九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

日本給与格差は、現在進行形   文科系

2016年09月30日 14時03分41秒 | 国内政治・経済・社会問題
 29日の新聞に、小さい扱いだったが大事な記事があった。世のご注意を仰ぎたい。見出しは「民間給与3年連続上昇 国税庁調査 15年、平均420万円」。まず、主たる内容を箇条書きにする。

①『正社員の平均給与は1・5%増の484万9,000円、非正規は0・5%増170万5,000円』
②『一年を通じて勤務した給与所得者の数は0・8%増の4,794万人、うち正社員は3,141万5,000人(1・2%増)、非正規は1,122万8,000人(3・0増)だった』

 さて、この数字について色々思ったことを書いてみる。
①まず最初に、最も所得に恵まれていないと思われる人々がここには出てこない。この文字がそのことを示していると考え込んでいた。
『一年を通じて勤務した給与所得者の数は0・8%増の』
 この言葉の意味は案外不明確と言わざるを得ない。パートで、一回でも止めさせられた期間があった人、ブラック企業と感じたりして自分で止めた人などは、どうなるのか。「一年を通じて」の定義が実に不明確なのである。
②非正規を正規と比べると、給料増加率はより少なく、その人数増加率は逆に非正規の方が倍以上多いのである。

 この国税庁報告の結論はかくして、こうなる。日本の相対的貧困者、相対的貧困感が更に増したはずだということ。
 こういう世の中の重大欠陥が読み取れる調査報告を、こんな題名で世に出すという国税庁の姿勢、思想に不信感しか湧かなかった。「民間給与3年連続上昇 国税庁調査」。これでは、中産階級の没落、超格差の拡大が正されていかないはずだ。

 再度強調したいが、この調査から切り捨てられた「一年を通じて勤務」できなかった人々には、どんな調査をしているのだろうか。そういう厚労省の調査結果などをもっともっと強調して世に出して欲しいものである。巷で語られる「結婚していない若者の増加」は、こういう人こそ多いのではないか。
 
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社説「原発は、ぼったくりバー」   文科系

2016年09月30日 13時09分46秒 | 国内政治・経済・社会問題
 今朝の中日新聞1面コラム「中日春秋」が、実に面白かった。が、言われてみれば真に真に、その通り。これを読む機会のないここの全国の方々に発信したい。1日のアクセスが200近くに戻って来た事でもあるし・・・。

『夜の繁華街には、なかなか恐ろしい店があって、「安いよ。○千円でいいよ」と誘っておいて、法外な料金を請求する。そんな店を野放しにする訳にはいかぬから、自治体によっては条例で規制している▼たとえば、大阪府の場合は〈料金について、不実のこと又は実際のものよりも著しく低廉であると誤認させるようなことを表示し、又は告げてはならない〉とし、違反すれば五十万円以下の罰金が科せられる▼しかし、市井では禁じられている行為も政府がやれば、問題にはならぬらしい。「安いよ。原発はお得だよ」と国民に告げ続けても平気なのだ▼だが、福島第一原発の処理に十一兆円以上、他の原発の廃炉にも数兆円はかかる。「核のゴミ」の処理には目処が立たず、費用がどこまで膨らむか上限が見えぬのに、「原発は安い」と言い続ける▼そのツケを誰が払うか。政府が今考えているのは、国民に負担させることだ。電力自由化で好きな電力会社を選べるようにしたはずなのに、経済産業省は「どの電力会社を選ぼうが、原発のツケは全員で」と言いだした▼「過去に原発の恩恵を受けていたのだから、その分はこれからも払ってもらう」という理屈だが、これでは、ちゃんと支払いを済ませた店から「経営難で閉店費用も払えないので、追加料金を」と請求されるようなもの。消費生活センターにでも訴えようか。』
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米大企業社長たちはこうして「金融の馬車馬」に    文科系

2016年09月28日 12時45分30秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 以下は、24日エントリー、ある本の要約①の抜粋である。ドナルド・ドーア著「金融が乗っ取る世界経済 21世紀の憂鬱」(中公新書、2011年10月第一刷発行)。今後ここで、3部構成のこの本にあわせて、②、③と要約していく予定だ。この本の内容は、僕が10年ここで新たに勉強し直しては原稿を書き続けてきて、たどり着いた現代世界の諸不幸の大元の解説と言える。
 この本に展開されていることは、日本人にはなかなか書けないもの。ここに描かれた動きが日本で目に見えるようになったのは最近の事であるし、この最新の動きは、英米経済の動きと比較研究してはっきりと見えてくるというもの。作者は、イギリス経済学の伝統を学び継いだ上で、日本江戸期教育の研究目的で東大に留学され、以来熱心な日本ウォッチャーを続けられたというお方。しかも、この本自身も自分の日本語で書かれているようだ。訳者名が付いていないからである。
 以下は、その第一回目の要約のそのまた抜粋である。世界経済がこのようになったからこそ、今の世界の諸不幸が生じていると、そういう結論、大元解明のつもりである。


