九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

この判決はいかがなものか? 落石

2006年06月30日 09時59分15秒 | Weblog
国家公務員が休日に赤旗の号外を配ったのは
国家公務員法に違反するとの東京地裁の判決。
裁判長は毛利さん。

裁判の当否は、別にして、この判決が持っている
意味は、政党なら、いずこも同じ。
自民党であろうが、民主党であろうが、同じ様に有罪です。

少なくとも小泉さんたちが、民主主義を目指す
政治家であるなら、この判決に疑義をもち、
そのことを発表する義務があると思いますが、
いかがなものでしょうか?

わが国の民主主義のレベルは計るよい判決です。

          

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またまた、閑話休題 オシム伝記  文科系

2006年06月29日 14時18分35秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
1941年5月6日生まれ。祖父はドイツからの移民。選手時代はサラエボで育ち、初めはサラエボ大学の数学科に通いながらの選手生活だった。因みに、妻のアシマとの馴れ初めは、その数学家庭教師だったことにある。その後フランスのストラスブールなどでFW、MFとして活躍、フランスで引退。64年の東京オリンピックではユーゴ代表で来日、日本から2ゴールを上げている(この時の経験が、後に日本に来る動機の一つを形成している)。66年にはユーゴ代表として欧州選手権準優勝。選手生活は66年から78年までの12年間。生涯得点85点で、またこの12年にイエローカード〇というのが、彼の誇りでもある。
引退の78年に「フランスで生まれた子どもが母国語を忘れかけていたのが良くないと思って」サラエボへ帰国。彼を世に出したジェレズニチャルという鉄道員クラブチームの監督に就任。当時一部に上がったばかりのこの弱小チームをすぐに大都市の4大クラブと対等に戦えるチームにする。この中には名古屋グランパスのストイコビッチが後に属したチームとか、WCドイツ大会のクロアチア監督・ズラトコ・クラニチャルのチームとかも含まれている。その功績がユーゴ代表への第一歩だった。

84年には、ユーゴ代表のロス五輪銅メタルをアシスタントコーチとして受ける。86年ユーゴ代表監督就任の後、90年WCイタリア大会では8強に入る。その後も代表監督とチーム・パルチザン監督とを兼任するも、92年5月21日パルチザンのリーグカップ優勝の日に、こんな宣言を残して(旧)ユーゴでのサッカー生活から決別する。
「これでおしまいだ! 私のサラエボが戦争にあるのに、サッカーなどやってられない」
これは、サラエボに対するユーゴ連邦の仕打ち、包囲戦への抗議なのである。前述のように、彼自身も既にサラエボの自宅へ帰ることができなくなっていたのだ。

その後はギリシャのパナシナイコス(1年)、オーストリアのシュトルム・グラーツの監督を経て、03年、ジェフ市原(当時。現ジェフ千葉)に来ることになる。パナシナイコスではリーグ戦2位、カップ戦優勝。グラーツでは、3年後に優勝、欧州チャンピオンズリーグ出場を果たしている。オーストリアのチームがこの大会に出るなんて、僕は聞いたことがないが、まるで「彼の行く所に勝利はついて回る」との観があるではないか。90年のイタリアWCで既に名が知られ、ビッグ・クラブから引く手あまたであったが、ギリシャ、オーストリアを選んだ理由は、祖国ボスニアを見守りたいという以外にない。旧ユーゴから見て、ギリシャは南隣、オーストリアは北隣なのだ。因みにこのチャンピオンズリーグ戦では、あのレアル・マドリードやマンチェスター・ユナイテッドからも得点を上げている。

最後に監督としての彼の特長を上げよう。とにかく走らせる。パナシナイコスの監督を1年で抗議辞任のような形で辞めたのだが、その理由にこの「走らせる」ことが絡んでいる。
「(ギリシャ1の富豪オーナーが)勝手に選手を買って来て、使えと言う。質は高いが、走れない。喧嘩になった。走れなかったら、どうやってサッカーをやるんだ?そんなのはルール以前の話だ」
こうして、オシムはジェフ千葉をも日本一走らせて、カップ戦優勝までこぎ着けてきた。その間3年、日本代表にまで育てた選手をあちこちに売っているのである。育てては売り、又育てて。弱小チームの宿命に耐えうる素晴らしいサッカー教師でもある監督なのだ。WCイタリア大会の頃から彼を観察しつつ、「日本人の優しさに感激している親日家」と知り、コンタクトを取っていたジェフの慧眼に、僕は感謝したい。

