九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

三〇年越しの感謝   文科系

2024年06月21日 22時13分17秒 | 文芸作品
 あれは確か一九八〇年のこと、小学校卒業以来二七年たって初めてその学年同窓会が開かれた。コンクリートに建て替えられる築百年の懐かしい木造校舎とのお別れ会として持たれた学年同窓会が近くの神社の会館であった。居住地学区の中学に行かなか三浦三浦君には、卒業以来初めて会う同級生ばかり。少し早めに会場に着いて、来訪者を一人一人確認していた。と言っても、顔には覚えがあっても名前は出ないと言う人々がほとんど。やがてそのうちの一人の男性が三浦君と目が合うと満面笑顔で「三浦くーん、君に会うために来たんですよ」と近づいて、隣に座った。そして、こう語り継いでいく。
「浜松から来たんですが、本当に君に会うためだけに来たんです、竹田です。覚えておられますか?」
 と言っても、ほとんど覚えもない顔だったのだが、竹田延実と呼んでいたことがよみがえると、二人が関係したある事件を真っ先に思い出した。確か、彼ら属した六年六組で、六月後半の昼の放課に起こった事件である。

 間近に控えた期末テストの勉強をしていた三浦君の耳に突然ドスンッという重ぃ物が落ちる音、次いでビシッと鋭い音が飛び込んできた。〈ただ事ではない!〉、教室の後方に目をやると兼田君と竹田君とがけんか腰で向かい合っていて、状況などから経過がすぐに推察できた。兼田君が自分の椅子に座ろうとした竹田君のその椅子をすっと引いてとんでもない尻餅をつかせたのである。そして、立ち上がりざまの竹田君が兼田君の頬を平手でひっぱたいた。「なにするんだ!」と叫ぶ兼田君に、「それは、こっちの台詞だ!」と竹田君が珍しくいきり立っている。ガキ大将・兼田君の取り巻きたちが、遊び半分で周囲に集まり始めている。〈ただでは済まないな〉、三浦君はゆっくりと竹田君のそばに寄っていった。教室中の目に対しても兼田君がこのままで済ます訳がない。兼田君は、当時まだ田舎の風習が残った名古屋市郊外のこの地域の土地持ち旧家の一人息子。力もないのにこの学区内では威張っている人間なのだ。走るのは遅いし、野球も下手だし、そもそもキャッチボールの筋肉さえいかにもひ弱なのだと、彼にはもう分かっている。この兼田君の転校生いじめに三年生で転校してきて以来、彼もずっと悩まされてきたのだったし、竹田君はこの春に転校してきたばかりの生徒だった。ちなみに、竹田君が、三浦君もよくからかわれた三河弁を使うのは、渥美半島から越してきた三浦君の転校時と一緒だったから、ずっと一種の親しみがわいていた。
「ただの遊びに向きになるなって!」、取り巻きの誰かが言った。「暴力の遊びか!」竹田君が言い返した。「暴力に暴力なら、けんか? けんかなら、授業後にちゃんとやれよ!」と、また取り巻きがけしかける。「本当にやるのか?」、ドスを利かせて、兼田君。竹田君は黙っている。そこで思いついた三浦君がこう引き取る。「じゃあ、僕が竹田君に代わって、兼田君の相手をするよ」。彼の予想通り兼田君が一瞬ひるんだ。転校以来三年がたっていて、ずっと同級だった兼田君のいじめに対する三浦君の抵抗力を兼田君は十分見知って来たからだ。当時の子どもは放課時などに相撲も取ったし、宝取りなどの体力・格闘付きゲームも時に流行した。「宝取りゲームが行き過ぎて、いつもけんかになっては、つまらんだろう? 竹田君も、なんとかもう許してやれよ」、彼は竹田君の目にウインクしながら付け加えた。「それもそうかな。じゃあ、そういうことにさせてもらって、兼田君、いいね?」、で兼田君も表情を緩めて、その場は解散となった。

 竹田君の口火によって同窓会場挨拶の初めから自然なようにこの事件が蘇ったのだが、竹田君が付け加える。
「この場面だけじゃなく、あらゆる所で君が手を差し伸べてくれた。甘やかされた兼田は、自分に自信がないからいつも集団で威張る場面を探してたみたいだったしね。君も転校生で初めはその犠牲になったと当時聞いてたけど、僕にはどれだけありがたかったか」
「東京生まれで都会育ちの僕は、母の実家の渥美半島に疎開して、ずいぶんその『土地』に虐められたんだよね。そのせいで、知らぬ間に正義漢に育ってた」
「そのことは皆もよく知ってたよ。五年二学期に君が学級委員長に選ばれたと聞いた。 あれって、女の子たちが兼田男性グループを嫌ってたから。兼田グループは女性蔑視だったからね」
「よそ者嫌いの『村社会』で、長いものには巻かれろの男尊女卑、・・・、何が民主主義国家になった、か!?」
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随筆 僕の育メン・クライマックス  文科系

2024年06月02日 02時09分55秒 | 文芸作品
  娘の結婚式で俺が泣くなんて、思ってもみなかった。これまでただの一度も思ったことがないどころか、涙が出始めるその瞬間まで。あれは、よく作られた娘の演出、その狙い通りの効果の一つだったのではなかったか。それならそれで良いのだ。別に、意地で泣くまいとしてきたわけでもないのだから。

 この式は、娘の友人らによる完全な手作り。チャペル風建物での人前結婚式の司会は、娘の職場である小学校のお姉さんのような人らしいし、受付も進行係も見慣れた友人らがやっている。それどころか、こういう式に欠かせないBGMや披露宴出し物なども全て手作り、生なのである。

 まず、式場へ彼氏が入っていく時は、娘の親友のソプラノ独唱で、マスカーニのアベマリア。次に、娘が俺のエスコートで入場していく時には、友人女性トリオがアベベルムコルプスを高い天井全体に響き渡らせる。披露宴では、彼氏の弟の津軽三味線にのって和服の二人の衣替えご入場だ。その余興にも、もう一人のソプラノ独唱でヘンデルのオンブラマイフ。オーボエの生演奏もあって、これはシューマンの曲だとか。
 総じて「手作りの音楽結婚式」という趣である。横浜国立大学教育学部の音楽科出身で、音楽教師として海外青年協力隊で中米ホンジュラスへ派遣二年間なども経てきた娘らしいと、ただただ感心しながら一鑑賞者としてご満悦であった。まさかこの全てが後で俺に降りかかってくるなんて、これっぽっちも思いもせずに。
 さて、披露宴の終わりである。両親四人が立たされて、二人が謝辞のような言葉を述べ始めた。娘の番になっていきなり「お父さん!」と静かに切り出された話は、最も短くまとめるならこんな風になろう。
「お父さん、私の音楽好きの原点は貴方との保育園往復の日々。二人で自転車で歌いながら通ったよね。『ちょうちょ』とか『聖しこの夜』とか、よく歌ったね。思えば、こんな小さい時から二人で二部の合唱をしてた。私たちも音楽にあふれた家庭にしたいと思っています」
 そこで俺は急遽アドリブでこう返すことになった。とにかく、全く知らされていないハプニングだったので、応答の初めにはもう涙ぐんでいたと思う。

「まさか僕が、娘の結婚式で泣くなんて、思ってもみなかったことです。よりによってあんなセピア色の話を持ち出したから。しかもあの話は、僕の最も弱い場面。さて、君が語った自転車通いは、兄ちゃんが入学した後の二年間のこと。それまでの送迎は確かこうだった。家族四人、車で家を出て、車の中で朝食を摂り、母さんを名古屋市西に横断して、遠くの職場まで送っていく。それから、家の近くの市立保育園まで戻ってくる帰りには、三人でいつも歌ばかり。ここまでの時間は約七〇分以上もあって、それから僕の出勤。お迎えも僕で、また歌っていた。その間に母さんは夕食作り。夕食を食べると僕はまた出勤。こんな保育園送迎七年こそ僕を父親らしくしてくれたんだと思っています。『ちょうちょ』も『聖しこの夜』も今でも低音部を歌えますよ。君のピアノ教室通いの練習なんかにも家に居れば必ず付き合っていたし、君のピアノ発表会にはなんとかほとんど出席してきたし。」

 娘が作ったハプニングを我ながら上手く乗り切ったもので、それだけまた泣けてきたというところ。俺にとってのそういう話を、娘が何の予告もなく振ったのである。彼女の方はちゃんと文章にした物を準備していたから、俺がアドリブでどうこたえるかという、演出なのである。『手作り音楽結婚式のフィナーレ』にぴったりではないか。ちょっと敏感な人ならば娘のこんな解説まで分かるような形で。〈父にはこれはハプニングです。でも父はあのように応えてくれました。これが私たちの間柄なんです〉
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随筆 僕の駆けっこ・クライマックス

2024年05月23日 14時22分06秒 | 文芸作品
 小学時代の僕は、駆けっこもスポーツもだめだった。運動会の徒競走では6人中の3,4番より上がったことはないし、小学校の町内対抗野球大会では、「ライトで8番」に引っかかるかどうかの選手。6年生になって買ってもらった上等のグローブがいつも泣いていたもの。それが、中学時代から少しずつこれらが「得意」になっていったのだが、その出発点の事件を描いてみる。と言っても、この事件は、その後ずっと思い出すこともなくほぼ忘れていたもの。自信のない活動の成果は、記憶にも残りにくいのだろう。


 中学3年生の運動会で、スウェーデンリレーの選手に選ばれた。100から400mまでをプラス100m増しでそれぞれ走る4選手一組同士のリレー争いなのだが、直前に分かった僕の割り当ては最後の400メートル。僕の記憶は「最後の僕が1位との差を詰めて、2位になった」ということだけで、他は、何も覚えていなかった。それを、水谷という野球が上手なスポーツマンが、70歳ごろの二人の懐古談義で教えてくれて、こんな周辺会話が始まったものだ。

「あれは、あと50mあったら君が追い抜いていたよ。君の相手は伊吹君、百mの第一人者だったけど、もうバテバテだったからね。初めをしゃかりきに走りすぎた」
 こんなありがたい友人もいるもの、たちどころにこの周辺の経過、出来事を思い出させてもらった。
「腿を上げてストライドを大きく。ただし、脱力してゆったりと走る」
 これが、400m担当と分かって、スタート直前まで自分に言い続けた戒めだったこと。後半に追いついてゴール、その記録員の声がこう聞こえたこと。
「君のタイムは、ほぼ60秒」

 なぜ中距離が速くなったか。嬉しかったせいで、当時いろいろ考えた。バレーボール部に属していて、その練習前後の準備と整理との体操の後、必ず一人で走っていたのを思い出した。準備(体操の後の)ランは練習の調子を良くするし、整理のランはその日の疲れをとると鮮やかに体験・実感させてくれた。この二つの「毎日ラン」こそ、リレーよりも遙かに強力な当時の僕の思い出で、この自信がその後いろんな「僕のスポーツ人生」を作ってくれたもの。ちなみに、有酸素運動能力は中学時代に一番伸びるもの。子育て時期にある本で学んだ知恵である。対して、無酸素筋運動は高校時代以降長く強化できるものとも学んだ。


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随筆 僕の渓流釣り・クライマックス その2   文科系

2024年05月21日 00時07分17秒 | 文芸作品
 前回に引き続き、その2回目も描いてみたい。今度は渓流釣りといえるかどうか、木曽川中流の川鯉51センチの体験である。これを自慢すれば、この鯉を0・6号の糸でつり上げたこと。
 場所は、愛知県北西、尾張一宮市の北・川島町の大きな橋のすぐ西下、中州における出来事だ。この鯉の魚拓で確認してみると、時は1971年5月18日。

 0.6号の糸でシラハエの脈釣りをやっていたのだが、初めから多くあった魚信に、合わせてみたその瞬間に釣り糸が切られてばかり。
「水中で何事が起こっているのか!」
 昨日までの雨で濁った水の底で起こっていることが、皆目見当もつかないのである。そこで思い出したのが、釣り本にあったこんな記述。
「大きすぎる魚は、無理に寄せないこと。ただ竿をためて耐え忍び、向こうから上がってくるまで待て。魚の口が水面上に出てくるまで待って、魚が空気を吸えば弱ってくる。それを岸辺に引き寄せれば良い」
 とこの教えを思い出し、その通りにやったら、以降ちゃんと釣れたこと! 30~35センチほどのウグイがどんどん上がってきた。この日この場所は、雨後の増水で流れ出た餌が特に多いポイントだったのだろう。そこらへんの大きな魚が集まっている感じだった。ただ、この失敗と成功の体験があったからこそ、以下のことも可能になったのである。

