原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「大連立」案を打ち出す民主党に未来はない

2011年08月18日 | 時事論評
 本日(8月18日)昼間のNHKテレビニュース報道によると、民主党政権は“子ども手当て”が来年以降も存続するかのようなニュアンスを感じさせるチラシを作成し、公に配布したらしい。
 これに対し自民公明野党両党は即刻このチラシを回収するよう民主党に指導し、民主党は陳謝したとの事である。

 まったくもって、“溺れる者、藁をもつかむ”とはこのことか??

 来年度より事実上消滅することになった“子ども手当て”は、確かに民主党の看板公約であった。 
 陰の黒幕である小沢氏率いる民主党が2年前の夏劇的に政権奪取できたのは、この“子ども手当”を筆頭とする「カネのバラ撒き票取り政策」以外の何物でもなかった。

 その後民主党に政権が移り変わった後も、国家財源難に拍車をかけるがごとく経済不況が続いた挙句の果てに、突如として勃発したのが3月の東日本大震災だった。
 もうそろそろ政権は膨大な税金の食い潰し政策である“カネのバラ撒き”を終焉させないことには、今後この国は成り立たないであろうに… との原左都子の危機感をよそに、民主党内部からは今後“震災復興税”等の増税政策を採ってでも尚看板マニフェストである“子ども手当”を続行するとの意向が伝わってきていた。

 もういい加減、民主党も自分らの力の無さを観念しろよ! と、政権にしがみつく民主党議員らの我が身息災な視野の狭さに辟易としていたところ、自民党を筆頭とする野党より菅内閣に対して不信任案が提出され菅首相は退任を迫られた。

 当時、私は本エッセイ集7月の「菅さんは本当に退陣せねばならないのか?」と題したバックナンバーにおいて、今後民主党政権が続かざるを得ないのならば、党首は菅さんでいいのではないかとの私論を展開している。

 その私論を少し振り返らせていただくことにしよう。
 原左都子はそもそも民主党支持派ではなく、菅政権に対しても批判的立場に立っている国民である。
 野党の魂胆はともかく、一旦野党より内閣不信任案を提出されたにもかかわらず、それに菅氏は言葉を濁しつつ退陣時期を明確にしないまま時間が過ぎ去ったため、国民の不信感を不必要に煽ったようだ。 先だっての6月28日には、菅氏は自らの辞任時期に関して、震災や原発事故に対する一定の目途がついた時点で若い世代に責任を引き継ぎたいとの意向を示した。 さらに第二次補正予算案、及び再生可能エネルギー特別措置法、特別公債発行案、これら三つの成立を持って自らの退陣の目途と考えるとのことである。 私論であるが、これらを今こそ菅氏に実行してもらってはどうなのか?? 
 一方、“菅降ろし”発言は高々なれど、大震災復興案に関しては野党からその代替案が全く聞こえて来ない現状ではあるまいか??  福島第一原発現場では汚染水循環利用システムや汚染水プール内の汚染除去システムに関して故障また故障の連続であり、高濃度の放射能汚染を周囲に撒き散らしている現状だ。これに関して私が今すぐ訴えたいのは、この処理を東電及び菅政権に任せ切りにするのではなく、もしも与党内菅反対勢力や野党各党においてその対策を講じられる道筋(先進科学者のコネ等)があるのならば、何故申し出ないのか!と言うことだ。 「政権が我が身に移るのならば、協力してやってもいいよ~~~」などと狭い視野で敵対意識を燃やしている場合ではなかろうに!  この緊急事態から原左都子が察するに、要するにこの国においては与野党議員共に誰もそんなコネなどなく、原発を推進してきた自民党時代より、元々今回のごとく未曾有の原発事故発生時に適切な対策が取れる研究者など一人として育成していない状態、ということが証明されているようなものだ。
 それは原発事故以外の被災地の全般に関しても同様の貧弱さではないのか?? 今回の大震災復興に対して後を継ぐ能力がある人材が誰一人として存在しなさそうな中においては、とりあえず菅氏の辞任時期に関する3条件表明を受けてはどうなのか??
 (以上は、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより引用要約)


