九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆 僕の「人生とスポーツ」  文科系

2021年01月30日 12時18分55秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 スポーツを体育とか運動とか訳すのは、今や余りに日本的な誤り。適当な日本語訳語がないのだが、スポーツとは身体(感覚)を鍛え、その喜びを求める芸術と解するのが良い。視覚の芸術や聴覚の芸術があるように、身体感覚の芸術があるということだ。全身の神経を協調、集中させた脚(の感覚)でボールを自由自在に操る楽しさ。筋肉、身体感覚を鍛え、全身協調したフォームで剛速球が急に伸びてゆく時の痛快。もっと誰にも身近なものでは、ちょっと老いてきたころに少々鍛えてみた後、階段上りなどでふっと気づく脚の軽さ、その爽快感。こういう喜びを追求した結果はもちろん、体育になっていくのである。音楽が楽しいからその楽器技術を習うのであって、これはスポーツも同じ事。身体を上手く使える楽しさを追求した結果、身体ができていくのである。

 このブログにも書いた「各種スポーツ選手の平均寿命 2021年01月12日」はプロや一流選手の場合。これを眺めていても分かるように、適度な有酸素運動は人の活動年齢を著しく延ばすものだが、この有酸素運動能力こそ脂肪を落とし、均整の取れた身体を作り、どんなおしゃれよりもおしゃれと言える力。これは、万人が認めるところだろう。ボディビルダーの身体に好き嫌いはあるだろうが、あれにしてもそのコンクール入賞者に走れない人は居ないのである。走れなければ、コンクール前に脂肪が落とせず、脂肪を落とせないと筋肉が浮き出ないのである。筋肉を鍛えるほどに、中年が近づいて走れない人は筋肉の上の脂肪が落とせなくなって、ただ太っている人になる。ウエートトレーニングをやっている若者はすべからく一時間近くは走れるように、ということだ。

 さて、この有酸素運動能力は、老人になると特に大きな差を生むことになる。拙稿からで恐縮だが、
【 『 ⑥最後になるが、高齢者のどんな活動でも最後は体力勝負。そして、活動年齢を伸ばしてくれる体力こそ、有酸素運動能力。酸素がよく回る身体は若いのである。ギターやパソコンの3、4時間ぐらいなんともないというように。ランニングが活動年齢伸ばしにこんなに効力があるとは、骨身にしみて感じてきたことであるが、これは今では世界医学会の常識になっていると言える。その証言がこのブログのいたるところにあるが、一例がこれ。『「よたよたランナー」の手記(222)走る、歩くで活動年齢が伸びる 2018年05月10日』 】 
(ここのエントリー『老後ギター上達法、僕の場合 文科系 2018年06月24日』より)

  ちなみに、僕がやって来たスポーツはこれだけだ。中学時代は陸上もちょっとやったが、そのころから大学生までバレーボール。これは40歳過ぎて小中学校PTAバレーで復活し、娘が中三の最後の年に区で優勝、「名古屋市大会3位」まで行った。これらに平行してまた、大学時代からずっとサイクリングをやってきた。これは今でも現役で4年女子孫との50キロサイクリングのことなども、ここに書いてきたところだ。近頃この孫が「今度は100キロやってみよう!」と言っているが、この春が待ち遠しいという今なのである。今は、これをもめざしつつ「八十路ランナー」を楽しみ、書いているわけだ。ちなみに、10キロ走れる間は100キロサイクリングは十分可能と考えている。このランニングは、2000年ちょうど、59歳の現役時代に勤務先があるスポーツクラブ法人会員になったのをきっかけに覚えたもので、その時意図したとおりに今の僕の諸活動の原動力になっている。有酸素運動の効力は、とにかく絶大である。

 ちなみに年寄りが太るのは走れなくなるからだ。そのことを僕は今の今、痛感している真っ最中である。今の僕は、ウオームアップの時間が20分以上も必要になっている。それだけゆっくりと長く走って初めて、全身の血管が開き、酸素を運び疲労物質を吸収、汗として排泄する能力が全開してくるのである。アップの初めは8キロ時でも疲れてしまうのが、循環機能が全開し始めると10キロ時超えてもちゃんと走れるのだ。年を取るほどこの差が激しくなって、スポーツをしない人はこのことがわからないから、ウオームアップの段階で「もう走れない身体になった」と誤解してしまうのである。すると今度は逆に、循環機能がそういう生活に慣れてしまって、心拍数120以上には上げられないという身体になってしまうのである。ちなみに、僕の一定持続最高心拍数は165ほどである。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆 僕の「人生と芸術」  文科系

2021年01月29日 09時42分14秒 | 文芸作品

 大金持ちが有り余った金をその余生などにおいて芸術に費やし続けてきたという話は多い。「○○美術館」と個人の名前を冠したものがいかに多いかとか、名古屋の「宗次ホール」のように弦楽器の世界的名器を山のように揃えて若手有望芸術家に貸与してきたとか。昔に遡れば、信長、秀吉らがある茶道具と城一つとを取り替えたとかの話もある。音楽の歴史をもっと古くまで遡れば、音楽が宗教の世界のものだったとか、仏教の「音声菩薩(おんじょうぼさつ)」とかにも辿っていける。これらは、大金持ちが人生の喜びをそういう芸術、美に発見し、求めてきたということだろう。僕はこのことを、ある宗教に財産をつぎ込むのとちょっと似ていると、いつも推論してきた。つまり、自分の人生を何に懸けうるかという、死生観の話にもなっていくのだと。

 さて、彼ら大金持ちの芸術はもちろん、鑑賞者のそれだろう。が、その芸術を行う者の楽しみはどうなのか。鑑賞者よりもはるかに楽しいのではないかと思われるが、などと歴史を見つめてみた。「素晴らしい旋律が夢のように湧き出てきた」と語られるシューベルトは、栄養失調に近い状態のうちに30歳ちょっとで亡くなっている。まるで、そういう多くの作曲と親しい人との演奏に開け暮らして、命を縮めたというようにも見える。生前一枚の絵も売れなかったといわれるゴッホは、まさに炎のように色彩豊かな絵をほとばしりだした。自殺したのだから人生が楽しかったかどうかは分からないが、絵画に懸けたその情熱が凄まじいものだったことだけは、誰もが認めるものだろう。
 
