九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆紹介 遺族年金への疑問   文科系

2018年10月26日 | 小説・随筆・詩歌など
 遺族年金への疑問  H・Sさんの作品です


 朝日新聞be紙面に連載される「サザエさんをさがして」のタイトルで毎週土曜日、漫画サザエさんを素材にして昭和の時代を語る連載ものがある。2017年(平成二十九年)九月三十日、この日掲載の内容が軍人恩給についての記述だったので書き写した。この写しを紹介するとこのようなことになる。軍人恩給はこれまで60兆円が支払われた。1946年(昭和二十一年)2月、GHQの非軍事政策により一時支払いは中止されていたが、1952年(昭和二十七年)十一月には翌年度の予算編成に盛り込まれた。支給開始は1953年(昭和二十八年)七月からです。支給金額が旧軍隊の階級に基づき計算。一定年以上勤務すると給付されます。普通恩給は1953年(昭和二十八年)度で大将年額最低十六万四千八百円、二等兵二万二百円。一九五四年の改正で戦犯の刑死も公務死扱いとなる。東条英機未亡人が五十六万万円を受け取ったと、新聞の大見出しになって話題を呼んだ。赤紙一枚で招集された元軍人や遺族には恩給ですくわれた人も多い。軍属は国と雇用関係にあったのでこの様に年金の恩恵に浴しているが、雇用関係のなかった民間人の空襲被害者や戦後日本国籍を失った元軍人、軍属には保証は0円に近いと、書かれていた。対象者は減ったが現在も年三十四億近い金額が支給されている。私がこの記事を読んだ時〈なぜ戦争犯罪者にこれだけのお金が払われるのだ。未亡人はこれを拒否したとは聞いた記憶がない。戦場で真っ先に命を落としたのは二等兵ではないか〉と、怒りで心が治まらなかったので、この記事を書き留めた。

 また、これを書き留めたのにはもう一つ理由がある。それも併記することとする。
 昨年(2017年)春ごろの事だった。温泉場で風呂友として仲良くなった八十六歳のおばさんがいる。一月ぐらい顔を見なかったので病気でもしたのかと心配していた。久しぶりに出会い元気な姿を見たので嬉しく近況を聞いた。
「遺族年金を請求する人達のお手伝いをするため、区役所へ日参していたの」と答えた。
 その時おばちゃんが話してくれたことはこの様な内容だった。
「私の家はね。兄が戦死して両親が遺族年金をもらっていたの。両親が死んだ後は妹の私がもらっているの。十年間で五十万円だから親がもらっていたお金より少なくなったけれど、区役所から送られてくる書類に生きていることを書き込み提出すれば、私は死ぬまで遺族年金はもらえるの。軍属の家族は、お国と雇用関係があるから、こういう事になっているのよ」
 話を聞いて親がもらうのはわかるがどうして妹にまで支払われるのだろうと不思議だったが、これは国との契約だから本人が辞退しない限り支払われる、そういう事なのだと知った。
 もう一例は、親しく付き合っている人ではないが七十六歳になる女性の場合だ。彼女は四歳の時に父親が戦死。母親が遺族年金をもらっていた。母親の死後、遺族年金はこの女性が受け取っている。この人は短大卒業後、幼稚園に勤め定年を迎え年金生活をしている。彼女は共済年金と遺族年金との二本立てだが遺族年金を辞退する気はないと語っている。

 この様に軍属は国との雇用関係が成立していた。そのことを知りえる手段を持たない人は何の保証も受けていない。終戦と同時に軍の指導者だった人達は、自分が戦争犯罪人になることを恐れ、証拠隠滅のため、膨大な記録を部下に命じて焼き捨てた。
 1953年、(昭和二十八年)総務省恩給局が出来たが、終戦当時焼き捨てられた記録の中に恩給該当者に関する記録もあったのではないかと、私は勘ぐっている。
 当時、一般の人で新聞を購読できた人、ラジオから情報を得ることが出来る人は少なかった。1953年(昭和二十八年)7月軍人恩給証書が発行されたが、私が育った村では、役場の職員が運んでくる小さな紙切れでしか知る手段はなかった。恩給を受け取るため、字の読めない人、書けない人は親戚の人に付き添ってもらい手続きに行った。自己申告だったから、漏れてしまった人もいたのではないだろうか?。
 時がたち戦争の実態が少しずつ明かされた時、軍の上層部に居た人達は、危険を察知、部下をほったらかして生き延びたことも知られて来た。これらの人達は、学歴もあり仕事も出来るので、戦後の社会でもそれ相応の地位につき、軍事年金を生涯受け取った。

 空襲で両親を失った戦災孤児は、捨て置かれ、悲壮な生活を余儀なくされた。戦災孤児は、国との雇用関係がないと言う理由で国は一円の保証もしていない。
 この様な国のやり方はおかしいと気づいた戦災孤兄達が、戦後何十年もたってから裁判を起こすようになって来た。が、この裁判での勝訴は一例もない。国が勝手に起こした戦争で、犠牲になった幼い子供達に、手を差し述べもしないでほりっ放しにしてきたこの国がとった非情な行為は、どう考えても理不尽で不公平だ。
 戦災孤児の裁判記事を読むにつけ、戦争犯罪人に多額の遺族年金を支払ったこの国の為政者のやり方に、私は納得出来ないでいる。
コメント

随筆紹介  「新婚さんいらっしゃい」が受けるわけ    文科系

2018年10月24日 | 小説・随筆・詩歌など
 「新婚さんいらっしゃい」が受けるわけ  K・Yさんの作品です


 四十八年目に入った最長不倒記録の番組がある。桂文枝と山瀬まみが司会の「新婚さんいらっしゃい」です。「きっかけは」と文枝が問いかけると、新婚さんは、甘い過去を喋り始める。ここからスタートする。視聴率も高く、国民的番組となっている。なぜ日本の人々にこれほど愛され受けるのか。長年に渡り日本人を魅惑させる。いったいそれは何か。

 この番組のユニークさは、結婚カップルの秘話の露出にある。しかも本人が自ら話し始める。きわどいトークが若い二人から飛び出してくる。「この人で十人目。一番良かった」と。男女間は化かし合うのが世間だが、ここではアケスケである。
 事実は小説より奇なり。だから面白い。新婚ほやほやのカップルが、この時はまさに主人公。でも客観的には、タデ食う虫も好き好き、割れ鍋に綴じ蓋というケースが多い。熱々の二人だから有頂天で、暴走あり、思い上がりあり、見ていてハラハラで楽しさが二倍にも、三倍にも広がります。カップルのそれぞれドラマがある。様々な出会い、好み、ストーリーがある。大半がハッピーで、喜劇的だから笑える。
 この時間は内緒話しのオンパレード。キスはいつ、結ばれたのはいつ、どこでと、二人の関係を赤裸々にあかす。司会の文枝が根掘り葉掘り聞く。ツッコミが絶妙。冷やかしたり、けなす。大いに茶化す。新婚の二人は大真面目に説明する。この落差が笑いを呼ぶ。
 なぜ視聴率が高いのか。自分には恥ずかしくて出来ないことを二人はやっている。その度胸にまず驚く。熱々のカップルが勢いに任せ、普段はロにしない初キスを、初体験をズバリ話す。奥ゆかしさの反対、露出趣味に近い。これはエロ小説。否、エロのエッセイ。エロの映像ではないので、法律には触れないが、倫理的には脱線。だから見る側は、何かしら得をした感じ。エロ小説を買わなくても、真実のエロのエッセイが聞けるからだ。
 新婚夫婦だから、不倫でも、若者の遊びでなく真面目に、出会い、恋心、プロポーズ、新婚生活を具体的に披露する。そこには起承転結、愛の物語がある。奥ゆかしい日本の社会をこの番組が笑い、脱線で風土を破壊しつつある。

 見方を変えれば、結婚への生きた教育かも知れない。独身が急増する時代に結婚の楽しさを吹聴するのは、いい社会教育とも言える。この番組のポジティブな側面は独身対策となっていて、皮肉にも結果的に社会貢献していることは否定できない。
 二人のトークは、その時代の恋愛観、結婚観、夫婦観を反映している。さだまさしの「関白宣言」、飯は上手く作れ、いつも綺麗にしておけ、というセリフは、今ではとんと聞かない。女性が強くなった。女性がリードし、男性を叱り飛ばす時代に変わった。「うちの旦那は優しい」という新婦の発言が多くなっている。文枝が出会いを質問すると、新婦が喋り始める。男性は弱くなり、甘えたり、幼稚化している。文枝は「あんまりや。もうちょっとしっかりしなはれ」とあきれる。個人差はあるが全体像はこんな姿だ。
 文枝は言う。「奥さんのほうがノビノビ。奥さんの回りを天下が回っている。そんな感じが年々強くなっている」と言っている。料理が不得意な女性が増えたのは、コンビニの出現、電子レンジの普及と関係している。
 新婚さんも浮気する。以前は浮気は男性の話し。が、最近は女もする。時代は確実に変化している。この点は男女平等が着実にすすんでいる。新婚さんに限らず長年の夫婦の浮気、不倫も男もすれば女もする時代になった。これは電話人生相談を聞けば、妻の浮気で夫が悩む事例の多さに驚く。新婚さんいらっしやいと電話人生相談とを繋ぐと、面白い現象が見えてくる。結婚前の数々の婚前交渉で飽きもあり、出産後はセックスレスが急増しているようだ。

 さて、長く続いた最大の理由は落語家、文枝の人間性、話題性にもよる。早く父を亡くし母子家庭で育った彼は家庭を大切にしたい思いが強く、この番組を愛した。受け手の国民と番組側とが上手くマッチした。果たしていつまで続くのか。この化け物のような番組が。
コメント

随筆紹介  「年を取る覚悟」    文科系

2018年10月15日 | 小説・随筆・詩歌など
 年を取る覚悟  S・Yさんの作品です


 近頃、十年ほど前にある男性が言った言葉が思い出されてならない。

 当時八十歳近かったこの男性は、終活と称して身の周りの品々の大半を処分したと言った。アルバムの写真も全て捨てたと聞いたときは、少なからずショックを受けた。友人や家族、たくさんの趣味の仲間たちとの思い出、絆までが消されてしまったような気がしたからだ。病が彼をそうさせたのだろう。その時はそう感じた。
歳月を経て、いま私も彼に似たような心持になってきたことに驚いている。年齢相応に体の不調はあるが、不治の病というわけではない。ただ老いてきたことで不思議なほど物欲が薄れてきている。これは自然の成り行きなのだろうか。以前に収集していたテレフォンカード、切手のたぐいは今後どうすればいいのか。持っていても仕方がない。欲しくて求めたはずの食器や服飾品の数々、使う頻度が少なくなって仕舞ってあるだけ。そしてそれらがあることすら忘れていることが多い昨今。有名人のサイン入り色紙やTシャツ、こんなものどうすればいいのか。持っていても意味がないものばかりに思えてくる。

 そういえば先の男性がこうも言った。「高年になったら親しい友は作るな。居なくなる率が高いから、より寂しくなるばかりだ」そんなものなのか。でも今の私にはそれはできそうにない。どちらにしても歳をとるということは、いろいろと覚悟がいることだ。

コメント

随筆  俺の「自転車」   文科系

2018年10月12日 | 小説・随筆・詩歌など
 今七十七になる俺は、週に三回ほど各十キロ近くランニングしている。その話が出たり、ダブルの礼服を着る機会があったりする時、連れ合いがよく口に出す言葉がある。
「全部、自転車のおかげだよね」。
 この礼服は、三十一歳の時、弟の結婚式のために生地選びまでして仕立て上げたカシミアドスキンとやらの特上物なのである。なんせ、俺の人生初めてにして唯一の仮縫い付きフル・オーダー・メイド。これがどうやら一生着られるというのは、使い込んだ身の回り品に凄く愛着を感じる質としてはこの上ない幸せの一つである。よほど生地が良いらしく、何回もクリーニングに出しているのに、未だに新品と変わらないとは、着るたびに感じること。とこんなことさえも、自転車好きの一因になっているのだろう。

