるとは、想像もつかぬことだった。

 膝が痛い?新聞広告に満載された、コンドロイチンにグルコサミン? 若い頃椎間板ヘルニアで手術をしたこの身体なのに、その腰ばかりか膝にも、何のサプリメントも要らない。そもそも肩や首など、こったことがない。だから、パソコンに向かい続けていて、ふと気がつくと四~五時間なんてことはざらである。痩せるための健康器具? 体質もあるだろうが、僕が二十代に作った式服を着られるのは、スポーツ好きと今のランニングのおかげと確く信じている。身長一六九センチ体重五七キロで、二八インチのジーパンをはいている。ずらずらとこう書くとこの時代には特に自慢にしかとられないのは承知だが、まー一生懸命やってきたことを伝えたいのだとご理解願いたい。

 医者たちからはこんな話も聴いている。「時速七キロ以上で歩ける人は長生きする」。当然、そうだろう。血管も含めた循環器系統が健全ならば、成人病も逃げ出すというもの。歯医者さんでこんなかけ声が行き交っているが、同じ理屈関連とも教えられた。「八〇歳まで自分の歯が二〇本ある人は、長生きする」。「健全な循環器系は細菌に対して免疫力があるということ。虫歯菌にも歯槽膿漏などにも強いのです」と教えられた。

 さて、こう考える僕だったから、六九歳新春に起こった慢性心房細動には、対する心臓カテーテル手術・ランニング禁止宣告の時は、僕の人生が終わったと感じた。手術の前までも、つまり慢性心房細動になるまでは、不整脈を抱えて細々とではあってもずーっと走り続けていたのである。それが、無期限でもう止めなさいと医者に宣告されたのだ。そんな未練からだろう。七一歳の夏に医者に隠れて走り出し、「大丈夫」という実績を細々と作っていった。秋には、主治医からの公認も取り付け、ジムに通い出す。以降故障や事故や試行錯誤等々も重なったけれど、今は心房細動前六六歳ごろの走力に戻っている。この一月七日、一時間の走行距離が念願の一〇キロに達した。僕にとっては六〇歳台半ばのこの走力回復で数々のメリットを改めて体感しているが、最も嬉しかったのはこんなことだ。
 階段の上り下りが楽しいのである。地下鉄などの長い階段を一段飛ばしで登り切っては、脚の軽さを味わっている。一時無理がたたってアキレス腱痛に長く悩まされたが、試行錯誤を重ねつつこれを克服し終えた時に新たに生まれた脚の軽さ、弾み! スキップが大好きだった子ども時代を思い出していた。

 昔の自分の小説で思いついた僕なりのランニング賛歌を最後に加えて、結びとしたい。自分ながら好きな文章なのである。 
『ボスについて走り続けるのは犬科動物の本能的快感らしいが、二本脚で走り続けるという行為は哺乳類では人間だけの、その本能に根ざしたものではないか。この二本脚の奇形動物の中でも、世界の隅々にまで渡り、棲息して、生存のサバイバルを果たして来られたのは、特に二本脚好きの種、部族であったろう。そんな原始の先祖たちに、我々現代人はどれだけ背き果ててきたことか?! 神は己に似せて人を作ったと言う。だとしたら神こそ走る「人」なのだ』
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「よたよたランナーの手記」(102) 急に、脚が軽くなった   文科系

2015年01月25日 21時28分25秒 | Weblog
17日には1時間で10.1キロを走ったと前に書いたが、それ以降19日、24日と走って、その間の21日には60キロを越えるサイクルツーリングをやった。

 2回のランはゆっくり長時間で走る心臓機能アップ狙いのLSDにしたのだけど、随分脚が軽くなったと感じた。それぞれ1時間で9キロ未満を走っただけだが、つま先とアキレス腱関連筋肉とが急に強くなってきたと実感した。11キロ時の脚が軽かったし、地下鉄の階段上りなどでも2段上がりを楽に貫徹するようになったし(僕は以前から、地下鉄でエスカレーターを全く使わない)、地下鉄発車に迫られて走る時などに長く味わえなかった弾むような軽さが心地よいのである。07年最後の10キロマラソン時代の脚が戻ってきたということであって、こんなときこそ1時間に10キロ走れる脚になったと感慨が深いのである。

