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喜寿ランナーの手記(277)最新のランニングフォーム議論?   文科系

2019年12月31日 13時53分27秒 | スポーツ

 最近互いのブログを相互訪問しているゲタノウラさんのブログで、とても面白いランニング・フォーム議論ができた。古い本のフォーム解説やその写真などとは全く違うから、最新のフォーム議論なのだと思う。げたのうらさん、どうも有り難うございましたという言葉を添えて、2人の議論を転載、紹介させていただく。なお彼は、フルマラソン目指しつつ、トライアスロンもやっている、60歳代中程のランナー、だったかな? 

 

【 ほとんど賛成? (文科系) 2019-12-30 20:08:16
 貴方が書いていた『頭より先に足を出さないように』で僕が理解した事が正に今回のこれ。
『ストライドを伸ばすのは蹴り脚で』
 そのことを僕の17日文章ではこのように書いています
『後ろ脚を蹴るというよりもこれで地面を突っつくような感じで走ってみる。突っついたその反動で脚をその付け根の骨盤から前に出すその度合いも前よりは小さくするというやり方である』
『蹴った後の脚は「骨盤から運ぶ」とか「腰高の走りが良い」などは知っていたが、蹴り中心で走るのは短距離だけのように、僕は誤解していたようだ』

 さて、ここで使った「蹴るというよりもこれで地面を突っつくような感じで」という言葉を説明しますね。僕がこう理解したのは、女子オリンピック選手を多く出した川本和久氏の短距離走法書からです。福島大学教育学部の教授で、そこの陸上部の総監督、アメリカはカール・ルイスのコーチらから学んだ日本短距離指導の第一人者というお方です。この短距離走法と、長距離との共通性を「蹴った足で走る」と僕は理解し直しました。その際の蹴り方を氏は「足裏全体で地面を思い切り強く叩く」と教えています。当然膝も思い切り伸ばすことになるのですが、長距離ではそれは違うだろうと併せて理解したわけでした。「自分が一番長続きする程度に、地面を叩く」が正解と理解しました。だから当然、短距離のようには地面を強く叩いた脚の膝を思い切り前へ持って行ってストライドを延ばすことはしないだろう、とも。

 足を蹴るというと、何か、「足裏で地面を後ろにこすり上げて、その勢いで足を前に出す」という感じがしませんか? そういう蹴るではなく「突っつく」と表現したわけでした。地面をつついたその反動を利用する以外の余分な足の筋肉は使わないという意味を付与したつもりです。

この走り方と、心拍数 (文科系) 2019-12-30 20:18:48
 この走り方が合理的と確信した理由が、心拍数です。同じ10キロ時の心拍数が、僕で言えば平均心拍数で10近く下がってくるから疲れないのです。ストライドは減りますがピッチ数が30以上も増えても、余分な筋肉を使っていないということなのでしょうね。 】

【 ランニングフォーム (げたのうら) 2019-12-30 21:52:33
文科系さん、
講習会でコーチは膝は曲げないで走れっ、とも言っていました。現実にはそんなことは無理ですが、意識としては2本の棒で交互に地面を跳ねる(文科系さんの仰る突っつく感じですね)と言う感覚です。
そして遊脚(身体の重みの掛からない方の足、走っていて着地した足の反対側の足のこと)は素早く戻して着地する前から蹴る(跳ねる)準備を心がけることも大事だそうです。突っつくという表現は正しいと私も思います。

平均心拍数が10も違うのは凄いですね。私はそこまでの違いはないと言うか、私の場合心拍数はその日の体調によって日々異なるので何とも言えません。でも楽な走りが出来れば心拍数も少なくなるのが自然なんでしょうね。 】

【 待っていたようなお返事 (文科系) 2019-12-30 22:14:40
 標記の通りで、とても嬉しい。こんな部分が。
『2本の棒で交互に地面を跳ねる・・と言う感覚です』
『素早く戻して着地する前から蹴る(跳ねる)準備を心がけることも大事だそうです』
 「跳ねる」も「(跳ねる)準備を心がける」も、非常によく分かります。なんか、僕が言いたかったことを最もよく表現してくれているような。

 我が意を得たりと、とても心強くなりました。僕の一定持続最高心拍数は165ほどだと思いますが、この走法で30分4・95キロの時が147だったんですよ。これからがとても楽しみになったんです。 】

【 ありがとうございます (げたのうら) 2019-12-31 13:05:04
文科系さん、
心拍数がそれ程までに下がるのはしっかりとしたベースが出来ていたからだと思います。私はまだそこまで達していませんし、不整脈がでるのでトレーニング内容と心拍数の関係を論じることが出来ないのが残念です。
しかし兎に角文科系さんを目標にいつまでも楽しく走れるようにしていきたいと思っています。

来年もよろしくお願いいたします。
どうぞ良い年をお迎えください。 】

 

 このやりとりは、とても楽しかった。お相手の言葉遣いが非常に明瞭で、打てば予想以上に響いてくれた感じがしているとは、上の文章から皆さん感じていただけるはずだ。言葉遣いが明瞭というのは、その思考が正確であることと理解してきたから、僕としてとても信頼もできたものでもある。ちょっと得がたいような体験だったと、振り返っている。

 ゲタノウラさん有り難う。そして、来年もよろしく。

 

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五輪代表がジャマイカ戦で得た画期的組織  文科系

2019年12月30日 12時07分54秒 | スポーツ

  28日に行われたキリンチャレンジカップ2019のUー22代表は、9対0というそのゲーム結果以上にちょっとないほどに大きい財産を得たと思う。以下は、「the page」というサイトに載った『藤江直人/スポーツライター』氏による記事からの抜粋紹介であるが、非常に優れた今後要チェックのライターと僕自身に言い聞かせたものだ。
 このゲームによってここまでは中途半端な指導とこのブログでも再三述べてきた森保監督自身も(11月18日、20日の当ブログ拙稿参照)、得がたい財産を得たはずだ。以下のように、今の世界最先端戦略を選手達自身が話し合って取り入れた事が明らかで、そのことを以下の文章は実に丁寧に追っているのである。

 

 さて、この記事が何よりも目をつけたのはここだ。『28分間で大量5ゴールをもぎ取る日本の猛攻を導いたのは、前線からの連動した激しいプレスだった』。この最初の場面を、こう描き出している。
『「立ち上がりだけでなく、90分間を通してすべて前線から取りに行こうとみんなで言っていた。観ていた方々も楽しかったと思うし、プレーしていた選手自身が一番楽しかった」
 試合後に会心の笑顔を浮かべた、1トップの前田大然(CSマリティモ)のプレスから先制点が生まれた。一度は相手にかわされ、右タッチライン際へパスを出される。あきらめずに方向転換する前田に連動するように、右ウイングバックの長沼洋一(愛媛FC)も猛然と間合いを詰めた直後だった。
 大きなプレッシャーを感じたのか。前田と長沼に挟まれた相手選手がパスミスを犯した。こぼれ球はMF中山雄太(PECズヴォレ)と前田を経由して、相手ゴール前にいたMF安部裕葵(FCバルセロナ)へテンポよくわたる。次の瞬間、相手ディフェンダーがたまらず背後から安部を倒してファウルを献上する。開始わずか5分。中山の直接フリーキックが、ゴール左上を鮮やかに射抜いた。』

 なお、この場面を中山が「安陪が快くキッカーを譲ってくれた」と語っているのが面白い。

 その後の描写は、こうだ。
『 豪快な一撃が呼び水となり、日本のプレスがさらに鋭くなる。マイボールになってもすぐに奪い返される展開に、ジャマイカはシュートを放つどころか、日本のペナルティーエリア内に侵入することもできない。16分にMF旗手怜央(順天堂大)、17分に前田、19分に再び旗手がゴールで続いた』。

