原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ブリッジが外れた…

2024年07月26日 | 医学・医療・介護
 一昨日の昼食時の事だ。


 ん??  また、入歯が外れたか????

 と思ったのは、“希望的観測”でしかなかった…

 外れたのは、入歯ではなく “ブリッジ”だった…… 😱 



 説明をしておくと。

 私め原左都子は、子供の頃から歯がすこぶる悪い。
 この責任は100%親(特に母親)の育て方によるものと、断言可能だ!

 何分、特に母親が子育てを120%祖母に任せっきりの家庭だった。 母本人は「有職者だから仕方ない。子育てをお願いしている祖母の責任だ!」と子育て責任を祖母に転嫁ばかりしていたものだが。
 祖母が大変しっかりした人物であったこともあり、その恩恵で私は幼心に何不自由なく育った感覚がある。
 そんな身にして、私も小さい頃は「おばあちゃんが悪いのかな??」と思わされていたかもしれない…  (口には決して出さなかったが…)
 
 ただ、そうではないことに気付いたのは 既にかなり大きくなって(中学生頃?)のことだった。
 そして、母に反撃した。「違うよ! 子育ての責任とは親にあるものだよ! 例え有職者だからと言って 祖母に全てを任せっきりでなく、必ずや祖母と話し合いの時間を持つべきだ。 特に子どもの健康に関わる事項に関しては、母のあなたから祖母に提案なり指導なりをするとの形で、主体的に子どもの健康を守っていくべきだよ!!」

 そのようなアドバイスを実母にしたことを覚えている。
 その時の実母の態度とは、「ほーかいなあ?」程度であり、何らの反省もなかったものだ。 (我が実母とは、元々その種の能天気・無責任タイプで自己反省の無い人間です…)😨 😭 



 我が歯に話題を戻そう。

 昨日昼食時に外れたブリッジは、おそらく世にも珍しい「特大(特長というべきか?)」の“5本連結ブリッジ”だった!
 要するに片側の歯茎の全てにおいて、全面的に噛む機能を果たしていたブリッジである。 
 このブリッジ、一人娘が中1の時に作った記憶があるため。 何と20年近くに渡って、我が噛む機能の中核を担ってくれていた計算となる。
 そうそう、保険診療ではなく主治歯科医師先生のアドバイスで、「自費診療」にて素材にこだわって作成したブリッジだった。

 昨日、外れたその“5本ブリッジ”を観察しての感想だが、「美しい!! まだ現役で使用できそう…」だったものだ!! 


 そんなことはあり得ず、自身の歯がボロボロのために今回ブリッジが外れたのは自明の理であり。 
 昨日、早速歯科医院を受診した。
 当然ながら、すぐさま新たなブリッジを作成することになったのだが。

 昨日は 当該ブリッジを支えていた残った我が歯のうち、ボロボロ歯の抜歯を実施した。
 このボロボロ度が激しく、何と1分程で簡単に抜歯が終了した。
 その他のブリッジを支えていた歯の根は、未だ健康を保っているとの事でそのまま残すらしい。

 そして、明日には早くも新たなブリッジの型取りをするとのことだ。


 実母には恵まれていない(今尚生存中だが…)私だが…

 どうやら、歯科医先生には恵まれているようで。

 これぞ、我が今後の長生きに向けての幸運としよう!! 😁 
 

やりたいことが無いから東京に住む???

2024年07月24日 | 仕事・就職
 今回のエッセイは、2024.07.23付朝日新聞夕刊記事「取材考記」より、くらし報道部 藤谷和弘氏著「『ありのまま』望み 東京出られなくなる若者」より引用しよう。

