原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

幸せな人とは“善人”でもある

2009年09月15日 | 人間関係
 これまた“究極に正直”とも言えるアンビリーバブルな悩みの相談に出くわした。


 9月12日(土)の朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談は、「人の不幸を望んでしまいます」と、実に単刀直入である。

 早速、46歳の主婦による上記相談を以下に要約して紹介しよう。
 「人の不幸は蜜の味」とは言うが、私は人一倍他人の不幸を望む気持ちが強く悩んでいる。たとえば息子の野球のチームメイトがケガをすると、それによって息子が試合に出られるかもしれないとホッとするし、出来る子は少しくらい痛い目に遭っていいと考えてしまう。 自分の心の調子が悪い時は、長く病気に伏している友達に会って「自分は彼女より幸せ」と納得したい。 逆に幸せな人たちを見るとどうも落ち着かない。 誰かから何か悩みを相談されるとうれしくなるが、その悩みがあっさり解決してしまうとがっかりする気持ちがある。
 自分自身は優しい夫とやんちゃでかわいい子どもに恵まれ、世間的には幸せなのかもしれない。 だが、幼い頃からコンプレックスが非常に強い。自分を認めてくれずすぐに激昂する父親に育てられたせいかと思う時もある。 心を入れ替えたいがどういった方法があるのか。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談より要約引用)


 早速私論に入ろう。

 人間誰しも他人の幸せを羨ましく思ったり、妬(ねた)んだり僻(ひが)んだりする感情を持ち合わせているものだ。 それと背中合わせに「人の不幸は蜜の味」との感情も、心の片隅に密かに兼ね備えているのが人間の本性というものであろう。
 
 ところがこの相談者には申し訳ないが、今回の相談内容には常識を逸脱したレベルの“異常さ”を感じざるを得ないのだ。

 私がこの相談者に“異常さ”を感じてしまう第一点は、本来自分の心中に秘めて隠しておくべき心理を、何故に大手の新聞に投稿してまで公然と公表したいのかという点においてである。 人間たるもの、ある時は自分の感情を伏せて裏でこっそり処理した方が自らの心理状態の整合性が取れる場合も多い。 何でも公開してしまえば自分の心が救われる訳ではないのは、幼い子どもですら承知していることである。

 そしてこの相談内容の最大の“たちの悪さ”は、最後の箇所の「自分は世間的には幸せなのかもしれない」との記述をしているところにある。 (人の不幸を望んでいるけど、実は私自身は恵まれているのよ~~)と公に吹聴したことにより、人の不幸を望む自分自身を肯定し、自分の存在を世間も認めるであろうと目論んでいる相談者の浅はかで薄っぺらい心理が読み取れてしまうのだ。
 この相談者が人の不幸を望む自分の悲しい性(さが)を本心で後ろめたく思う気持ちがある上で、真に心を入れ替えようとしているのならば、このような記述は出て来ないはずである。
 
 しかもこの相談者は既に46年間も生きてきているにもかかわらず、自らが背負っている“心の悪癖”を軌道修正しようともせず、親の育て方が悪かったせいにして自分自身を正当化しようとしているところがこれまた何とも辛い。
 確かに育った環境から受ける影響力とは大きいのだが、半世紀近くもの長い年月を生きてきた人間の根底に未だに残っているコンプレックスとは、もやは親のせいではない。 それは親離れした後に人生を前向きに自立して生き抜く中で、自分自身が克服してくるべき課題であったはずだ。
 

 この相談者は、もしかしたら人とのかかわりが希薄であるのかもしれない。(人間関係の希薄化は今の時代の社会的病理でもあるのだが。)

 人間とは人生経験が豊富となりいろいろな人々との出会い付き合いを重ねていくうちに、様々な心象が見えてくるものなのだ。
 例えば端から見ていると幸せそうで少し妬んでいた人と何かの縁で親しくなったような場合、実はその人物がすばらしい人格者でおおせられ、今まで狭い見識でその人物を妬んでいた自分が恥ずかしくなるような経験は、小市民である私には何度もある。
 あるいは、一見不幸を抱えているように見えるため失礼ながら勝手に蔑(さげす)んでいた相手と何かのきっかけでお近づきになれた途端、その人物の豊かな人格に触れて感激し、こちらから望んでお付き合いをさせていただくような場面もあるものだ。
 とにもかくにも人間関係とは実際に相手と実質的な関係を築いた上で、自分が相手から受ける影響力をもってその相手の真価を判断するべき事象であろう。


 この朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談コーナーの今回の回答者である作家の車谷長吉氏も「あなたには愚痴死が待っています」との表題の下、この相談者には救いがないことを述べておられる。

 そんな相談者を救う手立てとしては、思い切った行動や発想の転換を促すことにより、まずはコンプレックスでがんじがらめになっている心を少しずつ解きほぐしていくことであろう。
 
 幸せな人とは大抵の場合は“善人”でもあるとの今回の記事の表題は、私自身の人生経験に基づいて培われてきた論理である。
 そういう人々から受けるプラスの影響力の隙間から幸せをお裾分けしてもらうことにより、自分自身も前進できそうな感覚を抱ける経験を一つひとつ積み重ねて行けるならば、この相談者も徐々にコンプレックスの克服が可能となる気がする私である。
        
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