 チーム内討論でこういうプレスを先頭に立って主張したのは、バルサの安陪だと語る。
『9月の北中米遠征以来の招集となったU-22代表で、安部は24日から長崎市内で行われてきたトレーニングキャンプを通じて「いまは攻撃のことよりも、守備のことを考えている」と公言してきた。バルセロナで実践されている前線からの激しく、連動した守備を日本へ還元するべく、紅白戦を含めた練習中や選手だけで開催されたミーティングで率先して音頭を取ってきた。
 一人では何もできない。ビジョンを共有して、ピッチ上の全員が同じベクトルを描かなければ、逆に相手にスペースを与える諸刃の剣になりかねない。その意味では狙い通りだったのではないか。こう問われた安部は「別にはまっていないですよ」と、意外な言葉を紡ぎ出した。
「何十回と剥がされていますからね。それでも、あの距離感ならばたとえ一人が剥がされても、次がすぐにアタックできる。ミーティングではどのように守備をするのか、ということよりも、イレギュラーが発生したときや、あるいは上手くいかなかったときの対応の仕方を何度も話し合いました。試合中は上手くいかないことの方がほとんどなので。守備でも攻撃でも、90分間を通せば何十個もミスがありましたけど、11人プラス、スタッフの指示でカバーできたことがすごくよかった」
 ミーティングでは森保一監督から「前半の15分くらいまでは激しくいって、その後はちょっと様子を見てはどうか」と提案された。しかし、11月のU-22コロンビア代表戦でプレッシャーをまともに受け、攻守ともに後塵を拝した苦い経験が、出場した前田や中山の脳裏には色濃く刻まれていた。
「ただ、選手たちのなかではずっと行った方が相手も慌てるし、こういう試合にできるんじゃないかと話していたので。日本にいるとどうしても『ちょっと待って』という感じになるけど、海外は『行けると思ったら行け。それでボールを取れればOK』となるので」
 今夏に松本山雅FCからポルトガルへ新天地を求めた前田が、選手たちの意思を貫き通した舞台裏を明かす。
 くしくも安部が「1試合のなかで10回くらい剥がされたとしても、みんななら守れるはずなので。ならば、どんどん行った方がいい」と今回のキャンプ中にメディアへ明かし、前田や旗手をはじめとする仲間たちと何度もコミュニケーションを密にしてきた戦い方でもあった。』

 

 こういうDFラインを上げた上での前線からのプレスとは、ユルゲン・クロップ流のゲーゲンプレスそのもの、得点、攻撃のためのプレスなのである。その何よりの証拠をもう一つ別の新聞から上げておくと、安部の口からでたこんな言葉があった。

『攻守の素早い切り替えも「奪われた瞬間に前に走るのが大事」との言葉通りに実行』

 この言葉こそまさに、ドイツ語のゲーゲンプレス、英語ではカウンタープレスそのもの。これをやり切った選手らのゲーム前の意思一致をこそ描き出したこのライターは実に慧眼、有能である。日本のライターはすべからく、「プレス」というとすぐに「守備」と連想、理解するのは、もう止めるべきである。

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喜寿ランナーの手記(276)この歳の走法変更は、冒険だったが・・・   文科系

2019年12月27日 02時21分44秒 | スポーツ
 16日に走法変更を始めて、16、21、24、26日と走った。前回16日に書いた文章で言うが、こんな走法になったということだ。
『後ろ脚を蹴るというよりもこれで地面を突っつくような感じで走ってみた。突っついたその反動で脚をその付け根から前に出すその度合いは少なくするというやり方である。そしたら、驚いたことにピッチとスピードが上がる割に息も上がらず、始終疲れが少なくて済んで、30分制限時間がある市営ジムマシンの30分掛ける2回が、4・5キロと4・9キロになった。これは、昨シーズンの12月22日の4・7、4・9キロ以来の最長距離になる』

 さて、この走法だと僕の弱い方の左脚を鍛えないといけないようだ。走っている間は息も上がらず快調なだけだったのに、事後身体が冷えてきたら左足首上の後ろ外部分にちょっと痛みが感じられたからである。16日以降17~20日と走らなかったのはそのためで、どうもアキレス腱周辺炎症のごく軽いものらしい。やはり78歳なのだなと改めて感じ直したところだ。その後の24日走行後再び左脚の足底にも筋膜炎の軽い症状が再発しているし、「老人の走法変更は冒険である」と改めて感じ直している。でも、タイムと心拍数の少なさから考えてみて合理的な走法のようだから何とか身体を適応させようと、そういう方向で今は走っているわけだ。だから、21日以降は全てLSDである。昨日もジムマシン30分掛ける2回で、4キロの4・5キロと走っただけ。
 
 でも、僕に言わせれば「この短距離走法のような走り方」は、リズミカルで楽しい。ストライドこそ90センチと脚を前に持って行く幅は極めて小さくしているにしても、地面を衝いたその反動の力で走るまさに弾むような走法だから楽しいのだろう。が、その分下肢への衝撃が増えるようだ。その衝撃が、僕の場合全体的に弱い左脚にダメージを与えているということ。
 これでこの走法(の衝撃)に慣れながら、いつものように少しずつスピードを上げていく。まー初めてこの走り方でやっていきなり9・4キロまで行ったのだから、なんとかなるだろうと今は目論んでいるわけだ。

 
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随筆  子どもって、すごい   文科系

2019年12月26日 00時36分21秒 | スポーツ
「今度は上手な子のように、板を持ったクロール・キックで二五mやってみる?」
 近く五歳になる男の子、孫のセイちゃんにそうたずねると、弾んだ声でウンッ応えつつ、僕に微笑みかけてくる。板で泳いだことなどないはずだから拒否されると思っていた僕は、内心のうれしさを押し殺してさりげなく板の持ち方などを教えて・・・。

 これは、娘に頼まれた、セイちゃんの水泳特訓の四日目のこと。通っているスポーツジム・メガロスの水泳教室の進級テストに二回落ちて四か月を無駄にしたあとに、僕の出番を求められたという一場面なのだ。そしてこの日いきなり起こったことに、僕はまーびっくり仰天! 彼のこのクラスからの進級テスト課題とは、「フィックス」という二つの浮きを両肩に付けて「五メートルをバタ足できる」というもの。これはもう特訓一回目でできてしまって、その後テストにも合格したから、以降今日もふくめて二回はその距離を延ばす練習をしていたのだ。この間中守るべき大切な基本は、以下のこの二つ。
 一つは、正しい伏し浮き・蹴伸びの姿勢が取れること。壁を蹴ってまっすぐに進むだけの練習を何回もさせるのだが、蹴った後の全身を脱力させた上で、これを常に水面と平行に保つことが要点である。ただ、全身脱力した「身体の伸び」さえあれば、自分の身体に水の抵抗がなくなる五体の使い方を子どもは自然に見つけ出していくもの。しかも、この水の抵抗感がなくなる初めてのスタイル・やり方習得が、子どもにはまた楽しくて仕方ないものらしい。自分には難物であった水の中を力も要らずスーッと進んでいると実感できるからだろう。セイちゃんもこれがちょっとできるようになると、自分から進んで、かつ嬉しそうに、何度も何度も挑戦していたのが、僕にはとても興味深かった。今ひとつは、足首と膝を伸ばしてバタ足すること。つまり、脚をなるべく根元から動かす。
 さて、テストは五mだったけど、蹴伸びは完璧、バタ足も形になってきたこの日、思いついてこう提案してみた。「できるだけ遠くまで行けるようにやってみる?」。「ウンッ」という返事もろともどんどん距離を延ばし、結局二五mの向こう岸までを泳ぎ切ってしまった。僕はまー嬉しかったこと! 半信半疑のままに「もう一度やってみる?」に、やはり涼しげに「ウンッ」。これもやり切って〈この子、心肺機能が強いんだ!〉と、二度目の仰天。そこでその日のうちにと思いついたのが、冒頭のボード・キックの提案だった。

 何度も言って聞かせてきたのに、激しくバタバタするほどに出てくる足首と膝が曲がる癖もなんのその、やはりパワフルに通しきってしまった。〈一二・五mクロールでさえ三つ上のクラスのテスト課題なのだから、手腕の形をちょっと教えればこのクラスもクリアー同然〉。「セイちゃん、君、凄いことやったんだよ、これ!」、連発していた。

五体の使い方、身のこなしの巧みさを習得するのは、小学生までが一番で、幼いほど速い。これはスポーツ習得の生理学的知見であって、それ以降の何分の一の努力で身につくということ。知ってはいたそういう理論で頭をがーんと殴られたのが嬉しくて仕方ないという一日になった。ちなみに僕自身、新たにバタフライを覚えるのは到底無理と思い知らされた体験を最近持っている。他の三泳法は全て完璧に出来る僕でもなのだ。子どもって、すごい!
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公憤、メガロス水泳教室に  文科系 

2019年12月26日 00時30分42秒 | スポーツ
 野村不動産が全国展開しているメガロス水泳教室に孫二人目の五歳児も通うようになった。一人目を見学し続けてきて思うところがあって、こんな質問メールをメガロス自身に出した。近く返事を送ると返信してきたのが12月12日。その返信がどうも来ないようだから、ここに拙文、質問を掲載することにした。これは一種の社会問題だとも愚考するからである。子どもらの社会的教育機関と言う役割があると言うのも当然のことであるし。以下は一種の公憤と、受け取っていただきたい。

