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原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

一昨日までサッカー嫌いだった原左都子が無責任かつ身勝手に語る “日本v.s.コスタリカ戦”

2022年11月29日 | その他オピニオン
 いやあ、見ましたよ。 
 このサッカー嫌いな原左都子も、日本時間の27日(日)19時よりテレビ中継されたワールドカップ・カタール大会の “日本v.s.コスタリカ戦” を。

 申し訳ないことに そもそもサッカー嫌いの身のためどちらを応援する等の偏りが一切無い立場で、冷静にテレビ中継を観戦した。

 
 サッカー素人らしく試合開始からずっとダレたのだが。
 その理由とは、両チームに特段の動きが全く無い故だった。

 途中テレビのチャンネルを変えたりしつつ、後半戦に入ってもその動きの無さが続き。
 正直言って、(サッカー観戦て、やっぱりつまらないなあ)などと勝手にボヤきつつまたチャンネルを変えようとしたところ、コスタリカが1点を先取した。
 その場面はあっという間の出来事だったのだが、一体日本選手は何をボヤっとしてるんだ!!との腹立たしさのみは抱かされた。

 そうこうして日本選手の何らの活躍も見られないままに、試合はコスタリカ勝利にて簡単に終了した。


 この試合を原左都子の勝手な評価でまとめるならば、「コスタリカチームの“防衛力”」が勝った、との結論なのだが。



 そうこう考えていたところ、本日のネット情報にて当該試合に関する興味深い解説を発見した。 以下に紹介しよう。

 FIFAワールドカップ(W杯)カタール大会第2戦で日本がコスタリカに0-1で敗れたことを受け、10年南アフリカ大会日本代表DFの田中マルクス闘莉王氏が28日、自身のYouTubeチャンネルを更新し、「おかしすぎる、どうした日本代表」「森保監督の采配が裏目に出た」「ドイツ戦の金星が台無しになった」と怒りをにじませた。
 「 申し訳ないけど、森保監督の采配が良くなかった。途中から選手を変えていけば流れは変わると思っているのか。そうじゃない。最初からベストの選手を出していけばいい。なぜ上田綺世選手を出してきたのか。浅野拓磨選手が点を取ってくれたのだから、その勢いのままで出していればいい。なぜそれをしないのか。正直、いただけないな。コスタリカをどう崩していくかが問題だった。最初から三笘薫、浅野拓磨、伊東純也を出していればどうだったか。 後半から勝負という考えは、僕には通用しない。最初から状態がいいメンバーを出して行かなければいけない。能力がある選手を出していかなければいけない。」
 また、3バックにも言及。 ドイツ戦で3バックがハマったのは「たまたま」とし、「3バックだと三笘の位置が低くなる。4バックで高い位置を取り、三笘はゴールに近い位置でプレーさせないと怖くない」。明確に日本の課題は得点力だとした。
 そして「今までの盛り上がり、俺らの期待感を台無しににした。悔しくて、悔しくて。ドイツ戦の大金星を生かせないまま、スペイン戦に行ってしまった。厳しい状況になった」と表情を曇らせた。

 (以上、ネット情報より引用したもの。)



 原左都子の感想に入ろう。

 申し訳ないことに田中マルクス闘莉王氏とやらを全く存じていない立場ではあるが、氏の発言には同意したくもなる。

 以下にその発言を繰り返すが、「 森保監督の采配が良くなかった。途中から選手を変えていけば流れは変わると思っているのか。そうじゃない。最初からベストの選手を出していけばいい。なぜ上田綺世選手を出してきたのか。浅野拓磨選手が点を取ってくれたのだから、その勢いのままで出していればいい。なぜそれをしないのか。正直、いただけないな。コスタリカをどう崩していくかが問題だった。最初から三笘薫、浅野拓磨、伊東純也を出していればどうだったか。 後半から勝負という考えは、僕には通用しない。最初から状態がいいメンバーを出して行かなければいけない。能力がある選手を出していかなければいけない。」

 これ、サッカーど素人の原左都子も全く同感だ!