 初めて乗ったのは小学校中学年のころ。子供用などはない頃だから、大人の自転車に「三角乗り」だった。自転車の前三角に右足を突っ込んで右ペダルに乗せ、両ペダルと両ハンドル握りの四点接触だけで漕いでいく乗り方である。以降先ず、中高の通学が自転車。家から五キロほど離れた中高一貫校だったからだ。やはり五キロほど離れた大学に入学しても自転車通学から、間もなく始まった今の連れ合いとのほぼ毎日のデイトもいつも自転車を引っ張ったり、相乗りしたり。
 上の息子が小学生になって、子どもとのサイクリングが始まった。下の娘が中学年になったころには、暗い内からスタートした正月元旦家族サイクリングも五年ほどは続いたし、近所の子ら十人ほどを引き連れて天白川をほぼ最上流まで極めたこともあった。当時の我が家のすぐ近くを流れていた子どもらお馴染みの川だったからだが、俺が許可を出した時には、文字通り我先にと身体を揺らせながらどんどん追い越していった、子ども等のあの光景! この元旦サイクリングと天白川極めとは、今でも度々思い出す俺の人生の幸せハイライトだ。元旦の川岸や平野の向こうなどに四人で観入った日の出も!
 この頃を含む四十代には、片道九キロの自転車通勤もあった。この距離をロードレーサーでほぼ全速力するのだから、五十になっても体力は普通の二十代だ。生涯最長の一日サイクリング距離を弾き出したのも、五十近くになったころのこと。知多半島から伊良湖岬先端までのフェリーを遣った三河湾一周では、豊橋から名古屋まで国道一号線の苦労も加えて、確か走行距離百七十キロ。一回りよりもさらに下の今は亡き親友と二人のツーリングだった。
 その頃PTAバレーにスカウトされて娘の中学卒業までこれが続けられたのも、その後四十八歳でテニスクラブに入門できたのも、この自転車通勤のおかげと理解して来た。ただ、高校、大学とクラブのレギュラーだったバレーボールはともかくとして、テニスは最後まで上手くならず、その後はトラウマになったほど。なんせ今でも、絶好のボレーを失敗した場面などが悪夢となって出てくるのだから。

 さて、五十六歳の時に作ってもらった現在の愛車は、今や二十年経ったビンテージ物になった。愛知県内は矢作川の東向こうの山岳地帯を除いてほぼどこへも踏破して故障もないという、軽くてしなやかな逸品である。前三角のフレーム・チューブなどは非常に薄く作ってある割に、トリプル・バテッドと言ってその両端と真ん中だけは厚めにして普通以上の強度に仕上げてある。いくぶん紫がかった青一色の車体。赤っぽい茶色のハンドル・バー・テープは最近新調した英国ブルックス社製。このロードレーサーが、先日初めての体験をした。大の仲良しの孫・ハーちゃん八歳と、初めて十五キロほどのツーリングに出かけたのである。その日に彼女が乗り換えたばかりの大きめの自転車がよほど身体に合っていたかして、走ること走ること! 「軽い! 速い、速い!」の歓声に俺の速度メーターを見ると二十三キロとか。セーブの大声を掛け通しの半日になった。
「じいじのは、ゆっくり漕いでるのに、なんでそんなに速いの?」、「それはね、(かくかくしかじか)」という説明も本当に分かったかどうか。そして、こんな返事が返ってきたのが、俺にとってどれだけ幸せなことだったか!「私もいつかそういう自転車、買ってもらう!」と、そんなこんなで、この月内にもう二度ほどサイクリングをやることになった。片道二十キロ弱の「芋掘り行」が一回、ハーちゃんの学童保育の友人父子と四人のが、もう一度。芋掘りは、農業をやっている俺の友人のご厚意で宿泊までお世話になるのだが、彼にも六歳の女のお孫さんが同居していて、今から楽しみにしているとか。

 残り少ない人生になったが、まだまだこんな場面が作り続けられるだろう。そして、ランナーで居られる間は、続けられると考えている。自転車で作った体力が退職直前になってランを生んで、退職後はランが支えている俺の自転車人生。
コメント

随筆 「スポーツ哲学」が弱すぎる日本  文科系

2018年10月06日 | 小説・随筆・詩歌など
 07年頃、岡田武史のサッカー観に関わって、古田敦也、平尾誠二との対談本を紹介したことがある。岡田、古田のこんなスポーツ観も表明されていた。

「岡田 どうも日本ではいまだに、『体育=神聖なアマチュアリズム』『プロスポーツ=芸能』という感じでとらえられてしまう。本来は、違うものなんだよ。芸能とは違う『プロスポーツ』があるということを確立して、意識上にカテゴライズしていかないと、今後、日本のスポーツ界全体が伸びないと思う。
 古田 テレビの放映権をコミッショナーが持てるようになれば、かなり変わると思うんです。プロスポーツは興行である反面、半公共的な存在であるということにも気づくと思うんです」


 正論だと思う。しかしすぐに、次の問も浮かぶ。「芸能とは違う『プロスポーツ』」とは何か?「プロスポーツは興行である反面、半公共的な存在」とはどういうことなのか? 「スポーツの文化としての価値、楽しさを国民に広げつつ、それとともに初めて発展していくプロスポーツ」ということであるはずだ。ちなみに、Jリーグ百年構想は、こういう考え方を日本に初めて大々的に表明し、行動に移ったプロスポーツ関連団体の宣言なのだと思う。生涯スポーツが、公共的なもの、考え方であるように。対して、例えばプロ野球が芸能というのは、これを観る人の立場、つまり鑑賞対象という立場なのだろう。芸能を見せる人とは、まー興行主と同じことなのだから。大相撲には興行主が居て、これは芸能を提供する人と同じことだ。しかし、相撲をやる人には生涯スポーツという観点があり得るのであって、これは相撲を自分がやる文化活動として捉えると言うことであろう。

 さらに一歩つっこんで考えてみたい。スポーツはどういう文化なのか。簡単なことである。音楽や絵画と同じ芸術なのだ。聴覚の芸術、視覚の芸術と同じように『身体感覚』の芸術と言えばよい。ところが岡田武史も語ったように、こういう考え方がヨーロッパと違って日本には全く定着していないのである。日本では「体、健康を作ること」というスポーツの「体育」「身体だけ」という一面だけが強調されてきた。戦前の「強兵政策下の『体育』『運動』」や、最近では、アメリカの強兵策「ビリーズ・ブート・キャンプ」を応用した「シェイプアップ、ダイエット・スポーツ論」みたいなものである。

 さて、さらに突っ込んで「『身体感覚』の芸術」の説明だが、これは結構難しい
「テニスで、『追いつかないかな?』と感じたボールに、うまくさばけた脚がぴたっと決まった瞬間の快感」
「野球で、投球の伸びが今ひとつという日々が続いて悩んだ後に、凄く伸びるボールが投げられたときの体を走る快感」もある。「余分な力がここで入ってしまったなどとは全く感じられず、すーっと全身が協調していて『なお、いくらでも力が入る感じ』」などと言ったら分かる人には分かりすぎるはずだ。体軸、肩、肘、手首などの使い方がぴたっと一瞬間に一致したということなのだと思う。
 こんなのも同じことだ。
「久しぶりに山に登った後3~4日して疲れが取れた頃(この日数が人や運動の激しさによって違うのは当然のことだ)、長い階段が楽しく上れるあの感覚」

 見られるとおり、これら全てがただ体だけの問題ではない。頭脳、視覚などによって体を鍛え、導き、動かして、その動きや結果を「体で味わい、確かめている感覚」というものが存在するのである。運動感覚、身体感覚、この働き、「効果」は絵画や音楽と同じ物なのだ。しかもこれは「自作自演を自分で鑑賞」というものであって、自ら行う芸術なのである。単なる鑑賞ではないということだ。これが分かれば、楽器の楽しみなどと同様に、非常にやみつきになる物なのである。

 僕もこんなことを青年時代から感じ、考えてきたが、日本にもこういうことを語る著作がやっと現れてきた。勝ちや名誉ではない本当のスポーツ好き、生涯スポーツ家にぴったりの、こんな本をご紹介しよう。
 玉木正之「スポーツ解体新書」(NHK出版)

 ちなみにこの作者、「巨人軍がプロ野球を徹底的に駄目にしている」と語る人である。古田も岡田もそう考えているようだ。読売巨人軍はいわば興行主なのであって、野球を芸能としてみせる立場ということだろう。
コメント

掌編小説 「日本精神エレジー」   文科系

2018年10月04日 | 小説・随筆・詩歌など
 これも、訳あって何度も載せたい小説だから、また。



掌編小説 「日本精神エレジー」   文科系


「貴方、またー? 伊都国から邪馬台国への道筋だとか、倭の五王だとか・・・」
連れ合いのこんな苦情も聞き流して、定年退職後五年ほどの彼、大和朝廷の淵源調べに余念がない。目下の大変な趣味なのだ。梅の花びらが風に流れてくる、広縁の日だまりの中で、いっぱいに資料を広げている真っ最中。
「そんな暇があったら、買い物ぐらいしてきてよ。外食ばっかりするくせにそんなことばっかりやってて」
「まぁそう言うな。俺やお前のルーツ探しなんだよ。農耕民族らしくもうちょっとおっとり構えて、和を持って尊しとなすというようにお願いしたいもんだな」

 この男性の趣味、一寸前まではもう少し下った時代が対象だった。源氏系統の家系図調べに血道を上げていたのだ。初老期に入った男などがよくやるいわゆる先祖調べというやつである。そんな頃のある時には、夫婦でこんな会話が交わされていたものだった。
男「 源氏は質実剛健でいい。平氏はどうもなよなよしていて、いかん」
対してつれあいさん、「質実剛健って、粗野とも言えるでしょう。なよなよしてるって、私たちと違って繊細で上品ということかも知れない。一郎のが貴方よりはるかに清潔だから、貴方も清潔にしてないと、孫に嫌われるわよ」
 こんな夫に業を煮やした奥さん、ある日、下調べを首尾良く終えて、一計を案じた。
「一郎の奥さんの家系を教えてもらったんだけど、どうも平氏らしいわよ」
男「いやいやDNAは男で伝わるから、全く問題はない。『世界にも得難い天皇制』は男で繋がっとるん だ。何にも知らん奴だな」
妻「どうせ先祖のあっちこっちで、源氏も平氏もごちゃごちゃになったに決まってるわよ。孫たちには男性の一郎のが大事だってことにも、昔みたいにはならないしさ」
 こんな日、一応の反論を男は試みてはみたものの、彼の『研究』がいつしか大和朝廷関連へと移って行ったという出来事があったのだった。