『 16クラスが30クラスになったのは(注1)、極めて不愉快。調べてみたら、入門段階と古い1級で多く枝分かれしていた。この前者は、一挙に三つ上がることもあるようだから、大差あるいろんな子に合わせて丁寧に分けたと、まー理解できる。
 が、後者は全く理解不能。1級卒業者(注2)をつなぎ止める策としか思えない。こんなことをやるくらいなら、前から「タイム測定の選手クラス」とでも言うものを設けておくか、従来クラスと違う「それ以降のクラス」を新たに設けるべきではなかったか。1級になった子が4級って、その気持ちを考えなかったのか。子どもの気持ちをちっとも尊重していないという意味で、本当に馬鹿馬鹿しいやり方である。

 もう一つ、質問。クロールの教え方がおかしい。呼吸時に真上以上に、180度を通り越した反対側まで顔が行ってしまっている子も居るほどだ。これでは、身体がいろいろにぶれても来るから、水に抵抗がない身体の使い方にはならない。25メートルクロールクラスが長くかかるのには、このことが関係していると観てきた。悪い癖を直すのに熱心でないスクールと思うばかりだ。

 そして、もう一つ。あるクラス泳法習得卒業時にはその課題が上手く泳げていた子が、以降のクラスで悪い癖をつけることが目立っている。身体に染みついた癖を子どもが直すのは大変。もうちょっとこの対策を考えて欲しい。友人の子らがちっとも進級できない原因はそこにあると観てきた。』

注1 最近上達していくグレイドに16クラスあったのを、30クラスと倍ほど多くなる区分けをした。そのことを指している。
注2 今までは一級が通常の一番上だった。それが6クラスほどに枝分かれした事を指している。

 これに対して、こんな返事が来ていたが、まだそれが届いていないのである。
『このたびは、お問い合わせいただきましてありがとうございます。お問い合わせ内容につきましては、後ほど御返答させていただきますので今しばらくお待ちくださいませ。』 
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随筆紹介 「リンゴ」   文科系

2019年12月25日 08時40分29秒 | 文芸作品
   リンゴ  K・Kさんの作品です

 リンゴの美味しい季節が来た。紅や黄色のリンゴがツヤツヤと輝いて店先に並んでいる。私は父の転勤で小学生の時に青森県で五年間過ごした。おやつはリンゴの丸かじりで、毎日食べても飽きなかった。そのせいか、食べ盛りの小学生の孫娘たちが、トワイライトスクールから帰宅後「お腹が空いた!」、「はい、リンゴ」、丸かじりを勧める。

 私の好きなのはシナノスイート。フジとツガルを親に持ち、酸味が少なく甘みを強く感じる。「ジュウシイだし、シャキシャキ感がたまらないね」、両手で持ってかじる小学六年の姉は、一個食べてもまだ物足りなさそう。百六十三センチ、六十三キロの身体はダイエット中で、食べ応えのあるリンゴは最適。
 翌日、リンゴは一個しかなかったので、八等分に切り分けた。二人で競争して食べていたが、ふと「おばあちゃんは食べないの?」小学三年の妹が聞く。「要らないよ」応える。自分は食べずに食べさせる楽しみもある。でも、このリンゴは蜜が入って魅力的だった。「欲しいけど、少なくなるよ」顔見合わせ迷っていた孫達は「一つだけね」と最後の一切れを惜しみながらフオークに刺して出した。言ってみるものだと思った。

 私が子どものころ、母がおやつを食べている記憶がない。もしかしたら我慢していたかもしれない。あの頃、私は親の気持ちを全く気にしていなかった。孫達を見て思い返した出来事だった。
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河村名古屋市長は、「あんなゴロツキ」である

2019年12月24日 10時23分01秒 | 国内政治・経済・社会問題
 拙稿、『不自由展、河村名古屋市長の誤り』に、ある厳しい反論を頂きました。ごもっとも、これが道理だというわけで、この反論とお応えした拙コメントとをエントリーとして再掲いたします。

【 甘いっ! (ごんべい)  2019-12-24 01:22:21
 上記の批判は甘すぎます。
 河村は「誤り」を犯したのではなく、表現を抑圧した犯罪者なのです。
 あの展示のコンセプトは、「現代においてどんな表現が制約を受け不自由になっているか」を問うものでした。ですからはじめっから、マジョリティの拒絶するものは何かを改めて問うものだったわけです。
 河村の発言はそれすらも否定し、そのアジテーションは「ガソリンをもって参上」との脅迫を呼ぶにいたり、同展は中止に追い込まれました。これはれっきとした犯罪行為です。
 その際、彼が理由としたのは「国民感情として許せない」でした。私も国籍は日本人ですが、彼と同様の感情をもってはいません。日本人それぞれがそれぞれの感情をもっています。それを彼は、あたかも同一の感情が存在し、それをもたないものは非国民としたのです。
 彼はかつて、名古屋の今池地区は、「チョーセン」がいて商売がやりにくいなどと発言するなど、ヘイト思想の持ち主です。ですから彼は、「誤り」を起こしたのではなく、自分のヘイトに沿った発言をしたのみなのです。
 名古屋市民の文科系さんに問います。いつまであんなゴロツキを市長にしておくつもりですか。そして、その犯罪行為を、「誤り」などと優しく受け止めるつもりですか。】

【 ごもっともと、深謝 (文科系) 2019-12-24 10:18:11
 ごんべいさん、御応答深謝。
 さらに、ごもっともと言うわけで、拙稿をより豊かにしてくださったと、読ませていただきました。

『名古屋の今池地区は、「チョーセン」がいて商売がやりにくいなどと発言するなど、ヘイト思想の持ち主です。ですから彼は、「誤り」を起こしたのではなく、自分のヘイトに沿った発言をしたのみなのです』
 この「チョーセン」はうろ覚えだったのですが、確かにヘイトの確信犯だ。

 彼にはもう一つ、「南京大虐殺の否定論者」という言動も思い出しました。この事件自身については11月28日のここにも拙稿を書いている身とて、今もムラムラと公憤が湧いてきたものです。ここを訪れるネトウヨ君らに反論する必要上、いろんな本を読み、長い間かかって学んだ産物の拙稿でした。

 確かにこのように数々公の筋を踏みにじって恥じない市長というのでは、「あんなゴロツキ」というしかありません。
 一名古屋市民として、恥ずかしいという思いを再確認させていただきましたです。 】

 
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不自由展、河村市長の誤り  文科系

2019年12月22日 06時06分35秒 | 国内政治・経済・社会問題
 遅ればせながら、「表現の不自由展」についての河村名古屋市長の発言には、大変な違和感があった。1人の人間としてならいざ知らず、地方行政長の発言としてはあまりにも個人感情的なだけのもので、その見識が疑わしいと言いたかった。彼が「日本人を踏みにじった」と述べたのは、昭和天皇を焼いている映像作品についてだったからだ。

 昭和天皇も日本国民の象徴だったが、同時にその人物自身が戦前の大日本帝国統治者でもあって、その大元帥の命令であの太平洋戦争が起こされたのである。それに対する怒りの表現は当然ありうるものだろう。何もおかしくない。
 また、象徴天皇という彼の後半生についても税金を使っている国家の一機関であるという意味では、それについてどういう表現、発言をしようとも、主権者である国民の政治言論、表現の自由に属することだ。

 こういう「筋」があるにもかかわらず、河村氏があーいう発言をしたというのは、地方行政長という立場を忘れて、個人の感情を語っているに過ぎないことになる。つまり、昭和天皇という一身に、大日本帝国統治者と日本国象徴という2側面が存在したことに目を向けず、その宗教性のみを取り出して個人的感情を述べていることになる。そして、行政に携わる者らがこんな発言を続けていれば、日本政治の主権者が天皇について自由に物を言えなくなっていくはずだ。今でも既に、そうなってきているのに。憲法上の天皇について自由に物が言えなくなっていくのは、戦前日本をちょっとでも考えてみれば、大変恐ろしいことである。日本政治世界には今でも天皇を神格化する政治思潮が大きく存在するからだ。象徴には、何の神聖も、統治者性もない。