 とこんなことを考えて僕は、晩年の生きがいの一つに音楽、楽器演奏を選んだ。小中学校に7年ほどバイオリンを習っていたから迷ったのだが、独学で拙く弾いていたクラシックギターの方を改めて50歳代から復活させ、停年後に先生についた。それからもう18年目に入り、近年は年とともに下手になっていくように思われるが、それでも毎年の発表会には出続けている。
 ちなみに、ギターは「楽器の王様」とも言われるピアノと兄弟のような和音楽器であって、単音楽器よりも楽しみが深いのである。単音楽器の和音がアルペジオ奏法(フルートで奏でる変奏曲、例えば「アルルの女」を思い出していただきたい。ギター教則本の初めにあるアルペジオ練習だけでも、とても楽しいのだが)しかできないのに対して、ギターの重和音一つをボローンと弾いて、聞くだけでも楽しめるのだ。和音一つで、澄んで晴れやかな、あるいは重厚で悲しげな・・・とか。自分であれこれと出してみた音を自分で聞くというのが、また格別に楽しいのだろう。

 これからどんな拙い演奏になっても、弾き続けていきたい。和音一つでも、あるいはアルペジオ一弾きでも楽しめるのだから、下手になったなどと言ってやめるようなのは音楽に対して失礼な変な自尊心というものだ。下手になっても音楽は音楽。「技術を聴く」ものではないと考えてきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本政治最大の爆弾  文科系

2021年01月28日 10時28分49秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)

 今日も朝日新聞記事の紹介だが、中日新聞を取っている家が多いここ中部地方に向けては、意味のあることと愚考している。
  昨日27日朝刊13面「オピニオン」面の右下「多事 奏論」シリーズ、編集委員・原真人の「異次元緩和8年 泥沼からの出口はあるか」に目がとまった。僕も第二次安倍内閣発足以来当ブログ「財政ファイナンス」問題として重視してきたからだ。財政ファイナンスとは、放漫国家財政をやって赤字を出し続けても、その赤字を中央銀行がどんどんお札を刷って穴埋めしてあげれば良いというやり方のことであって、従来の国家財政理論では世界的にも禁じ手とされてきたものだ。安倍が、第二次内閣発足と同時に日銀・白川総裁を屈服させて、こういう道を切り開いたと、ここでも再三見てきたことだ。このままではいつか必ず、この国の貨幣の国際的信用が暴落する。例えば、近年世界中の国々で無数に起こったことだが、通貨の空売り、通貨危機に襲われて超インフレが起こったり、中央銀行券が紙くずになったりするのである。日本のこの現状について、原氏が述べていることを抜粋してみよう。

『(前略)日銀にとっての「出口戦略」とは異次元緩和を混乱なく終わらせることである。黒田東彦総裁は当初この政策は2年間の短期決戦だと説明していた。想定通り進んだなら6年前から出口に向かっていたはずだ。
 ところが実際は緩和をやめられないまままもなく8年になる。・・・・世界最悪水準の日本政府の借金依存がいっそう悪化した。日銀がお札を刷り国債を買い支えることでもっているが、この「打ち出の小づち」がどこまで持続可能なものなのか誰にもわかっていない。
 市場機能も壊れかかっている。コロナ不況のさなかというのに平均株価はコロナ禍前を上回り、バブル期以来30年ぶりの高値をつけた。最近は「不況が続けば株価が上がる」という倒錯した相場観が広がる。金融緩和だのみの異様な株高ブームの先に何があるか、実は市場心理の底には不安や疑心もおりのようにたまっている。(後略)』

 政治論議は、万人に重大過ぎる関わりがあるもの、数字など証拠がはっきりしていること、そして、解決方向の説得力などが大切だろう。それで言えば、この問題は日本人にとって本物の重大事態だと言える。自公政権の選挙勝利目当てとしか言えない赤字放漫財政がいつか国民に転化されずにはおかないからである。そもそも政府にこんなやり方が可能となった理由である国際的信用自身が、他国にはない個人資産と対外財産が国家の借金を遙かに上回っていることによるものなのだから。

 こういう放漫国家経営継続を、原氏はここで「ベトナム戦争の泥沼化継続」と対比させているが、1945年までの日本の「欲しがりません勝つまでは」の泥沼も同じようなものだろう。世界恐慌の中で時の政権を延命させるために必要な反省をせずにずるずると引き延ばして将来の悲劇を大きくしていくそのやり方が同じということだ。このやり方、借金財政、官製バブルの大きすぎる後遺症として、こんなことを指摘する学者も多いのである。
「何の実績もなくなった会社を、『不況が続けば株価が上がる』という流儀で助けてやることによって、そのイノベーション能力をどんどん削いでいるのではないか」

 なお、このようにマネーゲーム以外にはどこにも投資先がないような世界の民主主義的改善処方箋は、新自由主義経済学ではもう手に負えない。国連レベルで世界の総需要をできるだけ緊急、計画的に作っていくケインズ的な世界的有効需要政策と、それによって若者の職業を世界的に作り出していくこととが必要なのである。今はそういう学者の声を国連レベルで集約して道を探すべき時なのだと思う。金融・株主本位の新自由主義経済は、単なる暴力に過ぎなかったと、既に証明されているのである。


 なお、こんなことをやっている間にも、日本の貧しさがここまで進んでいるという別の数字をいつもここに提起してきた。国民一人当たりGDP世界順位の激落である。前世紀90年代半ばの世界5位内外から、今は33位に落ちている。10位台半ばの台湾にはとっくに抜かれ、19年度にはとうとう韓国にも抜かれた。日本の為政者が「選挙勝利だけ、後はどうでも良い」といかに無能無策で済んできたかということだろう。これにともなって、人々の賃金も下がりに下がって、50歳以上で一度も結婚したことがない男性が4人に1人に近づいている。これについては、貧しくて結婚相手に選んでもらえない男性が多いという説が、知る人ぞ知るもの。こんな自公政権を国民はどうして続けさせてきたのだろうか。不思議で仕方ない。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆紹介 「うっかりもの」  文科系