『米企業利益のうち金融利益の割合が、1950年代までは9・5%であったものが急増して、02年には41%と示される』

『機関投資家の上場企業株式所有シェアがどんどん増えていく。1960年アメリカで12%であったこのシェアが、90年には45%、05年61%と。そして、彼らの発言力、利益こそ企業の全てとなっていった』

『企業から「金融市場への支払い」が、その「利益+減価償却」費用とされたキャッシュ・フロー全体に占める割合の急増。アメリカを例に取ると、1960年代前半がこの平均20%、70年代は30%、1984年以降は特に加速して1990年には75%に至ったとあった』

『彼らの忠実な番犬になりえた社長は彼らの「仲間」として莫大なボーナスをもらうが、「企業の社会的責任。特に従業員とその家族、地域への・・」などという考えの持ち主は、遺物になったのである。こうして、米(番犬)経営者の年収は、一般社員の何倍になったか。1980年には平均20~30倍であったものが、最近では彼の年金掛け金分を含めば475倍になっている。その内訳の大部分は、年当初の経営者契約の達成に関わるボーナス分である。全米の企業経営者がこうして、番犬ならぬ馬車馬と化したわけだ』

『「証券文化」という表現には、以上全てが含意されてあるということだ。企業文化、社長論・労働者論、その「社会的責任」論、「地域貢献」論、「政治家とは」、「政府とは・・?」 「教育、大学とは、学者とは・・?」、そして、マスコミの風潮・・・』


 最後のこれは、24日には書いてない事。以下のような数字は日本人には到底信じられないもののはずだ。この本の73ページから抜粋した、アメリカ資本主義の象徴数字と言える。
『2006年のように、ゴールドマン・サックスというアメリカの証券会社がトップクラスの従業員50人に、最低2,000万ドル(当時のレートで17億円くらい。〈この記述周辺事情や、最低と書いてあるしなどから、1人当たりのボーナスの最低ということ 文科系〉)のボーナスを払ったというニュースがロンドンに伝われば、それはシティ(ロンドン金融街)のボーナスを押し上げる効果があったのである』 
 これだけの強食がいれば、無数の弱肉が世界に生まれる理屈である。2006年とは、08年のリーマンショックを当ブログでも予言していた史上最大のバブル、サブプライム住宅証券組込証券が頂点に達していたウォール街絶頂の時だった。この結果は、失った家から借金まみれの上に放り出された無数の人々の群であった。しかもこの動きはアメリカのみに留まらず、イタリア、スペイン、ポルトガル等々にも、そこの失業者の大群発生にも波及していくのである。こんな所業を放置しておいて、どうして世界の景気が良くなるなんぞと言えるのだろうか。
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随筆紹介  「酷暑と酷社」    文科系

2016年09月27日 12時46分10秒 | 文芸作品
   酷暑と酷社  M・Aさんの作品です

 この夏は、八月、九月が酷暑になるとの長期予報を聞いて、うんざりしたときはまだ入り口だった。

 わけあって、私のいる二部屋は、エアコンが四十一年使ってある代物で、ほとんど効かない。学習教室など外出のない午前中は家にいてもなんとかもつが、午後はさすがに脱出する。涼しい大型スーパーに買い物に行くか、夫が住んでいる棟の方で過ごしている。
 自分のことだけならなんとか凌いできたが、近くにいる次男夫婦と孫に関わっていると、体調を崩すことが多くなった。保育園に預けている一歳三か月の男の孫から、よく風邪をもらうことになる。孫から嫁、次男、私、夫というように、どうしても移る可能性が高くなる。
 私は、初期段階で薬をすぐに飲むので大事にはならないけど、なにせこの酷暑。次男は屋外での仕事だ。運転を主にはしていても、体力があるとはいえないので、風邪が原因と思われる高熱と酷暑で食欲不振になり、元々痩身なのにこの二週間で九キロ痩せた。

 発熱六日目でやっと病院にかかり、大がかりな検査をしたが、特に異常なしと単なる風邪薬が出され、点滴をしただけ。三十九度の熱が出ているのに、平日一日たりとも会社を休めず、仕事帰りに点滴のできる病院に替えて、通い二週間余り。高熱は収まったが、いまだにほんの少しだけしか食事もとれていない。
 できることなら、救急車で入院させたかった。でもそうすれば、次男は余計なことをするなと怒るのが分かっていたのでできず、私はできる範囲のことをするしかなかった。でも、私には理解できないことばかりだ。近くの病院で診察したときに、医者が言ったそうだ。
「飢餓状態です。ケトンが降りています、気の毒に」。それでも病名が判然としないなんてあるの………? さらに信じられないのは、これほどの状態でも会社を休めず、出社させる企業。こうした前例もなく、対処もされない事ってあるのだろうか。お嫁さんによれば、「言えば休みをくれたかも。でも言わない人だよね」。
 彼女も子を預けて働いている。だからこそ近くにいる私は、次男の家族を助けざるを得ない。以前から夕方二時間ほど、少しでもと思って手伝っているのだが、こちらもこの暑さでバテぎみである。
 次男の病名は? 熱疲労なのか、単なる体力の限界だけなのか、暑くて苦しいこの夏。そして、この先の出口はいつなのか。
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随筆紹介  私の八月十五日    文科系