 最後に、こう付け加えておきたい。政治には意見対立があって当たり前、それが普通のことである。そんな世界で、いちいち反対者の意見に「傷つけられた」と言ってみても個人の感情を述べているだけ、何の正当な抗議にもならないどころか、主権者の自由な政治論議を妨げるものである。行政の長、権力者などは特に、そんな発言は慎むべきだ。彼の意見に反対する主権者にも自由な政治的発言をさせる責任がある立場だということを忘れてはいけないという理屈である。
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南野拓実が入るチームが明日世界一クラブになる!   文科系

2019年12月21日 07時34分59秒 | スポーツ
 世界のサッカークラブが何十万あるか知らないが、その頂点を決める世界クラブカップ決勝戦が日本時間の明日行われる。ヨーロッパチャンピオン・クラブのリバプールと、南米チャンピオン・フラメンゴの間で。フラメンゴは日本にとってはジーコのチームとして有名で、このジーコの時代には同じこのカップを獲ったことがあるのだ。この二チームの決勝戦について、こんな朗報も入った。
『日本時間22日午前2時から日本テレビ系で生中継される』
 
 さて、日本代表の南野拓実がこのリバプールに行くことに決まった。この機会にこそ、リバプールの強さをもう一度説明してみたい。攻撃ばかりを観る日本サッカー観では、このチームの強さが分からないからである。かと言って、守備ばかりを観るサッカー観でもこの強さは分からないのだし、さらに堅守速攻などと言うすでに古くなった概念で捉えられるチームでもない。堅守速攻の世界一名監督と言われたモウリーニョがどんどん勝てなくなって来たのが、その証拠だ。

 2013年イングランド優勝後のマンチェスター・ユナイテッド(香川がいたチームだ)は、翌14年にファーガソンが退いてから、現在までずっと坂道を転げ落ちるように凋落していく。その間に名監督モウリーニョを呼んでも立て直すことが出来なかった。他方、15年にクロップを招いたリバプールは、年々順位を上げて、今年とうとうCL優勝にまで上り詰めたのである。
 このことが示す事実は誰にでも分かりやすいものだろう。つまり、世界サッカーが激しく換わったということである。換えたのは、間違いなくクロップ自身。その中身が守備即攻撃、攻撃即守備というゲーゲンプレスだったと、これが僕の言い続けてきたことだ。その中身がまず、日本でもこういう表現で表されるものである。
「攻撃的・組織的守備」、「攻から守への速い転換」、「(香川のように)全力で走りながらトラップやワンタッチパスその他が出来る技術」、「コンパクト、特に高位コンパクト」、「守備に走れないFWは使えない」などなど・・・。

 その後の世界サッカーは、イングランドがダントツの強者になっていく。イタリアが落ち、ここのところスペインも落ちてきた。イングランドの方は、CLもELも、決勝がイングランド同士という勢いである。グアルディオラもこれを見越してきたように、というよりもクロップを追いかけるようにして、その1年後にイングランドに来たものだ。
 僕は、だからこそ言いたい。イングランドのこの強化からこそ、他は学ぶべきなのだと。世界の名選手が集まっているというのは結果であって、真の原因ではない。クロップとペップに続いて、トットナムも後を追うようにして強くなったから今の隆盛があり、弱かったリバプールも強くなったからこそここに名選手が集まるようになったのだ。例えば、マネもサラーも、前チームではこれほどの選手ではなく、リバプールに来て輝いたのである。世界の名選手は、CLで勝てるチーム、リーグにあつまるのである。

さて、クロップの強さの秘密は今でもそのゲーゲンプレスにある。そのゲーゲンプレスとは、こういうものだ。
「敵陣に攻め入った身方ボールを敵が奪って攻撃に転じた瞬間こそ、そのボールを身方が奪い返せるなら、『ゲーム中最大の得点チャンスが生まれる』。ということから、奪い返せる組織を常に意識しつつ敵陣に攻め入っていくやり方」
 つまり、ゲーゲンプレスとはプレスという守備用語を使いながらも、実は得点術なのである。それが攻守を分けて考える日本人には、どうしても分からない。攻撃というと繋ぎ(であって、その典型監督がグアルディオラであるとか?)、守備というとプレスと分けてしか考えられないからである。

 リバプールを観る時は、とにかくここを観よう。敵陣になるべく近い高い位置でどう敵ボールを潰すか。そこから、どう攻撃に転じるか。
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文在寅、対米軍事費交渉がしぶとい   文科系

2019年12月20日 10時00分08秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 これは「マスコミに載らない海外記事」サイト19日の記事から。トランプの法外な軍事協力費要求といかに粘り強く闘っているかが伝わる。国民一人当たりGDPが世界31位と随分貧しくなった日本政府にも、こんな努力を見習って欲しい。対中国前線軍の強化は今や、アメリカにとってこそ、最大の世界戦略。が、その日米交渉経過はなかなか国民には伝わってこない。なお、この記事の筆者は、こういう人物。
『コンスタンチン・アスモロフは歴史学博士、ロシア科学アカデミー極東研究所朝鮮研究センター主任研究員。オンライン誌“New Eastern Outlook”独占記事』


『 (前略)  その後まもなく、韓国の報道機関が、外務省や国防省官僚ではなく、企画財政部の鄭恩甫が、アメリカ軍の朝鮮半島配備配置経費負担についての交渉責任者だと報じた。結局、ドナルド・トランプは、来たる会談では、二つの同盟国間の関係よりも、実際的な経済的配慮をより考慮に入れると述べていたのだ。だから、純粋に財政的見地から、今回アメリカ合州国は、共同軍事演習経費を含め、朝鮮半島の安全保障に関する全出費をカバーするため、韓国に48億ドル要求するだろう。どうやら、アメリカがこのような用途にいくら使うかの問題だ。
 9月24日、アメリカ軍の韓国配備経費負担に関するアメリカと韓国当局の二日間交渉がソウルで始まった。(中略)交渉二日目までに、双方は彼らの交渉上の立場を明らかにしており、韓国マスコミによれば、(彼が言うには)妥当な数値、公正な方法での経費負担が議論の話題でなければならないので、張元三は相手側の条件を受け入れるのを拒否した。張元三はアメリカの交渉相手に、ソウルはワシントンから兵器を購入し、米軍基地建設に対して、大きな財政的貢献をしていることを想起させた。
 結局、ジェームズ・デハートと張元三は、公正で最適な解決策に到達するため、会談を続けることに合意した。アメリカが求めた金額についてはメディア報道はなかった。だが、鄭恩甫が次の交渉で、韓国交渉チームのトップになった事実からして、アメリカの要求は相当大きかったに違いない。
 10月22日から24日まで、ジェームズ・デハートと鄭恩甫の二度目の協議はハワイで行われたが、一回目と同様、不成功だった。韓国の康京和(カン・ギョンファ)外務大臣は、アメリカ合州国が「遥かに過大な要求ししている」と述べた。彼女は「公正を基礎に契約を更新するという政府の一般見解を繰り返すだけで、交渉の細部に関してはコメントを拒否した」。
 それでも、10月28日、会談を良く知っている韓国側代表者が、韓国とアメリカ合州国が、交渉上の立場の差を狭め、双方が受け入れる可能な合意に達する狙いで交渉を続けることに同意したと記者団に語った。だが、この人物は、進展した具体的分野については、いかなる詳細説明も拒否した。
 10月31日、ボイス・オブ・アメリカ(VOA、ラジオ放送局)インタビューで、アメリカ合州国上院軍事委員会のジャック・リード上院議員が、アメリカ下院議員が、ドナルド・トランプと彼の政権に、韓国との公正な経費負担の合意を求めるよう要求したと述べた。どうやら、アメリカ指導部は、韓国が朝鮮民主主義人民共和国との紛争解決で、共同の安全保障を確保する上で、大きく貢献し続けている極めて重要な同盟国であるという事実を考慮に入れる必要があったのだ。加えて、韓国は既に京畿道、平沢市のハンフリーズ基地拡張経費のかなりの割合を負担することに同意していた。
 その頃には、10月の交渉に関して、より多くの詳細が韓国マスコミに現れ始めた。これら報道によれば、アメリカ合州国は、米軍基地で雇用される韓国労働者の給料や、軍事施設建設や輸送機関の経費だけでなく、韓国に配備するアメリカ軍兵士と彼らの家族を受け入れや、共同軍事演習を展開する費用や、朝鮮半島で、緊張が一時的に高まった場合に備え、アメリカの戦略上の資源を保持する経費も、韓国側が計上するよう要求した。これの総てで年間最高50億ドル増えた。それ故これは(韓国駐留アメリカ軍に関する)米韓地位協定が承認され、発効した際の会談以来、最も厳しい交渉だった。
(中略)