 そうしたところ菅首相は8月上旬頃、大震災復興対策や原発事故対応や今後の社会保障と税の問題に関して「内閣として実行するべきことはやってきた。もう残念と思うことはない」云々と述べ、8月中には退陣することを表明した。

 この菅首相の表明により8月内での退陣が決定した訳であるが、その後次期民主党代表選に出馬の意向を表明している“ポスト菅”議員連中から出てきたのが自公野党との「大連立」案である。
 例えば一番先に民主党代表選への出馬意向を固めた野田佳彦財務相は、次期政権の枠組みに関し「救国内閣をつくるべきだ」として自公両党との大連立を目指す考えを明言した上で、増税路線を堅持する考えも示している。
 この野田氏は民主党内における有力候補であるらしく、この発言は代表選の行方に影響を与えるとの報道を見聞した直後から、前原氏等民主党閣僚経験者より「大連立」案に対し同調意見が出ているようだ。

 片や、民主党内党首候補者らよりの「大連立」の意向に対し、昨日(8月17日)自民党の谷垣総裁や石原幹事長らは否定的考えを提示したとのことである。


 最後に原左都子の私論で締めくくろう。
 
 自民党総裁や幹事長が民主党よりの「大連立」を拒否するのは当然であろう。
 そもそも民主党の政権交代が叶ったのは“カネのバラ撒き政策”以外の何物でもなく、議員を頭数だけ揃えた人材不足の民主党政権が早期に政権を失う事を私は当初より予想していた。 そうしたところ肝心要の小沢氏が“政治とカネ問題”等により崩れ、昨年の民主党党首選において菅氏に敗れた時より民主党政権の生命の短さが決定付けられた。
 それにしても残念なのは、民主党内に於いて今尚黒幕親分として裏で君臨しているであろう小沢氏に対抗できる政治家は、民主党内においては菅氏しかいなかったのではないかという事である。
 だからこそ、原左都子は民主党がまだ政権を執るのなら首相は菅氏でよいと主張していたのだ。 決して金権勢力の小沢氏の影響下で政権を操る時代ではないことが明白なためだ。 民主党が政権を死守したいのであればこの菅氏を支えて今一度一丸となればよかったものを、内部分裂により野党の不信任案に同調し、自ら菅氏を退陣に追い込み自滅への道を歩む結果となった。

 野田、鹿野、馬渕、樽床 ……
 大変失礼ではあるが、それらの中のどなたが次期民主党党首に当選したとて、今後の民主党は短命であろうとの予想しかつかない…。
 こんな小粒で零細な候補者しか擁立できず短命が予想される次期民主党政権より「大連立」を要望されたとて、まさか政権の大先輩である自民党が“はい、分かりました”と受ける訳もないことが民主党政権は何で分からないのだろう??? (参考のため原左都子は自民党支持派でもなく、あくまでも無党派層です。)

 国政を担う政権がこれ程貧弱、混乱状態では、いつ大震災復興が叶うのか計り知れないというものだ。




 原左都子は、明日から北陸の地に旅に出ます。  

 留守中は「原左都子エッセイ集」のバックナンバーをお楽しみ下さいますように!
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「アクセス解析」初体験記

2011年08月15日 | 自己実現
 ブログの編集画面において「アクセス解析」なる機能が存在することは、日々ブログライフを楽しまれている方々にとっては常識であり、そのデータを参考にしつつネット上でのご自身のブログ展開を楽しまれていることであろう。

 我がブログ「原左都子エッセイ集」の場合、開設当初より goo の“無料版”を一筋に利用させていただきつつ4年の年月が流れようとしている。
 “無料版”のgooブログは「アクセス解析」機能がないのをはじめ、様々な付加的サービスが少なくシンプルなのが特徴である。
 
 わずか月々300円足らずの“有料版”に切り替えれば上記の「アクセス解析」のごとくのサービスも受けられる等々のアドバイスを、過去においてブログ仲間より頂いたこともある。
 
