最近、私が「原左都子エッセイ集」公開媒体として利用させていただいている goo から、“1年前の記事”が定期的に送信されて来る。
これを自分で読み返してみると結構面白く、goo も気の利いたグッドアイデアサービスを提供してくれるものと感謝申し上げている。
昨日誕生日を迎えた私だが、上記gooから届いた2011年10月17日バックナンバー 「誕生日雑感」 が、手前味噌ならが我が半生を“天邪鬼”の原左都子らしく振り返った内容の“力作エッセイ”と自己評価するため、今一度以下にコピーして再公開させていただくこととしよう。
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私は、昔から年齢を重ねていく事を好意的に捉えている。
そしてよもや生命の危機が訪れるような場面に直面しても、“命乞い”してまで生き延びようとの発想もない。
子どもの頃とにかく学校嫌いだった私は、日々自分を押し殺して義務感で生真面目に学校へ通いつつも、さっさと卒業して自由に主体的に生きたい思いから、子供心にも早く年を取りたいと考えることがよくあった。
残念ながら子どもの頃の私が年を取ることを肯定的にとらえていた理由とは、上記のごとく“後ろ向き”思想に基づいていたことを今となって実感させられる。
年端もいかない子どもが“早く年を取りたい”などと欲する現状を、周囲の誰かが気付いて助ける社会の受け皿など昔も今も存在し得ないのであろう。
(私の場合自殺願望がさほどなく、自分の将来は必ずや花開くべく未来像が描けそうな“妙な図太さ”が根底にあったのが幸いとも言えるのだが…)
“適齢期”(当時の表現であり今や死語と化しているが)を過ぎて30代に突入する時など、既に27歳頃からとっとと30代になりたい思いが強かった。 その後の我が人生において結婚などせず独り身で自立して生きる場合、30代に突入した方が世間の様々なしがらみから解放されてさらに自由に羽ばたけそうに思えたものだ。 (事実そうだったと振り返る。)
そして我が人生の中で最高に輝かしき“華の時代”だった30代を煌くばかりに通り過ぎ、40歳を過ぎた頃、私は癌を患った。
この時、私は初めて「死」というものを直接的に意識するはめとなった。 だが、産んだ子どもが未だ2歳であるが故の母親としての今後の責任を除き、我が人生に悔いも未練もなかった。 もし万一近いうちに命を落とすことになろうとも、私は心より「いい人生だった!」と思えるような40年間を主体的に歩んで来たと自負できたからである。
ところが癌など屁とも思わない私は命を落とすどころかその後も図太く生き残り、50歳になろうとした時にも早く50の山を越したかったものだ。
その時の心理状態について今分析するに、今後も心身共に自分なりの“若さ”を保ちつつ主体的に生きていける自信があったからに他ならない。
50歳になるに際して、一つだけ私には懸念点があった。 その懸念点に関しては本エッセイ集のバックナンバーに綴っている。
本エッセイ集2008年8月公開の 「長生きは一生の得(火傷の編)」 と題する記事には、公開後年数が経過した現在尚ネット上の検索数をある程度頂いているようだ。
上記バックナンバーは自分で読み返してもよくまとまったエッセイであると自画自賛するため、皆さんにもお読み頂ければうれしいのだが、ここで上記エッセイ内に綴った内容を少しだけ紹介しよう。
私が幼稚園児だった5歳の時に、腕にかなり大きな火傷を負っている。
火傷の直後こげ茶色だったその跡形を不憫に思った祖母が、ある時私に告げたのだ。 (私が産まれた地方ではこの種のこげ茶色の跡形を“こと焼け”と呼ぶのだが)、祖母曰く「体に“こと焼け”がある人間は長生きできないとの迷信がある」 私が応えて曰く「長生きできないと言うけど、いつ頃まで生きられるの?」 祖母曰く「50歳ぐらいだと思うよ」 私が思って曰く「な~んだ、50歳までも生きられたらそれで十分だよ」
未だ5歳の私にとって、50歳とは想像を絶する程遥か遠い未来に映ったものだ。
ところが、祖母から伝えられた“迷信”が後々まで私の脳裏にこびりついていたのだ。 50歳を目前にした時の私は、50歳とはこれ程早く到来するものと改めて実感させられるはめとなる。
我が幼少の頃より父母共にフルタイムの仕事故に不在の家庭において、祖母に育ててもらったも同然の私にとって一番身近にいた祖母の“お告げ”は、私の心の奥底にしっかりと根付いていた。
50歳が直前になるにつれその“迷信”が現実のものとして迫ってくる。 そしていよいよ50を過ぎその“お告げ”のハードルを越えたことを確信した時には、元科学者の端くれの私とてどれ程安堵したことか…