 サイクリングはかなり頑張ってみたが、こちらはちょっと衰えたと感じた。何が衰えたかというと、僕の場合こういうことだ。いわゆる、身体が暖まるまでに時間がかかるようになった。軽い運動では15分かかる。かと言って、最初からきつい運動で短時間に温めようとすると、とても疲れるというわけだ。これをサイクリングで痛感するようになった。21日で言えば、朝方名古屋北方に向かった時は寒さも加わってなかなか身体が温まらず、時速25キロちょっとでも脚が重かったが、午後一転して名古屋港に向かった時は、街中の一本道を南へと30キロ時近くで走り通したもの。たびたび信号で止められることも何のその、そんな勢いだった。こうして、ゆっくりと身体を温めれば、前述の通り8年前のように脚が軽くなることが分かってきたのだから、温めるまでの苦労は何ともないと思えるようにもなった。

 むしろ問題なのは、次のことだ。今手に入れることができたこの脚の軽さ・弾みに、心臓・循環機能が追いつく時が来るのだろうかと。それが最大課題である。心臓の方は今のところ、10分間継続できる強度の運動の心拍数が、以前の160から155ほどに落ちてきたのではないかと、ちょっと様子を見ているところである。適度に間を空けたLSDを積めばまだまだ伸びる課題かも知れない。
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「シャルリ戯画」、名なし君のコメントに   文科系

2015年01月24日 18時01分35秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 いろいろ勉強する機会を与えてくれて有り難う。が、すごいコジツケに充ちた文章だね。君のような大げさなこじつけ批判と人を呪い殺してやろうとでもいうような言葉でなく、大袈裟すぎてぼんやりしていて曖昧な君の言い分をちゃんとした命題にして批判してあげよう。先ずどんな命題があるか。

①『いいとされるイスラム教徒だって、シャルリー攻撃を内心では当然だと思っている。それを、「私たちは違います」と言わせているのは君たちの言外の圧力なのだということに気づきもしない。現にイスラムのモスクが各地で襲われてるではないか』

「気づきもしない」という「君たち」が誰なのか。ここがいい加減な文章であるが、とにかくこういう命題が主張されているらしい。
「君たちの言外の圧力によって、(そういう君たちも含んだ多くの)君たちがモスクを各地で攻撃している(ようだ)から、良いとされるイスラム教徒も、シャルリー攻撃は当然との本心を言えないだけなのである」
 そもそも、ここに言う「君たちの言外の圧力なのだ」とは誰のことだ? 主語がはっきりしない命題など何の意味もないことぐらいは知っていように。これでは、第1に、あのテロに対してこう語った人が当然含まれる。「言論の自由も大事だが、異文化の尊重も重んじよう」と述べてシャルリ漫画を掲載した中日新聞。中日新聞はモスクなど襲っていないはずだけど。「君たちの言外の圧力」がモスクを襲わせているように述べているところを見ると、中日新聞も重大な共犯者とされるのである。
 さらに、僕のように一歩進んで「政教分離」と「言論の自由」とを結びつけて強調した者はもうモスク襲撃者と同罪という趣なのだ。

 
②『(第一次大戦中のサイクス・ピコ条約による英仏ロのオスマントルコ3分割を例に挙げた上で。文科系)ようするに君が尊ぶ西洋の論理はそのような血塗られた歴史によって作られてきたのだ。それ(西欧植民地主義の)を一顧だにせず、「私はシャルリー」に唱和する君は、日本の戦争は相手に仕掛けられたものだ、侵略などはなかったと強弁する歴史修正主義者とどう違うのか。またそうした歴史観によってヘイトスピーチをまき散らす「在特」の連中とどう違うのだ』

 ここには、こんな命題があるだろう。まず、第一次世界大戦中の西欧植民地主義が血塗られているから、西洋近代文明、論理を、全て血塗られているというように宣告する。そして、これがイスラム国を作ったに等しいようにほのめかす。
 こうして、だからというわけで、次にはこんな命題が加わっているのだろう。「私はシャルリー」に唱和する者は、サイクスやピコと同罪であり、血塗られた植民地主義者であり、歴史修正主義者であって、在特と一緒なのである。
 そして、こういうコジツケ論理、命題をさらにこう敷衍してみせる。
『西洋ボケの頭脳で、「私はシャルリー」と踊っていたのでは、自分たちの過去を棚上げして、武力で殲滅と怒号するオバマやオランド、そして安倍くんと全く一緒ではないか』

 
③最後がこれ。
『君の上の言説を自分でもう一度読み返して見給え。それは西洋によるイスラム攻撃と軌を一にしているのではないのか』

 何でこうなるのかさっぱり分からない。ここにいう「君の上の言説が」がこの命題の主語なのだが、僕のどの言説をさしているのか。つまりこれだけでは、全く意味のない文章なのである。この論者が批判相手の主語をぼかすやりかたは、連想ゲーム式なものであって、どんな批判も可能とするやり方なのである。


