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九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

佐野真一著 「阿片王」を読んで その2     千里眼

2006年08月31日 08時39分29秒 | Weblog
 私は中国生まれの中国育ちである。少年のころ路傍に倒れ、口から泡を吹き手足を痙攣させている中国人の中年の男女をときどき見かけた。それが阿片中毒の人の禁断症状だったのだ。小学生であった私は「阿片のせいだよ」と言われても、何のことか分からず、ただ恐ろしいものを見たという印象しか心には残ってない。
 今にして思えば、ちょうど里見甫が阿片取引の頂点に立った時期にかさなるようだ。統計資料は何もないが、日本占領下の中国で阿片中毒患者が急増したであろうことは想像できる。後述するが、中国産の阿片に加えてペルシャから35トンというとてつもない量の阿片が、里見のもとに運び込まれ、その阿片は中国全土へばらまかれたのだ。絶大な力を持つ闇の組織、青幇・赤幇を通じて蒋介石政府の支配地にまでばらまかれた。中国全土での阿片中毒患者が急増するのは当然と思われる。
 では、中国での阿片常習者はどのように吸引していたのか。阿片をキセルにつめ火を付けて吸引するのだが、自宅などでひっそりと一人で吸ったのではない(金持は自宅や友人宅ですったが)。普通は裏(闇)組織が各地で阿片窟を経営していて、そこの板ベッドに横になり阿片を吸っていた。その裏組織を無視して陸軍の特務機関は情報提供や秘密工作の手伝いの代償として阿片を与えたのであった。
 満州で阿片工作にたずさわったある特務機関員の告白をそのまま引用する。「私はアヘンを取り締まる一方で野放しにし、さらにスパイ工作に使う現場にいて、これは支那民族の滅亡策だと思った。アヘンは性的興奮も一時つよめる。苦しい者は生のあかしだと思って、飲んで性行為に溺れる。それで衰弱する。子どもは生まれなくなる。生まれても育ちにくい。それを承知でアヘンを使ったのは、相手を人間とみなかったからです」と。
 中国の主要な阿片生産地帯は雲南、綏遠、熱河で、特に熱河は最も良質な阿片が生産されていた。その熱河の阿片が軍閥張学良(彼自身阿片の常習者であった)の最大の経済基盤になっていた。関東軍は熱河へ侵攻し占領したが、この作戦の際、参謀長小磯国昭は「ケシは熱河省唯一の財源なので特に留意して耕作地を荒らさぬよう十分の配慮を望む」と特別訓示をおこなっている。それで 熱河侵攻は阿片獲得のための作戦だったという見方をする者がいる。
 海南島を日本軍が占領すると、ケシの栽培が奨励され阿片の生産地域に変貌していく。
 さらに陸軍各方面軍はそれぞれ特務機関をかかえ、その謀略活動の手段として阿片が使われるのが常であった。こうした乱脈な阿片との関わりを整理する必要に、陸軍は迫られていた。里見甫出現の必然性はここにあったのである。






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「合祀は松平元宮司が主導!」    文科系

2006年08月31日 02時52分36秒 | Weblog
「(靖国神社の)最高意思決定機関である崇敬者総代会の内情をリアルに報じたのは、恐らくこれが初めてだろう。湯沢貞・前宮司が『まるでその場にいたかのようだ』と驚いたと聞いて、新聞冥利に尽きる。
A級戦犯合祀のこれまで表に出たことのない新事実もいくつか突き止めた。一つを再録したい。合祀を決行した松平永芳・元宮司は、7年後の85年1月18日夜、東京・神田錦町の学士会館で、こう語っていた。
『生涯で意義あることをしたと私が自負できるのは、A級戦犯合祀である。現行憲法の否定はわれわれの願うところだが、その前に極東軍事裁判の根元をたたいてしまおうという意図のもとに、A級戦犯14柱を新たに祭神とした』
気心知れた同志30人足らずの席で本音が出たのだろう、重大な告白だ。国の祭神名票に従い『淡々と祭祀事務を行った』と説明していたのに、実は個人の歴史観を世に宣伝するために合祀したというのだから。  (中略)
天皇発言のメモ報道を政治利用と言うのなら、靖国自身の行状はどうだろうか。
外にいくら強がっても、靖国が戦後、内に抱えてきた矛盾は隠しようもない。自ら変わらない限り、早晩もたないだろう。(後略)」

靖国関係者は、首相ではなく天皇の参拝を熱望しているらしい。しかし、こんな事実を改めて前にしては天皇参拝などなおさら到底無理になったはずであるし、第一元々、こんな一宗教団体施設に国の象徴・天皇が行けるわけがないのだ。そんなことをしたら「国民統合の象徴」の「統合」に、さらに大きな傷が持ち込まれるということになろう。既にA級戦犯家族の間でさえ「統合」が崩れている始末である。また折しも、靖国遊就館でも対米関係から今の陳列内容が批判され、年内変更必至と伝えられた。「自ら変わらない限り、早晩もたないだろう」が続出しているわけである。
松平元宮司が靖国に持ち込んだ個人の、しかも日本の一部だけに通用している歴史観を国民、世界に押しつける行為自体が、論理として今後も永久に無理を重ねていくことにしかならないのではないか。
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9月2日はなんの日?  落石

2006年08月30日 11時29分04秒 | Weblog
クイズです。
9月1日は関東大震災の日。
では、それに勝るとも劣らない重要な日、
9月2日は何の日でしょうか?
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佐野真一著 「阿片王」を読んで その1     千里眼

