九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆 海外旅行クライマックス  一人ランチへの賓客   文科系

2024年05月31日 02時00分55秒 | Weblog
 連れ合いのボランティア活動に同行したシドニー滞在旅行が半月を経過した。彼女もホームステイ先の四十代独身女性も仕事に出る平日日中は、全く一人。気ままなランチを今日はちょっとリッチにしてみた。と言っても、買い物を選べば、実に安くて豪華にできるのだ。メインディシュは三百グラムのTボーンステーキ。日曜日に市中心部に出た時、チャイナタウンのスーパーで買ってきた三百円ちょっとのものだ。ワインは近所のスーパーから「一本千円、二本買うと一本おまけ付き」(「三本二千円」でないのが面白かった)で仕入れたシラーズ種、オーストラリア名物の赤。渋みも甘みも重厚で相当な味なのに安いのが手に入る。野菜は高いからいつも慎重に探すが、三日前に買ったセロリに岩塩を振りかけて添えた。デザートは超特大リンゴほどのマンゴー、甘さも香りも強く「きつい味」とは言えるが、今こちらで一番旬の果物で、これが百円ほどである。

 舞台が良い。シドニー市民がみんな知っている北郊外の高級住宅地、コーラロイプラトーの一角、家の前の道から北北東に太平洋、北に湖がそれぞれすぐそこに見える高台で、おちついた3LDKのおしゃれな平屋である。そして、東向きのこのベランダは昨日僕の手で久々らしい大掃除を終えたばかり、真っ白いテーブルに今はゆったりと一人、ワイングラスの脚をつまみながら目の前の東庭を眺めているというシテュエーションである。

 百坪ほどの裏庭だが、森なのである。葉の短い柳に似た高木が3本、これはユーカリの仲間らしい。それよりかなり低いが四メートル以上もある「羊歯か、蕨のお化け」が五本。東端にある一番の大木は見当もつかない種類のものだし、「八手のお化け」、「クチナシモドキのお化け」など我が家には見かけない庭木ばかりなのだ。かろうじてコデマリ、アジサイ、ツユクサなどが混じっていて、それらに目をやるとなぜかほっとする。季節は夏の盛りの二月、気温は珍しく三十度と高く、陽射しは突き刺す感じなのだが、日陰のここでは家々の「森」を渡って来る風がからっとしていて、うーん、気持がいい。
  
 テーブルにグラスを置いて背伸びしたとたん、その姿勢のまま目線が捉えられてしまった。ユーカリの幹の向こう側、地上三メートルほどの枝に見たこともない鳥がいる。「梟だ」、三十センにも見えた大きさ、形、体の三分の一以上もある頭などからそう直感した。が直後に「全く違う」と、そいつが僕に振り向いた瞬間に気づいた。クチバシが長すぎる。大きな頭のその幅ほどもあるクチバシから途端に連想したのがカワセミであり、すぐになぜか「ワライカワセミ」という言葉を思い付いた。名前以外は一片の知識さえなかったのに。部屋に跳び電子辞書を持ち出して百科事典をのぞく。
 「オーストラリアに分布し、疎林に住んで昆虫、トカゲ、ネズミなどを食べる」とあるではないか。早速スケッチにかかる。家主が帰ってきたらたずねてみるつもりで。悪戦苦闘の末まーそれらしくスケッチできたので、すぐに和英辞典をひく。クッカバッラ、ラーフィングジャッカスなどとあり、その語源は同じ電子辞書によると、「笑う頓馬」とか「ギャーギャー声の変人」らしい。だけどそいつはそんな声は出さず、ばたばたする僕を怖がるでもなく梟のように哲人然としてただ見つめている。
 「違うのかな」と、双眼鏡やカメラまで持ち出して、カメラで一枚撮ったあと接近開始。時間をかけてジリジリと寄って行き、とうとう高低差も含めて六メートルほどの地点にあるベンチに僕は座り込んでいた。そこから七倍の双眼鏡で観察するのだから、もう羽毛の先までが見える。それでもそいつは哲人然とした物腰を変えない。時間をかけて撮影し、観察して、それからテーブルにもどって、彼も肴にしつつランチを続けた。ややあって突然。形容しがたいトテツモナイ声を発すると、それを遠くまで響かせ続けながら、そいつは飛び去って行った。