 初めて見たこんな大きなウグイを20本も上げたころだったろうか、針にかかった魚が、濁った水の上方になかなか浮き上がってこない。その間中、僕は大きく曲がった竿を立てて構えたまま、大川の中州の縁をあちこちと上下移動するだけ。
「これは、今までの魚とは違う! 一体何者なんだ?」
 なんせ天下の木曽川、それも愛知・岐阜両県を結ぶ大きな橋のすぐ下の「竿立て・ウロウロ」。こんな姿はどうしても人目を呼ぶ。橋の上には人がずらり、見世物見物を決め込んでいる。その衆目注視の中の「うろうろ」、おおよそ20分、水面直下に黒っぽい身体の下半身だけがほんの一瞬翻ったのが見えた。
「これは鯉だ。よほど慎重にやらないと先ず上げられないだろう。シラハエつりとて、手網も持って来なかったし」  
 それからまたウロウロがどれだけ続いた時だったか、今度また糸が緩んできて、水面上に大きな口と一緒になったぎょろっとした目が浮き上がってきた。いい加減糸を引っ張り続けるのに、魚も疲れてきたのだ。その後やっと、竿を寄せることができたのだった。手網を持っていなかったので、最後は中州の砂の上にずるずると滑らせて引き上げたものだ。

 後でつくづくと思ったのが、このこと。この鯉を釣り上げるに至るまでのウグイ釣りの失敗・成功がなかったら、先ずこの鯉は上げられなかったろうな。なんせ、普通の鯉よりは細いとはいえ、51センチ。これを、0・6号の通し糸でつり上げたのである。
 ちなみにこの鯉、普通の鯉と違う川鯉だが、その日のうちに連れ合いの実家でおばあさんに味噌汁にしてもらった。確かに鯉そのものの味がしたもので、その美味しかったこと!


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随筆  僕の渓流釣・「クライマックス」  文科系

2024年05月20日 14時20分52秒 | 文芸作品
 我が人生の中で、25年ほどの渓流釣り経歴を持っている。愛知、岐阜、三重、滋賀、福井にまで足を踏み入れ、北海道、伊豆半島などの旅先でめぼしい川を見つけたときには、「竿を出してみた」ことも多い。そのクライマックス場面を描いてみよう。丹念に付けてきた釣り日記をひっく襟返してみると、1984年9月24日のことだ。その日、その場所は、岐阜県白川村の飛騨川(木曽川の大支流である)に東から流れ込む白川、その上流・東白川村のさらに東方。その日の同行者が我が一人息子K、当時12歳、その初釣行の出来事である。


 この時、Kの渓流釣り初体験を思い立ったのには、大きな背景があった。前年83年の8、9月と、僕の渓流釣り15年ほどの記録になった大物が2回も上がった場所なのだ。ヤマメの兄弟であるアマゴのいわゆる「尺物」が、初めは31センチ、2度目が32センチ300グラム。ちなみに、アマゴというのは、ヤマメとほとんど同じ体型、体色だが、アマゴには赤い斑点がある。
〈こんな面白いこと、Kにも味あわせてやろう〉
 この翌年に早速ここへと連れ出したのだ。僕ができることをほとんど教えてきたKであったが、ハエの流し脈釣りだけは一応教えてあったので、その応用として、初の渓流ヤマメ釣りであった。

 「トウちゃーん!」。
 晴れた日の午前6時過ぎ、甲高い声が大きな川音(と朝霧)の間から僕の耳に飛び込んできた。僕の下流100メートルほどの岩の上で釣っていたKに目をやると、大きく曲がって水に引きずり込まれそうになった釣り竿に全体重を乗せて堪えている小柄なその姿がすぐに目に飛び込んできた。
〈相当な大物、それも深場だ。その中心部の流れに魚が乗せられたら、0・6号の糸が持たないだろう〉
 この瞬間、乗っていた岩場から左手の浅瀬にゴム長靴のまま飛び込んでいる自分がいた。浅瀬といっても胸近くまでの深さの急流とあっては、体を半分引き倒されるような衝撃を感じたものだ。なかば水に引き倒され半分泳いでいるような形で岸辺、浅瀬に身を寄せて、後で振り返ればその浅瀬をKの岩まで飛んでいったはずだ。体を水から引き起こしてからのことは「半ば泳いでいた」以外にはほとんど覚えていなくって、記憶にある次の僕は、Kから引き渡された竿をゆっくりと寄せ上げているもの。「慎重に、慎重に」と、この時ばかりは釣り師の全体験が総動員されているのである。それで、やっと落ち着いたのは、僕が寄せた魚を、Kが指示に従って玉網に納め、それをつくづくと眺めている時。30センチの尺物と気づいた僕の気分は、自分が2度これを釣り上げたときなど比較にならぬ高揚感に躍り上がっていた。その日これ以降、何度繰り返したことか。
「すごい魚だなー、良かったな、K!」
 が、そんな感嘆の声を上げるたびにKの応答は今一つ、なんとも物足りなかったもの。まー、趣味というのは、そんなものなのだろう。渓流の趣味も、Kへの僕の過去いろんな「教え」の執着も。


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育爺の役得、孫の保育園キャンプ参加   文科系

2024年04月30日 14時24分31秒 | 文芸作品
 29日休日の月曜日、二人の孫が通ってきた某保育園の「山の家デイキャンプ」を一日楽しんできた。ここへ行くのはもう何度目のことだろう。今は中2になった初孫・女児が3歳のころからのことだから、10年は経っている。


 まず朝の7時45分、娘の車で集合場所に着いて最初に驚いたのが、これ。今回はいつものバス移動とは打って変わって、高級ワゴン車アルファードに4年生の孫、男児と乗る組に入った。自分らも含めて同乗者は大人4人子ども2人で、薄いベージュ色の柔らかいソファにゆったりとくつろいで2時間の道行きになった。
 目指す場所は、愛知県東三河地方は新城(シンシロ)市作手村、我が国の皆さんに分かりやすく言えば京へ上る途上に南下してきた武田信玄の終焉の地、野田城の北北西、直線距離で10キロほどの中野という土地の山中である。それだけに、名古屋から東の豊田市、サッカー場豊田スタジアムを左手に見て過ぎればもう、山また山。その山がことごとくまさに「笑っている」のである。笑うの本来の意味を調べてみたが、何か閉じた物体に割れ目が生じて、弾けることを言うようだ。黒々とした常緑樹植林などの中に芽吹いている真っ最中の落葉樹林があちこちに輝いていて、まさにそこが山の割れ目と、そんな感じなのだろう。とにかく、年取るほど自然が好きになった僕の目には、久々に感じること多い光景ばかりが続いていた。


 今まで10年間以上通ったこのキャンプは、上の女児も含めた娘ら3人との参加が多かったが、今年は下の孫4年生の卒園児だけと出かけた。そういう卒園児の家庭にもお呼びがかかるのだが、それはこのキャンプ場が、同保育園OBの父母らの保育園後援会が建ち上げて、折々の修繕など運営して来たものだからである。と言ってもここは、寝泊まりする居住棟2棟の大きなログハウスのほか、浴場棟、トイレ棟に加えて、雨が降っても煮炊き・食事ができるようにとの炊事棟まで揃っている立派なものだ。
 ここを自分らの手だけで建てて、運営してきたOB父母の中心は、1970年代に親として在園の方々のようだ。いずれも、共働きの「育メン」の走りのような人々、「家事・育児一般何でもござれ」の方々とお見受けできた。この日も、そんな後援会長を初め何人かのご老人が参加されていて、コシアブラやタケノコなど、山菜の天ぷらをうまく調理して、食べさせてくださった。この保育園では、こういう奇特な人々、ご老人を多く見かけてきたが、家事万能でもあってよい一生を送られたものと、垣間見させていただいた。ちなみに僕も、この保育園が共同保育所時代から、国の法人認可をとって認可保育園に育ち上がってきたときのお世話をする職業に就いていたのだった。そんな保育園に我が孫が入ることになるなどとは、当時は思いもしなかったものだが、我が娘が地域から「よい保育園」と聞きつけて入ることになったのだ。そう知らされたときの、僕の気持ちは、どれだけうれしかったことか! 今ではこの娘が、ここの理事会だか後援会だかの役員をやっている。

 イモリだかを見つけてきて、大騒ぎしている子どもたち。3歳ほどの男児がこれを鷲づかみしているのには驚いたが、まさにこの保育園らしい活動である。

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随筆紹介 父の牡丹餅   文科系

2024年04月25日 12時28分10秒 | 文芸作品
随筆紹介 父の牡丹餅  K.Kさんの作品です

 彼岸近くになると父が一度だけ作った牡丹餅を思い出す。大正生まれの父は昔気質で、「男子厨房にはいらず」、台所など入らなかった。家事も全て母任せ。男は外で働き女は家を守る。そんな父が一度だけ牡丹餅を作った。後にも先にもこれっきり。
 弟が誕生した時だった。私と妹の時は特になかったのに。家長制度にこだわる父は「跡取り息子ができた」と大喜び。不器用なのに頑張って握りこぶしほどの大きさの牡丹餅を、お櫃の上に並べたとか。ご飯粒がお櫃にくっついて大変だったらしい。母は「余程嬉しかったんだね!」と、この話を後々も目を細めて何回もしていた。
 小豆は邪気を払う効果はあると信じられたり、晴れの日に食べられる風習があった。父としては精一杯の気持ちだったのだろう。子どもが生まれて三日目に、母親の乳が出るように「三日目の牡丹餅」と呼ばれる大きな牡丹餅を食べさせる地域もあるらしい。

 家の事情で上の学校に行けなかった父は、息子に望みを託した。決して裕福ではない家計から工面して進学させた。博士号を取得した時は、本人よりも父の方が輝かしい顔だった。満足そうに何回も頷いていた。
 ところが、弟は結婚してお嫁さんの実家に近い九州に家を建てた。これには父はひどくがっかりした。跡取り息子を取られたと感じたらしい。私と妹はそれぞれ嫁いでも、幸い実家に近い所に住んでいるから、寂しいとは思えないのだが父の考え方は違った。

 家の後を息子が継がないならと終活を始めた。墓を始末してお世話になっている寺に、母と永代供養を申し込んでいた。戒名までつけてあったのは驚いたが。老人ホームの申し込みもしてあった。そこで母は百歳の今も過ごしている。嫁いだ子に世話をかけたくないという決断だったと思う。
 父は亡くなる少し前に私の家に来て、「世話になった」と暇乞いの挨拶に来た。嫌な予感がした私は「縁起でもないことを」と応えたが、その頃には体力の限界を感じていたのだろう。律儀な人だった。
 今年は父の十三回忌。私も父の歳に近くになってくると、その時の気持ちが分かる気がする。


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随筆 五月蠅い人   文科系

2024年03月19日 18時58分19秒 | 文芸作品
 「五月蠅い人」という人種が存在すると思う。僕が最初にこれに気づいたのは、中学に入ってある種の秀才と仲良くなった時。他人の「誤り」をすぐに訂正する。あるいは「それよりも、こうやった方が良い」と指図めいたことを口に出してくる。親しい間柄になるとこれがどんどん増えていく。こういう「いろんな事に気づき、良くしたい」人が側に居ると、どういうか「五月蠅い」のである。僕の連れ合いを例に取ってみよう。
「今の交差点、危ない運転だったよ。右の人に気づいていなかったでしょう?」
「油炒めをやっている時は、ちょっとでも側を離れてはいけない!」
 と、大きな危険が伴うような行為への注意はまー許そう。が、
「こっちの道行くの? こっちのが良いのに」
「なんで、追い越し車線を走ってるの。もうすぐ左に曲がるでしょう?」というときでも、左折地点ははるか二キロ先などなど、助手席の中でもまー五月蠅すぎる。それで彼女と僕との運転関連比較をすれば、彼女は現在地の東西南北がとんと分からず、地図も読めない。僕はといえばナビ要らずで、地図だけで初めての場所にも行ける人なのだ。という比較を何度「確認し合っても」、彼女の運転「助言」は減らないのである。東西南北が分からなければ、目的地への「斜めの近道」などは手に負えないはずなのに、秀才さんに多い用意周到で、心配性言動が同乗運転中至る所でこれでもかと発揮されて、金婚式を迎えるほどの経験と対話を積み重ねてもなお、一向に減らないのである。