2006年08月30日 11時10分41秒 | Weblog
 帯には次のように書かれている。「軍も麻薬も女も手玉に取った男」、「幻の帝国を闇で支配した怪傑・里見甫の破天荒な生涯」。これは新潮社の編集部で付けたのであろうが、“売らんかな”という魂胆のキャッチ・コピーで書きすぎである。本裏側の帯にはこう書かれている。「今まで誰も解明できなかった王道楽土の最深部を抉り出した、著者の最高傑作」と書かれているが、これはある納得できるキャッチ・コピーである。
 あとがきに、「取材は時間との闘いの連続だった。夥しい物故者のなかから数少ない生存者を見つけだし、貴重な証言を引き出す仕事は、古い墓地のなかをさまよう行為にも似ていた。取材しようと思って連絡すると、つい最近幽明界を異にしたと知らされることも再三だった。取材中に惜しくも鬼籍に入られた方もいる」、「取材した人びとは、恐らく百人ではきかない」と書いている。一人の対象者を見つけ出すのに何人もの人に会い、その住まいを見つけ出す苦労、しかも自分の胸のうちに閉まって置きたい内容を聞き出さなくてはならない。その苦労は想像に絶する。しかも日本全国にまたがっているのである。10年の年月をかけたというのも頷ける。著者の情熱・意欲に敬意を払うしだいである。
 ただ、この著作で中国における麻薬取引の全貌をつかみたいと期待すると、失望することになる。著者は怪物・里見甫の人物像を明らかにすることに重点を置いているからである。その作業を通して満州国の暗部を掴み取ろうと意図しているのだが、その後者の意図は果たされていない。当然のことながら阿片関連の直接資料は日本国内では存在せず中国領土内にあったのだが、その関連資料は日本の敗戦とともに殆ど焼却されて残っていない。
したがって生き証人による証言に頼らざるをえない。その役割の一端をこの著作は果たしているのである。  
 手探りで取材を続けていた著者が「故里見甫先生遺児 奨学寄金寄付のお願い」というパンフを入手する。里見は児玉誉士夫と違い敗戦後財産を何一つ持たずに日本へ戻っていたので、遺児には財産(家も借家住まい)を何も残していない。その遺児のための募金である。
 発起人には岸信介、佐藤栄作、児玉誉士夫、甘粕四郎(甘粕正彦の実弟)、松本重治、笹川良一、鈴木貞一、清水行之助・許斐氏利ら(右翼の大物)、岩永勇吉(同盟通信社を設立、現電通の基礎を築いた)など176名が名を連ねている。満州で、様々な分野で活躍していた中心メンバーが軍関係を除いて、すべてここに集っているのである。まさにオールスターキャストである。すごいメンバーである。対象が里見だからこそ可能であったと私は思う。
 著者はこの名簿を頼りに生存者を見つけだしては一人一人探し出し、里見について聞き出していくという、とてつもなく苦労のみ多い訪問を続けたのだ。
 阿片取引にかかわったと自称して、戦後いろんなパンフ類が出ているが、その多くは針小棒大に書かれている場合が多い。真に深くかかわった人は口を閉ざして語らないはずだ。                          次に続く




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「遊就館」展示変更は年内に!?  へそ曲がり

2006年08月30日 07時21分31秒 | Weblog
 1日から1週間ほど家を留守にするため、早めに投稿します。出過ぎで申し訳ありません。

「遊就館」問題で、「文化系」さんから“手持ち新聞に何か載ったりしたら、すぐに報告し合いましょう”との呼び掛けがありました。これが第1号になるでしょうか。
 29日付の「朝日」朝刊の第1面と第4面に「安倍晋三研究 ― 新政権の行方」という記事があります。この中から「遊就館問題」関係したことを抜き出して見ました。

第1面より  見出し : 現実路線へ脱タカ派色へ
 今年5月の大型連休すぎ。首相官邸の官房長官室にいた安倍晋三官房長官のところへブレーンのひとりが現れ、1通の文書を手渡した。
「靖国神社の遊就館の展示には問題がある。神社本体から分離すべきだ」
 文書にはそうあった。関係者によると、このころから安倍氏は遊就館について「何ヶ所かおかしいところがある」と漏らすようになったという。
「遊就館」を貫く歴史観は、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼び、「自衛のための戦争」と正当化するものだ。極東軍事裁判を根底から覆しかねないその考えには、中国や韓国だけでなく米政府関係者からも疑問の声があがる。安倍氏は「自虐史観」を批判し、95年には「植民地支配や侵略的行為]に「深い遺憾の念を表明する」とした戦後50年決議の採決を欠席したが、その安倍氏にしても「日米同盟」にダメージとなるリスクはとれない。
 安倍氏の外交ブレーンである岡崎久彦・元註タイ大使も24日付の産経新聞のコラム「正論」で遊就館り展示について「反米主義の一部が反映されている」と指摘。「この展示を続けるならば、私は靖国をかばえなくなる」と強く迫った。関係者によると、靖国神社側も、遊就館の展示のうち「誤解を招く表現」の見直しを検討、年内に変更する方針だという。
「靖国」は、歴代首相にとって、その国家観や歴史認識を問う試金石であり続けてきた。安倍氏とその周辺に浮上した遊就館「見直し論」は、幅広い保守勢力の取り込みのための現実路線へのシフトであると同時に、自らの歴史観と日米同盟の間で接点を探ろうとする狙いがあるのだろう。
 6月末、首相官邸近くのホテル。安倍氏を数人のブレーンが囲んだ。「安倍政権」の戦略を練る定例会合。メンバーには親米保守の中西輝政・京大教授や、「新しい歴史教科書をつくる会 」の会長を務めた八木秀次・高崎経済大教授、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」副会長の西岡力氏らが名を連ねる。
 関係者によると、安倍氏はこう漏らしたという。
「タカ派と思われているけど、そうじゃない。単純なネオコン(新保守主義者)じゃないことを示したい。