2016年09月26日 13時16分37秒 | 文芸作品
 私の八月十五日    H・Tさんの作品です

 またあの日がやって来た。八月十五日。今年は七十一年目の八月十五日。

 私が女学校に入学したのは、一九四一年の四月。型どおりの女学校生活が始まった。そしてその年の十二月八日、真珠湾攻撃で戦争が始まった。連日の勝利の声。昼間は学校、夜は戦勝祝いの提灯行列と、胸を高鳴らせていた。
 その頃から軍事教練という名の教科が授業の中に入り、軍服姿の教官によるきびしい授業が始まった。もんぺ姿の私達は長い竹の棒を持ち、大声で叫ぶ突撃の訓練を受けた。声が小さいと叩かれ、勢いがないと叱られた。
 これは銃後の小国民の義務と教えられて、疑う事もなく精一杯。こうして私達は軍国少女として育てられた。食べ物も、着る物も、読む本もなかった。でも不満も、不足も言わず、次々と報じられる戦勝に、胸を高鳴らせていた。

 そして二年生の四月から、学徒動員という名で工場へ。飛行機の部品作りを、国のために殉ずるはと、よろこびいっぱいの日を送っていた。学校のこと勉強のことをどう考えていたのか、国のため、天皇の赤子と胸を張って生きていた。
“進め火の玉” “撃ちてし止まん” “尽忠報国” “国体維持でお国は安泰”などなど、神国と信じ、神風を待って生きていた。これが軍国少女の私だった。

 昭和二十年八月、広島と長崎に新型爆弾投下。それも正式発表があったかどうかを知らない私達。この新型爆弾は白い色には反射して助かるといううわさが流れ、母が白いシーツを半分に切って、兄と私に、
「新型爆弾が落ちた時、頭からかぶるように」、何度も何度も言って、渡してくれた。
 良く晴れた、暑い、八月十五日。
 工場の仕事が日曜日返上で続いたので、二日間の休日の二日目。父がどこで聞いたのか、昼頃天皇がラジオで何か話されるから聞くようにと言った。
 次々と村の人がラジオの前に集まった。天皇の声など一度も聞いた事のない私達。天皇の声は玉音という事もこの時教えられた。きっと国のために力をと励まされるであろうと、ラジオの前に正座し、その時を待った。
 やがて雑音の中で君が代が流れ、天皇の玉音ははっきり聞き取れないままに、放送は終わった。集まった人々は、
「どうやら戦争は終わったようだ」
「やっぱりアメリカは手を上げたな」
「いやいや、どっちが勝ったかわからん」
「さぁ…… どうかな?」
 口々に言いながら帰って行った。明くる朝私はいつものように工場へ。あの大きな機械音がしない、静まりかえった工場。
「戦争は終わった。日本は負けた。これからどうなるのだろう。女、子供は、生きていく事ができるだろうか」、みんなが話していた。私達は学校へ帰った。

 そして、教科書を墨で黒く塗り、運動場を耕してさつまいも畑。草取りに精を出して、日々を過ごした。
“撃ちてし止まん” “忠君愛国” “聖戦必勝”は何だったのか。私達にこう教えてくれた教師は一変して、自由な国アメリカを持ち上げたり、ある教師は“耐えて堪えて、時を待て”と言った。何を耐えればいいのか、どんな時を待てばいいのか、言わなかった。
“民主主義” “自由平等” “男女同権”など聞いた事もない言葉が溢れ、とまどいながら、臣民と呼ばれていた私達がいつの間にか国民と呼ばれるようになり、おろおろと生きていた。

 昭和四十一年一月一日。
 天皇が人間宣言を自ら詔書として発表され、わたしはとまどいとおどろきを感じた。人間の意識や考えは急に換わるものではなく、落ち着かなかった。

 そして七十一年の歳月が流れ、私も年を重ねた。平和を喜び、感謝しなければならないのに、私の八月十五日、静かに過ごし、時を送っている。
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右的ポジショントークの惨状   文科系

2016年09月24日 10時25分53秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 標記のことを示すべく、最近お二人の方に返した僕のコメントなどを以下転載させて頂きます。お相手の回答など、僕には非常に興味深かったのですが、皆さんははてどう読まれるでしょうか? いずれも、この10日の「結論ありきという、トロイ話」に付けられた討論。以下は、途中のコメントの省略はありますが、掲載順はこの通りです。


【 日本史に何と無知! (文科系)2016-09-19 16:07:18
 反米保守さん、日本史の勉強が例え得意でなかったとしても、日本史の常識であるべき事になんて無知なのだろかと驚いたよ どちらがとんでもないデマを流したのだか。

