原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「就職活動」なるものの存在自体の是非を問う

2013年05月18日 | 時事論評
 原左都子自身が今までの人生に於いて「就職活動」なる活動を行ったためしがない事に関しては、当エッセイ集「仕事・就職」カテゴリーバックナンバー等に於いて幾度か記述している。

 決して職業経験がない訳ではなく、特に長き独身時代は日々働きまくる人生を堪能してきている。
 我が主たる職業として医学関連民間企業に於ける専門職社員、及び高校教員をはじめ、独身時代を中心に様々な分野の仕事に携わって来ている。

 にもかかわらず、私は「就職活動」などという活動を行った記憶がない。 履歴書送付の上に直接就職現場へ出向き、入社試験を通過して就職が決定し、その後就業と相成っている。
 (我が若き時代には「内定」なる用語も存在せず、あくまでも「就職決定」扱いだった。)


 そうそう、一つ思い出した。
 今から10年程前の原左都子50歳近い頃の話だが、我が医学経験を活かそうと考え某大手民間人材派遣会社への登録を試みた事がある。  時は既に世が不況期に突入しているのに加えて、高年齢故に人材派遣の対象外として“はじき飛ばされる”のを覚悟の上で履歴書を送付したところ、試験及び面接の電話がかかってきた。
 登録担当者氏曰く、「○月○日に登録試験及び面談を実施します。当日は黒か紺系のスーツでお越し下さい。」  これに驚いた私が返して曰く、「えっ!? スーツを着て登録試験に伺わねばならないのですか? 私の志望医学職種はスーツで行う業務ではないと心得ていますが、何故スーツ着用で試験に臨まねばならないのか、その理由をお答え下さい。」 (私としては、この電話で登録拒否されてもそれで結構!との覚悟の上での発言だ。 何分現在の世の“理不尽な規律の規制化”と闘いつつ生きている私とも言えるしね。)  電話の相手は若き男性だったと記憶しているが、冷静に対応されたような記憶がある。「当日は数人の登録試験を実施しますが、おそらく他の皆さんはリクルートスーツでお越しになると思います。 スーツでなくても構いませんが、周囲に浮かない服装の方が登録試験に臨み易いのではないかと思います。」  この担当者の冷静対応に配慮して、当日私はスーツではないものの色合いを抑えた恰好で出かけた。  
 案の定、私より“ずずずーーっ”と若い世代のリクルートスーツを着用した人達の登録希望者に交じっての試験及び面談だった。  一般教養、英文読解、ビジネス漢字、ワープロ能力等々各種試験の最後に、電話の若き男性が私の個人面談を担当して下さった。 「この度、履歴情報を拝見して登録試験にお越しいただきました。 結果として“合格”ですので我が社の派遣社員としてご登録申し上げます。 ただ、我が社の場合“人材派遣業務”故に派遣先企業の意向に沿う必要性があります。 ご年齢に関して、もしかしたらオファーがない場合もあります。」 
 それも結構。 そもそもこの人材派遣会社は大手ではあるが「医学分野」に関して至って“疎い”ことも実際に試験に臨んで理解できた。 若い人達と一緒に登録試験を受けさせてもらえただけでも、我が今後の社会批判に活かせる貴重な人生経験であったと言える。
 

 話を「就職活動」に戻すが、昔から「就職活動」なる言語が存在しただろうか??

 少なくとも原左都子の場合、冒頭で述べた通りそれを一切経験していないと言い切れる。
 我が度重なる大学及び大学院修了後の就職に際しては、国家専門資格及びそれに準ずる資格取得を全面に出してその専門力に基づく社会的優位性を誇ってきたが故に、「就職活動」なる言語に触れることすらなかった時代背景だったと考察する…。

 現在我が娘が「国家資格」取得を条件として社会への就業を目指す事を主たる学業としている単科大学へ進学している。 そのため大学から随時届く各種資料により、我が過去の「医学経験」が蘇る思いでもある。
 おそらく娘が在学している大学生の多数は「就職活動」をしないままに、「国家資格」取得を条件の下、直接就職先職場の入社(入職)試験を受験して就職をゲットするのであろう。 そうであるからこそ、娘の所属大学とは現在関東私立女子大学の中でナンバー1の就職率実績を積み上げられているとも考察する。