(以上は、集英社刊、木村元彦著「オシムの言葉」の要約に近いものである)
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閑話休題が長すぎますが  文科系

2006年06月28日 10時47分56秒 | Weblog
 まず三ゲームそれぞれの概括である。
 オーストラリア戦は完全な負け試合だった。最後九分間の三点を差し引いても、全ての数値がそれを示している。ボール保持率、シュート数(六対二十)、枠内シュート数(二対十一)、パス総数(二六九対三六〇)、ペナルティーエリア進入数(十対二九)などなど。これらは全て毎日新聞掲載の数字である。ただ、運良く取れた点を守って勝つという道はあったのかも知れない。それにしても、最後十五分間に日本があのように攻めに出るなら、前と後が意思一致して一緒に攻めねばならなかった。あのように前線と後陣が間延びして攻めては、ボールを奪われて逆襲にあいやすく、危ないこと甚だしい。
 クロアチア戦は先に見たような数字の上では勝ち試合だったが、枠内シュートが五対六と互角なのだから、勝ちきれなかったというところだろう。オーストラリア戦とは全く違って、攻守両方を繋ぐ役割を担う中田が前線に行けて、彼がマン・オブ・ザ・マッチになったのが勝勢の証拠だ。中田が、予選リーグ敗退の十六チームから大会役員選出ベストイレブンに日本人ではただ一人選ばれたのは、このマン・オブ・ザ・マッチが大きかったと、僕は思っている。その中田も「勝ちきれなかったゲームだった」と語った。
 ブラジル戦は二点差をつけねばならないのだから、あーなってもしかたない。普通なら一点取ったらちょっと守りに入る時点でも、攻めに出て行かねばならなかったのだ。精一杯攻めて負けたというところだろう。

 さて、このチームはゲームの好不調にムラがあり過ぎるとは、前からテストマッチで示されていたことだった。攻めるときに後陣が引き気味になると、日本の「走る長所」が「無駄走り」にされるということについて前後陣間で論争があって、最後まで意見が一致しなかった。不一致なままで下がり気味という事実は残されてしまった。これがムラの正体だ。引いていてロングボールで攻めるというチームにはこの欠点を突かれるのである。それについてジーコは最後まで、選手の自主的論争を微笑みつつ見守っていた。第一戦ではそれが裏目に出てしまい、第二戦でジーコが初めて監督強権を発動した。四バックにしてDFラインを上げさせたのである。それによって、中田の守備が第一戦より劇的に減って、ムラのある日本の「勝ちパターン」となったのだった。
 さて、強権発動を第一戦にやったら確かにこういう結果にはならなかったと思う。が、その方が良かったかというと僕はそうは思わない。監督抜きの選手間の自主的論争というのが、日本スポーツ界の歴史に最も欠けていたものだったのだから。選手二三人が本戦の一つまで犠牲にしてその事を学んだのだ。結果的にはジーコがそうさせたということになる。日本人監督だったら論争を黙って見ているなんてことは絶対にないし、とっくに強権発動もしていたはずだ。しかし強権で隠した弱点はゲーム中のちょっとした要素からずるずると露出させられる時が必ず来る。結局、ジーコがその日本全体の弱点を骨身にしみるように教えてくれたということになる。
 日本が目指すべきは「なるべく接触を避けるパスサッカー。そのための組織と、死ぬ気の走力」、「組織も死ぬ気の走力も選手の自主的判断からしか育たない」、こういうことなのだと思う。これらは中田が、日本サッカーの長所として言い続けてきたことである。

 それにしても、あの第一戦、ムラがある日本チームにしても最悪のゲームぶり!あれは、一体どういうことなのか。ジーコにも全く意外だったようだ。「終盤の、あんなに疲れ切った選手たちを見たのは初めてだ」と語っていたのだから。このジーコの表現にこそ、あのゲームの「敗因」が潜んでいると思う。
 あのゲーム序盤のオーストラリア、体当たりが凄まじかった。それに対して通常のゲームのようには審判がファールを多く取ってくれなかった。特に中村と中田がちょっとパスの出し所を探していると、すぐにドカーンと来た。また、二人がボールを持ったときは、受け手全員にぴったりマークが付いて、蓋をされていた。二人があんなにパスの出し所を探していたのは見たことがないぐらいだ。強くて球離れが速い中田はなんとか耐えていたが、当たり弱く球を持ちがちの中村は恐がり、さらには自信を喪失し始めていたはずだ。こんなふうにして序盤から度々ボールをカット・逆襲されたからこそ、その結果として後陣が怖がってずるずる下がることになってしまったのだ。接触プレーに弱い日本への、敵将ヒディングの作戦でもあったと思うのだが、この「怪我も覚悟の肉弾戦」という点でもワールドカップは特別な闘いなのだ。オーストラリアはさらに、日本戦用の「ファールになりにくい体当たりの仕方」なども随分研究してきたようだった。例えば地面に置かれた足の甲を踏みに来るなどというのを、僕は少なくとも三、四回は見た。やられた日本選手は次の動作がもう完全に止まってしまう。ワン・ツーのワンを放った選手の足が踏まれると、その受け手はもうツーが放てないからドリブル、そこへまたガツンッだ。