2021年01月27日 20時15分34秒 | 文芸作品

 随筆紹介 「うっかりもの」  K・Kさんの作品です                                                              

 始終ドジをしているのだから、今さらのことではないが、スマホをスーパーのトイレに忘れてしまった。ポケットに入れていたので、落とすと困ると荷台に置いたまま忘れたのだ。店で買い物をしていて気がついて戻ったがもう無かった。
 五年前に引っ越ししてからは家に固定電話はつけてない。これでは誰とも連絡が取れない。それに「スマホを落としただけなのに」の映画を思い出す。他人に悪用され、事件に巻き込まれていく話だ。冷や汗がどっと出る。
 もしかして良い人に拾われて届けられているかもしれない。と祈りながらサービスセンターへ急ぐ。有った!黒いカバーのスマホが見えた。有り難い。「何色ですか?何処でなくしましたか?携帯番号は?」細かく聞かれ、身分証明のコピーを撮られてやっと返してもらった。懲り懲りだ。大事に握りしめる。
 それなのに、少しして今度はポイントカードをセルフレジの上に忘れた。チャージ金額は千円しか残っていないので損害は少ないが、うっかりミスに呆れる。店に連絡したら届けられていた。当日のレシート番号を聞かれ戻ってきた。続けてのうっかりミスにへこむ。私のボケ始めだと困るのだが。

 忘れ物といえば思い出す知人がいる。彼は何回も忘れ物や鞄を取られているが動じないようだ。コンビニの駐車場でエンジンをかけたまま店に入り、五分位で鞄を盗まれた。この時は財布を抜かれて鞄は他のコンビニで見つかった。ある時は、飲んでスマホを何処かに忘れた。GPSで探したが場所は分からなかった。諦めて新しいのを買った頃出てきた。
「なくしても戻ってくるから。命まで取られた訳じゃない」彼の口癖。別に慌てた様子はない。小心者の私には理解できない。面倒くさがりなのか、鈍感なのか、寛容のためか分からない。場合によって鈍感は寛容という美徳になったりするので、可否をいうわけにはいかない。出張の鞄を家に忘れ、取り止めになったことも。それでもめげない。謝れば済むという。人当たりがやわらかいから収まるらしい。

 彼とは年代も違うし身を置いた世界も違う。人の感性というものは千差万別だ。どっちが正しいかどうかの問題ではない、人それぞれ。小さいことにこだわるとストレスが多い。身体によくないと思うが、いい加減さが上手くいかない。彼の生き方の方が楽なのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆紹介 「老いらくの恋文」  文科系

2021年01月26日 19時35分23秒 | 文芸作品

 随筆紹介 「老いらくの恋文」  H・Sさんの作品です

 郷里に暮らす八十三歳の友人瑞穂と電話で会話する回数が増えてきた。
「私の世代って実家で居場所がなかった。二十五歳を過ぎた女が親の元に居ると、男兄弟の結婚に邪魔。早く出て行け。そんな時代だったわよ。私なんか銀行勤めで給料結構良かったから、弟の学費も出してやったのに、その弟から、姉ちゃんがいると僕にお嫁さんが来ないから、いい人見つけて早く出ていってよと、すげない扱いを受けたのよ。それに銀行の女の子は結婚したら辞める決まりだった。三十歳近くになると売れ残りだと言われ居揚所がないような雰囲気だったもの。だから私は」と、六十何年前の日々を振り返りながらながながと、瑞穂のお喋りが続く。
「うん、うん」と、相槌を打ちながら、電話の向こうの瑞穂の言い分に同調しながら聞く。「早く家を出るようにせかされ、容姿も普通、とりえのない私は、銀行の先輩で仕事を教えてくれた次郎さんだけが「瑞穂のこと好きだよ」と、言ってくれたから、これ幸いと、次郎さん優しい人だし、次男だから姑さんと暮らさなくてもいいから、まあこの人でいいかー、と結婚を決めた。だから私の結婚は、まあいいか結婚なの」と、瑞穂は茶化した言い方をする。

 瑞穂の幼い時から近況まで知っている私は、笑いをこらえながら元気な声を聴いている。瑞穂も元気、八十七歳になる次郎さんも野菜、花作りをやり元気な様子だ。

「私ねえ、細書で、古の貴公子たちの短歌を書き写しているの。それがいま一番の楽しみなの。ふ、ふ、ふ、」とご機嫌の瑞穂。
「それ、どういうこと?詳しく話してよ」と、受け止めかね催促した私。
「教科書で習った有名人、大伴旅人、家持、山上憶良とか、に心が動くの。私の一番好きな貴公子は大伴旅人さんよ。都で活躍出来ず、地方に派遣された今で言う県知事さんのような立場で、ちょっと不遇な人達。その人たちのため息のような歌が好きなの。彼らのやるせない思いとか生業とか、何を考え生きていたのだろう。今よりずっと厳しい自然と戦っていたのだろうと想像すると、貴公子たちが愛おしくて仕方ないのよ。だから、彼らを励ましてやりたくて、自己流のかな文字で手紙も書いてるの。家持さんの任地だった特産品の越前和紙を和綴じ冊子にして使ってね」
「それって恋だよ。明らかに天平の貴公子に熱い恋をしてるよ、瑞穂は」と、返す私。
「こんな気持ち初めてだよ。次郎さんに感じたこと無いもの・・・そうー。これって、明らかに恋だよ」と瑞穂は自分の心の動きを認め驚いたようだがなんだか嬉しい様子だ。
 瑞穂の部屋には、どこにも出す予定のない達筆の恋文冊子が積みあがっていく様だ。お互い自分の部屋を持っている二人だ。何をやっていても相手が干渉することはない。

 瑞穂にとって次郎さんは、安定した生活の提供者。その地盤の上で共同生活は成り立っている。そこで瑞穂が、古の貴公子に恋文を書くのを楽しむのは瑞穂の自由だ。恋文は瑞穂の『心の飛行機だー』。群を抜く達筆がもたらす楽しみ方だ。この様な特技のある人は羨ましいと私は思う。