 広縁に桜の花びらが流れてくるころのある日曜日、この夫婦の会話はこんな風に変わった。
「馬鹿ねー、南方系でも、北方系でも、どうせ先祖は同じだわよ」
「お前こそ、馬鹿言え。ポリネシアとモンゴルは全く違うぞ。小錦と朝青龍のようなもんだ。小錦のが  おっとりしとるかな。朝青龍はやっぱり騎馬民族だな。ちょっと猛々しい所がある。やっぱり、伝統と習慣というやつなんだな」
「おっとりしたモンゴルさんも、ポリネシアさんで猛々しい方もいらっしゃるでしょう。猛々しいとか、おっとりしたとかが何を指すのかも難しいし、きちんと定義してもそれと違う面も一緒に持ってるという人もいっぱいいるわよ。二重人格なんてのもあるしさ」
 ところでこの日は仲裁者がいた。長男の一郎である。読んでいた新聞を脇にずらして、おだやかに口を挟む。
一郎「母さんが正しいと思うな。そもそもなんで、南方、北方と分けた時点から始めるの」
男「自分にどんな『伝統や習慣』が植え付けられているかはやっぱり大事だろう。自分探しというやつだ」
一郎「世界の現世人類すべての先祖は、同じアフリカの一人の女性だという学説が有力みたいだよ。ミトコンドリアDNAの分析なんだけど、仮にイブという名前をつけておくと、このイブさんは二十万年から十二万年ほど前にサハラ以南の東アフリカで生まれた人らしい。まーアダムのお相手イヴとかイザナギの奥さんイザナミみたいなもんかな。自分探しやるなら、そこぐらいから初めて欲しいな」
男「えーっつ、たった一人の女? そのイブ・・、さんって、一体どんな人だったのかね?」
一郎「二本脚で歩いて、手を使ってみんなで一緒に働いてて、そこから言語を持つことができて、ちょっと心のようなものがあったと、まぁそんなところかな」
男、「心のようなもんってどんなもんよ?」
一郎「昔のことをちょっと思い出して、ぼんやりとかも知れないけどそれを振り返ることができて、それを将来に生かすのね。ネアンデルタール人とは別種だけど、生きていた時代が重なっているネアンデルタール人のように、仲間が死んだら悲しくって、葬式もやったかも知れない。家族愛もあっただろうね。右手が子どもほどに萎縮したままで四十歳まで生きたネアンデルタール人の化石もイラクから出たからね。こういう人が当時の平均年齢より長く生きられた。家族愛があったという証拠になるんだってさ」
妻「源氏だとか平氏だとか、農耕民族対狩猟民族だとか、南方系と北方系だとか、男はホントに自分の敵を探し出してきてはケンカするのが好きなんだから。イブさんが泣くわよホントに!」
男「そんな話は女が世間を知らんから言うことだ。『一歩家を出れば、男には七人の敵』、この厳しい国際情勢じゃ、誰が味方で誰が敵かをきちんと見極めんと、孫たちが生き残ってはいけんのだ。そもそも俺はなー、遺言を残すつもりで勉強しとるのに、女が横からごちゃごちゃ言うな。親心も分からん奴だ!」

 それから一ヶ月ほどたったある日曜日、一郎がふらりと訪ねてきた。いそいそと出された茶などを三人で啜りながら、意を決した感じで話を切り出す。二人っきりの兄妹のもう一方の話を始めた。
「ハナコに頼まれたんだけどさー、付き合ってる男性がいてさー、結婚したいんだって。大学時代の同級生なんだけど、ブラジルからの留学生だった人。どう思う?」
男「ブ、ブラジルっ!! 二世か三世かっ!?!」
一郎「いや、日系じゃないみたい」
男「そ、そんなのっつ、まったくだめだ、許せるはずがない!」
一郎「やっぱりねー。ハナコは諦めないと言ってたよ。絶縁ってことになるのかな」
妻「そんなこと言わずに、一度会ってみましょうよ。あちらの人にもいい人も多いにちがいないし」
男「アメリカから独立しとるとも言えんようなあんな国民、負け犬根性に決まっとる。留学生ならアメリカかぶれかも知れん。美意識も倫理観もこっちと合うわけがないっ!!」
妻「あっちは黒人とかインディオ系とかメスティーソとかいろいろいらっしゃるでしょう?どういう方?」
一郎「全くポルトガル系みたいだよ。すると父さんの嫌いな、白人、狩猟民族ということだし。やっぱり、まぁ難しいのかなぁ」
妻「私は本人さえ良い人なら、気にしないようにできると思うけど」
一郎「難しいもんだねぇ。二本脚で歩く人類は皆兄弟とは行かんもんかな。日本精神なんて、二本脚精神に宗旨替えすればいいんだよ。言いたくはないけど、天皇大好きもどうかと思ってたんだ」
男「馬鹿もんっ!!日本に生まれた恩恵だけ受けといて、勝手なことを言うな。天皇制否定もおかしい。神道への冒涜にもなるはずだ。マホメットを冒涜したデンマークの新聞は悪いに決まっとる!」
一郎「ドイツのウェルト紙だったかな『西洋では風刺が許されていて、冒涜する権利もある』と言った新聞。これは犯罪とはいえない道徳の問題と言ってるということね。ましてや税金使った一つの制度としての天皇制を否定するのは、誰にでも言えなきゃおかしいよ。国権の主権者が政治思想を表明するという自由の問題ね」
妻「私はその方にお会いしたいわ。今日の所はハナコにそう言っといて。会いもしないなんて、やっぱりイブさんが泣くわよねぇ」 
男「お前がそいつに会うことも、全く許さん! 全くどいつもこいつも、世界を知らんわ、親心が分からんわ、世の中一体どうなっとるんだ!!」
と、男は一升瓶を持ち出してコップになみなみと注ぐと、ぐいっと一杯一気に飲み干すのだった。


(当ブログ06年4月7日  初出。そのちょっと前に所属同人誌に載せたもの)
コメント

随筆紹介  綾小路きみまろがブレークしたわけ   文科系

2018年10月01日 | 小説・随筆・詩歌など
 綾小路きみまろがブレークしたわけ  I・Zさんの作品です


 売れなかった綾小路きみまろが十五年前に突然ブレークした。彼は次のように中高年をこき下ろす。
「思考力が落ち 記憶力が落ち 髪の毛は落ち 鼻水が落ち 歯が抜け落ち オッパイが落ち お尻の肉が落ち 歩くスピードが落ち 収入が落ち 中には階段から落ち 上がったのは生理だけです」
 毒舌を撒き散らす。三十年間は売れなかった彼が突如、中高年の星として脚光を浴びた。
批判精神が旺盛で次々と連発する。
「今日は一番素敵な洋服を選び出ていらしたの。でもこの程度。ナフタリンの匂いもする」「新婚では、あなたご飯にする、それともお風呂と言っていたのが、今では出迎えは妻になついた犬がキャンキャン吠えるだけ」
 お客は高齢者ばかり。自分たちのことを小馬鹿にされたにもかかわらず、笑いこけている。なぜ受けるのか。十五年前といえば、高齢化社会に突入の日本。世界一の高齢。さらに高齢化の大波は団塊の世代によって押し寄せ始め、急ピッチで社会を変えていた。   
 きみまろが言うように、日本列島はジジババの養殖場となりつつあった。そこには老化現象、死や病気、冷えきった夫婦関係といった難問が顕在化し、大きな社会問題になりつつあった。こんな時代的背景がブレークの最大理由でなかったか。彼らの大半は社会的には生産に寄与せず、実質的には粗大ごみ化している。それを正面から攻撃する人物はいなかった。あまりにも真実そのものだからだ。それをお笑い芸人、毒舌の芸人が切り込んだ。そして聴衆はそこに自虐的なバカ笑いが巻き起こった。深くは考えない、反論なしのバカ笑いだ。
「妻の口 一度貼りたいガムテープ」「まだまだ老い込みには早すぎます。でも連れ込むには遅すぎます」「艶のない上半身 用のない下半身」「言ったことを忘れ 言おうとしたことまで忘れました」「足はガクガク 目はショボショボ おしっこチョロチョロ」

 笑いの貯金箱である。きみまろはカツラの中高年。だから仲間である。彼はさらに連発する。
「オバタリアン化粧落とせばエイリアン」「美しい方ばかりです 首から下が」「夫に強くゴキブリに弱い女房」「すっぴんとすっぼんぽんの女房が怖い」「花も咲かない枯れススキ 登りきっていないのに下り坂」
 お客は爆笑するが、彼は止まらない。連発が続く。
「痩せることはないのです 奥様 ブスが痩せてもブスです」「最近旦那のお茶を飲む音もイヤになり、旦那のお茶に一度入れたいトリカブト」「若いときは綺麗だったのです。そこで笑っている奥様、面影はないですけど」

 すべて真実。言うのははばかれる事実を言っている。毒舌芸人の彼が言うからお客は許し、大いに笑う。私達も自ら、きみまろ風に毒舌を発したいものである。夫婦間で、仲間どおしで。
コメント

随筆紹介  なおらん   文科系

2018年09月28日 | 小説・随筆・詩歌など
  なおらん   H・Tさんの作品です

 立春も過ぎてあしたは雨水というのに、時々小雪が舞っている。今年のさくらは遅くなると予報も。私は名古屋市の東部にある病院で順番待ちをしていた。風邪には強いと言っていたのに、去年の暮れひどい咳で尿がもれ、ベランダには白いショーツが何枚も風に舞い、大変だった。正月明け近所の友人にこの病院で尿もれの治療をしているK医師を教えてもらい、今日で二回目。
問診の合間に思い切って、
「先生、治るでしょうか」と尋ねると、開口一番。「なおらん。あんた、若くなれるか。年をとれば、体もいろんな所が劣化というか悪くなると言うか老化する。それは自然だ。わしは六十四歳、友人の三分の一は神様というか天国へ逝った」。ちらっとカルテを見て、
「あんたは八十七歳か。もう残り少ないだろう。体も変化し、尿もれもそれだ。なおらん」
「でも先生は尿もれの名医だと聞いて、私はここへ来ました」
「メイイ。どんな字を書くんだ。わしは知らん。薬で抑えるか、それなりの手当をしてしのぐかを知り教えるだけ、尿もれも自然現象だ。顔の筋肉が緩んで皺になる。それが直るか、みんな自然だ」
「でも今では癌でも治るというではありませんか」
「癌は病気だ。尿もれは病気ではない。比べるな」
「……」
「癌は死ぬ事もあるが、尿もれでは死なん、だから安心したらよい」
「……」
「手当の方法はいろいろあるから友人に尋ね教えてもらったらええ。薬は体の状態を調べて出す。決まったら近くの医者に手紙を書くから、こんなに遠くまで来る必要なしだ」
「……」
「知人や友人が尿もれなどなかったと言ったら、それは大うそつきか、天然記念物だ」
「……」
「もう一度言うが年をとったら、尿もれは自然になる。風邪の咳で尿がもれるなら風邪にも気をつけることだ」
「……」
「後もう一度来月ここへ来るように。この辺は桜の名所。来月花見をしながら来るように」
 私は操り人形のように頭を下げて部屋を出た。

 九十歳に手が届くようになった私。病気知らずで医者知らず、患者の顔を見ずコンピューターかなんかを見て結果を言い聴診器は首にぶら下げているだけ、こちらの言う事など聞かない医者多しと聞くが、K先生は何度も何度も言って下さった。
 次の診察日、近くの医院に手紙を、そして、「何かあったら、電話で予約して、また来たらいい」でおしまいだった。
 私は散るさくらに送られて帰った。
コメント

随筆紹介  剽 窃    文科系

2018年09月26日 | 小説・随筆・詩歌など
  剽 窃    I・Zさんの作品です

 明日発表の芥川賞の候補作品の一つが剽窃(ひょうせつ)問題で揺れている。北条裕子の「美しい顔」が、群像新人賞をとり、さらに芥川賞の候補作に躍り出た。ところが剽窃だとネットで騒がれると、群像を出版した講談社は、出典の掲載を忘れたに過ぎず、剽窃には当たらず、この小説の素晴らしさの根底を揺るがさないとし、異常とも言える無料公開を開始した。白熱した事態となった。
 剽窃とは、他人の文章、語句、説を盗用することである。盗用された作品「遺体」を私は購入した。ネットに公開された美しい顔の最初の部分を読み始めたが、十日後に突然、予告なく講談社は中断してしまい、剽窃の詳細を自分では調べられない。仕方なく、毎日新聞他に頼った。
 ①遺体の『その横に名前、性別、身長、体重、所持品、手術痕などわかっている限りの情報が書かれているのだ』を、美しい顔では「その横に名前、身長、体重、所持品、手術跡といったことがある。今現在わかっている限りの情報だという」
 
 ②遺体の『床に敷かれたブルーシートには、二十体以上の遺体が蓑虫のように毛布にくるまれ一列に並んでいた。』『うっすらと潮と下水のまじった悪臭が漂う』を美しい顔では「すべてが大きなミノ虫みたいになってごろごろしているのだけれど、すべてがピタッと静止して一列にきれいに並んでいる。うっすらと潮と下水のまじった悪臭が流れてくる。」
 