 さて、こうして日本の弱点は世界に知れ渡った。どう対処したら良いのか。組織的パスカット、パス交換の精度を上げるという以外には無いだろう。走り回って敵ボールにプレスをかけあう、受け手が走り回って味方ボールを受けてあげあう。そういう組織的精度と走り続けることでは絶対にどこにも負けないこと。幸い次のオシム監督は「走るサッカー」の日本に、さらにその「走りの自主的組織化」を教えてくれた監督である。最適任者だと思う。あのボスニアのサラエボの出身。旧ユーゴ最後の黄金期の代表のような人。子飼いの選手たちが民族毎に分かれていった悲劇と平和の尊さとを誰よりも知っている人でもある。特に熱い拍手を送りたい!
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愛国心と靖国参拝④ 落石

2006年06月26日 08時39分50秒 | Weblog
神話の崩壊と空白感

20世紀の終盤となって世界に大きな変化が起きました。
社会主義国家の崩壊です。あっけなく崩壊して行きました。
中国は、その様子を見て、経済分野で資本主義の方向に舵を切っています。

いま一つが、日本のバブル経済の崩壊です。

この2つの出来事は、日本人に大きな影響を与え続けています。
日本の経済は、低迷を脱することはなく、成長神話は完全に崩壊しました。
日本の社会が新しい段階に入ったことは、誰の目にも明らかとなりました。
未来が見えないと言われ始めました。
そして日本人の心に満たされない空白感が生れたのです。

この空白感をキイ・ワードに日本の現状を考えてみたいと思います。
未来が閉ざされたという空気のなかの空白感は、
どんな影響を日本人に及ぼしているのでしょうか?

最近の事件、とくに子供の殺人事件などは、
昔の大人から見ると「どうして?その位のことで何故キレルの?」
という気持ちがぬぐい切れません。

水が沸騰するのに100度という温度が必要なのに、
50度くらいで沸点に達しているような感じがします。
気圧が低いと沸点も低くなりますが、
日本社会の空気もうすくなって、気圧が低くなっているのでしょうか?

個人と個人を結びつけていた力が弱くなって、
社会の気圧が低くなっていることは確かですが、
それだけではないようです。
個々の日本人のなかに棲み付いた空白感。そして未来閉塞感。
二つの神話の崩壊が引き寄せた悪霊のようなものが
日本を覆っているではないでしょうか?

(私達60歳代の世代は、この空白感に鈍感ではないでしょうか?
私達にあったのは飢餓感だったと思います。
未来は明るかったので、飢餓感は高度経済成長を推進する
原動力になりえたのではないでしょうか?
一種の成功体感のある世代には、空白感は理解しにくいのかも。)

この空白感に追い込まれた若者たちが出口を求めて
オウム事件など新しい事件を引き起こしたではないでしょうか?

空白感をどう満たすのか?
政治・経済・文化の面で様々な試行錯誤が行われている
というのが日本の現状ではないでしょうか?







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集団自決の真実・大江健三郎氏の沖縄ノートのウソ(保守系)

2006年06月25日 02時09分51秒 | Weblog
この憲法を守る会の全国的な代表者ですね。大江健三郎氏は・・。
その大江さんが書いた「沖縄ノート」に、同世代の曽野綾子さんが臨みます・
それは」「沖縄渡嘉敷島「集団自決」の真実」としてです。日本軍の住民自決命令はなかったという本です。曽野さんのこの本を作成していく慎重さが覗えます。是非、WAC文庫933円です。一読して下さい。新刊です。では。」
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依然強いドル、しかし・・。