 最初から今ベストの選手を出すべきだし、前回の勝利を再現するためにもその勢いを残しておくべきだったのではあるまいか?
 そんな意味で、もしも森安監督が“後半からが勝負”と考えていたとしたら、大いなる考え違いであろうと指摘したい。

 全くもって、ドイツ戦勝利とは日本チームに取っては「大金星」だったはずだ。
 そのラッキーを次にも何とかして持ち越せばよかったものを、何故方針を大幅に変えてしまったのか残念でならない。



 そんな意味でも、監督(統率者・リーダー)の果たす役割とは多大であることを思い知らされる。
 それはサッカーのみならず、いずれの分野においてもそういうことであろう。
 

私が生まれ育った地では「蚊に“かまれる”」と言います。

2022年09月07日 | その他オピニオン
 表題の「蚊に“かまれる”」を、単身上京後の夏場に私が頻発すると。


 周囲から「そんな表現するの、〇ちゃん(私の事)だけだよ!」と、皆にせせら笑われたものだ。😁 

 そういう“東京人”の皆さんは、「蚊に“さされる”」派が断然多く。
 中には、「蚊に“くわれる”」派もいたなあ。



 これを久々に思い出させてくれたのは、2022.09.05付朝日新聞「天声人語」である。

 早速、以下に要約引用しよう。
 
 昨夏、この欄で蚊の話題をとりあげた。 「蚊にかまれる」と書いたところ、読者から相次いで問い合わせをいただいた。 いずれも「かまれる」という言い方は聞いたことが無いとのご指摘だった。
 山形県内の読者は電話で、「私は『蚊にさされる』と言うのですが、これは方言でしょうか。」 神奈川県の方からはメールが。「東京で生まれ、東北を転勤し、横浜で半世紀以上を過ごした。『かまれる』という表現は初めて目にした。 どこの地域で『かむ』というのか知りたい」
 国立国語研究所(東京都)に、大西拓一郎教授を訪ねた。 蚊に血を吸われる現象をどう表現するか、2009年に全国調査をした。 「さされる」という回答は、秋田、岐阜、長崎など広域に及んだ。 「くわれる」も青森から新潟、愛知、沖縄で確認された。 
 対照的だったのは「かまれる」だ。 近畿と四国東部に集中し、東日本では使われていなかった。
 「それでも、さされるが標準語の地位にあるとは断定できない状況です」
 <蚊の居ない夏は山葵のついかない鯛の刺身のやうなもの>と物理学者の寺田寅彦は書いた。 蚊に襲われないと夏を迎えた気がしないそうだ。 とてもそんな境地にはなれないが、それにしても今夏は蚊の襲来が少なかった気がする。 猛暑続きでも蚊も夏バテに参っているのだろうか。
 と思いきや、暑さが和らいできたとたん、連中が猛攻を再開した。

 (以下略すが、以上朝日新聞「天声人語」より引用したもの。)



 
 原左都子の私事及び私見に入ろう。

 上記「天声人語」引用文最後の、「今夏は蚊の襲来が少なかった気がする」に関してだが。

 東京に暮らす私は、この“蚊の襲来が少ない現象”が既に数年前に始まりその後ずっと続いている気がする。

 その理由に関してだが。
 ちょうど藪蚊が都内の大規模公園等々に大量発生した頃から、我が家内での蚊の発生が絶滅した記憶がある。
 我が家は、都内大規模公園に比較的近い場所に位置するのだが。
 あくまでも私の推測に過ぎないが、その頃から藪蚊感染対策として大規模公園内に大々的に薬剤散布を実施し始めて、その後毎年初夏になる前にその散布が恒例となっていると把握している。
 このお陰(とまで言ってしまうと、薬剤の人体への悪影響を無視した表現となり語弊があるかもしれないが)で、大規模公園周辺の家庭で発生する“家蚊”もその薬剤についでにやられ“イチコロ”状態なのではないか?? と推測するのだが。

