原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

やはり“ブラック色”が強い渡辺美樹氏創業のワタミ

2013年08月03日 | 時事論評
 7月21日に実施された参議院選挙に自民党より立候補し、“辛くも”当選を果した渡辺美樹氏は、言わずと知れた「外食チェーン ワタミ」の創業者である。
 臨時国会が召集された昨日8月2日には、参議院初当選新人議員121人の一人として渡辺氏も国会に初登庁したようだ。

 2011年の東京都知事選では都議会民主党の支援を受けたものの落選。 そして今回は自民党より出馬要請を受け、ワタミの役職をすべて退いての渡辺氏の参院選立候補だったらしい。
 それにしても、短期間で民主党から自民党へ鞍替え?? 企業創業者としての渡辺氏の手腕の程はともかく、政治家としての氏のポリシーの程が何とも理解し辛い…。


 8月2日朝日新聞朝刊に掲載された渡辺美樹氏に対するインタビュー記事内容が、現在ネット上で非難囂囂(ごうごう)との事だ。
 実は昨夜原左都子も当該記事に目を通して、ワタミの役職をすべて退いたという渡辺氏の相変わらずの“冷血”“独裁”ぶりに背筋が寒くなったばかりだ。

 早速、上記インタビュー記事内の渡辺氏の言い分を以下に一部要約して紹介しよう。
 今回の参院選は想像を超える逆風だった。 それもそのはず、マスコミや一部の政党からワタミが「ブラック企業」批判の標的となった故だ。
 5年前に一人のワタミ新入社員が労災により自殺したことは事実だ。 これに関しては会社を挙げて命がけの反省をしている。 社会が一企業に「ブラック」とレッテルを貼るのなら、何らかの基準が必要だ。 離職率が高いのか、給料が安いのか、労災事故が頻繁に起きているのか。 一部の指標だけで「ブラック」と見極めることは小企業やベンチャー企業の育成を大きく邪魔する。
 ワタミ社内冊子に「365日24時間死ぬまで働け」と書いているのも事実だが、その前後を読んで欲しい。 仕事というのは時間とお金のやりとりをしちゃダメ。 仕事は生き様であり仕事を通して生きがいとか成長がある。だから365日24時間という気構えでやろうという事だ。 その時に大切なのは、みんなで助け合いながら一人ひとりの成長に寄り添っていこう、という話だ。
 労災での過労自殺の原因とは、なぜ(そんな事で自殺する奴を)採用したのか、なぜ入社1ヶ月の研修中に適正、不適正を見極められなかったのか、なぜ寄り添えなかったのかであり、本当に命がけの反省をしている。   (  中  略  )
 国会議員の働きぶりをまだ見ていないが、いま一生懸命、自民党の公約を読み直している。 議員が命をかけてみんなでやったら無駄はないだろう。 
 最後に「国会議員は365日24時間死ぬまで働かないといけないのか?」との朝日新聞の質問に渡辺美樹氏答えて曰く、「その通り、国民のために。」
 (以上、朝日新聞8月2日渡辺美樹氏インタビュー記事より一部を要約引用)


 私論を述べる前に、現在ネット上で非難囂囂(ごうごう)との部分を上記インタビュー記事内から紹介しよう。
 それは、ワタミ社員労災での過労自殺の原因を問われての渡辺氏の言及箇所である。 <なぜ(そんな事で自殺する奴を)採用したのか、なぜ入社1ヶ月の研修中に適正、不適正を見極められなかったのか。>
 この渡辺氏の言及が元社員に適性がなかったために自殺に追い込まれたとも読める内容だったことから、「命を軽く扱うな!」「苦しい言い訳がたくさん」との厳しい意見・反感がネット上で飛び交っているようだ。

 原左都子もネットの意見・反感にまったく同感である。
 加えて渡辺美樹氏とは参院議員と成り果てたこの期に及んで尚、ワタミ創業者・経営者としての独裁的体質から脱出し切れず、あくまでも自分こそが“創業者”との立場にすがり、この世を生き延びようとしている事を垣間見るような気もする。
 もしも渡辺氏がワタミを創業して一企業のトップとなった時点で、入社してくる社員の力を結集して真に強い企業を創設していこうと志したのならば、社員の労災自殺者など一人として出していないはずだ。 
 一下っ端社員の心情に一切向き合えていない創業者など、企業のトップであり得ない! 民間営利企業とは「ヒト」「モノ」「カネ」の総合力で成り立っている集合体である事を、渡辺氏はどれだけ認識出来ていたのであろうか?