 ところが、この種の「国家資格」を取得して社会へ羽ばたける世界とは、今の時代の一般的若者から敬遠される分野でもあることを私も理解できている。
 自分自身の将来を自分自身で描き直して、実行する事もあるのは当然だろう。
 そうだとすると、“人も羨む”国家専門資格を取得したとは言え、自分自身で積極的に「就職活動」を展開して自己の就職先を決定したい、との若者の生き様も肯定できるというものだ。
 私自身が30歳以降は試行錯誤の繰り返しで生きてきているし、現在も揺れ動きつつの人生の歩みである。


 ところで、今後大学生の「就職活動」の時期が変わるとのマスメディア報道である。
 
 制度が変わったところで、そもそも「就職活動」なるものの経験すらない私の場合はどうだっていい話題でもあるのだが…。

 「就職活動」って、そもそも一体何なの?
 要するに「経団連」等の経済界が少しでも(自分達年寄りの観点から)優秀な学生を確保したいがために、大学生早期から企業に「御挨拶参り」をさせたいだけなのだろう??
 そうではなく、就職に先立ち専門力さえも身に付けずにフラついている学生の心理状態を逆手にとって、早期段階で企業に「願掛けに来い」と?? そうした従順な奴らには「内定」出すぜ!、との仕組みだったのか??


 原左都子の私論で締めくくろう。

 とにかく、大学生とは学問に励むべきだ。 学問こそが人生の道筋を導いてくれる最大の武器であると私は確信している。
 確固たる自我を育成し実力を身に付けた後に「就職」を考慮すればいいのではなかろうか。 その将来において同じ輩(企業組織団体あるいは個人)が必ずや存在すると私は信じたい。 その種の輩と業を共にする人生こそが醍醐味ではなかろうか。

産んで(生まれて)困る命などない!

2013年05月16日 | 時事論評
 最近、NHKテレビが番組の合間に不定期に流しているスポットCMの中に、大いに違和感を抱かされる内容のものがある。

 それは今現在巷で大流行中の「風疹」の予防接種を国民に奨励するCMなのだが、以下にそのスポットCMを原左都子の記憶のみに頼り、理解している範囲内で紹介しよう。
 現実に存在すると思しき(それとも役者が演技しているのか? に関しては不明)若夫婦とその子ども二人が登場する。 母親である女性が妊娠中に風疹に感染した事により、産まれてきた第二子である赤ちゃんが耳が聞こえない等の先天的障害を余儀なくされているとのことだ。 テレビ影像によると何とも可愛い女の赤ちゃんであり、まだ幼いお兄ちゃんも含めて家族全員で赤ちゃんを可愛がっている風景が映され、一見すると至って幸せそうな一家だ。  ところが産んだ母親氏曰く「私が妊娠中に不注意だったばかりに子どもに障害を負わせてしまっている。風疹感染を避けるべくワクチン接種をしていればこんな事にはならなかった…」何たらかんたら…
 そこで、「国民の皆さん(特に20代から40代に感染者が多いらしいが)風疹ワクチンを接種しましょう!」 とのNHKの風疹ワクチン接種奨励スポットCMである。
 う~~~ん、ちょっと待ってよ、NHKさん。
 このCM影像を見せられて、大いなる違和感を抱かされる国民が存在する事実に配慮できているのかなあ?

 ここで私事に入ろう。

 「原左都子エッセイ集」バックナンバーで幾度となく公開してきているが、我が娘は出産時のトラブルにより仮死状態にて出生し、若干(あくまでも“若干”の範疇であるが)の不都合を抱えてこの世に誕生している。
 我が娘は染色体異常児でもなく、上記NHKスポットCMのごとく妊娠中に私が「風疹」に罹患したせいでもない。 そうではなく、“出産時のトラブルによる仮死状態がもたらした瑕疵”以上の医学的根拠は不明のまま現在に至っている。  
 原因は分からず終いであるにせよ、健常な状態で子どもを産んでいない私であるからこそ、上記スポットCMに出演している母親氏の発言内容である、妊娠中に風疹に罹患した事に対する後悔の念やそれにより障害児を産んでしまったという“やり切れない思い”の程は理解できる。

