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九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

不如意になった八四歳、ギター演奏が救い  文科系

2025年08月08日 01時40分38秒 | 文芸作品
 年を取るとできないことが増え、人生を積極的に楽しむことができなくなっていく。仕事が楽しすぎて、何の老後の準備もなく、定年以降の老後が即「余生」になってしまった父が、今始めて分かるようになった。60代ですでにテレビドラマを見ていても途中で寝てしまう。昼も長椅子で延々とぽさーっと過ごしていたその姿を、88歳まで活動的であった母が「あの姿を見ていると、私の方が病気になってしまう」というほどに嫌っていたものだ。僕はそんな老後の父母と同居して学び、40代から老後生活の準備を始めた。その一つが、定年退職後のギター教室通いであった。ランニングも準備したが、これはもう癌による膀胱摘出でできなくなってしまった。走れなくなると、身体が弱ることも含めて心身がどんどん年取っていく。
「年を取るとは、心身がどんどん不自由になっていくことだ」
 このことを今、急に身にしみて感じている真っ最中である。すると、座っていてもやれるギター演奏がどんどんクローズアップされてきたのである。幸い、暗譜を保持し続けてきた曲が20とちょっとあって、今はそれが宝物になっている。その中で今、10月の発表会候補曲にするべく復習に励んでいるのが、南米のギター弾き・バリオス作曲の「大聖堂」という曲だ。この全3楽章の曲は、変化に富んでいて弾いて楽しいのである。アルペジオ伴奏の中から高音旋律を清らかに澄んで響かせる第1楽章。静かに重和音を響かせて祈っているような第2楽章。3楽章がまた3部分に分かれ、それぞれこんな感じと言えようか。最初が、街をせかせかと人が行き交っているような感じで、次がアルペジオの高音を響かせて、なにか商売の駆け引きでもやっているのかとの感、そして最後が兎に角せかせかめまぐるしく終わっていくのである。この3楽章は、聖堂の外に出た市場の雑踏風景とかの解説を読んだ覚えもある。

 この難曲、特に第3楽章が発表会で弾けるとは正直言って思わない。が、1,2楽章なら弾けるかなとかを、考慮中である。それとも、繰り返しなしで全曲弾けるかなとかも考える。この考慮中は10月まで続いていくだろう。これをもし諦めるなら、同じバリオス作曲の「郷愁のショーロ」という以前演奏済みの曲に変えても良いな、とか、バッハの二つのプレリュード(バッハ作品群ナンバーで、998と1007)のどちらかにするか、とか? 兎に角年を取ると大大大好きな暗譜群を持っているのは強みになる。

 僕が長年弾き貯めた暗譜曲群24曲の内、発表会で弾いていないのは「大聖堂」と、ソル作曲「モーツアルトの魔笛の変奏曲」、「アルハンブラ宮殿の思い出」との3曲だけになった。だからこの3曲に特別に拘りがあるのだ。この三つを弾き終えたら、僕のギター精進もそろそろ閉幕かなとか・・・・。兎に角、活動的なことが何もできなくなって、ただ受け身の「文化」を消費している生活は、僕には辛すぎて、死んだ方がましだとも?
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随筆 母のこと    文科系

2025年06月26日 06時15分37秒 | 文芸作品
僕らの母親は、言うならばちょっと傑物だった。明治末に片田舎の貧乏な子六人の家の四番目から身を立てて、やはり無一物の父と結婚して、ずっと高校教員などの共働きを続けたその次第を書いてみよう。何よりもまず、家政について。四人の子どもに一軒ずつ土地付きの家を残した。そして、そうできたことを、晩年の母はよくこう語っていたものだ。
「四人の子が、病気もせず、医者になった一人を含めてみんな国公立大学へ入ってくれたから、私が働き続けられて、お金も残った」
 市立大学医学部から、そこの助教授の内に外科医として外に出た兄の後は、三人とも国立大学卒業なのだが、そのことを僕は入学当時からこう広言して来た。『僕が一番成績が悪かったが、その僕が言うのだから間違いない。僕たちのような家に生まれて普通に育てば、誰でも旧帝大ぐらいは行ける』
 父母がそれほど有能な教育者だったのだし、おまけに母親は、専門であった家政学のきわめて有能な実践家でもあった。料理も被服も子育ても、家計の切り盛りから家庭文化まで含めて。

 母は明治末年に近い一九一〇年、愛知県は渥美半島の城下町、田原町に生まれ、たまたま成績が良かったので豊橋の高等女学校に入った。二つの町の間の交通機関は船という時代で、確か入寮生活だったと記憶する。さらにそこで学年一番という成績から学校の強い要請で東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学。家事撰修)を受けて入学、卒業する。その後は、浦和、豊橋、東京(現桜町高校)と戦前の「高等女学校」に、その後短い戦中疎開生活などの後はずっと名古屋市立菊里高等学校(旧名古屋市立第一高等女学校)に務めて、その後も某短期大学に一二年通っていた。
 母は専門に学んだ家政学のきわめて有能な実践家で衣食住、家政、子育て、家庭文化育成など全てに秀でていた。
 料理が上手で、旧制度女学校の料理の授業の前にいつも家で予行練習をしていたから僕らがこれを知っている。資産などない家で小学生時代から、中華料理、フランス料理を食べて育った戦前昭和生まれなどはちょっと希なはずだ。ちなみに、兄も僕も四〇代から通い慣れたビストロをそれぞれ持っていたが、こういう美食体験のなせる結果と思われる。
 家庭の被服だが、母は長い木綿布を買いこんで、家族の上下下着を全て自分が作っていた。背格好が似た兄と僕に同じ上下を買ってくる時には、兄は青系、僕は茶系と分けていたのも、その時代としては合理的な賢いやり方だったと思う。
 住はとみれば、僕が小学校時代に名古屋市中心部に百坪の土地を買っていて、そこが今の僕の住居になっている。ここには、僕が大学二年の時に今の鉄筋の家を建てたが、その二年前に近くの分譲テラス住宅を購入していて、これは後に一人娘と結婚した兄の財産になった。妹は東京の練馬に土地付きの家を買って家庭を構えたし、弟は横浜の高台に家を買った。それぞれ我が家からもお金が出ている。