 それよりも私にとって上記渡辺美樹氏の朝日新聞インタビュー言及内でもっと辛いのは、以下の箇所である。

 <ワタミ社内冊子に「365日24時間死ぬまで働け」と書いているのも事実だが、その前後を読んで欲しい。 仕事というのは時間とお金のやりとりをしちゃダメ。 仕事は生き様であり仕事を通して生きがいとか成長がある。だから365日24時間という気構えでやろうという事だ。 その時に大切なのは、みんなで助け合いながら一人ひとりの成長に寄り添っていこう、という話だ。>

 いやいや参った。 渡辺氏は本気でワタミ社内冊子に「365日24時間死ぬまで働け」と記載していたのだ!
 これ、明らかに労働基準法違反だよ。

 しかも渡辺氏の理論によると、「仕事とは時間とお金のやり取りをしちゃダメ」??
 う~~ん、確かにワタミなる企業は“飲食業”であるが故に、創業者がそう言ってそれになびく人種が社員になりたいとワタミに集結するのであろうか??
 ところがこれが専門職となると事情が一変するのだ。 自分が提供する仕事能力とそれに対する報酬を計りにかけてこそ成り立つ経営者と労働者の契約締結なのである。 私に言わせてもらうと、その“天秤能力”無くして、イッパシの人間として経営者側と対等な立場で世を渡っていける訳がないのだ。

 <仕事は生き様であり仕事を通して生きがいとか成長がある> との渡辺氏の言及部分は私も理解可能として、その後の、<だからこそ365日24時間という気構えでやろう> との論理が、やはり原左都子には絶対的に理解不能だ。 馬鹿な事言ってくれるなよ。 人とは自分のプライベート時間を充実して紡げてこそ、仕事に我が命が吹き込めるというものだよ。
 加えて、<その時に大切なのは、みんなで助け合いながら一人ひとりの成長に寄り添っていく事>、との渡辺氏の“嘘臭い”言葉こそに、“一匹狼”タイプで生き抜いている原左都子は反吐が出そうな嫌悪感を抱かされ、何が何でも拒絶したい部分である。


 最後に私論でまとめよう。

 おそらく渡辺美樹氏創業のワタミがこの国でここまで発展した背景には、渡辺氏の上記企業哲学を信じ、それを尊重し実行してきた末端従業員達の熱い思いがあっての事だろう。
 それにしても、渡辺美樹氏は今回ワタミの役職をすべて退いて参院議員になられたとの事だが、今後如何なる人材にワタミの経営を任せたのであろうか?

 原左都子の私論としては、“経営者側等トップに立つ者こそが365日24時間働くべき”との渡辺氏のご持論には賛同する。
 今回参議院議員となられた渡辺美樹氏の今後の“365日24時間”の議員活躍に是非共期待申し上げると同時に、「ワタミ」を引き継いだ後継者トップ陣が末端労働者に優しい人格者であり、今後決して過労死社員を出さない事を一市民として切望したいものだ。

名誉欲が科学探究の喜びを歪めるのか?

2013年08月01日 | 時事論評
 東京大学分子生物学研究所のグループがこれまでに発表してきた研究論文の内容に改ざんや捏造の疑いあることが発覚し、研究室教授がその撤回に応じるとの事件が発生したのは先週の事である。

 改ざん、捏造の疑いのある論文の総数がなんと、計43本!
 著名科学雑誌に発表してきたそれら一連の“不正研究”のために、20億円以上の公的研究費が投じられているらしい。
 しかも、改ざん論文には20名以上の研究者が関わっているとの事だ。 その中の誰か一人でも改ざん・捏造に反対し“インチキ論文発表”を食い止める人物が存在しなかったのか? 
 原左都子に言わせてもらうと、不可解感極まる事件である。

 研究室長である教授は「監督責任がある」として、既に昨年3月末に辞職。 今後、学内検証を経て不正が正式に認められた場合、文科省等の研究費配分元は研究費の打ち切り、そして不正に使用された研究費の一部または全額返還を求める検討に入るとの報道である。 (朝日新聞7月25日記事より引用)


 上記東大の不祥事をはじめとして、最近国内で多発している科学研究上の不正行為を受け、文科省系独立行政法人科学技術振興機構(JST)は研究基金配分先の研究者を対象に、不正防止の倫理研修を義務付ける決定を行ったとの報道だ。
 国内で多発する研究不正は国民の科学に対する信頼感を歪め、「経済成長戦略の妨げにもなりかねない」との危機感をJSTが抱いたようだ。


 ここで一旦原左都子の私論だが、度重なる科学研究上の不正行為は、JSTの危機感通り国内の科学発展を確実に阻害し、ひいては経済成長戦略の妨げになろう事は間違いない。

 それにしても、いい大人である科学者相手に今更“倫理教育”??? 
 確かに科学者達とは、(誤解を怖れずに言うと)“世間知らず”の“頭でっかち”タイプが多いのかもしれない。 原左都子自身の過去に於ける科学経験の道程に於いても、“その種”の科学者に数多く出会っているような記憶が無きにしもあらずだ。 (頭がいいのは認めるけど、この人と深く係わりたいとは思わないよな~~)みたいなーー。
 「倫理研修」ねえ~~。 その内容や講師次第でJSTが実施する「倫理研修」も効力を発揮するかもしれないが、原左都子の印象としてはどうも期待薄だ。
 どうせ“天下り団体”であろうJSTが主宰する「科学者倫理研修」も、結局はJSTと癒着組織との“我が身息災”研修を実施するのが関の山かと考察出来てしまうのが辛い……


