原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

新聞のデジタル購読をするべきか??

2011年08月06日 | 時事論評
 2、3か月前から悩んでいる事象がある。
 その事象とは、表題のごとく「新聞のデジタル購読をするべきか?」否か? である。

 「原左都子エッセイ集」の古くからの読者の方々は重々承知であろうが、私は何十年来に渡って一貫して朝日新聞のファンである。 その朝日新聞が2、3か月前よりデジタル版を開設した当初より、その購読の程を悩んでいるのだ。
 同じく朝日新聞ファンの身内に相談すると、身内自身は従来通り“紙の新聞”が希望とのことだが、私がデジタル購読したいのならたかが“プラス1000円”で両者の購読が可能なのだから、さっさとデジタル購読も付加すればよいとの意見だ。

 確かに“たかが月々1000円”の負担増ではあるが、そのコストパフォーマンスの程を見極めたいのが原左都子の性分である。

 そこで以下に、私なりにそのコストパフォーマンスの程を検証していくことにしよう。


 新聞をデジタル購読することの <利点その1> として、パソコン、iPad等々の端末で新聞を読めることが挙げられる。
 過去を振り返ると、私は20代後半頃から朝日新聞を職場に持参して、昼食後の休憩の残り時間に日々集中してそれを熟読し続けた事をバックナンバーで述べている。
 20代前半頃までは、昼食時にこの私も職場の同僚との談話を楽しんでいた。 ところが周囲の同僚の結婚、出産等の環境変化に伴って昼休みの話題が子どもや亭主関連に偏向し始めるのだ。 当初は同僚達のその種の井戸端会議に多少の興味があった。
 だが、徐々にこの話題に付き合って時間を潰すのはもったいない感覚が増大して来るのは、結婚志向の低い私にとっては必然的である。 そして、その後の私の昼休みとは単独で新聞を熟読する時間と相成ったのだ。
 その頃の私は出かける間際に玄関先の新聞受けに配達されている新聞を、広告チラシも含めて鷲づかみで鞄の中に押し込んで、出勤を急いだものである。
 今の時代であれば、iPadなる小型機器を鞄に入れておけば、昼休みに限らず電車の中等何処でも新聞のデジタル購読が可能ということであろう。 私にとっては、新聞のデジタル購読とはその過去の時代にこそ価値があったことを今さらながら実感させられて残念である…。 
 現在の私は、紙の新聞を何処かへ持参して読む機会など皆無だ。 その意味では、<利点その1>に関して、コストパフォーマンスは低いとの結論になりそうだ。

 デジタル版の <利点その2> として、過去の記事1年分が検索し放題とのようだ。
 私の場合、現在新聞を最も活用する場であるのがこの「原左都子エッセイ集」においてである。
 現在私が朝日新聞を我がエッセイ集に活用するに当たって採用している方法は“スクラップ方式”である。 これに慣れている身としては、現在のところはこの方式で十分な感があるのだが、さてデジタル版の過去記事検索機能の実用性は如何なるものなのか? この点においてのコストパフォーマンスの程は不明だ。

 次の <利点その3> は、“セレクト”及び“キーワード”機能であるようだ。
 これを実行することにより、自分が欲する画面が自動的に配信されるようだが、これに関しても、一体どの程度の選択機能や精密性があるのかが不明である。

 <利点その4> はトピックス性とのことである。
 重大ニュースがあると超速報として画面に表示されるとのことだが、これは読者が新聞デジタル画面を開いている場合に限られるのであろう。
 テレビにおいても速報テロップが流れるが、あの感覚と同様なのだろうか? テレビの速報の恩恵に与れるのはテレビを付けている時に限られるが、私はさほどテレビを見ないため速報に触れることも少ない。
 同様にパソコンも1日において限られた時間しか開かないため、この機能も使いこなせないのではないかと考察する。

 朝日新聞がデジタル版を開設した当初には、“無料お試し期間”が設定されていたようだ。 それを試しておけば上記の各利点に関して私なりに把握できたのであろうが、残念なことにそれを試行する時間が取れないでいた。
 ただ私なりの乏しいネット経験でその“お試しぶり”を想像してみるに、パソコンを一日中開いておけるがごとく相当の時間の余裕がある人のみが、この種の利点のすべてを利用可能ということではあるまいか??