 
 それを記述した上で、私論に移ろう。
 このスポットCMに関して、私は幾つかの視点・観点より違和感及び不快感を抱かされるのだが、それを順を追って以下に列挙しよう。

 第一点は、(この一家が実在の家族であるとして)何故NHKの取材を受け保護者である両親がそれに易々と応じて当該障害児と共にテレビCM出演などをしたのかという点である。
 我が意地悪視点から歪曲した見方をすると、出演ご夫婦は第二子が障害を抱えて生まれ出た事に対して、自分達は一種の“医学的犠牲者”であると世間に吹聴したいのかとも受け取れるのだ。
 と言うのも、私自身が我が子誕生直後に“医学的犠牲者”思考に走り、出産担当病院や医師の過失責任を問う等の原因追究をしようと魔が差した時期があるからだ。 ただ私の場合、思考の転換は早かった。 そんな事に時間とカネを割いたところで我が子生まれ持っての事情はどうしても消し去れない。 親である私が全身全霊を注ぐべきは、今後この子を立派に育てていく事以外にあり得ないと早期に気付き、それを日夜実行し続けてきている。
 このNHKのCMを見て、「そうなんだ。それならば私も風疹ワクチンを接種しよう」と考えた国民もいるであろうか?!? 
 ところが、申し訳ないが私の感想は違った。 障害児を授かった親とは(見返りが望めない)一般世間相手に“お涙頂戴”している場合ではないし、そんな暇など一切ないはずだ。 今親としてやるべき事とは、子どもが赤ちゃんである早期段階から生まれ持った障害に関する詳細な知識を得てそれに出来る限りの対応を施す事でしかあり得ないのだ。

 原左都子がNHKスポットCMを見て抱いた違和感の第二点目を、次に呈示しよう。
 上記第一点とも重複するが、CMのご両親は何故NHKの取材に応じて、この世に生まれ出た第二子が「障害」を抱えている事実をマスメディアを通じて日本全国に大々的に公開してしまったのだろう?  その種の行動を取ると、政府や自治体をはじめ日本国民皆が真心を持って障害を抱えた我が子の将来を見守ってくれるとでも思ったのであろうか?
 厳しいが、今の時代の現実はそうではない。 “他人には無関心”が常識化している現代の社会の現状だ。
 私自身がこの点に早期に着眼した。 我が子小学校入学時に持って生まれた事情を学校に公開したのを最後に、小学2年時以降は“あえて事情を伏せる”手段に切り替えた。 
 何故私が、我が子が抱えている事情に関して学校等“小社会”への公開を伏せる手段に踏み切ったのかと言うと、現状の社会とは私の想像を遥かに超えて「障害児」に関する理解が進んでいないと判断した故である。 むしろ公開することによる世間からの“誤解”等の弊害こそを回避するべきと決断した。 その後は親である私の「お抱え家庭教師」力一本で、国や自治体による“障害児特別枠”になど一切頼らず我が子の実力をとことん鍛え上げ、現在大学まで進学し学業に励んでいる我が娘である。
 NHKのスポットCMに出演したご家族の「風疹障害児」の赤ちゃんが今後社会の理解を得られるとよいのだが、実際問題として、悲しいかな今の時代それ程市民の良心が満ち溢れてはいない寂しい現状を身を持ってお伝えしたい思いである。 結局は我が子を(障害児の場合は特に)愛してその命を守り抜く最終責任は親でしかない現実と言い切れよう。
 要するに我が子の障害に関して世間に公表する事は、今の時代背景の下では危険性ばかりが伴うとの事だ。 


 上記NHK風疹CMに対する原左都子視点・観点の違和感第三点は、バックナンバーにおいても再三指摘し続けている通り、公的放送局が国民に対して「ワクチン接種」を大々的に煽ること自体に関する是非である。
 NHKは自社の「かぶんブログ」なるネット情報に於いても、庶民相手に風疹ワクチン接種を煽っている。 以下にその冒頭部分のみを紹介しよう。
 妊娠中の女性が感染すると赤ちゃんに障害が出るおそれのある風疹は感染の拡大に歯止めがかからず、患者数はこの4か月で5000人を超え去年の同じ時期の34倍に上っていることが分かりました。  熱や発疹などの出る風疹は患者のせきやくしゃみを通じて広がり、妊娠中の女性が感染すると赤ちゃんの目や耳、それに心臓などに障害が出るおそれがあります。
 