 
 地方出身で、「本当は地方に住みたいけど、いま東京に住んでいる人、知っていますか」 
 こんなメールを何人かの知合いに送った。 東京一極集中に関する取材で、地方から東京に若者が引き寄せられる理由を探りたいと思っていた。
 岩手県出身の会社員某男性(23)に話しを聞くと、「東京に住みたくて、住んでいる」という。 東京でやりたいことがあるからかと思ったが、違った。
むしろ、やりたいことがないからですね」 (途中大幅略)
 2011年の東日本大震災後、男性の地元には都会から多くの若者がボランティアできて、そのまま岩手に定住した人もいる。
 私も岩手に赴任していたとき、取材した。 自由だが孤立した都会の生活を離れ、「一人でい活きている感覚が無い」と語る若者の表情は喜びに満ちていた。
 「自分が何がしたいのか」と考えるようになったのは。答えが見つからず「何者にでもなれる」東京を選んだ。
 価値観や働き方の変化が進み、住む場所は選びやすくなった。だが、情報が溢れ、選べるけど決められない。 そんな時代に鍵となるのが、「何者にでもなれる」と言う感覚かもしれない。 (中略)
 自由だが孤立した都会の生活を離れ、「一人で生きている感覚が無い」と語る若者の表情は喜びに満ちていた。
 価値観や働き方の変化が進み、住む場所は選びやすくなった。 だが、情報が溢れ、選べるけど決められない。 そんな時代に鍵となるのが「何者にでもなれる」という感覚かもしれない。 (途中大幅略)
 物理学者のBossBさんに「ブラックホールは吸い込みません!」と突っ込まれた。 東京に関して「ブラックホール」という言葉を使いたいのならば、「一度東京に出たら出られない、出たくなくなる、という意味で使っていただきたい」と言う。
 完全に盲点だった。 不明を恥じるとともに、「出られなくなる」という視点は重要だと気付かされた。 一極集中の行方は、日本社会の将来を占う。 今後も様々な角度から掘り下げたい。

 (以上、朝日新聞「取材考記」より一部を引用したもの。)



 原左都子の偏見かもしれないが。

 朝日新聞記者の、特に「文系出身者」が書かれた記事を読ませて頂くと。
 我が直感の反応として、「ちがうなあ…」なる違和感を抱かされざるを得ない。

 その前例を上げると、朝日新聞社で既に次長にまで上り詰めておられる大学「教育学部」ご出身の女性記者の〇〇さん(スミマセン、忘却しましたが敢えてこのままにさせて頂きます。 後に調べましたところ、岡崎明子氏との方です。)が医師の診察時の態度に関する論評をされていた記事があった。
 その際にも私ども原左都子は 医学者として大いなる違和感を抱かされ、反論エッセイを熱く綴り公開させていたいたものだ。 (参考ですが、当該バックナンバーは、今尚 我がエッセイ集の人気記事として日々ベスト50内にランクインしています。)


 そんな原左都子が、当該「取材考記」に関して御意見させていただこう。

 元々ド田舎者の原左都子だが。 過疎地郷里から単身上京して既に40数年の年月が経過している。

 その間に 過疎地郷里へ帰りたいなどとの発想が出たことが、ただの一度も無い!!
 大都会東京で、特に医学を筆頭とする学問・研究で得た能力を十二分に発揮しつつ。 あくまでも自己評価に過ぎないが、十分に業績を上げながら(イコール:ある程度恵まれた報酬も得続けて)しつこくも面白おかしい人生を生き抜いてきている我が身だ!


 
 そんな原左都子として、言わせていただきたいのは。

 「やりたいことが無いから東京に住む?」など、東京にて成功している人間に対して失礼千万だ!!

 「やりたいことが実現できる(提供してくれる)要素満載の東京」だからこそ。
 原左都子の場合は職業に加え(それ以外の分野でも??)私なりの成功を勝ち取って来れたと自負している。

 既に高齢域に達している私だが。
 今後も一生 この大都会「東京」にて私らしく生きるための自己実現を、積極的に続行したいものだ!!


ネット通販のウィッグ騒動、理想的な形で決着しました!!

2024年07月23日 | 自己実現
 本エッセイ集において、2024.07.19付で「朝からとことん『ウィッグ騒動』に翻弄される日だ…」と題するバックナンバーを公開したが。



 これが、驚くほどに理想的な決着をみた!!

 昨夜パソコンのメールを開いてみると、当該ウィッグを販売している通販企業よりご丁寧な返信が到着していた。
 その内容を思い出すままに要約すると、「この度は、我が社が取り扱っているウィッグに関して 商品ご返送いただきましてありがとうございました。 お約束通り、ウィッグ代金は頂きません。」
 その種の内容のメールが到着して、この件は私の希望通りに決着した。


 私もおそらくネット通販を頻繁に利用している人間であると想像するが。

 今回の事例のような経験は、初めてである。
 今回の場合、とにかく商品の代金が高額(とは言ってもたかが2万円少しの商品)だったが。

 いえいえ、到着した商品(ウィッグに限らず、衣類、靴、鞄等々に其の事例が多い)が気に入らない!との経験はもちろん星の数ほどある。
 ただそれらの商品の価格とは、せいぜい数千円どまりだ。
 そうした場合、大騒ぎするより自分の“商品選択ミス”と捉えて廃棄処分して諦めるのが通常だった。