 母は、四十三歳で遠距離の県立高校の校長になった父が猛烈に忙しかったから、父の家事協力など一切期待できず、全て自分がやった。電気洗濯機、冷蔵庫、炊飯器、車など何もない時代の家事は大変で、これら全ての活用開拓者になった。六〇年代に始まった日本の車社会に先駆けて、母は五〇歳近くなって我が家で一番早く免許を取り、父の送迎などもやっていたものだ。最初の車が箱形ダットサン、次がプリンススカイラインと記憶している。それでいて、子どもの教育にも手抜かりが無かった。ちなみに、父はよくこう語っていたもの、「四人の子全てが国公立大学に入るなどは、愛知県の公立高校校長でも我が家だけだ」。ただし、父は入試のスペシャリスト、数学も一教師として現場に立った校長というだけでなく、そういう教員組織を作る力が優れていた。三つの県立高校の校長をやったが、その二番目の高校の「名古屋大学入試合格者一九七名」というある年の記録は、その後破るのが難しかったのではないか。という父を支えるべく、母は偉大な傑物になっていったわけだ。

 こんな母だが、家庭文化教育という面でも努力していた。僕にバイオリンを習わせ、妹には日本舞踊を習わせた。僕が退職後にギター教室に通い今に至っているのは、このバイオリンのおかげだし、花柳流の名取りになった妹は老後せっせと歌舞伎座に通っている。僕の若さの源・ランニングも、老後の母が実践していた「一日八千歩の早歩き」から学んだものだ。母はこの他、八十歳頃まで三味線教室の発表会に出ていたし、我が家で、友人達とジキョウジュツという体操グループをずっと開いていた。











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随筆 父のこと  文科系

2025年06月23日 10時34分41秒 | 文芸作品
 その茶箪笥は、もう居ない父母の代からのもの。縦一メートル、横五〇センチ強、奥行き三〇センチ強で、黒っぽく変色した焦げ茶色のケヤキ材生地にはいろんな生活垢が染みついて見るからに汚く、どう見ても年代物とわかる代物だ。ただ、今風のものとは違って、全て一枚板造りに装飾細工彫りまでが入ったケヤキ材だから、茶箪笥としては今では作られないような「逸品」と分かる。父母の家を僕が相続したから、我が家には多くの相続家具があるが、それらの中でも一番昔から僕も馴染んできたものだ。ともに愛知県出身ながら一九三八年に東京・中野区で新婚生活を始めた父母は、戦争のさなかの広島、次いで渥美半島疎開から、やがてここ名古屋市内でも一度と引っ越して来たから、東京の新婚生活に買い入れたものに違いないのである。それも、こういう家具にも趣味、拘りがあった父の見立てなのだ。そんな逸品だからこそ、戦争間の引っ越しを挟んで百年近くも残ってきたのだ。と、こんな連想をするといつも、これを選んだ時の若い二人が目に浮かんでくる。

 父は、愛知県知多半島の先っぽに浮かぶ篠島の漁師の三男である。三,四年前に僕が一人で島を訪れた時に、その浜辺で宿泊先旅館の老主人がこんな話をしてくれた。
「すぐ前のこの浜辺で、君のお父さんは度々、勉強疲れを癒やされていたものだよ。なにしろ、この島では珍しく豊橋の旧制中学の入試を受けて入ったというのでね。大正時代の当時としては本当に珍しい話で、小さな島の大きな話題になっていたもんだ」
 一九二〇年代の愛知県立第四中学校、現時習館高等学校入学という話なのだ。父は、この学校を二八年に学年二番で卒業したと聞いたが、その年に東京高等師範学校に入っていった。全国に数少ない幹部教員を育てる高等教育機関である。そしてここを卒業した後いったん旧制中学の教員になり、その後にその大学院のような東京文理科大学(数学科)に入学、卒業したのだった。この入学直後に母と結婚しているが、渥美半島の旧城下町・田原町出身の母も豊橋市立高等女学校から、東京女子高等師範学校を卒業している。母は、女学校卒業時には学校一番の成績だったから、半ば強制的に女子高等師範学校を受験させられたと聞いた。父は学生結婚、二人の共働き生活の始まりである。
 さて、こういう両親だから、四人の子どもの教育にも熱が入るのは必然で、僕以外の兄、妹、弟は基本これを受け入れたが、僕だけがこれに反発した。反発と言っても、今思えば、世間知らずの若者によくある屁理屈付けた一種のサボタージュも含んでいる。最初の対立は、四人の子どもの中で僕だけが選んだバレーボールクラブを「やめろ!」・「やめぬ!」の言い争いだった。それがいつしか人生観の対立にまで広がっていって、僕が選んだ文学部哲学科を巡る言い争いにまで発展していったものだ。その頃の僕は言うなれば「父と彼が代表する『世間』が、反吐が出るほど大嫌いだった」のである。
 さて今、そんな僕が父を振り返ると、思うところは当時とはずいぶん異なっている。当時としてもうすうす気づいていた「人として有能、勤勉」、「自由で、偏見がなく、温かい人だった」と明確に理解するようになった。終戦直後の昭和前半でも、「完全共働きの県立高校校長」なんてごく珍しいはずだが、彼は「あんな気さくな人が○○高校の校長先生!」とご近所の主婦の方々にも言われるような人だった。そう言えば、若い頃に教えた貧しい旧制中学生の何人かを、その後もいろいろ面倒見ていたことは僕も知っている。頭をちょっと変えて見回せば当時でも分かったこんなことを反発が勝って見られなかったのだなと、今は思うばかりだ。父母共に片田舎の貧乏な境遇から日本最難関の教員養成機関に入ったのだから同じような境遇の若者の面倒をよく見ていたと、このことは当時でも分かっていたことなのに。さらには、そのような旧制中学生の一人が僕の家にずっと出入りしていて、彼の影響を四人の子どものうちで僕だけが強く受けてきたという歴史さえあった。終戦時広島の海軍兵学校の生徒であったこの優秀なお人は、その後確か大阪大学を受け直して大学院まで物理学を学び、僕の専門の哲学書も読み込んでいて、後には僕の専門に近いヘーゲル「精神現象学」の話までされたのには、驚いたことがある。「父と世間が全く嫌いだった僕」を救ってくれたお人なのである。父が救った人が、僕を救ってくれたというちょっと不思議な話なのだ。ちなみに、僕は彼U・Kさんの葬式に、父に代わる気持ちで埼玉県大宮市まで出かけていったものだ。彼の奥さんは、父が初めて校長をした高校の優秀な数学教師だった。つまり、僕の父母が仲人をした夫婦の一組なのである。