 原左都子の私事に入らせていただこう。

 元々科学者の端くれ(あくまでも“端くれ”の域を出ていない事は承知しているが)人生を一時歩んだ私にとって、科学研究とは日々我が目を覚まさせてくれるがごとく実にエネルギッシュでエキサイティング!な存在だったものだ。

 そんな若き日の我が熱き“科学者魂”を「原左都子エッセイ集」“学問・研究”カテゴリーに於いて綴り公開しているため、ここで紹介させていただこう。
 以下は、2007年10月公開の 「self or not self」 よりその一部を引用。

 私は20歳代の頃、新卒で民間企業に就職し医学関係の仕事に従事していた。医学関係と言えども分野が広いが、私が携わったのは免疫学関連の分野である。
 医学(特に基礎医学)にも“ブーム”があるのだが、その頃(1970年代後半から80年代以降にかけて)免疫学は目覚ましい発展を遂げていた時期であった。 当時の日本における免疫学の第一人者といえば、東大医学部教授の多田富雄氏や阪大医学部教授の岸本忠三氏(お二方とも当時の所属)などがあげられる。その頃、私はこれら免疫学の研究分野において第一線でご活躍中の諸先生方の最新の研究成果を入手したく、(会社の出張費で)単身で全国を飛び回って諸先生方の“追っかけ”をするため、「免疫学会」や「臨床免疫学会」「アレルギー学会」等研究発表の場へ情報収集に足繁く出かけたものである。
 以下の文章は、1993年発行多田富雄著「免疫の意味論」(青土社) を大いに参考にさせていただく事をあらかじめお断りしておく。(多田富雄先生はその後脳内出血で倒れられた後も多方面でご活躍されておられたが、その後他界されるに至っている。)
 加えて、医学は日進月歩の世界である。私が以下に述べさせていただく内容は、あくまでも1970年代後半から1980年代の私の免疫学体験に基づいた知識の上での話の域を出ていないものと解釈願いたい。
 免疫学を語る上での第一のキーワードが表題に掲げた“self or not self"という概念である。日本語では「自己か非自己か」と訳されている。
 「免疫」と聞くと皆さんはきっと、外部から進入してきた細菌やウィルスなどの外敵から自分の体を守った上で、その情報を後々まで記憶しもう一度同じ外敵が体に進入してきた時に発病しないような仕組みであると認識されていらっしゃることと思う。その認識で十分「免疫」は説明できている。
 そこでもう少し踏み込んで考えることにしよう。 外部から進入してきた細菌やウィルスなどの外敵を、なぜ自分の体が“外敵”であると認識できるのであろうか。 そこで登場するのが“self or not self"概念なのだ。 すなわち外敵(病原体)が体内に侵入すると「免疫」のはたらきによって、その病原体が持っている成分を自分の体内成分ではないもの(異物“not self")として認識し、この成分をやっつける物質(抗体)を作り排除して自分(“self")を守るのである。 1970年頃までの免疫学においては、上記のごとく「免疫」とは“not self"に対するシステムとしてとらえられていた。すなわち、外敵を認識しやっつけるシステムとして捉えられていたのである。
 ところがその後の研究により、「免疫」とは“self"を認識するシステムであることがわかってきた。 すなわち「免疫」とは“not self"を排除するために存在するのではなく(もちろん結果的には排除するのだが)、“self"の全一性を保証するためのシステム、すなわち「自己」の「内部世界」を監視する調整系として捉えられる時代に入るのである。 ところがこの“self"と“not self"の境界も曖昧なのだ。 それでもそんなファジーな「自己」は一応連続した行動様式を維持し、「非自己」との間で入り組んだ相互関係を保っているのである。 (詳細は、上記の多田富雄著「免疫の意味論」をお読みいただきたい。)
 “self or not self" 、当時の私は自然界の一所産である人間の体内にもこれ程までに素晴らしい哲学があることに感動したものである。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用)


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 真なる“科学者魂”とは、その分野にかかわらず科学を探究・追及する過程が実に面白いと思えるべく感動を享受する“ハート”こそを自己の内面に育成できている事ではなかろうか?
 私自身に関して言及させていただけるならば、その種の“ハート”はもちろん、少なくとも科学探究が可能な程度の学習能力もそれまでに培って来ていたと自負させて欲しいのだ。
 しかも幸いな事に私には若かりし頃より「名誉欲」も「金欲」もさほどなかった。 そんなものよりも、あくまでも“一匹狼”としてこの世を全うしたい原左都子にとって、もっとずっと大事な理念が我が内面に絶対的に存在している。
 それを一言で表現するならば 「自己完結力」 とでもお伝えできるのかもしれない…

 それにしても、東大分子細胞生物学研究グループの若手研究員が“不憫”でもある。 もしも若き彼らが、真に科学好き、かつ世間常識も兼ね備えているトップに研究室で出会えていたならば、若き研究者達も今後世界を背負って立つべく科学者としての生命を繋げただろうに……