 これを全面否定する訳ではないが、元医学関係者の原左都子としてはワクチン接種による副作用被害に関しても同時に(せめて片隅に)公開して欲しい思いだ。

 
 最後に表題に戻るが、この世に産んで(生まれて)困る命などないはずである。
 たとえそれが母体「風疹感染」故に障害を持って生まれた子どもであっても、尊い命であることに間違いない。
 医学確率的には「風疹感染児」とは極少の障害であろう生命体の誕生を、何故それ程に国家は(NHKとのマスメディアを通してまで)拒否したいのか?  これこそが国家の「命の選別」であり、我が身息災の“医療との癒着故のワクチン接種奨励”経済政策でしかあり得ないと私は考察する。

「会話はごえんりょ下さい」カフェで一息つきたいな

2013年05月13日 | 人間関係
 当「原左都子エッセイ集」において勝手なオピニオンを“言いたい放題”発信し続けている私であるが、ネットを離れた現実社会においては、以外や以外“聞き上手”であると自己分析している事に関しては、2009年11月バックナンバー 「“聞き上手”の言い分」 に於いて既に公開している。


 最近とみに、我が持ち前の“聞き上手”キャラを発揮する機会が多い。

 それは、年老いた実母と義母(特に義母の場合保証人代行を任されている)の相手を一手に引き受けているのが一番の理由である。
 お年寄り対応とは特に相手が女性である場合、何を優先してもまず話を聞いてあげる事が一番の奉仕とわきまえている。 実母や義母が何を言い出そうが、とにかくそれに耳を傾けて喋りたいだけ喋らせてあげるべきと心得つつ、相槌を打つのが現在の私の業とも言える。

 実母の場合は血縁であるが故に多少事情が異なるものの、やはり基本は上記のごとくである。
 最近の実母の最大の関心事とは、母にとって孫に当たる米国に住む姉のハーフの息子(現在15歳の成長盛り)に関してなのだ。 何分異国に住む孫であるため滅多に会えない故に母の思いが募っている事は理解できるが、これが相当しつこい。 米国の甥は(ハーフ故に?)容姿端麗、高身長(現在183cmでまだまだ伸び盛り!)しかも頭脳明晰かつスポーツ万能、等々… 最近の母からの電話はそればかりを何度も繰り返し私に伝えるのだ。  娘を仮死状態で産まざるを得ず、日々「お抱え家庭教師」として力の及ぶ限り頑張って来ている私に対する配慮心のひとかけらもない。(参考のため、米国の姉は44歳初産にして至って健康な男児を普通分娩で出産した。)
 それでも私は実母にこう返答してやっている。 「あなたが今後米国に渡るのは身体的事情面で既に不可能だろうが、米国の○○くん(実母の孫)が大学生になった暁に日本のお婆ちゃんのあなたに会いに向こうから来日してもらうといいよ。 その時には私が通訳係を担当してもいいよ。」 (参考のため、数十年前より米国在住の我が姉は自分のポリシーに基づき息子には日本語を一切教育していないのに加えて、二度と日本の地を踏まないとの信念が強靭な徹底した“日本嫌い”である。)  実母はこの我が発言に大いに活気付き、近い将来米国の孫が来日する希望を繋いで、今からその気になり長生きを志した様子だ。

 相手が義母の場合、当然ながら私の“聞き上手”の対応は大幅に異なる。
 何はともあれ全面的に我が心情を押さえ、義母の話を一身に聞いてあげるのが一番の心得である。 この私の徹底した“聞き上手”対応が功を奏しているのか、義母が住むケアマンションをいつ何時訪れようと私の顔をみるなりニコニコしてくれる事が、現在の私にとって大いなる救いでもある。  最近はよく自宅にも電話をかけて来る義母であるが、それに際しても、とにかく義母が言いたい事をとことん聞く事に専念している。  実母ほどに口数が多くない義母の話を聞く業は私にとってさほどの労力でもない。  しかも義母の場合、その“ご褒美”が凄いのだ。(不謹慎な話だが「お世話になります」などと言いつつ、あくまでも孫の教育費の名目だが“札束”をポンと手渡してくれたりもするしね…