 11月19日、米軍を朝鮮半島に配備する来年の経費負担に関する三回目の協議が行われた。議論は二時間以下(ある報道によれば、わずか30分)で、その後、韓国外務省報道官が、交渉は計画通り進まなかったと述べた。彼は実際、アメリカ代表団が一方的に会談を終わらせ、ソウルを去り、アメリカが予定外の記者会見をして、総て韓国のせいにした事実に言及していたのだ。
 鄭恩甫によれば、アメリカ側は、防衛に対し、韓国貢献の大幅増加を、それゆえ協定に新条項の付加強く要求した。支払いは、28年間実施されてきた協定の枠組み内で、双方にとって妥当な水準に保たれる必要があると韓国代表団は繰り返した。このような見解の劇的な相違のため、三回目の協議は完全に失敗した。
 11月25日、韓国の世論調査会社Realmeterが調査の結果を報告した。68.8%の韓国人が、米軍の駐留を含む(全般的な)防衛に対する韓国の支出増加というアメリカ要求に反対だった。アンケート回答者のわずか22.3%が、ワシントンは朝鮮半島の軍事駐留を減らす可能性があるので、ソウルはアメリカの圧力に屈する必要があると考えている。
 11月26日、外交問題評議会(CFR)の朝鮮半島問題専門家スコット・シュナイダーが、防衛経費負担をより公平にすることにまつわる、韓国とアメリカ間の論争は、極めて異例な出来事だと強調した。更なる緊張を引き起こすことで、この意見の相違は、朝鮮民主主義人民共和国との交渉、対中国政策、アメリカの同盟国に対する信頼に影響を与えかねない。会談はドナルド・トランプ政権による不当な要求のために失敗したというのが彼の意見だ。
 まさに同じ11月26日、ドナルド・トランプ大統領は、アメリカが金持ちの国々を守るため膨大な金を使っていた、以前の大統領連中は無意味な国際プロジェクトに資金供給するための貯金箱として、中産階級アメリカ人を利用したと再び述べた。
 四回目の交渉は、12月4日にアメリカで行われた。会談前、鄭恩甫はアメリカに対する具体的提案の準備について記者団に語り、アメリカ軍を朝鮮半島に配備する経費は公平に負担すべきことを指摘した。ドナルド・トランプも同様に対応し、ソウルとワシントンは、防衛に対して公正な貢献をする必要があると指摘した。
 一方、元在韓米軍司令官ウォルター・シャープ大将は大統領の姿勢を批判した。(非営利組織)Korea Economic Institute of Americaが主催したワシントンでのセミナーで、彼は「アメリカは、数ドルのために同盟を破棄すべきではない」と述べた。ウォルター・シャープによれば、ワシントンの全部同盟国の中で、韓国は国内総生産(GDP)と比較して、防衛に対し最大の貢献をしている。アメリカが「韓国との同盟の価値を適切に評価したいなら、評価には、イラクとアフガニスタンでの国連平和維持任務に対するソウルの貢献を含むべきだ」と彼は言った。実際、韓国はイラクでの連合軍に対して、アメリカに次いで二番目に大きな貢献国だったが、韓国軍は軍事行動の一部ではなかった。(後になって、韓国のテレビ・シリーズで彼らの名声を手に入れた。)
 懐疑論者が予想する通り、第四回目の交渉も不調だった。次回は12月にソウルで行われる予定だ。
 最終「エピソード」を待ち受ける中、筆者はこの悲観的記述で記事を終わらせることにした。それでも現時点では、熱烈な演説にもかかわらず、これ以降の出来事はGSOMIAの道に続くことが想定できる。その後、文在寅大統領は国民に、実際これは指導部の抜け目ない計画のおかげで可能になった大韓民国にとっての外交上の勝利だと説明するだろう。
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昨夜の日韓戦における監督の責任  文科系

2019年12月19日 09時50分27秒 | スポーツ
 11月19日のベネズエラ戦について、20日に「森保解任も視野に入れるべき」をエントリーしたが、昨夜の日韓戦はその感が倍増した。以下のように。

 昨夜の日韓戦は、11月20日のエントリー内容に付け加えて、もはや森保の限界と示されたと思う。負けたと言うこと以上に、内容が悪すぎる。どこが悪かったのか。
 たった一言、闘えていない。まるで、2010年前後から2年ほど前まで、日本代表クラブがACLで負け続けていたその闘いぶりを観ているような思いだった。技術はあっても「闘う姿勢」で負けていると何のプラスも見えないという典型ゲームである。「在日選手だけ、真の代表ではない」というよりも、森保には激変している世界サッカーで最も大事なことが指導できないのだと思う。

・「1対1は望むところ」と、球際で挑戦的に闘う。その際身方が見えているという余裕もなければ、話にならない。そういう余裕も、「1対1を避ける」姿勢からは、全く生まれてこないはずだ。ボールを、繋ぐ、奪うという基本的な闘いに、姿勢そのもので負けていた。

・上の点で昨日は全て悪循環が起こっていた。これ全て監督の責任。森保のサッカー姿勢そのものが、少々古いということだろう。ゲーゲンプレスが世界を席巻して以来、「1対1は望むところ」の姿勢がなければ話にならない。これは、旧キャプテン長谷部が常に大前提として強調していたことである。長谷部、岡崎、吉田、南野など世界で名を知られた日本人選手は、何よりもここを彼ら個人として一番よく知っているのだと思う。これは繋ぎ、潰しなど個々の技術の問題ではない、技術を発揮できるようにする姿勢の問題である。だから監督の責任ということだ。

・『「1対1上等、望むところだ」という姿勢がとれない選手は使わない』。森保はたった一言そう言い続けていれば良かったのである。常日頃から、こう言い続けていれば・・・・。
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小説 「俺のスポーツ賛歌」(3)  文科系

2019年12月19日 00時08分48秒 | 文芸作品
 定年近くのこんな俺を、同居生活という近くで見続けてきた母が度々口に出していた言葉がある。
『若い頃順調に一直線で来た男性は老後に苦労する。何らか意味がある寄り道をした人の方が豊かな老後になる。人生プラスマイナスゼロにできてるということなんだろうねー』
 これは、老後が即余生になってしまった父や、当時既にそうなりそうだった弟を見ていて、母なりに出した人生訓なのだ。ちなみに、先にも見た同窓会誌「桜陰」寄稿にもこんな一節がある。
『同居している次男夫婦も共働きですので、昼間は相変わらずの一人暮らしですが、二人が帰宅し、共にする夕食は楽しく、孤独を忘れることの出来るひとときです』。
 俺が五〇歳の頃から俺らは同居を始めて、その二年後に父が亡くなったその後の家庭風景を母なりに描写したものである。なお、この夕食時間は俺にとっても忘れられないものになっている。食卓に、母と連れ合いと二人それぞれの二品ずつほどが並んで、華やかな、楽しい食卓だった。なお、四人の兄弟姉妹の中で、両親が最も望まない青春時代を送った俺が晩年の両親と同居したというのは、皮肉というよりはむしろ当然の結果と今の俺は捉えている。博士号を持った外科医である兄は同じ名古屋市の同じ区内に住んで、八十歳を超えた今もなおパート勤務医として働いているが、父母共に兄夫婦とはいろいろあってむしろ疎遠といって良かったからだ。「一直線」の青春を過ごした息子やその配偶者とは、その親もなかなか親しく付き合えるものではないらしい。まして、全国区の大学を出た妹、弟は、それぞれ東京練馬区と横浜高台の自邸に住みついて、名古屋には帰ってこない。全国有数の大学卒業という優秀な子を持つということは、そんな覚悟も要るということである。なお、妹は母と同じ大学の大学院を出ている。