 決して月々300円の出費を惜しんでいる訳ではなく、そもそも「原左都子エッセイ集」を開設した目的の第一義とは、我が内面から湧き出てくるオピニオンを公開することにあった。
 開設間もない時期は元々の知人が訪問してくれるだけの状況の中、もっと広範囲の「読者」を獲得したいとの純粋な思いもあってブログコミュニティに登録する等の行動も取りその恩恵に与っていた時期もある。
 ただブログコミュニティ登録直後より予想をはるかに超える反響の中、同時に予期せぬアクセス弊害も多発する現状に苦悩した挙句、その種のネット上コミュニティ組織は一切敬遠するべく対策を採って今に至っている。 現在では、むしろ不特定多数の訪問者が我がブログに“不必要”に訪れることを回避するべく方向性で、ブログ展開をしている原左都子である。


 その後も一ブロガーとして我がブログへのアクセス数には当然ながら関心があり、goo“無料版”においても入手できる「アクセス状況」については日々チェックを入れていた私でもある。

 「原左都子エッセイ集」の訪問者数(IP)が日々300を突破するようになったのは、2年程前からのことであっただろうか? これに関しても、“継続は力なり”の論理でブログもある程度続けていると、誰だってこの程度のIPアクセスが得られるのだろう程度に把握していた。

 その後、閲覧数(PV)が日々1,000を越え始めた頃より、このPVの実態とは何なのだろうかとの興味が湧き始めたのは事実である。
 その頃から表画面に「アクセス状況」の一部を公開し始めることと相成った。

 そもそも訪問者数(IP)と閲覧数(PV)の違いも心得ていなかった私は、ブロガー仲間にその定義に関して質問したところ適切な回答を頂いた。
 訪問者数(IP)とはブログ自体を訪問してくれた回数であり、閲覧数(PV)とはページビューの略語でその訪問者がブログのページをめくってくれた回数の総数とのことである。
 なるほど、なるほど。 ガッテンだ! 
 そうすると「原左都子エッセイ集」の場合、何らかのネット上の検索手段により我がブログを訪れて下さった方々が、(あくまでも原左都子の好都合に解釈すると)「なかなか面白いブログじゃないか! 他の記事も読んでみようか!」という行動に出てくれた結果が、この日々1,000を超える閲覧数(PV)ではないのかと検証するのだ。


 さて、いよいよ先週から一週間限定で試行させていただいている goo の「アクセス解析」に話を移そう。

 ブログ開設以来既に4年が経過しようとしている私にとって、これは今回が実に初体験であった。
 “へえ、そうだったんだ” “いや~、そういう観点から我がブログは見られていたんだなあ~”等々、新しい発見の連続なのだ!
 と言うのも大変失礼ながら上に記した通り、ブログとは頻繁に更新し長年ネット上で公開していさえすれば、誰が公開しているブログとて自動的にある程度の訪問者数も閲覧数も得られるつまらないシステムなのだと信じて疑っていない部分があったからである。 

 そんな疑いを払拭してくれたのが今回のgooの「アクセス解析」だったのだ。

 4年近くも「原左都子エッセイ集」を綴り続け公開しておきながら、今さらアクセスの実態を知ったというのも読者の皆様には失礼であることをまずはお詫び申し上げる。

 「原左都子エッセイ集」の場合もおそらく他のブログ同様に、最新記事へのアクセスが多い事実も判明した。 ただ、現在1,000を超えている閲覧数の中で最新記事へのアクセス数は日々その1割にも満たないことを今回初めて発見した私である。
 では一体全体どの記事に皆さんが訪問して下さっているのかと言えば、それはネット上で検索可能な「原左都子エッセイ集」が発した単語に連動している過去のバックナンバーであることに、今さらながら驚いた私である。

