一昨日、我が郷里の実母から久々に電話で長話を聞かされたが。
郷里の高齢者自立支援施設に暮らす実母に関しては、結論としては「認知症状」をさほど感じることは無い、と結論づけられるだろうか?
ただ、これも時と場合と、おそらく本人のその時の心理状態により大幅に様相が異なるものである。
例えば7月に私が郷里を訪れた時など、結局会わず終いだった。
実母の説明によれば、「コロナ感染が郷里でも急拡大していて面談禁止となった故に、今回は会えない」とのことだったが。 後で判明したのだがそれは実母の口実であり、実際は実母の心理状態が不安定だったのだろう。
ただ間近に90歳を迎える高齢の身にして、そんな実母の心理状態の不安定さは理解可能であるため、私もせっかく郷里を訪れたにもかかわらず、その心理状態を尊重して会わずに郷里を去っている。
その後、一昨日の実母からの電話だったのだが。
この時の実母は明るかったし、話し方も闊達だった。
とにかく我が実母に関しては、結論としては「認知症状」があるとの医師からの診断は未だ無いし、私自身も同様の考えだ。
片や、実母に話題を移すと。
こちらは、当の昔に施設の医師より「認知症」の診断結果が出ていて、保証人の私も義母の扱いに難儀する日々だ。
つい最近も、施設のケアマネジャー氏より「『補聴器の電池が無い』、と言っている」との報告電話があった。
この補聴器の電池に関しては頻繁に“無くした騒動”を起こしており、すっかり慣れ切っているのだが。
それにしても、9月末に私が付き添い耳鼻科にて補聴器点検をした際に、すぐに無くすことを前提に必要量よりずっと大量の電池を購入して義母に持たせたばかりである。
その少し前にも施設から同じ電話があり、その時には亭主がネットにて有り余る程の補聴器電池を施設へ送り、施設のケアマネジャー氏に保管していただくこととした。
今回はこの保管電池を義母に届けて頂いて、ことを済ませたのだが。
私事が長引いたが。
少し前の朝日新聞より、「医師の学んだ認知症ケア、間違っていた?」と題する記事の一部を以下に引用しよう。
認知症との向き合い方について、今年の日本認知症ケア学会に於いて講演をされた専門医の水野裕医師に話を伺った。
水野医師のその講演タイトルが、「私が学んできた認知症ケアは間違っていました」という刺激的なもの。 一体何が街が手いたというのか?
かつて医学部では、認知症がある程度進むと「ご本人は認知症であるとの自覚ができず、感情も無くしていく」と教えられきたという。
けれど、認知症の人と接する経験を重ねてきた水野医師は、「感情はしっかりある」と強調する。 また、「画像診断の進歩で全部分わかるようになるかと思ったけれど、そうではなかった」とも。 人間とは、多様でまだまだ不思議なものだ。
こうしたことから、近年はご本人を中心とした「パーソン・センタード・ケア」の重要性が指摘されている。 ケアのあり方次第で、症状の出方や信仰のスピードなどが大きく変わってくることも分かりつつある。 認知症とともにある社会の実現を目指し、アップデートした情報をお届けする意義を改めて感じる。
(以上、少し前の朝日新聞記事より引用したもの。)
最後に、原左都子の私見を述べよう。
この話題に関しては、“何をいまさら”感を抱いてしまう。
私の感覚から言わせていただくと、認知症に限らず、例えば「発達障害」などに関しても同様の論理が成り立つであろう。
認知症であろうが、発達障害であろうが、その対象者である本人に“感情がしっかりあって当たり前” と私は捉えているのだが。
「画像診断の進歩で全部分わかるようになるかと思ったけれど、そうではなかった」との発言など、医師としてはあるまじき失言ではなかろうか??
人間の諸心理とはこれ程に医学が進化した時代に於いても、元々「画像診断の進歩」で全部わかるようになるはずもない。
必ずやそれらを患う(“と共に歩んでいる”、と言うべきだろう)個々の患者に触れる中で、「発達障害」であれ「認知症」であれ、個々に多大な多様性があることに誰しも気付くはずだ。
そんな患者個々の“個性”こそを尊重しつつ、少しでも前向きに生きられる手助けをするのが医療従事者の使命であろう。
なんて、偉そうに言ったってね…
「発達障害」の娘の支援に関しては、特に母の私は時間を惜しまず命がけで支援を頑張って来た(来ている)!と、豪語できる!!
一方で、義母の「認知症状」に関しては。
実態を話せば、亭主と2人で「今度はアンタが付き合え!」「この件は〇子の仕事だよ!!」なんて。
陰で、いがみ合う事が多い実情……
それ程に、高齢者「認知症」のフォローとは実際問題実に厳しい生業だ…