 加えて、“紙”という文化が果してきたその機能の高度性も、今尚捨て難いものがある。
 私は数年前にエジプトを訪れ、現在の紙の起源である“パピルス”の歴史文化に触れて来たのだが、紀元前の古代より現在に至るまで、一つの文明として情報伝達手段をパピルスや紙が担った歴史は重いものがあろう。
 現代においては資源の有限性や環境保護の観点から、紙資源の利用を控えるべく世論が先行しているのが現状だ。 その観点から地球上において貴重な紙資源を再利用する技術が発展していることは何よりである。

 その種の世論の背景を受けて、情報伝達手段のデジタル化が科学技術の急激な発展の歴史と共に目覚ましく進化を遂げる昨今である。 デジタル技術の発展自体は素晴らしい事であり、私もその恩恵を受けていることに感謝の日々である。

 ただそのような時代背景の下、情報伝達手段を“紙”に依存するのは時代遅れで 「悪」、“紙”に頼らずデジタル化していくのが 「善」 とのステレオタイプで短絡的な発想が大手を振って世に蔓延してしまうのはどうであろう?
 両者の利点を尊重し選択していく事こそが、現在に及んで古代より人間が築いてきた文明を後世に末永く伝承していける手段なのではあるまいか? 
 原左都子個人的には、“紙”が果す情報伝達手段の高度さ、及び芸術方面において果している偉業等も含めて、後々まで継承していきたい思いだ。


 話を大きくしてしまったが、今現在この世に生きる人間にとって実際問題新聞のデジタル購読の価値は如何程なのであろう?  (既にデジタル購読をご経験されている方々のご意見を賜りたく存じます。)
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合格をゲットできる面接トークとは?

2011年08月04日 | 教育・学校
 我が子が大学受験直前の高3生であることは本エッセイ集のバックナンバーで公開しているが、もしも所属高校の学校推薦が得られたならば、早くも秋には大学の小論文試験と面接にチャレンジすることとなる。


 小論文に関しては既に高校でも指導を受けているようだが、我が家においても「お抱え家庭教師」である私が指導を開始している。

 小論文すなわち作文が苦手な子どもは数多いことであろう。 我が子もその例外ではなく、「作文」と聞いただけでアレルギー反応が起こるようでいつも頭を抱え込んでいる。

 そんな娘に対して、私は以下のような指導をしている。
 「作文のテーマが何であれ、あなたの17年間の短い人生とてそのテーマに関連する自分自身の経験や考えが必ずや自分の頭の中にあるはずだ。 そのせっかくの自分の頭を回転させずに、いきなり世間に蔓延っている陳腐で通り一編の既成概念等を持ち出して、一見形になりそうな作文を書こうとするから行き詰るのだ。 そんなものを持ち出したところで書く本人がつまらないであろうし、出来上がった作文を読まされる側もちっとも面白くない。 とにかく自分の頭の中の引き出しから、自分自身の経験や考えを引き出すことだ。 それが少しでも引き出せたならば、俄然書きたい意欲が自分の内面から湧いてくるはずだ。 そうしたら後はテーマに沿ってそれを如何に作文として形創っていくかが課題である。 その過程で世論も取り入れる等のバリエーションを持たせつつ、制限字数をクリアしながら作文を仕上げるとよい。」

 普段、作文(エッセイ)を書き慣れている母の私にそんなことを言われたって、17歳の娘にとってはまだまだ苦手意識が拭えないであろうことは理解できる。
 それでも、ここのところ確かに娘の作文力は上達しているのだ。 私の指導に従って、自分自身の経験や考えを頭の中から引き出す作業が出来つつある。 それが下手な経験や未熟な考えであろうと本人自身に書く事に対する前向きの姿勢が見られるようになり、(親の欲目かもしれないが)読んでインパクトのある作文に徐々になりつつあるのだ。
 我が娘の場合作文全体の構成力と時間制限クリアがまだまだ今後の課題であり、引き続きその指導を重ねる私なのだが。
 (それにしても試験における小論文とは、字数制限、時間制限と、何とも窮屈だよなあ~。 この私でも嫌になるわ…)

 一方、面接試験に関しては、我が子は既に“墓穴を掘って”しまったようだ…
 と言うのも、娘の所属高校に於いて夏休み前に開催された大学ガイダンスに娘の第一志望大学が参加していたようだ。 そのガイダンスに参加した娘は、大学の担当者から「あなたは反応が静か過ぎるので、我が大学で面接を受ける場合にはもっと自分の考えを述べられるように練習した方がよい」との手厳しい個人的指摘を受けてしまったとの事である。

 親としては元より重々承知の話だ。 なんせ、我が子は生まれながらに若干の事情を抱えている。 その事情を親子で克服しつつの人生であるが、我が娘の一番の弱点とは、まさに「面接」のごとくの自己表出力の分野なのである。
 振り返ってみるに中学受験の時も同様であった。 娘が抱えている事情に関して詳細を知らない塾における面接指導結果が芳しくないことなど「お抱え家庭教師」である私にとっては想定内であり、自宅で面接指導にも励んだ私である。 ところがその努力の甲斐も虚しく、本人曰く「受験本番の面接の時には緊張してほとんどしゃべれなかった…」とのことであった。
 「いいよ、いいよ、貴方なりに頑張ったのならそれで十分」と励ましつつ、学科で点数を稼げたことで命拾いし「合格」結果を手中にした時には親子で感涙したものだ。
 