 実際、数年前から我が家では夏の“蚊対策”がまったく必要無くなる程に、家内で蚊が発生していない状況だ。😲 

 これを有難いと捉えるか、今後の副作用が怖いと考えるべきか、よく分からないまま。 とにかく蚊に“かまれて”痒い思いをする事態から解放され、清々しているのは確かだ。



 さて、本題であるその“かまれる”表現に話題を戻そう。

 上記「社説」によれば、蚊に“かまれる”との表現を使用するのは「近畿と四国東部」にのみ集中しているとのこと。

 そうだよなあ。 
 どう考察しても、「蚊に“かまれる”」は誤った表現だ。(“くわれる”に関しても同等だが。

 蚊さん達は決して、人を「噛んだり」「食ったり」していない。
 いや、人の血を吸ってそれを食料としているため、「くわれる」に関しては全面的に誤りとは言えないだろうが。 
 「かまれる」に関しては100%誤り表現である、と結論付けられよう。

 
 この私はまさに「四国東部」の出身だが、あの辺の人種はそもそも“頭が悪いのか??”
 いえいえ、それは表現が悪いとしても。😖 

 未だに、我が出身地域で「蚊にかまれる」と表現しているとすれば。
 そろそろ、「蚊にさされる」と訂正してもよさそうかな…

 ただ、地方の方言って。 味わい深い部分もあるしなあ…
 

義母の認知症が元で、私の“腹の虫”が収まらない事件発生!

2022年08月13日 | その他オピニオン
 今朝9時頃の事だ。

 我が家の電話が、高齢者施設に暮らす認知症の義母の名を告げる。
 義母は極度の難聴でもあり特に電話では私の声が聞こえない、と訴えるため、義母からの電話には息子である我が亭主が出る取り決めをしている。

 それにしても、亭主とて認知症かつ難聴を抱える義母との電話での会話にはいつも難義させられるため。 2日前に義母の施設を訪ねた際に義母には、「なるべく電話連絡は控え、施設からの伝言でお願いしたい」と念を押したばかりだ。


 亭主が自室の電話子機で出た義母からの受話器を私の処へ持ってきて言うには。
 「義母がどうしても〇子(私の事)に電話を代わって欲しいと言うので、出てやってくれないか?」
 既に苛つく私が、「電話を代わったって、義母には私の声は聞き取れないよ!」と亭主と押し問答しつつも、義母からの電話に出た。

 そうしたところ、義母が嫁の私宛に何を訴えてきたのかと言うと。

 「あのねえ、〇子さん。 私は先日自室のトイレでお漏らしをしてしまって、スカートもトイレの床も汚してしまったの。(その話は、先日施設を訪ねた際に義母から既に聞いている。) 困ってすぐに施設のスタッフさんを呼んだのよ。 そしたら綺麗に掃除をして下さったので、お礼に千円札を渡そうとしたら、どうしても受け取ってくれないの。(義母の施設内では、入居者とスタッフの金銭のやり取りは禁止されている。) そこで考えたのだけど、そのスタッフさんに3,4歳の娘さんがいるから、その娘さんが持てそうな可愛いバッグでも買って施設へ送ってくれる?」

 この種の話は、今に始まった事ではない。 
 とにかく施設内でお世話になったスタッフの皆さんに、昔から“カネを握らせる”癖のある義母であり、それをすんなり受け取って下さるとそれで一件落着なのだが… (意外と素直に受け取って下さるスタッフも多いそうだ。)😖 
 ところが、どうしても真面目なスタッフさんがいるとこういう事態と相成る。

 結果としてやむを得ず嫁の私がネット通販にて適当な商品を捜して、早速施設に住む義母宛に送る手配をしておいた。 (結果としてスタッフに直接千円札を握らせるよりも、ずっと高額の負担となった。😵  いくら相手が子どもと言えども、商品でお礼をするとなると粗末な物は選べないものだ…)


 今日は朝からこの事件が腹立たしくてしょうがない私なのだが。😡 
 
 私の怒りの理由を分析すると。

 まず、どうして義母はその依頼を自分の実の息子である亭主に直接しないで、わざわざ電話を代わって嫁の私にさせるのか!?! との点だ。
 これ、完璧に義母の「男尊女卑思想」に基づくものと私は分析する。
 そういう業務とは男がやる事では無くて女の嫁の仕事、との定義が義母の脳裏に燦然と存在する様子だ。