 そもそも私が如何なる人生のバックグラウンドを経て“聞き上手”として成長を遂げたのかに関して、冒頭の我が2009年バックナンバー「“聞き上手”の言い分」から一部を紹介しよう。 
 例えば職場において上司の立場となったり外部交渉の業務を経験することは、まだ若かりし私にとって“聞き上手”のノウハウを習得するにはまたとはない修行の場だったものだ。
 あるいは学校の教員経験など、生徒の話の“聞き上手”であることが生徒指導の第一歩であるとも言える。
 子を持つ母となって以降は、これぞ“聞き上手”の力量発揮の舞台である。 子どもがまだ物心付かない頃に、人間特有に備わっている“話す”という能力を徐々に発揮し始める子どもが発するたどたどしい言語に耳を傾け反応することは、日々その子をじかに育てる母でしか享受できない至福の時間であろう。 既に高校生に成長している我が子の「日課報告」を毎日聞きつつ、親子で笑い転げたり、ある時は子の苦悩に耳を傾け親子で対策を練る貴重な時間も、出来ればずっと末長く子どもと共有し続けたい一時である。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2009年バックナンバーより一部を引用)
 

 片や、私が“聞き上手”であらねばならぬ場面でないにもかかわらず、くだらない話をくっちゃべり続ける“単細胞人間”が、今の時代老若男女にかかわらず何とまあ多い実態なのであろうか。 
 場をわきまえられずに、どなたも自分の事を話す事には熱心であられるようだ。 この現象とは早い話が、自分とそれに利害関係のある周辺にしか興味がなく狭い視野しか持てず、自己中心の閉鎖空間で生きる国民が増殖している現状と表現できるのであろう。

 つい先だって当エッセイ集で紹介した、某バレエ団公演の座席で開演直前まで自分勝手に盛り上がっていた「ママ友グループ」の会話内容も、“自己中心の閉鎖空間”で生きている証の負の所産なのであろうと考察する。
 このバレエ公演座席のごとく、公共の場であるにもかかわらず自分勝手な話で盛り上がっている連中達の“くっちゃべり現象”の「客観性の無さ」とは、もはや立派な「公害」と位置付けたい思いでもある。


 このように“自分勝手な会話”が世に氾濫している事態を嘆かわしく思っていたところ、朝日新聞5月8日「東京版」ページにおいて興味深い記事を発見した。
 題して、「会話はごえんりょ下さい」

 当該記事内容の一部を以下に要約して紹介しよう。
 おしゃべりのない、おひとり様専用の喫茶店が文京区千駄木にある。 注文や会計時の小声以外は話し声も笑い声もない。 経営者氏の心理に「一人で過ごすお客さんを大切にしたい」との思いが募った。 特に友達同士らしい団体客には「別々の席になるので、会話は不向きです」と伝えるようにしている。

 「おこもり系」の居酒屋に出かける機会がある私だが、いくら「おこもり系」とて完全個室でない限り周囲の顧客集団の会話を聞かされざるを得ないのが現状である。
 つい先だっても居酒屋を訪れた際に一応「おこもり系」座席を指定したものの、結局隣席が入って以降は自分達の会話を続行する事を遠慮する目的で、さっさと居酒屋から退散する結果となった。

 その点、上記朝日新聞で紹介されている「会話はごえんりょ下さい」喫茶店は、とことん“おひとり様”に配慮出来ているカフェであると評価申し上げたいのだ。
 この種のカフェや居酒屋が増える傾向にあるのならば、既に還暦近い私もそこを拠点として一息つきたい思いである。

 もちろん今後共私なりの人間関係を大事にしたいのは当然である。
 それはそうとして、よき人間関係を築きそれを続行する基本として 「ひとりの充実した時間」 を過ごせる事こそがそのエネルギーの根源であり、貴重なひと時である事には絶対間違いない。

