東京大学分子生物学研究所のグループがこれまでに発表してきた研究論文の内容に改ざんや捏造の疑いあることが発覚し、研究室教授がその撤回に応じるとの事件が発生したのは先週の事である。
改ざん、捏造の疑いのある論文の総数がなんと、計43本!
著名科学雑誌に発表してきたそれら一連の“不正研究”のために、20億円以上の公的研究費が投じられているらしい。
しかも、改ざん論文には20名以上の研究者が関わっているとの事だ。 その中の誰か一人でも改ざん・捏造に反対し“インチキ論文発表”を食い止める人物が存在しなかったのか?
原左都子に言わせてもらうと、不可解感極まる事件である。
研究室長である教授は「監督責任がある」として、既に昨年3月末に辞職。 今後、学内検証を経て不正が正式に認められた場合、文科省等の研究費配分元は研究費の打ち切り、そして不正に使用された研究費の一部または全額返還を求める検討に入るとの報道である。 (朝日新聞7月25日記事より引用)
上記東大の不祥事をはじめとして、最近国内で多発している科学研究上の不正行為を受け、文科省系独立行政法人科学技術振興機構(JST)は研究基金配分先の研究者を対象に、不正防止の倫理研修を義務付ける決定を行ったとの報道だ。
国内で多発する研究不正は国民の科学に対する信頼感を歪め、「経済成長戦略の妨げにもなりかねない」との危機感をJSTが抱いたようだ。
ここで一旦原左都子の私論だが、度重なる科学研究上の不正行為は、JSTの危機感通り国内の科学発展を確実に阻害し、ひいては経済成長戦略の妨げになろう事は間違いない。
それにしても、いい大人である科学者相手に今更“倫理教育”???
確かに科学者達とは、(誤解を怖れずに言うと)“世間知らず”の“頭でっかち”タイプが多いのかもしれない。 原左都子自身の過去に於ける科学経験の道程に於いても、“その種”の科学者に数多く出会っているような記憶が無きにしもあらずだ。 (頭がいいのは認めるけど、この人と深く係わりたいとは思わないよな~~)みたいなーー。
「倫理研修」ねえ~~。 その内容や講師次第でJSTが実施する「倫理研修」も効力を発揮するかもしれないが、原左都子の印象としてはどうも期待薄だ。
どうせ“天下り団体”であろうJSTが主宰する「科学者倫理研修」も、結局はJSTと癒着組織との“我が身息災”研修を実施するのが関の山かと考察出来てしまうのが辛い……
原左都子の私事に入らせていただこう。
元々科学者の端くれ(あくまでも“端くれ”の域を出ていない事は承知しているが)人生を一時歩んだ私にとって、科学研究とは日々我が目を覚まさせてくれるがごとく実にエネルギッシュでエキサイティング!な存在だったものだ。
そんな若き日の我が熱き“科学者魂”を「原左都子エッセイ集」“学問・研究”カテゴリーに於いて綴り公開しているため、ここで紹介させていただこう。
以下は、2007年10月公開の 「self or not self」 よりその一部を引用。
私は20歳代の頃、新卒で民間企業に就職し医学関係の仕事に従事していた。医学関係と言えども分野が広いが、私が携わったのは免疫学関連の分野である。
医学(特に基礎医学)にも“ブーム”があるのだが、その頃(1970年代後半から80年代以降にかけて)免疫学は目覚ましい発展を遂げていた時期であった。 当時の日本における免疫学の第一人者といえば、東大医学部教授の多田富雄氏や阪大医学部教授の岸本忠三氏(お二方とも当時の所属)などがあげられる。その頃、私はこれら免疫学の研究分野において第一線でご活躍中の諸先生方の最新の研究成果を入手したく、(会社の出張費で)単身で全国を飛び回って諸先生方の“追っかけ”をするため、「免疫学会」や「臨床免疫学会」「アレルギー学会」等研究発表の場へ情報収集に足繁く出かけたものである。
以下の文章は、1993年発行多田富雄著「免疫の意味論」(青土社) を大いに参考にさせていただく事をあらかじめお断りしておく。(多田富雄先生はその後脳内出血で倒れられた後も多方面でご活躍されておられたが、その後他界されるに至っている。)
加えて、医学は日進月歩の世界である。私が以下に述べさせていただく内容は、あくまでも1970年代後半から1980年代の私の免疫学体験に基づいた知識の上での話の域を出ていないものと解釈願いたい。
免疫学を語る上での第一のキーワードが表題に掲げた“self or not self"という概念である。日本語では「自己か非自己か」と訳されている。
