原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

会えばいつも「私は早く死にたい」と訴える高齢者の深層心理

2017年05月10日 | 医学・医療・介護
 連休明け初っ端の私の仕事は、現在高齢者有料介護施設に入居中の義母の病院付き添いだ。

 元々5月に眼科受診予定だったのだが、連休前に義母から電話が入り「早めにお医者さんに看てもらいたい」との意向だ。 
 「5月の連休明けは病院の混雑が予想されますから、もし悪化等の症状が無いようでしたら中旬以降で如何ですか?」と私が応えたのだが。 「連休明けに直ぐに行きたい!」との義母の希望を優先し、昨日病院受診と相成った。

 総合病院内眼科受診のため混雑を予想し早目の施設出発を目指した私だが、施設へ到着してみると義母がまだ着替えをしていない有様。(参考だが、義母が外出する時は必ずまるでパーティに行くがごとく華やかに着飾って出かける習慣がある。)  それを待つ事20分。  更には施設よりタクシーを迎車しても混雑中との事で、タクシー到着まで20分。 (タクシー到着が遅くなってもちゃっかりと“迎車料”を請求されるのは致し方無いとして…。)
 40分ものロスタイムとの失策の後、病院へ到着してみればやはり午後の診察受付開始時間に大幅に遅れを取っている。 更には受診カードが再診マシンに投入出来ないトラブル発生。 総合受付まで“よたよた歩きの義母”を同行したら「問診票」を書かされる(私が代筆)はめとなり、やっと眼科受付へ到着した時には予定より1時間以上出遅れていた。

 高齢者の病院受診付添いとは、トラブルを覚悟の上でないと実行不能な事は重々承知している。
 その中でも「待ち時間」が長引く事態こそが、高齢者の付添人にとって一番の打撃だ。

 何故ならば特に義母の場合、認知症状があれば耳も遠い割には身体は比較的丈夫で“おしゃべり好き”なのだ。
 普段は施設内にてスタッフの皆様や入居中の仲間と会話を持つのであろうが、スタッフの皆様は多忙、また入居高齢者仲間は義母同様に認知症状があったり耳が遠かったりで、果たして会話が会話として成り立っているのかどうか……
 そうした場合、義母とて「会話が確かに繋がった!」と一番実感出来る保証人である私に日頃のストレスを思う存分ぶつけたいのが本音であろう。
 その義母の思いには応えたい。 それこそが我が義母病院受診付添い役の神髄だと覚悟を決めている私だが、これがあまりにも長引くとこちらのストレスが蓄積するばかりだ。 


 昨日はこの義母の長話に、病院待合室にてすっかりはまってしまった。

 待合室内での義母の話は延々と続く……
 やれ、入居者の誰それがどうした。 スタッフの誰が氏かが何をした。 親戚筋の某氏が現在どうなっている。 私が露知らない話題に対しては、「そうですか。それは大変でしたね。 それは困りましたね。」等々とお茶を濁しつつテキトーに相槌をうっていれば事が済む。 ただ大変なのは、電光掲示板の表示もお構いなしならば、途中でトイレへも行けない程に義母の一方的な会話が弾む。 私が時折電光掲示板を確認する作業をすると、(あら、この人私の話を聞いていないのかしら!?)なる嫌悪感を抱いているような表情すら浮かべる程に、今現在病院の待合室にいることを忘却しつつ義母の会話が続行する。

 ただ既に4年半に及び義母の病院付添いを実行している私にとって、そんな義母の相手はお手のものだ。

 そんな中、ここ2、3年義母の病院付添い時に決まって話題に出るのが、表題の「私、早めに死にたいのよ」である。 
 義母の場合、自身の病院(お医者さん)好きとは裏腹に、認知症と耳の聞こえの悪さを除けば私の見た目診断によれば、通常の老化現象以外に特段身体に致命的不具合がないのだ。 故に我が判断としては義母は長生きするのではないかと予想している。 
 おそらく、義母は自身から「私は早く死にたいのよ」との話題を私に持ち出す事により、「何をおっしゃるのですか。お母さんが長生きされることを皆が喜びますよ~~。」なる返答を一番に待ち望んでいるのだろう。
 そう言ってあげるのが義母にとって一番理想的なのは承知の上で、敢えて私は別の言葉を選んでいる。「いつお迎えが来るかは誰にも分からないですよ。私はお義母さんは長生きされると思っていますから、出来れば楽しい日々を過ごされるといいですね。」 

 義母も我が返答に少し同意しつつ、「楽しく過ごす事が一番難しいのよ」…… 

 いやいや、これも重々納得だ。
 そこでひるまず、私も義母に再確認した。 「お義母さんは、今何をしている時が楽しいですか?」
 義母応えて、「それが無いの…」  更に私が、「お義母さんは、昔習い事を沢山していらっしゃったではないですか? その中で何か今でも出来る事を再開すればどうですか?」
 義母応えて、「年を取るとそれさえ嫌になるのよ」……


 最後に、私論に入ろう。

 高齢者皆が皆、そうであろうとは思いたくはない。
 
 実は義母が一番したい事を私は知っている。
 それは高齢域に達し認知症状に苛まれては自分一人の意思では叶わない事象だ。(ここでこっそり書くとそれは「恋愛」だ。 義母は持って生まれた美貌及び事業家として活躍したその過去の業績故に、周囲に義母に蔓延る男がごまんと溢れていた様子だ。 )
 実家の事業を引き継ぐとの栄華の時代が遠い昔に過ぎ去り、その時代に恋愛三昧だった過去が、高齢者介護施設へ入居した暁には義母が欲する意の様には叶わない。
 かと言ってあの素晴らしい時代の享楽に比し、老いぼれの身となり果ててはその代替となる対象物など見つかるすべもない…
 そんな義母が発する「私は早く死にたい」なる言葉の真意が分かる気もするのだ。

 ただ、私は義母とは歩んだ人生が大幅に異なる。 
 「恋愛」ももちろん素晴らしく人生の糧となろうが、それ以外の他分野にも自身が本気で打ち込める対象物が義母にあったならば、老後の生き様ももう少し違っただろうにとの思いを抱いたりもする。

 私自身は今後一体いつまで生きるのかは測り知れないが、他者に対し「私は早く死にたい」などと訴えずして自己責任で全う出来る人生を歩み続けたいものだ。