 家主に聞いた話では僕の推測は正解、語源も正解。翌日も同じ枝に来たそいつは、きっと「賢い鳥」なのだろう。家主の「自然」志向からはっきりと虫、トカゲが多いと言える庭だったからだ。幸せなステイになったものである。
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随筆 僕の駆けっこ・クライマックス

2024年05月23日 14時22分06秒 | 文芸作品
 小学時代の僕は、駆けっこもスポーツもだめだった。運動会の徒競走では6人中の3,4番より上がったことはないし、小学校の町内対抗野球大会では、「ライトで8番」に引っかかるかどうかの選手。6年生になって買ってもらった上等のグローブがいつも泣いていたもの。それが、中学時代から少しずつこれらが「得意」になっていったのだが、その出発点の事件を描いてみる。と言っても、この事件は、その後ずっと思い出すこともなくほぼ忘れていたもの。自信のない活動の成果は、記憶にも残りにくいのだろう。


 中学3年生の運動会で、スウェーデンリレーの選手に選ばれた。100から400mまでをプラス100m増しでそれぞれ走る4選手一組同士のリレー争いなのだが、直前に分かった僕の割り当ては最後の400メートル。僕の記憶は「最後の僕が1位との差を詰めて、2位になった」ということだけで、他は、何も覚えていなかった。それを、水谷という野球が上手なスポーツマンが、70歳ごろの二人の懐古談義で教えてくれて、こんな周辺会話が始まったものだ。

「あれは、あと50mあったら君が追い抜いていたよ。君の相手は伊吹君、百mの第一人者だったけど、もうバテバテだったからね。初めをしゃかりきに走りすぎた」
 こんなありがたい友人もいるもの、たちどころにこの周辺の経過、出来事を思い出させてもらった。
「腿を上げてストライドを大きく。ただし、脱力してゆったりと走る」
 これが、400m担当と分かって、スタート直前まで自分に言い続けた戒めだったこと。後半に追いついてゴール、その記録員の声がこう聞こえたこと。
「君のタイムは、ほぼ60秒」

 なぜ中距離が速くなったか。嬉しかったせいで、当時いろいろ考えた。バレーボール部に属していて、その練習前後の準備と整理との体操の後、必ず一人で走っていたのを思い出した。準備(体操の後の)ランは練習の調子を良くするし、整理のランはその日の疲れをとると鮮やかに体験・実感させてくれた。この二つの「毎日ラン」こそ、リレーよりも遙かに強力な当時の僕の思い出で、この自信がその後いろんな「僕のスポーツ人生」を作ってくれたもの。ちなみに、有酸素運動能力は中学時代に一番伸びるもの。子育て時期にある本で学んだ知恵である。対して、無酸素筋運動は高校時代以降長く強化できるものとも学んだ。


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随筆 僕の渓流釣り・クライマックス その2   文科系

2024年05月21日 00時07分17秒 | 文芸作品
 前回に引き続き、その2回目も描いてみたい。今度は渓流釣りといえるかどうか、木曽川中流の川鯉51センチの体験である。これを自慢すれば、この鯉を0・6号の糸でつり上げたこと。
 場所は、愛知県北西、尾張一宮市の北・川島町の大きな橋のすぐ西下、中州における出来事だ。この鯉の魚拓で確認してみると、時は1971年5月18日。

 0.6号の糸でシラハエの脈釣りをやっていたのだが、初めから多くあった魚信に、合わせてみたその瞬間に釣り糸が切られてばかり。
「水中で何事が起こっているのか!」
 昨日までの雨で濁った水の底で起こっていることが、皆目見当もつかないのである。そこで思い出したのが、釣り本にあったこんな記述。
「大きすぎる魚は、無理に寄せないこと。ただ竿をためて耐え忍び、向こうから上がってくるまで待て。魚の口が水面上に出てくるまで待って、魚が空気を吸えば弱ってくる。それを岸辺に引き寄せれば良い」
 とこの教えを思い出し、その通りにやったら、以降ちゃんと釣れたこと! 30~35センチほどのウグイがどんどん上がってきた。この日この場所は、雨後の増水で流れ出た餌が特に多いポイントだったのだろう。そこらへんの大きな魚が集まっている感じだった。ただ、この失敗と成功の体験があったからこそ、以下のことも可能になったのである。