 タカ派の自画像を書き直そうとする安倍氏。政権の座が近づくなか、その国家観や外交・経済政策の考え方を探る。


第4面より  見出し 1 : 保守再構築 ジレンマ
       見出し 2 : 「経済」から「国家」へ 歴史認識か現実路線か
 遊就館の展示見直しについても、安倍氏は28日の記者会見で、「遊就館、靖国神社側が判断することだと思う。政府としてコメントすべきことではない」と語るにとどめた。「贖罪意識」に根ざした「あいまいさ」を排そうとする安倍氏だが、こと靖国問題については、あいまいさを保たざるを得ない。

 この他、憲法・教育基本法など、多岐に渡って述べられていますが、初めに言ったように、ここでは「遊就館問題」に絞って紹介しました。 
  
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3.ネオコンの理論と政策の形成過程 その1   千里眼

2006年08月29日 19時09分47秒 | Weblog
1.1992年「防衛計画要綱」
 ネオコンの最強の論客であるウォルフォッツ(現世界銀行理事長)は、パパブッシュ政権のときネオコンとして始めて政府高官に登用され、国防次官補に任命された。このとき、数名のネオコン人脈の人材が国防省入りを果たしている。この間にネオコンは軍需産業との結びつきを強めたと言われている。
 湾岸戦争でフセイン政権を追い詰めなかった大統領の姿勢に不満を持ったウォルフォッツはこの提言をまとめ大統領に提出するが、大統領に無視される。
 さすがに前稿に触れたシュトラウスの門下生である。彼の政治哲学を見事に昇華させ、先制攻撃戦略を世に始めて送り出すことになった。この提言の真髄を示す一節を次に引用する。
「ドイツや日本を含め、潜在的なライバルが地域的、世界的な影響力をひろげようとすることを阻止しなくてはならない。米国に直接関わりのない紛争でも、米国は核兵器などを先制的にもちいるべきである。米国の一極的な新秩序を打ちたて、それを防衛せよ」と、先制攻撃論を提唱したのである。アメリカを頂点とするアメリカ的な民主主義・自由主義の世界を、そういう新秩序を世界に打ち立てること、そのためには先制攻撃も辞さないという提言である。
 この見解が軍需産業界から歓迎されたのは当然のことである。国防族に取り立てられたネオコン人材が軍需企業に迎え入れられ重役におさまっていくきっかけとなった。

2.1995年「完全な断絶 イスラエルの領土保全のための新戦略」
 イスラエルのラビン首相が凶弾に倒れネフタニヤフ氏が首相に就任する直前に、ネオコンのシンクタンク「先端政治戦略研究所」が新首相になる彼へ提言を呈したのが、この表題の非公開文書である。これが後にイラク戦争とそれに続く中東の混乱をかもし出す源になることになろうとは。
 これはイスラエルの取るべき政策を建策する内容であるが、ネオコンの論客がアメリカ国籍を有しながらイスラエルを心情的祖国としていることをはしなくも露呈している。
 その内容を箇条書き風に整理する。
  ① パレスチナ解放機構が治安維持の約束を果たしていない以上、イスラエル   はオスロ合意を守る必要はない。
  ② われわれの土地への望みは高貴であり、‥‥アラブがわれわれの権利、特   に領土にかかわる要求を完全に受け入れる『平和のための平和』こそ、イス   ラエルの未来の強固な土台となるのだ。
  ③ そのために、イラクでサダム・フセインに代わる親イスラエル政権を樹立   せよ。そのためにヨルダンのハーシム王家にイラクの統治権を与える。
  ④ イラク掌握後、ヨルダン川西岸のパレスチナ人をヨルダンに追放し、現在   のヨルダンにパレスチナ国家を作らせる。イラクのシーア派を懐柔して、レ   バノン・シリアのシーア派勢力を穏健化する。
 「完全な断絶」というタイトルは和平という「幻想」を完全に絶ち切れという意味である。オスロ合意を受けて、人々のなかに中東の和平に対する希望がとにもかくにも生まれているなかでの提言である。
 この提言は、イラクのフセイン政権を倒し、親米・親イスラエル政権を作るのを皮切りにアラブ諸国を彼らの言う「民主化」・「自由化」するという中東全体の改変政策である。形を変えた「ドミノ理論」である。ここで強調したいのは、この段階でネオコンがはっきりとイラク戦争を意識していたということである。
 この提言に名を連ねたのは、リチャード・パール、グラス・ファイス、デービッド・ウァムザー、ジェームス・ユルバートンであり、彼らは後にすべて現ブッシュ政権の中枢に登用されることになる。

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「虎頭要塞」の終戦の事実  へそ曲がり

2006年08月29日 15時54分02秒 | Weblog
「右往左往」さんへ
 14日付の私の投稿「虎頭要塞の終戦」にさっそく「コメント」を頂いたのに、今日まで返事しなかったことをまずお詫びします。
 あそこにも書きましたように、あれは「保守系」さんへの宿題として出した質問です。ほぼ半月過ぎた今日に至るまで答えはありません。
 忙しくて出来なかったり、見忘れたりしたのではないでしょう。他のところへはいっぱい「コメント」を出したり、投稿したりしているのですから。
 そこで、このことについては「今日」で打ち切ることにします。

 ところで、頂いた「コメント」はその日のうちに読みました。すぐの調査、有難う御座いました。少し補足したいと思います。

私の出した問題は下のようになっています。

1 虎頭要塞はどこにあって、いつ作られたのか?
2 作られた目的は何だったか?
3 ここでの終戦日はいつだったか?
4 なぜ、「3」のようなことになったのか?そのわけは?