 私自身が「原左都子エッセイ集」のバックナンバーを読みたいと志しても、4年も前の記事をネット上で紐解くことが困難な実態だ。
 読者の皆様がどのような手段で我がバックナンバーを検索して下さっているのかさえ存じないが、それをたとえ偶然とは言えども検索画面より探してご訪問いただき、閲覧して下さっている事実に今さらながら感謝申し上げたい思いである。
 (加えて携帯からのアクセスも多く、総閲覧数の何割かを占めている実態にも驚いた。 私自身が携帯を通じて「原左都子エッセイ集」を読んだ経験は皆無であるのに…)

 ちなみに、ここ一週間gooの「アクセス解析」を体験した結果を報告しよう。
 「原左都子エッセイ集」全般において現在コンスタントにアクセスが多い記事のトップ3は以下のごとくである。(最新記事は除く)

    「原節子論」 (2008.6)
    「料理嫌いな女」 (2008.8)
    「近代市民法における基本原理とその修正 1~3」 (2007.12)
 
 私自身がその意外性に実に驚かされる結果であった。
 
 これをうれしく思いつつ、開設当初より貫いているアクセスの如何に翻弄されることなく我がオピニオンを展開し続けたい我が意向により、今後も付加サービスが少なくシンプルな goo “無料版”を堪能させていただく予定の原左都子である。
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なぜ、幼稚園バスは大津波に向かって走った?!

2011年08月13日 | 時事論評
 未曾有の大震災に於ける数々の被害に関して、これは「天災」だったのか、これは「人災」だったのかの白黒決着は今後も困難を極めることであろう。


 その中において、国民皆に一番分かり易いのは福島第一原発事故である。
 あれは誰の目から見ても「人災」以外の何物でもない。

 この国において原発が推進された当初より、その推進政策の背景には政治面のみならず科学技術面においても不安定材料が数多く存在していた。 にもかかわらず、国民に対して何らの情報公開もせずしていい加減な“原発は安全”アピールの国民目くらませの下、水面下で原発建設により暴利をむさぼろうとする巨大な権力が暴走したことは否めない事実であろう。
 その証拠に、福島第一原発事故早期に発生したメルトダウンによる水素爆発を止められる人物が誰一人としてこの国には存在しないことが、この3月以降証明された。
 しかもその後の原子力安全保安院等々、国の独立行政法人の原発事故担当者の数々の不祥事更迭事件勃発にもほとほと呆れる思いだ。


 表題の事案に移ろう。

 去る8月10日、宮城県石巻市の私立幼稚園の送迎バスが3月11日当日に大津波に巻き込まれ園児5名が死亡した事件に関して、4遺族が園側の対応に問題があったとして幼稚園に対して損害賠償を求める訴えを起こした。
 大震災発生後、学校や幼稚園等の場で犠牲になった子どもを抱える遺族から学校や幼稚園に対して責任を問う動きが広がっている中、訴訟に持ち込んだ事例は今回が初めてとのことだ。
 今回訴訟に持ち込まれた幼稚園に於ける3月11日当日の対応の様子をここで再現すると、大津波警報発令後の午後3時頃、園児を帰宅させるため高台にある幼稚園をバスが出発し、海辺の住宅地を回っている途中に津波と火災に見舞われて5名の園児が行方不明になったとのことである。(参考のため、高台に立地している幼稚園はその原型を保って存続している様子だ。)
 これに対し、遺族側は「園は警報で津波の危険性を予見できたのに被害を受ける可能性が高い海側へバスを走らせた。 地震時のマニュアルを周知せず避難訓練も実施しなかった」と主張しているようだ。
 この遺族側の主張に対し、園側代理人弁護士は「大津波が来るとは予想できず、園に責任はない」として原告側と争う構えであるとの報道である。


 ここで原左都子の私事に移らせていただくことにしよう。

 今から遡る事6年程前に私が住む関東地方においてかなり大きな地震があった。 その時東京は震度5弱を記録したのだが、これは私が上京してウン十年以来最大の震度だった。 (ただこの3月11日に東日本大震災の震度5強の大揺れを経験した身からすれば、今となっては大騒ぎするほどの揺れではなかったと振り返ることが出来る。)

