原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

短命で死に際を迎えようが、自己の美学を貫きたい

2013年08月19日 | 時事論評
 今年6月末に義理姉を膵臓癌にて亡くし、その49日の法要(納骨)が先日8月15日に執り行われたばかりである事に関しては、前回の「原左都子エッセイ集」にて綴り公開した。

 身近な人物の死去に伴う葬儀や納骨儀式に参列する都度、人間との形でこの世に生を受けた一生命体の身として、如何なる死生観を貫き来たるべく将来に死を迎えるべきかとの、最高最大に重い課題を突きつけられる思いが募る。


 そんな折、新聞広告に於いて、原左都子のこれまでの死生観とほぼ一致する書籍の広告を見つけた。

 その題名は、 「どうせ死ぬなら『がん』がいい」

 この書籍の新聞広告に関する記載は後回しにして、とりあえず私事に移ろう。


 私自身が既に十数年前に癌罹患を経験しているにもかかわらず、その後転移再発もなくしぶとくこの世に生き延びている事に関しては、当エッセイ集バックナンバーでも幾度か公開している。
 ただし私の癌の場合は体の表面に発生したことが幸いした。 元医学関係者である私の判断として(良性・悪性の区別は不能だったものの)腫瘍の進行度合いが手に取るように分かったが故に、医療現場で悪性(すなわち癌)と診断された後の早期摘出切除手術が叶った事が幸いしただけの話である。

 一言で「癌」と言ってもその発生部位や悪性度、進行度合等々、それはそれはバリエーションの幅が大きいのが「癌」の現実である。

 冒頭に紹介した義理姉の場合、現在の医学技術レベルではほとんど救えない高死亡率の「膵臓癌」罹患であった。 姉は、主治医を初受診した後すぐさま大病院へ移ったものの、摘出手術が叶わないまま余命宣告を受けるに至った。 
 それでも、余命宣告を受けた直後の義理姉の「死生観」の素晴らしさに感嘆する原左都子なのである。

 私自身は義理姉とは婚姻後さほどの接触がない立場である故に、多少の人物像は心得ているものの、内面的に如何なるポリシーを抱いて生きて来られた人物であるのかはそれまで認識せずして時が流れていた。
 本人不在の場で医師より短くて3か月長くても1年の余命宣告を受けた親族達が、義理姉にその現実を如何に伝えるかと苦悩しているのに先行して、義理姉は自分が罹患した癌の悪性度を既に悟り、自分から担当医に今後の意思を伝えたのだ。
 義理姉の決断とは、後1年足らずの余命を承知してそれを受け入れ、抗癌剤使用を一切拒否したのである。 その後ホスピスへ転院した。
 5月中旬になり、ホスピス担当医の判断でもう死期が近いことを告げられた義理姉は「自宅で死を迎えたい」意向を告げ、直後に自宅に戻った。 ホスピスで体に繋がれていたチューブを全て外し、自宅に戻り経口水分摂取のみで命を持たせる事となる。 その時点での自宅担当医の見解は「長くて後2、3日」との診断だったところ、義理姉は経口水分摂取のみで自宅で1ヶ月生き延び、その後天寿をまっとうした。
 モルヒネ等“痛み止め”薬剤には依存したものの、義理姉は一切合切の「抗癌剤」投与を拒否して余命宣告後7ヶ月間生き延び、後に死に至った。


 上記新聞広告の、「どうせ死ぬなら『がん』がいい」 との書籍に話を戻そう。

 これは慶応大学医学部教授の 近藤誠氏 著作の書籍であるようだ。 実は私は以前にも、近藤氏執筆の別書籍広告を新聞紙上で見た記憶がある。
 どうやら原左都子の医学経験に伴う「死生観」が、上記近藤氏の見解と近いことを以前にも認識した事を思い起こした。

 それでは、新聞広告内に記されている近藤氏著書籍に関する宣伝文章を以下に紹介しよう。
 「検診によるがんの早期発見は、患者にとって全く意味がありません。」 「それどころか、必要のない手術で臓器を傷つけたり取ってしまうことで身体に負担を与えますから、命を縮めます」 「がんの9割は『末期発見・治療断念』『放置』が最も望ましいと思います。」


 原左都子の私論に入ろう。
 
 私自身が本エッセイ集バックナンバーに於いて、検診も受けない主義であるし、なるべく病院にも行かないよう心得ている事に関しては再三記述している。
 それが証拠に私は職場で毎年定期健診を強制される身分から解放された後は、たとえ自治体から検診受診案内が届こうと無視を貫き通している。 病院受診に関しては、自分で診断不能な病理が体内に出現した時には信頼できる主治医を訪れているが、いつも自己診断と医師診断の整合性を自分なりに分析し、対応策は自分で練りつつ現在に至っている。

 上記我が行動は、慶応大学教授 近藤誠氏がおっしゃる通りである故だ。

 そもそも、この国の政権と医学・製薬業界との癒着の長い歴史は強靭なものがある。 
 特に公教育現場や各種職場に於いて、毎年の「健康診断」が義務化されている事実をその組織に所属した人ならば皆ご存知であろう。
 学校や職場の指令に従い、毎年「健康診断」を強制される事が“アプリオリの善”とでもこの国の市民達は信じてそれを真面目に受診しているのであろうか!?! 
 その行動で我が身が一生助かる魔法にでもかかると、我が身息災に感じるのであろうか??


 6月末に壮絶な癌闘病の末他界した我が義理姉も、国や自治体から指示されれば素直にまめに検診に通ったり、あるいは心身の異常があれば自主的に主治医を訪れる人物であったようだ。
 そんな身にして、「末期癌」宣告の後はそれを我が事として受け入れ、その後の判断は自ら下したと言う…

 国と民間営利業界との「癒着」が受け入れ難く、普段よりほぼ一切合切の医療措置を拒否しているとも言える原左都子には、理解し難い義理姉の行動・決断である。
 義理姉と私の行動決断様式を分析してみるに、そこには元々培ってきている双方の専門力の差異があるとの結論に達しようか??

 それにしても、一旦「末期癌」の宣告を受けた後の義理姉死に至るまでの「死生観」の建て直し、及びその決意と実践の程がやはり“超人的”なまでに素晴らしいと驚嘆せざるを得ない。
 たとえ短命で死に直面しようが、下手な命ごいなどしてじたばたするのは我が美学に反すると感じつつ、もしも我が身が余命何ヶ月かの「癌」に罹患したとの状況に置かれた場合、義理姉を失った現在の私は「どうせ死ぬなら癌がいい!」との英断が下せそうもない程軟弱状態だ…。

 もしも近々「死」に至る運命を実際告げられるような場面に於いて、我が「死生観」美学を真に貫き通せるのか否かの命題を突きつけらた、今回の義理姉の壮絶な癌闘病死との突拍子もない出来事であった……。