 ③遺体の『今日までに見つかっている遺体はこれがすべてです。ご家族と思われる特徴のある方がいれば何体でもいいので番号を控えて教えてください。』を美しい顔では「今日までに見つかっている遺体はこれがすべてです。お母さんと思われる特徴の番号があればみんなここに。あとで実際に目で確認いただきますから」
 
 ④遺体の『毛布の端や、納体袋のチャックからねじれたいくつかの手足が突き出している』を、美しい顔では「毛布の隅や納体袋のチャックから、ねじれたいくつかの手足が突き出していた」   

 ⑤遺体の『死亡者リストに記載されている特徴にはかなり違いがあった。すでに名前や住所まで明かになっているものもあれば、波の勢いにもまれて傷んでいるために「年齢二十歳~四十歳」「性別不明」「衣服なし」としか情報が載っていないものもある』を、美しい顔では「壁の遺体リストに記載されている特徴にはかなりの違いがあった。すでに身元が特定され、住所や勤め先の会社名まで記してある番号もあれば〈性別不明〉〈所持品・衣服なし〉としか情報が載っていないものもある。〈年齢三十歳~六十歳〉とものすごい幅のあるものもある」

 ⑥3・11慟哭の記録の『なぜ警察も自衛隊も助けに来てくれないのか。日本はどうなってしまったんだろうとおもいました。』を、美しい顔では「なぜ警察も自衛隊も助けに来てくれない。日本はどうなってしまったんだ」
 この①②③④⑤⑥からすれば、明かな剽窃である。小説とは、作者が自由な方法とスタイルで、人間や社会を描く様式。フィクションは散文で作成された虚構の物語として定義される。(wikipediaより)
 だとすれば、小説家は自分の文章、語句、言葉で語るべきである。他人の書物を参考にしても、十分に消化し、自分の言葉とすべきであり、北条は軽薄にも脱線し、剽窃におよんでいる。そのことを本人も、講談社も素直に認めればいい話し。それができない。
 さて、ここまでくると芥川賞の選考委員は、単に彼女の作品を落選させただけでは事がすまない。候補にした総括、そもそも小説とは何か、彼女の犯した行為は何が問題か、再発防止はどうするのか、を個別論と普遍的な全体論とを語る絶好のチャンスであり、またそうすべきだと私は思う。今の騒ぎを解決する指針を投げかけるべき。これをせず、単に芥川賞を選ぶだけの選考委員であれば、まさに失格ではないだろうか。お手並み拝見としよう。明日の夕方には判明する。
 
 選考委員は小川洋子、奥泉光、川上弘美、島田雅彦、高樹のぶ子、堀江敏幸、宮本輝、山田詠美、吉田修一の九人。論客の村上龍が今回から抜けて、果たして、日本を代表するコメントを出せる力量があるか、はなはだ不安である。私の仮説では、「選考委員はこういった文芸問題には対処する力量が乏しく、剽窃の批判声明は出ない。彼らに替わり、週刊紙が大いに活躍するのでは」。小説家ではない週刊紙の記者、ルポライターが、経験豊かな知見をベースに、批判記事を積極的に掲載するだろう。
 日大アメフト部問題での大学トップのごとく、実際は力量のない、過去に運よく賞を得た選考委員の皆さんではないか。もっと根は深く、日本のいわゆる一流作家は、時代の先陣を切れないどころか、自分たちに関係する問題さえ解決できないのではないか、まさにことなかれの小心者。ますますインテリ、学者のスケールが小さくなってきている事例にならなければいいが。

 一日が過ぎ、芥川賞の発表の日を迎えた。美しい顔は勿論落選した。島田選考委員は「法的には盗用に当たらないとの意見で一致したが、自分なりのフィクションに昇華する努力が足りなかったのでないかとの意見もでた」と会見した。待てよ。法的にも、文学的にも問題があるのではないか。単なる努力不足というよりは、文学的には犯罪であり、文学を志す人は、このようなことがないようにと警鐘を鳴らすべき。これでは、盗作を上手くやれ、そうすれば芥川賞も取れるんだと、上手な剽窃を推奨しているようなもの。肌寒い。出版会社の講談社らに迎合し、忖度する選考委員の力量の不足こそ問題ではあるまいか。正義は次々に消えていく。週刊紙の反撃を期待する。
コメント

小説  道連れたち(その3)   文科系

2018年09月11日 | 小説・随筆・詩歌など
 小学枚五年の春の夕方、団地の花畑のあちこちで毎日のように見かける初老の男に、長い逡巡の未に声をかけた。その場の花のことが挨拶代わりに誰もの口にのぼり、その度に中背痩身のこの男が、多めの白髪を揺らしてなにか頼りなげに返すほほ笑み。遠くまた近くからさりげなくそれを見、聴いていて、心が開いていったような気がした。満開のレンギョウとかの木々が後ろにぎっしりと並び、薄紫のスミレがその前の地面全体をおおって、その間から白が混じったピンクのチューリップが立ちのぞく、六畳一間ほどの横に長い花壇の前が舞台であった。
「すごくきれいだねえ。おじさんが作ったの?」
「ありがとう。おじさんの奥さんがほとんどやったんですよ、おじさんも少しは手伝いましたけどね」
「チューリップの色がすきだしぃ、スミレも変わった色だねえ」
「うん。── 植えた奥さんの方は、もう死んじゃいましたけどね」
 こんなやり取りをきっかけに、ぼつぼつと思い付きつつ問う恒秋、丁寧に応える幸田。その日それがいつの間にか、幸田の家に彼が招かれるという成り行きになったのだそうだ。
 幸田の家は惨状だった。畳や床には、かなり前の葬式の名残らしい物が散らばり、コップ、茶碗、コーヒーやジュースの缶そしてインスタント食品のスチロール容器、割り箸なども転がっている。これは一か所に集めてあるが、薄黒く汚れた下着を中心とした衣類の類い。郵便物はほとんど封も切られずに机の一角からこぼれ落ちている。恒秋は、幸田が彼にしてはきびきびと開けてくれた机の脇の空間にやっと腰を下ろし、あからさまにただ眺めた。
「汚くて悪いですね。何にもする気がおこらないものですから」
 ここまで幸田の語り口に何か引き込まれてきた恒秋に、こんな連想が浮かぶ。
〈母さんのように、外で待っててもらってばたばた片付けるんじゃなく、僕を入れた。こんな凄い所なのに〉
「おじさん、一緒に片付けようか?」
 ふっとそんな声が出て、隣室の流しに立っている幸田の横へ走り、食器洗いを手伝い始める。
「君、上手なんですねぇ?」
「上手ってことないよ。いつも父さんとやってるだけ」
「父さんが教えるんですか?」
「教えるってことないよ、こんなこと。母さんが看護婦だしぃ、このごろまた、試験勉強で忙しいみたいだしぃ」
「看護婦さんって、試験があるんですか?」
「病院で検査やってる父さんだってあるよ。おじさんは、仕事なにやってるの?」
「今は定年退職。前は新幹線作ってたんですけどね」
「すごい! 大きな工場だねぇ?」
「工場も行くけどね、そこでどんなふうに作ってもらうかという、設計の研究する所」
「じゃあ試験あるでしょう?」
「試験、………はないよ。おじさんが良くできるからかなぁ?」
「ふーん、よく勉強したんだ」
「うん、学生の時からね。おじさん、ほんとうによく勉強したよ」
「じゃ、いい大学入ったんだ」
「うん。トウダイって知ってる?」
「すっごい! それで、新幹線の設計なんて、ほんとにすごいねぇ」
「すごくないよ。今はこんなぐちゃぐちゃな所で寝て、起きてる。何にもできない人だと奥さんに言われてたけど、奥さんがいなくなってそれがほんとによく分かったという、だめな人ですよ」
「花畑作りは上手だよ」
「あれはね、定年退職の頃から奥さんがほんとに一生懸命教えてくれて、僕も一生懸命習ったんです。毎日、あれだけやってました。今はもっと、花畑だになっちゃいましたけどね。『箸は?』と訊きそうになって、『自分で持ってきてよ』とも言われないんだと、はっと気付く。それで、そこら辺のを何回も使っちゃう」

 この日から二人の花畑作りを中心に置いた付き合いが始まり、幸田はいつも、恒秋をただならぬ態度で歓待したらしい。対する恒秋の態度はと言えば、こんな言葉で語られたのだった。
「幸田さん所に通うのが、なんかすごく好きだなーみたいな気持にどんどんなってきたんだよ」
 そしてその夏、作業途中のにわか雨を、団地集会所の幅広い軒先に避けたある夕方。しゃがみ込んだ恒秋の目の前に、一つの光景があった。アリが緑色のコガネムシに群がり、断続的に動かしている。それも気付かないほどにほんの僅かずつ。鈍く光る羽根覆いがひしゃげて傾いたその甲虫は、じわっじわっと黙って引かれていく。この光景をあれこれと暫く観察していた恒秋の耳元近くに、不意に幸田のつぶやきが響いた。
「うちの奥さんも、私たちも、結局このムシとおんなじようなもんですかねぇ」
〈人間とムシはちがうでしょう〉、一瞬、そう返しかけて、詰まってしまった恒秋。〈コガネムシでも、一人ぼっちは寂しいだろうし、嫌なことは嫌なんだろう〉と考え付いたのである。幸田を振り返って素直にたずねてみた。
「どっか違う所もあるんでしょう?」
 幸田は柔らかい顔を恒秋に向け、ゆっくりと虫に戻しながら、応えた。
「自分が死ぬことを思い出しながら日々生きているのは、人間だけじゃないですかねぇ。だから人間は虫より寂しがりやなんだ。この寂しさが強い人は、虫よりは多少頑張って生きてみる。奥さんが僕と一緒に花畑をやろうとしたのは、多分そういうことですよ。でも、気付いてみたら、日々こんなにもやりたいことがないもんですかねぇ?」
 この辺以降のその日の会話は、恒秋の記憶から消え去っているらしい。ほとんど幸田の独白だったようだが。ただこの日の独白は、この人と花畑をやり続けていきたいという強い印象だけを、恒秋の記憶の中に残したのだそうだ。

 話がさらに続き一つの段落を迎えたとき、恒秋の声の調子が変わって、こんな解説が加えられた。
 幸田とのこれらの会話などは、当時の自分にどれだけ分かっていただろうか。しかし人は、成長期の自分にとって全く新しい世界と親しく接触したものを、十分には分からないからこそ覚えているということもあるものだ。また、そういう記憶が以降に、意外なほど己の世界を押し広げていくということもある。