 こういう難問を考え込んでいると、こんな事も思い出す。二人が出会った大学の同じ教室で二年生時の社会思想史の期末試験勉強を一緒にやっていた時のことだ。僕は自分の勉強法についてこう紹介した。この授業1年間のノート記述の目次を作っておいて、「ここが結論、それを証明する重大部分がこことここ。この三箇所をやっておけば優良可の良は、まず間違いなし」
 対して彼女はこう語って、止まない。
「それは分かった。だけど、ここも、こちらも、出るかも知れない。私は全部を何度も読んで覚えていくやり方」
 それで、それぞれのやり方を採用して、結果は二人とも優だった。というように彼女は大変な努力家であって、何と言うかどうも僕がサボり屋の怠け者にしか見えないらしいのである。そして、いったんそう決め込んだ家事分担分野には「助言」がどんどん増えていくという調子だ。連れ合いの勤勉さは尊敬するにしても、「こういう間柄」は五月蠅い。僕の部屋の方が彼女の部屋よりも遙かに綺麗なんだから(これは彼女も認めている。先日初めて「ジーパンが全部、綺麗に四つ折りで一箇所に収納されていて、驚いた」等というのだから)、僕の分担分野である家全体の清掃、整理整頓など黙っていれば良いのである。なんせ僕は手抜きをするが、それにしても我が家の何処も彼女の部屋よりは綺麗なんだから。

 関連して、この問題って案外根の深い難しいものなのだと、何年か哲学を学んだ僕にはよく分かる。紀元前五世紀「あなた自身を知りなさい」のソクラテス以来18~9世紀のカント、ヘーゲルまで、「主観と客観の問題」として、哲学史を悩ませてきた最大の難問だったのだから。等々と僕が思うからこそ、「五月蠅い配偶者」がいまだにますます幅を利かせているのかも知れない。
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小説 当世子どもスイミングと闘う(2)   文科系

2024年03月10日 08時03分55秒 | 文芸作品
 十二月末のある日曜日三時頃だったか、僕はいつものようにスポーツジムや温水プールも併設する近くの市営公園の周囲を走っている。一周一キロちょっとの公園で、僕の通常のランニングコースなのだ。五年ほど前までは体質的に不要だったウオームアップが今は二〇分以上も必要になっているのに加えて、こんなに寒い日は血管が開かずなかなか調子が上がらない。〈前脚の地面ツツキが甘いから、脚を無理無理前に出して、その膝が曲がりすぎてる。これじゃ、悪循環じゃないか!〉。あるいは〈頭も、顎も前に出ている。身体の姿勢がおかしいと、脚のツツキも甘くなるのだから、腰から頭まで、ちゃんと伸ばせよな!〉。色々工夫してきた新走法もまだまだ身についていなくて、気がつけば出てはならない悪癖がいっぱい出て来るのである。〈腰から頭までちゃんと伸ばして、骨盤の下に持ってきた前脚を伸ばして素早く地面をつついたその反発弾力で走る〉などなどそんなことを復習しつつ二周目が終わりかけた身体をしゃんとし直したその瞬間のことだった。
「ぢーっ、頑張れーっ」。
 すぐに分かった、ハーちゃんの声だ。斜め左二〇mほど前方、子ども遊園地の端っこ、歩道沿いの柵に沿って背伸びした女の子達が見える。同級生らしい女の子二人ほどもその傍らに居て、ハーちゃんを真似て、一緒に両腕を振っている。近づいていき、顎を出してあえぎながら言って見せた。「まだ六周も残ってるのに、こんなに疲れてる。年だねー」。三人がどっと来たのも、針が落ちても笑い合う年頃。「私、○○ちゃんの家に遊びに来てるの。もっと遊んでくからねー!」、と叫んでいる声を尻目に走り続ける。
八周目を終わって、この大きな市営公園の一角にある児童遊園地から、一緒に家に帰ることになった。ハーちゃん家族は、僕ら老夫婦と今は同居しているのである。
「ぢーちゃんはどうしてまだ、そんなに走れるの? 聞かれたから再来年八〇になると答えたら、みんな驚いてた。あの友だちのおじーちゃんたち、膝が痛くて階段も苦労してるって」
「そりゃ、ハーちゃんの水泳と同じで、ずっと科学的トレーニングを重ねてきたからだよ。どこか弱った筋肉が見つけられたら、そこを強くする。水泳と同じでフォームに悪い点、力が損してる点があったら、そこを直す。ただ、いくら直しても短距離走はもうダメだ。ハーちゃんにも勝てないよ。自転車なら、君とずっと一緒にやってきたサイクリングでもう分かってるはず、僕のが強い事確実だけどね」
「あれは、ぢーちゃんの自転車がいーからだ。私にももうすぐ、あーいうの買ってくれるんでしょ。そしたら勝負しよ!」 
「あー、とても楽しみだ。今までは五〇キロまでだったけど、今度は百キロって言ってたよね。いいの? 大丈夫? 自転車の長距離は、技術や筋肉も問題だけど、それ以上に血液循環機能の問題、酸素を吸収する力の問題で、これは水泳も同じだって前に教えたでしょ。これを鍛えられるのは中学三年生ほどまでで、こちらは長年かかるんだよね」
「あーいう自転車に乗れたら、頑張れるよ。それに、この頃、体操で中距離やっても、縄跳びやっても、息がハーハーしなくなってきたし。短距離は学年男子も含めて一番だけど、中距離は二番ね。縄跳びも学年大会の全種目で最後まで残ってたの、ぢーちゃんも授業参観を観に来たから、知ってるよね」
僕のスポーツ好きが乗り移ったようなこの子とのこんな会話は、言うならば、幸せすぎる。今では、こういう会話の前提となる水泳、サイクリングなどのためにも走り続けてやるぞという僕になっている。


 ハーちゃんは新型コロナウイルスによるジム休業の前、二〇二〇年一月のテストで旧一級、新四級の百メートル個人メドレー形テストに合格した。そしてこのテスト直後のその夕方、ジムのお向かいのイーオンのベンチに二人して座り込み、今後の中長期計画を相談しあった。合格祝いのサーティンワン・アイスクリームを二人してなめながら。二人ともレギュラーサイズ・ダブルの大判振る舞いで、盛り上がっていた。行きつ戻りつの話をまとめて言えば、こんなものになったと言える。
 今の狙いは、これから三つ先の一級、百メートル個人メドレータイムにあるということ。そのために、二~三級は、ハーちゃんが苦手な方から背泳と平泳ぎとをその順番で選ぶこと。それぞれ合格タイムがはっきりしているのだから、それぞれのテスト前にはどうしてもこれを突破しておくこと。もちろん、この全てを一発で通過していく。そして相談の最後は、ハーちゃんの泳ぎそれぞれの科学的分析。特に、当面の背泳ぎについては念入りにやった。頭はなるべく上げずお臍をもっと上げるような姿勢にして、腕は耳沿いに肩から今よりもさらに大きく前方に振り出して、脚は膝から下をもっと蹴上げる、などなど・・・と。
 この夕の僕は間違いなく興奮していた。
〈こんないーかげんな教室、俺の方が絶対に上手く教えて見せる。二人でやってきた長距離サイクル・ツーリングも併せた循環機能発達を水泳と平行して図った上で、速い子のフォームとの違いにちょっと注意力を働かせる事ができれば、水泳素人でもこれぐらいの達成感を与えられて、子どもを大事にできるんだって、ここからはもっともっと示してやろうじゃないか! 一級まで、全部一発合格、駆け足で抜け出て、子ども本来の力を見せてやろう!〉

その時からしばらくして、新型コロナウイルスによるジム休業。それはとても残念だったが、明けた二〇年七月末の三級テスト背泳タイム、九月の二級テスト平泳ぎと、ハーちゃんは学年女子一番のタイムで通過して行った。学年別ベスト五の名前とタイムが張り出されるから分かるのである。週三回通う育成クラスや特別クラスで特訓を重ねた子も含めた順位だからちょっと凄いのだと、僕は勝手に解釈している。ただし、この教室全体で四年女子がどれほどいるかを僕は全く知らないのだけれど。

 そして、文字通りそれらの締めである一級、百メートル個人メドレー・タイムテスト。これが実に、僕らとしては全く意外な形で向こうからやって来た。九月に二級を通った後、ハーちゃんは誘われていた週三回通う育成クラスにとうとう入っていくことにしたが、このクラスの進級テストは二か月に一度の一般クラスとは違って、毎月末行われる仕組なのである。うかつにも僕はこのことを知らなくて、十月末の練習日がいきなりテストの日になってしまった。その日もいつものように僕は全面総ガラスの三階観覧席から観ていたのだが、ハーちゃんに何かバタフライのタイム試験のようなことが行われた後しばらくして、また彼女が一人で泳ぎだした。何か本格的に泳いでいること丸わかりで、加えるに、プール脇で歩きながらコーチがタイムを取っている。
「えっ、テスト? まさか来月の予行練習だろう。テストは隔月のはずだから」
と観ている間に、バタフライ、背泳、平泳ぎ、クロール各二五メートルが終わった。
 更衣室から出てきた彼女が、僕めがけてすっ飛んできながら叫んだ。
「一級卒業、私、『グランドスイマー』だ」
 彼女が差し出した通知表を引ったくって目を通す。一分五四秒六七と書いてあり、その隣に大きく青い合格マーク。すぐ脇を急いで確認していくと、四年生女子の規定タイムは二分三秒〇、その下を見ていくと中学生女子のそれも一分五八秒〇とあった。また、その日同時にあった二五メートルバタフライの月間タイム測定でも学年一位のタイムを出していると後に分かって、これによって背泳、平泳ぎ、バタフライと最近計測した種目全てでハーちゃんは四年生女子首位になったのである。
 これらを知った時の僕の気持ちはどんなだったか! 〈ハーちゃんと俺が一緒に、この大きなクラブ全体に勝利した。なんせ、週三回泳ぐ育成クラスはここまでたった一か月、特別授業も全くなし、直近一か月を除いて週一回一時間の練習組でここまで来られたのだから。ここの方針や、管理体制がいかにいー加減かを証明してやったんだ〉

 さて、すると間もなくこのすぐ後に、教室の側からこんな声がかかって来たのである。これは、娘から聞いた話なのだが、
「選手クラスに入りませんかって。どうする?」
 このキッズ・スイミングの選手クラスというのは、小学生から高校生までを合計してたったの二〇名弱で週三~四日練習に励み、水泳連盟の競技会などにも出るという、この教室が内外に見せている「顔」なのである。ここの子ども教室の粋を集めた高校生まで二〇名弱が、唯一本気になりすぎている以上に教えられている子どもらと言って良い。やる気満々のハーちゃんを見て、母親である娘と色々話し合った末に結局入っていこうと決めたが、一つ心配があった。週三日一時間づつ泳ぐ「育成クラス」に入ったのでさえこの一か月のこと。そんな三~四回がいつも二時間泳ぎ詰めというこのクラスで、果たして彼女はいやにならずにやっていけるのかどうか。
 ちなみに、この時娘から初めて聞いたことはまた、僕として寝耳に水というほどのもの。新型コロナ休業前二〇年一月の四級合格時点で既に選手クラスを打診されていたのだそうだ。以降娘が迷っていて、今回の僕との相談、決定になったというのである。
 四級個人メドレー形試験の合格時点で、選手コースに誘われていた! あれからほぼ一年、百メートルの個人メドレータイム試験で中学生の合格タイムを三秒以上も突破したんだから、そりゃ、誘われるよな! でもこの一年遅れはかえって良かった。フォームをより完成させて入っていくことになったんだから、これから泳ぎ込む心肺機能鍛錬の効果も、より高くなるというもの・・・。


ボードに両腕を載せ掛けて、四コース一斉にバタ脚だけで泳ぎ始めた。初めての選手コース日に、前面総ガラス観覧席の僕は、最年少が集められたらしい第一コースに注目している。そこの最初はちょっと背が大きい女の子、五~六年生か。次の子は、痩せていて、ハーちゃんよりも小さい女の子(後にリナちゃんと知った五年生。平泳ぎがクロール並みに速い)。次がやはり小さめの男の子と、女の子でその次が、あっ、やっとハーちゃんだ。もう少し腰をしっかりと固めた方が良いと言ったのになー。力もちょっと入りすぎている。みんな速いでも、そんなには遅れてないようだ。あれっ、今隣のコースを泳いでるちょっと日焼けしたようなあの女の子は、五~六年生に見えるけど、脚の回転も強さも凄まじい。心肺機能が高いんだろうが、このクラスで何年やって来たのか(この子は、後にチカちゃんと知った。四年生だけど、中学生選手並みの泳力を持っている。クロールとバタフライが強い)。