 五九歳の時に職場がスポーツジムの法人会員になったのを機会に、ランニングを始めた。その時に分かったことなのだが、入門して間もなくなんの苦もなく走れるようになって行ったのは、それまでのスポーツ好き、自転車人生があったからだった。自分の最高心拍数の七割程度で走りつづけると最も効率よく心肺機能を伸ばすことができるというランニング上達理論があると後で知ったのだが、素人が継続できる高速サイクリング心拍数がちょうどその辺りに来るものなのだ。つまり、俺はそれまでの自転車人生によってランニングに最適な心肺機能訓練を続けてきたわけだ。走り始めて一年ちょうどほど、六十歳で出た十キロレースで四九分台という記録を持っている。そして今七十七になる俺は、週に三回ほど各十キロ近いランニングをしている。その話が出たり、ダブルの礼服を着る機会があったりする度に連れ合いがよく口に出す言葉がこれだ。
「全部、自転車のおかげだよね」。
 この礼服は、三十一歳の時、弟の結婚式のために生地選びまでして仕立て上げたカシミア・ドスキンとやらの特上物である。なんせ、俺の人生初にして唯一の仮縫い付きフル・オーダー・メイド。これがどうやら一生着られるというのは、使い込んだ身の回り品に愛着を感じる質としてはこの上ない幸せである。よほど生地が良かったらしく、何回もクリーニングに出しているのに、未だに新品と変わらないとは、着るたびに感じる二重の幸せだ。弟の結婚式から父母の葬式までを見続け、「自分の大人時代を今日までほぼ共に歩んできた礼服」。それも今できる品質なんだろうかとか、今作ったらいくらするんだろうとか思わせるような五十年物なのである。こんな幸せさえもたらしてくれる一六九センチ・五八キロ、体脂肪率十二%内外の「生涯一体形」も、「生涯スポーツ」、特に有酸素運動と相携えあって歩んで来られたということである。もちろん俺は、若い頃に医者に教えてもらったポリフェノールのことも忘れてはいない。酸素を多く取り入れ過ぎてきたその手当をしていないスポーツマンは早死にするとは、医者なら皆が語ること。それは酸素とともに空気から取り入れてしまう活性酸素が細胞を最も激しく老化させる有害物質だからである。これを中和してくれるのが、ポリフェノール。かくして俺の食生活は、晩酌が赤ワイン、野菜は馬みたいに食ってきたし、最も多くする間食は、チョコレートに煎茶だ。つまり、こういう食生活習慣がいつの間にか楽しいものになっているというわけである。

 ランニングとサイクリングの楽しさは、俺の場合兄弟みたいなもの。その日のフォーム、リズム、気候諸条件などが身体各部の体力にぴったり合っているらしい時には、各部最小限の力によって気持ちよくどこまでも進んで行けるという感じの兄弟。そして、そんな時には身体各部自身が協調しあえていることを喜び合っているとでもいうような。
 自転車が五九歳にしてランを生み、退職後はランが自転車を支えて、まだまだ長く続いていきそうな七十七歳の俺の活動年齢。パソコンにぶっ通し五時間座っていても腰背痛にも縁がないし、目も大丈夫と、これらすべて有酸素運動能力のおかげ。「パソコン五時間」というのは、現役時代から仕入れて今も続いている同人誌の編集活動に必須の、現に日夜重宝している能力である。文章創作というこの頭脳労働にまた、有酸素運動が威力を発揮している。走った日の後二日ほどは、老人になって特に感じる朝の脳の冴えと同じものを感じ、走らない日が三日も続くとたちまちどんよりとしてくるのである。人間の身体で酸素を最も多く消費するのが頭脳であるという知識を思い出せば、誰にでも分かる理屈だろう。ちなみに、人間個体が窒息死する時、この死が最も早く起こるのも脳細胞であるらしい。

 週に複数回以上走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズ・ハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。
 こういう大切な快感は、何と名付けようか。イチローやナカタヒデなどこのセンスが特別に鋭い人の話をする必要がある時、このセンスを何と呼んで話し始めたらいいのだろう。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは日本では希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚。それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。自分の視覚や聴覚の芸術ならぬ、自分の身体感覚が感じ導く自作自演プラス鑑賞付きの、誰にでも出来る身体芸術である。
 勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめるというそのことの結果と見るべきではないだろうか。そういう理念を現に噛みしめているつもりの者からすれば、すっかり体型がくずれてしまった体協の役員の方などを見るのは悲しい。勝ち負けには通じられていたかも知れないが、「身体のセンス」の楽しみはどこか遠い昔に置き忘れてこられたように見えるから。その姿で「生涯スポーツ」を説かれたとしても何の説得力もなく、「言行不一致」を免れることはできない。

 さて、こんな俺のロードレーサーが、先日初めての体験をした。直線距離三〇〇メートルとすぐ近くに住んで、今は週三日も我が家に泊まっていく仲良しの女の孫・ハーちゃん八歳と、初めて十五キロほどのサイクル・ツーリングに出かけた。その日に乗り換えたばかりの大きめの自転車やそのサドル調整がよほど彼女の身体に合っていたかして、走ること走ること! 「軽い! 速い、速い!」の歓声に俺の速度メーターを見ると二十四キロとか。セーブの大声を掛け通しの半日になった。
「じいちゃんはゆっくり漕いでるのに、なんでそんなに速いの?」
「それはね、(かくかくしかじか)」という説明も本当に分かったかどうか。そして、こんな返事が返ってきたのが、俺にとってどれだけ幸せなことだったか。
「私もいつか、そういう自転車買ってもらう!」
 そんなことから二回目には、片道二十キロほどの「芋掘り行」サイクリングをやることになった。農業をやっている俺の友人のご厚意で宿泊までお世話になる企画だった。
 人間の子どもの力って凄い。初めての長距離ツーリングなのに、行きも帰りも俺の速度メーターはおおむね二〇~一五キロ、二時間ほどで乗り切った。名古屋市を、北部から南へ縦断して隣の豊明市までというコースだから歩道を走ったのだし、信号は多いし、海に近い天白川の橋の真ん中から水鳥や魚を探すなどの長い休憩時間も二回ほどとったのだけれど。帰りなどはその上、途中にある大高緑地公園遊園地を二時間以上も飛び回ったうえで、さらに一〇キロ近くを文句も言わずに走り通した。けろっとして本人曰く、「私は身体が強いからね!」。初めは半径三キロ以内はこれまでにすべて征服したと豪語できる公園遊びから始まって、自転車から、正しい走り方までも俺が教えて来たこの小学二年生は、五〇メートルを九秒切って走り、二重跳び三十回とかの縄跳びも大好きなのである。俺のスポーツ好きが乗り移ったようなこの子と、まだまだ一緒に遊べる体力を持ち続けていたい。そして今は、やがて青春を迎えるだろうこの子との一日百キロサイクリング、これが俺の夢だ。俺の経験からいって、今のように週二~三日、一回十キロ近いランニングが出来ているならば、一日百キロのサイクリングは容易だと目論んでいる。ちなみに、そういう高齢者は、サイクリングが盛んな英仏などにはうじゃうじゃいる。そして、彼女がその年齢までサイクリングを熱烈な趣味と出来るか否かは、俺が我が父母の教育力をどれだけ換骨奪胎して受け継ぎ得たかに掛かっていると考えている。
 ハーちゃんは二〇一〇年九月生まれ、今はもういない父母はともに一九一〇年九月生まれ、きっかり百歳の歳の差だ。


(終わりです)
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小説 「俺のスポーツ賛歌」(2)    文科系

2019年12月18日 12時40分25秒 | 文芸作品
 兄弟でただ一人一浪の後、文学部に入った大学でも、一年の夏にはバレーボールクラブのレギュラーになった。浪人時代も母校のマラソン大会に出て全学二位になったほどに基礎体力を維持した上で、大学の入学式前から春休み中のクラブ合宿に飛び入り参加をして入学式も欠席という意気込みで始めたクラブなのである。そのレギュラー初陣がまた忘れられないもの。夏休みに静岡大学で行われた中部地方国立大学大会で優勝したのだった。その年、愛知の大学バレーボール・リーグ一部中位に属していた結構強いチームだった。県大会常連のような学業成績優秀校のエースなどが集まるこの大学のレギュラー獲得は当時の俺にとって大きな誇りにもなったし、同時に家からの『自立』のさらに大きな一歩を踏み出すものになった。俺の高校クラブが地区大会一回戦勝ち抜けもできない弱さだったから、この誇りはことさらに大きかった。
 ところが、このクラブを一年の秋には辞めてしまった。当時の俺の意識としては、二つの原因で辞めた。一つは、哲学科の大学院へ行きたくなったこと。今ひとつは、体育会系の人間には、友達にしたい人がいないと見抜いた積もりになっていたことである。当時の俺はどう言うか、人生を求めていた。自分の家に規定された貝殻が小さいとしか感じられないようになった宿借りが、次の大きな殻を求めて歩き始めるように。そして、その大きな要求に、スポーツやスポーツ仲間が助けになるとは思えなかったのである。当時の奇妙な表現だけれど、感情や行動におけるほどにスポーツを大切なものとは、頭の中では捉えていなかったということだ。すごく好きだったし、行動上の熱中度も周囲の他の誰にも負けていないという自信さえ発散していたはずだが、当時の意識ではそれを俺にとって数少ない「面白いこと」の一つと捉えていたに過ぎなかった。