 話が変わって、私には高校教員経験があるため必然的に受験業務の経験もあり、過去において受験生の面接を担当している。
 その際に感じた思いを本エッセイ集2007年12月のバックナンバーに記載しているので、その一部を以下に引用して振り返ることとしよう。
 受験の際に面接を実施する立場から言うと、我が子のような面接の場で特別緊張しやすい等の特殊事情がある場合を除き、面接に神経質になり過ぎる必要はないと考える。 むしろ、年端も行かぬ子どもから模範解答のような応答をされると、私など「通り一遍で芸がなくつまらない奴だなあ。」とのマイナス印象を持ってしまう。 とにかく相手は子どもである。 自然体で自由に答えてくれた方が人間味があって私は好感が持てる。 最低限言葉使いに常識的な範囲で留意さえすれば、何を喋ろうと特段問題はないであろう。
 入試時の面接の質問事項の一つによくあるのが「志望動機」である。 これに関しても中学や高校入学段階で立派な志望動機は必要ないと思われる。 “貴校の教育理念がすばらしい”等の優等生解答は、聞いている方は嘘臭い。 それが事実ならば本人の言葉で熱く語ればよいが、親等大人からの受け売りの作り話は聞いている側は見え見えのため、むしろ避けた方がよい。

 上記は高校受験に際する面接担当者側からの私見であるため、自ずと大学受験の面接とはレベルが異なる話であろう。
 そうだとしても、やはり私は大学受験の面接においても基本的には上記に引用した心構えで十分と心得る。
 
 私は面接を実施する側の根本的姿勢として、問いたいことがあるのだ。 それは、試験に於ける「面接」の果す意義とは一体何であるのかと言うことだ。

 学校という組織は生徒学生の修業年限が限られていて、その年限はたかが3年ないし4年である。 その限られた年限において、学校にとってはおそらく“迷惑にならず”できれば今後学校の発展のために“何らかの業績を修めてくれる”生徒や学生を入学させたい所存なのであろう。
 その種の採用側の身勝手さで入学者を選抜しようとする手段の中で、生徒の持ち味を一番手っ取り早く把握できるのが「面接」ということなのだろう。 そのたかが5分程度の「面接」に於いて“反応が乏し”かったり、あるいは“我が校には不適切”なる短絡的な理由で切り捨てられた子ども達が、必ずしも学校にとって迷惑な存在であるとは限らず、また能力に欠ける訳でもないのが世の中の実態というものだ。 

 上記のごとくの諸事情を踏まえた上で、今後共我が娘に対して「面接指導」を施す所存の私である。 ただし原左都子の面接指導とは、決して大学に迎合するべく“紋切り型面接トーク”を指導する訳ではない。
 あくまでも我が子の個性が将来花開くべく未来に視点を置きたいものだ。 それに見合った我が子らしい面接トークをすれば十分と心得る。

 それは小論文を書くこととも一致しており、自分の頭の中から自分自身の考えを引き出す作業が基本となるため、今後も両者を平行して指導を続ける予定である。
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私がイチローならば今後如何に身を振ろう?

2011年08月01日 | 自己実現
 我が国が誇る世界的スーパースター、大リーガーのイチロー選手の活躍に翳りがみえてきている。


 「原左都子エッセイ集」前回の記事において、私は国民栄誉賞について取り上げた。
 実は、国民栄誉賞に輝くに最も相応しいダントツ一位の日本人とは、私は イチロー をおいて他にないと以前より考えている。

 そのイチローが、国民栄誉賞を辞退した歴史があることを知らぬ国民はいないであろう。 その辞退の理由も輝けるスーパースターに相応しかったものだ。
 2001年、イチロー選手はメジャーリーグで日本人選手史上初となる首位打者を獲得する活躍を見せた事により小泉純一郎内閣から授与を打診されたが、「国民栄誉賞をいただくことは光栄だが、まだ現役で発展途上であるためもし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい」と固辞した。 そして2004年にも、メジャーリーグのシーズン最多安打記録を更新した事から内閣が授与を検討したが、イチローは再度固辞した。

 前人未到の記録を打ち立てて尚、“発展途上”の言葉を放てるイチローであるからこそ、その後も次々と未踏の記録を積み上げることが可能であったことを実感させられる思いだ。
 この先将来イチローが現役引退した暁には、その時の政権首相は是非共イチローが打ち立てた現役時代の類稀な活躍の栄誉を評して「国民栄誉賞」を忘れずに贈呈して欲しいものである。


 そんなイチロー選手が冒頭のごとく、メジャーデビューからちょうど10年目となる本年低迷を続けているようだ。
 大リーグ開幕後の4月2日には球団記録となるメジャー通産2248安打を達成したものの、5月以降は不振が続き、メジャーデビューした2001年以降10年連続で選出され続けてきたオールスターにも漏れる結果となった。

 先だってネット上の報道でも見聞したのだが、無安打試合が多く7月26日時点で打率を0、266にまで落としているイチローに対し、本年度歴史的連敗を続けるマリナーズの監督が「ベテラン選手がこういうプレーをしていてはいけない。」と怒ったのだという。
 監督といえどもイチローに意見するのはマリナーズではよほどの事であるそうだ。 何故ならば、球団オーナー筋と太いパイプを持つイチローに苦言を呈することは、自分のクビをかけての行動を意味するらしい。 マリナーズのこの成績では監督生命が長くないことを悟った上で、監督はつい本音がでてしまったとの報道である。
 イチローのマリナーズとの契約は来年2012年までだそうだが、地元メディアでは、「さすがに年齢的な衰えがみえる。イチローなしのチームに変えていかなければならない」などとのイチロー放出論も強くなっているようだ。
 イチローが今年11年連続200安打を達成するには、残り59試合で87安打が必要とのことである。 この最後の砦まで崩れるようだとイチローのチーム内における立場は極めて厳しくなる、との厳しい報道内容だ。


 原左都子の私論に入ろう。

 イチローにとっては初めての挫折とも表現できるこの低迷危機状態に対して、冷静沈着なイチロー本人が対策を練っていない筈もない。
 ただ、スポーツ選手にとっては致命的とも言える“身体的老化現象”という回避不能な敵と如何に闘っていくのかが、今回のイチローの危機に際する一番の課題となろう。
 こういう時にスポーツ選手の脳裏にチラつくのが、おそらく「現役引退時期」であり、また「今後の活躍の場」であるのだろう。

 こんな時にこの話題を持ち出すのも顰蹙かもしれないが、時を前後して元大リーガーの伊良部選手が自殺を図ったとの報道を見聞した。
 そう言えば、私は伊良部選手の存在すら忘れ去っていた。 新聞で伊良部選手死去の報道を見た時には正直なところ、(そういう野球選手もいたなあ)としか認識できなかったのが事実である。 それにしても一時一世風靡した実力派の野球選手が、40代の若さにして自殺の疑いが濃い死に方をしたとは何と痛ましい事であろう。

 このニュースに触れずして、庶民の原左都子にも理解できる事がある。
 それは、一旦世論により“スーパースター”扱いされてしまった人物が、その坂を下り始めるとその人生が急激に暗転するのであろう、とのことだ。
 失礼ながら特に“中途半端”にそして“他力本願”にその栄光を感じさせられた人物にとっては、世間から自分の存在を忘れ去られてしまう事自体がその後の自らの心理面において失望の加速度を増し、自分はこの坂を転げ落ちるしかないと錯覚してしまうのであろう。
 浮世の反応など二の次と捉え、自分自身に自らの過去から現在未来に渡る活躍の程を自己分析可能な能力や時間空間が存在したならば、その後の人生も異なったであろうに……


 私がこの「原左都子エッセイ集」において、幾度となく公開している持論がある。
 それは、原左都子自身は「一生、庶民である事を全うしたい」ということだ。

 世界的スーパースターとて、イチロー選手のごとく翳りが見える時期が必ずや訪れるのが人生というものだ。 もちろんイチロー選手の場合、持ち前の冷静沈着な判断力で、今後体力的な限界を自覚した時にも最善の結論を下すことであろう。
 それよりも何よりも、世界的スーパースターの現役引退を待ち構えている利潤目的の団体組織はさぞかし数多いことであろう。 これに関してもイチローはおそらく冷静沈着に、引き続き自身が主体的に選択した分野で活躍を開始することだろう。


 一生を通して一庶民でありたい原左都子が、イチローの人生を歩むことなど一切あり得ない話である。
 その立場にして私が今イチローであるならば、おそらく本年度の成績が悪くとも契約期限の来年までマリナーズに居座ってプレーを続けるような気がする。 実力主義の米国においてはそれを許容してくれないはずで、私はとっとと首になるのかもしれない。
 首になった後、どうするか??? やっぱり分からないな~~~

 ただ少なくとも私の場合は一生自由の身の庶民であることを貫いているお陰により、一時世間からの疎外感を抱いたからと言って“自殺”との極論の選択肢に走るなどということは絶対にあり得ない話だ。
 そんな私がイチローであったならばとりあえず来年もマリナーズの一員でいたいと思うだろうし、そして10余年間の現役を全うしようとした直前に首を切られ引退の道程を歩んだ暁には、感激しきりであると思うよ。
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