前面総ガラスの観覧室はスタート台の真上に設けられていて、スタート台近辺以外は全コースが見える。ガラスに張り付いて、いつものように双眼鏡持参の僕だから、なおさらのことだ。その眼から見ると、ボードを離してまずクロールを泳ぎ始めた皆の中のハーちゃんは、前の子には離され、後の子には追いつかれて、明らかに遅い。それが、距離を泳ぐにつれてどんどん遅れ始めて、小さい子にも追いつかれ横をすり抜けていかれる。それも、明らかに新米を考慮されてなのだが、他の子が泳いでいる時もハーちゃんはよく休んでいる。考えてみれば当然のことなのだ。ついこの九月まで週に一回、一時間しか泳いでいない彼女と、週三回各二時間も何歳からやって来たのかという子どもらとでは、差があって当たり前。初めから特別授業も受けて早くから進級を重ね、一~二年生で週三回の育成クラスにも上がってきた子からの選りすぐりもいるのだろうしでも、こりゃ大変だ。ハーちゃん、今どんな気持かなー、何と言うかなー。観ている俺がこんな敗北感というか、暗い気持になっているんだから。
選手クラス一日目二時間が終わって更衣室から出て来た彼女とは、こんな会話になった。
「疲れたー。みんな、速い速い!」
「頑張ってたねー、続けれそう?」
「なんとか。一つだけみんなに褒められたことがあるし。私、脚が強いんだって。ボードを持って脚だけで泳いだ時は四泳法とも、皆に負けなかったんだよね。初めてで付いてこれるのが凄いって」
「ハーちゃんは学校で今までずっとリレー選手だし、僕との五〇キロサイクリングなんかで心肺機能を鍛えてきてるし、脚も強いんだよ」
ここぞとばかりに思い当たる彼女の特長を強調した。
「でも、脚だけのも、ちょっと長くやってるとだんだん負けていく。なんでみんなあんなに疲れないんだろう」
「疲れるのはね、いつもの『科学的分析』で難しいことをそのまま言うけど、筋肉が疲労して息苦しくならないように、酸素を体中に取り込む能力の問題。心肺機能はこれを正しいやり方でちゃんと鍛えてきた期間の長さで決まるんだけど、これが違うの。たとえば君の横で泳いでた黒い女の子、何年生だろう。凄まじい心肺機能だよ。あんな子は、多分、一年生から週三回やってきたとかね」
「チカちゃんって言う私と同じ四年生なんだけど、中学生並みのクロールだって。いつからここで泳いでるか、今度聞いてみる」
「そうそう。チカちゃんと比べた君なんて、ここで水泳を覚え始めてから去年秋まで週一回一時間しか泳いでないって、覚えときな」
「じゃあ、ここまでの二、三年の『泳ぎ込み』の差は、もう追いつけないということじゃないの? 」
「それも違う。酸素を取り入れる心肺機能以上にフォームこそ大切。君のフォームは、一般クラスや育成クラスの四年女子の中では、少なくとも三泳法は全部一番ね。そして、今までで一番長く泳いだ百メートル個人メドレー・テストで中学生の合格タイムを君が三秒も抜いてるというのは、心肺機能も結構強いということ。心肺機能って中学時代が一番延びるもので君らにとってはまだまだこれからのことだし、チカちゃんたちよりも君の選手クラス出発地点が高いのは間違いないし、心肺機能がついてくればすぐに追いつくよ」
「ふーん、わかったけど・・・」
と、こんな会話から間もなく知ったことなのだが、チカちゃんは一年生で選手クラスに入った四年生。五年生のリナちゃんは三年生末に入ったのだそうだ。と聞いて、心配性の僕もずいぶんホッとしたものだが、はてハーちゃんは心肺機能が追いついてくるまで、続けられるのかどうか。あれこれと、僕自身が不安になって来たという選手コース第一日目であった。
 大丈夫、やっていける。短距離の脚なら今もう同じほどに強いんだし、一年も経てば少なくとも脚だけは勝てるだろう。それに、酸素を取り込む心肺機能が一番伸びる時期は生理学上で中学生時代と確定されている。ただ泳ぎ込ませて二百メートル個人メドレーの月タイムを取っているだけのような練習だし、追いつく余地など十分過ぎるはずだ・・・。俺のランニングに比べたらそう言えること間違いなし。
 こんなふうに懸命に自分に言い聞かせている僕を一年弱でますます度々発見してきたのだが、この執念は自分ながら「ちょっと病気」と訝りたくなるほどのものに育ち上がっていた。我が八十年人生の来し方を彩り、詰め込んだスポーツ好きはもちろんだが、それ以上にハーちゃん好きが加勢した「物事に取り組む姿勢」への「ちょっと病気」は、我ながら手に余るほどのものに膨らんでいる。なんせ、土日の朝七時半から二時間の選手クラス練習にハーちゃんが出る時には、一般向けに玄関が開く八時には僕一人が広い三階観覧席ガラスに張り付いている有様。この巨大なジムが名古屋市北東部全体に手を広げた世の中で僕一人、八〇男がやることかと苦笑いしていたり、いや老い先短いからこそ「俺が役に立てるからこそということじゃないか」と精神分析まがいを試みてみたり。が、こんな程度の分析では手に余りすぎる「ちょっと病気」と、そこへいつも行き着くのだった。

 さて、ここの選手クラスでは月一回第一木曜日に二〇〇メートル個人メドレーで全員のタイムを取る。それまで一か月間の練習成果を確認するためなのだが、ハーちゃんの最初三か月はこのように伸びていった。四分一四秒、四分六秒、そして三分五九秒。この最後の日、三月初めの結果をしっかりと確認、記録した僕らは、帰りがけにこんな会話を始めることになった。
「全体ではまた七秒縮めたけど、一つだけ、今までで本当に今日初めて後退が起こったのは知ってるの?」
「背泳でしょ? ゆっくりと泳いだんだけど、どれくらい悪かったの?」
この子はまだ、自身のタイムも気にしていないのか、それとも僕任せにしているのか。
「一分八秒で、前が一分二秒だよ。六秒も落ちてる。この二か月の全種目通して、落ちたのはこれが初めてだけど、こういうのが一番いけない。なにかあったの?」
「飛び込んだ時に左の眼鏡がずれて半分くらい水が入ってね、最初のバタフライは我慢できたけど、次の背泳だけは上向きで泳ぐから、分かるでしょ、左目の上で水がチャプチャプしてて、いろいろなことをやってはみたんだけど駄目で、後はそのまま最後まで。とにかく、泳ぎにくかったー」
「へーっ! そのこと、先生に話した?」
「いや、みんなにも笑われるかと思って、恥ずかしくてー」 
「そんなら言うけど、これって凄いことなんだよ。背泳が前と同じタイムなら、今日全体で一三秒も縮めたことになる。そして、来月は、初めて起こったこの六秒のマイナスが一〇秒以上のプラスになって返ってくることも決まってるようなもんだ。来月の全体タイムがこの背泳だけでもう三分五〇秒を切ったも同然ってことなんだけど、分かるかなー。これから一か月は特に背泳の練習を頑張ろう」
 幼い無頓着というのか、豪胆というのか、そういうこの子に僕は、懸命に言い聞かせたものだ。対する彼女は笑顔も見せぬどころか、憂鬱そうにこう返して来た。
「でもチカちゃんは、今日とうとう三分切ったって、みんなが騒いでた。凄いよねー!」    
「そうか、うん、君と一分の差があるのね。でもとにかく、これからの二人の伸びしろは、君のが大きいに決まってる。チカちゃんの一月は一二月より悪かったと張り出された記録表で読んだ覚えがあるけど、君のこの二か月平均のように月一〇秒ずつ彼女との差を縮められれば、半年で追いつくんだよ。とにかく一週間に一時間しか泳いでなかった君が、六時間も泳ぐようになったんだから、それで心肺機能が伸びた分で全ての泳ぎが急に速くなっていくんだし。そんな時には、今遅い後半が特に速くなる。そしたら一体、どんな記録が出るようになると思う!」
 チカちゃんをハーちゃんの身近に引き寄せるべく、懸命に話していた。これも分かったのか分かっていないのか、チカちゃんをうらやましがっているやのただ暗い表情は崩さない。抽象的な言葉よりも、時々の感情の方がまだまだずっと大きく心を支配する年齢なのだろう。そこで僕はこんな時のいつもの切り札として、この言葉で励ましたものだった。
「スポーツでも音楽、ピアノでも、悪い癖が付いた後退や停滞はいつも起こるものだけど、やはり成長が急にやって来るのね。欠点、重要点によく注意してきちんとやり続けていればのことだけど。このことは、君ももう何回も体験してきて、よーく分かったと何度か叫んでたでしょ。セイちゃんの『いきなりボードキック二五メートル』も、覚えてる?」
 ハーちゃんの顔に、作ったように見える微笑みが浮かんだ。人間個人のどんな取り組みにも起こる「急成長の時」。これは、ハーちゃんが得意な縄跳びなどでも既に度々体験して驚きつつ、言葉に出してきちんと確認し合ってきたことだ。この時ハーちゃんに思い浮かんだのは、背泳が急に早くなったあの時だったのか、それとも、セイちゃん初の二五メートル・ボードのあのゴールだったのか・・・。


 それから十日ほどたった練習日の終わり前の光景は、二階席の僕の目に焼き付いて、今もよく蘇って来る。
 二五メートルダッシュ測定をやっていて、その日最年少の最終組で三人並んで泳ぎだした。向かって一番右には五年のリナちゃんが得意の平泳ぎ。大柄な四年生の天野さんは、やはりお得意の背泳である。一番左がハーちゃんで、その日は背泳を選んでいた。そして、なんと、半分ほどまで行っても、ハーちゃんが天野さんをリードしている。そのハーちゃんにちらっと目をやった天野さんが、一気にピッチを上げ始める。ハーちゃんは一目瞭然、精一杯の回転だ。「今はピッチは遅くても良いから、どんな泳ぎも、とにかく大きく泳ごうね」と二人でずっと言い合わせてきたのだけれど。三階から見ていたからすぐに分かったのだが、プール脇の皆が騒然とし始めた。チカちゃんなどは、ゴールの方へ走り出している。どうやら、新入生の予想外の活躍が起こると、皆が目を見張る習慣があるらしい。ましてや高野さんは、チカちゃんの仲良しだ。そんな全員注目の中でのゴールは、タッチの差よりちょっと大きめで、ハーちゃんの勝ち。ハーちゃんがクロールで泳いでも勝てなかったリナちゃんの平泳ぎはこの時は三番に終わっていた。もっともこの時の相手お二人は、ハーちゃんの伸びに気づくまでは、幾分手を抜いていたのかも知れない。こんな光景の中でもとりわけ、チカちゃんがコーチにタイムを訊ねている姿を僕がしっかりと見つめていたのは、後でハーちゃんに見たままをきちんと報告してあげようと思ってのことだ。
 ちなみに、チカちゃんたちのこの様子を帰りがけにハーちゃんに伝えた時には、逆にハーちゃんからこんな報告があった。
「コーチもこう言ってくれたよ。
『なんでお前、こんなに急に速くなったんだ? 今こういうことが起こるって、他の泳ぎもこれから急に伸びていくってことになる』って」
 これでやっと、何とかついて行けるようになったのかな、ここまで三か月ちょっとか。僕のモヤモヤがこれだけ晴れたのだから、ハーちゃんはもっとホッとして、このクラスの一員にはなれた〉という感じだろう。停滞とか失敗とか、これからはもっといろいろあるだろうが、まー元気にやっていけることにはなった。そのためにも、僕のハーちゃん病の方をちょっと直さんといかんだろうな。僕が彼女を手放して自立させるほうが、彼女自身が上達していくことよりもはるかに難しいかも知れない・・・。

(終わりです)