 初めて見たこんな大きなウグイを20本も上げたころだったろうか、針にかかった魚が、濁った水の上方になかなか浮き上がってこない。その間中、僕は大きく曲がった竿を立てて構えたまま、大川の中州の縁をあちこちと上下移動するだけ。
「これは、今までの魚とは違う! 一体何者なんだ?」
 なんせ天下の木曽川、それも愛知・岐阜両県を結ぶ大きな橋のすぐ下の「竿立て・ウロウロ」。こんな姿はどうしても人目を呼ぶ。橋の上には人がずらり、見世物見物を決め込んでいる。その衆目注視の中の「うろうろ」、おおよそ20分、水面直下に黒っぽい身体の下半身だけがほんの一瞬翻ったのが見えた。
「これは鯉だ。よほど慎重にやらないと先ず上げられないだろう。シラハエつりとて、手網も持って来なかったし」  
 それからまたウロウロがどれだけ続いた時だったか、今度また糸が緩んできて、水面上に大きな口と一緒になったぎょろっとした目が浮き上がってきた。いい加減糸を引っ張り続けるのに、魚も疲れてきたのだ。その後やっと、竿を寄せることができたのだった。手網を持っていなかったので、最後は中州の砂の上にずるずると滑らせて引き上げたものだ。

 後でつくづくと思ったのが、このこと。この鯉を釣り上げるに至るまでのウグイ釣りの失敗・成功がなかったら、先ずこの鯉は上げられなかったろうな。なんせ、普通の鯉よりは細いとはいえ、51センチ。これを、0・6号の通し糸でつり上げたのである。
 ちなみにこの鯉、普通の鯉と違う川鯉だが、その日のうちに連れ合いの実家でおばあさんに味噌汁にしてもらった。確かに鯉そのものの味がしたもので、その美味しかったこと!


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随筆  僕の渓流釣・「クライマックス」  文科系

2024年05月20日 14時20分52秒 | 文芸作品
 我が人生の中で、25年ほどの渓流釣り経歴を持っている。愛知、岐阜、三重、滋賀、福井にまで足を踏み入れ、北海道、伊豆半島などの旅先でめぼしい川を見つけたときには、「竿を出してみた」ことも多い。そのクライマックス場面を描いてみよう。丹念に付けてきた釣り日記をひっく襟返してみると、1984年9月24日のことだ。その日、その場所は、岐阜県白川村の飛騨川(木曽川の大支流である)に東から流れ込む白川、その上流・東白川村のさらに東方。その日の同行者が我が一人息子K、当時12歳、その初釣行の出来事である。


 この時、Kの渓流釣り初体験を思い立ったのには、大きな背景があった。前年83年の8、9月と、僕の渓流釣り15年ほどの記録になった大物が2回も上がった場所なのだ。ヤマメの兄弟であるアマゴのいわゆる「尺物」が、初めは31センチ、2度目が32センチ300グラム。ちなみに、アマゴというのは、ヤマメとほとんど同じ体型、体色だが、アマゴには赤い斑点がある。
〈こんな面白いこと、Kにも味あわせてやろう〉
 この翌年に早速ここへと連れ出したのだ。僕ができることをほとんど教えてきたKであったが、ハエの流し脈釣りだけは一応教えてあったので、その応用として、初の渓流ヤマメ釣りであった。