 朝子の方はと言えばその前後から、恒秋と幸田のつながり以上に、幸田夫婦に照らし合わせて様々な夫婦の形をあれこれと思い描いていた。職業の中で出会ったいろんな「配偶者の死」を思い起こしながら。
 たしか病院の統計にあったけれど、妻が亡くなった後の夫のストレスは日本の場合、凄く大きいものらしい。他のどんな国の夫たちのストレスと比較しても。逆に、夫が亡くなった時の日本の妻の方は、平均すればそれほどでもないという。そして幸田の花畑作りは、そのストレスの発散場所になったようだし、この唯一の発散場所を彼に与えたのがまた彼の亡妻である。それも多年月の努力を重ねた末のことだった。別の新聞統計で「女七十代以上で、夫と暮らしていたいと応える人は僅か三人に一人」で、「妻と暮らしていたいという夫は三人に二人」に比べて異常に少ないとあったのも思い出す。幸田の妻ももちろんこちらに入るのだろう。その妻の側が努力して二人で楽しむものをやっと作り上げたまさにその頃に、その妻が亡くなった。幸田はその唯一の楽しみを今度は一人で追い求め続けるしか、やることがなかったようだ。そこに、恒秋が加わつてきた。「すごく好きだなーみたいな気持にどんどんなってきた」と恒秋が述懐したのは、こういったこと全てが関わった成り行きだったのではないか。恒秋と幸田がこの様相をどれだけ意識していたかは分からない。しかし、短くはあったがただならぬ感じを抱かせる二人の歴史は、こんな背景をお互いに少しずつ認めあうことによってどんどん深められていったものだったのではないのか?
「ツネ君、ちょっとないようなことができたんだねぇ」
 二人それぞれの暫くの沈黙の後、朝子が溜め息のように声を漏らした。
「うん、ほんとにそう思う。最後の頃、幸田さん、こんなことも言ってた。
『歳を取ったら全てを失っていく。仕事も、体力も、ものを感じる感性も、さらには視覚や聴覚等の五感でさえも。このように何かを亡くしたと思い知る度に、人は己の死を思う寂しい時を持つ。そんな時、若い頃から所有しまたは関わった全てのものを阿吽の呼吸で語り合える相手は配偶者しかいない。この語り合いに、愛憎両様の形や、あたかも空気に対するように意識されない形があるにしても。こういう真実の大切さを相手の死後にしか気付かないということは、またなんと愚かなことであろうか。この事実に僕が打ちのめされていた頃、僕は君に出会った。これから大人に育っていくという君を与えられた。………本当に幸せなことだった。ありがとう』。」
「それって、遺言の文章でしょう、私にも見せてよ?」
「いや、幸田さんのいたずらかも知れないんだけど、誰か一人にしか見せちゃいけないんだって」
 朝子はすぐに、咲枚の人懐っこいほほ笑みを思い浮かべた。すると、恒秋の少し慌てた言葉が続く。「まだ、誰にも見せてないんだ。母さんにだってもちろん見せたいんだよ。男みたいな人だとは思うけど、幸田さん流の言い方をすれば、僕の人生にとって母さんと僕だけのものは山ほどある」
〈咲枚に見せるのが良い〉、已にそう言い聞かせている自分を、朝子は認めた。自分には恒男がいると、改めて感じていたからかもしれない。ただ、俊司ともまだやめられはしないだろうとふっと考え込んでいる自分にも、気付いたのだが。

 大きい南窓にも、秋の陽が暮れ姶めている。朝子にとっても、あっという間の一日であった。


(終わり)  2000年1月、所属同人誌から
コメント

小説  道連れたち(その2)   文科系

2018年09月10日 | 小説・随筆・詩歌など
 前からも後ろからも速歩やジョギングの人が通り過ぎていく。
〈こういう人、昔はこんなにいたかなぁ、思い出せないのはきっと意識もしなかったんだろうけど、みんななんか品が良さそうな人ばっかりに見えるし、それに夫婦も多そうだし、けっこう若い夫婦もいて、みんなギンギンのウェアで、スリムな人が多いからフィットネス目的ばっかりじゃなさそうだし、私はフィットネスの必要はないけれども、ほんとにそんなに楽しいならやってみてもいいかなぁ。恒男ならきっとやるって言うんだろうけど、俊司さんならなんて応えるだろう〉
〈恒男だってかなり良いとは思うんだけど、俊司さんのが細やかみたいだし、恒男よりはちょっとなにか尊敬してる感じかも知れない、知らない間についてっちゃってた。離婚するとか俊司さんに結婚させるとか、そんなエネルギーを出してみようと思ったこともないけど、つきあいは別に止めなくても良いよね、私の方も別れようと考えたことはないし、あのことはちょっと俊司さんの方が良いのかも知れない〉

 近付いてくる激しい羽音に、後ろを振り向いた。嘴がオレンジ色で、鳩を一回り細く小さくしたような鳥の一群が、目の前の桜の木すれすれに飛び過ぎて行く。それを認めた瞬間、内省から覚めたばかりの耳に急に人のざわめきが飛び込んできた。川畔道路沿いすぐ前方、生け垣に囲われた建物の庭かららしい。高齢者社会教育施設と聞いているその建物に足早に近づいてみると、スポーツウェアの一群が騒いでいる。何台もの自転車も見える。それも極彩色色とりどりをわざと集めたように。〈若い子たちが入って、何か一緒に準備してるんだ〉、とその時、朝子の眼がある一点に釘付けにされた。数人の老人の輪の中で自転車の横に座り込み、例によって大きな声と身振りで熱弁をふるっている最中の、恒秋の相手のギャル・咲枝がいる。その咲枝の方も一瞬、体と視線を固まらせたようだ。周囲の視線もすぐに朝子に振り向けられた。止まるもならず、もちろん去って行くこともできはしない。こわ張った顔を作り直すようにして、近付いて行く。
「みなさん賑やかに、楽しそうですね」
 一斉に向こうも挨拶を返し、老人の一人がこちらへ歩みだして来る。そして、何か親しげな口調で話しかけた。
「恒秋君のお母さんだそうで、本当にお世話になってます」
 えっという感じをごまかすようにして迎え入れられるように人の輪に加わった。


「恒秋はいつからこういうことを始めたのかしら」
 いつしか二人並んで座っていた咲枝に、朝子は独り言のように問いかけた。風はなく、からっとひき締まった大気の中で、柔らかい日差しが二人を包んでいる。
「恒秋さんだけはなんか中学の頃からずーっとここに関係してたみたいなんです」
「恥ずかしいけど全く知らなかったわ。恒秋がボランティアなんて」
「最初からボランティアじゃないんです。恒秋さんが団地であるおじいさんの花畑作りをずーっと手伝ってきてて、それが縁でここの花畑に関わって、二年くらい前に彼を中心に仲間ができたんです」
「ここのことは全く言わなかったのよ」
 取り乱した脳裏に、ある情景が割り込んできた。夏の夕暮れ、住んでいた団地の庭で、専用に買ってもらったのだろう小さな鋤を振るっている六年生のころの恒秋と一人の初老の人、幸田さんとを初めて見た時の光景であった。〈たしか彼、一年くらい前に亡くなったんだ〉
「言いにくいんですけど、『母さんは余分なことやるのを嫌う人だから』と、言ってました」
〈私らにはずーっと秘密だったということを、この子は知ってる〉、悔しいような涙が滲んだ。
「恒秋さん、お年寄りとなんか仲良しなんです。それに花とかのこともよく知ってて、……」
〈この子は私らを心配して、言いにくいことを敢えて告げたんだろう。同じおしゃべり屋さんでも、人が良くて賢い子なのかも知れない〉
「道を歩いててもrあっ、キンモクセイ」なんて、きょろきょろするんですよ、若い男の子なのに。花や鳥とかの、ちょっとオタクみたいなんです」
 あわてて付け加えたような咲枝の言葉。〈二人は随分話し合っているんだ〉。
「まさかボランティアをねぇ、あんなこと!って言ったら悪いけど……どんなつもりでやってるのかしら」
「やってて面白いしぃ、それが好きな子ばっかり集まった、かなり大きいグループですよ。恒秋さんたち、人を集めてくるのも上手いんです」
〈恒秋が人集め?〉黙っているしかない朝子に、咲枝が続ける。
「とにかく恒秋さん、変わった才能ありますよ。詳しく聞いてみると面白いと思うんですけど」
 これも朝子には意味の見当もつかない、ちょっと前ならごく軽く払いのけたような言葉である。
「恥ずかしいけど、私いま恒秋に無視されてて、しばらく話してないの」
 自分の恥を自然に口に出したような朝子に、やや間を置いて咲枝が応えた。
「無視してるんじゃないと思います。言い合うのが嫌だというか、もっと言えば恐いというか、恒秋さん、お母さんを尊敬してますし」
 唖然としたような、そして、やはり自分とは異質な人々の言葉だと感じた。するとこんなふうに表現されている恒秋の世界を同じ土俵に上がってただ聞き取ってみようかと、そんなことを朝子は思いついた。〈目分がいろんなふうに変わり目なんだ、回りを観なおしてみよう〉という声が内部に開こえるような気がしていたからだろう。咲枝と別れ、家へと向かう目に、川面も葉桜も自分も、今までとはどこか違って見えるようだった。彼女はその時、〈今までの自分を保留してみた〉と後に表現した初めての心境の中へと、開き直るようにして飛び込んで行ったようだ。

「あそこの門を入って左手に大きな黒っばいクロガネモチという木があるんだけど、あれの移植が始まりかなぁ」
「聞かせてくれない」と頼んだ朝子のその目を一瞬見つめ、すぐに視線を逸らせると、戸惑っているのか満足なのかよく分からないようにほほ笑んでいたが、やがてとにかく恒秋は話し始めた。
 団地にあったこの木は、幸田にとって何か亡くなった妻の思い出があるものらしい。しかし、移植の話が起こったとき、幸田は既に癌の治療で病床にあった。根回し、運搬はとても恒秋一人ではできないからアルバイトを雇えと病床の幸田が助言したそうだ。金は彼が出すとの提案もあって、友人たちに恒秋が頼み、そのうちの幾人かが以降もボランティアとして残ったという。恒秋が高校二年、幸田が七十代半ばの数か月を費やした出来事である。もっとも、多くの協力者が必要な大行事の時などには、今でもアルバイトを雇うことはあるのだそうだ。
「施設の方でお金がでるのね?」、何気なくたずねた朝子の言葉に、恒秋が戸惑いの表情を見せている。口を出したい思いを一瞬で制して、朝子は南窓越しに外を見る。一羽の山鳩が枝垂桜の頂上から、驚いたような素振りでこちらを眺めていた。
「違うよ、行事の経費はそんなに多くない。僕が出してるお金だよ。──実は、幸田さんが、かなりのお金せ僕にくれたんだ」
 驚くような金額であった。この遺産分与を、生前にも彼に告知し、執行者まで定めた遺言にも明記してあったという。朝子は二人のただならぬ繋がりを、過去の断片的知識も寄せ集め、推し量った。そして今は、驚いたという以上に、この繋がりを理解してみたいと素直に願った。


(その3で終わり)
コメント

小説  道連れたち   文科系

2018年09月08日 | 小説・随筆・詩歌など
〈ピンクと赤と白、チェックの模様、たしか先週日曜日に彼が買ってきたテーブルクロスね、ヨメナの花もそれにグラスのワインレッドも、よく映ってる〉、朝子は、見るともなく見ていた眼の前の対象に焦点を合わせ直し、グラスの脚に指を伸ばす。寝起き姿のままに椅子に投げ出した体の中で、グラスに触れた指先だけがやっと目覚め始めたようだ。

〈昨夜、あの部屋、あの時の、飲み残しビールとテーブルクロスからの連想なのか〉、口にワインを含み、薄暗い灯につつまれたその場面のそこここを、霧の中のような脳裏から順に引っ張りだしてみる。
〈あの後すぐに彼がコップを取りに行って、飲ませてくれたんだ〉、ことが終わって間もないのに素っ裸のままに素早く立ち上がって、息を弾ませるといった様子もなく俊司はよくそんなふうにする。その終始に朝子はいつも身を委ねているのだけれど。
 と、ここで覚め始めた朝子の眼に、この新築の家の東窓を通り抜けた陽光がつきささってきた。太陽が隣家の屋根の上に顔を覗かせたらしい。眼をしばたたきながら、何度か言ってみた言葉を朝子はまた繰り返す。
〈俊司さんとはもう二年目か。まだまだ続きそうだ。ほんとに私がこういうことをやってるんだなぁ〉
 するとやはり、思い浮かんだことだが、
〈恒男のことも最近なにか、いろいろ見えるようになってきたみたいだ〉
 現に今、このテーブルクロスの端に小さくこんもりと生けられたヨメナの花。これなどにもこの頃では、〈恒男が一昨日くらいに庭から取ってきたんだ、彼の口癖だけど確かに素朴で可愛い紫、それが濃いから咲いたばかりなんだろう〉、この程度のイメージは浮かぶようになっていた。
〈ほんとに花なんかでも、何にも知らない。勉強して勉強して、たまに人とおしゃべりするくらいで、それから看護婦やって、結婚して、すぐに恒秋が生まれて、その面倒みてきて、小学校の頃恒秋に言われたことだけど、ほんと、いつも走ってた〉