『「天皇批判 即死刑」なんてデタラメを書く人間と歴史や政治を論じ合っていても』

 大逆事件も知らないのだ。当時の刑法の大逆罪についても、全く無知なのだ。天皇危害計画だけで、大量死刑者が出た。
 れっきとしたこういう法文の存在を何と理解するのだろう。天皇、皇太子らに対して「危害を加え、または加えんとしたる者」は死刑に処すると規定されていたことを。つまり、「危害を加えんとしたる」だけでもね。大逆事件はこの法の典型的適用の例だと理解してきたけど違うのかな。
 こんな事件があると、以降誰も天皇の悪口は言えないよね。ついでに、不敬罪についても調べなさい。これで刑務所に入れられてなお刑務所内で天皇批判を言い続けたら確実に殺されたはずだ。表面切って死刑にならなくともね。これって、「批判したら死刑」と違うのかな? 小林多喜二が即「死刑」になったことも、知らないのかな。

 以上を一事が万事と押し広げて、もう君の日本史超保守議論は何も信じないことにする。君の保守って、何の保守。日本史恥部にはこんなに無知で、その美点だけの保守? そういうのは狂信というのだ。怖い怖い!

 総合判断力も? (文科系)2016-09-19 16:37:54
 保守さん、こんなお人と真面目に論議していたのかと、余りに自分にも腹が立ったりするから、追い撃ちの一言を進呈する。君は、総合判断力も不足して、失礼だが論争をする能力にも欠ける。

 大日本帝国憲法では、その第一条によって、天皇は統治者。よって主権者ではなくなる国民は、その「臣民」。つまり彼の道具。天皇はそれどころか、神だったからこそ今日の日の丸に対して以上にうやうやしく拝まれた。つまり、これだけうやうやしく拝まれた人には、普通は批判など出来ないよ。つまり、批判をするのは臣民じゃないから不敬罪というわけだ。貴方今でも、僕が日の丸を踏みにじったら罪人のように眺め、異常にかっとするのではないかな。それと同じ。当時の官憲は、「こんな失礼な奴には」と、全員がかっとしたのだよ。それで思わず殺してしまう。小林多喜二はそのように殺されたわけだ。

 貴方が何歳か知らないけれど、こういう当時の周辺事情が多少とも分かっていれば、こんなことは書くはずがない。総合判断力がない証左だね。
『「天皇批判 即死刑」なんてデタラメを書く人間と歴史や政治を論じ合っていても』

 保守と自負するなら、日本史ぐらいはちゃんと勉強しなさいよ。ただし、その恥部もふくめてね。僕は、日の丸を平気で踏みにじる人間だからね。僕は国の主権者だし、日の丸は単にそういう主権者たちの象徴(小道具)に過ぎないと考えているからだ。】


【 Unknown (税収総額)2016-09-23 10:15:08
 横入り失礼いたします。反米保守さんと文科系さんでは感覚というか認識に差がありすぎるのでしょう。私も横から見ていて、どうにも感覚・認識が違うので僭越ながら分析・意見させていただきます。おそらく、文科系さんは戦前の天皇陛下が独裁者だと考えておられるのでしょう。過去記事における論争コメントのいくつかを読んでみても、そもそも、まるで天皇陛下が独裁者で私利私欲のためにアジア征服を目指したかのような歴史観ですね。保守派の皆さんの歴史観は違うのでしょうから、この差を少し埋めていくだけでも大変な労力です。そのあたりを余りグダグダと述べてもまた、泥沼の論争が待っているだけでしょうから、「グダグダの部分」は次のコメントに書きます(1、私の機種からだと余り書き連ねるとどうも機械的に途中でカットされてしまうようなので、分けてコメントします。ご容赦ください。2、グダグダ部分は文科系さんへの返信というよりは第三者の方向けのものなので、無視なさってくださってかまいません。もし反論されるのであれば、完全否定ではなく「ここは正しいがここが間違っている」という形にしていただければ幸いです)。】

【 法の問題 (文科系)2016-09-23 18:15:33 税収総額さん
 憲法に「万世一系の天皇これを統治す」とあって、国民が「臣民」ならば法制上は独裁者です。そうならぬか否かは、ご本人と、回りの臣民代表の助け方次第。大日本帝国憲法はそのようにしか読めません。

 臣民代表の助けも悪くって、満州事変、中国南下、太平洋戦争、南洋の膨大な兵士うち捨て、沖縄うち捨て、原爆と続いたのも、全部こういう統治機構の結果です。全て天皇の名で行われたことでもあるし、憲法上は統治者である天皇に第一の責任があったなんぞは、当たり前のことだ。その意味では、独裁者であり、以上は全て独裁者の結末とも言える。
 終戦直後にはどれだけ多くの知的な民がこう考えていたか。
「天皇に騙された」

 また下らん話は聞きたくないからあらかじめいくつか釘を刺しておく。こういう論議では、道義よりも法が重要。各国比較よりも日本の法が重要。やり方の善し悪しなどなどよりもまた法が重要。要は国家行動の善し悪しだから、当時の法自身についてこそ論議すべきである。その他の論議は、それに従属するものだと言える。太平洋戦争も天皇が決断しなければ出来なかったのだし、事実決断したのである。そういう法になっていたのだから。

 トロさの極地! (文科系)2016-09-23 21:21:50
 税収さんへ
 こういうのはトロサの極地。今後は止めるように。
『大逆事件で処刑されたのはたったの12人ですか。共産主義のほうが遥かに人を多く殺しているので、中共と仲良くするべきではありませんね』 
 この、どこがトロイか。
①なによりも「たった12人」というのがトロイ。問題の性格を考えてみよ? 一人殺しても残虐なのは大問題という論理もあるだろ?