 我が家には、あの茶箪笥の他にも、晩年の父が隠居部屋として買い集めた家具ばかりの部屋がある。縞黒檀の和机、屋久杉のタンス、紫檀の飾り棚・・・。でも僕がこの茶箪笥に引きつけられるのは、若い父母が死ぬまで持ち続けた家具だったからだろう。 
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 「春」と音楽  文科系

2025年03月25日 07時04分59秒 | 文芸作品
 今、我が家の庭は春爛漫。日に何度も立ち入っていく。最初が三本の梅。僕の背よりやや高いところに畳二畳ほどに広がった一重の白梅、ちょっと日陰にあってまだ小さい八重の薄桃、そしてもう一本は、五メートルほども空に突き出した茶筅型の枝々に八重咲きの紅梅花を数珠なりに付け始めてまさに満艦飾。庭いっぱいに広がったこれらの香りがまた、楽しい。梅が散った頃の今は、八重紅梅の根元、居間から向かって右近くには、二本の木瓜が、今まさにこの花らしく、これも深紅の満艦飾。一本は亡くなった母と連れ合いとで、稲沢の植木市まで出かけて探し回ったお気に入りの暗紅色を見せている。そして、左の深紅木瓜の左隣に、今ユキヤナギが咲き始めた。ユキヤナギの左斜め後ろの日陰には、ほぼ満開の沈丁花が見えている。
 さて、この二本の木瓜が真正面に見える居間の奥に、僕のクラシック・ギター練習場・椅子が据えてある。僕はここで去年の秋からずっと、タレガ作曲「アルハンブラ(宮殿)の思い出」の練習に明け暮れて来た。トレモロ技法を使うこの難曲には、定年後二十年を超える教室通いのなかで確か四回目ほどの挑戦なのだが、今回やっと人前で弾けるかという出来にまで、何とか仕上がってきた。先生と同門親友とのお二人の前でご披露できたのだから、なんとかそう言えるのである。4回目の挑戦でとうとうここまで来たかという、その喜びはちょっと言葉では言い表せない。クラッシックギターというこのマイナーな和音楽器の世界では、「禁じられた遊び」と並んで広く世間に知られたこの名曲は格別な存在なのだ。

「美しい」ものがあるから、なんとか人間をやってこられて、身近に迫っている死も淡々と迎えられるようになった気がしている。到底対比にはならないが、人生にとって美の意味はということで、こんなことを度々思い出すのである。ゴッホは、生前一枚も売れなかった絵を次々と生み出して極貧の中で自死した。シューベルトは、作曲と友人らとの演奏とに明け暮れて、栄養失調で死んだのではないかと聞いたことがある。病床の晩年、そのシューベルトにただ一度だけ面会したベートーベンは、「詩の自然な音楽的表現」において彼を激賞したのだった。「冬の旅」や「美しき水車小屋の乙女」など歌曲集を何度も確認し、こう評していたのである。
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孫が僕の杖になる  文科系

2025年01月24日 06時17分59秒 | 文芸作品
 近頃、僕の老いが凄く進んでいる。
「ステージ2か3の膀胱癌、全摘出しないと、そのどちらかも分からない」
 そんな憂き目にあって以来2年4ヶ月。長年励んできて、術後の長い入院生活中からきちんと復活させてきたランニングも2年弱ほど前に禁じられてしまった。走ると、ストーマ・人工の尿袋に血が混じるようになったからだ。腎臓からストーマへ尿を導く尿管に入っているカテーテルがこすれて起こる出血と言われた。
 運動・筋肉と脳との良(悪)相互作用循環関係は今や周知の科学的事実と証明されているけど、頭脳の衰えにも悩まされて意気消沈の昨今だ。いわゆる物忘れとか、文章創作などに関わる創造力、集中力の枯渇とかの形で。そんな84歳になる今、4年生の男孫に救われることが次第に多くなっている。

 ある日、注文された即席ラーメンを作って、食卓へ持って行ってやると、こんな言葉を返された。
「ちゃんと火を消した?」
 これは、最近の僕と婆とのやり取り大騒ぎの一つをよ―く聞いていたものだなーと、驚いたこと! そんな失態場面から爺婆の間でいくつか繰り広げられたその一つに出くわして、彼が目を皿にしていたにちがいないのである。なんせ、その口調までが婆に似ていたのだから。早速ガスレンジにとって返したが、消えていると告げつつ、僕は彼の目を見直したものだった。

 さて、こんな孫に救われることも多いのである。たとえば、僕が最近買った自転車のワイアー錠を彼が弄っていて、こんなふうにつぶやいていた。
「これって確か、ジイの誕生日だったよね。5月24日だから、0524っと。ほら、開いた!」
 この様子を端から見ていて、僕はもう、大喜び。自分が設定した開け方の番号を忘れてしまって、大枚3000円で買った頑丈なこれを「もう捨てるしかない」とがっかりしていたその翌日の「0524」だったのだから。彼は例によって、この番号を決めたときに僕の独り言・言動をそばで聞いていて、覚えていたにちがいない。「なんたる記憶力! なんたる幸運!」。そういう素振りが間違いなく彼には伝わったろうが、その意味まで伝わったかどうかは、分からない。僕はさりげなくまた番号を合わせて、ワイアーをほどいてみたもの。今後に家族誰かの誕生日を忘れたときなどは、こっそりと彼に聞くことにしよう。 
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随筆 ギター教室発表会、初めての成功   文科系

2024年09月02日 06時59分26秒 | 文芸作品
 この三十日にあったギター教室の発表会が、標題の結果となった。定年退職後にギター教室に通い始めて10年たった頃に初めて出たのが最初で、今年で出場12回目になるが、この12回目で初の成功体験と言える。何よりも、初めて手、指が震えなかったのである。ギターを弾いていて手指が震えたら、演奏にはならない。特に、弦をかき鳴らす右手の指が震えたら、曲の表情も何もあったものではないのである。それが一昨日は「何気なく演奏に入れて、普通に弾けた」のだ。弾き終わって、嬉しいと言うよりも何かポカーンとしていたが、終わって少しずつ次第に嬉しさがこみ上げてきた。

「バッハ作品ナンバーの998番プレリュード、一回だけ演奏がとまるつまずきがあったが、それもものともせず回復し、曲想は全体的にもう十分に付いていたはずだし・・・。僕特有の雑音も気にして練習してきたとおりに少なかったし」
 なぜ上手くいったのか、そもそも手指が震えるまで上がるというのはどういうことなのか? これらは未だになにも訳が分からないから、対策もなく出ただけで・・・、八十三歳というこの年になって初めて!