 十月末の土曜日。恒男はまだベッドの中だし、一人っ子で大学三年生の恒秋は昨夜も帰ってこなかったらしい。朝子は、ほんの一、二口の朝のアルコールに頬を熱くしている。この頃度々あるのだが、眠ったという感じがほとんどないままに迎えた早い朝だった。

 右手を伸ばして、ヨメナの花びらを指でつまんでみたその時、玄関の扉が鳴った。そのまま二階へ行こうとする足音が聞こえる。
「恒秋、どこ行ってたの!」
 刺すような口調にも、何の返答もない。足音が調子も乱さずに上がって行く。
〈まだ完全無視が続くのね。長いこと!〉、と強がってみた。が、どうしようもなく沈んだ気持は拭いようもない。それでも癖になっている調子で、「恒秋、ちょっといらっしゃい」抑えにかかってみた。二階で扉を閉める音が返ってきただけだ。
〈昨夜も、あの子の家にいたんじゃないかしら〉
 何日か前の詰問に恒秋がさりげなくそう応えたので、言い争ったことを思い出している。ぴんと伸ばした激しい胸のうちを、前に組んだ両腕と、前傾させた顔で抑えながら。
 この街の児童館の厚生員を職とする子とのことだ。家に二、三度あがって来たが、朝子には明るいだけが取り柄の、調子の良いギャルに見えた。そんな感じが恒秋にも伝わったのだろう、後味の悪い言い争いになった。もっとも、ほとんど朝子だけが問い、言い放っていたのだった。それでも朝子には、吐き出したいことを全く出していないという、そんな気持だけが残っている。しょぼしょぼと何日も秋雨が続いて、うっとうしい日の夜のことである。
〈恒秋にはもう、何にも開いてもらえないのかも知れない〉
 ふと、車を転がしてこようと思い立った。

 朝子の軽セダンは今、川岸の児童公園の脇にあった。〈彼をお腹に乗せたあお向け逆さ滑り、「ジェットコースター」とか、あの山でもいろいろ二人でやったねぇ〉、すべすべでピカピカ光ったコンクリート地肌の小さな富士山が、昔のままだ。自然にほほ笑んでいたのだが、目がじーんとしていた。

 軽セダンは次に、薄黒い木造の保育園にさしかかる。朝子には、一階の靴箱の横に立っている若い自分が見えてくる。二歳になったばかりの恒秋がすっと部屋に入っていくか否か、それがその頃、日々の難関だった。部屋が騒々しく、入り口から保母の「志村おばさん」が見えない時には、「一大事の形相」で取って返し、泣き叫んで朝子の体にしがみついていたものだ。大学病院の始業時間との板挟みで泣きたいような自分がよみがえる。手前の砂場には一人っきりで遊ぶ三歳の痩せた恒秋が見え、また切なくなる。他の子どもが近付くのを極端に嫌い、例のように一人ぼっちで砂をいじっている。それで、迎えの朝子を認めてもにんまりと手をあげて、また一人砂遊びを続けるという、そんな感じの子どもだった。
〈友達と遊びをどんどん創造し、それをすっかり遊び尽くしていくこと、それが学力の土台、”見えない学力”である〉、少し後に読んだ本のことを思い出している。まさにこの点で、いつまでも幼い恒秋だった。だからだろうか、学業は並の下。高校まで学年有数という優等生の経験しかない夫婦が二人してあれこれあがいてみた頃の、ほとんど鬱病のような当時の心のもやもやが思い出される。その恒秋もやがて、いろんな大学の入試を二年受け続けた未に、唯一入学を許された名前を聞いたこともないような大学へ入って、今は三年生である。
〈看護婦って大学病院と言っても消耗品だったし、そのうえ共稼ぎなんてみんな毎日戦争やってきたようなものよね。そんな所で私、係長試験も真っ先に通ったし、来年はきっと総婦長になるんだろうし、いつも先頭にいようとしてたし、こういう私だからあの子にも同じようにやっちゃってたのかなぁ、それほどのつもりもなかったんだけど。高校人った頃には、私の言葉なんかもう聞き流されてた感じじゃなかったかなぁ〉
 いつの間にか、近くの川岸の舗装道路を歩いている。ここは、保育園帰りなどの恒秋とのおしゃべり通りで、今歩いていてもなにか「鬱が和む」ようだ。
〈それでも当時のこの場所と時には、恒秋とのおしゃべりという目的があって、何もしない時、場所じゃなかったんだけれども、今の私はほんとにそんなときを過ごしてるわ〉


(続く、あと2回です)
コメント

小説  ハーちゃんと俺(後編)   文科系

2018年09月06日 | 小説・随筆・詩歌など
 ハーちゃんが四歳を過ぎた二〇一四年一〇月に弟、セイちゃんが生まれた。娘のその育休が終わった後には、俺のイクメン仕事はさらにハードになっていく。保育園病欠も行事参加なども二人分になったからだ。二人分の育休が済んだ一六年四月以降は、中堅の小学校教員である娘の仕事が急に忙しくなったことも重なっていた。なんせ、平均帰宅時間は先ず二一時。「教員過労の時代」と言われるだけあって、夕食もお風呂入れもほぼパパだけの任務となっては、見るに見かねることが多いのだ。お風呂入れも、食器洗いとか、レンジ周り拭き掃除。俺の手伝いを条件に大掃除までを促して通っていくこともあるという始末だった。
「三八度五分の熱と連絡があったから、悪いけど保育園に迎えに行ってくれる? 二人とも都合がつかんの」
「お迎えに行って、区役所・保健所で三時からある検診に連れてってくれない?」
「保育園のデイ・キャンプが、父母同伴なんだけど、パパが出れないから来てくれない?」
「保育園の同じ組の父母が家でパーティーやるけど、ワインと何か一品作って参加してくれない?」
 こんな注文が、どんどん増えていった。「家族で蓼科の遊園地に行くけど、来てくれない?」、などということさえ度々になったが、ほとんど子守の為なのだ。二人の子ども連れだと、何か大小の緊急事態があったときにとても助かるらしい。
 イクメンという以上に教育パパならぬ教育ジジもやってきた。自転車に乗れるようにしたり、運動会のための竹馬も俺が作って、俺が教えた。週一土曜日の水泳教室はほとんど、若いママやパパに混じって見学しに行きたくなるのだし、二か月に一度のその教室進級テストの一~二週前などは二人で市営プールに行って欠点を修正してやったりもする。そんな帰りの公園で運動会の前などは正しい走り方まで教えてきた。だからこそなのだと固く信じているが、水泳はもう二五メートルがクロールできるクラスだし、保育園最後の運動会リレーではバネの利いたダイナミックな速さを見せていると、教育ジジは目を細めていた。ただし俺にとっては、これらすべてが、我が子に日曜日などにやってきたことを繰り返しているに過ぎない。ハーちゃんが習っているピアノ・レッスンも、娘にしてきたように付き合っている。「小学校前教育は、何かスポーツと芸術一つずつ。それが一番」という教育方針も俺と娘夫婦で一致しているのである。もちろん、お婿さんもこれらをともにやってきた。彼と俺が大変仲が良いのもこうして、ハーちゃんの御陰なのだ。孫も鎹ということだろう。
 それにしても気軽に注文が来る。余程頼みやすい人間なのだろう。これでお婿さんがさぼっていたら俺もここまでは出来ないが、彼も娘以上に主夫を頑張る人だったから、このほとんど全てを彼とも協同してやった。これら連日のような注文に働き者とは言えない俺がどうして応えるようになったのか、自分でもよく分からない。がとにかく、ハーちゃんのこととなると、どんな注文にも身体が自然に動いて行くのである。

 さて、というように表面は元気に見える俺も、既に七五歳。ハーちゃんが年長さんになったこの年一年は前立腺癌の発見、その陽子線治療もあって、他人からは見えにくい身体の中身はかなり綻びている。
 鉄筋コンクリートの白壁が薄汚れた我が家は父母が建てた物で、築五四年。その二階東端にある南向き畳の書斎兼寝室の南壁半分以上を占めるガラス窓のカーテンの端から突き刺さってくる陽光で目が覚めた。よっこらしょっと身体を起こして、机の前の椅子に座り、毎朝の日課が始まる。まず最初に、耳の上を引っ張ったり、頭側面や首から肩にかけて指圧、マッサージをしていくのは、難聴を予防、改善できるという体操のようなもの。確かに効果があるのだ。それを約五分の後は、左耳穴だけに補聴器を入れる。先生について習っているギターの弾きすぎと医者が診断したのだが、左耳だけが、それも高音域が聞こえない。特に子音が聞き取れないから、補聴器がないとアイウエオだけのように聞こえてしまう。耳の次が、目薬。これは白内障予防のためで、この眼科通院が始まってもう三年は経っている。網膜剥離でレーザーを入れたその事後観察という狙いもあるこの通院も、今は月一ほどに減っているのだが、軽いものだそうだが間もなく手術ということになるのだろう。それを少しでも遅らせるための点眼なのである。その次には、おもむろに鼻をかむ。かむだけではなく紙を太くよじって穴の奥深くまで入れた掃除をする。耳や目よりもずっと年季が入って悪いのが鼻で、原因不明のアレルギーもあるとのこと。このごろはいつも鼻紙に血が混じる。先日の高齢者検診胃内視鏡検査では「鼻の中が浮腫んでいますねー」と言われてしまった。と、こんな風に始まる一日も、例えばある午後は、
 晩秋の午後三時きっかり、保育園玄関出入り口を開けるとすぐの廊下端に、六歳の孫、ハーちゃんが早帰りの準備万端を整えて待ち構えていた。手早く靴を履きながら、「ジジ、遅いねー!」。
「ここでずっと待っていたんですよ」
 脇の職員室から出てきた仲良しの保母さんが笑いながらそう告げてくれた。それにしてはと、ハーちゃんの全身が喜びを表しているから嬉しくなった。歯医者に行くための早迎えだと言ってあるのに。
「恋人同士みたいだね」。これは、この夏に白樺湖の大きな遊園地に出かけた時に娘夫婦がかけた言葉だ。ほぼ全ての遊び遊具目指して、俺と二人であちこち飛び回っていたその光景を評したもの。こんな時は、「俺ももう七五歳、ランナー現役を続けていて良かったー!」と自分ながらしみじみと思うのである。
〈一緒に遊んできて、教育ジジやってきたけど、恋人ねー……。まーそんな要素もあるかな。俺をこれだけ回春させてくれたんだから……。そう言えば先日一緒に行った音楽会デビューも、デイトみたいなもんだったし。二時間を優に超える合唱だったのに、最後までちゃんと聴いてたな。途中で出てくることになると予想した実験だったんだけど、随分大人になったもんだよなー〉
 日曜日の午後、玄関のブザーが鳴る。パパが開けた扉の鍵音諸共、居間でテレビ・サッカーを観ている俺の膝めがけてハーちゃんが駆け込み、飛び込んでくる。こんなところも確かに、恋人みたいなのだ。膝の上のハーちゃんは時にお姫様抱っこの体勢も取るし、首筋に両手を回したりもするから、大好きなごっこ遊びで、その恋人同士。ただ、娘がいっぱい買い揃えてあるディズニー・アニメの男女場面のごっこ遊びかも知れぬと気付いてからは、途方に暮れてしまうようになった。


 二〇一七年四月、ハーちゃんは小学一年生になった。俺はその学童保育のお迎え係。娘の家のすぐ前にある小学校には学童保育が無くって、自分の昔と同じようにこれがある小学校を希望したから、市の許可を得て隣の小学校まで通うことになったのである。お婿さんが三キロほど離れたセイちゃんの保育園の、俺が学童保育のお迎えということだ。当面は毎日引き受けたが、やがては日数を減らしていくつもりだった。そんなお迎え場面の初めの頃にハーちゃんと俺に起こったことが……。

