原左都子が冒頭の用語である「反出生主義」なる言葉に触れたのは、今回が生まれて初めての事である。
要するに、「人間の出生を否定的に捉える考え方」のことを指すようだが。
とりあえず、2025.06.14付朝日新聞夕刊より「反出生主義は偏った考えか 古代ギリシャ源流 人生への無条件な礼賛を疑う それは哲学」と題する記事の一部を、以下に引用しよう。
「自分なんて生まれてこなければよかった」。 人生に行き詰った時、そう思ったことがある人は少なくないだろう。 人間の出生を否定的に捉える反出生主義という考え方に賛意を占めずアカウントも出てきている。 ご自身も反出生主義だという哲学者の小島和男・学習院大学教授(49)に、どんな考え方なのかを聞いた。
小島さんによると、反出生主義は南アフリカのケープタウン大学で成就をしていた哲学者が2000年代に提唱した。 災害や伝染病、事故や戦争、飢えや虐待… 苦痛に満ちた世の中で、大きな不幸に襲われる可能性を考えれば、「始める価値のある人生があるとは言い難い」という考え方だ。 (中略)
そもそも人が存在しない状態では、快楽もなければ苦痛も無いのだから、全ての人間は生まれない方が良い、と反出生主義では考える。
また、意思を確認できない子ども自身のために子どもを産むのは不可能であり、苦痛に満ちた世の中のに子どもを産むという事は、既に存在している親など他者のためでしなかいから、「新しく人々を生み出すことは道徳的に問題がある」という投げかけでもある。
しかし、世間には、まるで子どもを作ることが義務であり、当然だと考えている人がたくさんいる。 望まぬ妊娠をした女性の中絶の権利を否定する国もある。「反出生主義は子どもを持ちたい人の権利を侵害する訳ではない。 ただ、生んだ方が良いという既存の社会規範に対し、『道徳的な理由で子どもを持たない権利を持ちうるのだ』と道筋を立てて主張できるのです」
小島さんが反出生主義に理解を深めた背景には、自身の生い立ちがある。 (中略) その事情のため高校3年から実家を出て、大学費用を得るために新聞配達をし、「どうやってまともに生きようか」と必死だったと言う。 しかし、反出生主義を知った時は、「ハードモードな自分の人生を、無条件に価値のあるものだと決めつけなくてよいのだ」と理論化された気がした。
誤解されがちだが、反出生主義は今ある人生まで否定するものではないという。 小島さん自身「生まれてしまったからには、親を恨むエネルギーを他の事に使い、なるべくマシに生きた方が良い」と思っている。 (中略)
「紀元前の時代から、反出生主義の源流はあったといえます」
(以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
原左都子の私事及び私見に入ろう。
本エッセイ集をお読みいただいている方々は、おそらくご存じであろうが。
この私は現在、郷里の実母が “嫌いで嫌いで困っている” のだが…
特に今春、実母の「統合失調症」罹患により2度に渡り郷里の実母の施設へ行かされて(途中、過労・心労のためホテルにて倒れ郷里の病院へ救急搬送の目にまで遭って)以降、その憎悪感に拍車がかかってしまっている…
つい最近も実母から電話があったのだが。
(何の目的の電話だったのかも忘却しているが、大した用件では無かった記憶はある。 楽し嬉しい話題では決して無く、自身の我がままを言いたい放題私に言って来たような内容だったと振り返る… もう実際、その聞き役を次女である私一人におんぶに抱っこするのは、死ぬまでやめて欲しいものだが…)😱 😭
私の場合、「自分が生まれてこなければよかった」とは一切思ってもいない!!
特に「親を捨て、郷里を捨てて」単独上京を果して以降は。
親どもの経済力になど一切依存せずして、我が人生を存分に豊かに充実して暮らしていることを誇れる人間として成長して来れていると、十分に自負出来ている。
故に、実母に関しても「産まないで欲しかった」とは一切思っておらず、今回のエッセイテーマである「反出生主義」とは大きく趣旨が異なる。
私の現時点の実母に対する心理状況を説明するならば。
長生きしていいけど次女の私ばかりに依存しないで欲しい、程度の心理だ。(今現在、私にとってかなり深刻な課題であるのは確かだが… )😭
話題を元に戻して「反出生主義」との考え方が、今回の朝日新聞記事により私は十分に理解できた思いだ。
この課題が今現在 社会規模で取り上げられようとしている事実に、救われる方々が多いものと推測する。
この世はまさに、この問題を「偏った考え方」として一蹴せんとする世論が未だ蔓延っている気もするのだが。
『道徳的な理由で子どもを持たない権利を持ちうる』との考えも正論であるとの理解が深まることを。
原左都子としては、大いに期待・応援したいものだ。