 話を元に戻して。
 義母とは、昔から“家事”が嫌いな人種である。 料理のみはしていたようだが、私は義母と同じ屋根の下(とは言えども玄関は別で部屋も完全独立だったが)に住んだ半年間の間に、義母が掃除をする姿を見たためしが無いし、洗濯物が庭に干されているのを見たのは2度程だ。(義母の口癖は、「埃で病気になる人はいない」、だった。 アレルギー性鼻炎のある私など、埃こそ大敵なのに…) 
 現在の義母の施設は、掃除・洗濯の100%をスタッフが施してくれるシステムである。 それに甘え切っていて、入居者はそれをしてもらうのが当然の権利だ、と平然としていられる人種である。
 今回のようにトイレで粗相をしたような場合、まず羞恥心のある人間ならば、そんな恥ずかしい事態が他者にバレないよう急いで自分で後始末するであろうに。 ところが、義母はそうではなかった。認知症故というよりも、これは元々の義母の特質と私は判断する。  ただ、そのお礼はしたいと考えたのだろう。ところが金銭は受け取ってくれないので物品で返そうと考えた訳だ。


 それをするのに、嫁の私を使うとは何事か!?! と朝から怒り心頭という訳だ。

 よその家のお嫁さんは、こういう場面では素直に義母の指示に従うのであろうか?
 確かに私の場合、義母には亭主との晩婚後には、義母に大変お世話になっている。
 結婚直後に晩婚の息子夫婦に当時としては未だ珍しかった“タワーマンション”を、ドーーーーンとプレゼントしてくれたのは義母だ。
 その後も、親族版と友人知人版を分けて2度執り行った「結婚式」のスポンサーも義母だった。 (参考だが、故義父は原家にとって“養子”の存在でした。)


 そんなことを思い起すに、今朝の事件は帳消しにするべきかとも思えてくるが。😜 

 いや、その前に。
 やはり高齢者施設運営者自体が、このような入居者とスタッフ間の金銭や贈り物のやり取りに関して、もっと徹底した規律を設けるべきであろう。
 「金銭や贈り物は禁止!」と言葉だけ発信したところで。 入居者とスタッフが直接接する機会が多い施設内に於いて、これらの慣習が横行してしまう実態を防ぎようがないであろう。

 せめて高齢入居者が別に暮らしている家族(子や嫁や孫)にまで依頼して、入居者が世話になったスタッフへのお礼を家族の金銭的・労働的負担で実行させられるとの事態に関しては。 

 今後高齢者施設自身が主体的に改善を図り、どうか勘弁願いたいものだ。
 (正直言って、入居者の実の子供ならば後々相続等の恩恵もあるのだろうが、嫁の立場って義母に対する仕事ばかりが多かれど不確実性が高いものです… )


「無通化する社会」 ー vol.2 ー

2022年06月09日 | その他オピニオン
 原左都子エッセイ集にて14年程前の2008.08に公開した「無通化する社会」と題するバックナンバーが、その後スタンダードナンバーとして現在に至るまでずっと人気を博している。


 以下に、当該バックナンバーの一部を再掲載させていただこう。


 哲学者 森岡正博氏による執筆の一部を要約しよう。
 
 いまこの部屋には空調が効いていて快適に会議ができるが、50年前には猛暑の中で熱射病にかかったかもしれない。そういう肉体的な苦しみやつらさがあった。この苦しみやつらさを消すにはテクノロジーを発展させればよいという発想で、現実にそのような技術開発をしてきた。そもそも文明の進歩とは“無痛化”を進めることと考えることもできる。
 正確に言えば、今あるつらさや苦しみから、我々がどこまでも逃げ続けていけるような仕組みが社会の中に張りめぐらされていること、これを私は“無痛化”という言葉で呼ぶ。
 この“無痛化”は将来の“無痛化”をも予測しあらかじめ手を打つという特徴もある。現代の科学技術や医療技術はそのような社会をサポートする方向にどんどん進んでいる。
 この“無痛化”現象を、単に文明の進歩として賞賛していいのか? そうではなく現代哲学が正面から立ち向かって深く掘り下げるべき問題である。
 私(森岡氏)は、“無痛化”は人間から「よろこび」を失わせていると結論づける。社会の中で人間関係の中で、人生の中で体験する苦しみからどんどん逃れていくと快適さ、安楽さが残り、欲しい刺激が手に入れられる。するとどうなるのか。「気持ちがいいがよろこびがない、刺激が多いけれども満たされない」、という状態になる。