 ところが当時大いに困惑させられる事象が発生したのだ。 震度5弱の揺れで首都圏の電車がすべて不通となり、これに当時塾に通っていた小学生の我が娘が巻き込まれてしまったのである。 娘の携帯からの電話によると、塾での授業中に大きな地震があったが、自分の授業が終わった時点で普段通り塾から帰されてしまったとのことである。 娘が駅に着いてみると電車が動いておらず人がごった返しているとの電話だ。それは午後4時半頃の事であった。  私は安易にも「おそらく電車はもうすぐ動くから駅で待機していなさい」と娘に伝えた。  
 この一言が親として大失策だった。 直ぐに何らかの手段で駅まで迎えに行ってやればよかったと思っても後の祭りである。 
 その後首都圏は大混乱状態に陥った。 電車は何時間経っても動かない。道路も大渋滞。 携帯も繋がらない。
 幸い時間が経過した後に、娘との携帯は再び繋がり始めた。 「まだ駅で待機している」との我が娘の気丈さに命拾いしつつ、電車が動き始めたのは午後11時過ぎの事だった。
 深夜に自宅の最寄駅まで迎えに行き、11歳という年齢にして7時間もの長時間、塾の最寄駅で一人で耐えたその果敢さを賞賛してやったものである。
 それにしても、年端もいかない子ども達を保護者から預かって暴利をむさぼっている塾が、何故に非常時の生徒の交通網の状態すら把握せずして安易に帰宅させたのか、との不信感を当時より抱き続けている私である。

 時が過ぎ、今年の3月11日の大震災発生時にも上記の過去の苦い経験から、学校は首都圏の交通網が不通で大混乱状態の中、子ども達を無謀にも帰宅させるのであろうか?との大いなる懸念を真っ先に抱いた私だ。
 やはり大震災の状況下において、我が子に持たせている携帯電話に繋がる訳はない。 それがパソコンメールにおいて繋がり始めた時には感激だった。 その後まもなく娘から「今夜は学校に留まることになる」とのメールをもらった時には、親として「これでとにかく我が子は帰宅難民になることだけは避けられ、命が繋がる!」との切実な安堵の思いだったものだ。


 8月3日の朝日新聞報道によると、首都圏の小学校では今までの防災マニュアルを見直して「大地震の時には学校待機」を表明したとのことである。
 どうしてこんな簡単な結論が今まで導けなかったのかと不思議でさえある。
 ただしこれは首都圏特有の改善策であり、大津波が押し寄せる地域にある教育機関においては、今後その立地の検証も鑑みつつ改善策が検討されるべきであろう。


 子どもを預かる学校や幼稚園とは、在校、在園中のその小さな“命”を当然ながら保障してくれると信じて保護者は我が子を教育機関に託しているのだ。

 確かに、まさか本当に未曾有の大津波が押し寄せるとは考えてもいなかったとの弁解が成り立つと信じる弱小組織が数多く存在する日本の貧しい教育事情なのでもあろうが……

 ただ歴史的大震災が勃発してしまった我が国の今後においては、もう既にその種の甘っちょろい弁解が成り立たなくなっている実情を、たとえ零細教育機関であれ肝に命じて欲しいものだ。

 その観点から、今回の幼稚園児死亡に対する保護者の訴訟の行く末を見守りたい私である。
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ディズニーリゾート低迷不振の真相を探る

2011年08月10日 | 時事論評
 1983年の開業以来大活況を続け、日本に於けるテーマパークの王者の地位を揺ぎなく築き上げてきた 東京ディズニーリゾート(東京ディズニーランド及び東京ディズニーシー)が、3月の大震災発生後低迷不振を続けているとの報道である。

 先だってのニュース報道によると、経営主体である㈱オリエンタルランドは、3月11日に発生した東日本大震災後、長期間休館を余儀なくされたことがその後の入場者数を減少させている原因と位置付けているようだ。