 「トウちゃーん!」。
 晴れた日の午前6時過ぎ、甲高い声が大きな川音(と朝霧)の間から僕の耳に飛び込んできた。僕の下流100メートルほどの岩の上で釣っていたKに目をやると、大きく曲がって水に引きずり込まれそうになった釣り竿に全体重を乗せて堪えている小柄なその姿がすぐに目に飛び込んできた。
〈相当な大物、それも深場だ。その中心部の流れに魚が乗せられたら、0・6号の糸が持たないだろう〉
 この瞬間、乗っていた岩場から左手の浅瀬にゴム長靴のまま飛び込んでいる自分がいた。浅瀬といっても胸近くまでの深さの急流とあっては、体を半分引き倒されるような衝撃を感じたものだ。なかば水に引き倒され半分泳いでいるような形で岸辺、浅瀬に身を寄せて、後で振り返ればその浅瀬をKの岩まで飛んでいったはずだ。体を水から引き起こしてからのことは「半ば泳いでいた」以外にはほとんど覚えていなくって、記憶にある次の僕は、Kから引き渡された竿をゆっくりと寄せ上げているもの。「慎重に、慎重に」と、この時ばかりは釣り師の全体験が総動員されているのである。それで、やっと落ち着いたのは、僕が寄せた魚を、Kが指示に従って玉網に納め、それをつくづくと眺めている時。30センチの尺物と気づいた僕の気分は、自分が2度これを釣り上げたときなど比較にならぬ高揚感に躍り上がっていた。その日これ以降、何度繰り返したことか。
「すごい魚だなー、良かったな、K!」
 が、そんな感嘆の声を上げるたびにKの応答は今一つ、なんとも物足りなかったもの。まー、趣味というのは、そんなものなのだろう。渓流の趣味も、Kへの僕の過去いろんな「教え」の執着も。


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神・霊魂と科学  文科系

2024年05月10日 06時46分27秒 | その他
 前から思っていたことだが、宗教を信じるということは、霊魂を信じるということと「同じ」であるらしい。最近読んだある本から知った。マイナビ新書「教養として学んでおきたい5大宗教」。宗教学者・中村圭志の著作である。ここにこんな文章があった。
「(宗教とは)霊や神のような不合理な存在の働きを前提とする文化の様式」

 このことについて僕は、ここにもこう書いてきた。人間は昔、自分の体を離れて、これとは別に自分の魂が存在するとか、ある人間の体が朽ち果てることははっきりしているが、それとは別にこの人の魂は存在し続けると考えた、と。すると、体とは別の「この魂の来し方行く末の世界」も存在するという理屈になって、それが神の世界となるはずだ、と。
 そればかりか、原始宗教では、すべてのものに霊が宿ると考えられていたようだ。この思想をアニミズムと呼ぶ。アニマというのが、ラテン語の霊とか魂とかの意味だからだ。太陽の神、海の神、地の神、月の神、戦争の神、美の神、商業の神・・・などなどは、ギリシャ神話で世界によく知られた神々である。そういうそれぞれの神が存在するとしたら、これらの霊を作った大元の神もいるという理屈になり、そのようにして後に生まれたのが一神教なのではないか。
「唯一の霊が万物の背後におり、この世界を作った」
 こう考える人々は、死は怖くないと思おうとするように僕には見える。自分の霊は永遠なのだと。ここに例えば、輪廻転生のようなことも考え出されることになる。「信仰と科学的認識・知見とは全く別のものである」として、創世記を丸々信仰するアメリカ人もプロテスタントに多いようだ。対して、日本人には特にこういう人々も多いだろう。自分の体が死んだら、自分はきれいさっぱり何も存在しない。その方がよほどすっきりする、と。

 ただし、科学と信仰は両立できるとして、神の根拠を地球誕生のビッグバンにまで遡って説いている最先端の理論物理学者も存在する。「科学者はなぜ神を信じるのか」(講談社BLUE BACKS 名古屋大学名誉教授、素粒子物理学専門・三田一郎著)。ちなみにこの先生は名古屋大学理論物理学の坂田昌一教室の後継者だった教授。この本には「カトリック教会はビッグバンを歓迎した」との帯がつき、こんなことを語っている。
「科学法則は「もの」ではないので偶然にはできません。宇宙創造の前には必然的に科学法則が存在したはずなのです。では、科学法則は誰が創造したのでしょうか」
「私自身は、科学法則の創造者を「神」と定義しています。ルールが存在するということは、その創造者である神が存在するということだ、と考えるのです」

