原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

なでしこジャパンは国民栄誉賞をもらってよい!

2011年07月30日 | 時事論評
 サッカー女子日本代表チーム「なでしこジャパン」がワールドカップ女子サッカー大会で輝ける優勝を飾ったのは、もう既に半月程前の7月17日の事であった。

 私とてこの歴史的出来事を知らなかった訳ではない。
 ただ、長年に渡る「原左都子エッセイ集」のファンの皆さんは既にご存知であろうが、原左都子はサッカーが嫌いだ。 “興味がない”と表現するよりも、ある理由によりもっと積極的に“嫌い”なのである。 それ故にあえて本エッセイ集においては、女子サッカーチームの栄光物語を今まで意識的に素通りしてきた。


 私が何故それ程サッカーが嫌いなのかに関しては、2010年6月の時事論評バックナンバー 「“青服日の丸軍団”の心理とは…」 において詳述している。

 ここで上記バックナンバーの趣旨を簡単に振り返らせていただくことにしよう。
 私がサッカーを好まない理由とは、決してサッカーという競技自体が嫌いな訳ではなく、あのサポーターとやらの団体応援団(日本の場合は原左都子名付けて“青服日の丸軍団”がそれに当てはまる)が、私にとっては目障り極まりないからだ。
 サッカーに限らず他のスポーツ観戦もすべて同様であるが、それはあくまでも個人の趣味の範囲であり私的な事象である。  にもかかわらず過去において所属していた職場に於いて、サッカーファンでない私はごくごく少数派であったが故に周囲の大多数のサッカーファンから露骨に不快感を表明されてしまい、男子ワールドカップ開催中に職場内で身の置き場に困惑した苦い経験がある。 
 サッカー日本チームのサポーター団体である“青服日の丸軍団”の挙動に関しては、原左都子以外にもそれを論評する見解は存在するようだ。 彼らが「日の丸」を振りかざし「君が代」を大声で斉唱するのは、決して「愛国心」に基づいたエネルギーに端を発する訳ではないとの論評も存在するのだが、まさにその通りであろう。 それでは、彼らがサッカー競技場や街頭で一種の新興宗教団体のごとく自ら青服で統一して、日本サッカーチームをあれ程の勢いで応援するのは、一体どういった心理やポリシーに基づいているのか? 極端な話が、あの若者達の青服姿にはかつての「オウム真理教」の白装束を呼び覚ます匂いすら感じてしまう私だ。 その得体の知れない団結心を本気で恐れるとまでは到底言えないが、その軽薄さに辟易とさせられるのだ。
 日本におけるサッカーとは、もしかしたらそれは近年人間関係の希薄化を極めているこの国に生かされている若者にとって、唯一“一致団結”できるべく「同調意識」を煽られる矛先であるのかもしれない。 “Jリーグ”の発足以降、人間関係の希薄化の荒波に放り出され孤立感を強めていた日本の若者が、それに飛びついたという図式が成り立つような気がする。
 多くのアスリート競技が存在するが故にそのファンが分散多様化して入り乱れる五輪よりも、サッカーという一つの競技にファンが一致団結して一筋に応援する方が結束力も強まるという論理なのであろう。
 貴方達が純粋に日本サッカーチームを応援している気持ちは原左都子とて理解できている。 ただ、日本が過去に犯した歴史的過ちを我々は今後まだ抱え続けなければならないという課題も残っている事実をほんの少しは理解した上で、それをわきまえて青服を着て競技場や街頭で「日の丸」を振りかざし「君が代」を斉唱して欲しいものである。
 (以上はワールドカップサッカー男子大会開催中に綴った我がエッセイ集2010年のバックナンバーの引用要約であるが、この記事には“青服サッカーファン”から痛烈な批判や誹謗中傷バッシングが届いたことを、今となっては懐かしく思い出す私である。)