 さて、かと言って来年同じように上手くいくとは限らないのである。これから、今年の成功をよくよく分析しておく事だな。
 とにかく良かった良かった。
 
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随筆  僕は老後生活をこう迎えた    文科系

2024年08月22日 14時29分54秒 | 文芸作品
 表題のことを書いてみたい。もちろん僕の場合を振り返ってが中心になるが、「同居の晩年父母を見て」の体験、教訓から「案外長い老後生活」に対して僕の場合は四十代から準備を始めた。その際第一に考えたのが、これ。「家に居ても長くできること」、従って受動的な趣味ではなく「能動的活動」と言えるようなものを考えた。それまでの生活習慣から音楽とスポーツがすぐに浮かんだが、音楽は長く一人習いで弾いていたギターを選び退職前から一人弾き込みを始めて退職後に先生につき始めた。スポーツは、色々やってきたが「老後は有酸素運動を」とずっと考えてきたので、現役時代の五九歳から職場が加入しているスポーツジムで走り始め、若い頃から年期を積んだサイクリングにも入れ込んだ。ランニング記録は知れていて、六十歳の時の一〇キロマラソンが、四十九分台だ。ちなみにこの二つは有酸素運動として相互に好影響を与え合えるものなのだ。そして五十代にもう一つ、何か新しいものを仕入れようと考えてある文芸同人誌の仲間になった。これは現役時代の五五歳の頃である。それぞれ、良かったこと、僕の楽しみ方などを紹介してみよう。

 ランニングはどこでもできるから、旅行でもやった。海外旅行でも、ナポリ、ローマ、昆明、桂林、ソウル、トロント、シドニーなどの街を走っている。距離が長いサイクリングはもっと変化に富んだ楽しみができるもので、三河湾一周とか、電車で彦根までから鈴鹿山脈越え。西から東への峠越えだったが、帰りは関ヶ原経由の電車を使ったいわゆる輪行だ。三河湾一周は、知多半島先端から伊良湖岬まではフェリーを活用して最後は豊橋から国道一号線で帰ってきて、この一日合計実走行距離一七〇キロは、今は亡き若い親友と二人でやった五〇歳前の僕の、人生一日最長距離という良い思い出になっている。濃尾平野西端、木曽三川西隣の多度山山頂までサイクリングして、平野を一望するという「元旦、初日の出サイクリング」は、現役時代に職場の仲間と五年ほどは続いたと思う。息子と娘の大学時代に、彼らの下宿・八王子まで日をかけて乗っていき、南八ヶ岳のリゾートホテル経由で後は小淵沢から中央線経由の電車で帰ってきた輪行もあった。これは箱根芦ノ湖でも一泊したが、ここも、八ヶ岳も権利を持っているダイヤモンドリゾートのホテルを活用したものだ。

 ギターの楽しみは、和音楽器であること。旋律をいろんな和音修飾で色づけていくのが格別の楽しさから、今も続いている。教室発表会にもこの十四年ほど出ていて、今年もこの三一日にバッハの曲(BWVーバッハ作品リストー998番「プレリュード」)で出場する。外国旅行にもギターを持って行き、中国雲南省は麗江、大理の少数民族旅館中庭で日中長く一人弾きしていたのは、とても楽しい思い出になっている。九寨溝の旅館でも弾いたものだ。

 同人誌活動は、文章を書き合い読み合って心知った終生の友を得ることができたと振り返ることができる。毎月書き合うそれぞれの随筆作品などを通じて僕の人生にもいろんな知恵、影響を与えてくれた。文章は、上手く書けたと思えると凄く嬉しいが、年を取るごとに難しくなるから、頭の若さを保つのに役立っているはずだ。

 八十三歳の僕は、他人から若いと言われる。ともすると十五歳ほども若いと言われたこともある。その原因は間違いなく若い頃からの有酸素運動にある。そして、ギターという五感の楽しみと、言語・文字の活動とがあったからなどとも思っているが、老後活動の準備は、四,五〇代からやっておくと良いのだろう。準備期間が長いほどいろんな楽しみ方、知恵も身につくものだ。
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随筆  「家」を守る  文科系

2024年08月12日 13時25分14秒 | 文芸作品
 僕は築61年の家に住んでいる。名古屋市の中心部、中区に近い千種区の端にある鉄筋コンクリートの家だ。亡くなった僕の父母が無一物で「手鍋提げても・・・」と結婚してから50歳を超えて初めて建てた、思い入れいっぱいの「自分の家」だ。貧しい家の三男だった父が職場で伊勢湾台風を経験した教訓から、その直後に「丈夫な家を」と特注したものである。最近この家の母屋二階の一部を手直ししたのだが、子、孫の代までずっと住み続けて欲しいなどと思ってのことだ。僕ら夫婦がここに越して来るために建てた新家の方もすでに築34年、そこには子どもが居ない息子夫婦がもう住んでいるが、僕が住んでいる母屋の方には、やがて娘家族が来て欲しいと考えている。僕は墓などはいらぬがこの家は大事にして欲しいと考えてきたからだし、その意を受けた娘もすでにこう語ってくれている。
「両親のどちらかが亡くなったら、ここに越してくる」
 ここの百坪ばかりの土地は、僕が小学生の時手に入れたもの。四人兄弟の家族六人が近くの狭い県営住宅に住んでいて、いつかはここに家を建てようと、共働きだった父母が計画していたのだが、以来子どもの僕はこの土地を折に触れ何度見に来たことだろう。「ここに僕らの家が建つのか!」というわけだが、それ以上に何か、「僕ら家族の土地!」という気持ちもあったと鮮やかに想い出すことができる。家が建ったのが土地を買ってから10年も後、僕が大学に入って1年経った時と記憶する。まだ新家が建っていない広い庭で大きなコリー犬が飛び回っていたというのも、懐かし過ぎる思い出である。