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小説 当世子どもスイミングと闘う   文科系

2024年03月09日 17時43分54秒 | 文芸作品
 更衣室から四年生の女の孫ハーちゃんが、やっと出てきた。その鼻高々と分かる表情を見なくとも、合格という結果だけは試験場プール脇から三皆観覧席にいた僕への合図でもう分かっていたのだが、「タイムは? どれくらい?」、急き込んで僕は訊ねている。通知表が差し出されたのをあわててめくってみると、二六秒一七。横に書かれた四年生女子の二五m平泳ぎ合格規定タイム二七秒一〇をやっと一秒弱、ヒヤヒヤの突破だ。
 これは、二〇二〇年九月末、五年以上通っている子どもスイミングの二級合格テスト。ハーちゃんは今、この巨大なジムの子どもスイミング教室に三〇級ほど設けられた進級クラスの最終段階に差し掛かっている。この最終段階は四つに分かれていて、四~一級はこんな内容になる。四級が、四泳法全部のフォームをテストする百m個人メドレー。二、三級は、その内どれか一つずつの泳法で二五mの規定タイムを突破するテスト。そして、最後の一級が、百m個人メドレーのタイム突破試験である。七月にあった三級試験は背泳で合格、四年女子の合格ライン二四秒一五のところを、二一秒五五で通った。ちなみに六年生女子の合格ラインが、二二秒〇五とあった。というこの背泳と違って、今日の平泳ぎの方は、僕とのテスト対策練習でなかなかタイムが伸びなかったから、事前の特訓に、珍しく二日を費やしたのだった。苦労した分、結果とそれ以上にタイムが待ち遠しく、二人して喜んだ当日だったのである。

 ジムから出て脇の駐車場に歩きながら、この建物全体を改めて見上げた。女性アスリート二人の看板、同じく男女二人の子どもスイマーと、二つの大看板が掛かった、巨大な建物である。南の道路を隔てた向かい側にも、矢張り同じように巨大なショッピングモール。お互いがお互いの客を呼び込みあっているという、そんな戦略がうかがわれる二つが並んでいるのである。名古屋の中心部一等地に近いところにあって、不動産会社が全国展開しているスポーツ・ジムなのだ。そこの子どもスイミングには、これだけ子どもが少ない時代に一体どこから集まってくるのやら、凄まじい数だ。週一時間一コマ・一コースの教室に多い時は二〇名もいるから、それだけで優に五〇名。親同伴の幼児などでとても賑わう土日だけでも計一〇時間としてさえ、先ず五〇〇名は軽く超えるだろう。ウイークデーにも、学校を終えた小中学生が何コースものスクールバスで名古屋市北東部から集められてくるクラスが少なく見て二〇ほども。ハーちゃんが通う日に僕が仲良くなった老夫婦などは、この愛知県の西端、津島市から孫の送迎で通ってくるのだそうだ。最近新聞で見た「子どもの習い事は、水泳が断トツ」というそんな社会現象のまさに最先端、象徴的な存在である。そういう大事業を、親元は日本有数の金融業というこの不動産会社が大々的に全国展開しているのである。

さてこの時から一年程話を遡った一九年一〇月、この教室に対して僕はある気持を抱き始めていた。

「今度は上手な子のように、板を持ったクロール・キックで、向こうの壁まで、二五mやってみる?」
 そのころ間もなく五歳になる男の子、ハーちゃんの弟セイちゃんにそうたずねると、弾んだ声でウンッと応えつつ、僕に微笑みかけている。板で泳いだことなどないはずだから拒否されると思っていた僕は、内心のうれしさを押し殺してさりげなく板の持ち方などを教えて。
 これは、娘に頼まれた、同じスイミングに通い出した弟セイちゃんの初めての水泳特訓三日目のこと。ちなみに、娘と僕はこんな子ども教育観で一致している。
〈物事に正しく取り組む態度を小学低学年までの子どもに身につけさせるには、スポーツと音楽が最適である。より上手くなるために正す点が具体的だし、改善の成果も目に見え、肌で感じられて、分かりやすいものだから〉
 この日も付いてきたハーちゃんと同じ水泳教室の進級テストに二回落ちて四か月を無駄にしたあとに、僕のセイちゃん指導の出番が初めて求められたその一場面なのだ。「普通クラス」の進級テストは奇数月にあるから四か月が無駄になったということなのだが、この日いきなり起こったことに、僕はまーびっくり仰天! 彼が二回落第したテスト課題とは、「フィックス」という二つの浮きを両肩に付けて「五メートルをバタ足できる」というもの。これはもう特訓一回目でできてしまって直後のテストにも合格したから、以降今日もふくめてあと二日はその距離を延ばす練習を企画していた。この間中守るべき大切な基本は、以下の二つである。
 一つは、正しく脱力した蹴伸びから伏し浮きの姿勢が取れること。大きく息を吸ってから壁を蹴ってまっすぐに進むだけの練習を何回もさせる。四肢をゆったりとのばしつつ蹴った後、脱力させた全身を水面と平行に保つ。この時、踵が頭より上に来るほどに腰から下を浮かせ気味にする「脱力した身体の伸び」が要点なのだ。ただこの姿勢は、きちんと教えれば子どもはすぐに覚えるもの。水の抵抗感がなくなる初めてのスタイル・やり方習得が、子どもには楽しくて仕方ないものらしい。自分には難物であった水の中を力も要らずスーッと分け入っていけると実感するからだろう。セイちゃんもこれがちょっとできるようになると、何度も何度も挑戦していたのが、僕にはとても興味深く、幸せな光景だった。今ひとつは、足首と膝を伸ばしてバタ足すること。つまり、頭よりも浮かせ気味にした脚をなるべく根元から動かす。
 さて、テストは五mだったけど、蹴伸びは完璧、バタ足も形になってきたこの日、思いついてこう提案してみた。「できるだけ遠くまで行けるようにやってみる?」。「ウンッ」という返事もろともどんどん距離を延ばし、結局二五mの向こう岸までを泳ぎ切ってしまった。僕はまーセイちゃん以上に、喜んだこと! 半信半疑のままに「もう一度やってみる?」に、やはり「ウンッ」。これもやはりニコニコとやり切ったので、〈この子、心肺機能が強いのかな!〉と、二度目の驚き。そこでこれほど脱力キックができるならこの日のうちにこれを定着させてしまおうかと思いついたのが、冒頭のボード・キックの提案だった。
 何度も言って聞かせてきたのに、笑顔交じりでつい激しくなるバタバタから出てくる膝曲がりもなんのその、やはりパワフルに通しきってしまった。
「セイちゃん、君、凄いことやったんだよ、これ!」
 驚きの連続から、こんな声を連発していた。
〈一二・五mクロールでさえ三つ上のクラスのテスト課題なのだから、手腕の形をちょっと教えればこのクラスもクリアー同然。そもそもこれほど出来る彼が前のテストで二回もどうして落ちたんだ? あんな簡単なテストに〉。
 プールサイドベンチからこのテスト場面の一部始終を見つめていたハーちゃんの所へ飛んでいって、声を掛けてみた。
「ハーちゃん、驚いたろ。セイちゃん、凄いね」
「あんなに簡単に二五mって、前のテストがおかしかったんだよ。ぢーちゃん、教えてなかったんでしょ」
「いやいや、この大進歩は、間違いなく、正しい伏し浮きの大切さを示してるの。君ももう一度改めて、自分の泳いでる姿勢を見直すといい。君のクロールは、呼吸する時に顔が水面から上がりすぎて、水中の上半身よりも足が低い形で身体が斜めになる時が多い。だから、水の抵抗が大きくなりすぎ。これがいつも言う君のクロールの『科学的分析』ね。勉強で言えば、理科の勉強内容の一つで、水泳ができない人でも分かる理屈だ。今月四級の個人メドレー型テストに君が落ちたのも、あの理科の理屈に合わないクロールのせいだ」
「違う、違う。あれは、ぢーちゃんが退院したばかりで、二人の練習ができなかったからだよ。大切な試験だったのに」
「俺のせいにしたら、怒るぞ。自分が『科学的練習』をおろそかにしたというのに。こんな大きな失敗はよーく覚えといて。今後一級までの対策に活かすことだ」

 と、こんなやり取りがあったこのころ、孫二人が通っているこの大きなスポーツジムの水泳教室に以前から抱き始めていた不信感が決定的なものに膨らんで、僕の中で弾けてしまい、教室への質問メールをこの直後に送ったのだった。
『一六クラスが三〇クラスになったのは(最近上達していくグレイド・クラスをこの通り倍ほどに多くなるよう再編成し直した)、極めて不愉快でした。調べてみたら、入門段階と旧一級とで多く枝分かれしています。全く理解不能で、一級卒業者をより長くつなぎ止める策としか思えません。今までは四泳法型テストの一級が通常の一番上だったのを六クラスほどに枝分かれさせたから、一級になった子が四級って、その気持ちを考えたのですか。子どもの気持ちを尊重しないという意味で、なんらか教室の都合によるやり方としか思えません。
 もう一つ質問で、クロールの教え方がおかしい。息継ぎの時に真上以上に、一八〇度を通り越した反対側まで顔が行ってしまっている子もいます。これでは、身体がいろいろぶれても来るから、水に抵抗がない身体の使い方にはなりません。二五メートルクロールクラスで友人の子どもさんらが何度も落第してきたのは、このことが関係していると観ました。悪い癖を直すのに熱心でないスクールと思います。
 そして、もう一つ。あるクラス泳法習得卒業時にはその課題が上手く泳げていた子が、以降に前に習った泳ぎに悪い癖をつけることも目立っています。一度身体に染みついた癖を子どもが直すのは大変。もうちょっとこの対策を考えてください。友人の子らがちっとも進級できない原因はそこにもあると観てきました。』

 このメールに対して近く返事を送るとの返信があったまま、いつまで待ってもそれが来ないのである。この質問内容は一種の社会問題だとも考えたものなのに。子どもらの社会教育施設という役割もあることだから僕の怒りは一種の公憤なのだが、僕の指摘が的を射すぎていて、弁護論議も思いつけなかったのだろう。
 さて、進級クラスを倍程に分けたのも、悪い癖を直すのに不熱心なのも、僕には金儲けのためとしか思えなくなっていた。関連して「希望者は個人レッスンを」という特別料金授業に加えて、毎月試験が受けられてどんどん進級もしていく仕組まであるのだ。言い換えれば、特別料金を出さない子どもはみんな悪い癖が付いて進級が遅れていく。そう言えば、ハーちゃんはずーっと週一回の一般クラスだけ、個人レッスンは受けたことはないけど、このジムに近い同じ学童保育から通っている子どもらのなかでは、いつの間にか出世頭だ。とっくに中学生になった子も含めて学童保育の上級生はかなり来ているのに。それぞれ同じ試験を何度も何度も落ちている日の暗い眼差しを見るたびに、どれだけ腹を立ててきたことだろう。
〈子どもは社会の子。その恩恵をやがて今の大人全員が受けていくのだから。地域の子など全部に大人も心してやさしく接してきたという日本古来の風習を踏まえた社会教育的理念が国の法制にも盛り込まれていて、ここにも適用されるはずだ。「規制緩和」ばかりで、そんな「社会的公正、良俗」もどんどん排除されて来てしまったのだろう。『地域の子どもをみる施設』という習慣もなくなってしまって、残ったのは全部、子供商売? 金儲けだけの全国チェーン施設ばかり? 日本国憲法理念で言う社会的『公正、良俗』はここでも一体、どこへ行ってしまったのか? 今の日本、こんなことばっかりだよなー・・・・。〉
 こうして、当時の僕の心中はどういうか、「このクラブがいかに悪いかを、ハーちゃんと俺がどんどん証明してやろう」と、そんな感情、思いが生まれていた。と言っても、コーチたちが悪いのではない。みんな礼儀正しいし、言葉遣いも親切で、子どもにも優しい感じの人ばかりだ。一クラス一時間で、二〇人近い時もあるほどの子どもをみさせられて、一年にコーチが何人もやめていくところを観ると待遇もパート扱いがほとんどなんだろうし、経営・管理体制が問題なのである。『悪癖を付けないように』という程度の専門性さえ求められていないとしたら働いている人にやり甲斐もなく、有能な人ほどどんどん替わっていくんじゃないか。ちなみに教えられる子どもの方は、何年か通うと友人もできるし、学校の同級生とか学童保育仲間も多いから、辞められなくなってくる。これじゃ悪循環、出せる金によってどんどん格差を付けていくぼろ儲け商売じゃないか! 流石にこの不動産会社の親会社があの大証券会社だけのことはある。低所得者住宅関連の金融商品・サブプライムのバブルが弾けたリーマン・ショックの時は、この大都市の近隣法人などにも大損害を与えて、確か訴訟寸前まで行った小金持ち私立大学も県下に二つはあったはず・・・。