 以上は森岡氏の評論文の要約である。 (中略) 
 
 例えばブログの世界においても、肯定的なコメントは歓迎するが異論反論は受け付けないとの立場をとるブロガーは少なくないのではなかろうか。
 誹謗中傷についてはもちろん誰しも拒否したいものであるが、肯定的なコメントのみを受け付けて表面的でお手軽な“仲良し倶楽部”をすることが快楽であるというような、“無痛化”現象を目の当たりにするひとつの現象と私は捉える。

 人間関係に的を絞って、“無痛化”現象に対する私論をまとめよう。

 既に当ブログの人間関係カテゴリー等で度々既述しているが、人間関係の希薄化現象とは、要するに人間関係の“無痛化”現象なのであろう。
 他者から褒められたり肯定されるのは快楽であるため好む人はもちろん多い。一方で、批判等の否定的な対応を受けることは、たとえそれが本人の成長に繋がるアドバイスであれ忌み嫌う人種が急増している様子である。たとえほんの一時であれ“痛み”を受け付ける免疫力が無くなってしまっている時代なのであろう。
 ところが、人間関係とは“痛み”を経験せずして真の信頼関係は築けないものである。 紆余曲折しながら、すったもんだしながら人間関係は少しずつ厚みを増していくものだ。そうやって築かれた関係は簡単には崩れ去らないし、たとえ別れの時が訪れてもいつまでも忘れ去らないものでもある。
 その場しのぎの、“痛み”を伴わない表面的な快楽だけの人間関係も、もちろん存在してよい。 ただ、自分をとりまくすべての人との関係がそんなに薄っぺらいとしたら、生きている意味はどこにあるのだろう。
 “痛み”を実感できるような人との関係を堪能し、今後共ひとつひとつの確かな人間関係を刻み続けたいものである。 

 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーの一部を再掲載したもの。)



 つい最近、朝日新聞記事にてその哲学者・森岡正博氏によるコラム記事を見つけた。
 2022.06.07付「リレーオピニオン 痛みはどこから」より、「『無痛文明』に生きる残酷さ」の一部を以下に要約引用させていただこう。

 つらいことに直面させられ、苦しみをくぐり抜けた後に、自分が生まれ変わった感覚を抱くことが人間にはある。 古い自分が崩れ、新しい自分に変ったことで感じる喜び。それは人間の生きる意味を深い部分で形作っているはず。 無痛文明とは人々が生まれ変わるチャンスを、先手を打って潰していく文明だ。 (中略)
 この19年の間に日本社会では、経済格差問題への注目が高まった。 貧困の苦しみにあえぐ最中の人々にとっては、その苦しみを取り除くこと自体が第一だろう。 無痛文明は基本的に豊かな人々の問題なのだ。
 ただし無痛文明には、社会改善を推し進める側面もある。 貧困などの苦しみを社会から取り除こうとするからだ。 長い時間が経って貧困の痛みから解放された人々は、再び、生きる意味があらかじめ奪われてしまう現実に直面する。 無痛文明は、そんな残酷なシステムでもある。
 私(森岡氏)にとって無痛文明は未完です。 続編を書きたいと思っています。

 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)



 最後に、原左都子自身の今に関して述べるならば。

 「原左都子エッセイ集」開設直後期からコメント欄を閉鎖した2011秋頃まで、たかがブログ公開に於いて「痛み」を痛感させられる場面が確かにあった。
 思い切ってコメント欄を閉鎖して既に10年以上の年月が経過しているが、ことブログに関しては「痛み」症状を経験することも無く平和な月日が流れていると言えそうだ。

 日常生活上でも、特段の「痛み」を受ける機会は少ない人間であるかもしれず。 
  それ故に、もしかしたら他者の「痛み」に関して鈍感になってしまっている自己を反省するべき立場なのかもしれない。


 上記引用文中最後に、森岡氏が書かれている一文が衝撃的だ。
 今一度繰り返しておこう。
 「長い時間が経って貧困の痛みから解放された人々は、再び、生きる意味があらかじめ奪われてしまう現実に直面する。 無痛文明は、そんな残酷なシステムでもある。」
 