本日(10月17日)は私の誕生日である。
子どもの頃には仕事故に“放ったらかして育てられた”印象を我が郷里の母に対して抱き続けている私だが、その母は私が上京後必ずや誕生日に電話を寄こしてくる。
本日も母が私の誕生日を祝って曰く、あくまでも自分勝手な懐古趣味の観点から「あなたを産んだ日の自分の苦しみを今でも鮮明に覚えている」との事だ。
それは少し分かる気もする。 私も我が娘を超難産の末に仮死状態で産んだ日、そしてその直後から始まった「お抱え家庭教師」としての二人三脚の苦難の日々を一生忘れ去る事はないであろうからだ。
誕生日とは、特に産んだ親からは子供がこの世に産まれ出た奇跡こそを第一義に祝福して欲しいものであると思いつつ、既に年老いた我が母が“身勝手な”誕生祝いを寄こす事を、我が還暦に近づく今となっては受け入れねばならないのであろう。
(2011年10月17日記 「誕生日雑感」より一部を引用)
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上記バックナンバー内の、5歳の頃の祖母よりの“50歳若死のお告げ”は今尚私の脳裏にある。
それがあるお陰で、特に50歳を過ぎてからは毎年誕生日にはまた一つ年齢を重ねられた事に実に感謝の思いなのだ。
そして今年もまた郷里の母より“自己懐古趣味”のお祝い電話が届いた。 今年の母のセリフは「あなたを産んだ日はよく晴れていた」である。 加えて、毎年言う決まり文句は「あなたの年齢になると誕生日なんか来て欲しくないでしょ。」
それに反発して私も毎年決まり文句の返答をする。 「上京して自立し、我が人生を独力でリセットした後(適齢期の)25歳過ぎた頃から、私は誕生日が来るのが毎年うれしくて仕方ないのよ。 特に50過ぎてからは毎年年齢を重ねていくことに感謝してるよ。 今は早く還暦を迎えたい気分だよ。」
いや本心でそうなのだ。 60歳を過ぎた時に「60歳以上の部ロードレース」に出場する事が現在の原左都子の一つの夢でもある。
昨日の我が誕生日に、大学の講義が休講のため早めに帰宅した娘が、近くの陸上競技場での“バースデイ・ラン”に同走してくれると言うではないか!
昨日その陸上競技場にて母娘共に屋外タイムとしては“新記録”を樹立出来た事が、何にも勝る誕生日プレゼントと感動した私だ。
これを自分で読み返してみると結構面白く、goo も気の利いたグッドアイデアサービスを提供してくれるものと感謝申し上げている。
昨日誕生日を迎えた私だが、上記gooから届いた2011年10月17日バックナンバー 「誕生日雑感」 が、手前味噌ならが我が半生を“天邪鬼”の原左都子らしく振り返った内容の“力作エッセイ”と自己評価するため、今一度以下にコピーして再公開させていただくこととしよう。
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私は、昔から年齢を重ねていく事を好意的に捉えている。
そしてよもや生命の危機が訪れるような場面に直面しても、“命乞い”してまで生き延びようとの発想もない。
子どもの頃とにかく学校嫌いだった私は、日々自分を押し殺して義務感で生真面目に学校へ通いつつも、さっさと卒業して自由に主体的に生きたい思いから、子供心にも早く年を取りたいと考えることがよくあった。
残念ながら子どもの頃の私が年を取ることを肯定的にとらえていた理由とは、上記のごとく“後ろ向き”思想に基づいていたことを今となって実感させられる。
年端もいかない子どもが“早く年を取りたい”などと欲する現状を、周囲の誰かが気付いて助ける社会の受け皿など昔も今も存在し得ないのであろう。
(私の場合自殺願望がさほどなく、自分の将来は必ずや花開くべく未来像が描けそうな“妙な図太さ”が根底にあったのが幸いとも言えるのだが…)
“適齢期”(当時の表現であり今や死語と化しているが)を過ぎて30代に突入する時など、既に27歳頃からとっとと30代になりたい思いが強かった。 その後の我が人生において結婚などせず独り身で自立して生きる場合、30代に突入した方が世間の様々なしがらみから解放されてさらに自由に羽ばたけそうに思えたものだ。 (事実そうだったと振り返る。)
そして我が人生の中で最高に輝かしき“華の時代”だった30代を煌くばかりに通り過ぎ、40歳を過ぎた頃、私は癌を患った。
この時、私は初めて「死」というものを直接的に意識するはめとなった。 だが、産んだ子どもが未だ2歳であるが故の母親としての今後の責任を除き、我が人生に悔いも未練もなかった。 もし万一近いうちに命を落とすことになろうとも、私は心より「いい人生だった!」と思えるような40年間を主体的に歩んで来たと自負できたからである。