 スクールとのこんなやり取りから、ハーちゃんに対する僕の指導は急に何倍かの熱を帯びていくことになった。そういう僕に対して当時のハーちゃんはと言えば、もう三年生。それまでの気まぐれ幼児の態度が消え、僕の言葉が彼女に通用し始めたことによって、いろんな自己規制ができる年齢に入っていた。学校の運動会で欠かさずリレー選手に選ばれ続けたり、僕が知らぬ間に「縄跳び名人」になっていたりして、スポーツの鼻っ柱も取り組み方も、相当なものに育っていた。これに対して僕の水泳は、平泳ぎだけが一定レベルという、ほとんど素人。それでも、たった一時間という特訓だけで身についた悪癖などもほぼ直せると、色んな成果を伴って分かってきたのだった。僕が得意だった色んなスポーツに比べて水泳の物理学的な理屈は極めて単純だったからだし、水の抵抗を上手く避けて推進力を高めるフォームの見本は、教室上級者をガラス張りの三階観覧席からいくらでも観られたのだから。ただ、目では全く見ることができない最重要にして最難関の水泳上達秘訣が一つあるのだけれど、それは僕にとっては現在日々実践中の、最もお得意の分野。これを押し詰めて言えば、酸素の体内循環・吸収力をいかにしてすみやかに高められるかという、水泳フォームのようには目に見えないから遠大で難しい議論・訓練になるのだ。が、このことでは当時七八歳の僕が、二〇年前から現在まで日々なお格闘中、専門家と言って良い身なのであった。

 同じ二〇一九年晩秋のころ、七八歳の僕のことなのだが、シーズンに入ったスポーツ、ランニングはどん底状況に入り込んでいた。この夏胃がんの疑いから胃腺腫皮下削除術という手術で一週間入院。癌の疑いは晴れたのだが、以降一か月の運動禁止から走り始めた時、体力の衰えの酷かったこと! 走らない日がこれだけ続くと筋力以上に心肺機能が衰えて、その回復に苦労し、普通に走れるようになるには低速ランを何日も何日も繰り返さねばならないのである。ところがこの繰り返しを始めて二、三日目には、右足首を痛めた。これだけの老人のこんなスポーツは、ここまでいつも病気や復活、その復活過程における故障との闘いでもあった。三年前の一六年から一七年にかけては、前立腺癌の化学療法と陽子線治療に通って、やはり走力を振り出しに戻している。そこからの復活過程でもやはり無理をして、故障した。あの時もやはり右足首だった。この前立腺癌による停滞から一定復活して二年目に、また胃の手術を抱えたということなのだ。ランニング人生のこういうピンチには、このまま急なじり貧になっていく歳なのかという思いがいつもいつも頭をかすめるのである。一九四一年生まれの七八歳、人はそれが当たり前の歳だと言うかも知れないが、僕は違う。今までもこうやって来たからこれだけ走れている。まだ走れるだけではなく、前立腺癌前一六年の一時間一〇キロという走力復活だってありえないことではないと、まだ目論んでいた。老人は体力は衰えても、それをカバーする知恵だけは細かく増えていくのである。『自分のスポーツの科学的分析』、ハーちゃんにもいつも、この言葉の意味そのものを含めて真っ正面からそう説明してきた言葉、思考を懸命に言い聞かせていたある日、僕がやっているブログでエールを送り合って来たランナーとの間で、こんな会話があった。

【 喜寿ランナーの手記(275)走法を変えたら楽に・・・二〇一九年一二月一七日
 今日はちょっと走法を変えてみた。歩幅やピッチの変更とか蹴り足を強くするとか、膝を伸ばし気味に走るだとか、小さな変化をつけることはいつもよくやってきたが、これだけ変えたのは初めてというほどに、大きく。このブログを訪れたあるランナーのブログを最近よく見に行っていて、そこで教えてもらったことをヒントにして。そのヒントとは、こういう言葉だった。
『最近は気を付けていてほぼなくなりましたが、着地する足が膝より先になっていたこともあります』
 文中「着地する足が膝より先に(なってはいけない)」に、目がとまった。〈ほうっ、これは俺の走り方とは全く違う。俺の知識でいえば、着地脚の膝を思いっ切り伸ばして地面をバーンとたたいたその反発力で走る短距離のやり方だ〉。というわけで、こんな走り方をすぐに実験してみた。後ろ脚で地面を蹴って跨ぐように走っていくのはやめて、前脚で地面を突っつき、その反動で腰ごと浮いた他方の脚を前に出して、骨盤から踵まで垂直気味にしたその前脚でまた地面をつつく。地面をつついたその反動だけで走り、これ以上に脚を前に振り出すことはしないというやり方である。振出脚着地時の曲がった膝を伸ばす時間が不要になったその分一分間ピッチ数は最大一八〇近くと多くすることも可能になって、スピードが出る割に始終疲れが少なくて済んで、(以下略) 】

 というようにとにかく僕は、この年にして初めて長距離ランナーに合った合理的な走法に換える努力を始めたのである。「喜寿ランナーの手記」という題名も二一年からは「八十路ランナーの手記」と変更するつもりのそんな歳の走法変更は身体を痛めると言われてきたのだが。そこはそこ、この年まで慣れ親しんだ細心の注意でやるだけのことだ。なにしろこの走法は、酸素の消費量が少なくて済むと、当時ますますはっきりとしてきたのだから。同じ時速九キロで走っていても、一分間の心拍数が僕で言えば一五五から一四五ほどへと、一〇近くも下がって来ると分かったのである。ゆっくりと長く毎日のように走れば走るほど心拍数が下げられるという酸素吸収力強化のためのランニング理論があるのだが、走法を変えてこれほど心臓への負担が少なくなるのなら、それに越したことはないということである。

 十二月末のある日曜日三時頃だったか、僕はいつものようにスポーツジムや温水プールも併設する近くの市営公園の周囲を走っている。一周一キロちょっとの公園で、僕の通常のランニングコースなのだ。五年ほど前までは体質的に不要だったウオームアップが今は二〇分以上も必要になっているのに加えて、こんなに寒い日は血管が開かずなかなか調子が上がらない。〈前脚の地面ツツキが甘いから、脚を無理無理前に出して、その膝が曲がりすぎてる。これじゃ、悪循環じゃないか!〉。あるいは〈頭も、顎も前に出ている。身体の姿勢がおかしいと、脚のツツキも甘くなるのだから、腰から頭まで、ちゃんと伸ばせよな!〉。色々工夫してきた新走法もまだまだ身についていなくて、気がつけば出てはならない悪癖がいっぱい出て来るのである。〈腰から頭までちゃんと伸ばして、骨盤の下に持ってきた前脚を伸ばして素早く地面をつついたその反発弾力で走る〉などなどそんなことを復習しつつ二周目が終わりかけた身体をしゃんとし直したその瞬間のことだった。
「ぢーっ、頑張れーっ」。
 すぐに分かった、ハーちゃんの声だ。斜め左二〇mほど前方、子ども遊園地の端っこ、歩道沿いの柵に沿って背伸びした女の子達が見える。同級生らしい女の子二人ほどもその傍らに居て、ハーちゃんを真似て、一緒に両腕を振っている。近づいていき、顎を出してあえぎながら言って見せた。「まだ六周も残ってるのに、こんなに疲れてる。年だねー」。三人がどっと来たのも、針が落ちても笑い合う年頃。「私、○○ちゃんの家に遊びに来てるの。もっと遊んでくからねー!」、と叫んでいる声を尻目に走り続ける。
 八周目を終わって、この大きな市営公園の一角にある児童遊園地から、一緒に家に帰ることになった。ハーちゃん家族は、僕ら老夫婦と今は同居しているのである。
「ぢーちゃんはどうしてまだ、そんなに走れるの? 聞かれたから再来年八〇になると答えたら、みんな驚いてた。あの友だちのおじーちゃんたち、膝が痛くて階段も苦労してるって」
「そりゃ、ハーちゃんの水泳と同じで、ずっと科学的トレーニングを重ねてきたからだよ。どこか弱った筋肉が見つけられたら、そこを強くする。水泳と同じでフォームに悪い点、力が損してる点があったら、そこを直す。ただ、いくら直しても短距離走はもうダメだ。ハーちゃんにも勝てないよ。自転車なら、君とずっと一緒にやってきたサイクリングでもう分かってるはず、僕のが強い事確実だけどね」
「あれは、ぢーちゃんの自転車がいーからだ。私にももうすぐ、あーいうの買ってくれるんでしょ。そしたら勝負しよ!」 
「あー、とても楽しみだ。今までは五〇キロまでだったけど、今度は百キロって言ってたよね。いいの? 大丈夫? 自転車の長距離は、技術や筋肉も問題だけど、それ以上に血液循環機能の問題、酸素を吸収する力の問題で、これは水泳も同じだって前に教えたでしょ。これを鍛えられるのは中学三年生ほどまでで、こちらは長年かかるんだよね」
「あーいう自転車に乗れたら、頑張れるよ。それに、この頃、体操で中距離やっても、縄跳びやっても、息がハーハーしなくなってきたし。短距離は学年男子も含めて一番だけど、中距離は二番ね。縄跳びも学年大会の全種目で最後まで残ってたの、ぢーちゃんも授業参観を観に来たから、知ってるよね」
僕のスポーツ好きが乗り移ったようなこの子とのこんな会話は、言うならば、幸せすぎる。今では、こういう会話の前提となる水泳、サイクリングなどのためにも走り続けてやるぞという僕になっている。


(この小説は、フィクションです。次回に終わります)

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小説 俺のスポーツ賛歌(1)   文科系

2024年03月07日 11時08分03秒 | 文芸作品
 長らくお休みで済みませんでした。今日から、2日連続で、19年に書いた中編小説を転載させて頂きます。よろしくお願いします。20年近く続いたこのブログをまだまだ続けたいから。


 照明を最小限にしたそのレストランは急上昇中の名古屋駅前地域でも指折りの店と分かった。テーブル一つずつが回りから隔てられた作りで、〈近辺の重役室から抜け出した財界人辺りが商売の探りを入れる会食などに格好の場所だな〉、それとなく見回していた。駅前ツインビルの一角に、六歳違いでまだ現役の弟が久し振りに二人で飲むために予約を入れた店なのである。東京から月一の本社重役会に彼が来名した秋の夕暮れのことだ。
 水を運んできたウェイターに彼が語りかける声が響いた。「このビルの社長さんは、僕の同僚だった友達でしてねー」。〈「せいぜいサービスしなよ」と告げる必要もあるまいに、いつもスノッブ過ぎて嫌な奴だな〉。こんなふうに、彼と会うと俺の神経が逆なでされることが多いのである。でも、その日の彼において最高のスノッブは次の言葉に尽きる。俺の過去について思わずというか何というか、こんなことを漏らしたのだった。
「兄さん、なんで哲学科なんかに行ったの?」
 そう尋ねた彼の表情が何か皮肉っぽくって、鼻で笑っているように感じたのは、気のせいなんかではない。そう感じたから黙っていたらこんな質問まで続くのである。「兄さんは元々グルメだし、良い酒も好きだし、生き方が矛盾してないか?」。まともにこれに応えたらケンカになると感じたので、こう答えた。「お前には分からんさ。世のため人のためという人間が、グルメじゃいかんということもないだろうし」

 さて、その帰りに弟の言葉を反芻していた。年収二千万を越えたとかが十年も前の話、東海地方有数の会社の重役に理工系から上り詰めている彼から見ると、俺の人生に意味はないのかも知れぬ。「人生、こういう生き方しかないのだよ」と決めつける押しつけがましさはさらに強まっているようだし。高校の文化祭などは全部欠席して家で勉強していて、俺の目が点にさせられた覚えがあったなー。そこでふっと、こんなことも連想した。「オバマのは、税を納めぬ貧乏人のための政治。私は納税者のための政治を行う」、前々回の米大統領選挙での共和党候補者ロムニーの演説の一部だ。つまり、金のない人々を主権者とさえ見ないに近い発想なのである。弟はこれと同じ人生観を持って、こう語っていたのかも知れない。「兄さんは別の道にも行けたのに、何でそんな馬鹿な選択をしたのか?」と。そこには「今は後悔してるんだろ?」というニュアンスさえ含まれていただろう。