 3月11日の大震災当日に東京ディズニーリゾートを訪れた顧客総数は7万名程であったようだ。 そのうち首都圏の交通網の不通や混乱により、自宅までの帰路を確保できた顧客を除き5万5千人もの大量の顧客が帰宅難民となり、リゾート内で一夜を過ごしたとのことだ。
 その翌日より、当然ながらディズニーリゾートも大震災の影響により休園と相成る。

 日本に名立たるテーマパークとは日頃巨大な収入を得ている恩返しとして、このような大震災復興時にこそ、国民が元気を取り戻すべく娯楽分野において社会的責任を担う事を使命としているものと私は捉えていた。 
 ところがその予想に反して休館期間が予想以上に長期に及んでいる事を、私はてっきり千葉県浦安市の埋立地に発生した“液状化現象”の影響を東京ディズニーリゾートも受けているものと勘違いしていた。

 千葉県浦安市の埋立地に林立するかのごとく建設された超高層マンションの数多くが、この“液状化現象”の打撃を受けたとの報道は大震災直後に何度も耳にした。 これらのマンションとは住民にとっては“富の象徴”であったらしく、東京の“シロガネーゼ”や神戸の“アシアレーヌ”をもじって“浦安マリナーゼ”なる新語も生まれる程に、地域住民にとっては特権意識をくすぐられるものであったらしい……
 千葉県浦安市の埋立地に住んで特権意識を煽られる???  (私など元々そんな地に住みたいとの発想すら湧かないのだが…)  
 いえいえ、失礼を申し上げました。 液状化現象による被害は甚大なことであろう。 “浦安マリナーゼ”の皆さん、今後も建設販売主やそれを認可した自治体と果敢に闘われつつ、どうか原状回復を急がれますように…


 さて、東京ディズニーリゾートに話を戻すと、大震災後閉園が長期に渡った理由は“液状化現象”故ではなかった様子だ。 どうやら、ディズニーリゾートがそびえ立つ地は“液状化現象”とは無縁の地であったらしい。
 それでは何故に、東京ディズニーリゾートは大震災後の開園を遅らせたのであろうか?

 これに関しては、当然ながら顧客の安全性を確保するためであって欲しいと一市民としては望みたいところであるし、実際問題そうだったのだろうと推測できる。

 ところが、そう推測するに当たって多少の疑問点があるのだ。
 3月11日の大震災発生時には千葉県浦安市においては震度5強以上の揺れを観測しているはずである。
 その揺れにもかかわらず、東京ディズニーリゾートにおいては死者は元より負傷者の一人とて出していない。 それはこの種の大量顧客を動員するテーマパークにおいては厳重な危機管理がなされていた証拠でもあろう。
 東京ディズニーリゾートがその後長期間休園を与儀なくされたのも、当然ながらこの危機管理力の完全復活を徹底するためだったと推測したい。

 ただ長い閉園期間を経て開園してみると、予想以上に顧客が訪れないことに一番困惑しているのが、経営主体である㈱オリエンタルランドなのではあるまいか?

 大震災による国民の精神面での影響は、首都圏周辺の住民にとっては既に過ぎ去っているのが事実であろう。 そして現在東京ディズニーリゾートの最大の顧客層であろうアジア地域のニューリッチに対しても、原発事故の放射能の風評悪影響情報は沈下しつつある。


 では何故に顧客が“ガタ減り”なのか??

 原左都子が考察するに、その要因とは「マンネリ化」以外にあり得ないのではなかろうか?

 本エッセイ集の2011年2月の時事論評バックナンバー 「ディズニーリゾートに見る若者の“似非”同調志向」 においても綴っているが、現在あの地に出向くと望みもしない妙な“似非”同調志向を強要されるのだ。
 これがもしも小さい子どもでも連れているのなら、我が子のためにミッキーを筆頭とするディズニーキャラを愛好しているがごとくの演技もやむを得ない。 ところが、単に休日の開放感を楽しみたいのみの来園者も含めて、来園者全員にディズニーキャラ愛好の演技を強要されたのではたまったものではない。
 結果として、現在のディズニーリゾートとは“ディズニーおたく”が集う場に変貌するべく落ちぶれていて、“おたく”ではない来園者にとっては居場所がないのが現状なのだ。

 その種の「特異的マンネリ化現象」に実は前々から嫌気がさしていた人種が、大震災後の休園をきっかけとして東京ディズニーリゾート離れを起こしているのが現在の低迷不振の真相ではないのか、と考察するのが原左都子の私論である。

 現在、子ども料金を半額にして夏休み中の子供連れの来園増を目論んでいるディズニーリゾートのようだが、その効果の程はどうなのだろう??
 