2006年06月25日 01時49分03秒 | Weblog
まず世界の国国の外貨準備高に占める円のシェアーは、1985年には、7.3%でした。それが最近では、3.9%に低下してしまいました。バブルの国内経済に足をとられいる間に準備高が半減してしまったのです。今や、ポンドとほぼ同じ状態になっています。
一方、アメリカは、巨額の赤字を計上しながらも世界の外貨準備に占める米ドル比率は、85年の55.3%から99年には71%に落としたが、なお65%台を維持しています。
要は、冷戦終結により、米国が唯一の超大国になったことと、ニューヨーク市場の利便性をいかして、ドルのシェアーを支えているのです。
また皮肉なことに、米国の赤字の垂れ流しが逆に米国のシェアーを拡大しているわけです。これは文科系さんも同様の意見だと思いますが・・。
その意味で、この事実が今後の為替相場を極めて不透明なものにしているのでしょう・
所で、文科系さんのユーロ問題ですが、ユーロの誕生によって、円のシェアアを低下させています。スタート時点かた毎年シェアーを増加させて、現在、4分1に達しています。
文科系さんに主張通りです。ただこのかってドイツマルクのシェアー15%が内包されもいるということです。文科系さんが言われる様に、プラザ合意時の米国の赤字はGDPの3.5%でしたが、現状は7%を超えています。米ドル不安が高まれば、ユーロのシェアー拡大するでしょう。中国が、増加分を確かにユーロへシフトしていますから・・。
ただ私は、円でもそうでしょうが、国際的な信認を決定するは、二つの要因があると思います。一つは、経済的な要因と経済外要因です。後者の最大要因は、やはり円という銀行には、ガードマンがいない、ようは日本が自国をどう防衛するのかという問題に付きます。そして例のアメリカの言う「不安定な弧」への戦略シフトと合わせて、日本の対応が注視されているのです。私が文科系さんに言いたいのは、この経済外の要因を無視できないということです。EUも様々な問題を抱えつつも、少なくとも日本のような馬鹿げた九条は持っていません。いやEUは、イギリス・フランスと核保有国さえ持っています。
ドイツの軍事力もたいしたものです。ヨーロッパ共同体ですから、有事の際には、共同してあたるのでしょうね。こういう経済外的な要因を無視しては、やはりいけないのです。
ましてや元など、元を保有するメリットはなんでしょうか。元の価値が高くなるのは、言いましたように、ドルが低下した時に相対的に上昇するだけのことです。
中国市場は、依然、発展途上国ですから・・。しかもリスクの高い国ですから・・。
とにかくあの国で製造した家電製品がよく壊れるのです。私も経験がありますが・・。
余程タイとか台湾製の方がいいです。
中国はまだまだです。
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「オイオイ、ちょっと大変だ!」  文科系

2006年06月23日 15時01分28秒 | Weblog
記事の見出しは「韓国大統領『防護的対応が必要』」となっており、本文は以下である。
「韓国のノ・ムヒョン大統領は22日、竹島(韓国名・独島)や排他的経済水域をめぐる日韓対立に関連して、日本側が『挑発』すれば損害が多いと考える程度の『防護的対応能力』を備えることが重要だと、海上での武力衝突の可能性をにらんだ発言をした。【ソウル支局】」
全くオイオイ?!である。日本がどうしてこんなに信用されていないのか?一体こんなふうに信頼されなくなる何かを影でしているのか?スピーチだけだからまだ良いが、大統領も「武力衝突の可能性」とは、何と言うことだ!こういうことの積み重なりが戦争なのだろうから、大変怖い。「実戦訓練ができて良い」とか言いそうな奴や、アメリカ産軍複合体など、喜んで後ろからこういう「悪循環」の「機会」を巧みに捉えて、煽り立てる輩、そのやり方に習熟した輩もいるに違いないし。ヤクザのように、下らないプライドを絡ませる奴もいるだろう。心配だ。
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こんな日本代表に誰がした?  落石

2006年06月22日 09時48分43秒 | Weblog

「こんな日本代表に誰がした?」
週刊誌の見出しです。敗戦の戦犯探しが始まったようです。
こんな敗戦、予想だにしなかったと、感じている
私達のココロに、すーっと入ってくるフレーズです。

負けたのは弱かったからだ。それ以上でも以下でもない。
などという冷めた記事はなさそうです。

BBCのサッカーのニュースを見ました。
ちょっと違っていました。報道が日本に比べて冷静です。

①戦力分析がきちんとしている。
  それぞれの選手の実力評価が冷静。
  日本のように、彼が怪我をした。代わりの彼に期待といった報道はしない。
  彼の実力はカクカク、だが大舞台は未知数と。
②ファンも期待派、冷静派と両方紹介している。
  
スポーツといえども、報道のバランス感覚が感じられる。
ファンの成熟度も違うとは思いますが。
(日ごろは冷静な顔をしているNHKがバランスを失った
報道を展開しているのは何故でしょうか?)