 さて、イスラム国とシャルリーとの悲劇を巡って、1916年の英仏ロにまで遡った西欧政治と思想を、さらには日本の歴史修正主義までを辿りながら、肝心のこれが欠けるのはどうしたことだ!
 イスラム国の温床、根源を論じるにしては、嘘の理由で国連の反対を押し切って強行され、関連死含めて50万人も死んだイラク戦争も、有志国参戦も入っていない。その後のアメリカによる数々のシリア国家崩壊工作も! いまだに続いている米国によるれっきとしたシリアという独立国に対する反乱軍育成、訓練にさえも。これだけ無数の地獄作り行為がなされれば、どんな国でも無数の鬼が生まれるであろう。イスラム国を語りながら、これらのその温床が全く語られないで、1916年だかの英仏ロにまで遡って原因を探しているのは一体どうしたことだ。そのアメリカに対しても、アメリカ共和党への批判は全くなく、オバマに対するほんのちっぽけな批判がたった一箇所である。イラク戦争については、僕はこう言いたいね。国家政治勢力としては、アメリカ共和党こそが起こしたと。ついこの前シリア参戦を喚いて、これを渋った大統領に「臆病者、オバマ!」と叫び続けたのはどこの誰だったのか。

 そもそも第一次世界大戦以降未来に向かって戦争違法化、植民地解放の流れを主導したのも西欧文明であるが、これも一顧だにされていない。西欧を血塗られた側面だけで見るこんなやり方をすれば、どんな善人も悪人にできるというもの。
 西欧思想の論理をたった一つでも使うともう西欧植民地主義者であるという粗雑な論理の方法論はこういうものである。相手への主語を不明確にして、「そんな相手」のたった一つの小さな命題から、大きな命題へとどんどん話を不当に押し拡げていく論理。まるで、風が吹けば桶屋が儲かるというような連想ゲーム。粗雑なやりかたという他はない。
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スティグリッツ国連報告・要約 5  文科系

2015年01月24日 11時03分51秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 今回は、『第1章はじめに』の『第3節 発展途上国への影響』を要約、抜粋する。これが、第1章の最後となるものである。
 なお、次章以降をここで扱うか否かは、まだ決心が付きかねている。一応の水準のまとめをしなければこの大変な「国連(総会)が、世界に向けた労作」に失礼だし、そう思えば怖ろしいエネルギーが必要にもなるからだ。この前このブログを読んだ友人が「あなた、実にマメですね」と言って下さったが、それだけエネルギーがいるのである。まー途切れ途切れでも、また長くかかったにせよ、近いうちに始めるつもりだが。

 さて、この節の書き出しはこうだ。
『危機は4つの理由により、発展途上国から高い「料金」を取り立てがちである』
 この4つのうち、第1、2は短くて、それぞれこれだけの文章である、
『それらの国の国民は、この規模の危機を克服して行くには小さすぎる資金余力しか持っていない』。

『彼らの財政と社会保障システムが初期的段階にあることから自動安定化装置が欠け、苦しんでいる』

 第3からはそれぞれ長くなるから要約するが、先ず3は、途上国は、国際金融市場で借り入れる能力に限界があり、危機への抜本的対策が打てないこと。金利を引き上げても経済が安定化せず、やがて外国資本が引き揚げられてしまうということ。

 第4は、世界金融市場の統合が『常に存在する脅威』になってきたということ。ここまで4つの中で最も長く展開されている大事な箇所であるらしい。

『自分達の資本勘定を完全に国外に開いた国は、金融市場の自由化も約束していた。そして、国際資本市場からの民間ファイナンスを信頼した。この市場こそ最も厳しい影響を受けた恐れのある分野に含まれていた。多くの国が外国銀行を信頼するようになった。外国銀行の内のいくつかは監督がほとんどなされておらず、不適当なマクロ経済政策に従い、今やその資本がひどく損なわれているのに気付いているところである。(中略) 多くの途上国が自由貿易協定や二国間貿易条約や世界貿易機構(WTO)に加盟しているという事実によって困難が複合してくる。そのコミットメントは、上述した市場原理主義の政策を神格化し、金融機関・手段の規制権限や資本流入の管理権限、或いは金融市場の保護主義から自分達を守ることまで制限しているのである』