 人は墓や家を相続する。このような土地にある家の相続は大変な税が必要だが、その準備もできているはずだ。子らに託する僕らの思いが実現する金銭などの条件もすでに揃えてあると思うのである。

 僕の書斎兼寝室の大きな机の上には、仏壇よりもはるかに大事なものが一つ飾ってある。縦110センチ、横80センチで、黒の地色の大きな写真パネルだ。僕ら夫婦の一族の歴史を示す写真が納まったものである。僕の父母の子、孫一族と、僕の一族、そして連れ合いの家族などを毎日目にしているのである。ちなみに、写真前者はこの家の2階の和室に両親の子夫婦、孫一同が集合した恒例会食会のもの。つまり正月二日の集合写真である。
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随筆  「老人」と僕   文科系

2024年08月09日 05時56分30秒 | 文芸作品
 僕自身が83歳の老人なのに、この題名はおかしいものだ。この今書けば、「老人と子ども」という題名の方が良いのかも知れない。今この題名に相応しい舞台光景がこんなものだから。
 例えば、孫とその母である娘と道を歩いていて、むこうから子どもが二人やってきたとする。僕はなぜか必ず、声をかけたくなる。
「いーグローブだねー。野球しに行くの?」
「可愛いポシェットだね」
 すると孫が、
「そんなことしちゃだめだよ。びっくりするでしょ?」。
 それどころか娘などは非難というか、こんな警告に及ぶのである。
「今そんなことすると、変質者に思われるよ」。
 ずっとこう言われ続けてきても、僕のこの癖は全く直らない。直らないどころか、確信犯よろしく、年を取るごとにますます増えて来たようだ。なぜなのだろうとたびたびよく考えてきた。その理由は、こうとしか考えられなかった。子どもと言うよりも「老人と子ども(の交流関係)」が根っから好きなのである。「老人と海」とか、主演の加藤嘉が孫に渓流釣りを教える映画「ふるさと」とかには、もうメロメロ。なんとも言いようもない親しみを覚える。それで我が人生で何度も、その淵源を探ってみることになった。それはたった一言、子どもの僕が老人に色々かわいがられたことだ。

 太平洋戦争が始まった年、41年生まれの僕は4歳で母の故郷、渥美半島・田原町三軒家という土地に疎開した。そこで一例、ある老夫婦にとても可愛がられた。「キン先生ご夫妻」と呼んでいたが、ご婦人の方が今思えばなにかお茶かお華の先生をされていた、子どもがおられない品のある老夫婦だった。夫さんの方は仕事はなかったようで、日中もいつも家に居た。この夫さんの方が、僕がその家の前を通りかかるのを見ると、必ず声をかけてくれたのである。それも、彼は庭仕事をしていることが多くて、通りかかるといつも声がかかる。すると必ず、庭仕事の植物などあれこれを教えてくれることになったと記憶する。僕があまりにその家に入り浸りになったので、両親や親類からこんな声がかかったほどだ。
「トモちゃんはもう、キン先生の家の子どもみたいだ。もらわれていくと良い」

 このことの延長が、3年生で名古屋千種区中道町の県営住宅に引っ越してきた後も続いていく。県営住宅の花畑係を務めていたある老人に声をかけられて、その助手のような役割を長く務めることになった。そのときに覚えた花の名前を今も突然思い出すことがあるから、驚くというほどに。

 これら二人のお爺さんが大好きだっただけではなく、身の回りの老人全てと僕は仲が良かった。例えば、周囲の老人ほぼ全ての肩たたき、マッサージ役を務めてきた。連れ合いと結婚するまで生きていた二人の母方祖母、双方の親たち、老人と付き合うと必ずこの役を申し出てきた。この「特技」が今は、連れ合いの役に立っている。そして、現在の僕が連れ合いよりもずっと多く孫係、当番を務めているのも、以上の生いたち、経歴の裏返しとしかどう考えても、思えないのである。なんせ孫からこんな声がかかってくるほど近い関係なのである。
「じいちゃん、今日の昼ご飯を作りに来てくれる?」
 連れ合いではなく、僕に来る注文なのである。子ども時代に付き合ってきた老人のそのまねをしている、子どもと付き合う気分のようなものまで、何か自然にそうなってしまった。人間の性格って、案外そんなものなのではないかとつくづく思えるこのごろだ。    
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随筆  「逃げ専門ドッジ」   文科系

2024年07月22日 17時00分26秒 | 文芸作品
 今月の毎日新聞投書欄などで、標記のことが話題になった。「私はドッジが嫌いです」で始まる某記者のコラム「堂々と『ドッジ』しよう」が、その出発点だったという。どういう意味、内容なのか。僕も最近孫のドッジに関わってある体験をしたから、すぐに分かったし、興味深い論議と思った。まず、僕の体験はこうだ。
 四年生になる男の孫、セイちゃんが妙なことを僕に報告してきた。「今日(小学校区の)町内対抗ドッジがあったが、僕は最後まで死なないで残ったよ!」。最近のドッジは四年生ともなると全身を使ってすごい球を投げるまで訓練を積んだ子が居る事を知っているし、ドッジのキャッチボールを頼まれてやったこともあったから、ちょっと驚いたもの。そこで母親である娘に観戦した様子を質問してみた。すると返ってきた返事に、また驚いた。
「全てのボールから上手く逃げるので、周りの大人からこんな声も聞こえてきたりして、にんまりだった。『あの背番号二八番は、いくら投げても当たらないから、狙うのは無駄、効率が悪い。』」
 ドッジが嫌いな子のその気持ちは、よく分かる。野球など特別に訓練を積んだ子の剛速球など受けられないからただ逃げるだけ。自分は相手を殺せないし、ただ死ぬために参加しているだけのスポーツなどちょっと残酷と言えて、楽しいわけなどないのである。そこでセイちゃんは、逃げに徹する作戦に彼なりの楽しさを求めていったようだ。僕がせっかくキャッチの仕方を教えてけっこう上手くもなったのに、その道ははなから放棄して。それにしても、逃げ専門でいつも最後まで生き延びるって、それなりに凄い! でも思えば、このセイちゃん、瞬発力に秀でているのである。立ち幅跳びがほぼ二メートルもあると告げて、「学年一位だよ」と威張っていたから、さぞ素早いステップで逃げるのだろう。
 さて先の毎日新聞コラムおよび投書欄論争によれば、ドッジとはdodgeであり、日本語に訳すと「身をかわす」なのだそうだ。だからこそ先の新聞コラムでは、「堂々と『ドッジ』しよう」と、これが嫌いな子などに手を差し伸べているのである。「ラグビーバックスの走り」のように、一つの立派な個人戦略の勧めというわけだ。