日本のマスコミがもう少し冷静な報道をしていたら
戦犯探しに惹き付けられる人の数は、少なくなったと思います。
(反省は必要ですから、戦犯探しが悪いと、一概には言えませんが)

こうした報道は日ごろのドラゴンズ報道にそっくりです。
新聞の販売競争・視聴率競争にスポーツを利用してきた
歴史の産物ではありますが、
ファンの方が、それを越えていって欲しいものです。

そうすると、マスコミも別のモノサシの記事を載せざるを
得なくなるでしょうから。

ブラジル戦、引き分けたら





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愛国心と靖国参拝③  落石

2006年06月21日 17時35分07秒 | Weblog

20世紀は資本主義の時代です。
その矛盾が極限に達し、さまざまな解決策が
模索された時代でもありました。
ひとつが、ソビエトなど社会主義国家の誕生。
別の道が、国家社会主義的な試み。ドイツと日本が歩んだ道。
もうひとつがアメリカ。大衆社会に基礎を置いた資本主義への道。
最初に挫折したのがドイツと日本。
ついでソビエトを中心とした社会主義国が挫折。
アメリカだけが勝ち残って21世紀を迎えたわけです。

挫折した日本は、アメリカを模倣して、再建に努力、
ついにアメリカに次ぐ経済大国となりました。
50年前には、誰も想像すら出来なかったことです。

日本が経済大国に成長できたのは、さまざまな幸運もありましたが、
(朝鮮戦争・ベトナム戦争など、戦争が経済復興のバネとなっています。
日本の幸運は他国の不運でした。)
アメリカとの軍事同盟関係が大きく寄与していました。
20世紀後半のほとんどは、米ソ・米中対立の枠組みのなかにあり、
日本は、アメリカの軍事力に依存しつつ、
経済的な自国の利益を追求することに専念できたわけです。
アメリカとの間に、しばしば経済摩擦が起きましたが、
1980年代に、日本は世界有数の経済大国となりました。

この時、日本人の心情に大きな変化がおきました。
敗戦で失った誇りを取り戻したのです。
諸外国が、日本文化に注目し、それにともなって国内でも
日本の伝統文化が再評価されていきます。
文化面でのジャポニズムの隆盛です。

この時、日本人は、アメリカに対して、従属的な軍事同盟から脱却する
条件をはじめて手にしました。
少なくとも、そうした議論は、安保条約廃棄というかたちで、
社会・共産党から提供されましたが、
国民のあいだにリアルな問題として意識されてはいかなかったと
言わざるを得ません。
NOといえる日本、という程度の主体性しか自覚できなかったとも
いえます。

安保条約にたいする対案を作り出す能力、
主体的想像力に欠けていたということでしょうか?

この経済大国体験が愛国心を力づけたことは確かでしょう。
しかし、この愛国心は、その後、健全な成長をしなかったようです。
日本文化に対する自信が、自らのなかから生れた育ったものではなく、
外国の評価によって、はじめて回復していったという主体性のなさは、
案外、深い島国根性のなせる技だったのかもしれません。

 ※美術の分野などで、志のある若者たちが、日本に愛想をつかして
  ニューヨークなどに出て行きました。
  そして、外国で評価され、日本の逆輸入されたケースが
  いかに多かったことか!
  日本人の多くは文化の面で、愛国心を持っていなかったと
  指摘されてもしかたないですよね。
  かくいう私も全く愛国心が欠けていました。
  恥ずかしい次第です。
  



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愛国心と靖国参拝② 落石

2006年06月19日 16時56分09秒 | Weblog
靖国参拝問題を考える場合に、歴史観の検討は欠かせません。
反対論の多くは、戦後のアメリカによる日本の改革を肯定、
東京裁判に対しても、おおむね肯定的です。
一方、賛成論者の歴史観の代表は、いわゆる自虐史観です。
要点は、
① かの大東亜戦争は自衛戦争である。
② 南京事件などは全くなかった。
③東京裁判は勝者の一方的な断罪である。
こうした考えは、敗戦直後からあり、東京裁判での弁護側の論の骨子でも
ありました。
しかし国民の多くはこの考えを受け入れませんでした。
敗戦という現実を前に、多くの日本人はあの戦争は、必ずしも
自衛のためばかりではなく、
隣国への侵略戦争でもあったと気づかされたのです。
戦争は二度とごめんという気持ちは、国民が新しい憲法を(戦争放棄の9条)
すんなりと受け入れて行く土壌となってきました。
そして日本は東京裁判の結果を受け入れて、講和条約を結び、
独立国となったわけです。

