原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「ソーハラ」を悩む前に交友関係をふるいにかけよ

2013年01月21日 | 人間関係
 人間関係が気まずくなった場面において 「ハラスメント」 という流行(はや)り言葉の武器を振りかざして護身に出ようとする風潮を、実は私は以前より好まない。

 いえいえ、確かに「ハラスメント」を主張するべき被害に遭う機会がこの世に多々存在するのも事実であろう。

 「ハラスメント」の代表格として「セクハラ」が挙げられよう。
 これなど多数の場合、被害者vs加害者間にそもそも人間関係が成立していない事例が多いと私も認識している。  そうであるにもかかわらず加害者側が何らかの錯覚に陥り、相手が自分を受容していると勘違いしてセクハラとの“犯罪”行為に至るのが過去の法廷における数多くの裁判例ではあるまいか?
 例えば職場の上司による部下女性へのセクハラ事件など、その典型例であるように感じるのだが…

 「アルハラ」なる言葉もあるが、これも同様の要素があろう。
 酒飲み会の場において、他者の“飲みたくない意思”にもかかわらずアルコールを強要するのが「アルハラ」である。  元々親しい間柄の飲み会とはいえども、一旦アルコールが体内に入った後には対等な人間同士の付き合いが成り立ちにくい状況にあろう。 その状況下でのアルコール強要は確かに「ハラスメント」と言え、それは犯罪行為である。


 それに対して「ソーハラ」??

 この言葉を原左都子が初めて目にしたのは、少し前の朝日新聞記事に於いてであった。 残念ながらそのスクラップを保存し忘れているため、ここではネット情報により「ソーハラ」の解説をしよう。
 まずは、「ソーハラ」とは “ソーシャルメディア・ハラスメント” の略語であるらしい。
 例えば、現実社会の職場上司から部下の女性社員に対して友達申請をする等、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディアで執拗にコミュニケーションを求める中年男性が加害者であるらしく、被害者(?)側の若き世代からは「監視されているみたい」「なれなれしい」「距離感がない」などの反発が生じている、とのネット記述である。

 「ソーハラ」の具体的事例に関してもネット情報より入手したため、それを以下に要約して紹介しよう。
 某経済新聞記事によると、ネット上の会員制交流サービス「フェイスブック」「ミクシィ」などのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で、職場の上司との付き合い方に悩むケースが最近目立っているという。
 例えば、NPO法人「日本オンラインカウンセリング協会」には今夏、都内の20代の男性会社員から「会社の上司からのフェイスブック上の『友達』申請を断れなかった」という相談が寄せられた。 その上司は40代の上司。 「なぜ承認してくれないんだ」と催促され渋々応じた。 上司を友達に承認すれば学生時代の友人らとの近況報告など気楽なやりとりを読まれてしまう。 案の定休日も上司がコメント。返信が苦痛となり今ではほとんど書き込まなくなったという。
 また都内で働くフェイスブックを利用する20代の女性会社員も、投稿のたびに男性上司が「いいね!」の共感を示す。 上司からの閲覧を制限すれば職場の人間関係が悪化しかねない。 悩んだ末上司から監視されているような気がして約1カ月後に更新をやめた。
 ちなみに、フェイスブック発祥の地の米国では仕事関係の人には友人申請をしないのが一般的というから、ソーハラは職場で濃厚な人間関係を求められがちな日本特有の現象といえそうだ。 
 ソーハラ対処法について、一橋大の堀部政男名誉教授(情報法)はこうコメントしている。「上司側の理解が足りない部分もあり、むやみに部下のプライバシーに踏み込むべきではない。(略)各企業が節度ある使い方を社員に徹底する必要もある」。
 ちなみに「労働安全衛生法」第71条には、会社は「快適な職場環境」を形成する努力義務があることを明記している。そのためにはソーハラ対策も必要といえそうだ。
 (以上、ネット情報より要約引用)


 原左都子の私論に入ろう。

 上記のネット情報を読んで真っ先に抱いたのは、現実世界の知り合いと何故ネットを通じて“執拗”にまで交友せねばならないのかとの不可思議感である。
 例えば職場という公的場面ならその場で、プライベートならプライベートで、様々な人間関係を“生身の人間同士として”個々が築いていくのが本来の交友関係かと私は思うのだが…。

 いえいえ、ネットが人間関係構築維持発展のために果たしている欠かせない役割を、私も日々享受していることは事実だ。
 例えば「メール」機能などはその主たる存在であろう。 この私もリアルタイムに人と通じ合えるメール無くしては、現在の我が人間関係が成り立たないと言っても過言ではない。
 加えて私の場合ネット上に当該「原左都子エッセイ集」を公開しているため、これを媒体として繋がっている読者の皆様とのコミュニケーションも、現在の私にとってかけがえのない恩恵であることは認める。

 それにしても……
 プライベートに於ける人間関係、職場という公的場面での人間関係、そして不特定多数の人間が交流可能なネット上の人間関係等々。  それぞれの場面に於ける自分自身のシチュエーション(あるべき姿)を、個々人がまずは見直すべきではあるまいか。

 原左都子自身は、現在SNSサービス媒体の一つであるフェイスブックに「原左都子」のペンネームで登録している。  何故実名ではなくペンネームでの登録を志したのかと言えば、様々な人間関係交流に於ける自己表現の“あくまでも一場面”としてネット上の「フェイスブック」を利用したかったからに他ならない。
 現実世界で生きている私本人に関しては、今後共私自身が心身共に醸し出す人格でこの世を渡り交友関係を展開したいと志している。


 上記ネット情報によると、現実世界の職場の上司からフェイスブック上で“コメント”や“いいね!”が届くのが鬱陶しい、それこそが「ソーハラ」だ! との記述がある。
 
 職場の上司たる立場で、部下のネット世界にまで立ち入りプライベートに介入することの無礼さを、まずは上に立つ人間の立場から認識し直すべきなのは当然だ。

 それが先決問題であるとしても、部下である被害者側も何故公私混同が普通に行われる宿命のネットSNS世界で、「友達」申請を野放図に拡大し続けるのか?? 
 そんな事を嗜好し続けたら「ソーハラ」被害に遭うことなど一目瞭然のこの世において、「ハラスメント」と騒ぎ立てる以前の問題として、自己責任意思で交友関係をふるいにかけようではないか!