一方、「右往左往」さんの調査結果は次のようになっています。

① 場所・・ウスリー河南岸 北緯46 東経134
② 対ソ防御要塞
③ 1945年8月26日
④ 僅かな脱出者の西山氏の日記によれば、「玉音放送を聴いたが誰も信じなかった。」と書いています。
 付け加えれば、特に建設の過程で中国・韓国の人々が任務完了のあと薬殺されるなどの蛮行も多く見られたと西山氏は証言している。

補足です。
「1」 「対ソ防御要塞」であったかどうかについては異なった説もあるようです。というのは、あの辺りには他に「東寧」・「勲山」などの要塞もあり、一大要塞群として存在していました。「東洋一」と豪語していたそうです。国境沿いの南北約百十キロ、東西約五十キロの範囲です。「虎頭」もその中の1つです。「対ソ戦」を意識して1934年から4年かけて作られたと言われています。
  あそこに据付けられた大砲は、口径が41センチの巨大榴弾砲です。もともとは戦艦「土佐」や巡洋戦艦「赤城」(後の空母)に据付ける予定であったのが、「ワシントン条約」で制限を加えられたため、転用したと言われています。超長距離の射程距離(一説では50キロ)を持っています。シベリア鉄道迂回線イマン鉄橋を射程におさめていたもので、鉄道を遮断することが目的であったそうです。実際、戦闘でこの鉄橋を破壊しています。
  「日ソ中立条約」の締結が1941年4月、ここに口径41センチの大砲が設置されたのが同じ年の年末から翌年の3~5月ということです。
  「改憲論者」がよく言います。“「日ソ中立条約」はソ連が破った!”、と。要塞の規模、目的、巨大大砲が持ち込まれた時期などなどを合わせると、どんなことが考えられるでしょうか。「関東軍特別大演習」の目的と合わせて考えると、違った答えの出る可能性があります。
「2」 なぜ8月15日に終わらなかったか?「玉音放送を聴いたが誰も信じなかった」というのはその通りですね。では「関東軍司令部」から連絡はなかったのか?ある筈がありません。自分達が家族を連れて真っ先に列車で逃げ出したのですから。その上、後続の避難民が乗った列車を“足手纏い”として爆破することまでやっているのですから・・・。
  「降伏の使者」はあったのです。ソ連軍の捕虜となった日本人が、使者として「戦争が終わったこと」を知らせに来ているのです。この人を切り殺しているのです。
  ここには、最高時8千から1万人の守備兵がいたのですが、殆どが「南方戦線」に引き抜かれ、当時は1,500人の日本兵と、避難して来た民間人500人がいました。その中で生き残ったのは、兵士50人ほどと民間人100人足らずだったということです。
「3」 生き残った兵士として「西山」氏のほかに「岡崎哲夫」氏・「後藤 守」氏がいます。彼らも詳細に証言しています。なお、建設後、殺害された工事関係者はおよそ4千人と言われています。もっと多いという説もあります。
「4」 2000年、ここの入り口に「遺跡博物館」が造られ、私たちも見学出来るそうです。
 
 これが、「改憲論者」が絶対に語ろうとしない「歴史の事実」なのです。「軍隊は国民を守ってくれる?」という実際の姿なのです。これが言いたかったのです。

 いろいろ有難う御座いました。
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「保守系さんって、結局 ?」 文科系

2006年08月28日 20時04分34秒 | Weblog
2 彼の体系はこんな風です。これは僕と彼とのヤリアイの初めの頃にもう分かっていて、確認もし、証明済みのことです。
①国と国との関係を、社会ダーウィニズム的に見る。適者生存、弱肉強食の戦争はなくならないどころか、「減ってもいず、もっともっと増えるだろう」と述べてきた。
②「こんな世の中で自分と家族を守りたいと思う者は、9条改訂、武装、必要なら核武装も賛成すべきだ」と語ってきた。
③こういう国政問題の建て方は切迫性が極めて強いはずで、上記対策を、国政の何よりも優先するということになっていく。因みに、彼はこれ以外の問題はほとんど何も語りませんね。いくら質問しても無視です。
どだい「日本の歴史」と、他の国に対しては欠点、悪口、侮蔑以外には関心もなさそうだ(アメリカの軍事力とイギリス文化とはちょっと例外か。これらすらも彼らしい)。「世界的な真理?」と僕から鎌をかけてはみましたが、これにいつも返事がないのは、見事に鼻であしらう始末ということなんでしょう。
僕の恩師もよく述懐してました。イエス・キリスト裁判にあたったローマ総督、ピラトの言葉を。「真理とはなんぞや!?」という奴です。こともあろうに、西田幾多郎の直弟子、真理を相手にする哲学者である恩師が、憲兵隊将校の取り調べにおいて、こう怒鳴りあげられた。即座に、ピラトの言葉はこれだったのか!と目から鱗と、ね。「真理もへったくれもあるもんか!」

3 こういう理論体系は、日本が(潜在的)戦争状態にあると述べるも同様のものであって、これを妨げる者をば同等の人間ではなく、敵かスパイにしか見ないということにもなっていく。こうして、「最初は共産主義者、次が自由主義者、さらには宗教的平和主義者を」って、「いつか来た道」ね。怖い怖い!
僕が語った「日本嫌い」は彼には共産主義者並みと、僕にもつくづく分かった昨今でした。これには彼、凄く興奮する。「日本的地縁血縁も大嫌い!」と僕が挑発したら、もう「日本的」を省いちゃって、「地縁血縁(一般)嫌い」と決め込んで見せて、語るは語るは。ご存知のようなこんなもんでしたね。
「勿論、私は貴方のような、コスモポリタンではないし、地縁・血縁まで否定する者でもありませんから、ある意味では、全く議論が噛み合いませんでしょう。もっときつく言うと、貴方は、やはり日本人ではないのでしょうから、日本の将来とか現状すら語る資格がないのです。九条がどうあろうとどうでもいのでしょう?たかが日本の憲法などどうでもいいのではないでしょうか。と思います。」
「貴方、散々国税のお世話になって、この日本が嫌いとか・・。いい加減にされたら如何ですか。そんなにこの日本がお嫌いなら、日本国は、貴方のこの国からの脱出を拒否はしていません。貴方のお好きなフランスでも行かれたら如何ですか。」
こう言われるほど僕の方は、こんな鉢巻きを締め直す。「世界(人類)好きだからこそ、そういう僕を人扱いするような日本国作りは、全く僕の死活課題」と。彼はそれも承知で本音を吐いている。脅迫に近いのかな。僕は謝罪はしましたが、彼のことを以前「もうバカ!」と書いたのですしね。