 哲学科の大学院に入ったころ、二人の主任教授のうちの一人がその時の授業テーマの説明としてこんなスポーツ論を語ってくれたことがあった。
「西欧と日本とでは、スポーツについての考え方は全く違います。ロダンの『考える人』。あの筋骨隆々たる姿は、なにも立派な軍人が、あるいは陸上十種競技の名選手が、たまたま何かを考えているという姿ではないのです。そもそも人間が何かを深く感じ、考えるということそのものが、あーいうたくましい筋骨を一点に集中してこそ成されていくという、ルネサンス以来の西欧流『考える人』の理想型というものなんです。対するに日本では、深く感じ、考える人ってどんな人でしょう。芥川龍之介みたいな人を連想する諸君も多いのではないでしょうか。貧弱な身体だからこそ文を良くするというような人。このように、日本では文武は分けられていて、文が武よりも上と、そんな感じ方がずっと多く存在し続けてきました。この頃こそ文武両道とよく語られるようですが」
 なるほどと思った以上に、一種ショックを受けた。この小柄ながら均整が取れた老哲学科主任教授が、大学時代にやり投げの全日本クラス名選手だったとも聞いていたことも重なっていた。
〈文武両道は本来なら比例するという相関関係にあるということだろう。それを言行一致して追求してきた人々がいる。それが西欧知識人の一般教養にもなっている。こういう本気の背後には、こんなスポーツ哲学もあるのだ!〉
自分のスポーツ大好きに大きな意味が一つ、初めて生まれてきた瞬間だった。だが、実際にこの哲学の意味、価値を身体で現し、感じられていくのは、まだまだ後の話になっていく。

 さて、俺が大学院に入ったとき弟は高校三年生で、その三年間はこんな生活を見せてくれた。授業が終わるとすぐに帰宅、勉強。夕食を食べてまた勉強。ただし、週に三つほど必ず観るテレビ番組を決めていて、その一つは「歌謡番組 夢で会いましょう」。しばしの青春時間というわけだが、これら三つでさえ夕食前後の一時間以内。こうして、彼の一日平均勉強時間は七時間に及び、しかもこれが三年間続いたとあって、これらすべてには何というかとにかく驚かされてばかりだった。これは後にはさらにはっきりと分かるようになったのだが、国語ができなくて、家庭教師についていた。英数の家庭教師ならともかく、国語のそれって珍しいということから、何か鮮かに覚えている。俺に言わせれば、この国語不得意は当たり前だ。小学校から大学までこれだけ人付き合いがなければ、文学や古典の字面、文章はともかくその中身が分かるわけがない。それでいて数学実力テストは父の助けもあって愛知県最難関高校でトップなのだから、まー非常に偏った人間なのである。ちなみに、この弟を当時の母が他の二兄一妹にはやったことがないほどせっせと献身的に押し上げていた。この時の母は、これまで努めていた名古屋市立高校教師の職を定年まで五年以上を残して辞めてしまい、専業主婦になった。それは、弟を東大に入れるために世話を徹底しようという望みから決めたことだ。母が遺した旧女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)愛知県同窓会誌「桜陰」への寄稿にこんな一節がある。
『昭和四〇年三月、○○高校退職。高校三年になって大学進学を前にした末っ子に一年間はすべてをかけてみようと、今まで出来なかった教育ママに徹しました』
母のこの決心を弟がどう捉えたかは俺には全く記憶がないから、まーそんなに異例、異常なことのようには受け止めなかったということだろう。
 こうして弟は、東京大学理科一類に悠々と入って行った。国語の点数不足などは、彼の数学の高得点でいくらでも補いが付いたということだ。


 さて、中学在学中から普通の移動はほとんど自転車に頼っていた俺だが、バレーボールを止めた後はスポーツ・サイクリングがにわかにクローズアップされていく。
 初めて自転車に乗ったのは小学校中学年のころ。子供用などはない頃だから、大人の自転車に「三角乗り」だ。自転車の前三角に右足を突っ込んで右ペダルに乗せ、両ペダルと両ハンドル握りの四点接触だけで漕いでいく乗り方である。こんな乗り方ながら、初めて走りだせた時のあの気持! 〈速い!〉はもちろんだが、〈自由!〉という感じに近かったのではないか。脚を必死に動かしているわけでもないのに、風がピューピュー耳を切っていく! サドルに座って届かない足を回す乗り方を間もなく覚えてからは、かって味わったことがないスピードでどんどん走り続けることが出来る! 
 以降先ず、中高の通学が自転車。家から五キロほど離れた中高一貫校だったからだ。やはり五キロほど離れた大学に入学しても自転車通学から、間もなく始まった今の連れ合いとのほぼ毎日のデイトもいつも自転車を引っ張ったり、相乗りしたり。
 共働き生活が始まって、上の息子が小学生になったころから子どもとのサイクリングが始まった。下の娘が中学年になったころには、暗い内からスタートした正月元旦家族サイクリングも五年ほどは続いたし、近所の子ら十人ほどを引き連れて天白川を遡ったことも何度かあった。当時の我が家のすぐ近くを流れていた子どもらお馴染みの川だったからだが、俺が許可を出した時に文字通り我先にと身体を揺らせながらどんどん追い越していった、あの光景! 子ども等のそんな自転車姿がまた、俺にはたまらない。
 この頃を含む四十代は、片道九キロの自転車通勤があった。これをロードレーサーで全速力したのだから、五十になっても体力は今の日本では普通の二十代だ。自転車を正しく全速力させれば、体幹も腕っ節も強くなるのである。生涯最長の一日サイクリング距離を弾き出したのも、五〇ちょっと前のこのころ。先ず知多半島先っぽまで。そこから伊良湖岬先端までのフェリーをつかった三河湾一周の最後には豊橋から名古屋まで国道一号線の車道を走ってきた苦労も加えて、メーターが弾きだした実走行距離は百七十キロになっていた。

 五十六歳の時に作ってもらった現在の愛車は、今や二十年経ったビンテージ物だ。愛知県内は矢作川の東向こうの山岳地帯を除いてほぼどこへも踏破して故障もないという、軽くてしなやかな品である。前三角のフレーム・チューブなどは非常に薄くて軽くしてあるのに、トリプル・バテッドと言ってその両端と真ん中だけは厚めにして普通以上の強度に仕上げてある。いくぶん紫がかった青一色に注文した車体。赤っぽい茶色のハンドル・バー・テープは最近新調した英国ブルックス社製。部品は普通のサイクリストなら知らぬ人はいないシマノのデュラエース・フルセットである。


(次の3回目で終わり)
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小説 「俺のスポーツ賛歌」   文科系

2019年12月17日 13時03分57秒 | 文芸作品
 今日から3日連続で、最近同人誌に書いた中編小説を転載させて頂きます。よろしくお願いします。


 照明を最小限にしたそのレストランは急上昇中の名古屋駅前地域でも指折りの店と分かった。テーブル一つずつが回りから隔てられた作りで、〈近辺の重役室から抜け出した財界人辺りが商売の探りを入れる会食などに格好の場所だな〉、それとなく見回していた。駅前ツインビルの一角に、六歳違いでまだ現役の弟が久し振りに二人で飲むために予約を入れた店なのである。東京から月一の本社重役会に彼が来名した秋の夕暮れのことだ。
 水を運んできたウェイターに彼が語りかける声が響いた。「このビルの社長さんは、僕の同僚だった友達でしてねー」。〈「せいぜいサービスしなよ」と告げる必要もあるまいに、いつもスノッブ過ぎて嫌な奴だな〉。こんなふうに、彼と会うと俺の神経が逆なでされることが多いのである。でも、その日の彼において最高のスノッブは次の言葉に尽きる。俺の過去について思わずというか何というか、こんなことを漏らしたのだった。
「兄さん、なんで哲学科なんかに行ったの?」
 そう尋ねた彼の表情が何か皮肉っぽくって、鼻で笑っているように感じたのは、気のせいなんかではない。そう感じたから黙っていたらこんな質問まで続くのである。「兄さんは元々グルメだし、良い酒も好きだし、生き方が矛盾してないか?」。まともにこれに応えたらケンカになると感じたので、こう答えた。「お前には分からんさ。世のため人のためという人間が、グルメじゃいかんということもないだろうし」