 ※歴史的経緯と靖国参拝

小泉さんが、個人で靖国を参拝することは、問題ないでしょうが、
総理大臣としてA級戦犯の合祀されている靖国を参拝することは、
東京裁判を否定することにつながり、あの戦争を肯定しているという
意思表示です。
本人は、そのことを十分、認識して参拝していると思われます。
それを、死んだ人の魂は善悪を離れるという、日本の宗教観で説明する論法は、
一国の代表としては、恥ずべき言動です。
この姑息な論法による議論の立て方は、
白川さんが指摘した、普遍性のない「独りよがり」でしかありません。
東京裁判が間違っていると、きちんと説明すべきです。
私は、そういう小泉さんなら、意見の相違は別にして、恥かしいとは思いません。

(議論をきちんとすべき問題を、なぜ、はぐらかさねばならいのか?
この奇妙なコンプレックスは、政治を誤まらせる危険性を秘めています。)

さて論点を戻して、あれから半世紀、時代は大きく変りました。
攻守ところを代え、右と左は逆転。なにがあったのでしょうか?



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本日10時、大勝負!  文科系  

2006年06月18日 13時35分09秒 | スポーツ
ジーコが決断しました。4バック。
坪井の代わりに小笠原を前に入れて、サントス、加地をサイドバックに下げました。狙いは「DFラインの押し上げの強制」です。これは事前の福島合宿から論争があって、結論は出ず、ジーコがにこにことこれを見守っていたというもの。ジーコのこの態度、日本人監督には到底できないことですね。中田が「人格者」と語ったわけです。論争自身はこういうもの。宮本に対して中田、高原が「DFラインはもっと前に来い」と語り、いつも長い論争になっても、基本的結論は出ずDFラインは後ろ目のままで、幾つかの条件的一致だけを見たという経過があった戦略上の最重要問題です。
さて、オーストラリア戦の敗因をそこに求めたジーコがDF陣に対してついに「強制」にでたわけでした。オーストラリア戦では3バックがトルシェのように押し上げることができず、後ろにいて後半は実質5バックになってしまった。ロングボール多用の敵に日本がよく陥る負けパターンでした。

さて、予想です。勝ちか大敗かどちらかでしょう。それも僕は勝ちと見ます。別れ目は二つ。一つ、攻めの時には、味方が柳沢のように「ボールを受ける走り」が多いかどうか、つまりぽんぽんとボールが回りかつ中距離シュートを打てるかどうか。二つ、守りは敵のボール周辺にプレスがかかり、かつゲーム初めに敵トップにオフサイドがかけられるかどうか。僕はこの二つを注目します。

あー勝って欲しい!
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まとめてお返事、保守系さんへ  文科系

2006年06月18日 12時02分33秒 | Weblog
まず「軍事費順位」投稿を巡って。
保守系さん、あなたはマルクスが発見し、ケインズ、ガルブレイスそして最近ここに紹介した格付け会社、三国事務所代表、経済同友会副代表・三国陽夫も問題にしたような広がりと重要性をもった意味での「過剰生産」という概念が全く念頭に浮かんでいない。毛沢東のドホウコウロの粗鉄?の過剰生産?とこれとを同列に並べるなんていう珍説に、僕はもー口をあんぐりです。
この問題はアングリが過ぎてなかなか直接に応える気にはなれませんので、まずはあなたの文章に日頃感ずることを比喩として一言だけ。
知識には「構造」というものがある。1冊の本では「題名」が最も「全体の中の根本」なわけでしょう。それを各章に分けて説明していくのだから、章の題名がつぎの「全体的・根本的」なものだ。その章の内容すべての結びつきなどの説明から著作題名、テーマの解明をしていくということ。同様に次は各節が今度は章テーマを明らかにするということですね。人間はある問題現象を言葉で解明していく他はないのですが、その現象をいろんな側面に分け、それらの関係などを捉えて本質・根本を探っていく。そういうやり方と分析的、論理的な本の書き方とが同じということですね。これが構造的思考、構造的な話の進め方というもので、ある現象を解明する言葉には全体表題、章、節のように重要な順にピラミッドのような階層があるはずです。その重要性表現はさしあたっては「全体的・根本的」の程度という以外にはありませんが、まーとにかく、一つの問題現象に対して一つの述語とか他との一つの因果関係とかが付くだけというように、総ての知識が、ちょうど辞書のようにべたーっと横一列に平等に並んだ形で重要なわけではありません。
「過剰生産」って経済学者にとっては賛否にかかわらず、資本主義の題名、本質みたいな言葉です。「全般的過剰生産」で資本の投下場所がなくなり、それで不景気、恐慌、大量失業、戦争などがおこるというような言い方をこの前も僕はしたはずですね。鉄とか自動車とかある生産分野だけのそれなら、光学から発展したキャノンのように、他の分野に資本を移すだけです。物作りが満員になっているなら、金融にも手を出すというようになりますね。
対してドホウコウロが、不景気、恐慌、大量失業、戦争などなどの根本に座るこの概念と同列に並べられるのは、「生産」と「過剰」という言葉の連想ゲームみたいな思考においてだけでしょうね。これは、言葉遊びか、ダジャレの類。