 今後私は更に年齢を重ね老齢に入る運命にあるが、年老いた自分が如何に有意義に“ひとりの時間”を過ごすのかとの命題こそを再認識できた思いでもある。
 そんな思いを巡らせてもらえた今回の朝日新聞「会話はごえんりょ下さい」喫茶店の記事でもあった。

人の倫理観と判断能力より先走った「出生前診断」技術を憂う…

2013年05月11日 | 時事論評
 原左都子は過去において、医学関係国家資格取得者として医療基礎研究分野の業務に携わった経験が幾度かある。

 そのため、臨床現場より離れた場でその種の試験研究を実施する場合、ややもすると生身の人間の生命尊厳との観点が抜け落ちてしまい、身勝手にも研究そのものの成果を上げる事に目標置換されがちであることにも思いが及ぶ…。

 例えば私の場合、20代の頃は「免疫学」分野の試験研究業務に携わっていた。
 (「原左都子エッセイ集」開設当初の2007年10月 学問・研究カテゴリー 「sef or not self」と題するエッセイに於いて当時の我が熱き研究魂を公開しておりますので、よろしければご参照下さい。)

 今から遡る事数十年前に、若かりし私が具体的に如何なる試験研究を行っていたかに関して、現在記憶している範囲内で少し述べさせていただこう。
 免疫を司っている“リンパ球”等免疫細胞の膜表面特性をミクロの視野で探る事により“リンパ球”を更なるサブクラスへ細分化した上で、ヒトの各種免疫疾患において如何なるサブクラスの“リンパ球”が増減しているのかを追跡するのがとりあえずの目的であった。 それをさらに臨床段階における“新検査”として確立する事により、実際に各種免疫疾患に罹患している患者さん達の診断や治療に臨床現場で役立てもらう事が最終目的の試験研究だった。

 私の場合は臨床現場である病院に就職した訳ではなく、民間企業に於ける試験研究実施に過ぎなかったため、「臨床」に直結していないとの大いなる“弱点”を常に抱えつつの業務だった事は揺ぎない事実である。
 しかも民間企業の場合常に「利潤」追究意識が社員に課せられる。 当時若気の至りの私はとにかく真面目に業務に取り組んだものの、 (この試験研究が実際上病に苦しむ患者さん達に何らかのプラスに成り得るのだろうか? そうとは考察できず、ただただ何も知らずに医師の検査指示に応じている患者さん達の犠牲の下、我が企業に利益をもたらしている部分こそが多大なのではなかろうか??) などとの疑問符を抱きつつの試験研究業務遂行だった事を、今更ながら当時の一社員の立場としてお詫びしたい思いでもある…… 


 話題を今回のエッセイ表題の「出生前診断」に移そう。

 まずは「出生前診断」とは何かに関するジュニア向けの簡単な説明を、朝日新聞4月27日記事より一部を引用して説明しよう。
 妊娠中の母体の血液を採って胎児に染色体異常があるか否かを調べる新しい出生前診断が今月から始まった。  
 我々の体は60兆個もの細胞で出来ていて一つひとつの細胞の中に23対46本の染色体が入っている。 この染色体に異常がないかを胎児の段階で調べるのが出生前診断だ。 これまでの検査では異常の可能性の高低しか分からなかったのに加えて、母体の羊水を採取して調べる必要があったため胎児流産の危険性も伴っていた。 新しい出生前診断は、母体の血液を少量採取するのみで済むため流産の心配がない。  この新検査では3種類の染色体の異常が判明するが、その中でもっとも多いのがダウン症だ。 「異常なし」との結果の場合、ダウン症でないことが99%の確率で確認できる。
 ところが、新検査は母親はじめ家族に「赤ちゃんを産むか産まないか」の重い決断を迫る。 そこで日本産科婦人科学会は、新しい出生前診断のルールを決定した。 妊婦が高齢者の場合や他の出生前診断で染色体異常の可能性が分かった場合に限定した。 加えて専門家がいる病院のみでその診断を行う事にした。 高齢出産が増大し、女性が一人目の赤ちゃんを産む平均年齢が30歳を超えている。 年齢が上がるほど胎児の染色体異常の確率が高まるため、今後検査の希望者が増えると予想されている。 
 赤ちゃんの100人に3~5人は何らかの病気を持って生まれるが、新しい検査で分かるのはその2割に満たない。 障害は多様な個性の一つとも考えられる。 こうした人た達を社会から除外しかねない技術にどう向き合うか?
 (以上、朝日新聞4月27日記事より要約引用。)


