「原左都子エッセイ集」に於いては久々の登場となるが、仏教家 小池龍之介氏 が朝日新聞夕刊に毎週連載を続けておられるエッセイにヒントを得て、今回の我がエッセイを綴らせていただくことにしよう。
最初に断っておくが、原左都子はバリバリの“無宗教人種”である。 過去において宗教の勧誘に心が傾きそうになった事などただの一度もなければ、今後老齢に突入して体が弱ろうが宗教に頼って命乞いしようなどとのみっともない思想も一切持ち合わせていない。
それ故、朝日新聞が毎週掲載している小池氏の“仏教思想に基づくエッセイ”に大変失礼ながらも、 (いつも通り一遍の“そんな事ではお前はダメだ!”と言わんばかりのマイナーな仏教の教えを公開し続けたとて、これを読んで人生の参考とする朝日新聞読者が存在し得るのであろうか??)…… と首を傾げつつ、いつもは素通りしている私である。
そんな中、5月10日付夕刊の 「『良い扱い』は続かない」 と題する小池氏のエッセイには珍しく同感する部分も一部あったのだ。
早速、小池氏によるエッセイを要約して以下に紹介しよう。
「上司にホメてもらえたから自分の価値が上がった」「パートナーが久しぶりにプレゼントをくれたから自分の価値が上がった」… かように人間とは究極、我の価値の上げ下げにしか興味がないように見える。 そこに大きな落とし穴がある。 自分の心の中だけで「えへん、自分は価値があるんだぞ」と思い込むのは難しいため、他者よりの尊重や扱いにより自分の評価を吊り上げたいがためにそれに依存することになる。 ところが、他者よりの好意や配慮とはいつも得られるものではなく、むしろ大抵は徐々に減っていくものである。 そうなると「前はホメてくれたのに最近そうでない」「前よりメールの文面がおざなりになった」等と今度は“相手のせいで自分の価値を下げられた”と逆恨みしたくなるだろう。 他者の評価により自分の価値の上げ下げでイラつくこととは自分に時限爆弾を仕掛けたようなものだ。 この乱高下を防ぐには、よい評価を受けた時に「この扱いも一時的なもの、やがて過ぎ去る」と諸行無常を念じるのが特効薬だ。
原左都子の私論に入ろう。
以前より小池氏のエッセイを読ませていただきつつ、氏はおそらく若い世代の仏教家であろうと想像しながらそのバックグラウンドの調査を怠っていた私だ。
先程ウィキペディアにて調べたところによれば、なるほど、小池氏とは1978年生まれであられるとのことは未だ34歳の若さである!
この私などその年代には未だ新たな学問分野に突進し、今後の自分の生き様を模索していた最中の頃だ。 よもや他人に対して「こうせよ、ああせよ」などとご意見できる立場には到底なく、自身の存在を問い直しつつ悪戦苦闘していた時代である。
それにしても、宗教家先生が置かれている立場とは厳しいものがあろう。
社会規範の一つである「宗教」には、それを信仰する市民に対して“人倫を導く”使命も課せられていることには間違いない。
仏教を業とする家系に生まれついた小池氏が現在ネット上で若い世代よりバッシングされつつも、若干34歳にして世間を相手に“説法”を垂れ続けねばならない現実の厳しさの程も理解できそうに感じた私でもある。
生まれもってそんな厳しい立場にはない一般市民であり、ましてや“無宗教”を貫いている私の人生とはその分野より何らのしがらみを経験することもなく幸せに経緯しているのかと感じつつ、上記小池氏の朝日新聞エッセイを再分析することにしよう。
確かに人間とは日常的に他者の評価に依存しつつ、その信憑性の乏しい評価に単純に活気付いてしまう“愚かな存在”である事は認める。
特に若い世代とは、身近な他者からの評価により日々の生活が成り立っているとも言えるのが現実なのではなかろうか?
もっと幼少の子どもなど、まさに“他者よりのプラス評価”の世界の中で生き延びている生物体と断言できよう。 我が教育者としての経験や、現在続行中の我が娘の“お抱え家庭教師”遍歴を懐古してもその通りなのだ。 逆に言うと、子どもとは“褒めずして育たない”のが現実と言い切れる。
それを認めずして人間の進化は成り立たないことも、既に歴史的、科学的に実証されている。
それでも仏教家 小池氏が、若い世代が「他者の評価」に頼ってばかりで軟弱であることがこの世において許し難き現実との結論を出されている事に関しても、私はある程度理解可能であるし、その小池氏の心理状態の程も許容可能な気がする。
おそらく「仏教」世界に出生された小池氏とは、幼少の頃より生まれ持って厳しい現実を生き延びてこられたのかもしれない。 自身の内面から湧き出る自然欲求さえ叶わない子ども時代を耐え偲ばれた後、それでも小池氏が仏教家をご自身の性(さが)として今後の人生を歩んでいかれる以上、その生まれ持っての類稀な武器を片手に、自身にバッシングを浴びせるネット上の若き世代を“叩き潰す!”との方策を打ち出すしか手立てがないのかもしれない。
そんな厳しい世界にいる小池氏には誠に申し訳ないが、原左都子は今後も単なる一般市民としてこの世を渡っていくしか他に道筋はない。
元々単純に他者の評価を鵜呑みにする性質の私では決してないが、我が信じる人から頂いたプラス評価にはその御礼の意味でも一瞬活気付きたいと心得るのだ。
その評価が仏教上はあくまで一時の“煩悩”にしか過ぎず馬鹿げているとしても、それで十分と思える年代の私である。
小池氏がおっしゃる通り、人間の価値とは他者の評価により左右されるのではなく、自分自身が決めつつ生きていくものであると私も考える。