4 この4番の項は完全に推定ですが。僕らが「人」扱いされたのに比べれば、まだまだ随分と軽い推定ですから、遠慮なくこれも投稿できるというもの。
このサイトで以上のような対敵対策、スパイ対策の予行練習、訓練が実践されているとは、考えられないでしょうか。初めからではなく、次第にそう自覚され始めたそれも含んでですね。百歩譲っても、客観的にはそうなる。「人」扱いまでの間には当然、説得の練習、訓練期間もあるわけですから。
彼の「某大企業全国組合幹部有志学習会」だか「塾」だかもこういう思想を教える所のはずで、これは思想と言うにはあまりに世界の片隅の「一地方的」なものなのに、あまりに能動的であって、もう行動派集団と言うべきでしょう。そこの予行演習。彼が得た知恵は全国にばらまかれている。もう大変なことです。
でも、これが現実。避けることはできません。僕らも勉強になるのですし。どこまでもこのブログに乗って行こうじゃないですか!貴方は得意な事実、史実を突きつけ続けてください。僕は論理、思考タイプの必然から概括していきましょう。これも彼の盲点ですから。現在の論理から強引に歴史を見るというやつね。


さて読者諸氏よ。ここまでの原稿を書き終わって、関係者に打診メールとして出し終わった後に、本日の毎日新聞朝刊を読んで喫驚。ほぼ1面ぶち抜きで、「許すな!言論テロ」という特集ですよ!8月15日の加藤紘一宅全焼、7月21日の日経新聞への火炎瓶投下事件など、この2年、7事件の説明と、関係者、識者の声などとが報道、解説されてあるではないですか。火炎瓶事件は言うまでもなく、ここでも問題になった「天皇、A級戦犯合祀に不快感」記事関連を臭わせてありました。
そしたらまたまたおまけに。夕の外食に蕎麦屋に入ったら週刊現代9月9日付け最新号に、こうあるではありませんか!「連続する『言論封殺テロ』を徹底追究しないメディアの大罪」と。田原総一朗が言ってました。「朝まで生テレビの靖国参拝討論で、反対派に出演辞退続出で大変困ってます」と。
これらを読んで僕、またまた改めて鉢巻きを締め直しましたよ。だって僕は「命をかけるべき『国体』を、反対に乱す奴」なんですから。保守系さんは、へそ曲がりさんへの投稿で戦前共産党についてそういう告発を入れてました。「『国体』も治安維持法も法だった。国家破壊罪だ」と。それにしても現代日本での本音としてこれを「語り直して来る」とは!全く捨て置けません!
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戦後日本へのアメリカの罪? へそ曲がり

2006年08月27日 22時42分53秒 | Weblog
興味深い新聞記事です。

        見出し 1 : 靖国神社が削除合意
        見出し 2 : 遊就館展示の米国批判部分
        見出し 3 : 英紙報道

【ロンドン=岡崎衆史】
 英フィナンシャル・タイムズ紙25日付は、靖国神社当局者が同神社の軍事博物館、遊就館展示の対米開戦に至る経緯で米国を批判した部分の削除に合意し、さらに展示内容の変更を協議していると報じました。外国からの圧力が背景にあるとしています。
 記事は英国版では、「米国批判の戦争展示を削除」と題して国際面に掲載され、靖国神社が遊就館展示の変更について自衛隊顧問の保守的歴史学者と会合を予定していると報道しました。
 同紙は、削除されるのは、「日本を故意に第二次大戦に追い込んだと米国を批判した展示」だと紹介しました。ただし、「中国や東南アジアへの日本による侵略についてのより議論が多い展示については変更されそうにない」と指摘しています。
 報道は、遊就館の今回の展示変更の動きについて、「外国からの圧力に敏感であることを示している」と分析しました。
 報道は、遊就館は「2002年に改装されたときに、多くの人々が日本の歴史の書き換えだと考える史観を反映したものになった」とし、「有罪判決を受けた戦争犯罪者を含む戦死者を祭った靖国神社に隣接している」と述べています。

 これまで、“「大東亜戦争」を引き起こした責任はアメリカにある”と叫んで来た「遊就館」が今後どんな展示をするか、また、それが「改憲論者」の主張にどんな影響を与えるか、関心を寄せるところです。

 これも、「戦後日本へのアメリカの罪」に入るのでしょうか?
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調査の怪! 3  へそ曲がり

2006年08月27日 17時00分37秒 | Weblog
 公開審査の当日になりました。呼ばれるまで「控え室」でたった1人、いい気分ではありません。

 やがて、係りが呼びに来ました。緊張感が高まります。いったい相手はどんな戦法で出て来るのか、不安もあります。なにしろ「守る会」側の第1号証人です。

 入り口の扉が開けられ、中に入りました。左側に傍聴席が見えます。傍聴席の前の方には事業所の上層部や各現場の所属長がずらりと並んでいます。その真ん中に労働組合の本部役員が何人か座っています。“何ということか?”が第一印象です。支援する側の人たちはずっと後ろの方です。

 正面の証言席に着き、形どおりの「宣誓書」の読み上げが終わった後、尋問が始まりました。

 初めは「守る会」側の代理人や弁護士からの質問です。不安は全くありません。前もって打ち合わせがしてあるのですが、「事実」をありのまま証言出来るよう、質問もそのように配慮されているからです。こうして、兄の結婚式への参加や私の結婚式・新婚旅行などが全て「病欠」扱いにされたことなどを証言することが出来ました。申請したにもかかわらず「拒否」されたことも証言しました。当時の「出勤簿」も証拠品として出されています。“中を改めさせて欲しい”と要請しました。そのままになっていたので問題ありません。