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三〇年越しの感謝   文科系

2024年06月21日 22時13分17秒 | 文芸作品
 あれは確か一九八〇年のこと、小学校卒業以来二七年たって初めてその学年同窓会が開かれた。コンクリートに建て替えられる築百年の懐かしい木造校舎とのお別れ会として持たれた学年同窓会が近くの神社の会館であった。居住地学区の中学に行かなか三浦三浦君には、卒業以来初めて会う同級生ばかり。少し早めに会場に着いて、来訪者を一人一人確認していた。と言っても、顔には覚えがあっても名前は出ないと言う人々がほとんど。やがてそのうちの一人の男性が三浦君と目が合うと満面笑顔で「三浦くーん、君に会うために来たんですよ」と近づいて、隣に座った。そして、こう語り継いでいく。
「浜松から来たんですが、本当に君に会うためだけに来たんです、竹田です。覚えておられますか?」
 と言っても、ほとんど覚えもない顔だったのだが、竹田延実と呼んでいたことがよみがえると、二人が関係したある事件を真っ先に思い出した。確か、彼ら属した六年六組で、六月後半の昼の放課に起こった事件である。

 間近に控えた期末テストの勉強をしていた三浦君の耳に突然ドスンッという重ぃ物が落ちる音、次いでビシッと鋭い音が飛び込んできた。〈ただ事ではない!〉、教室の後方に目をやると兼田君と竹田君とがけんか腰で向かい合っていて、状況などから経過がすぐに推察できた。兼田君が自分の椅子に座ろうとした竹田君のその椅子をすっと引いてとんでもない尻餅をつかせたのである。そして、立ち上がりざまの竹田君が兼田君の頬を平手でひっぱたいた。「なにするんだ!」と叫ぶ兼田君に、「それは、こっちの台詞だ!」と竹田君が珍しくいきり立っている。ガキ大将・兼田君の取り巻きたちが、遊び半分で周囲に集まり始めている。〈ただでは済まないな〉、三浦君はゆっくりと竹田君のそばに寄っていった。教室中の目に対しても兼田君がこのままで済ます訳がない。兼田君は、当時まだ田舎の風習が残った名古屋市郊外のこの地域の土地持ち旧家の一人息子。力もないのにこの学区内では威張っている人間なのだ。走るのは遅いし、野球も下手だし、そもそもキャッチボールの筋肉さえいかにもひ弱なのだと、彼にはもう分かっている。この兼田君の転校生いじめに三年生で転校してきて以来、彼もずっと悩まされてきたのだったし、竹田君はこの春に転校してきたばかりの生徒だった。ちなみに、竹田君が、三浦君もよくからかわれた三河弁を使うのは、渥美半島から越してきた三浦君の転校時と一緒だったから、ずっと一種の親しみがわいていた。
「ただの遊びに向きになるなって!」、取り巻きの誰かが言った。「暴力の遊びか!」竹田君が言い返した。「暴力に暴力なら、けんか? けんかなら、授業後にちゃんとやれよ!」と、また取り巻きがけしかける。「本当にやるのか?」、ドスを利かせて、兼田君。竹田君は黙っている。そこで思いついた三浦君がこう引き取る。「じゃあ、僕が竹田君に代わって、兼田君の相手をするよ」。彼の予想通り兼田君が一瞬ひるんだ。転校以来三年がたっていて、ずっと同級だった兼田君のいじめに対する三浦君の抵抗力を兼田君は十分見知って来たからだ。当時の子どもは放課時などに相撲も取ったし、宝取りなどの体力・格闘付きゲームも時に流行した。「宝取りゲームが行き過ぎて、いつもけんかになっては、つまらんだろう? 竹田君も、なんとかもう許してやれよ」、彼は竹田君の目にウインクしながら付け加えた。「それもそうかな。じゃあ、そういうことにさせてもらって、兼田君、いいね?」、で兼田君も表情を緩めて、その場は解散となった。

 竹田君の口火によって同窓会場挨拶の初めから自然なようにこの事件が蘇ったのだが、竹田君が付け加える。
「この場面だけじゃなく、あらゆる所で君が手を差し伸べてくれた。甘やかされた兼田は、自分に自信がないからいつも集団で威張る場面を探してたみたいだったしね。君も転校生で初めはその犠牲になったと当時聞いてたけど、僕にはどれだけありがたかったか」
「東京生まれで都会育ちの僕は、母の実家の渥美半島に疎開して、ずいぶんその『土地』に虐められたんだよね。そのせいで、知らぬ間に正義漢に育ってた」
「そのことは皆もよく知ってたよ。五年二学期に君が学級委員長に選ばれたと聞いた。 あれって、女の子たちが兼田男性グループを嫌ってたから。兼田グループは女性蔑視だったからね」
「よそ者嫌いの『村社会』で、長いものには巻かれろの男尊女卑、・・・、何が民主主義国家になった、か!?」
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随筆 僕の育メン・クライマックス  文科系

2024年06月02日 02時09分55秒 | 文芸作品
  娘の結婚式で俺が泣くなんて、思ってもみなかった。これまでただの一度も思ったことがないどころか、涙が出始めるその瞬間まで。あれは、よく作られた娘の演出、その狙い通りの効果の一つだったのではなかったか。それならそれで良いのだ。別に、意地で泣くまいとしてきたわけでもないのだから。