 次郎さんからの年賀状を受け取った。「老いは生涯の友 しなやかに、けなげに生きる二人です」。と、添え書きがあった。短い文面の中には、自分を語ることは得意ではないが、優しく温かい次郎さんの瑞穂への思いが込められていた。

 次郎さんの操縦する「心の飛行機」の指定席は、いつも瑞穂のために用意されている。そういうことだ。一方、瑞穂の操縦する「心の飛行機」の指定席には、大伴旅人さまがどっかり居座っている。こういうことはよくあることだー。瑞穂はト、ホ、ホなことをやっているわけではない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八十路ランナーの手記(339) 改めて、成功した走法改良   文科系

2021年01月25日 12時07分23秒 | スポーツ

 前回の手記にこういうコメントを付けた。
『 ジムで30分4・85キロ (文科系) 2021-01-23 20:22:36
 エントリーに「ジムでもしばらくやっていなかった10キロ時30分とかにも励んでみよう」と書いたが、本日30分×2回の後半が4・85キロまで行った。ちなみに、僕が行く市営ジムには、1回30分というマシン制限時間があるのだ。この時は9キロ時から出発して、最後20分を10キロ時以上で走っていた。もう、マシン走30分5キロは見えたと思う。実際にそうなった時に確かめるが、多分5年ぶりのことだ。
 19年12月から新走法に換えてきて成功したということである。時速10キロでも心拍数は以前よりも10以上落ちて、150ほどで済んでいるのだから。ちなみに、僕の一定持続最高心拍数は160ちょっと。こうして、近年では珍しく低い心拍で今の僕としての最高速を走れているのだから、合理的走法だと示されている。』

 ちなみにこの21日には、計8キロの最後2・5キロほどを頑張ってみて、キロ6分7秒というペースで外走りもできた。これは18年12月にキロ6分12秒で走ったのに匹敵するものだとみている。まだまだ走法改善途上で前進があると思うが、この5月で80歳になる身としてこんなことが可能だとは思っていなかったので、ちょっと細かい経過などを、1年かかって身につけた走法も含めて書いてみる。ジムマシンの記録しか残っていない5年前は、16年1月11日付けでジム・マシン30分×2回で「5・0キロ+5・3キロ」という記録がある。後半の5・3キロは、15年12月2日にも走れている。これは、いろんな病気をやった前後の近年のマシン走記録なのだが、この前後から今日までの病歴などもをも簡単に書いておく。

 10年に慢性心房細動で心臓カテーテル手術をやった前後3年間は走行禁止で、ランナー断念。それを、医者に内緒で心拍計を付けてこれを確かめつつ歩き、やがて走り始めてから大丈夫と医者にも認めさせて復活した頂点が、この5・3キロだった(ちなみに、慢性細動はカテーテル手術で治るもの。ただし、前から準備していて、慢性細動・即手術と、できるだけ早く手術すること)。ところが、16年春に前立腺生体検査から癌が見つかって、女性ホルモン投与とか陽子線照射治療とかで17年夏まではまともに走れなかった。18年はかなり復活してきたのだが、19年夏に胃がんの疑いで胃腺腫皮下削除術、1週間入院。また、振り出しに戻してしまった。「こんなことが続いていては?」というわけで、19年末から頭に描き始めていた走法改善に踏み切っていく。どう変えたかというと、まー大変ゆっくりした短距離走法のような走り方から長距離の走法に換えたということなのだが、今日まで確かめてきたその要点はこういうものだ。

①前脚の膝を伸ばして地面をつついた反動で身体を浮かせて、走る。これは短距離走と同じ原理だ。上半身は、このツツキが上手く行くように、腰から頭頂までよく伸ばしておくこと。
短距離走と違うのは、地面をつついた脚腰を浮かせる瞬間に、反対側の脚を短距離のようには無理に速く、大きく前には振り出さないことである。浮いて前に行った腰の下に後ろ脚を持ってくる程度に留める。
③その上で前に来たその脚の膝を伸ばして、また軽く地面をつつく。②のように後ろ脚を腰の下に持って来られる程度の小さい力でつついた脚をできるだけ速く離陸させることによって、着地時間を短くし、ピッチ数を多くするためである。

 ジムマシンで10キロ時以上が20分もできたのは、何年ぶりだろう。後で、腿の外側が張っているのだなーと久々に感じられたのも、なにか心地よかった。10キロ時でも心拍数150と随分強くなったのだから、当面は155~160ほどの練習をすれば、まだまだ伸びると目論んでいる。 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍晋三、無数の嘘を考える  文科系

2021年01月24日 12時36分19秒 | 国内政治・経済・社会問題

(17日拙稿の改作です 

 朝日新聞一月一七日社説の、こんな見出しに引き込まれて読み始めた。『「桜」の前に「一月二〇日」あり』。この社説の結びが、『嘘の履歴書』になっている点がとても深刻と思えたから、先ずその部分を紹介してみよう。
『振り返れば、森友問題での「私や妻が関与していれば、首相も国会議員もやめる」が全否定路線(注 ある疑惑指摘を全面否定する安倍のやり方を指している)の出発点だろう。加計問題で確実に増幅して、行きついた先が「桜」なのだ。
「桜」での虚偽が暴かれたいま、審議時間の空費を嘆きつつ、改めて思う。
 きっと、「一月二〇日」も「うそ」だろうな、と』
 さて、この(二〇一七年)一月二〇日に何が起こったか。社説の下りを抜粋してみよう。

『「桜」を引きずる安倍氏に、ことしも「一月二〇日」がめぐりくる。
 もう一つの「虚偽」疑惑の日付である。
 二〇一七年のこの日、安倍氏が議長の国家戦略特区諮問会議が、加計学園の獣医学部新設計画を認めた。いまも問われるのは、その当日に初めて、この計画を知ったという安倍氏の国会答弁の真偽だ。
 最初に尋ねられた一七年六月には「(一五年の)申請段階で承知」と明言した。それが、「総理のご意向」に象徴される「忖度」報道が広がると一転、一か月半後に前言を翻して、「一月二〇日」だと言い出した。
 本人が知らないのだから、「腹心の友」への優遇などありえない。周りの官僚や政治家も忖度するはずがないという論法だった。
「なぜ最初からそう言わなかったのか」。質問者の自民党議員がそう言うほど不自然な転換で、「うそ」だと野党は見た。その後、「首相案件」と一五年に書いたメモも見つかったが結局、うやむやにされた。
 この全否定で追及をかわせた体験が、「桜」につながったように見える』