ウォークマンが心のふれあいをなくすと言われた時代もあった

2022年06月06日 | その他オピニオン
 (冒頭写真は、朝日新聞2022.06.04付「書評」ページより転載した玉城絵美氏著 「BODY SHARING 身体の制約なき未来」。)


 今回のエッセイは、恒例の朝日新聞「書評」ページより上記著書に対する 文化人類学者 磯野真穂氏による「体験は他者と『共有』できるのか」を取り上げさせていただこう。
 早速以下に、当該書評の一部を要約引用しよう。

 苦手なことを難なくこなす人に会うと「いいなあ」と思う。 他方、工学研究者はこの羨望の先を行く。 かれらは、「それ、技術でできるんじゃない?」と述べる。 玉城は、間違いなくその一人である。
 映像と音声を通じ、私達は世界を疑似体験する。 しかし視覚と聴覚だけでは、そこにあるモノを持ち上げたり、大地を踏みしめたりした時の感覚は得られない。 (中略)
 視覚だけでなく、物体に働きかけたときに生ずる「固有感覚」も得られれば、体験はよりリアルになるだろう。
 玉城はその技術で「TIME」誌の「世界の発明50」に選出された経歴を持つ工学者であり、描く未来は壮大だ。
 Body Sharingが完全実装されると、身体の制約から人類は開放される。 誰かの体験をログとして保存し、体に入力すれば、その体験は自分のものだ。 固有感覚のインプットがあれば、仮想と現実の差異は消えてゆく。(中略)
 本書は、経験と知性の邂逅が開く未来への物語である。
 しかし読後、こんな疑問も残った。 「感覚の共有」は「体験の共有」なのか。 誰かの体験を完全に共有したら、それは共有ではなく一体化ではないか。 一体化不能な他者と共有するための営みが「共有」であり、それを尊重するのなら、他者との隙間は残すべきではないか。
 だがこれらの疑問は、新技術の普及時に現れがちな違和感に過ぎないのかもしれない。 ウォークマンが心のふれあいを無くすと言われた時代もあったのだ。

 (以上、朝日新聞「書評ページ」より一部を要約引用したもの。)



 私事及び私見に入ろう。

 若かりし時代に恋をすると、恋愛相手との距離感をどんどん縮めて行って心身共に「一体化」したい、との欲求が自然と芽生えたものだ。
 お互いの体験の共有を通して感覚の共有を勝ち取れた時には、「一体化」が叶ったと実感し恋愛の幸福感を得たものであろう。

 ところが特に若気の至りの時代とは、そんな幸福感も時間と共に消え去る運命にあった…
 
 上記書評内に、「一体化不能な他者と共有するための営みが『共有』であり、それを尊重するのなら他者との隙間は残すべきではないか。」との記載があるが。
 恋愛経験を重ね大人になっていく毎に、“他者との隙間を残す”ことを学びつつ「共有」するすべを学んでいったようにも振り返る。


 私事を語るならば。

 それにしても年を重ねてもいつまで経っても“恋愛下手”だった(である)我が身と振り返る。
 おそらく、“他者との隙間を残す” 技術力や感性に私は長けていないのだろう。

 

 表題に掲げた「ウォークマン」だが。

 この私も2度目の大学生時代に夕方大学からコンパニオンのアルバイトに通う際に、この「ウォークマン」に随分とお世話になった。
 これを耳に装着して、電車に揺られ寝ながら(熟睡でした!)大学からコンパニオン職場に日々通ったことが懐かしい。
 その当時の私はウォークマンが心の触れ合いを無くす、どーのこーのよりもとにかく、電車内で睡眠時間を確保するのが第一義だったものだ。
 
 今となっては、新しく買い替えたウォークマンをランニングのお供に利用している。
 週2回のペースで5㎞ランニングに励んでいるのだが、この曲の時にはここまで走っていたい!なる目標設定としての利用が叶い、それが大いなる励みになっている。

 
 
 他者との「感覚の共有」「体験の共有」に関する我が勝手な結論を述べるならば。

 特に恋愛関係に於いてはその共有がお互いの努力義務と言うよりも、自然発生的側面で済まされるべき対象なのではなかろうか??