「免疫」と聞くと皆さんはきっと、外部から進入してきた細菌やウィルスなどの外敵から自分の体を守った上で、その情報を後々まで記憶しもう一度同じ外敵が体に進入してきた時に発病しないような仕組みであると認識されていらっしゃることと思う。その認識で十分「免疫」は説明できている。
そこでもう少し踏み込んで考えることにしよう。 外部から進入してきた細菌やウィルスなどの外敵を、なぜ自分の体が“外敵”であると認識できるのであろうか。 そこで登場するのが“self or not self"概念なのだ。 すなわち外敵(病原体)が体内に侵入すると「免疫」のはたらきによって、その病原体が持っている成分を自分の体内成分ではないもの(異物“not self")として認識し、この成分をやっつける物質(抗体)を作り排除して自分(“self")を守るのである。 1970年頃までの免疫学においては、上記のごとく「免疫」とは“not self"に対するシステムとしてとらえられていた。すなわち、外敵を認識しやっつけるシステムとして捉えられていたのである。
ところがその後の研究により、「免疫」とは“self"を認識するシステムであることがわかってきた。 すなわち「免疫」とは“not self"を排除するために存在するのではなく(もちろん結果的には排除するのだが)、“self"の全一性を保証するためのシステム、すなわち「自己」の「内部世界」を監視する調整系として捉えられる時代に入るのである。 ところがこの“self"と“not self"の境界も曖昧なのだ。 それでもそんなファジーな「自己」は一応連続した行動様式を維持し、「非自己」との間で入り組んだ相互関係を保っているのである。 (詳細は、上記の多田富雄著「免疫の意味論」をお読みいただきたい。)
“self or not self" 、当時の私は自然界の一所産である人間の体内にもこれ程までに素晴らしい哲学があることに感動したものである。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用)
最後に原左都子の私論でまとめよう。
真なる“科学者魂”とは、その分野にかかわらず科学を探究・追及する過程が実に面白いと思えるべく感動を享受する“ハート”こそを自己の内面に育成できている事ではなかろうか?
私自身に関して言及させていただけるならば、その種の“ハート”はもちろん、少なくとも科学探究が可能な程度の学習能力もそれまでに培って来ていたと自負させて欲しいのだ。
しかも幸いな事に私には若かりし頃より「名誉欲」も「金欲」もさほどなかった。 そんなものよりも、あくまでも“一匹狼”としてこの世を全うしたい原左都子にとって、もっとずっと大事な理念が我が内面に絶対的に存在している。
それを一言で表現するならば 「自己完結力」 とでもお伝えできるのかもしれない…
それにしても、東大分子細胞生物学研究グループの若手研究員が“不憫”でもある。 もしも若き彼らが、真に科学好き、かつ世間常識も兼ね備えているトップに研究室で出会えていたならば、若き研究者達も今後世界を背負って立つべく科学者としての生命を繋げただろうに……
改ざん、捏造の疑いのある論文の総数がなんと、計43本!
著名科学雑誌に発表してきたそれら一連の“不正研究”のために、20億円以上の公的研究費が投じられているらしい。
しかも、改ざん論文には20名以上の研究者が関わっているとの事だ。 その中の誰か一人でも改ざん・捏造に反対し“インチキ論文発表”を食い止める人物が存在しなかったのか?
原左都子に言わせてもらうと、不可解感極まる事件である。
研究室長である教授は「監督責任がある」として、既に昨年3月末に辞職。 今後、学内検証を経て不正が正式に認められた場合、文科省等の研究費配分元は研究費の打ち切り、そして不正に使用された研究費の一部または全額返還を求める検討に入るとの報道である。 (朝日新聞7月25日記事より引用)
上記東大の不祥事をはじめとして、最近国内で多発している科学研究上の不正行為を受け、文科省系独立行政法人科学技術振興機構(JST)は研究基金配分先の研究者を対象に、不正防止の倫理研修を義務付ける決定を行ったとの報道だ。
国内で多発する研究不正は国民の科学に対する信頼感を歪め、「経済成長戦略の妨げにもなりかねない」との危機感をJSTが抱いたようだ。
ここで一旦原左都子の私論だが、度重なる科学研究上の不正行為は、JSTの危機感通り国内の科学発展を確実に阻害し、ひいては経済成長戦略の妨げになろう事は間違いない。
それにしても、いい大人である科学者相手に今更“倫理教育”???