 この式は、娘の友人らによる完全な手作り。チャペル風建物での人前結婚式の司会は、娘の職場である小学校のお姉さんのような人らしいし、受付も進行係も見慣れた友人らがやっている。それどころか、こういう式に欠かせないBGMや披露宴出し物なども全て手作り、生なのである。

 まず、式場へ彼氏が入っていく時は、娘の親友のソプラノ独唱で、マスカーニのアベマリア。次に、娘が俺のエスコートで入場していく時には、友人女性トリオがアベベルムコルプスを高い天井全体に響き渡らせる。披露宴では、彼氏の弟の津軽三味線にのって和服の二人の衣替えご入場だ。その余興にも、もう一人のソプラノ独唱でヘンデルのオンブラマイフ。オーボエの生演奏もあって、これはシューマンの曲だとか。
 総じて「手作りの音楽結婚式」という趣である。横浜国立大学教育学部の音楽科出身で、音楽教師として海外青年協力隊で中米ホンジュラスへ派遣二年間なども経てきた娘らしいと、ただただ感心しながら一鑑賞者としてご満悦であった。まさかこの全てが後で俺に降りかかってくるなんて、これっぽっちも思いもせずに。
 さて、披露宴の終わりである。両親四人が立たされて、二人が謝辞のような言葉を述べ始めた。娘の番になっていきなり「お父さん!」と静かに切り出された話は、最も短くまとめるならこんな風になろう。
「お父さん、私の音楽好きの原点は貴方との保育園往復の日々。二人で自転車で歌いながら通ったよね。『ちょうちょ』とか『聖しこの夜』とか、よく歌ったね。思えば、こんな小さい時から二人で二部の合唱をしてた。私たちも音楽にあふれた家庭にしたいと思っています」
 そこで俺は急遽アドリブでこう返すことになった。とにかく、全く知らされていないハプニングだったので、応答の初めにはもう涙ぐんでいたと思う。

「まさか僕が、娘の結婚式で泣くなんて、思ってもみなかったことです。よりによってあんなセピア色の話を持ち出したから。しかもあの話は、僕の最も弱い場面。さて、君が語った自転車通いは、兄ちゃんが入学した後の二年間のこと。それまでの送迎は確かこうだった。家族四人、車で家を出て、車の中で朝食を摂り、母さんを名古屋市西に横断して、遠くの職場まで送っていく。それから、家の近くの市立保育園まで戻ってくる帰りには、三人でいつも歌ばかり。ここまでの時間は約七〇分以上もあって、それから僕の出勤。お迎えも僕で、また歌っていた。その間に母さんは夕食作り。夕食を食べると僕はまた出勤。こんな保育園送迎七年こそ僕を父親らしくしてくれたんだと思っています。『ちょうちょ』も『聖しこの夜』も今でも低音部を歌えますよ。君のピアノ教室通いの練習なんかにも家に居れば必ず付き合っていたし、君のピアノ発表会にはなんとかほとんど出席してきたし。」

 娘が作ったハプニングを我ながら上手く乗り切ったもので、それだけまた泣けてきたというところ。俺にとってのそういう話を、娘が何の予告もなく振ったのである。彼女の方はちゃんと文章にした物を準備していたから、俺がアドリブでどうこたえるかという、演出なのである。『手作り音楽結婚式のフィナーレ』にぴったりではないか。ちょっと敏感な人ならば娘のこんな解説まで分かるような形で。〈父にはこれはハプニングです。でも父はあのように応えてくれました。これが私たちの間柄なんです〉
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随筆 僕の駆けっこ・クライマックス

2024年05月23日 14時22分06秒 | 文芸作品
 小学時代の僕は、駆けっこもスポーツもだめだった。運動会の徒競走では6人中の3,4番より上がったことはないし、小学校の町内対抗野球大会では、「ライトで8番」に引っかかるかどうかの選手。6年生になって買ってもらった上等のグローブがいつも泣いていたもの。それが、中学時代から少しずつこれらが「得意」になっていったのだが、その出発点の事件を描いてみる。と言っても、この事件は、その後ずっと思い出すこともなくほぼ忘れていたもの。自信のない活動の成果は、記憶にも残りにくいのだろう。


 中学3年生の運動会で、スウェーデンリレーの選手に選ばれた。100から400mまでをプラス100m増しでそれぞれ走る4選手一組同士のリレー争いなのだが、直前に分かった僕の割り当ては最後の400メートル。僕の記憶は「最後の僕が1位との差を詰めて、2位になった」ということだけで、他は、何も覚えていなかった。それを、水谷という野球が上手なスポーツマンが、70歳ごろの二人の懐古談義で教えてくれて、こんな周辺会話が始まったものだ。

「あれは、あと50mあったら君が追い抜いていたよ。君の相手は伊吹君、百mの第一人者だったけど、もうバテバテだったからね。初めをしゃかりきに走りすぎた」
 こんなありがたい友人もいるもの、たちどころにこの周辺の経過、出来事を思い出させてもらった。
「腿を上げてストライドを大きく。ただし、脱力してゆったりと走る」
 これが、400m担当と分かって、スタート直前まで自分に言い続けた戒めだったこと。後半に追いついてゴール、その記録員の声がこう聞こえたこと。
「君のタイムは、ほぼ60秒」

 なぜ中距離が速くなったか。嬉しかったせいで、当時いろいろ考えた。バレーボール部に属していて、その練習前後の準備と整理との体操の後、必ず一人で走っていたのを思い出した。準備(体操の後の)ランは練習の調子を良くするし、整理のランはその日の疲れをとると鮮やかに体験・実感させてくれた。この二つの「毎日ラン」こそ、リレーよりも遙かに強力な当時の僕の思い出で、この自信がその後いろんな「僕のスポーツ人生」を作ってくれたもの。ちなみに、有酸素運動能力は中学時代に一番伸びるもの。子育て時期にある本で学んだ知恵である。対して、無酸素筋運動は高校時代以降長く強化できるものとも学んだ。


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随筆 僕の渓流釣り・クライマックス その2   文科系

2024年05月21日 00時07分17秒 | 文芸作品
 前回に引き続き、その2回目も描いてみたい。今度は渓流釣りといえるかどうか、木曽川中流の川鯉51センチの体験である。これを自慢すれば、この鯉を0・6号の糸でつり上げたこと。
 場所は、愛知県北西、尾張一宮市の北・川島町の大きな橋のすぐ西下、中州における出来事だ。この鯉の魚拓で確認してみると、時は1971年5月18日。