さて、次はイラク戦争後の混乱の投稿を巡ってです。イランはまだまだ流動的ですね。中ロを含めた上海協力機構でのイランの動き、「安保理5か国+ドイツ」の提案に「慎重に検討中だが、濃縮活動停止だけを受けるのは最大の屈辱」という反応、この二つが今目につくことですね。が、見ていて下さい。石油取引所問題は年内期限ですから。そして、アメリカは、濃縮活動でイランが多少の譲歩?をしても、「まだだめ」と言い続けますから。この問題が世に出るときが必ず来ます。世に出ないとしたら、米の対イランいちゃもんは続いていることでしょう。石油輸出国機構のドル支払い慣習とは、それほどにアメリカの現状にとってそれこそ「全体的・根本的」なもののはずですから。アメリカの過剰生産、資本余りの根幹に触れてくる問題です。

他方、貴方の好きな理念的美辞麗句のようなものは生活、経済に余裕があってこそ多少の本音が通せるもの。今の米のように余裕がない国が語る言辞は、貴方が言うような子どものような純粋な物からはほど遠く、もー全くいわゆる虚偽、粉飾という意味に近いイデオロギーでしょう。もっともブッシュだけはこの虚偽、粉飾言辞を貴方が言うように「子どものような純粋さ」で信じているのかも知れません。が、それはもー貴方が言うように本当のアホの自己欺瞞に慣れすぎて、自覚症状がないからだけのこと。周りに言われて、「よし、おれそー言うわ。こんな言葉がカッコイイかな」なんて、ラムズフェルドに相談しちゃってね。ブッシュこそ何が本当かが、最も分からなくさせられているんじゃないかな。だからいくら「選挙に不利」を作っても、あのラムズフェルドを辞めさせられない。こんなブッシュでも、産軍複合体に踊らされていることには変わりありません。彼らの方はアホでも、子どもでも全くない
人の言葉を言葉通りに取るなんて、「床屋哲学(床屋さんに悪いですが、哲学者ではないという程度の意味にとってください)」でも厳禁でしょう。貴方は、アメリカだけになぜそうするんですか。そしてもう一つ。ご自分の「保守」という言葉ね。貴方の「保守好み」には途轍もない観念論を僕は感じてきましたね。そんなもん、なんの「規定」もはっきりしない、「あー言えば、こう言う」、「あーも言えるし、こうも言える」という類のもんでしょう。ひとつ、最も「日本の保守」らしい「理念」を言葉にして頂けませんか。貴方、案外それをやってないんですよ。他人の「提示」へのケチ専門じゃなく、自分の「提示」を、それこそ「日本保守の『全体的・根本的』理念」を一つ二つ「提示」して見せてください。

僕の文章が長い?それで誤読をしてしまう?
述語が豊富な、しかもいろんな反論を予測した、「構造的思考を目指そうとする文章」は、辞書の説明のようにはいきません。僕は貴方の文章は総てプリントして脇に置きながら、いつも返事を書いていますが。因みに、僕に誤読がありましたか?