 さて、その帰りに弟の言葉を反芻していた。年収二千万を越えたとかが十年も前の話、東海地方有数の会社の重役に理工系から上り詰めている彼から見ると、俺の人生に意味はないのかも知れぬ。「人生、こういう生き方しかないのだよ」と決めつける押しつけがましさはさらに強まっているようだし。高校の文化祭などは全部欠席して家で勉強していて、俺の目が点にさせられた覚えがあったなー。そこでふっと、こんなことも連想した。「オバマのは、税を納めぬ貧乏人のための政治。私は納税者のための政治を行う」、前々回の米大統領選挙での共和党候補者ロムニーの演説の一部だ。つまり、金のない人々を主権者とさえ見ないに近い発想なのである。弟はこれと同じ人生観を持って、こう語っていたのかも知れない。「兄さんは別の道にも行けたのに、何でそんな馬鹿な選択をしたのか?」と。そこには「今は後悔してるんだろ?」というニュアンスさえ含まれていただろう。

 秋の夜道を辿りながらほどなく俺は、自分の三十歳ごろの或る体験を振り返っていた。大学院の一年から非常勤講師をしていた高校で、「劣等生」に対する眼差しが大転換したときのことだ。二十代はほぼ無意識なのだが、こんな風に感じていたようだ。こんな初歩的ことも理解できないって、「どうしようもない」奴らがこんなにも多いもんか! 彼らがどういう人生を送ってもそれは自業自得、本人たちにその気がないんじゃ仕方ない。この感じ方がその頃、コペルニクス的転回を遂げたのである。〈彼らとて好きでこうあるわけではないし、現にみんな一生懸命生きてるじゃないか〉。その時同時に、家族とは既に全く違っていると思った俺の人生観も、一種我が家の周到な教育方針の結果満載であると、遅ればせながら改めて気づいたのである。勿論、その良い面も含めて。そして、弟よりもむしろ俺の方が、我が両親の良い面を受け継いでいるのだろうとも、少し後になって分かった。彼らは、旧制中学校、女学校で能力のある貧乏な生徒を良く面倒みて、俺が成人になってからもずっと世話していたという例さえ、いくつか覚えている。この両親ともが、愛知県の片田舎、貧乏子沢山の家から東京へ、当時の日本に男女二つずつ計四つしかなかった高等師範学校へと上り詰めた人だった。父の方はさらにその上の大学院のような所も卒業している。母と結婚してから、その母が勤めた旧制女学校の稼ぎによってのことだった。こうして二人はつまり、明治政府が築き上げた立身出世主義人材育成・登用制度を大正デモクラシーの時代に国内で最も有効に活用できた「優秀な庶民」だ。だからこそ、同じような境遇の教え子を可愛がったということだろう。仏壇、長幼の序など古い家のしきたりのようなものはほとんどなかったが、「人生の幸せ=高学歴」および「人は皆平等に大切」と、そんな人間観、人生観と、それに基づく子育て力が非常に強い家ができあがっていたようだ。

 この時またふっと、弟のこんな言葉も甦ってきた。
「私の仕事は初め新幹線の進歩、やがてはリニア新幹線を日本に生み出すという夢に、各年齢では常にその最高責任者として関わってきたんだよね!」
 この誇り高い言葉はまー、あの皮肉っぽい笑みからすれば俺に対してはこんな意味なのだろう。「だけど、兄さんの仕事人生は、一体何が残ったの?」。確かに、最初の仕事を二十数年で辞めたのだから、そう言われるのも無理はない。それも、貧乏な民間福祉団体で休日も夜も暇なく働いた末の、精神疲労性の二度の病のためだったのだし。そこでさらに気づいたこと、これに似た病に、お前も罹ったじゃないか? それも若い頃の入院も含めて一度ならず今も……お互い頑張っちゃう家系だもんなー。

 いろんな言葉や思い出を辿りつつここまで来て、俺の思考はさらに深く進んでいく。弟は何でこんな挑戦的な言葉を久々に会った俺に敢えて投げたのだ? 今も病気が出かけて終わりが近づいている自分の仕事人生と、何よりもこれが終わったその先とを自分に納得させる道を懸命に探している真っ最中だからじゃないか。この推察は、妥当なものと思われた。すると、ある場面がふっと浮かんできた。
〈小学校低学年からアイツは電車が好きだった。我が家に近い母さんの職場・市立高等学校の用務員さんの部屋で母さんを待って一緒に帰る途中にある中央線の踏み切り。あそこでよく電車を見てたと母さんが言ってたよなー。彼は少年時代からの夢を、日本最高度の形で実現させたんだ……〉


さて、ここまでは、今から約一〇年ほど前のこと。この弟、というよりも兄弟妹と俺の四人が育った家族から俺だけが「変わった歩み」を始めたと、今になって初めて分かった時というものを振り返ってみよう。その始まりの出来事こそそもそも、「俺のスポーツ」なのである。
 四人兄弟のなかで、兄も弟も高校の時いったん入ったクラブを間もなく止めさせられている。確かそれぞれボート部と卓球部のはずだ。こんなに時間を取るのでは学業に障りがあるからということだった。妹は卓球部をずっと許されたが、女だからということだろう。これも何か両親らしい。両親と言ってもこの場合、主導したのは父だ。母は消極的に父に賛成した。庇ってくれたこともあったから、そう感じた。確かめたわけではないが、まず間違いないだろう。
 高校に入学してバレーボール部に入ったが、すぐに、「辞めろ!」と命令した父との喧嘩が始まった。父の手が出たことも一度や二度ではないといった、修羅場が初めは連日のように続いた。そんな時の母は、俺と父との周辺をただおろおろ、うろうろしていた。こうして結局、二、三年にはキャプテンになるなど、俺はバレーボールを三年間守り通したのである。
「事前にこの程度に身体を動かしておくと、こんなに楽にプレーができる」
「個人練習なども含めてどれだけ激しく動いても、最後に軽く一キロほど走ると、疲れがこれほど取れるものとは。翌日の身体も全く普通になっている!」
 こんな初歩的な知恵も、誰に教えてもらうということもなくふとした自分の試みから発見したもの。これらの知恵が当時の俺にとって価値が高いという意味でどれだけ新鮮なものだったことか。そして、クラブ活動の後自転車で家路についた時、あの汗と夕陽! 今さらにこれらが好きになっている原点であった。この時に培ったスポーツ好きや足どり軽い身体への愛着とともに。


(あと2回続きます)

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喜寿ランナーの手記(275)走法を変えたら楽に・・・   文科系

2019年12月17日 11時56分10秒 | スポーツ
 今日はちょっと走法を変えてみた。歩幅やピッチの変更とか蹴り足を強くするとか、膝を伸ばし気味に走るだとか、小さな変化をつけることはいつもよくやってきたが、これだけ変えたのは初めてというほどに、大きく。このブログを訪れたあるランナーのブログを最近よく見に行っていて、そこで教えてもらったことをヒントにして。そのヒントとは、こういう言葉だった。

『最近は気を付けていてほぼなくなりましたが、着地する足が頭より先になっていたこともあります。
「私のランフォームの癖は右肩が下がっていることと疲れてくると腰が落ちてしまい膝に負担の掛かる走り方です。着地する足が頭より先になっていたこともあります」』

 文中「着地する足が頭より先に」をなくしてみようというわけで、こんな走り方をやってみた。後ろ脚を蹴るというよりもこれで地面を突っつくような感じで走ってみる。突っついたその反動で脚をその付け根の骨盤から前に出すその度合いも前よりは小さくするというやり方である。その分ピッチは時に180近くと多くなるのだが、スピードが出る割に始終疲れが少なくて済んで、30分制限時間がある市営ジムマシンの30分掛ける2回が、4・5キロと4・9キロまで行った。前回のここに書いた「9・5キロが見えた」はもう明日にも可能。昨シーズンの最長距離12月22日の4・7、4・9キロも超えていくだろう。すると、その上はもう前立腺がん陽子線治療前の16年新春のころの最高10・3キロしか残っていない。そして、この走法だと10キロ時でも1時間走り通せるという感触も得られたのではないか。出したスピードの割に翌日の今の疲れも少ないし、とてもご機嫌である。

 それにしても、蹴った後の脚は「骨盤から運ぶ」とか「腰高の走りが良い」などは知っていたが、蹴り中心で走るのは短距離だけのように、僕は誤解していたようだ。「着地する足が頭より先に」が良くないと言う言い方が非常に鮮烈だった。
 getanouragooさんに、深謝。


コメント (6)
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