 次はこのことだ。IMFや持てる国は、途上国の景気刺激策への支援の立場をとるべき。こう述べた上で、ここの結びに当たる部分をほぼ全文抜粋したい。

『この報告の主要な焦点は、短期的施策と、途上国とその開発への情熱を支援する国際金融システムの長期的変革である。既に述べた通り、途上国は、危機のコストのもっとも大きな部分を負担している。にもかかわらずその負の影響に対処するために必要な資金余力を持っていない。途上国と新興国での危機をこれ以上深いものにしないためにも早急に施策が求められている。(中略) 遅れは、結果としてのコスト、すなわち問題解決に要するコストが高くなることを意味する。そして、景気後退の長さと深さがよりおおきなものとなり、多くの罪のない犠牲者が職を失い、小企業や大企業が倒産を強いられる。ますます多くの公的資金が危機にさらされる。我々の今回の失敗の結果は、向こう数十年は残るであろう』

 
「はじめに」の末尾は、この「報告」の全章の短い紹介に当てられている。以下、全文こんなふうに、

『報告はその分析と勧告を以下の4章で示していく。第二章は、危機の背景となって横たわっているマクロ問題と、問題の大枠について、そしてそれを克服して行くために必要となる施策について取りあげる。第三章では、特に金融システム不安定化の原因とは何かという問題と、あらゆる経済システムへのその影響について取り上げる。同時に、個別の金融機関のレベルで、またシステミックなレベルで、金融の安定性を確保するために取り上げるべき施策について検討する。第四章では報告は現存する国際金融機関が適正かどうか、どのようにそれらは変革されるべきかを評価し、更にはシステムをより安定的なものにし、発展途上国のニーズにより役に立つために作られる新しい機関について検討する。最後に第五章は国際金融革新について取り上げる。これらの施策は21世紀のグローバル化した世界のニーズに応える国際金融アーキテクチャーといわれる分野に導入される施策である』 
 

 ここまでお読み願えた方々、どうも有り難うございました。また、お疲れ様でした。上の最後にまとめたこういうスティグリッツ報告内容に興味がおありでしたら、是非読んでみて下さい。2011年発行「スティグリッツ国連報告」で、本屋さんが探してくれます。
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スティグリッツ国連報告・要約 4  文科系

2015年01月23日 08時29分15秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 今回は、『第1章はじめに』の『第2節 危機への多様な対応』の四つのセクションの最後である『いくつかの基本的原則』を抜粋、要約をする。

「いくつかの基本的原則」の最初は、解決のスピード、政府に外国からの新しい悪影響が及ばないようにする認識、保護主義を避けること等が強調されたうえで、各論が述べられていく。

『市場と政府との間のバランスを回復する』
 危機の原因であった「行き過ぎた規制緩和」に対して、国家にそういう金融規制の役割と、国際的金融に対する国家共同行動とを回復、組織することが求められている。

『透明性と説明責任の拡大』
 政府と中央銀行にこれが求められ、「納税者を大きなリスクにさら」すことがないようにと述べられる。

『長期的展望と矛盾しない短期的行動を』
『政府は自分たちの行動が外国に与える悪影響を通して、今日の危機を悪化させてはならない』
『いくつかの国では、「倒産させるには大きすぎる」金融機関が過大なリスクを引き受けすぎたことから発生した危機への対応として、銀行の合併を行った。これは、同じリスクを将来に向けて大きくして行くものである』

『配分への影響を評価する』
 国内でも国際間でもこんな配分への警告が述べられている。『銀行救済とリストラは、所得と富の逆転した配分に特に重要な役割を果たした』。金利低下は退職者を犠牲にしているという例も強調されてあった。

 次の三つほどを飛ばして『知の多様性』に触れてみよう。
 四半世紀続いた規制緩和理論などは、『最良に評価しても、「疑問符付き」というところであった。近代経済学理論は市場原理主義の基礎となる多くのアイディアを疑問視してきた』との問題提起をし、米国に関わってこう結んでいく。
『「国は健全なマクロ経済政策と、透明性を含む強力なガバナンスと、そして良い機関を持たなければならない」というまやかしの標準政策は全く役に立たないこともまた、危機は明らかにした。ベスト・プラクティスのモデルであるとされることを辞退した国は深い欠陥のあるマクロ経済政策と機関を持ち、透明性においても大きな欠陥のある姿をさらした』

(次回、『第3節 発展途上国への影響』へと続く。これが、第1章紹介の最後となるものである)
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