ただ、若き世代が他者からのプラス評価を我が物として信じ、それを自身の力に転化し活気付きつつ成長していく姿とは、実に健全かつ未来志向の心理状態と心得るのだが……
最初に断っておくが、原左都子はバリバリの“無宗教人種”である。 過去において宗教の勧誘に心が傾きそうになった事などただの一度もなければ、今後老齢に突入して体が弱ろうが宗教に頼って命乞いしようなどとのみっともない思想も一切持ち合わせていない。
それ故、朝日新聞が毎週掲載している小池氏の“仏教思想に基づくエッセイ”に大変失礼ながらも、 (いつも通り一遍の“そんな事ではお前はダメだ!”と言わんばかりのマイナーな仏教の教えを公開し続けたとて、これを読んで人生の参考とする朝日新聞読者が存在し得るのであろうか??)…… と首を傾げつつ、いつもは素通りしている私である。
そんな中、5月10日付夕刊の 「『良い扱い』は続かない」 と題する小池氏のエッセイには珍しく同感する部分も一部あったのだ。
早速、小池氏によるエッセイを要約して以下に紹介しよう。
「上司にホメてもらえたから自分の価値が上がった」「パートナーが久しぶりにプレゼントをくれたから自分の価値が上がった」… かように人間とは究極、我の価値の上げ下げにしか興味がないように見える。 そこに大きな落とし穴がある。 自分の心の中だけで「えへん、自分は価値があるんだぞ」と思い込むのは難しいため、他者よりの尊重や扱いにより自分の評価を吊り上げたいがためにそれに依存することになる。 ところが、他者よりの好意や配慮とはいつも得られるものではなく、むしろ大抵は徐々に減っていくものである。 そうなると「前はホメてくれたのに最近そうでない」「前よりメールの文面がおざなりになった」等と今度は“相手のせいで自分の価値を下げられた”と逆恨みしたくなるだろう。 他者の評価により自分の価値の上げ下げでイラつくこととは自分に時限爆弾を仕掛けたようなものだ。 この乱高下を防ぐには、よい評価を受けた時に「この扱いも一時的なもの、やがて過ぎ去る」と諸行無常を念じるのが特効薬だ。
原左都子の私論に入ろう。
以前より小池氏のエッセイを読ませていただきつつ、氏はおそらく若い世代の仏教家であろうと想像しながらそのバックグラウンドの調査を怠っていた私だ。
先程ウィキペディアにて調べたところによれば、なるほど、小池氏とは1978年生まれであられるとのことは未だ34歳の若さである!
この私などその年代には未だ新たな学問分野に突進し、今後の自分の生き様を模索していた最中の頃だ。 よもや他人に対して「こうせよ、ああせよ」などとご意見できる立場には到底なく、自身の存在を問い直しつつ悪戦苦闘していた時代である。
それにしても、宗教家先生が置かれている立場とは厳しいものがあろう。
社会規範の一つである「宗教」には、それを信仰する市民に対して“人倫を導く”使命も課せられていることには間違いない。
仏教を業とする家系に生まれついた小池氏が現在ネット上で若い世代よりバッシングされつつも、若干34歳にして世間を相手に“説法”を垂れ続けねばならない現実の厳しさの程も理解できそうに感じた私でもある。
生まれもってそんな厳しい立場にはない一般市民であり、ましてや“無宗教”を貫いている私の人生とはその分野より何らのしがらみを経験することもなく幸せに経緯しているのかと感じつつ、上記小池氏の朝日新聞エッセイを再分析することにしよう。
確かに人間とは日常的に他者の評価に依存しつつ、その信憑性の乏しい評価に単純に活気付いてしまう“愚かな存在”である事は認める。
特に若い世代とは、身近な他者からの評価により日々の生活が成り立っているとも言えるのが現実なのではなかろうか?
もっと幼少の子どもなど、まさに“他者よりのプラス評価”の世界の中で生き延びている生物体と断言できよう。 我が教育者としての経験や、現在続行中の我が娘の“お抱え家庭教師”遍歴を懐古してもその通りなのだ。 逆に言うと、子どもとは“褒めずして育たない”のが現実と言い切れる。
それを認めずして人間の進化は成り立たないことも、既に歴史的、科学的に実証されている。
それでも仏教家 小池氏が、若い世代が「他者の評価」に頼ってばかりで軟弱であることがこの世において許し難き現実との結論を出されている事に関しても、私はある程度理解可能であるし、その小池氏の心理状態の程も許容可能な気がする。
おそらく「仏教」世界に出生された小池氏とは、幼少の頃より生まれ持って厳しい現実を生き延びてこられたのかもしれない。 自身の内面から湧き出る自然欲求さえ叶わない子ども時代を耐え偲ばれた後、それでも小池氏が仏教家をご自身の性(さが)として今後の人生を歩んでいかれる以上、その生まれ持っての類稀な武器を片手に、自身にバッシングを浴びせるネット上の若き世代を“叩き潰す!”との方策を打ち出すしか手立てがないのかもしれない。
そんな厳しい世界にいる小池氏には誠に申し訳ないが、原左都子は今後も単なる一般市民としてこの世を渡っていくしか他に道筋はない。
元々単純に他者の評価を鵜呑みにする性質の私では決してないが、我が信じる人から頂いたプラス評価にはその御礼の意味でも一瞬活気付きたいと心得るのだ。
その評価が仏教上はあくまで一時の“煩悩”にしか過ぎず馬鹿げているとしても、それで十分と思える年代の私である。
小池氏がおっしゃる通り、人間の価値とは他者の評価により左右されるのではなく、自分自身が決めつつ生きていくものであると私も考える。
ただ、若き世代が他者からのプラス評価を我が物として信じ、それを自身の力に転化し活気付きつつ成長していく姿とは、実に健全かつ未来志向の心理状態と心得るのだが……