②こんな比較、「共産主義のほうが遥かに・・・」も大変トロイ。こことどういう論理的必然的関係があるか。右翼批判の時に即、他の無関係な右翼の大罪を持ってきて、「税収よ、おまえもこうだぞ(支持しとるのだろう)」という馬鹿この上ない、無関係な論理である。

③②に関してはこういう反論をよく覚えておくように。「あれは、あれ。これは、これ」。馬鹿なケンカの時に「お前そう言って批判するが、お前だって同じこれをやっとるだろう」という論理。この場合でも、出す必要もない逃げ口上というだけだから「あれはあれ、これはこれ」ね。ましてや、君が語っているのは、僕がやったことではないし、天皇の名でやったことでもない。

 君には、以上、随分難しいことを語ったようだが、ご自分が少しは分かったかな。】
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これはホント?  らくせき

2016年09月24日 10時19分32秒 | Weblog
少子化によって人口が減り続けるならば
国力は衰退し成長戦略は全て無駄話になる。

この言説は今、日本を支配していますが、
100%ホントなんでしょうか?

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ある書評、第一回 経済の「金融化」現象   文科系

2016年09月24日 09時40分26秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 中公新書、ロナルド・ドーア著「金融が乗っ取る世界経済 21世紀の憂鬱」(2011年10月初版)の要約を3回ほどに分けて行いたい。同書が以下の3部に別れているのに合わせて。「金融化現象とは何か」、「これにより、社会、政治、教育などがどう変わるか」、「各国、国際機関による、これの弊害是正、金融改革の試み」である。今回はその第一部の要約とする。
 ただこの本、非常に難解である。最大の特長が21世紀日本経済(ある過渡期)の最新・最大テーマということなのだが、なんせ、日本語の達人と言っても外国人が書いた日本語。やはりどこか違うと言わざるを得ない。時に省略、時に冗長と、言葉の選択が普通の日本語とは違う。これに研究対象の難しさも加わったこの難物を、順不同、勝手に要約していく。それも、この続き第二回目はいつになるのやらという、お断りをも付して。

 第一部の目次はこうなっている。①金融化ということ、②資本市場の規模拡大、③実体経済の付加価値の配分、④証券文化の勃興、と。

 金融化について、ある人の要約が紹介される。『国際国内経済で、金融業者、企業の役割や、一般人の金融志向が増していく過程』。この「増していく」の中身は、こういうもの。社会の総所得における金融業者の取り分が増えたこと。貯蓄と企業との関係で金融業者の仲介活動が急増したこと。株主資本主義。政府がこの動向を国際競争力強化の観点から促進してきたこと。

 米企業利益のうち金融利益の割合が、1950年代までは9・5%であったものが急増して、02年には41%と示される。その後非金融業の巻き返しがあってやや減少期があったものの、2010年度第一四半期はまた36%まで来たとあった。サブプライムバブルの膨張・破裂なんのそのということだろう。

 次は、こうなった仕組みとして、金融派生商品の膨張のこと。
 著者は先ず、シカゴ豚肉赤味の先物市場投資額を、急増例として示す。初めの投資総額はその豚肉生産総費用にもみたぬものであったが、これが、生産費用とは無関係に爆発的急増を示すことになる。1966年の先物契約数が8000だったものが、2005年に200万を超えるようになったと。そして、これも含んだ金融派生商品全体のその後の急増ぶりがこう説明される。2004年に197兆ドルだった国際決済銀行残高調査による派生商品店頭売り総額が、2007年には516兆ドルになっていると。この期間こそ、08年に弾けることになったサブプライム・バブルの急膨張期なのである。同じ時期の現物経済世界取引総額とのこんな比較もあった。同じ2007年4月の1日平均金融派生商品契約総額が3・2兆ドルだが、これは世界のこの月の1日実体経済貿易総額(320億ドル)の実に100倍であると。

 これほど多額の金融派生商品の売買は、証券化という技術が生み出したものだ。
 証券化の走りは売買可能な社債だが、『住宅ローンや、消費者金融の証券化、様々な方法で負債を束ね「パッケージ」にして、低リスク・高リスクのトラッシュ(薄片)に多様に切り分けて売る証券や・・』というように進化していった。リスクが大きいほど儲かるときの見返りが大きいという形容が付いた例えばサブプライム債券組込み証券(の暴落)こそ、リーマン破綻の原因になった当の「パッケージ」の一つである。
 そんな金融派生商品の典型、別の一つに、これに掛ける保険、クレディット・デフォルト・スワップ(CDS)という代物がある。この性格について、有名な投資家ジョージ・ソロスが「大量破壊兵器」と語っているとして、こう紹介される。
『ゼネラル・モータースなどの倒産を考えよ。その社債の持ち主の多くにとって、GMの再編より、倒産した場合の儲けの方が大きかった。人の生命がかかった保険の持ち主に、同時にその人を打ちのめす免許を持たせるようなものだ』
 まさに「(会社再建よりも)打ちのめした方が儲かる」というCDSの実際が、投資銀行リーマン・ブラザースの倒産でも、見事に示された。倒産時のリーマン社債発行残高は1,559億ドルだったにもかかわらず、その社債へのCDS発行銀行の債務総額は4,000億ドルだったのである。社債を実際に持っている者の保険と言うよりも、単なるギャンブルとしての約束事だけの保険のほうが2・5も大きかったということになる。約束事だけへの保険ならば、競輪競馬に賭けるようなもので、無限に広がっていく理屈になる。