 続いて、「事業所」側の弁護士からの反対尋問が始まりました。いわゆる「敵性尋問」と言われているものです。1人の主任弁護士と2人の事業所側の代表です。みんなにこにこ笑っています。自信があるような気配です。

 主任弁護士が立ち上がって私に言いました。
 “でもねえ、〇〇さん、べつに「年休」を取らなくても、「病欠」でも良かったんじゃあありませんか?実害がなかったのでしょう”、と。
 すかさず答えました。“おかしいのではありませんか?いったい「年休」にするのか、それとも「病欠」にするのか、それを決める「権限」は誰にあると考えてみえるのですか?”、と。
 その瞬間、3人の顔色が変わりました。まさか、こんな反論を受けるとは思いもよらなかったというような・・・。主任弁護士はあっけにとられたような顔付きで立ち尽くしたままでした。
 委員長が残った2人に尋ねました。“後はありませんか?”、と。2人とも座ったまま“ありません”と言いました。たったこれだけの「尋問」でした。
 証言の終わりが告げられ、席を立った瞬間、傍聴席の後ろの方から大きな拍手が沸き上がったことを、まだ昨日のように覚えています。

 その後、何回かの審査がありましたが、出てくる証人の「事実」には敵う筈がありません。誰の目から見ても「事業所」側の敗北が明らかになったところへ「労働組合本部」が「仲介」と称して入って来ました。「守る会」の中では意見が分かれましたが、ここは「組合」の顔も立てようということになり、「和解」が成立しました。「処分撤回」、「現状復帰」という結果になりました。

 長くなりましたが、これが私の体験です。ここからの教訓は、「世論調査」と称するものは、その全てが真実を告げているとは限らないということです。「謀略」もあるということです。出て来た数字についても、それを鵜呑みにするのでなく、質問内容や数字の背景などについて「分析」・「検証」した上で初めて結論がが出される、ということです。
 次回はそのことについて述べたいと思います。

 なお、「特別休暇」についても面白い話があります。

 当時は「年次有給休暇」の制度も認めていないのですから、「特別休暇」もあるはずがありません。
「守る会」に参加していた1人の青年が、自分の結婚に当たって、「特別休暇」を認めるよう、公開審査を請求しました。労働組合からの支援は全くありません。この訴えも「却下」されました。理由は“結婚式や新婚旅行はすでに終わっているから”、とのことです。
 しかし、それでは具合が悪いのでしょう。しばらくして、この制度が認定されました。
 
 その直後です。本人のところへ「労働組合本部青年部」の責任者が訪れました。“この問題を青年部運動の成果として取り上げるよう認めて欲しい”とのことだったそうです。もちろん、本人は拒否しました。これ,本人から直接聞いた話です。
 しかし、その後の組合機関紙には、“青年部『本部』の努力により「結婚休暇」を獲得した!!”との記事が掲載されました。この目で見ています。
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戦後日本へのアメリカの罪は幾つあげられますか(保守系)

2006年08月27日 04時34分55秒 | Weblog
戦後のアメリカの日本への罪は、いずれ語りますが、しかしざっと考えると、日本自身もまたこの1990年代からの時代への反省をしなければなりません。
この20年近いこの日本を第二の敗戦という人もいます。
私もそうらしいという感じを持っています。
本格的に日本社会の解体が始まっているような気がします。まさかアメリカ社会のようにはなりませんが、官僚・民間の倫理感が次第に薄くなってきたように思います。かって官僚は国家のあるべき姿を思案しながら、政治家と議論を積み重ねてきたように思います。いわば選良の意識です。国家に殉じてもいいという気構えです。この日本という世界遺産のような美しい(精神の領域でも)日本をどう保存して、いつか世界の安定に羽ばたくのかという心意気ともいうべきものでしょうか。
安倍総理候補が、情報関係を強化したいと言っているようです。
日本版CIAでしょう。外交は情報の量が大切です。
アフリカでも日本よりシナの方が大使館な設置などが、多いと新聞で読みました。
シナはさすがです。
まあこれはともかくとして、あのシナに負けないような、情報網を持ちながら、アメリカ頼りではない、せめてシナには負けないミサイルを開発することも視野に入れることではないでしょうか。
とにかくアメリカの属国ではないのかと、思われている限りは、国際関係の中での名誉ある地位は築ける筈がありません。
占領軍アメリカの置き土産を残した日本への罪を、一度考えませんか。
勿論、日本が何故受け入れてしまったのかも、検証しないといけないでしょうが・・。
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調査の怪! 2  へそ曲がり

2006年08月26日 00時28分35秒 | Weblog
 さて、私が「証言台」に立つことが決定され、手続きも終了した後、何日かたったある日のことです。
 日曜日で自宅にいた私に電話が掛かって来ました。「〇〇通信社」とのことでした。“今日、世論調査のために伺いたい”とのことです。
 よく知られた通信社ですが、一方ではスパイ活動に協力しているとの風評も立てられていました。“何の調査かな?どうして私なんだろう?”とは思ったものの、一応受けることにしました。
 待つうちに調査員がやってきました。中年の女性でした。調査員であることの証明も出されました。後から思い出すと多分アルバイトだったのでしょう。自分の出す質問がどういう意味かわからないままに、言われたことを果たす程度の感覚だったと思います。

 初めのうちは当たり障りのない時事問題についてでしたが、途中から質問内容ががらりと変わったのです。出される質問が全て「年次有給休暇」についてなのです。四つほど答えて行くうちに疑問が湧きました。“なんでこんなことばかり尋ねるのだろう?来たな!”というのがそのときの直感です。
 《これはきっと、私が「年次有給休暇」についてどの程度知っているのかを探りに来たに違いない。この結果は必ず事業所側に報告されるだろう》と思ったのです。