 保育園のお迎えの時などに年長さん相手にやっていて彼女が名付けた「パンチ遊び」というものを、俺がお迎えに行く学童保育でもすぐにやってみた。両脚を広げて腰を落とし、サンドバッグよろしく腹筋を子どもらにパンチさせる遊びだ。ボクシングの拳の作り方と、打撃時の足腰の使い方なども初めから教えるから、少々本格的なスポーツにもなっている。これを、四年生までは我も我もとやりたがる。因みに、それより上になるとどういうか「子どもじゃないよ! 遠慮します」という感じが多くなって面白いのだが、とにかく学童保育でも女の子も含めて大人気になった。なんせギリシャの昔からの男のスポーツ。今ならアニメやゲームの影響もあるのだろうが、迎えに来た俺を見つけると五人、六人と列を作って挑戦してくる。俺の方は人間の腹筋が思う以上に強いものだと改めて知ったのだが、ランニング練習のジムでウエートトレーニングも一通りやっているからなのかどうか、五年生までなら大丈夫とすぐに分かった。こういう遊びを学童保育で始めた時のハーちゃんの感嘆ぶりこそ、おったまげたもの。集まってきた上級生らを見上げながら、周囲を飛び回るようにして、はしゃいでいる。
〈彼女が遊んでもらいたくて仕方ない三~四年生までが自ら希望していつもいつもずらずらと並ぶのだから、指導員先生でもなかなか作れる光景じゃないのかも知れない……〉。
 そんな「パンチ遊び」を終えた秋のある日。お迎え帰りの自動車の中で、
「ジイジって、七十六歳だよね?」。「そうだよ。何かあったの?」。「先生が訊くからそう答えたら『うそーっ?』って言ったんだよ。別の先生が本当だよって言ってくれたけどね」
「でももーお爺さんだよ。運動会の駆けっこなら、ハーちゃんにはきっと、追い抜かれるよ」
「ジイジはお爺さんじゃないよ。お父さんだよ。先生もそう言ってるし。パンチにもあんなに強いし。いつも走ってるし、……ちょっと痩せぽっちだけどね」。
 その時の俺の気持ち! 毎日当たり前のようにやっていることを誰かに褒められても嬉しくはないのだが この時ばかりはまったく違っていた。だからこそ、一言。「僕が痩せぽっちなんじゃないの。パパ、ママがお腹も出て来たし、ふっくらし過ぎなの。分かる?」。
 そう、今の中年以上が皆太りすぎで、俺が大学生のような身体なのだ。それが、現代日本の普通の大人の認識……。などというのはともかくとして、こう続けた。
「痩せっぽっちも、パンチに強いのも、みんな走ってきたおかげ。そして、ハーちゃんは知らないことだけど、僕が走り続けていられるのも、ハーちゃんが生まれたおかげなんだよ」
 こんな思いの時の俺は、ゼロ歳のハーちゃんが取り持ってくれた家族四人の散歩をいつも思い浮かべている。そして、思い出のゼロ歳の時から今もまだやっているこんな習慣は、これからいつまで出来るのだろうかと、寂しい笑いをもらすのだ。古家の改築から生まれた二つの階段を使って二階を回ってくる「肩車一周」。我が家にいて二人のピアノ練習が上手く行かないときなどの気分転換なんかに、いつもやってきたことだ。彼女は一年生の今もこれが大好きなのだが、最近は相当重たく感じられて、足を運ぶにも気を使うようになった。


(三日続きの前中後編。読んで下さった方、ありがとうございました)
コメント

小説  ハーちゃんと俺(中)   文科系

2018年09月05日 | 小説・随筆・詩歌など
 そのころの俺のほうはといえば、四人散歩の途中では当たり前のように速歩きを試みてみる。三人より遙か前方へ行って、また戻ってくるとか。〈これぐらいなら、大丈夫かな?〉という試みを積み重ねて行ったわけだ。これらすべて、胸に心拍計を付けてのことであり、ちょうどハーちゃんの歩行のように、少しずつ少しずつ進んで行った。
 そして、気付いてみれば、娘の育休が明けてハーちゃんが保育園に通い出した春には、心拍数一三〇ほどの速歩きを四人散歩の中に入れていた。そこからやがて、我が家の一八段の階段を五〇往復ほどまで出来るようになって行った。やがて、心拍計を観ながら、おそるおそる、ほんのちょっと走ってみる。散歩途中に心拍数一四〇以内の走りが大丈夫と分かった時の嬉しさは、何と言ったらよいか! こんな四人散歩から生まれた関係なのだろうが、そんなころのハーちゃんと俺は……、
 庭の一角で、彼女が「アッ!」と叫ぶので振り返ると、俺に手を差し伸べている。手を貸せということらしい。手を取って引っ張るのに任せると今度は、側の平たい石をもう一方の手でさし示している。やはり、「アッ」という声付きだ。こうなると彼女のこの声はもう命令みたいなもんだなと、苦笑いしかない。とにかく、そこに座った。直後すぐに分かった彼女の「構想」には、さすがに驚いた。すぐ隣にある同様の石に自分もちんまりと座りこんで、パチパチと拍手しているではないか。俺の目を見つめているその顔はもう満面の笑みである。「カータクンデー、肩組んでー、お庭の前でどっこいしょ!」、こんな歌を思い出しつつ、俺も当然、拍手。この拍手は、目が点になる驚きという以上に、我ながら暖かい心がこもっていたなと、今も時々振り返ることがある。

 ハーちゃんが丁度二歳になった九月に俺はとうとう、ランナー再開の許可を医者に申し出た。医者がその表情を一瞬曇らせたのを俺は見逃さなかったが、ここまでの経過を順に聴き取るにつれて、この申し出を受け容れてくれた。三年に近い完全ブランクからの、七一歳にしてやっと得られたランナー免許なのである。


 その二〇一二年十一月、二歳二か月のハーちゃんと我々家族にとってとんでもない大事件が起こった。俺が三年かけて何とか得たランナー免許の、その代償のように。
 ハーちゃんが十一月二十一日の夜娘宅で、高い位置にあった加湿器のお湯をかぶってしまった。その電気コードを引っかけて倒し、お湯が額の辺りから下まで。すぐに全身に放水を続けた「寒い、寒い!」から、大学病院救命救急センターへの駆け込み、入院。この通報以降両じじばば同行の闘病生活が始まった。真っ先に俺がやったことは、大学病院の一般向け病気図書館で火傷の基礎知識を得ることであった。
一 火傷は軽度、中度、重度とあり、体表に占める%と浅い方からⅠ~Ⅲ度の傷の深さとで決まる。中度火傷がたとえば、「体表の十五~三十%で、Ⅱ度」とか「十%以下のⅢ度」というように。ただ、乳幼児、老人は十%でもショックを起こす場合もあって、深度も予後もわかりにくい。
二 直後の「流水で五分以上冷やす。服、靴下など衣類はそのままで」が、きわめて重要。
三 以降に怖いのは、血液に細菌が入る菌血症。低下した体力がそれに負け始める敗血症が非常に起こりやすくなる。細菌を防御する皮膚がないから、体中に注射をしたその日に汚い風呂に入るようものなのだ。これへの手当てに手抜かりがあると、治りかけた傷口もすべて内側からぶり返し、治ってもケロイドが酷く残ったり、抗生物質が効かない細菌が入って命を落とす場合がある。
四 対策、治療は、何よりも傷口の殺菌、二週間とか速やかに皮膚再生に努めること。感染予防のためには、個室隔離、看病者の限定と手洗い、うがいなどの徹底。本人の体力増強に努め、水分、栄養、睡眠が特に大切。

 絶望の宣告、心境を体験した。「血液から何かの菌が出て、敗血症が起こっています。三十九度の高熱がその証拠」。さらに週末を挟んだ数日後には「検出されたのは、黄色葡萄状球菌でした」と宣告されたときはもっとどん底に沈んだ。抗生物質が効かない黄色葡萄状球菌なら大変だ……。そうでないと確認できるまでは、俺自身食事ものどを通っていなかった。安眠も難しいのだろうが、肩を落としてベッドに座り込んだハーちゃんの赤い顔が頭にちらつきっぱなしだった数日間の気分は、俺の人生でも初めてのものだった。ハーちゃんと入れ替わってやりたいと、よく語られるそんな表現が我が身にどれだけリアルだったことか。

 幸い、三つ目の抗生物質が効き始めた。熱が下がり始め、顔など傷の赤みも日一日と見違えるようにとれていく。健康になった子どもの皮膚再生力はすごく速い。敗血症の目安・血液炎症反応数値も瞬く間に下がって、負傷後二週間が過ぎた頃には一般の平常値よりも低い値になっていた。火傷の後遺症関係も二週ほどで判明した。面積は十%を超えているが、酷い部分でも深度Ⅱの深浅両様のうち深い方が一%もなく、顔はもちろんほかの部分にも酷く掻かない限りほぼ傷跡は残らないだろうと。全員本当にほっとしたこの時を、今もよく思い出す。二歳そこそこのハーちゃんに対して犯したこのミスは取り返しが付かぬかも知れない、……それが晴れた若い夫婦二人の気持ちを考えたら、実際に泣けてきた。

 こうして、負傷から数えてちょうど三週間、十二月十二日に退院となった。それから二日間、薄い皮膚を太陽に当てるとシミができるからとUVカット剤塗布などに留意しつつ、じじばばとイーオンへ行って遊び回り、リハビリと体力増強に努めてきた。二歳児が広いフロアーを走り回る姿は、まさに弾けていた。包帯を外して傷口を洗う悲鳴や退院直前まで続けた点滴針取り替えなどが思い出されて、「雪国の春」とつぶやいていたものだ。
この三週間、病院に泊まる娘の出勤準備と入れ替わるために、早朝六時までに病院に詰めるのが俺の日課になっていたけど、……
〈俺もまだまだ頑張れる。それに、頑張ることはいっぱい出てくる……〉

 翌十三年初夏の頃には、俺の方もこんなふうに復活を遂げて、強くなっていた。
 メーターはおおむね時速三〇キロ、心拍数一四〇。が、脚も胸もまったく疲れを感じない。他の自転車などを抜くたびにベルを鳴らして速度を上げる。名古屋市北西端にある大きな緑地公園に乗り込んで、森の中の二・五キロ周回コースを回っているところだ。たしか六度目の今日は最後の五周目に入ったのだが、抜かれたことなど一度もない。ただそれはご自慢のロードレーサーの性能によるところ。なんせ乗り手の俺は七十二歳。ただ、去年の九月からはとうとう、昔通りにスポーツジムにも通い出し、今では三十分を平均時速十キロで走れるようになった。心拍の平常数も六十と下がり、血流と酸素吸収力が関係するすべてが順調。ギターのハードな練習。ワインにもまた強くなった。ブログやパソコンで五時間ほども目を酷使できたし、体脂肪率は十%ちょっと他、いろいろ文字通り回春なのである。先日は、十六年前に大奮発したレーサーの専用靴を履きつぶしてしまった。その靴とパンツを買い直したのだが、こんな幸せな買い物はちょっと覚えがない。今度の靴は履き潰せないだろうが、さていつまで履けるだろうか。