 今回のウィッグに関しては、私なりの大いなるこだわりがあった。

 とにかく、40歳時に「頭部皮膚癌」を患い、一生に渡ってウィッグのお世話にならざるを得ない身だ。

 40歳時から現在までに、完全オーダーにて制作したウィッグ(価格 数十万円)や、市販のウィッグをどれ程購入して来たことであろう。 総額で数百万円をウィッグに投資してきている事実に関してはバックナンバーにて幾度も述べている。)

 高齢域に入って、ありがたい事に世が“ウィッグがすっかり市民権を得る時代”となり。 その現象に比例して ウィッグ取扱業者が(世界規模で)急増すると同時に、その価格が大幅に下がる現象が起きた!

 これは、私にとってはラッキー以外の何物でもない!
 急いで今まで利用していた国内最大手のウィッグ企業(A社)との縁を切り。(とは言っても、未だに電話セールスが後を絶たないのだが無視を決め込んでいる!)、ネット通販に切り替えた!


 当初、私の判断で利用したネット通販にて中国の「ウィッグ企業」から送られてきたウィッグが。 なんと! 私が欲しかった理想とするウィッグだったのだ!!
 その作りのハイレベルさに驚かされ、その後何本もまとめ買いをさせていただくこと相成った。  (というのもウィッグ1本1本の全てが手作り製品のため、どうしても各商品ごとの個別差が出るのはやむを得ないだろう。 中には使い物にならない商品もあった。  ただし、 何分国内大手A社商品と比較すると価格がまさに30分の1であるため、その事態すら“必要悪”との解釈で済ませられた。)



 とにもかくにも、我が今回のウィッグ騒動は昨日完全に理想的決着をみた。

 某中国ウィッグ企業、及び、国内にてその商品を取り扱っている通販企業の今回の我が返品騒動に於ける “理想的な形での決着"に。

 心より、御礼申し上げます!!


再掲載「誰にでもついて行く女」

2024年07月22日 | 人間関係
「原左都子エッセイ集」4本前の2014.5.16バックナンバーに於いて、「“みんな主義派 V.S “人間関係こだわり派”」と題するエッセイを綴り公開した。

 上記エッセイは、私がペンネーム「原左都子」名で登録しているFacebook上の友達(通称)mito氏とのチャットやり取りをエッセイにまとめて公開した内容である。
 mito氏が当該エッセイをFacebook上でリンクして下さったお陰で、このバックナンバーにはその後数多くのアクセスを頂戴している。 その現象に、この世には人間関係で苦悩する市民の数多さを再確認させられる思いでもある。
(参考のためここでmito氏の略歴を述べるならば、東大ご出身、現役大学教授であられる。)


 さてその後、Facebook上でmito氏及び当該エッセイにコメントを頂いたmito氏のご友人との間で、チャットはまだ続いた。
 この内容こそが今回のエッセイを綴るきっかけとなったため、以下にその一部を紹介させていただこう。

 原左都子
 mitoさんと原左都子との関係とは実におもしろい♪のです。 そもそも知り合ったきっかけキーワードが「70年代ディスコサウンド」であり、お互い実際にディスコダンスを踊り合ったのが最初の出会いでした。 私にとってはこの突拍子もない出会いが最高だったとも言えます。 その後Facebookに場を移して後は、お互いに自由議論が成り立っていると私は解釈しております。

 mitoさん
ネットの醍醐味ですね。
ぼくは、ディスコダンスを教えてあげるつもりで、
たまたま見つけた原さんのディスコ音楽のブログ書き込みに、
某ディスコ大会へのお誘いをレスしました。
本当に来てくださいました。
と、その前に、ディスコについては、
彼女はクィーンであることを身に知らされました。
ほんと、かっこよかったです。
ぼくは昔から、ステップを教えるのは上手なんですが、
自分が踊るのは下手くそなんです。
ぼくらの若い頃は、
ディスコで上手に踊ってる女の子は、
みんなかっこ良くて、
高嶺の花でした。
それよりは若い世代ですが、
原さんはそういう女性だったのです。
僕らが淡く憧れていた不良少女だったかどうかは、
まだ聞いておりません。(笑)