 如何なるリゾート地とて、もちろん経営者の理念により運営すればそれでよいことである。
 ただ東京ディズニーリゾートと言えば、既に30年来に渡り国民的、国際的リゾート地として内外にその名を轟かせてきている歴史を抱えているのが事実であろう。
 本家本元のウォルトディズニー社とのライセンス契約の軋轢がネックなのかもしれないが、来園者あってのリゾートであることを今後共肝に命じて欲しいものでもある。

 妙な“おたく”“同調意識”を感じさせず広く一般に真に愛されるリゾートであることが可能ならば、今後も国内外を問わず観光客が末永く押し寄せるのではあるまいか??
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退職を決断する時

2011年08月08日 | 仕事・就職
 本日、丸山陽子先生が小学校教師を退職した。

 と言っても何のことやら分からない方が多数であろう。
 丸山陽子先生とは、現在NHKにて放映中の連続テレビドラマ「おひさま」の主人公である。

 戦前生まれの陽子先生は、当時においてはある程度豊かな家庭に育った。 ただ、病弱の母親を小学生の頃に亡くすという不幸に直面し、男所帯の家事を一人で支え切り盛りしてきた健気な経験の持ち主でもある。

 その陽子が学校の教師になりたいと思ったきっかけとは、亡くなった母の影響力故だ。母は教師になるのが夢であったことを、生前小学生だった陽子に語っている。 この母が残した言葉に大いなる影響を受けた陽子は、小学生の頃より学校の先生になることを目指していた。 
 そして女学校卒業の後、当時としては進学する女子が極めて少ない歴史的背景の下、師範学校に進学して2年間勉学を修めている。
 そしていよいよ小学校教師として自分の出身小学校へ赴任する。
 だが不幸な事に時代は戦争直前期に突入しており、国を挙げて戦争に勝利するべくイデオロギーが渦巻いている時代背景だった。 
 小学校教師とはなったものの、日々陽子先生が子どもに教えねばならない事とは戦争に備えての心身の鍛錬等の戦争一色の教育であった。 そして第二次世界大戦が始まり、そのイデオロギーはさらに高まりを増し、学校教育も自ずと戦争特化を強行された時代である。

 その後終戦を迎えたものの世の中の混乱はまだまだ続く。
 学校現場においては今までの戦争教育を白紙に戻すため、戦前の教科書の不適切な部分に全校生徒に墨を塗る作業を泣く泣くさせるはめとなる。
 ここで原左都子の私見になるが、戦後世の中が「平和」を意識するのはずっと後の事だったのだと再認識させられる場面であった。 まさに私が生まれた頃は“もやは戦後ではない”とのスローガンが掲げられた時代であるが、「平和」が庶民の感覚として意識され始めたのは戦後10年以上経過した後のことだったのではあるまいか?

 その後陽子の学校の校長も新しい人物に替わり、陽子先生は厳しくもこの学校長より退職勧告を突きつけられる運命となる。
 学校長曰く、「これからの時代は国民に対して新しい教育を施す時代へと変換せねばならない。 古い教育を受けた教員ではなく新しい教育を次世代に伝授でき得る人材こそが今後は学校教員となり、新しい時代を創っていくべきだ。」 (原左都子の記憶のみに頼っているため正確ではない点をお詫びします。 ただ私見としては陽子にとっては酷な話であろうが、校長が発する言葉は当時における正論でなくてはならないとの感が強かった。)