 こうして、こういうギャンブル市場がどんどん膨張していった。政府も国際競争力強化と銘打って証券文化を大いに奨励した事も預かって。各国年金基金の自由参入、確定拠出年金・・・。これらにともなって、機関投資家の上場企業株式所有シェアがどんどん増えていく。1960年アメリカで12%であったこのシェアが、90年には45%、05年61%と。そして、彼らの発言力、利益こそ企業の全てとなっていった。
「経営者資本主義から投資家資本主義へ」
そういう、大転換英米圏で起こり、日本はこれを後追いしていると語られる。

 この大転換の目に見えた中身は語るまでもないだろう。企業から「金融市場への支払い」が、その「利益+減価償却」費用とされたキャッシュ・フロー全体に占める割合の急増。アメリカを例に取ると、1960年代前半がこの平均20%、70年代は30%、1984年以降は特に加速して1990年には75%に至ったとあった。
 彼らの忠実な番犬になりえた社長は彼らの「仲間」として莫大なボーナスをもらうが、「企業の社会的責任。特に従業員とその家族、地域への・・」などという考えの持ち主は、遺物になったのである。こうして、米(番犬)経営者の年収は、一般社員の何倍になったか。1980年には20~30倍であったものが、最近では彼の年金掛け金分を含んで475倍平均になっている。その内訳で最も多いのは、年当初の経営者契約の達成に関わるボーナス分である。全米の企業経営者がこうして、番犬ならぬ馬車馬と化したわけだ。

「証券文化」という表現には、以上全てが含意されてあるということだ。企業文化、社長論・労働者論、その「社会的責任」論、「地域貢献」論、「政治家とは」、「政府とは・・?」 「教育、大学とは、学者とは・・?」、そして、マスコミの風潮・・・。


(二部、三部に続く。ただし、ぱらぱらと。つまり、それぞれの間がかなり空くと思います)
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内田樹さんのツイッターより   らくせき

2016年09月22日 09時33分20秒 | Weblog
カリフォルニアのベルでは、98年に地方紙が廃刊になりました。
そのあと市の行政官は500万円だった給与を6400万円にまで増額しました。
議員も他の公務員もお手盛りで給与増額をしました。
市民それをは知りませんでした。市議会に記者がひとりも取材にゆかなかったからです。

米連邦通信委員会は地方紙の消滅がどのような社会的影響を及ぼしたかの調査を行いました。
わかったのは地方紙がなくなり、記者が官庁や議会や地裁を取材に行かなくなった
「取材空白地域」では、自分たちの街で何が起きているのかが
市民にまったく知られなくなったということでした。

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「よたよたランナーの手記」(170) 押さえて、押さえて・・・  文科系

2016年09月21日 20時38分15秒 | スポーツ
 筋肉の弱化速度が速くなったし、心拍数がかなり不安定になったし、高速度心拍数が上がっていると書いてきた。その復活に励みつつ、暑いうちは無理をしない程度に抑えて走ってきた。無理もない、75歳4か月なのである。
 筋トレを最もさぼっていた腹筋では軽い、間を長目に取った僕流の上体起こしを頑張って9月3日の30回から、21日45回まで回復してきた。ラン前のウオームアップ走には15分以上費やしている。そうしないと、その後走行中の心拍数が不安定になったり、走行後の疲れが激しいようになったからである。心拍数は、10キロ時で155ほどになった。春先には、147,8だったのに。7キロ時で130前後、8キロ時なら130台後半というところだ。

 最近のジム通い状況と「30分×2回」の走行距離とは、こんなふうになる。
 9月7日8・2キロ、10日7・9キロ、14日7・9キロ、17日8・1キロ、21日8・3キロ。中2日で走りたいのだが、そうなっていない。そんなところから感じることだが、ちょっと活力(やる気)に斑が出てきたようだ。RSウィルスという風邪症状の病気が長引いていることもあるが、ギター練習もたまに休む日が出る状態が続いている。10月近くになったら、2日~1日置きほどで、一度励んでみたい。
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想田和弘さんのツイッターより  らくせき

2016年09月20日 10時02分40秒 | Weblog
デマは社会の猛毒だ。デマを流されると、その毒を制するために、本来は議論する必要がまったくないこと(たとえばオバマ大統領の出自とか)に時間とエネルギーを割いて空費せざるをえなくり、肝心な問題の議論ができなくなる。デマゴーグの目的はまさにそれ。デマは言葉で行うテロ。
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麻生氏、また正論   文科系