 原左都子
 mitoさんは私より少し早く70年代ディスコデビューされたようですが、好きなディスコナンバーがかぶっていて都内某所では何曲も一緒に踊りました!
 mitoさん、私が不良少女だったかどうかは不明(と言うよりヒ・ミ・ツ)ですが、長い独身時代を通じてずっと主体的に「自由人」を貫いたのは確かです。♪♪
 (以上、Facebook上でのmito氏とのやり取りのうち、原左都子にとって“都合のいい部分”のみをちゃっかり引用したもの)


 さて、今回のエッセイ本題に入ろう。

 「恋愛・男女カテゴリー」に位置付けた本エッセイに於いては、要するに、mitoさんよりの上記Facebookご質問に回答するべく、原左都子がこと“男関係”に於いて、「不良少女」だったか否かに関して自ら論評せんとするものである。

 結論から言うと、上記mitoさん宛の返答内でも述べているように、(私自身の解釈では)あくまでも独身時代は「自由人」を貫いただけの話で、決して「不良少女」ではなかったと自己分析している。


 ここから、原左都子若かりし時代の私事を語ろう。

 新卒入社で東京に本社を有する民間会社(参考のため現在東証一部上場企業)に、私は医学専門社員として勤務していた。
 その当初まさに時代が70年代後半期であり、私は週末には新宿・六本木等々のディスコへ会社の女性友人らと共に通い詰めていたとも表現できるであろう。 
 元々ダンス好きの私はディスコの最前列にしゃしゃり出て、得意のダンスを披露したものだ♪ そんな私に目を付ける男性ディスコ客が多かったのも事実だ。  ただし、元々客観力が取り柄の私としては、必ずや声をかけてきた男性と十分なる会話の上に虎視眈々と相手の“人となり”を見極める作業は欠かさなかった。(酒に強かった我が身体的条件にも助けられたのだが。)

 我が20代前半頃の民間会社内に私事を移そう。
 勤務先に於いても、20代前半の“うら若き”私に「お誘い」を寄越す男性は少なくなかった。(このシチュエーションの場合、ディスコで知り合う相手と比較すると、おそらく学業・職業的バックグラウンドとしてはある程度一致していると考察して間違いないであろう。) 片やそれら男性どもに対しても当然ながら私なりの好みはある。 第一関門としてまずは「外見」で切り捨て、それをクリアした男性に関して私は「面談」方式を採用したのだ。
 ところが、私が当時採用した「面談方式」が社内同年代女性社員よりバッシングされる運命だった!
 彼女らが言うには、「あの人(私の事だが)、『誰にでもついていく』タイプね」
 ところが、時代は未だ「適齢期」なる俗語が蔓延っていた頃である。 その言葉で私を蔑んだ彼女らはさっさと結婚・出産して会社を去って行った…。 


 原左都子の私論に入ろう。

 我が20代前半期に、私を「誰にでもついていく女」と蔑んだ彼女らの思いも十分理解可能だ。
 要するに70年代後半期に民間企業に勤務していた彼女達は、“適齢期”に狭き社内で“寿退社”を狙い結婚相手を模索するのに血眼状態だったのだろう。

 ところが我が理想は遥か遠いところにあった。 結婚などしている場合ではないとの。
 自己実現意欲に燃え続けていた私にとっての男の存在とは、自分の夢に付き合ってくれるキャパ無くして成り立たないのだ。 そんな男を追い求め、近づいてくる男の「面談」を実施するため会合を持っただけの話である。  
 要するに、決して誘いをかけてくる男に受け身で「ついて行った」のではない。 独身を貫きたい私側として、それを理解出来るキャパある男を私側から選別するべく積極的に対応しただけの話なのだ。


 で、それがいつも成功したか、ですって?
 いやいや我が若かりし時代には、相手男の「外見」にこだわり過ぎての失敗もあったことは事実だ。

 そんな原左都子20代前半期の恋愛失敗談に関しては、2008.5.22「傘を返して欲しい」、2008.6.13「別れて下さい」 等々バックナンバーでも公開しておりますので、そちらをご覧頂けますように。 
 (不謹慎ながらも、私自身が今読み直しても結構面白い内容ですよ~~♪♪) 


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 2024.07現在、残念ながらmitoさんとはその後疎遠になっている。