 こうなったら、質問にひとつひとつ答えていくのが楽しくなります。出された質問の全てにわざわざトンチンカンな答をしました。私が何も知識がないと、相手が思うようにです。質問は最後まで「年次有給休暇」についてでした。
 こうして、数十にわたっての調査が終わりました。この後何が起こったか?続きはこの次にします。

 なんだか紙芝居のようで済みません。まだ、本論に入れないことを申し訳なく思っています。
 3回目は、この結末について述べるつもりです。本論に入るのは4回目になるかと思います。お許し下さい。

 
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ならずもの国家アメリカ ネオコンの成立    千里眼

2006年08月25日 17時47分43秒 | Weblog
 ネオコンの揺籠は言論界であった。ベトナム戦争でアメリカが揺れ動くなか、アーヴィング・クリストルらニューヨーク在住のユダヤ系知識人・ジャーナリストがリベラル知識人や反戦を唱えるヒッピーの動きに対抗して、「反ソ」・「道徳」を声高く訴えた。
 さらに60年代全米に広がった反戦運動・黒人運動の高まりが中東のパレスチナ解放闘争との連帯感情を強めイスラエルに対し批判的になるなか、彼らの心情的祖国イスラエルへの批判的傾向に強い危機感を抱いた彼らは、キッシンジャーらの交渉重視派と対照的に力による対ソ戦略を描いていた。
 ネオコンの始祖アーヴィング・クリストルは「ナショナル・インタレスト」を発刊し、右派の論客を意識的に育てていった。シカゴ大学の政治哲学者シュトラウスはナチスの迫害から逃れアメリカに亡命したユダヤ人であった。「政治学は過去を解釈するのでなく、現実に惨劇が起こる前にそれを起こさせない状況を作り出すことこそ、その役割である」と主張した。彼はネオコンと直接の関わりはないが、その門下生からネオコン第二世代の有能な人材を輩出したこと、ネオコンの第二世代の世界戦略に政治的・思想的な示唆を与えたことで重要である。これも組織的にはネオコンに所属していないが、「文明の衝突」を唱えネオコンの政策・戦略に理論的根拠を与えたサミュエル・ハンチントンも重要である。
 こうしてユダヤ人知識人のなかで生まれきたネオコンの第二世代は極めて組織的・統一的・戦闘的に活動するようになっていった。メディア・言論界を主戦場にしながら、それを武器に政界へも進出していくようになった。彼らは数多くのシンクタンクを主宰し、新聞・雑誌を計6紙・誌刊行している。同時にネオコン知識人を売り込むため、「ベルドール・アソシエイツ」という代理店を抱え、世界の新聞・雑誌に論文・寄稿・コラム・各種記事などを提供し、テレビのトーク番組・解説などに人材を提供している。
 大衆紙「サン」をロンドンで創刊し、以後ユダヤ人脈とその資金力を背景に次々と新聞・テレビを買収し「世界のメディア王」にのし上がったルバート・マードック(母親はユダヤ人富豪ルバート・グリーンの娘、ユダヤ教の定義に従えば彼はユダヤ人、オーストリア生まれだが、今はアメリカ国籍を取得している)がネオコンの論客の受け皿となった。彼の買収したメディアの一部を列挙すると、イギリスでは老舗タイムズ、サンデー・タイムズなど、アメリカではニューヨーク・ポスト、映画会社20世紀フォックスなど、さらにフォックス・テレビを買収して一大テレビ・ネットワークを作り上げてアメリカの4大テレビネットワークの一角を形成するにいたった。こうしてネオコンの世論操作のネットワークが作られていった。この分析は私の推論で、そこまで書き込んだ著作は一つもない。しかし、ビル・クリストルの発刊した赤字続きの雑誌「ウィクリー・スタンダード」にマードックが資金を投入し刊行を維持させていること、上記の新聞・テレビにネオコンの論客をよく登場させることから類推される。さらにはアメリカ軍がバグダッド占領後、上記新聞・テレビがフセインの幹部などがシリアに逃亡している、シリア攻撃は避け難いとしきりにあほリたて、日本の新聞・テレビもその尻馬に乗って同様のニュースを流したこと、このことがネオコンの世論操作の仕組みを典型的にあらわしていたといえよう。
 一方、政治的には民主党に所属し議員スタッフとして「反ソ」・「親イスラエル」の先鋒としてデタントや第二次戦略兵器削減交渉阻止に活動するが、民主党ではネオコンの極端な政策は受け入れられる見込みはなく、ましてや主流派になりえず、民主党内の活動に絶望する。
 ジャーナリズム・メディア界で民主党に遅れを取っていた共和党は彼らを吸収して、言論界での勢力拡大・政策能力の強化をはかった。彼らは彼らで自らの理念達成のため民主党から共和党へ乗り換えたのである。
 その背景には、ブッシュの強力な支持基盤である極めて保守的な福音主義派(キリスト教原理主義)の政策がネオコンのそれと類似性が強く、親近感を抱いていたということがある。
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もうそろそろ戦後の昭和の時代を(保守系)