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老後音楽演奏活動の一例  文科系

2024年05月09日 17時00分00秒 | その他
 僕は定年退職後からはじめて、83歳になる今もあるギター教室に通っている。この活動がとても楽しくて、僕の人生の最大価値の一つだったなというほどに、非常に大きな意味を持ってきたと振り返ることができる。その楽しみを求め、究めてきた僕流儀のやり方を書いてみたい。


 美術制作にせよ音楽演奏にせよ、芸術は鑑賞以上に自分が作ったものを自分が味わい、それがだんだん向上し、より楽しくなっていくという楽しみがある。加えて、「音楽」としてのギター演奏には何よりも「和音楽器」の楽しみというものが重なってくる。曲の旋律を和音であれこれと飾って、曲の流れにより感じよく生かしていく楽しみだ。和音楽器は、その王様はピアノだが、ほかにはギター、琴、ハープと、案外少ないもの。ただ、旋律の装飾にあれこれの和音を使っていく楽器演奏は難しくて、この演奏を本当に楽しむためには暗譜で弾けることこそが大事だと退職後の習い始めから決意してきた。年寄りが、楽譜をたどりながらやっと弾けているというのでは、音楽の楽しみも何もあったもんじゃなかろうと予測したからだ。ちなみに、ピアノを習って来た人でも「今ここで一曲弾いて」と言われても案外弾ける曲がないものだと、僕は知っている。

 そこで、習い始めから非常に特殊なならい方をとってきた。
①各曲の習い始めは、最初の一小節から、丸暗記弾きに務めていく。少しずつ覚えるまで何回でも弾いて、その次に行き、暗譜部分を増やしていくというやりかただ。すると、普通の楽譜なら一週間に一ページほどを覚えられる。
②の際、その当時は弾けない技術的難点はそのままにしておき、とにかくまず一曲丸暗譜、それから欠点修正、弾き込みに入るというやり方だ。
③暗譜してからの弾き込みは、音楽の楽しみが全部詰まっている感じがするやりがいのあるものである。
④そうして暗譜した曲の中から、「これは暗譜としてずっととっておこう」という曲を「僕のギター曲暗譜群」の中に繰り入れる。
⑤この暗譜群は、新曲を入れたくなったら旧来のどれかを出すとかしてきて、現在大小24曲ほど。時々の新曲レッスンのほか、暗譜群曲をも定期的にずっと常時弾き回してきたわけだ。
⑥そして今年に入っては、この暗譜群のうち僕の今までの腕には余って発表会で弾いたことがない難曲を総復習している。先ず、アルベニスの「アストリアス」、バリオス作曲「大聖堂」、次いで、ソル作曲「モーツアルトの魔笛による変奏曲」などだ。


 さて、このやり方はいつも、この楽器の代表曲と歴史的に認められてきたものに、直接するというもの。楽しい訳である。きょうも「モーツアルトの魔笛による変奏曲」を3時間は弾いていたかな。まだまだ難点が多く、発表会で弾ける曲ではないなと思いながらだが。


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書評 少子化問題が騒がれているが・・・  文科系

2024年05月02日 15時48分00秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 少子化問題がやっと、やっとのことでマスコミの話題になり始めた。というのは、この問題を20世紀から国の重大事として追いかけてきた家族社会学の専門学者らの著作などがマスコミなどから、疎外されてきたからである。その疎外を、政府がはっきりと方針として作り出してきた。これは、思えば統一教会改名問題と同じ構造である。政府が「問題なし」との政治工作をしてきたのである。もっと言えば、「話題にするな」と、強力に動いてきた。その次第を、この問題を古くからここでも追いかけてきた者として、学者の書評としてあげてみたい。
 ちなみにこの問題は今まさに、「自治体の消滅」などという形で、話題になっているが、そんなことも知る人ぞ知る社会問題だったのである。今日の羽島慎一モーニング番組でこんなことも言われていた。「通える小中学校、日用品販売店がなくなる」。これは「買い物弱者」として、話題になり始めた。「自治体のゴミ収集作業など、公共サービスが消滅する。」
 以下は、2020年8月15日の当ブログ・エントリーである。なお、上記モーニング番組からは、人口も若者も増えている地方自治体もあると学べたものだ。島根県の海士(アマ)町、富山県の舟橋村などだが、起業誘致、学校重視などの特徴があると言われていた。