 0.6号の糸でシラハエの脈釣りをやっていたのだが、初めから多くあった魚信に、合わせてみたその瞬間に釣り糸が切られてばかり。
「水中で何事が起こっているのか!」
 昨日までの雨で濁った水の底で起こっていることが、皆目見当もつかないのである。そこで思い出したのが、釣り本にあったこんな記述。
「大きすぎる魚は、無理に寄せないこと。ただ竿をためて耐え忍び、向こうから上がってくるまで待て。魚の口が水面上に出てくるまで待って、魚が空気を吸えば弱ってくる。それを岸辺に引き寄せれば良い」
 とこの教えを思い出し、その通りにやったら、以降ちゃんと釣れたこと! 30~35センチほどのウグイがどんどん上がってきた。この日この場所は、雨後の増水で流れ出た餌が特に多いポイントだったのだろう。そこらへんの大きな魚が集まっている感じだった。ただ、この失敗と成功の体験があったからこそ、以下のことも可能になったのである。

 初めて見たこんな大きなウグイを20本も上げたころだったろうか、針にかかった魚が、濁った水の上方になかなか浮き上がってこない。その間中、僕は大きく曲がった竿を立てて構えたまま、大川の中州の縁をあちこちと上下移動するだけ。
「これは、今までの魚とは違う! 一体何者なんだ?」
 なんせ天下の木曽川、それも愛知・岐阜両県を結ぶ大きな橋のすぐ下の「竿立て・ウロウロ」。こんな姿はどうしても人目を呼ぶ。橋の上には人がずらり、見世物見物を決め込んでいる。その衆目注視の中の「うろうろ」、おおよそ20分、水面直下に黒っぽい身体の下半身だけがほんの一瞬翻ったのが見えた。
「これは鯉だ。よほど慎重にやらないと先ず上げられないだろう。シラハエつりとて、手網も持って来なかったし」  
 それからまたウロウロがどれだけ続いた時だったか、今度また糸が緩んできて、水面上に大きな口と一緒になったぎょろっとした目が浮き上がってきた。いい加減糸を引っ張り続けるのに、魚も疲れてきたのだ。その後やっと、竿を寄せることができたのだった。手網を持っていなかったので、最後は中州の砂の上にずるずると滑らせて引き上げたものだ。

 後でつくづくと思ったのが、このこと。この鯉を釣り上げるに至るまでのウグイ釣りの失敗・成功がなかったら、先ずこの鯉は上げられなかったろうな。なんせ、普通の鯉よりは細いとはいえ、51センチ。これを、0・6号の通し糸でつり上げたのである。
 ちなみにこの鯉、普通の鯉と違う川鯉だが、その日のうちに連れ合いの実家でおばあさんに味噌汁にしてもらった。確かに鯉そのものの味がしたもので、その美味しかったこと!


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随筆  僕の渓流釣・「クライマックス」  文科系

2024年05月20日 14時20分52秒 | 文芸作品
 我が人生の中で、25年ほどの渓流釣り経歴を持っている。愛知、岐阜、三重、滋賀、福井にまで足を踏み入れ、北海道、伊豆半島などの旅先でめぼしい川を見つけたときには、「竿を出してみた」ことも多い。そのクライマックス場面を描いてみよう。丹念に付けてきた釣り日記をひっく襟返してみると、1984年9月24日のことだ。その日、その場所は、岐阜県白川村の飛騨川(木曽川の大支流である)に東から流れ込む白川、その上流・東白川村のさらに東方。その日の同行者が我が一人息子K、当時12歳、その初釣行の出来事である。


 この時、Kの渓流釣り初体験を思い立ったのには、大きな背景があった。前年83年の8、9月と、僕の渓流釣り15年ほどの記録になった大物が2回も上がった場所なのだ。ヤマメの兄弟であるアマゴのいわゆる「尺物」が、初めは31センチ、2度目が32センチ300グラム。ちなみに、アマゴというのは、ヤマメとほとんど同じ体型、体色だが、アマゴには赤い斑点がある。
〈こんな面白いこと、Kにも味あわせてやろう〉
 この翌年に早速ここへと連れ出したのだ。僕ができることをほとんど教えてきたKであったが、ハエの流し脈釣りだけは一応教えてあったので、その応用として、初の渓流ヤマメ釣りであった。

 「トウちゃーん!」。
 晴れた日の午前6時過ぎ、甲高い声が大きな川音(と朝霧)の間から僕の耳に飛び込んできた。僕の下流100メートルほどの岩の上で釣っていたKに目をやると、大きく曲がって水に引きずり込まれそうになった釣り竿に全体重を乗せて堪えている小柄なその姿がすぐに目に飛び込んできた。
〈相当な大物、それも深場だ。その中心部の流れに魚が乗せられたら、0・6号の糸が持たないだろう〉
 この瞬間、乗っていた岩場から左手の浅瀬にゴム長靴のまま飛び込んでいる自分がいた。浅瀬といっても胸近くまでの深さの急流とあっては、体を半分引き倒されるような衝撃を感じたものだ。なかば水に引き倒され半分泳いでいるような形で岸辺、浅瀬に身を寄せて、後で振り返ればその浅瀬をKの岩まで飛んでいったはずだ。体を水から引き起こしてからのことは「半ば泳いでいた」以外にはほとんど覚えていなくって、記憶にある次の僕は、Kから引き渡された竿をゆっくりと寄せ上げているもの。「慎重に、慎重に」と、この時ばかりは釣り師の全体験が総動員されているのである。それで、やっと落ち着いたのは、僕が寄せた魚を、Kが指示に従って玉網に納め、それをつくづくと眺めている時。30センチの尺物と気づいた僕の気分は、自分が2度これを釣り上げたときなど比較にならぬ高揚感に躍り上がっていた。その日これ以降、何度繰り返したことか。
「すごい魚だなー、良かったな、K!」
 が、そんな感嘆の声を上げるたびにKの応答は今一つ、なんとも物足りなかったもの。まー、趣味というのは、そんなものなのだろう。渓流の趣味も、Kへの僕の過去いろんな「教え」の執着も。


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