 森友、加計、桜と繋がって疑惑を全否定する安倍「嘘の履歴」のそれぞれにまた、多くの嘘が連なっている。森友では、そもそもの始まりの国有地大安売りをごまかす嘘や、その「忖度」を打ち消した嘘。加計にも「獣医学部が不足している」という嘘と、「加計しかない」という嘘。桜では、「国家功労者の称賛会」という政府自身が作った看板の下で「個人選挙の功労者会」を開き続けるという大嘘。こういう人物が日本国家歴代最長政権って、トランプの「フェイクと暴力政権」と並んで、それぞれの国民、政党はよほど胸に手を当てて考えてみないといけない。

 安倍にはおそらく、嘘の意味が分かっていないのだ。嘘の常習犯の言葉は信じてもらえない。政治家の武器は言葉である。その言葉が信じてもらえないとは、どんな政策も信じてもらえないということだ。また、嘘は自己(利益)追求、自己損害隠蔽のためにつくものだから、大国における国家的大嘘の常習犯首相とは、ヒトラーと同類の「最も大規模な利己的人間」であり、周囲を巻き込んできたことも含めてその害悪は甚大である。

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八十路ランナーの手記(338)久々の「ちょっとやったね!」  文科系

2021年01月21日 17時31分55秒 | スポーツ

 昨日のここに、「19日のランで、ウオームアップに新発見」と書いたその成果が早速本日出た。表題のように「ちょっとやったね」と言う気分。いつもの近所の市営公園周回コース1キロ強を7周、往き帰り入れて8キロ強のうち、1キロほどからを計測したのだが、前半はウオームアップとLSDのつもりでゆっくりと走り、最後2・5キロほどを攻めてみたのである。この7キロ全体では、キロ当たり6分44秒、ストライド90センチ、161bpmと出ているが、最後2・5キロの1キロペースを計ったら、実に6分07秒。距離は半分ほどにしても、最近の記録18年12月11日の6キロラップペース6分12秒を優に超えている。そして、今日のこの感じだと近くやはり、これを超えていけると思えた。ちなみに、今日の最後一周のピッチ数はスピードに乗っていたせいか、僕の過去最少に近い数字だった。一周1040ほどが最少なのだが、今日の最後は1050ほどだった。ストライドを小さくして着地時間を少なくしているつもりでも、スピードが出ているとストライドは広くなるものだ。

 19日にも書いた最近の注意などを十分に守ればということで、忘れないようにもう一度書いておこう。
① アップは25分。7キロ時から8キロ時台へと、非常にゆっくりと上げていく。
② 暖まったら、どんなストライドやピッチ数でも、とにかく前脚の着地時間を短く走る。そのためには地面ツツキ時の前膝はなるべく曲げない方が良い。
③ よって、前へ前へと運んでいく腰の下に持ってきた前脚はなるべく伸ばし気味にして地面をつつくのだが、つついたその足は後ろに蹴り上げず、つま先で地面を下に真っ直ぐ、軽く押さえるようにしつつ離陸させると良い。この後半の「足の離陸法」は、この1月になってから気づいた新しい知恵だ。
 
 さーこれで、念願の6分10秒が見えてきた。18年のこの記録の上となると、16年の前立腺癌治療以前のジム走り記録しかないのだが、16年1月の1時間10・3キロ(前半5キロで、後半5・3キロ)に近づいてきたということだ。よって、ジムでもしばらくやっていなかった10キロ時30分とかにも励んでみようと思ったところである。

 

 年を取ると本調子になるまでに、アップ時間がどんどん必要になっていく。脚や体幹の隅々まで血管が温まり開くのに、それだけ時間がかかるようになるということだろう。このことが分からなくって、30~40分ほどの「以前と同様のアップ」だけで疲れてしまい「もう走れない身体になったのだ」とか「全く力が落ちてしまった」などと諦めていく人が案外多いのではないか。まして、若いのにアップの威力を知らず、久しぶりに走ったら「もう無理」という人は無数なのだろうな。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八十路ランナーの手記(337) 老いとウォームアップ  文科系

2021年01月20日 00時05分52秒 | スポーツ

  前回「老いたのか」と不可逆的なようなことを書いたが、今日のランニングで新たに気づいた知恵が一つあった。すでに知っていた当たり前のこと過ぎて恥ずかしいのだが改めて、「年を取るほどアップが必要」、「それもこんなに寒くなると特に、速度は落とし、時間も長く」ということ。
 1月になって今日まで10日走ったというように僕として珍しく入れ込んで来た分、年寄りランナーのこういうアップ原則をどうも忘れていたようだ。それで、走り出し初めのうちに疲れてしまって成果が上がらなかったのを「不調」と誤解していたのではないか。今日そう気づいたのは、思い切ってアップのやり方を変えてみたら、ちゃんと走れたからである。

 今日の9キロ超のうちのウオーム・アップは、3キロ20数分。それも時速にして初めの1キロは7キロ時台前半から、20分過ぎても8キロ時台半ばほどまでで走ってみた。すると、それ以降が最近なかったほど見違えるように足が進んだのである。最後2周2キロちょっとの1分ペース計数字などは、気づいて見たら時速10キロを超えている時もあったりして、その2キロラップを計ってみたかったと後悔したほどの走りができた。自分が元々アップ不要の身体だったから、入れ込んだ日が続いたりすると、ついついアップ2キロも行かぬうちに9キロ時ほどで走り出してしまってすぐに疲れると、そんなことばかりをこの1月になってからやっていたように、今は思われるのである。ちなみに、今日のアップ分も含めた9キロちょっとの計測は、平均キロ速度が7分3秒、ストライド84センチ、1分平均の心拍数が151だった。

『アップは最低20分、それも7キロ時などの低速からちゃんとやれ。でないと、寒い日は初めに疲れて、5キロも走れなくなってしまう』
 今の自分にはとても貴重な体験だった。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この異例人事で、官僚姿勢一変   文科系