『 山田昌弘・中央大学文学部教授(家族社会学専門)の光文社新書2020年5月に発行されたこの本( 「日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?」 )の問題意識は、こういうものだ。合計特殊出生率1・6以下の状況が30年続き、1・5以下でさえ25年続いているその原因を考えようというもの。そして、少子化の初期10年の段階において政府が採った欧米風対策が全くのピント外れだったから、少なくなった女性が産む子はまた少ないということが重なって、今はもうなかなか取り返しが付かなくなっていると証明した著作である。ちなみに、合計特殊出生率とは、女性1人当たりが一生に産む平均子ども数とされ、これが2・07人を上回れば人口が増加し、下回れば減少するとされてきた数字とあった。それが1・5とか1・6とかが長く続いては・・・というわけだ。
 71~74年の第2次ベビーブームでちょっと持ち直したかという以外は戦後一貫して下がり続けてきたのがこの数字と示されている。90年代に入って「1・57ショック」とか「少子化社会の到来」とかの標語で国家の重大問題としてきた議論が何の役にも立たなかったという現状なのである。政府対策がどうピントが狂っていたのか。
 この少子化の最大原因として、何よりも若者の大変な貧困化から来た「未婚化」等の経済問題があるという正しい見方を、国家が少子化対策の審議会などでタブー視してきたと、この本は語っている。政府が代わりに鳴り物入りで対策を出した若者の西欧風現状分析が、①若者は1人で暮らし、②愛情があれば結婚するはずで、③相手を見つけるのは簡単であるというもの。この三つが全く現状に合っていなかったという説明が、以下である。
①日本の若者は西欧と違って、親元で暮らすパラサイトシングルが多い。地方などは特にそうだ。
②③については、何よりもこんなことを言う。男女とも、育った家庭並みの生活を望むのだが、1人の収入で子どもを大学にやれるような男性は非常に少なくなった。次いで、仕事による自己実現を求める西欧女性と違って「日本女性は仕事よりも(育った親の家庭並みの)消費生活を求めている」という現実があるなどなどと、この本は現状分析するのである。

 僕、文科系は、このブログでこう述べてきたが、それを肯定してくれるのがこの本であった。日本では今、50歳まで一度も結婚したことがない男性が4人に1人に近づいている。それは、結婚相手に選んでもらえない低収入男性が増えたからだ。
 こうなった原因はこの30年近くの日本の貧困化にあって、国民1人当たりの購買力平価GDPがわずか25年ほどで世界5位あたりから31位にまで落ちたことによってもたらされた。そして、このことを原因と見ないような少子化対策ばかりを政府がやって来たとこの本も述べているのである。該当箇所に、こんな文章があった。長い引用になるが・・・・。
『私は1996年に出版した「結婚の社会学」(丸善ライブラリー)の中で「収入の低い男性は結婚相手として選ばれにくい」という現実を指摘している。・・・・・
 当時、これほど評判の悪かった指摘はなかった・・・1990年代後半のマスメディアや政府は、この事実への言及を避けていた。
 政府関係の研究会で、私がこの指摘をしたところ、政府のある高官から、「私の立場で、山田君が言ったことを言ったら、首が飛んでしまう」と言われたことがある。
 当時、大手の新聞では、私の発言の該当部分は記事にならなかった。
 ある地方公共団体に依頼され執筆したエッセーに関しては、担当課長が、削除を依頼しにわざわざ大学までやって来て、頭を下げられたこともある。
 その理由は、「収入の低い男性は結婚相手として選ばれにくい」という指摘は事実であっても差別的発言だから(たとえ報告書であっても)公で発表することはできない、それだけではなく、それを前提とした政策をとることはできない、というものである』(48~49ページ)
 少子化対策がこのようにピントがずれていては、どれだけ年月をかけても何の効果もなかったということなのである。』
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