 秋の夜道を辿りながらほどなく俺は、自分の三十歳ごろの或る体験を振り返っていた。大学院の一年から非常勤講師をしていた高校で、「劣等生」に対する眼差しが大転換したときのことだ。二十代はほぼ無意識なのだが、こんな風に感じていたようだ。こんな初歩的ことも理解できないって、「どうしようもない」奴らがこんなにも多いもんか! 彼らがどういう人生を送ってもそれは自業自得、本人たちにその気がないんじゃ仕方ない。この感じ方がその頃、コペルニクス的転回を遂げたのである。〈彼らとて好きでこうあるわけではないし、現にみんな一生懸命生きてるじゃないか〉。その時同時に、家族とは既に全く違っていると思った俺の人生観も、一種我が家の周到な教育方針の結果満載であると、遅ればせながら改めて気づいたのである。勿論、その良い面も含めて。そして、弟よりもむしろ俺の方が、我が両親の良い面を受け継いでいるのだろうとも、少し後になって分かった。彼らは、旧制中学校、女学校で能力のある貧乏な生徒を良く面倒みて、俺が成人になってからもずっと世話していたという例さえ、いくつか覚えている。この両親ともが、愛知県の片田舎、貧乏子沢山の家から東京へ、当時の日本に男女二つずつ計四つしかなかった高等師範学校へと上り詰めた人だった。父の方はさらにその上の大学院のような所も卒業している。母と結婚してから、その母が勤めた旧制女学校の稼ぎによってのことだった。こうして二人はつまり、明治政府が築き上げた立身出世主義人材育成・登用制度を大正デモクラシーの時代に国内で最も有効に活用できた「優秀な庶民」だ。だからこそ、同じような境遇の教え子を可愛がったということだろう。仏壇、長幼の序など古い家のしきたりのようなものはほとんどなかったが、「人生の幸せ=高学歴」および「人は皆平等に大切」と、そんな人間観、人生観と、それに基づく子育て力が非常に強い家ができあがっていたようだ。

 この時またふっと、弟のこんな言葉も甦ってきた。
「私の仕事は初め新幹線の進歩、やがてはリニア新幹線を日本に生み出すという夢に、各年齢では常にその最高責任者として関わってきたんだよね!」
 この誇り高い言葉はまー、あの皮肉っぽい笑みからすれば俺に対してはこんな意味なのだろう。「だけど、兄さんの仕事人生は、一体何が残ったの?」。確かに、最初の仕事を二十数年で辞めたのだから、そう言われるのも無理はない。それも、貧乏な民間福祉団体で休日も夜も暇なく働いた末の、精神疲労性の二度の病のためだったのだし。そこでさらに気づいたこと、これに似た病に、お前も罹ったじゃないか? それも若い頃の入院も含めて一度ならず今も……お互い頑張っちゃう家系だもんなー。

 いろんな言葉や思い出を辿りつつここまで来て、俺の思考はさらに深く進んでいく。弟は何でこんな挑戦的な言葉を久々に会った俺に敢えて投げたのだ? 今も病気が出かけて終わりが近づいている自分の仕事人生と、何よりもこれが終わったその先とを自分に納得させる道を懸命に探している真っ最中だからじゃないか。この推察は、妥当なものと思われた。すると、ある場面がふっと浮かんできた。
〈小学校低学年からアイツは電車が好きだった。我が家に近い母さんの職場・市立高等学校の用務員さんの部屋で母さんを待って一緒に帰る途中にある中央線の踏み切り。あそこでよく電車を見てたと母さんが言ってたよなー。彼は少年時代からの夢を、日本最高度の形で実現させたんだ……〉


さて、ここまでは、今から約一〇年ほど前のこと。この弟、というよりも兄弟妹と俺の四人が育った家族から俺だけが「変わった歩み」を始めたと、今になって初めて分かった時というものを振り返ってみよう。その始まりの出来事こそそもそも、「俺のスポーツ」なのである。
 四人兄弟のなかで、兄も弟も高校の時いったん入ったクラブを間もなく止めさせられている。確かそれぞれボート部と卓球部のはずだ。こんなに時間を取るのでは学業に障りがあるからということだった。妹は卓球部をずっと許されたが、女だからということだろう。これも何か両親らしい。両親と言ってもこの場合、主導したのは父だ。母は消極的に父に賛成した。庇ってくれたこともあったから、そう感じた。確かめたわけではないが、まず間違いないだろう。
 高校に入学してバレーボール部に入ったが、すぐに、「辞めろ!」と命令した父との喧嘩が始まった。父の手が出たことも一度や二度ではないといった、修羅場が初めは連日のように続いた。そんな時の母は、俺と父との周辺をただおろおろ、うろうろしていた。こうして結局、二、三年にはキャプテンになるなど、俺はバレーボールを三年間守り通したのである。
「事前にこの程度に身体を動かしておくと、こんなに楽にプレーができる」
「個人練習なども含めてどれだけ激しく動いても、最後に軽く一キロほど走ると、疲れがこれほど取れるものとは。翌日の身体も全く普通になっている!」
 こんな初歩的な知恵も、誰に教えてもらうということもなくふとした自分の試みから発見したもの。これらの知恵が当時の俺にとって価値が高いという意味でどれだけ新鮮なものだったことか。そして、クラブ活動の後自転車で家路についた時、あの汗と夕陽! 今さらにこれらが好きになっている原点であった。この時に培ったスポーツ好きや足どり軽い身体への愛着とともに。

兄弟でただ一人一浪の後、文学部に入った大学でも、一年の夏にはバレーボールクラブのレギュラーになった。浪人時代も母校のマラソン大会に出て全学二位になったほどに基礎体力を維持した上で、大学の入学式前から春休み中のクラブ合宿に飛び入り参加をして入学式も欠席という意気込みで始めたクラブなのである。そのレギュラー初陣がまた忘れられないもの。夏休みに静岡大学で行われた中部地方国立大学大会で優勝したのだった。その年、愛知の大学バレーボール・リーグ一部中位に属していた結構強いチームだった。県大会常連のような学業成績優秀校のエースなどが集まるこの大学のレギュラー獲得は当時の俺にとって大きな誇りにもなったし、同時に家からの『自立』のさらに大きな一歩を踏み出すものになった。俺の高校クラブが地区大会一回戦勝ち抜けもできない弱さだったから、この誇りはことさらに大きかった。
 ところが、このクラブを一年の秋には辞めてしまった。当時の俺の意識としては、二つの原因で辞めた。一つは、哲学科の大学院へ行きたくなったこと。今ひとつは、体育会系の人間には、友達にしたい人がいないと見抜いた積もりになっていたことである。当時の俺はどう言うか、人生を求めていた。自分の家に規定された貝殻が小さいとしか感じられないようになった宿借りが、次の大きな殻を求めて歩き始めるように。そして、その大きな要求に、スポーツやスポーツ仲間が助けになるとは思えなかったのである。当時の奇妙な表現だけれど、感情や行動におけるほどにスポーツを大切なものとは、頭の中では捉えていなかったということだ。すごく好きだったし、行動上の熱中度も周囲の他の誰にも負けていないという自信さえ発散していたはずだが、当時の意識ではそれを俺にとって数少ない「面白いこと」の一つと捉えていたに過ぎなかった。

 哲学科の大学院に入ったころ、二人の主任教授のうちの一人がその時の授業テーマの説明としてこんなスポーツ論を語ってくれたことがあった。
「西欧と日本とでは、スポーツについての考え方は全く違います。ロダンの『考える人』。あの筋骨隆々たる姿は、なにも立派な軍人が、あるいは陸上十種競技の名選手が、たまたま何かを考えているという姿ではないのです。そもそも人間が何かを深く感じ、考えるということそのものが、あーいうたくましい筋骨を一点に集中してこそ成されていくという、ルネサンス以来の西欧流『考える人』の理想型というものなんです。対するに日本では、深く感じ、考える人ってどんな人でしょう。芥川龍之介みたいな人を連想する諸君も多いのではないでしょうか。貧弱な身体だからこそ文を良くするというような人。このように、日本では文武は分けられていて、文が武よりも上と、そんな感じ方がずっと多く存在し続けてきました。この頃こそ文武両道とよく語られるようですが」
 なるほどと思った以上に、一種ショックを受けた。この小柄ながら均整が取れた老哲学科主任教授が、大学時代にやり投げの全日本クラス名選手だったとも聞いていたことも重なっていた。
〈文武両道は本来なら比例するという相関関係にあるということだろう。それを言行一致して追求してきた人々がいる。それが西欧知識人の一般教養にもなっている。こういう本気の背後には、こんなスポーツ哲学もあるのだ!〉
自分のスポーツ大好きに大きな意味が一つ、初めて生まれてきた瞬間だった。だが、実際にこの哲学の意味、価値を身体で現し、感じられていくのは、まだまだ後の話になっていく。


(あと1回続きます)
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随筆  楽しい相続物   文科系

2024年02月17日 08時50分26秒 | 文芸作品
  このごろの僕は、日に何度も庭全体が見える廊下、大きいガラス窓の所に立つ。一月中旬過ぎから咲き始めた二本の梅を観るためだ。この花が今年は、急な寒さで咲き渋って、香りも含めて長く楽しめるのである。
 向かって左真横の白いのは、2メート四方ほど、花の厚さ一メートル弱と、横に広がっている。正面の紅梅は五メートル近く、中の立ち枝を剪定した茶筅型。この両方が、2月16日の今日、正に満開。先っぽまでやっと花開き始めたピンクの枝の間を、メジロとミツバチがいつも飛び回っている。さっきは、ジョウビタキの雄が見えたが、今は姿を消している。
 古代日本は、「花」と言えば梅のことと聞いた。楚々とした白い梅が、日本人好みなのだろう。古今集のころから桜が「花」になって今に至っているようだが、早咲きの河津桜というのもあって、我が家の紅梅はあの色に近い。それが、厚ぼったく花塊になるのではなく、すくっと高く伸びた枝に一重の五弁がひとつづつ数珠つなぎになって枝先まで並び、中国人好みという華やかさである。 

 この地は、名古屋市中区の区境界線近く、大都会のど真ん中。昨日久しぶりに入ってもらった初顔の若い庭師さんと花を見ていた僕との間で、こんな会話があったのを思い出す。
「正に満開、これだけで酒が飲めますねー。ちゃんと手入れされた良い庭ですよ。最近のイギリス自然風というのかな。この前写真で見たウエールズのも、こんなふうだった」
「亡くなった母の好みで花木の多い庭ですし、この梅が咲いてからは特に日に何度も花見してます。僕は洋酒ですが、あそこに摘み残っている柚で作った柚大根をつまみながら。もっとも、奥さんが梅酒を作ってくれるのですが、一昨年辺りからブランディー梅酒に替えまして、これがまた美味いんです。」
「柚大根って、僕も大好きです。あれは、美味いもんですよねー。すると、この庭からの酒とつまみで、この梅の花見・・・いー老後ですね。」
「僕もそう思います。白い方は親が遺してくれたもの、両親にどれだけ感謝しても、し足りない。もっとも、この辺りの2代目,3代目は、相続後に皆売って出て行ってしまうから、もう庭も珍しいんですよ」
「そうですよねー、庭だけでざっと40坪、相続税だけでも、大変なもんでしょう。」
「実は、この29日に、敷地内東隣のあの貸家に20年住まわれた店子さんが引っ越しされるその後に、子どもがいない息子夫婦が越してくるんです。僕らがいる家の方は二世帯住めるようになっていて、やがて娘家族が来ることになってます。二人とも関東の学校卒でしたが、名古屋に就職してくれた。後の相続税対策ですが、一定の金額を用意しなけりゃ、ここもなくなるんで、次男の僕は墓なんかいらんけど、この梅、庭は残ってほしい。」
「今の話、これもまた今時いー老後ですよ」
「僕らも、初め連れ合いの母と、次にここで僕らの両親と同居しましたから、それを見て育ったから、3世代同居って、結構楽しい、そう思ってるんじゃないですか。」