2021年01月19日 11時52分49秒 | 国内政治・経済・社会問題

  本日も朝日新聞記事に関わって、ちょっと長い紹介をする。朝刊4面の右下『未完の最長政権』で、本日見出し『異例人事 官僚は姿勢を一変した』とあって、2013年8月、内閣法制局長官人事の歴史的慣行破りを扱っている。これ以来、官僚が姿勢を一変させて、佐川理財局長らの忖度行政などまでに繋がっていったという、その原点なのである。「俺は人事で行政をやる」とは、この時の管官房長官が味を占めた官僚操縦思考なのでもあろうか。改めて、この人事が行われた当時このことを巡って書いた拙稿二つを紹介させていただく。


【 政治が暴力と化した瞬間   文科系 2013年08月10日 17時36分30秒

 中日新聞が本日第13面すべてを使って小松一郎・新内閣法制局長官問題を「特報」で扱っている。最大の見出しは『「法の番人」政権追従?』『9条逸脱 歯止め役』。中見出しを見ても『「集団的自衛権容認派 長官に』、『解釈変更「理解苦しむ」』。例によって、全国にこの内容を広める意味で、目について厳しい批判表現を紹介したい。

①歴代の内閣法制局長官とは、内閣が9条逸脱をしないように歯止め役を果たしてきた。典型的国会答弁はこのように。
『集団的自衛権の行使を憲法上認めたい、という考え方を明確にしたいなら、憲法改正という手段を取らない限りできない』(83年答弁)
②だからここの長官は歴代すべて、内部昇格であった。それをはじめて外部から、しかも昇格対象の4省以外の外務省から持ってきたというのが今回の人事である。それも集団的自衛権の容認論者として知られる人物を。
③さて、歴代法制局長官達は当然猛反発することになる。歴代自民党内閣の法解釈慣行、理論をさえ越えようとする荒技だということがよく分かる。

 まず、第一次安倍内閣の宮崎長官を登場させて、反論させている。
『自衛隊がどこまでの範囲で活動できるかというのは、周辺事態法などで議論を積み重ねてきた。一貫して行使できないと言ってきた。国民にそう説明してきたのに、解釈次第で行使できるというのは、理解に苦しむ』
 次いで、小泉内閣の阪田法制局長官はもっと厳しい反論を展開する。
『長官が交代したからといって、見解が好きに変わるものではないし、もしそうなら法治国家ではあり得ない。法制局は論理の世界で、政治的判断が加わる余地はない』
 学者となるともっと厳しい。
『高作正博関西大学教授(憲法学)は「これまでの政府見解では、憲法を変えないと行使できないとされ、国民の判断に委ねられているはずだ。解釈で変更するのは、国民の判断する権利を奪うことになり、クーデターに近い」』

 「法事国家ではあり得ない」!「クーデター」! 総理大臣が自らクーデター! 
 こういうことをすると、その後遺症は甚大である。まず、内閣がクーデター的手法に慣れていくということ。次いで、ヒラメ官僚がそれに従うようになるということ。こうして、国家が全体として対米追随に偏った軍事政権にも似た様相を呈していくことになるはずだ。これはすべての世界の国家の歴史が教えている所である。そして、今のアメリカは、嘘の理由で戦争を起こすという実績を持った国なのである。そういう国に、自衛隊が自由に使われる方向に偏っていく。安倍晋三内閣、恥を知るがよい。】


【 前法制局長官、内閣に反発   文科系 2013年08月24日 00時42分05秒

日刊ゲンダイが、安倍晋三内閣の、内閣法制局長官・集団的自衛権解釈改憲問題に絡んで、非常に面白い記事を載せた。阿修羅掲示板から、紹介したい。

『 憲法解釈で首相に“10倍返し” 最高裁判事が見せたプライド  2013年8月22日 日刊ゲンダイ
 思わぬ伏兵に安倍政権がじだんだを踏んでいる。憲法解釈を変更して「集団的自衛権」を行使しようと画策している安倍首相に対して、内閣法制局長官を退き、最高裁判事に就いた山本庸幸氏(63)が、「待った」をかけたからだ。20日の就任会見は明快だった。

〈集団的自衛権の行使は、従来の憲法解釈では容認は難しい〉

 政権内からは「もう憲法解釈の変更は不可能だ」という声が上がっている。実際、最高裁の判事に「ノー」と否定されたら強行するのは難しい。よほど頭にきたのか、菅義偉官房長官は「発言に違和感を覚える」と、21日批判している。

「首相周辺は、これは意趣返しだとカンカンになっています。というのも、安倍首相は解釈変更に消極的だった山本庸幸さんを法制局長官から外したばかりだからです。簡単に言ってしまえば更迭した。ただ、世間からは更迭ではなく、出世に見えるように、最高裁判事というポストに就けた。それでも、法制局長官という職にプライドを持っていた山本庸幸さんは、安倍首相のやり方を許せなかった。首相に一泡、吹かせたのでしょう」(霞が関事情通)

 たしかに、憲法解釈を最終判断する最高裁判事の発言は重みが違う。首相に「10倍返し」するなら、最高裁判事の就任会見は絶好の舞台だ。

 首相の出はなをくじいた山本庸幸氏は、どんな男なのか。

「山本さんは愛知県出身、旭丘高、京大法卒、73年に通産省に入省しています。正直、省内では次官候補ではなかった。でも、法制局には各省から優秀な職員が送られる。山本さんも融通は利かないが、頭脳明晰だったのは確かです。本人は、法制局長官を天職だと思っていたようです」(経産省OB)

 最高裁の裁判官は、憲法で「身分の保障」が規定され、70歳の定年までつとめられる。官邸周辺は、「最高裁判事にしてやったのに」と悔しがっているらしいが、法制局長官を代えることで憲法解釈を変更しようという姑息なやり方が、完全に裏目に出た形だ。』

 官僚にも、骨のある人はやはり居るものだと、ちょっと意を強くした。フクシマ問題では火中の栗を拾わないと決め込んでサボタージュばかりの官僚体制に見えるので。サボタージュ官僚たち、はて日本を滅ぼしかねないと、そんな気がしてきた昨日今日である。 】