 当時より、さすが東大ご出身の大学教授だけあって 頭の切れる方だったものだ。

 それにしても、趣味が「ディスコダンス」と原左都子との共通項があったが故に、お知り合いになれたのだが…

 私よりも少し年上の方だったが、未だ大学教授職を続行されているのだろうか??
 そして、女子大学生を中心に、今でもご自身の趣味である「ディスコダンス」を享受されているのかもしれないなあ…


 mitoさん、この原左都子など、未だに毎晩自宅にて「ダンスエクササイズ」を実行する程のディスコダンスマニアを、バリバリ続行していますよ!!!😁 😱  
 

六本木「アマンド」、懐かしいなあ…

2024年07月21日 | 自己実現
 (冒頭写真は、2024.07.17付朝日新聞より転載した 過去の六本木「アマンド」の写真。)


        
 こちらは、同じ朝日新聞記事より転載した、新しい六本木「アマンド」等の写真、他。


 私め 原左都子が過疎地郷里より上京したのは、1970年代後半期の事だった。
 医学専門職員として都内に位置する医学関連企業へ入社する目的で、郷里を捨て親を捨てて単身上京を実行したのだが。

 もちろんのこと、入社直後から医学業務に精力的に励む傍ら。

 すぐさま出来た友や彼氏に誘われて(いやホント、自分でも不思議かつ面白おかしい程に、すぐに友や彼氏に恵まれたものです!!)、夜間は当時流行りのディスコ三昧だった!!
 いや、他の目的にも もちろん 誘われたのだが。
 我が当時の一番の趣味が音楽でありダンスであったことが幸いして、ディスコに慣れ親しむ(というよりも“ディスコ狂”と表現するのが正解だろう?!!)のが人よりずっと早かっただろう。

 上京当初は、新宿歌舞伎町のディスコへ行く機会が多かったかな?
 今尚憶えているのは、ロサ会館といっただろうか、その建物の中に位置していた「カンタベリーハウス・ギリシャ館」に「カンタベリーハウス・ビバ館」、あるいは程近い場所に「椿ハウス」なるディスコも存在した。
 はたまた、「クレイジーホース」、 少し年数が経過して、20代半ば頃には伊勢丹デパートの近くの「ラジオシティ」にも凝ったなあ。


 話題を六本木に戻そう。

 私が六本木で一番足繁く通ったのは、サパークラブ「最後の20セント」なのだが。 
 その他、ディスコビルとして有名だった「スクエアビル」(と言ったかな?)との建物内の各階のディスコにも通った。

 六本木駅の飲食街方面に出口を出たすぐ右側に、冒頭写真の「アマンド」が存在した。
 まさに、冒頭写真の如くピンクと白のカラーコーディネートがド派手な喫茶店だったのだが。

 この私が 当該「アマンド」を客として利用したのは、ただの一度のみである。
 上記サパークラブ「最後の20セント」にて知り合った男性と、帰り道にこの「アマンド」に立ち寄ってお茶を飲んだ記憶がある。

 参考だが、この私は90年代に流行った低俗下劣な「お立ち台」があるディスコにはただの一度も訪れていない。
 私に言わせると あれはダンスを楽しむというよりも、低レベル女どもが自身の身体を武器に男をおびき寄せる場、であったのでは無かろうか???
 (一度も行っていない身にして、いい加減な評価を慎むべきだろうが。)



 六本木「アマンド」に話題を戻そう。

 時代が2000年代に入ると六本木でも大規模な再開発が続いた。 03年には六本木ヒルズ、07年には東京ミッドタウンとのオフィスビルや商業施設が入る高層ビルが開業し、国立新美術館もオープン。 働き手や買い物客、観光客が行き交う「昼の街」へと六本木は表情を変えていった。

 (以上、再び朝日新聞記事より引用したもの。)



 まさにそうなのだろう。

 この原左都子も、今となっては「国立新美術館」へ行く目的で六本木を訪れることはあるものの。
 夜の街「六本木」を訪れる機会が無いなあ…、と振り返って久しい。

  地下鉄六本木駅を降り立った出口には、新しく誕生した「アマンド」が開店したとのこと。

 機会があれば、ディスコ三昧に興じていた我が上京直後期の若き時代を一人振り返る目的で、新たに誕生した「アマンド」を訪れてみるのも いいかも!?!?