最後にもう一言。「僕は『文科系』1本でいきます」と応えた以上、僕に2言はありません。メールで名前を使い分けるなんて、僕のセンスの外の世界のことです。
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「六十年安保・九条の会」のデモ          まもる

2006年06月18日 09時28分17秒 | Weblog
 新聞の片隅に、「46年前六十年安保闘争に参加した全学連の元メンバーたち200人が、国会周辺で九条改正反対のデモ行進をした。」という記事が出ていた。
 メンバーの多くは平均七十歳で、当時のデモで命を落とした女学生・樺美智子さんの遺影を掲げ行進したと言う。
 デモに参加した人々は「孫が戦場に行かないで済むように、じいさんも頑張ったという証を残したかった。」話していたそうである。また若い人の中にも「世代を超えて、改憲への危機感を共有できる。」と参加した人もいたという。
 私は当時「遅れてきた青年」として彼らの活動にエールを送ったものだった。
 今では共にこの国の未来を憂い、残り少ない人生に何かをしたいと感慨する同志である。
        
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昭和天皇は時代をどう詠んだか。       戦争歌の訪ね人

2006年06月17日 13時08分03秒 | Weblog
昭和天皇は和歌を愛好し、一万首を超える御製を残しています。主に戦後全国を巡幸した時の歌が多く残されていて戦後、「あけぼの集」「おほうなばら集」などが出されました。
 どの程度ご自身の作か? 正直に自分の思いを詠われたのか? は判りませんが少なくとも御製として発表されており、天皇が時代をどう感じ、考えていたかの一端は知る事が出来るのではないでしょうか。

 昭和3年  即位大礼のあとに

     山山の色はあらたにみゆれども わがまつりごといかにあるらむ

 昭和17年 日米開戦時に

     峰つづきおほふむら雲ふく風の はやくはらへとただいのるなり

 昭和20年 終戦時の感想

     身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもいて

     国がらをただまもらむといばら道 すすみゆくともいくさとめけり

 昭和22年 新憲法施行にさいし

     うれしくも国の掟のさだまりて あけゆく空のごとくあるかも

       広島巡幸にさいし

     ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ たちなほる見えてうれしかりけり

 昭和34年 靖国社九十年祭で

     ここのそぢへたる宮居の神々の 国にささげしいさををおもふ

 昭和63年 この年崩御

     くすしらの進みしわざにわれの身は おちつきにけりいたつきを思う

 訪ね人の感想は、天皇は良く言えば前向きで楽天的、悪く言えば無自覚無反省な人だと思いました。
 この他の御製の歌を読んでも、「昭和」そのものだった天皇にとして戦争責任があまりにも感じられないような気がした。

 ただ憲法施行の時の歌

 「うれしくも国の掟のさだまりて あけゆく空のごとくあるかも」

 は共感できる歌でありました。      

     

      
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九条の会・全国交流集会の報告。・・・微力だが、無力ではない 

2006年06月16日 15時08分13秒 | Weblog
九条の会全国交流集会が6月10日に東京で開催されました。参加したのは北海道から沖縄までの九条の会900団体の1500人でした。
 九条の会の事務局の資料によるとこの日の時点で、全国の「九条の会」は五千百七十一団体になり、都道府県単位の九条の会は33都府県に増えていました。
 二年前の呼びかけから毎日七つづつ会が増え続けたことになります。
 
 会場では2時間前から全国から集まった人たちが夫々の経験を熱く話し合いながら開場を待っていました。

 会は呼びかけ人の挨拶。
三木氏・・呼びかけの九人の仲間は戦前の苦しみを知り立ち上がりましたが、もうそろそろ力がつきかけています。でも今若い方がこの集まりに大勢いてもらい元気になります。

鶴見氏・・日々耄碌していますが、「戦争は文明の母」などという「文明」にもうろくの個人として反対していきたい。

澤地氏・・希望を持ち続けることが困難な時代だからこそ九条を守る努力を続けて生きたい。そしてそれは日に日に増えています。きっと新しいあけぼのにいるのです。
加藤氏・・今分かれ道にいる。改憲の勢力は議会外では多数ではない、一方護憲の人々は横の繋がりがなかった。そこでこの会を立ち上げた。
 今この会は登りの勢いです。もう一押しです。

小田氏・・自衛隊の膨張を止める為にも九条を変え歯止めを掛けることが必要というひとがいる。しかし 今でも勝手に膨張する自衛隊を認めたらもっとひどい事になる。いまや、九条を守り理想を掲げる事こそ現実的な歯止めとなる。
 
大江氏・・今日は独立した多様な声の重なり、憲法擁護の様々な運動が重なって
このような大きな結実を示していて心から喜んでいます。

 このあと分散会にわかれ地域・職場からの実践の成果、問題点を熱心に話し合いました。
 どの九条の会の悩みは共通していて。
 ①若者をどう参加してもらうか?
 ②会運営の費用をどう保障していくか?
この二点についても色々話し合われました。    

 ※詳しい報告は姉妹ブログ「九条自由広場」に載せてありますので是非ご覧ください。 
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