 三歳の一か月前の頃、ハーちゃんはこんな女の子になっていた。母子と俺ら祖父母で北海道へ旅に出て、小樽文学館で小林多喜二コーナーなどを観たあと富良野へのレンタカー移動途中のことである。
 ハーちゃんがチャイルドシートを嫌がって泣き叫び、何を思ったかベルト留め金を外して床に座り込んだ。そして、立ち上がろうとする。横のばばが、危険と判断して、立ち上がろうとするのを頭や肩などを押さえつけた。それも三~四回。対する抵抗と抗議の、ものすごかったこと。抗議と抵抗の表出はもちろん、悲嘆にくれて身も世もあらずの様相が、優に一時間近く。その間、なんの慰めも好物の提供申し入れも一切振り払って受け付けず、ただ大泣きである。それも、喉がかれて声が出なくなるほどの号泣をずっと続けている。
「これってなんだろう?」。大人三人は皆、すごく当惑した。抗議というよりも、身も世もあらずとの態度が執拗だったからだ。と、娘がこんなことを話し出した。
 先日初めて、こんなようなことがあった。見知らぬ年長児三人の砂場遊びだったかに入りたくて露骨に拒否されて入れず、しばらく粘っていたが娘がその場から脱出させたとたんに、これとそっくり同じ大泣きが始まったという。それも、初めてのことだと見たのだが、この「身も世もあらず」がやはり三〇分以上は続いたという。「はじめて見た、全く同じ感じの泣き方だ」と断言したのである。娘のこの話に関わって俺はうろ覚えのこんな知識を思い出していた。二〇世紀最大の発達心理学者ジャン・ピアジェの言葉で確か「幼児の、恩と愛着」というような概念があったはず。他人から恩を受けたことの長期記憶が生まれ始めると、人への愛着というものが起こり始める、と。こんなふうに愛されることが多かった子どものなかで、能動性の強い子はこの愛着も極めて強いはずだ。そして、この愛着が裏切られたと体験したときには、ものすごい葛藤が発生するということじゃないか。こう考えて俺は二人に言った。
「これって、素晴らしい、新たな成長なのだと思う。人の愛着と冷淡を知ると、安心して身を任せるように繋がっていると思いたい人に拒絶される体験も分かり始める。身も世もあらずとできるようになったということじゃないか」
 繋がりや愛着が発生しなければ、拒絶や冷淡に何も感じないはずだ。拒絶と感じて号泣できるほどに成長したということだろう。
 ところでさて、これほどに拒絶されたばばの方は、猛烈に不安が生まれたらしい。今後の態度が変わるのではないかと、しきりに心配している。対して俺は、何の心配もないと答えた。人への愛着が生まれ、人によるその強弱も生まれ始めた幼児は、愛着の方も覚えているに違いないと考えたからだ。その後案の定、こんな場面がいっぱい繰り広げられた。富良野「風のガーデン」という花々の中で、ハーちゃんがばばを気遣って優しいこと、露骨なのである。二人だけであっちへ行こうと手を差し出してあげたり、好物のお菓子をあげようなどがはっきりし過ぎていて、娘とふたりで遠くから目を見張り、論評し合っていた。「ごめんね!」というのか「仲良くしてね!」というのか、とにかく幼児の心遣いながらものすごいものだと。


(あと1回、後編に続きます)
コメント

小説  ハーちゃんと俺(前編)  文科系

2018年09月04日 | 小説・随筆・詩歌など
 二〇一〇年九月二七日、初めての孫、女の子が生まれた。生まれただけではなく、娘家族三人、ウィークデーは我が家に同居中だ。直線距離三百メートルほどのアパートに住んでいる彼ら、金土以外は母子ともに我が家に寝泊まりしている。夕食も、我が家。両家族四人で作り、食べ、後片付けも分担しあっている。「我が子とは違うだろう。そんな感情も湧かんはずだ」。連れ合いにそう言い張ってきた俺だったが、こんな同居を重ねていると、どうも勝手が違って来る。
 病院のベッドでもぞもぞしているものを見た第一印象はこれだ。「何処よりきたりしものぞ!」。山上憶良の有名な短歌「しろがねもくがねも玉も」の前に置かれた長歌の一節だが、このモゾモゾ、一体どこから来たのかと。こんな成長も想像したりするから、なおさらのこと。こんなモノが一年も経つと片言をしゃべり始め、三年も経つとぺらぺらになるなんて信じられんな、などと。ちょっと前の外出でしばらく観察していた三歳児なんて、すでに立派な人間なのである。わがままもりくつもちゃんと主張していた。我々老人の方は一~二年では何も起こらんどころか急に老けたりするのに、すぐにどんどんあんなふうになっていくモノ! そんな人間が、一体どこから現れてもぞもぞとここにいるのだ?!
 さて、今は生後二ヶ月に近く、笑い出した。モナリザみたいな意識した微笑みはちょっと前から気付いていたし、顔面がそう動いてしまった「ニカッ」は生後すぐにもあったが、今は何かちょっかいを出すとはっきりとニカッとする。人間の笑いは、類人猿にはない高度な段階の技能なのだそうだ。こんなに無力なくせにすでにそんな凄い力を持っているこいつ。生後長い間こんなに能なしの人間が地球でこれだけ栄えてきたその訳は、このニカッにあるのかも知れない。そんな風に思いながら今の俺は彼女とこんなふうにつきあっている。わざとらしく泣いている時などに抱き上げてやると、ぴたっと止まり、モナリザの微笑み。そこでもう一つ何かをやってやると、ニカッ。とても面白い。飼っている黒猫・モモのクールさに比べれば、はるかにホットなのである。

 ところで、二〇一〇年というこの年は、俺にとってどんな年だったことか。
 スポーツが大好きで小学校時代から色々やってきた俺が、六二歳で完全リタイアーした前後に選んだ最後のこれがランニングとスポーツサイクリング。後者は学生時代から続いている趣味だが、ランニングは五九歳に入門して、一年後には十キロを四十九分台という記録を持っている。それだけの体形、体力をここまで維持してきたのは一種独特のスポーツ哲学を育んできたからだと今にして分かるのだが、元々不整脈を抱えてそれを飼い慣らすためにいつも心拍計を付けて走っていた。それが、ランニング歴丁度十年のこの年、新春に不整脈が慢性心房細動へといきなり深化した。外って置けば、脳梗塞か心筋梗塞という死病である。即心臓カテーテル手術を決意した。慢性細動になったら手術と、予め決めていたのである。二月末のこれが上手く行かなかったと分かって、十月には二回目。ここまでもこれ以降も、術後落ち着きが見えたら走って良いとの許可があったから、ランナーを続けるべく速歩き、階段往復など体力維持に励みつつ、散歩中に一キロ程度の遅い走りも入れ始めていった。そして、「さすがの根治療法。治ったのだな」と言い聞かせ始めた翌十一年二月一七日。いつもの階段を十往復ほどしたあたりで突然の不整脈。きちんと脈を取ってみると最悪の心房細動である。〈同じ階段往復を一昨日には、一一〇回。それがなんで急にこうなるの?〉。さっぱり訳が分からぬままに主治医にかけこんだ。

 すぐに血圧を測ったり、心電図を取っている間も、その主治医自身が何かバタバタしている。慌てているのだと分かった。既に血液をサラサラにする薬も止めていたから、すぐに点滴が始まってこう告げる。脳梗塞、心筋梗塞の恐れがあるから、二回の手術をした拠点病院に行けと。そこに電話を入れてくれて、そのまま救急車で駆け込むことになった。拠点病院の診断結果は「すぐに全身麻酔で、AEDをやります。多分治ります」というもの。死ぬ間際の人の心臓辺りに電気ショックを与えるあの治療法である。大変きつい奴になるから全身麻酔をした上でということなのだろうと諒解した。
 そしてさてその次が、忘れもしない、問題の同月二四日。木曜日昼頃。通っているギター教室のレッスン曲を弾いていただけなのに、どうも心拍がおかしい。計ってみると期外心臓収縮の症状で、俺の今までの経験からはこんなサインになる。「今ちょっとした運動をやると、慢性心房細動になるよ」。またまたすぐに主治医の所に駆け付けると、結局こんなことが決まってしまった。今度ばかりは俺の了解は何も取らず、有無を言わせぬ命令である。
①年齢並みの心拍数を越えないように生活する。最高一二〇。できたら一〇〇~一一〇。
②突発性期外収縮だけなら、頓服的な薬を飲む。 
③心房細動になったら、以前の薬を常用の上、もう一度AEDか再手術か。
④お酒は、今までの通常範囲で。ビール換算で一本程度。

 最高心拍数一二〇では、もう走れない。速度にもよるが、俺のランニングは最高一四〇~一六〇にもなったからだ。もう七〇歳、走るのを断念して、少しでも細く長く生きる道を選ぶしかなくなったと覚悟した。ただでさえこの一年間は半信半疑でしょぼしょぼ走っていたから体質がどんどん変わって行くのが分かったが、これでさえもう年貢の納め時になってしまった。

 俺は一日二~三時間も先生に課されたギターレッスンをしたり、四~五時間コンピューターに向かっても目も大丈夫だし、肩こりもないという生活をしてきた。そして、一時間に十キロほど走れる酸素吸収力がこれらを支えているのだと解して、ランニングに励んできた。筋肉疲労物質の運び屋、血流と酸素が十二分に回る身体だからこそ、七〇歳にして無理をしても肩も凝らないし、目も疲れないのだと。掛かり付けの歯医者がまた、こんなことを言う。「走れるというのは免疫力が強いということ。歯槽膿漏にも、虫歯菌にも強いんです」。なお、有酸素運動について回る細胞老化物質・活性酸素への対策にも、当然励んできた。しかしながら、このようにランニングが活動年齢を伸ばすのに偉大な効果があるにしても、そんな理由だけで俺がスポーツを続けてこられたわけではない。

 週に複数回走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。こういう大切な快感は、何と名付けようか。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚、それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめることの結果と見るべきではないだろうか。
〈そんな俺にランナーを諦めろとは……〉
〈俺の生活自身が途方もなく小さくなっていく……〉

 さて、ハーちゃんが生まれたのはこんなころ。俺の二回目のカテーテル手術の一か月前の九月とあって、ランナー断念の時期には五か月になっている。そんなころの俺らは、隔週の土曜日ごとに散歩をする仲になっていた。娘夫婦に俺の散歩を一緒にやろうと提案して、合意を取り付けたのである。ちなみに、俺の連れ合いは同じ申し出を断っていた。連れ合いは連れ合いで、俺らの長男が三つの美容院をやっているその株式会社組織の経理担当取締役。子どものいないお嫁さんとともに収支一切のコンピューターや、税理士・税務署応対、店装飾などの雑事を任されていて、かなり忙しいのである。
 三人で乳母車を押し合って、あっちの公園、こっちの遊園地とか、四キロほどは離れた昔の尾張徳川藩主別邸・徳川園までの往復をしたこともある。それもほとんど外の昼食付きで真冬も真夏もという散歩。そんな折のハーちゃんは、寒くても暑くても泣かない子だった。乳母車からいつもあちこちに目をやって、寝ている暇もないという散歩ご機嫌さんだったからだろう。だからこの散歩がずっと続いていったが、八か月頃だったかハーちゃんはこんなふうに育っていた。いわゆる「ずり這い」数日のあと、普通のはいはいの最初の一歩を見て四~五日して会った時のことだ。
 娘夫婦の家、居間に僕が入って、ハーちゃんと目が合う。よく遊んでやるせいか、俺を見つけるとニカッならぬ「けっけっけ」と、手足をばたばたした大笑いになる彼女だ。試みにこの日は数メートル前に開いた脚を投げ出して、ぺたりと座り込んでみた。するとその俺目がけて、大急ぎでばたばたと這ってくる。もう、相当に速い。そしてまず俺の腿に手を置き、次いでもう一方の手を挙げて胸ぐらのシャツを握りしめ、すっくっと立ち上がる。さらに肩をくしゃっと摑んで体を支え、急激な両脚屈伸を繰り返し始める。さながらバンザーイの連続ジャンプ。その体勢のまま「けっけっけ」を振りまいて、歓待してくれるのだ。そのうち、そのままもう両手を離して立ってしまう。もっともこれは、重心が取れぬせいですぐにくしゃっと座り込むのだが、またつかまり、立ち直して、手を離し、またくしゃっ。そんなことを何度も繰り返しているのを観ていて、つくづく思った。
「人間ってやっぱり、二本脚で立つことが好きなんだな。目線が高くなるからだろうか。人間特有の直立姿勢の平衡感覚に関わって、なにか本能のようなものでもあるのだろうな」
 十か月前に歩き出したが、今度は転んでもまったく泣くということはなく、すぐに起き上がって前へ歩き出す子になっていた。


(あと2回、中後編に続きます)
コメント