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トヨタ社長の「カーボン批判」に疑問  文科系

2021年01月18日 20時50分05秒 | 時事問題

 トヨタの社長が標記のことを猛烈に叫び始めた。この批判論法に少々、疑問。「EV中心に早く替わりすぎれば、日本の場合は火力発電からCO2が増えるだけ」というのがその批判論法なのだが、この批判は正当な正攻法批判とは言えず、派生的問題での批判に過ぎないと言いたい。世界の趨勢を見誤り、時代に合う商品開発が遅れたと思い知って、慌てているだけではないのか。

 トヨタに言いたいのは、このこと。そもそも何故もっと早くにEVに切り替えずに、ハイブリッドなど化石燃料に拘っていたのかということだ。つまり、既得権益に拘っていて、開発イノベーションに遅れるということが既得権益大企業には時にあるものだが、その責任は自分自身にあるだろうということだ。それを「早すぎるノーカーボンは、日本の雇用を減らすだけ」とも批判しているのだが、このこと自身が自社の中長期計画の誤りを正当化しているに過ぎぬと僕には思われてならないのである。ちなみに、トヨタほどの力があれば、政府にこう迫って成果を上げることも十分にできたはずなのだ。「自動車もCO2なしにしていくから、できるだけ早く火力発電を再生エネルギーに切り替えよ。そうでないと、我々の大きな裾野も含めて、雇用が守れなくなる」

 ひょっとして、社内にもそういう声があったが、それを社長が抑えてきた? それでちょっと興奮している? 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 八十路ランナーの手記(336) やっぱり老いかな?  文科系

2021年01月18日 12時47分46秒 | スポーツ

  1月になってかなり励んできたが、その割に見るべき前進がない。前回書いた6日からあと、こう走ってきたのに。9日7キロ、10日は今年初のジム走りで9・3キロ、12日7キロ、13日ジムで9キロ、16日7キロ。僕としては珍しく平均1日置きで走ったが、外走りではキロ平均6分30秒がやっと、ジムでも6分20秒がやっとという感じだろう。そして今は、こんなことを思う。これ以上頑張ると、活性酸素絡みでかえって身体に悪いのではないか。その活性酸素絡みの、各スポーツ人平均寿命を調べたので、ここにもちょっと書いておこう。
『ネットで見つけた一つの実証調査結果を観てみたい。2016年8月30日号の「週刊FLASH」に載ったという大妻女子大大澤清二氏の競技別平均寿命調査結果をピックアップして紹介する。その調査対象は、1939年までに生まれた1920人のアスリート。野球とボクシング、相撲はプロが対象、他はそれなりに名の知られたアスリートの任意抽出調査なのだろう。
 先ず最長平均寿命は、陸上中長距離で、80・25歳。以下、剣道77・07、ゴルフ73・57、ラグビー72・51、柔道72・42、水泳71・19、陸上短距離69・99、サッカー68・50、野球66・29、自転車57・00、相撲56・69となる。』
 陸上長距離が普通人と変わらず、同じ陸上短距離や自転車、相撲が短い理由は、いわゆる最大限酸素摂取運動の活性酸素害だと思われる。瞬発型運動では、活性酸素に対する体内の防御機能向上がそんなに望めないのかも知れない。また、それぞれのスポーツ人引退後の生涯スポーツ取り入れ傾向との関係もあるのではないか。これを見るとやはり、子どもを大相撲界に入れるのは少々罪なこと。子どもが60で死ぬなんて、逆縁を作っていくようなもんだ。国民皆スポーツの時代に合わぬスポーツと言うべきだろう。

 無理をせずに長く走り続けるのが健康人生と思って、僕はこれからも走っていきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍晋三、嘘の履歴書   文科系

2021年01月17日 10時06分02秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 これも、一昨日に続いて朝日新聞本日社説の要約である。朝日を取っていない中部地方の人々に向けて。社説の見出しは、『「桜」の前に「1月20日」あり』。この社説結びが、このエントリーの題名『嘘の履歴書』になっている点がとても大事と考えて、先ずその部分を紹介したい。

『振り返れば、森友問題での「私や妻が関与していれば、首相も国会議員もやめる」が全否定路線の出発点だろう。加計問題で確実に増幅して、行きついた先が「桜」なのだ。
 「桜」での虚偽が暴かれたいま、審議時間の空費を嘆きつつ、改めて思う。
 きっと、「1月20日」も「うそ」だろうな、と』

 さて、この(2017年)1月20日に何が起こったのか。社説のこの下りを抜粋してみよう。

『「桜」を引きずる安倍氏に、ことしも「1月20日」がめぐりくる。
 もう一つの「虚偽」疑惑の日付である。
 2017年のこの日、安倍氏が議長の国家戦略特区諮問会議が、加計学園の獣医学部新設計画を認めた。いまも問われるのは、その当日に初めて、この計画を知ったという安倍氏の国会答弁の真偽だ。
 最初に尋ねられた17年6月には「(15年の)申請段階で承知」と明言した。それが、「総理のご意向」に象徴される「忖度」報道が広がると一転、1カ月半後に前言を翻して、「1月20日」だと言い出した。
 本人が知らないのだから、「腹心の友」への優遇などありえない。周りの官僚や政治家も忖度するはずがないという論法だった。
「なぜ最初からそう言わなかったのか」。質問者の自民党議員がそう言うほど不自然な転換で、「うそ」だと野党は見た。その後、「首相案件」と15年に書いたメモも見つかったが結局、うやむやにされた。
 この全否定で追及をかわせた体験が、「桜」につながったように見える』

 森友、加計、桜と繋がって疑惑を全否定する安倍「嘘の履歴」のそれぞれにまた、多くの嘘がある。森友では、そもそもの始まりの大安売りをごまかす嘘や、その「忖度」を打ち消した嘘。加計にも「獣医学部が不足している」という嘘と、「加計しかない」という嘘。桜では、「国家功労者称賛会」を「個人選挙功労者会」に換えてしまった嘘。こんな人物が日本国家歴代最長政権って、トランプの「フェイクと暴力政権」と並んで、それぞれの国、国民、政党はよほど胸に手を当てて考えてみないといけない。世界的に深刻な反省が始まっている新自由主義グローバリゼーション下の2強国家として、世界、国連などへのその影響力を考えれば、なおさらのことだ。株主資本主義への反省、改革は国連レベルでしかできないが、アメリカはリーマンショック総括の国連スティグリッツ報告を当初から妨害し続けてきただけだし、安倍がこれを実質助けてきたのだから。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『検察の「刷新」 うやむやでは済まない』  文科系