2006年08月25日 01時21分42秒 | Weblog
戦前の日本と戦後の日本、これも断絶はしているわけではありません。
でも有史以来、白人・キリスト教(しかもプロテスタント)・歴史の無い、日本という国を理解していないアメリカという国に占領されました。まだイギリス位に占領されたなら良かったのかもわかりません。国王を戴く国ですから、天皇の存在意味も理解していたかもわかりません。
もしイギリスならどういう憲法を提示したのか、いや国際法により憲法は日本国民で作成すべきと言ったかもわかりません。
でももうアメリカの世紀が始まっていました。
それが日本の不幸でありました。
イギリスもインド・シンガポール・ビルマ・シナの権益も失うので、どう敗戦した日本に対処したのかわかりませんが、でもアメリカとは異なる態度で日本に接したのではないのかと思います。
まあしかしそれはイフの世界です。
もうあの当時に、朝鮮戦争が起きても、それに対処する力はイギリスには無いのでしょう。しかしさすが日本の軍備を解体することは無かったでしょう。
共産主義への警戒観は、イギリスの方がアメリカより持っていましたから・・。
この日本という2300年位の歴史を持つ日本であり、明治憲法もイギリスに範をとっていましたし、日英同盟も結んでいた訳ですから、日本を解体するような方針では臨まなかったような気がします。
私は、昭和の時代、それも戦後日本についてこのブログで、そろそろ語り始めていいのではないのかと思います。
そうではないと守るさんの提示する九条問題や憲法そのものそして教育基本法をどう考えたらいいのかが、中々、わからないような気がします。
民法でもそうです。戦前は一応、長子相続が原則でした。今は、何だか面倒なものです。家族という解体を始めてしまったのかもわかりません。
時々、深夜飼い犬(ハナ)の横へ行って、「お前はいいな、アホな人間と違って、あれこれと思案することがないね。大雨・雷・強風を察知すると、ワンワン鳴いて、玄関の中に入れろと啼く、自然の脅威を動物的な察知能力を発揮する。しかし人間はアホだからその局面に出くわせないと、気がつかない。その時には、もう遅い。私はこの飼い犬の感というものが人間が失って来たものではないのかと思うのです。論理は所詮論理でしかありません。
倫理、そんなものは犬にはありません。でも犬は、他の犬と会って喧嘩をしますが、でもお互いに食い合うまではしません。
また日頃出会っている犬には、お互いの吠えません。顔見知りになるのでしょうか。私は、その点、人間は、どうしようもな動物だと思います。
脳が沢山ある分、馬鹿げたことを妄想してしまいます。実現不可能なことなど・・。それが不可能だとわかると鬱にもなってしまいます。
とにかく戦後日本は、ひょっとしたら誰でも幸せになる「権利」があると思い過ぎていなのかと思うのです。運命というものの存在への挑戦が、どんなに無駄な努力なのかを理解していないような気がします。
運命は自分で切り開くというのも悪くはないと思いますが、でもそれって嘘でしょうね。運命を一度は切り開いても次の運命が待っています。
私はこの日本のあの明治以降の運命を考えると、国家にも避け難い運命のようなものがあると思うのです。
あの戦争は、敗戦をもって終わりました。ドイツに比べれば大した死者ではありませんが、有史以来の死者でした。その死者に対して、この今の日本は誇りうる国に、私達はしているでしょうか?
如何でしょうか戦後の日本を・・。

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ならずもの国家アメリカ 始めに    千里眼

2006年08月24日 22時36分00秒 | Weblog
このブログに始めて投稿する者である。ここで交わされている意見については、私なりにいろいろ思うことが多々あるが、それはさて置きアメリカのネオコンについての見解を記しておきたい。9条問題を考える前提に現在の世界情勢の分析は欠かすことができないし、その世界情勢を大きく動かすアメリカの対外政策を把握しておくことは必要であろう。その分析にはどうしてもブッシュ政権の中枢に食い込んでいるネオコンについての知識を欠かすことはできない。
 この表題は私が勝手に作ったものではない。レーガン政権の商務長官特別補佐官としてたびたび来日し、農産物の市場開放を日本に強く迫ったクライド・プレストウィッツ氏の著作「ROGUE NATION」(2003年11月講談社から翻訳出版)の表題を借用したものである。「ROGUE」とは英和辞典によると「悪党・ごろつき」と訳されている。
彼は2年間日本の大学院に留学した経験を持ち、共和党を支持する穏健な保守主義者である。政府高官となってからは貿易交渉のため世界を駆け巡り、極めて強硬な交渉を展開したことで知られている。
 ブッシュ大統領が議会での演説等で、北朝鮮・イラン・イラクを「ROGUE NATION」と名指し「悪の枢軸」と非難したことを我々は記憶している。
愛する祖国にこのような表題を付けざるをえなかったプレストウィッツ氏の危機感とその心情に深く同情するばかりである。
 この著作でプレストウィッツ氏はブッシュ政権の対外政策全般にわたって分析・批判しているが、2001年の9・11以前に主要部分を書き上げているので、残念ながらイラク戦争については補足的にわずか触れるに留まっている。
 ネオコン(ネオ・コンサーバティブ=新保守主義)の論客で前ブッシュ政権の副大統領首席補佐官を勤めたウィリアム・クリストルは「ネオコンが現政権の知的枠組み(戦略)を用意した。大統領のイラク政策は我々の意見に沿っている」と豪語している。
 そしてその豪語は真実そのとおりなのである。ネオコンの主だった論客の多くが現ブッシュ政権の中枢に登用されているし、国務次官補を経てアメリカ国連大使に任命されたボルトンもその一人である。さらに、ネオコンの中心的論客であり、現ブッシュ政権の国防次官を経て世界銀行の理事長に就任したウォルフォウィッツについては特に後日触れたい。
 次回以降にネオコンについて具体的にその内容を明らかにしていきたい。ここでは参考にした諸文献を紹介しておく。
   民主帝国 アメリカの実像に迫る  毎日新聞取材班       毎日新聞社
   ならずもの国家アメリカ      クライド・プレストウィッツ 講談社
   ユダヤ・エリート         鈴木 輝二         中央公論新社
   アメリカの保守本流        広瀬 隆          集英社
   ネオコンの論理          ロバート・ケーガン     光文社
   ネオコンとは何か         田原 牧          世界書院
   アメリカの経済支配者たち     広瀬 隆          集英社
   アメリカの原理主義        河野 博子         集英社
   アメリカのパワー・エリート    三輪 裕範         筑摩書房
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