確かに科学者達とは、(誤解を怖れずに言うと)“世間知らず”の“頭でっかち”タイプが多いのかもしれない。 原左都子自身の過去に於ける科学経験の道程に於いても、“その種”の科学者に数多く出会っているような記憶が無きにしもあらずだ。 (頭がいいのは認めるけど、この人と深く係わりたいとは思わないよな~~)みたいなーー。
「倫理研修」ねえ~~。 その内容や講師次第でJSTが実施する「倫理研修」も効力を発揮するかもしれないが、原左都子の印象としてはどうも期待薄だ。
どうせ“天下り団体”であろうJSTが主宰する「科学者倫理研修」も、結局はJSTと癒着組織との“我が身息災”研修を実施するのが関の山かと考察出来てしまうのが辛い……
原左都子の私事に入らせていただこう。
元々科学者の端くれ(あくまでも“端くれ”の域を出ていない事は承知しているが)人生を一時歩んだ私にとって、科学研究とは日々我が目を覚まさせてくれるがごとく実にエネルギッシュでエキサイティング!な存在だったものだ。
そんな若き日の我が熱き“科学者魂”を「原左都子エッセイ集」“学問・研究”カテゴリーに於いて綴り公開しているため、ここで紹介させていただこう。
以下は、2007年10月公開の 「self or not self」 よりその一部を引用。
私は20歳代の頃、新卒で民間企業に就職し医学関係の仕事に従事していた。医学関係と言えども分野が広いが、私が携わったのは免疫学関連の分野である。
医学(特に基礎医学)にも“ブーム”があるのだが、その頃(1970年代後半から80年代以降にかけて)免疫学は目覚ましい発展を遂げていた時期であった。 当時の日本における免疫学の第一人者といえば、東大医学部教授の多田富雄氏や阪大医学部教授の岸本忠三氏(お二方とも当時の所属)などがあげられる。その頃、私はこれら免疫学の研究分野において第一線でご活躍中の諸先生方の最新の研究成果を入手したく、(会社の出張費で)単身で全国を飛び回って諸先生方の“追っかけ”をするため、「免疫学会」や「臨床免疫学会」「アレルギー学会」等研究発表の場へ情報収集に足繁く出かけたものである。
以下の文章は、1993年発行多田富雄著「免疫の意味論」(青土社) を大いに参考にさせていただく事をあらかじめお断りしておく。(多田富雄先生はその後脳内出血で倒れられた後も多方面でご活躍されておられたが、その後他界されるに至っている。)
加えて、医学は日進月歩の世界である。私が以下に述べさせていただく内容は、あくまでも1970年代後半から1980年代の私の免疫学体験に基づいた知識の上での話の域を出ていないものと解釈願いたい。
免疫学を語る上での第一のキーワードが表題に掲げた“self or not self"という概念である。日本語では「自己か非自己か」と訳されている。
「免疫」と聞くと皆さんはきっと、外部から進入してきた細菌やウィルスなどの外敵から自分の体を守った上で、その情報を後々まで記憶しもう一度同じ外敵が体に進入してきた時に発病しないような仕組みであると認識されていらっしゃることと思う。その認識で十分「免疫」は説明できている。
そこでもう少し踏み込んで考えることにしよう。 外部から進入してきた細菌やウィルスなどの外敵を、なぜ自分の体が“外敵”であると認識できるのであろうか。 そこで登場するのが“self or not self"概念なのだ。 すなわち外敵(病原体)が体内に侵入すると「免疫」のはたらきによって、その病原体が持っている成分を自分の体内成分ではないもの(異物“not self")として認識し、この成分をやっつける物質(抗体)を作り排除して自分(“self")を守るのである。 1970年頃までの免疫学においては、上記のごとく「免疫」とは“not self"に対するシステムとしてとらえられていた。すなわち、外敵を認識しやっつけるシステムとして捉えられていたのである。
ところがその後の研究により、「免疫」とは“self"を認識するシステムであることがわかってきた。 すなわち「免疫」とは“not self"を排除するために存在するのではなく(もちろん結果的には排除するのだが)、“self"の全一性を保証するためのシステム、すなわち「自己」の「内部世界」を監視する調整系として捉えられる時代に入るのである。 ところがこの“self"と“not self"の境界も曖昧なのだ。 それでもそんなファジーな「自己」は一応連続した行動様式を維持し、「非自己」との間で入り組んだ相互関係を保っているのである。 (詳細は、上記の多田富雄著「免疫の意味論」をお読みいただきたい。)
“self or not self" 、当時の私は自然界の一所産である人間の体内にもこれ程までに素晴らしい哲学があることに感動したものである。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用)
最後に原左都子の私論でまとめよう。
真なる“科学者魂”とは、その分野にかかわらず科学を探究・追及する過程が実に面白いと思えるべく感動を享受する“ハート”こそを自己の内面に育成できている事ではなかろうか?
私自身に関して言及させていただけるならば、その種の“ハート”はもちろん、少なくとも科学探究が可能な程度の学習能力もそれまでに培って来ていたと自負させて欲しいのだ。
しかも幸いな事に私には若かりし頃より「名誉欲」も「金欲」もさほどなかった。 そんなものよりも、あくまでも“一匹狼”としてこの世を全うしたい原左都子にとって、もっとずっと大事な理念が我が内面に絶対的に存在している。
それを一言で表現するならば 「自己完結力」 とでもお伝えできるのかもしれない…
それにしても、東大分子細胞生物学研究グループの若手研究員が“不憫”でもある。 もしも若き彼らが、真に科学好き、かつ世間常識も兼ね備えているトップに研究室で出会えていたならば、若き研究者達も今後世界を背負って立つべく科学者としての生命を繋げただろうに……