2021年01月15日 18時11分20秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 標記の『 』内の言葉は、朝日新聞本日の主張の一つ、その見出しである。見識のある文章と読んだので、中部地方には多い朝日を取っていない人のために要約、内容のご紹介をする。この問題が、安倍がやったことの中でも近代民主主義政治の根幹を揺るがすという意味で最悪なものと考えてきたからだ。森友、加計、桜に見えた「国政私物化」と公職選挙法違反、そして安倍が手を付けた日本学術会議会員任命拒否などなどの悪名高い遺産の中でも、これは最悪の、凶行とさえ言えるもの。絶対多数派国会を背景とした議院内閣制の首相が司法への起訴権力を握る検事総長人事を掌握するというのは、3権分立を打ち壊す独裁制への移行を意味するのである。

 この朝日主張は、こういう文章で始まっている。
『東京高検検事長の異例の定年延長をきっかけにした一連の問題などを受け、法務省に置かれた「法務・検察行政刷新会議」が昨年末に報告書をまとめた。
 せっかく各界の識者が集まったのに、極めて残念な内容に終わったと言うほかはない。・・・・大部分は委員の個別意見の紹介になっている。
 案の定というべきだ。』
 
 案の定とは、こう説明される。異例の定年延長に当然の批判が集中して、それへの法相答弁もしどろもどろとあっては、『苦し紛れに打ち出した「刷新」でしかなかった。何を期待されているのか、委員たちも困惑しただろう』というわけである。さらには、
『長年の法解釈を内閣の一存で変更して強行した定年延長の閣議決定や、それを事後的に正当化するものと批判され、廃案になった検察庁法改正案の立法過程などは、議論の対象外とされた』

 この主張の後半部分は、そのまま抜粋しよう。
『もっとも個別意見の中には、定年延長問題などに踏み込み、傾聴すべきものも少なくない。「法律の解釈変更が大きな関心を呼ぶことは事前に予測できたはずであり、できなかったのであれば組織の能力に問題がある」「内部的な議論の過程まで含めて文書が作成されるべきであり、法務省の取り扱いは公文書管理法に違反する。一からやり直すべきである」・・・。法務省にとどまらず内閣全体でこうした苦言を受け止めなければ、報告書の意義は本当に失われてしまう。・・・忘れてはいけないのは、定年延長の閣議決定はいまだ撤回されていないということだ。
 過去の国会答弁を無視し、行政が立法者のように振る舞ったにもかかわらず、前首相らに反省はなく、法務省、人事院、内閣法制局などの官僚も誰一人として責任をとらない。「法の支配」が揺らいだままの深刻な状況が続いている。
 検察の独立とは何か、政治と検察の関係はどうあるべきかという議論も生煮えのままだ。森友、加計、桜を見る会、そして検察人事と、政治への信頼を傷つけた数々の問題に管政権は向き合わず、うやむやにすることを図ってきた。・・・・』

 さて、最後に一言。これだけの凶行をしでかした首相だからこそ、これらの文章の意味がそもそも理解できるのだろうかと、僕にはそのことの方が恐ろしい疑問になったままである。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「破廉恥の領域」、安倍前首相   文科系

2021年01月14日 12時10分14秒 | 国内政治・経済・社会問題

 安倍前首相はもはや、破廉恥の領域に入っていると思う。「国権の最高機関」・国会において、これまで嘘を吐き通してきた桜前夜祭。その会場であるホテルの明細書、領収書を国会に提出するのを改めて拒んだと、昨日今日ニュースが流れている問題だ。こう、応えたのだそうだ。
「事務所にはない。(ホテル側が)再発行もしない」
 こんな国会対応がそもそも一体、許されるのか。日本国家の最高機関に対して、ふざけすぎた応えと言える。ちなみに、この問題には、明細書、領収書が出れば示されるはずの公職選挙法違反よりもはるかに大きい破廉恥が重なっているのである。
 桜を観る会は「国家功労者を称える行事」と聞いているが、こんな場に安倍を筆頭として自民党議員たちの「選挙功労者」らが呼ばれ、その数が年々増えてきたと報道された。国家行事、国家予算の私物化なのである。この問題は、選挙違反よりもその意味も、規模もはるかに大きいことと愚考する。

 ところが、それ以上に大きいと思われる安倍の破廉恥がもう一つ存在する。森友にかかわる「財務省ぐるみ忖度・殺人」事件だ。局長以下の財務省が組織ぐるみで首相忖度執行を行い、彼の国会答弁一言によって今度は一転、この忖度執行の「取り消し」、証拠改ざんに邁進したのである。安倍のこの一言「私か妻が関係していたら、議員も辞めます」は言いっ放し、忖度と改ざんの先頭に立った局長は栄転したままだ。

 さて、こんな全てが、現在まで放置されているのである。放置どころか、「何が悪い!」、「(口だけではなく)暴露できるならやってみろよ!」と、明らかに開き直っているのである。反社会的勢力並みの暴力だが、これも国会における絶対多数派を背景にした暴力なのである。国会野党の質問で自分がやりたくない応答を迫られた時「(それを行うかどうかは)国会がお決めになることです」。政党が暴力団になっている、こんなのが政治であるわけがない。絶対多数派政治がこんなに怖いものって、ヒトラー、東條を思い出させるような暗い世の中なのである。こういう行為を重ねてきた連中から、国民生活に真に思いを馳せるコロナ対策など出てくるわけがない。コロナ対策においても、選挙で勝つための道だけを探っているはずだ。そういうのを人は権力亡者と表現してきた。「五輪をやるためにこそ、コロナ対策に励む」、権力亡者らしい発想が垣間見えてならないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする