原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

合格をゲットできる面接トークとは?

2011年08月04日 | 教育・学校
 我が子が大学受験直前の高3生であることは本エッセイ集のバックナンバーで公開しているが、もしも所属高校の学校推薦が得られたならば、早くも秋には大学の小論文試験と面接にチャレンジすることとなる。


 小論文に関しては既に高校でも指導を受けているようだが、我が家においても「お抱え家庭教師」である私が指導を開始している。

 小論文すなわち作文が苦手な子どもは数多いことであろう。 我が子もその例外ではなく、「作文」と聞いただけでアレルギー反応が起こるようでいつも頭を抱え込んでいる。

 そんな娘に対して、私は以下のような指導をしている。
 「作文のテーマが何であれ、あなたの17年間の短い人生とてそのテーマに関連する自分自身の経験や考えが必ずや自分の頭の中にあるはずだ。 そのせっかくの自分の頭を回転させずに、いきなり世間に蔓延っている陳腐で通り一編の既成概念等を持ち出して、一見形になりそうな作文を書こうとするから行き詰るのだ。 そんなものを持ち出したところで書く本人がつまらないであろうし、出来上がった作文を読まされる側もちっとも面白くない。 とにかく自分の頭の中の引き出しから、自分自身の経験や考えを引き出すことだ。 それが少しでも引き出せたならば、俄然書きたい意欲が自分の内面から湧いてくるはずだ。 そうしたら後はテーマに沿ってそれを如何に作文として形創っていくかが課題である。 その過程で世論も取り入れる等のバリエーションを持たせつつ、制限字数をクリアしながら作文を仕上げるとよい。」

 普段、作文(エッセイ)を書き慣れている母の私にそんなことを言われたって、17歳の娘にとってはまだまだ苦手意識が拭えないであろうことは理解できる。
 それでも、ここのところ確かに娘の作文力は上達しているのだ。 私の指導に従って、自分自身の経験や考えを頭の中から引き出す作業が出来つつある。 それが下手な経験や未熟な考えであろうと本人自身に書く事に対する前向きの姿勢が見られるようになり、(親の欲目かもしれないが)読んでインパクトのある作文に徐々になりつつあるのだ。
 我が娘の場合作文全体の構成力と時間制限クリアがまだまだ今後の課題であり、引き続きその指導を重ねる私なのだが。
 (それにしても試験における小論文とは、字数制限、時間制限と、何とも窮屈だよなあ~。 この私でも嫌になるわ…)

 一方、面接試験に関しては、我が子は既に“墓穴を掘って”しまったようだ…
 と言うのも、娘の所属高校に於いて夏休み前に開催された大学ガイダンスに娘の第一志望大学が参加していたようだ。 そのガイダンスに参加した娘は、大学の担当者から「あなたは反応が静か過ぎるので、我が大学で面接を受ける場合にはもっと自分の考えを述べられるように練習した方がよい」との手厳しい個人的指摘を受けてしまったとの事である。

 親としては元より重々承知の話だ。 なんせ、我が子は生まれながらに若干の事情を抱えている。 その事情を親子で克服しつつの人生であるが、我が娘の一番の弱点とは、まさに「面接」のごとくの自己表出力の分野なのである。
 振り返ってみるに中学受験の時も同様であった。 娘が抱えている事情に関して詳細を知らない塾における面接指導結果が芳しくないことなど「お抱え家庭教師」である私にとっては想定内であり、自宅で面接指導にも励んだ私である。 ところがその努力の甲斐も虚しく、本人曰く「受験本番の面接の時には緊張してほとんどしゃべれなかった…」とのことであった。
 「いいよ、いいよ、貴方なりに頑張ったのならそれで十分」と励ましつつ、学科で点数を稼げたことで命拾いし「合格」結果を手中にした時には親子で感涙したものだ。
 
 話が変わって、私には高校教員経験があるため必然的に受験業務の経験もあり、過去において受験生の面接を担当している。
 その際に感じた思いを本エッセイ集2007年12月のバックナンバーに記載しているので、その一部を以下に引用して振り返ることとしよう。
 受験の際に面接を実施する立場から言うと、我が子のような面接の場で特別緊張しやすい等の特殊事情がある場合を除き、面接に神経質になり過ぎる必要はないと考える。 むしろ、年端も行かぬ子どもから模範解答のような応答をされると、私など「通り一遍で芸がなくつまらない奴だなあ。」とのマイナス印象を持ってしまう。 とにかく相手は子どもである。 自然体で自由に答えてくれた方が人間味があって私は好感が持てる。 最低限言葉使いに常識的な範囲で留意さえすれば、何を喋ろうと特段問題はないであろう。
 入試時の面接の質問事項の一つによくあるのが「志望動機」である。 これに関しても中学や高校入学段階で立派な志望動機は必要ないと思われる。 “貴校の教育理念がすばらしい”等の優等生解答は、聞いている方は嘘臭い。 それが事実ならば本人の言葉で熱く語ればよいが、親等大人からの受け売りの作り話は聞いている側は見え見えのため、むしろ避けた方がよい。

 上記は高校受験に際する面接担当者側からの私見であるため、自ずと大学受験の面接とはレベルが異なる話であろう。
 そうだとしても、やはり私は大学受験の面接においても基本的には上記に引用した心構えで十分と心得る。
 
 私は面接を実施する側の根本的姿勢として、問いたいことがあるのだ。 それは、試験に於ける「面接」の果す意義とは一体何であるのかと言うことだ。

 学校という組織は生徒学生の修業年限が限られていて、その年限はたかが3年ないし4年である。 その限られた年限において、学校にとってはおそらく“迷惑にならず”できれば今後学校の発展のために“何らかの業績を修めてくれる”生徒や学生を入学させたい所存なのであろう。
 その種の採用側の身勝手さで入学者を選抜しようとする手段の中で、生徒の持ち味を一番手っ取り早く把握できるのが「面接」ということなのだろう。 そのたかが5分程度の「面接」に於いて“反応が乏し”かったり、あるいは“我が校には不適切”なる短絡的な理由で切り捨てられた子ども達が、必ずしも学校にとって迷惑な存在であるとは限らず、また能力に欠ける訳でもないのが世の中の実態というものだ。 

 上記のごとくの諸事情を踏まえた上で、今後共我が娘に対して「面接指導」を施す所存の私である。 ただし原左都子の面接指導とは、決して大学に迎合するべく“紋切り型面接トーク”を指導する訳ではない。
 あくまでも我が子の個性が将来花開くべく未来に視点を置きたいものだ。 それに見合った我が子らしい面接トークをすれば十分と心得る。

 それは小論文を書くこととも一致しており、自分の頭の中から自分自身の考えを引き出す作業が基本となるため、今後も両者を平行して指導を続ける予定である。
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