 再び原左都子の私事を述べるが、私も上記朝日新聞記事の例外ではなく「高齢出産」により子どもを産んだ部類である。
 我が子の場合は決して「染色体異常児」ではなく、“出産時のトラブル”により仮死状態で出生せざるを得ず多少の不都合を余儀なくされているに過ぎない。 それでも確かに「高齢出産」とは何らかの危険性を伴う事を身をもって実感している我が身であるのかもしれないとも考察する。

 「新型出生前診断」の場合は上記朝日新聞記事記載内容のごとく、日本産科婦人科学会がその診断に当たり一定のルールを設けている事に一応安堵する私である。
 それでも、そのルール内に位置する立場にある母親及び家族の皆さんの“揺れる思い”は如何ほどであろうか?
 そんな検査診断がこの世に開発されていなければ、普通に出産して誕生した生命であろう。


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 新たな「出生前診断」とは、あくまでも「染色体異常検査」範疇の域を出ていない。 
 しかもたとえダウン症児とて昔からその個性を存分に発揮されつつ多種多様な人生を歩まれ、この世に有意義な生命を刻まれているのが世の常だ。

 「染色体異常」でないにしろ、各種「障害児」がこの世に有意義に生を営んでいる実態は皆さんもご存知の通りである。
 仮死状態で生まれ出た我が子のその後の成長の程に関しては 当「原左都子エッセイ集」で幾度となく公開しているごとく、母である私の“お抱え家庭教師”実績等により“目覚ましい”までの歩みを遂げ続けている。
 新たに生まれ出るご自身の子の育成に親たる愛情とエネルギーを惜しみなく注ぎ続ける自信があるのならば、是非共「出生前診断」結果などに左右されることなく、その生命をこの世に誕生させて欲しいものだ。

 冒頭で紹介したごとく医学の発展など特にその内容が一般人に分かりにくい分野である程、個々の研究者の自我に過ぎない部分も大きいと、悲しいかな表現可能ではなかろうか?
 そんな一部の勘違い人種の“じゃれ事”研究成果よりも、一つの生命体の誕生の方こそが、この世に数段重く美しく燦然と輝く存在であるのだから…

真心が相手に伝わってこその贈り物の極意

2013年05月09日 | 人間関係
 (写真は、本日5月9日午後のつい先程 長野県伊那市の大規模農場主より我が家に宅配便にてお届け頂いたウド)


 伊那市大農場よりのウドの到着を「原左都子エッセイ集」で取り上げるのは、今回が2度目となる。
 
 本日早朝にウドの送り主であられる(ブロッコリーを主たる出荷品とされている)農場主K氏よりメールを頂戴した。 その内容の一部を以下に紹介しよう。
 今年はおかしな天気で、順応するのが大変ですね。
 先日群馬の友人が『遅霜』の被害がTV等で報じられた事を受け(K氏の)農場が心配・・・と電話して来ました。  幸い「ブロッコリー」は寒さに強く、定植前によく外気に慣らして置く事が肝心で、もし「凍霜害」にあっても茎の芯が害にならねば時間が少し掛りますが復活できます。 (K氏の場合)更に「不織布(パオパオ90と言う資材名)」で被覆していますので全然安心です。この分手が余計に掛りますので大変ですが、風、霜には予防になります。 と言う事ですからご安心下さい。
 今年は「わらび」「ふきのとう」を送らない替わりに「うど」を送りました。
 「さとちゃん」(原左都子のこと)の ≪アルコールの友≫に打って付けかと思います。
 (以上、K氏から原左都子宛に頂戴したメールより一部を引用)


 もう既に6年の年月にも及び、年に3,4度のペースで欠かさず採れ立て野菜を我が家に届けて下さる長野県のK氏との出会いのきっかけとは、実は当該「原左都子エッセイ集」が媒体である。
 そんな長き期間に及びK氏より頂戴する新鮮な「贈り物」の歴史に関しては、2010年5月公開の本エッセイ集バックナンバー 「初夏の味覚の宅配便」 に於いても記述しているため、その一部を以下に要約して紹介しよう。