2016年09月19日 08時06分40秒 | 国内政治・経済・社会問題
 麻生財務相が、また正論を吐いたと、報道された。朝日新聞のニュースによれば、以下のようなものだ。

『「景気がよくなったせいもあり、企業は内部留保を着実に増やしながら、財務省に来ると『法人税を下げろ』という話をよくする。しかし、法人税を下げてどうするのか、内部留保をためて何をするのか私はそれをいちばん聞きたい」と述べました。』

 何年も前からここにも書いてきたこの言葉と同じである。
「儲かっている会社は、賃金を上げてくれ。会社が守銭奴やってどうするのだ?」

 そしてやはりここにも書いた、最近の彼のこの言葉も、今緊急の問題だと思う。
「株屋はヤバイ。昔からそう言われてきたがこれは常識である」

 これらの言葉っていずれも、今の世界の諸問題中の大問題、社会諸悪の根源にも当たる正論中の正論。そう、僕もここで書いてきたこと。それだけに、「麻生氏、財務省に今どういう事態が起こっているのか?」などと驚いてしまうのである。「言葉だけだ」と言うのは容易いが、最重要閣僚政治家がこんな的を衝いた大事なことを語るというのは、やっぱり大事なことだろう。素直にそう認めたい。

 特に今回の言葉には、近年の諸施策からすればこんな脈絡もありそうなのである。
「重要企業株式への公金投入で、米国や中国のファンドによる変な企業買い占め、発言権獲得は避けられるようになったはずだ。としたら、それに備える必要もないはずで、もっと人件費に回して景気の好循環を作るのに寄与して欲しい」

 さてさて、政治、世の移り変わりを観ていくのが、ちょっと楽しくなった。日本が、英米流アングロサクソン金融資本主義からちょっと距離を置き始めたというのであれば、こんな嬉しいことはないのだが・・。
 
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金融が世界を悪くした(2)、金融制度改革論   文科系

2016年09月18日 14時07分07秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 今回は、今扱っているドナルド・ドーア著「金融が乗っ取る世界経済 21世紀の憂鬱」の中にある、標記のことを紹介しよう。 

『2010年7月、ロンドン大学政治経済学院(LSE)が刊行した『金融制度の将来』は、ロンドンの識者を集めた定期的な研究会のペーパーを編集した本である。その序文には、著者たちの理解する「金融制度改革」の趣旨がこう述べられている。
 金融改革の目的は四つある。まず、近年のように、金融システムが実体経済を攪乱することがないようにすること。(それと密接な関係があるのだが)第二には破綻する金融機関の救済コストが一般納税者の重い負担とならないこと。そして第三は、国民所得における金融業および金融業雇用者の分け前(金融業の国民経済に貢献するサービスとは無関係に高い分け前)を低減させること、そして第四に、分け前調整によって、他の部門でより社会に貢献しうる人材が金融業界に吸収される現状を変えていくこと。
 うまく要約している。しかし、突き詰めて言えば、この四点は二つにまとめられる。一つが、金融システムの効率(コスト縮小を含めた効率)の問題。もう一つが、社会的公正の問題である。議論の「場」は、普段から「金融安定」を使命とする各種の会議である。しかし、両方の関心が交差し、各国の国会や国内・国際の審議会で白熱する議論が行われるものの、政府の措置は一貫性を欠くことが多い』

 こうして、上記四つの論議それぞれを紹介していくのだが、先進国や国際機関のどこでも対立が激しくって、見るべき前進はないようだ。第一の点では、「国益論」と「市場競争論」との衝突。第二の救済コストの問題でも、金融規制の必要性、有用性そのものをめぐる対立。市場の自動制御に任せておけというのと、公金注入が必ず繰り返されることになる事への規制をという対立である。

 改革方向がなんらか一致していくためには、まだまだこんな繰り返しが必要だということなのだろうか。バブル弾け、銀行の破綻、公的資金の注入、景気の急悪化・・・と。それにしては、多額な税の投入である。それも、自らは米キャピタル・ゲイン税率は15%とか、さらに、ケイマンやパナマなどで税を払っていないことも多いと言われてきたのだし。
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金融が世界を悪くした、そのあり様  文科系

2016年09月17日 09時10分32秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 ここでの書評を予告させていただいた本「金融が乗っ取る世界経済 21世紀の憂鬱」(中公新書、ドナルド・ドーア著)の第1回目をお届けしたい。
 なお、著者はこういう方である。現在91歳のイギリス人で、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院卒、50年に江戸教育の研究のため東京大学に留学。以来ずっと、日本ウォッチャーを続けて来られたと、まるで同名の日本文学者ドナルド・キーン氏のような。なお、この本は題名の通りの内容を3部に別け、それぞれ『「金融化」現象』、『金融化が、社会、政治、教育などをどう変えたか』、『金融改革、弊害是正をめぐる各国、国際機関の動き』を扱っている。
 さて、第一回目に紹介するのは、この本の最大焦点。3部のうち2番目『金融化が、社会、政治、教育などをどう変えたか』における焦点箇所であるから、上の拙稿表題となった。著者は、英国経営者団体のある文書から、こういう世の中が出来たその次第をこう締めくくっている。