ところが癌など屁とも思わない私は命を落とすどころかその後も図太く生き残り、50歳になろうとした時にも早く50の山を越したかったものだ。
その時の心理状態について今分析するに、今後も心身共に自分なりの“若さ”を保ちつつ主体的に生きていける自信があったからに他ならない。
50歳になるに際して、一つだけ私には懸念点があった。 その懸念点に関しては本エッセイ集のバックナンバーに綴っている。
本エッセイ集2008年8月公開の 「長生きは一生の得(火傷の編)」 と題する記事には、公開後年数が経過した現在尚ネット上の検索数をある程度頂いているようだ。
上記バックナンバーは自分で読み返してもよくまとまったエッセイであると自画自賛するため、皆さんにもお読み頂ければうれしいのだが、ここで上記エッセイ内に綴った内容を少しだけ紹介しよう。
私が幼稚園児だった5歳の時に、腕にかなり大きな火傷を負っている。
火傷の直後こげ茶色だったその跡形を不憫に思った祖母が、ある時私に告げたのだ。 (私が産まれた地方ではこの種のこげ茶色の跡形を“こと焼け”と呼ぶのだが)、祖母曰く「体に“こと焼け”がある人間は長生きできないとの迷信がある」 私が応えて曰く「長生きできないと言うけど、いつ頃まで生きられるの?」 祖母曰く「50歳ぐらいだと思うよ」 私が思って曰く「な~んだ、50歳までも生きられたらそれで十分だよ」
未だ5歳の私にとって、50歳とは想像を絶する程遥か遠い未来に映ったものだ。
ところが、祖母から伝えられた“迷信”が後々まで私の脳裏にこびりついていたのだ。 50歳を目前にした時の私は、50歳とはこれ程早く到来するものと改めて実感させられるはめとなる。
我が幼少の頃より父母共にフルタイムの仕事故に不在の家庭において、祖母に育ててもらったも同然の私にとって一番身近にいた祖母の“お告げ”は、私の心の奥底にしっかりと根付いていた。
50歳が直前になるにつれその“迷信”が現実のものとして迫ってくる。 そしていよいよ50を過ぎその“お告げ”のハードルを越えたことを確信した時には、元科学者の端くれの私とてどれ程安堵したことか…
本日(10月17日)は私の誕生日である。
子どもの頃には仕事故に“放ったらかして育てられた”印象を我が郷里の母に対して抱き続けている私だが、その母は私が上京後必ずや誕生日に電話を寄こしてくる。
本日も母が私の誕生日を祝って曰く、あくまでも自分勝手な懐古趣味の観点から「あなたを産んだ日の自分の苦しみを今でも鮮明に覚えている」との事だ。
それは少し分かる気もする。 私も我が娘を超難産の末に仮死状態で産んだ日、そしてその直後から始まった「お抱え家庭教師」としての二人三脚の苦難の日々を一生忘れ去る事はないであろうからだ。
誕生日とは、特に産んだ親からは子供がこの世に産まれ出た奇跡こそを第一義に祝福して欲しいものであると思いつつ、既に年老いた我が母が“身勝手な”誕生祝いを寄こす事を、我が還暦に近づく今となっては受け入れねばならないのであろう。
(2011年10月17日記 「誕生日雑感」より一部を引用)
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上記バックナンバー内の、5歳の頃の祖母よりの“50歳若死のお告げ”は今尚私の脳裏にある。
それがあるお陰で、特に50歳を過ぎてからは毎年誕生日にはまた一つ年齢を重ねられた事に実に感謝の思いなのだ。
そして今年もまた郷里の母より“自己懐古趣味”のお祝い電話が届いた。 今年の母のセリフは「あなたを産んだ日はよく晴れていた」である。 加えて、毎年言う決まり文句は「あなたの年齢になると誕生日なんか来て欲しくないでしょ。」
それに反発して私も毎年決まり文句の返答をする。 「上京して自立し、我が人生を独力でリセットした後(適齢期の)25歳過ぎた頃から、私は誕生日が来るのが毎年うれしくて仕方ないのよ。 特に50過ぎてからは毎年年齢を重ねていくことに感謝してるよ。 今は早く還暦を迎えたい気分だよ。」
いや本心でそうなのだ。 60歳を過ぎた時に「60歳以上の部ロードレース」に出場する事が現在の原左都子の一つの夢でもある。
昨日の我が誕生日に、大学の講義が休講のため早めに帰宅した娘が、近くの陸上競技場での“バースデイ・ラン”に同走してくれると言うではないか!
昨日その陸上競技場にて母娘共に屋外タイムとしては“新記録”を樹立出来た事が、何にも勝る誕生日プレゼントと感動した私だ。