 さて陽子先生は如何なる結論を出すのか、日々ドラマを見つつ興味深々だった私である。
 先週出されたその結論は 「退職」 であった。 
 その陽子なりの結論を、私は十分に納得できたのだ。 世界を照らすべく“太陽の陽子”であることを期待されて今は亡き母親より命名された自分の名前ではあるが、その“世界”の解釈とは自分の力量に見合った世界であってよいとの陽子自身の解釈に十分説得性があった。 戦時中の教員経験であるため、戦争教育を強いられ生徒達に本来の学校教育をほとんど伝授していないことを悔いる陽子の思いも十分に理解できる。 そんな困難な時代に短い期間だったが自分が受け持った48名の子ども達にとって生涯の先生でありたいとの今後の陽子の人生の意向についても、素晴らしいと感嘆する私である。


 原左都子自身も、過去において職場の退職を幾度か経験して来ている。
 その我が職場退職の歴史の中で、陽子先生と同じく“教員”を退職した経験を今回“ドラマ「おひさま」”で懐古させてもらえた。

 私の場合は上司からの退職勧告ではなく、自己都合による“出産退職”であった。
 我が子を懐妊したのはちょうど高校が新年度に差し掛かかろうとしていた年度末の時期だった。 3月に教頭より来年度の担任を要望された私は、この時“出産退職”を表明せざるを得なかった。 来年度中の出産が明らかであるのに担任を承諾したのでは、学級の生徒達に迷惑をかける事は明白である。 その時担任を辞退すると共に、私は教員を辞める決意をしたのだ。
 
 そして担任を持たずしての新年度二学期途中の9月30日に、私は教員退職を迎えることとなる。
 学校を上げて私一人のための送別集会を開催していただき(これに関しては単に学校の定例であるのだが)、体育館の舞台で私は全校生徒の前で“お別れの言葉”を述べる事と相成った。 
 私が残したいメッセージは明瞭だった。 学期途中で退職する事のお詫びと、生徒達に今後個人的に望みたい事象についてである。
 「皆さんにはいつも中途退学(高校は中途退学が少なくない実情なのだが)などせず卒業まで頑張って欲しいと教育している教員側の私が、こんな形で学期途中に中途退職することになって本当に申し訳ない思いだ。 見ての通り、ここまでお腹が大きくなった状態で片道2時間電車とバスを乗り継いで学校まで通うのが正直なところ辛くなった。本当にごめんなさい。  それから、今後も皆さんに頑張って欲しい事がある。 授業中にもよく話しているが私は根からの学問好きだ。 今の皆さんにとって勉強は面白くないだろうし、学問と言われてもピンと来ないことも理解している。 それでも学問とは実に素晴らしいのだ!  今後高校を卒業して社会に出たら、皆さんも将来学問をもう一度やりたい時期が来るかもしれない。 その時には年齢を気にせず学問に励んで欲しいというのが私の希望だ。」

 そして教員連中からの“さくら”も含めた沢山の花束も含め、生徒からの出産に対する祝福のメッセージや手紙を数多く抱えて帰宅した私である。
 退職後一ヶ月半の後に、私は我が子を出産することと相成る。
 その情報を得た生徒からの電話や数多くの手紙が自宅まで届き、我が赤ちゃん見たさに遠方から我が自宅まで押し寄せてくる生徒の対応に苦慮した経験もある。(当時は教員の個人情報が生徒にオープンだったからねえ~)
 一方残念なことに、その後生徒から学問に励んでいるとのメッセージは一切受け取っていない私なのだが……
 


 冒頭の丸山陽子先生の場合、私が経験した“出産退職”と比較すると、世の中が劇的に移り変わる時代に翻弄されつつ教員時代を送った厳しい歴史を思い知らされる気がする。
 それでも陽子先生の場合、家族に恵まれ仲間に恵まれる環境の中、自分の欲する未来像を描けての教員退職だったことに安堵させられるものだ。

 今後の陽子の人生の行方を楽しみにしていますよ、NHKさん! 
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