 日本の中央アルプスや南アルプスが展望できる信州の実り豊かな大地に大規模農場を営んでいらっしゃる“とある方”(ここでは K氏 と呼ばせていただく)から、年に何度か欠かさず採れ立ての農作物を宅配便にて我が家に直送いただいている。
 K氏の大農場に於ける主生産農作物はブロッコリー(K氏名付けて “ブロッ娘” 『ブロッコ』 とよみます。 K氏が可愛い娘のごとく愛を込めて育成され毎年春秋に市場に届けていらっしゃいます。)であられる。 そのため、春秋の“ブロッ娘”を中心に、早春のフキノトウ、そして今頃の季節はワラビやウドといったごとく、都会で暮らす原左都子が普段滅多に目にすることがない“土”がついたままの旬の農作物を、何ともありがたいことに我が家まで取れ立てのまま直送いただけるのである。
 ここで長野県の農場主K氏と私が知り合った経緯を述べさせていただくと、そのきっかけとはこの「原左都子エッセイ集」が源なのだ。 K氏はご自身の農場経営でご多忙な中、当時まだ開設後数ヶ月しか経過していなかった本エッセイ集をご訪問下さって、私が綴る拙ブログの一記事一記事にコメントを書き入れて下さる等の手段で心温まる応援を頂いた方である。
 その後、“ブロッ娘”の生産拡大による更なるご多忙等と相俟って、K氏はネット世界から遠ざかざるを得なかったご様子だ。 それでも今尚、過去において(たかが)ブログ上で知り合った原左都子宛に採れ立て農作物を直送して下さるという恩恵に与り続けているのだ。  
 分子遺伝子生物学の発展が農業における品種改良にもたらす恩恵や、工業分野での技術革新の農業分野への進出による発展は凄まじいものがあることであろう。 とは言えども、農業とは“生き物”を扱う世界であるからこそ今尚自然との共存がその主眼であり、天候や気温による打撃を直に受ける産業であることを実感させられる思いだ。
 特に今年の春の寒さ及び連休以降の酷暑や強風等との闘いの連日を慮った場合、農業に携わるK氏のお便りから日々のご苦労を重々実感させていただける思いである。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2010年5月バックナンバーより一部を引用)


 ここで、上記農場主であられるK氏から原左都子宛の「贈り物」関係が何故6年も続くのかに関して考察しよう。

 もちろん、原左都子の方からもお礼の意味合いでの贈り物を定期的に発送させて頂いている。 ただ、その「贈り物交換儀式」に義務的、義理的ニュアンスが少しでも漂っているのならば、早期に消滅する人間関係と言えるであろう。
 ところが私とK氏とを取り持つ「メール関係」が充実しているからこそ、それに付随して贈り物関係も成り立つと私は捉えている。
 例えば今朝頂いたメール内で、K氏は私の趣味の一つである“ランニング”に関する記述をして下さっているのだ。 これにランニングに対する更なる刺激を抱かされた思いである。 
 農業世界に関しては全く未知の私の方からはK氏に対してさほどインパクトある返答も申し上げられないのに、K氏は私の趣味や好みにまで及んだお便りを今尚メールの形で送信下さっている。
 そんな次なる意欲を掻き立てられるメッセージとは、自然と更なる人間関係続行意欲をそそられるものである。

 この世の中、義務感のみで実施されている「贈り物」交換儀式こそが今だ多大に蔓延っている現状ではなかろうか? 
 その種の行動も確かに経済活性化に繋がり自民党政権が掲げる「アベノミクス」を増長する一手段ではあろが、ここはやはり人が人として贈り物をし合う場合には「真心」を込めるべき、との原左都子の私論だ。

 人が息づく世において経済効果を永遠に長引かせる要因の一つとして、デフレ脱却以前に「人の真心」要素も捨て難い。
 心を込めて「贈り物」をすると必ずや相手にその思いが通じるはずだ。 そんな人と人の繋がりこそが結果的に経済発展をも支えるのではないかと、我が経験から考察するのだが…