 以下は、日本の経済同友会に当たるイギリスのビジネス円卓会議というトップ経営者の団体が毎年出している一般教書の引用である。それも、1990年から1997年にかけてこのように激変したと。日本は遅れて急速に「こういう動き」を取り入れてきたとも説明しつつ。

『1990年はこうだった。
 法人企業の使命は、株主にも社会一般にも奉仕することである。株主の利害は主として、長期における投資への利回りに集中する。社会におけるその他のステークホルダーの利害は主として彼らの企業との関係において規定されている。 
 その他のステークホルダーとは、従業員、下請企業、債権者、地域社会および一般社会であって、それらに対する義務や責任は様々な法律、規則、契約および慣習によって規定されている。たとえば従業員に対しては、様々な労働保護法がある。しかしその法律を超えて、責任のある企業が、忠実な、そして働く意欲の強い従業員を確保するため、従業員に対して、および従業員同士の関係を構築するのは当然である。
 ところが、1997年にはこうなった。
 ステークホルダーの弱点は、各々のステークホルダーへの奉仕が必要とする費用の相互的トレード・オフを明示的に規定する目的関数に欠けていることである。したがって、そのような目的関数がないから、経営者のパフォーマンスを測る方法がなく、彼らのアカウンタビリティ(説明責任、相手の期待に応える責任)を確立させる方法もないのである。我々の意見では、経営者および取締役会の最高の義務は、企業の株主に対するそれである。他のステークホルダーの利害は、株主に対する義務に比して派生的なものに過ぎない』

 なお、この文章の1ページほど後に、こんな報告が付いていた。上記が単なる文章ではなく、加速度的に実行されて行ったというその証拠と言える。同じ円卓会議が経営者に対して行っている定期的アンケート調査と、その結果報告である
『「御社の取締役会では、社長以下の取締役が出席しない、社外重役だけの会合をフォーマルに催すことがあるか」(つまり、監督・統制する株主代表と監督・統制される経営者との利害対立を制度化するような会合)。
 2003年には、「ある」と答えたのは45%だったが、2007年には、71%に上がっていた。2010年、「企業統治原理」という、円卓会議のガイドラインでは、「そういう会合はどの会社にもあるべし」ということになっている』

 こうして、社会の大企業が、その社長でさえ参加できない社外重役会の意向だけを観るようになっていったのである。企業から、機関投資家以外の他の一切の利害関係者が切り捨てられてきたということだ。失業も増えるし、不安定雇用者も増え、下請も強烈に搾取される。その分金は、投資銀行、投資ファンド、証券会社に、そして彼らにだけ忠実だったヒラメ社長のボーナスへと、加速度的に集まっていく。同書の10ページに「(アメリカ全企業の)企業利益を金融業と非金融業に分けた内訳」の推移が載っている。1950年までは、全企業利益所得における金融業各社の割合は年平均9・5%だったが、それが最初はゆっくりと、次第に加速度的にふえていき、2002年には41%になったとあった。

 英米流の新しいこの企業スタイルを日本も後からどんどん追いかけて行ったのである。それで社会全体が、特にケインズ言う所の有効需要があってこそ成り立つ景気も含めて、急速に劣化してきたということだ。一般消費がこれだけ減っているのに、その分丸々と太った金融をどこに投資できるというのだろう。サブプライムのような金融商品をめぐって機関投資家同士が欺し合い、殺し合いのギャンブルをするしか、有り余った金の使い道がないような社会。普通の人々はそこから跳ね飛ばされている。著者は、そう語っているのである。
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随筆紹介  捨てられぬ鍵    文科系

2016年09月16日 18時13分09秒 | 文芸作品
  捨てられぬ鍵   K・Kさんの作品   
 
 空き家になっていた実家を壊す事になった。父は七年前に他界。母は父が旅立ってから認知症になり、老人ホームに世話になっている。住む人のいなくなった家だが、母がいつでも帰れるように残していた。花好きの母は時々外出して家に帰ると、庭を眺めて「落ち着くね」、くつろいでいた。でも、そのうちに「おじいさんを思い出すから行きたくない」、嫌がるようになった。

 家を壊すきっかけは、甥が結婚して子どもが生まれ「アパートでは手狭になった」と相談を受けた時から。皆で話し合い空家になっている実家を壊して新居を建てる事になった。古い家だが両親が兄弟三人を育ててくれた愛着のある家。いざ無くなると思うと思い出も消えてしまいそうで寂しい。でも世代交代で仕方がない。やがて大きな柿の木も消え更地になった。全て無くなるといっそ諦めがつき、これから新生活が始まると思えるようになってきた。

 少ししてバッグの中から実家の鍵が出てきた。もう二度と使う事は無い。捨てようか。でも、手に取って見ているうちに思い出が蘇ってきた。迷った。捨てられない。そっとしまった。母にまだ家を壊した事は話していない。現実と自分だけの世界を行ったり来たりしているから。新居ができたらひ孫に会いに行こう。母は甥を可愛がっていた。たぶん分かってくれるだろう。 
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