 ここで、玄関のベルが鳴ったので、出てみると、中一の女孫・ハーちゃんが「あー寒い」と言いながら、赤くなった手を見せてくれる。この曇り空の夕方近くに、自宅から一キロ以上の道を歩いて来たのだ。
「あーっ、あんなモクセイならすぐに登れるね?」
 庭師さんの居る廊下に出て、枝を払いすぎたように見えるその木の元へ歩いて行った。そして、黒い置き石の辺りに散らばった紅梅の花びらの上を、そうっとそうっと、一歩、一歩。

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随筆 「寂しいでしょう?」   文科系

2024年02月07日 14時33分26秒 | 文芸作品
 ネットで今の日本の少子化問題を検索していたら、僕にとっては面白過ぎるある論文にであった。読み終わって「今や、これは、もう、珍論と言っても良いな」とつぶやいていた。「男一人の収入でやっていけるのが『理想』だけど、その理想が満たされそうもないので、結婚が遅れたり、一人のままだったりする」という内容だ。珍論と思ったのは、こういうこと、「そういう給料を出せ」と語るなら大賛成だが、どうも違うようだ。「そういう専業主婦を望まない女性の多さ」がお気に召さぬらしい。それで、どういうお方がこれを書いたかと調べてみた。財務省の若手官僚のようだ。それも独身男らしい。「なるほど……。だが、えらそうに……」
 さて、ここで唐突だったが、突然自分の昔を思い出した。僕の家が完全共働きであって、その三男一女の次男である僕の少年時代には、ご近所から散々こんな言葉を投げられて育ってきたと。「寂しいでしょう?」。こういう同情の声をかけてきたのはすべて女性、特に中年女性であった。対する僕はきょとんとして、「昼間に母が居ないと、寂しい? 会う女性ごとにそう質問する。どうして? 子どもには楽しいことなどいっぱいなのに」
 就職してちょっとすると、こんな言葉も聞いた。「育児においては、母の掌こそ至高のもの。さもなければ、愛着障害などが起こる」
 そう、ちょっと昔の日本は、この財務官僚の結婚観に実質合致したような女性ばかりだったのである。それも、偏った先入観、感性を元にした結婚観ばかりの。というのは、現在八三歳の僕自身が両親の共働き家庭に育ち、自分自身もそういう家庭を経て、そこで培われた諸能力、感性のゆえに現在の色んな幸せがあると振り返っているからだ。「共働きの忙しさを、自分の能力アップに結びつけられた男の幸せ」を日々味わっていると言って良い。
「育児においては、母の掌こそ至高のもの。さもなければ、愛着障害などが起こる」、こういう感性、理念が日本に長く幅を利かせ、それが共働き、保育所、学童保育所をどれだけ遅らせてきたか。今の日本の少子化は、この感性、理念の産物とさえ言える。こういう感性の政治家が「寂しいでしょう?」の専業主婦を伴侶として来た習慣からこそ、今日の少子化日本が産まれたのではないか。明治生まれの僕の両親の完全共働きは傑物の母に支えられていた。昭和前半生まれの我が夫婦のそれは、僕の「改造」に支えられてきたと思う。他方、僕の弟は「寂しかった」と今でも語っていて、先の財務官僚流「理想」を実現したし、娘の夫は、「能力アップ」が必要な場面で娘に責任転嫁の論争の末のパワハラ、モラハラから別居中、離婚調停中だから、万人に当てはまるような易しい道ではないのかも知れぬ。ちなみに我が母は、三男一女を国公立大学に入れたのだから、立派な教育ママでもあったのである。そして、そう言う母に育てられてきたからこそ、僕は自分を改造できたのかも知れぬ。
「共働きの子は寂しいでしょう?」、「育児の要諦は、母親の掌」、こんな言葉は今イスラム諸国でこそ、叫ばれているかも知れぬ。女性を家庭に閉じ込め続ける人生観、思想でもあるからだ。ちなみに、韓国の少子化は日本より遙かにきついが、そんな儒教的家族主義(習慣)が日本よりも遙かに強いからだとみて来た。持ち家を確保できない若者は、結婚資格が下がる国と言われている。
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随筆、年寄りの楽しみ   文科系

2024年01月19日 17時41分18秒 | 文芸作品
 リビングでさっきからギターを弾いているが、ちっとも上手く行かない。明後日教室の「ギター宴会」があって、その準備なのだが。指を複雑に細かく動かす装飾音符に雑音が入って、強弱などがバラバラ。例えば、何度弾いても必要な切れも出せないのである。〈先生と二人の二重奏だけにしとくか?〉、こんな諦めも頭をかすめる。もうすぐ八三歳……、みんな七〇歳代で教室を止めていくぞ、ましてや俺は、癌の為に膀胱を全摘、生活も変わって身心ともどんどん衰えている。なども思い出すところだ。疲れてしまって、ギターを置き、南の庭に面した大きなガラスの窓際に行って外を眺める。庭を観る行為が最近どんどん増えているのだ。
 ヒヨドリ、メジロ、時にジョウビタキや土鳩、シジュウカラの群れとか、季節にはカワラヒワも。名古屋中心部に近い大都会の庭だが、鳥が見えない時がないのである。ヒヨドリは取り残した金柑などを食べに来るのだし、メジロは、今ならサザンカや椿、ちらほら咲き始めた梅の蜜を吸いに来る。「ここは年寄りだけの家だね!」とは、昔近所を連れ合いと散歩して、他人の家を勝手に評した言葉だが、今や我が家の庭がぴったりそうなっている。一メートル立法ほど、ちょっと実が残った柚の株の間からは、去年秋から頭を出したススキが何本か残ったままだし、二メートルを越える金柑の枝振りはまるで小山だ。そして、横枝を払って背が馬鹿高く見える金木犀は、枝葉が込みすぎて醜い。これなら、土鳩も安心して巣を作れるだろう。どう観ても猫が登れそうもないからだ。それでも庭は慰めになり、このごろ日に何度眺めに来ることか。
 それにしても、明後日はギター宴会、せめて恥ずかしくはない程度にと、また椅子に戻る。と言っても、手術後弱った身心では、あと二日の練習成果ももう見えているのである。来週には所属同人誌の例会もあって、それまでに書かねばならない作品がまた、全然進まない。
 さて、楽しくやることがどんどん少なくなっていくこんな日々でも、新たな楽しみは見つかっていく。庭もそうだが、観賞の楽しみが残っている。美食、美酒、美飲がどんどん大きくなってきた。今はこれらにお金を使っているが、今の僕には、特にお茶の比重が大きい。親友から頂いた二種の中国茶、一つは白牡丹、二つ目は肉桂烏龍と名が付いているが、いずれも中国は福建省「天福銘茶」と言う会社直送の名品で、飽きなく飲めて、いつまでも美味い。前者は、初め甘い香りがあって、後は爽やかにどんどん飲める。後者は、ごく微かな肉桂の香りのあとはがっちりとしたキームンティーの発酵の味で、これがまた飽きが来ない。ちなみに、中国の皇帝は専門の茶人を侍らせて、こういうものばかり飲んでいたのだろうという、そんな贅沢だと自ら嘯いている。日本茶は出し方も味もほぼ同じと言って良いだろうが、中国茶は種類も多く、煎れ方によってとても大きく変化する。例えば肉桂烏龍なら「初め九五度で、第一泡一五秒、第二泡八秒、第三が二〇秒」という調子だ。これが白牡丹になると各、二〇、一〇、一五秒で、七煎まで飲めると書いてある。これを少し変化させれば、色んな味を何煎までも楽しめるのである。
「親友が今の難しい僕にこんな楽しみ、生き甲斐をくれた」というこの親友がまた、ギター教室の同じ年齢、兄弟弟子である。この彼にも、良いギター音を聞かせたいのだけれど。ちなみに、このギター宴会には、もう一つの美飲、ラム・サカパのセンテナリオ、二三年物を持っていくつもりでいる。添える肴は、和牛の腿で作った赤ワイン煮、この準備もすでに整っている。
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随筆紹介 明日は  文科系

2023年11月30日 15時19分49秒 | 文芸作品
随筆紹介 明日は  S.Yさんの作品
 
このところ気がつくと俯いて考え事をしていることが増えた。
思い詰めているわけではないが、母親のことを思うと気持ちが沈んでしまう。
二カ月前、母は脳梗塞で倒れてから七年間暮らした老人ホームを退去した。家具や衣類など一時的にホームから実家に運ばれたが、その荷物の大半は私が持ち込んだもの。
兄夫婦から引き取りに来ないと全て処分すると言われて、慌てて実家へ行った。驚いたことにものすごい量。軽トラックいっぱい分ほどある。嫂は母の衣類や趣味の本や編み物などの手芸品など、早く処分したいようだ。どんどんゴミ袋に入れている。いくつもゴミ袋が増えていく。
「ちょっと待って。母さんはまだ生きてるんだから、着れそうなもの少しは残しておいて」
「でも、病院に入っているから衣類はもういらないはず。第一、半身不随で着ることができないでしょ」とけんもほろろ。ここが娘と嫁の違いか……
私だってわかってはいるが、そう簡単には割り切れないし、捨てられない。
母は「成長の家」という団体に入っており、その教本や資料があった。母にとっては大切なものだ。眼鏡や腕時計など、母の身の回りのものなど、とりあえず私が持ち帰る袋に入れていく。ホームで暮らしていたときの写真、本やノートなども。
兄たちはついでに今までの母の部屋も片付けたいのか、座布団や家具なども処分場へ運ぶトラックに積んでいる。
私と夫は引き取ったものを車に積み込み、この日、母との面会の予約が取れている病院へと急いだ。今度の病院は県外に変わって、私たちの住まいからは遠くなるばかり。
母は私たちを見ると満面の笑みになった。私はベッドの背もたれを起こして、窓のカーテンを開けた。眩しそうに外の景色に見入っている母。耳が遠いので、耳元で私も夫も大きな声で話しかける。何か面白かったのか母が声をあげて笑った。ちょうどその時、男性の看護師が入ってきた。母を見て呆然と立ちつくしている。「えっ! こんな表情が? 笑っているなんて……」信じられないといった顔だ。どうやら九十九歳の呆けた寝たきり婆さんだと思っていた様子。そういえば同室の人は皆寝たきりで反応もない人たちだった。脳梗塞で言語障害になり話せなくなったが、「母は、こちらの言うことは全てわかりますよ」と看護師には伝えた。一応、リハビリテーション病院にはなっているが、果たして高齢の母がリハビリをやってもらえているのか疑問は残る。面会時間は二十分とやはり短い。

帰宅して母の荷物を空いている部屋に運び入れた。整理すれば持ち帰ったタンスや整理棚に収められるだろうかと考えていると、分厚い紺色の本が目についた。パラパラとめくると、見慣れた母の字。なんと日記帳だ。七年前にホームに入った日から倒れた日まで毎日書いてある。メモのようなものを書いていたのは知っていたが、こんなにちゃんと日常を綴っていたなんて驚きだ。といってもホームでの変わり映えのない毎日。お天気のことやその日の気持ちが簡単に記されている日もある。だが一日も欠かさずに、これにはただただ驚く。
娘の私から手紙が届いた。荷物が届いた。面会に来てくれた。食事に一緒に出掛けた。いつも心にかけてくれて嬉しい。ありがたいと感謝の言葉が多いのにも驚いた。
私には厳しくて、きつかった母がそんなふうに感じてくれていたなんて。もう涙で読めなくなってくる。義妹や姪っ子もよく母に会いに行ってくれていた。バナナやプリン、カステラを貰った。折り紙や毛糸を貰った。どんなものがいいかなあ、今度はひ孫に帽子を編もうと思う。などと書かれている。
私も七十路になり、自身も終活を考え始めている。が、なかなか実行はできていない。まだ呆けないし、体も動くと思い込んでいるから進まないのだが、唯一、中学生ごろから半世紀以上付けていた日記帳だけは一昨年、全部処分した。こんなものを他人の目に触れさせたくないという思いからだった。
だが母の日記帳は捨てられない。母から来た手紙の束も捨てられない。今日は言葉が出ないが、そのうち、リハビリを続けるうちに少しでも話せるようになるのでは。話せない母本人が一番辛いだろうが、私もこのまま母と話せずにお別れになるなんてイヤだ。
明日は? 明日こそは少しは話せるのではと祈っている。
九月十五日 金曜日 晴れ もう今月も半分過ぎた。明日 娘が面会に来るそうな、
これが日記の最後の書きかけの一行。このあとに倒れたようだ。

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