 さて、なでしこジャパンに話を戻そう。
 先だっての女子サッカーワールドカップにおけるなでしこジャパンの活躍に関しては、実はこの私も日々楽しみにしていたのだ。
 「なでしこジャパンが決勝ラウンドに進出した!」 「また勝った!」 「またもや勝った!!」 等々の報道の後、なんと決勝戦にまで進出したと言うではないか!
 ここまで来たのなら、私とて決勝戦を観戦したい思いだ。 残念ながら日本時間にして夜中の放映とのことで、あくる日の結果報道を楽しみにしていた。
 そうしたところ、世界一の実力を誇る強豪米国チームに対し最終PK戦までもつれた込んだ挙句の果て、競り勝ったとの報道だ!!  その勝ち様の素晴らしさに涙して喜んだ原左都子である。
 「あなた達は、本当に世界一だよ!」 とその時心静かにエールを贈ったものだ。


 そしてその歴史的勝利の酔いが一段落しかかった頃、今となってはもはや“潰れかかっている”菅政権の枝野官房長官より、「なでしこジャパンに国民栄誉賞を贈呈したい」とのニュースが飛び込んで来たのだ。
 これは既に国民に忘れ去られそうな哀れさを漂わせている菅政権としては、タイムリーな提案であると私は感じた。

 国民栄誉賞に関しては、以前より様々な憶測がある。
 この賞は内閣総理大臣表彰であるため政治色が強く、国内偉人の功績を内閣が単に政治利用したいがために贈呈している賞に過ぎないとの批判が存在する事も、当然ながら心得ている。

 つい先だっても、政治色回避の理由からなでしこジャパンは今回の政権による国民栄誉賞贈与を辞退するべきだ、との見解をネット上で発見した。 以下に、その見解を要約して紹介しよう。 
 なでしこジャパンの優勝は確かにうれしいニュースである。 だが果たして手放しで喜んでいいものか。日本人と日本のメディアの飽きっぽさは筋金入りである。何よりこうした機に乗じるのが得意な人々がいることを忘れてはならない。
 7月25日、政府はなでしこジャパンに国民栄誉賞を授与する方針を固めた。枝野幸男官房長官によれば、ドイツでのなでしこたちの活躍は「多くの国民に感動と希望を与えた」ということだという。だが、国民栄誉賞授与にはあまりに政治的な臭いが付きまといすぎている。選手たちの努力とは別に、政府によるスポーツの政治利用はみていてあまり気持ちのよいものではない。
 初代受賞者である王貞治氏の国民栄誉賞受賞に異論を差し挟む者はいないだろう。圧倒的な業績と国民に敬愛された人柄からも王氏は初代の受賞者に相応しい人物だ。
 その後国民栄誉賞は17人の個人が受賞している。仮になでしこジャパンが受賞すれば、団体としては初めての受賞となる。だが、そもそも個人を対象とした賞である。団体受賞が相応しいか疑問はぬぐえない。

 ここで、原左都子がネットにて調査した国民栄誉賞の贈呈基準を以下に示そう。
 国民民栄誉賞贈呈基準とは、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった方に対して、その栄誉を讃えることを目的とする」とのことである。


 最後に私論で締めくくろう。

 「賞」というもの自体の存在価値が疑われる今の時代であることには間違いない。
 例えば文学賞や音楽賞など日本に名立たる歴史ある賞であれ、昨今は訳の分からん作家やミュージシャンが受賞し、「そんなもん、読みたくも聴きたくもないわ!」と感じる国民の方が数多い実情ではなかろうか。

 おそらく我が国において最高に権威ある賞と言えば「文化勲章」ではないかと私は捉えるのだが、大変失礼ながら、この賞とて既に現役を去って棺桶に足を突っ込みかけている老人に“年金”の形で贈呈しているのが現実ではなかろうか。

 国民栄誉賞に関しては、その贈呈根拠が政治利用であることは否めない事実であろう。そして今までの受賞者一覧を確認したところ、どうも芸能・スポーツ分野に偏向している賞であるのは、単に政権が国民に対する分かり易さをアピールしているだけなのかとの感も否めない。
 それを勘案した場合、今回のなでしこジャパンの受賞は多くの国民に分かり易いのではあるまいか。

 個人的な意見として、国民栄誉賞とは賞金がないというのがよい。
 そして、なでしこジャパンが今回世界一の栄誉に輝いた背景とは、実は貧乏にあえぎハングリー精神がたくましかったという点も私は評価したい。
 こういう国民こそが、今後共国民栄誉賞を受賞するべきではなかろうか。

 なでしこジャパンよ、今後もハングリー精神で頑張れ!!  
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